2025年04月10日

遅い午後、のどけき陽気(とくしま植物園)


この時期は日に日に昼間が長くなっていく。夏至まで2か月を切っているのである。桜が見かけるたびに姿を変えていく時期でもあり、春爛漫といったところ。

寒くもなく暑くもなく、昼間の陽気の名残が後を引く時間帯とでもいうか、日没までまだあるけれど、西に傾いた斜めの陽差しがのどかに支配する時間。
こんなときは、とくしま植物園。一日の身心張り詰めた凝りをほぐすように来てみたくなる。
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特にこれといって見るものがないからこそ、何度でもここに来る、ということがある。この場所はそんなところ。
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そして、スミレ。公園の土手に群落があった。スミレ(Viola mandshurica)、ノジスミレ、アリアケスミレが紫と白の対照。仲良く並んでいるのもある。
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アリアケスミレが群生していた
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ノジスミレとアリアケスミレ。異種が会話しているようだ
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ノジスミレ
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スミレ(Viola mandshurica)
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美形のアリアケスミレ
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これだけの密度で咲いていることはなかった。ユキワリイチゲもそうだったが、今年はスミレの当たり年かもしれない。それにしても、植物も人も、いまいる場所で咲いている。


追記
ここも徳島の良さを実感できる場所。邪馬壹国阿波説を考察していて思うことは徳島は食材の宝庫という点。阿波の国は古事記にも大宜都比売(食材の女神)になぞらえているように、吉野川、勝浦川、那賀川といった大河が紀伊水道に流れ込み、陸ではミネラルを供給して肥沃な土地を、海底には同じく肥沃な砂地を形成する。蒲生田岬から南は黒潮洗う太平洋があることから、瀬戸内海(鳴門)を含めて3つの海域の魚種が手に入る。川がつくりだした沖積平野は肥沃な田畑を形成、急傾斜地の地形ではそれにふさわしい雑穀を産する。香酸柑橘も豊富(質量とも)。つまり食材に困らない国だったことがわかる。

邪馬壹国はどこにあったって構わないけれど、全国にこれだけの多様な生態系からの豊富な種類を食材を提供できる土地は大昔からいまに至るまでそう多くない。生態系の多様性と食材の宝庫は不確実な時代を生きぬく源になるのではと考える。「徳島にはなにもない」と思う人、何もないのに生きていけるとしたら、それが幸福の前提となるのではと提案するけど、響かない?

posted by 平井 吉信 at 00:02| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2025年04月07日

穴吹川に照るサクラとコスミレ 還らぬ人たちの鎮魂歌


四国一の清流(ということは全国一といっても誇大ではなさそう)穴吹川は、剣山の北東斜面に源を発し、木屋平村を抜けて穴吹町を経由して吉野川中流域に合流する

その中流域は隘路が多く、運転には気を付ける必要がある。川へ降りられる場所も下流部を除いては限られているが、目の保養になる。

かつて月刊アウトドアの表紙の撮影のため、カヌーエッセイストの野田知佑さん、カメラマンの渡辺正和さん、編集長の藤田順三さんらとロケハンで穴吹川をめぐったことがあった。あのときの穴吹川は状況が特によく、野田さんの言葉を借りれば「川は少し水深があるところでコバルトブルーに沈んだ」。
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夜にキャンプしたときも川に入ったが、ヘッドランプの光に照らされた「存在感のない水」が印象的だった。穴吹川の口山潜水橋は絵になるので第1候補と考えていた。車が通れるかどうかの細い橋だが、上流を望めば竹林が水衝部にあり、なかなかいい。

カメラマンの渡辺さんは、スキー写真の第一人者である。心配された曇り空も午後から陽射しがこぼれるようになり、それとともに撮影中の渡辺さんの顔からも笑みがこぼれた。本人にしかわからない感興の時が訪れているようだった。一緒にシャッターを切っていたぼくにもその気持ちは伝わってきた。被写体と無心に向かい合い、突然のシャッター音ではっと我に帰る…そんな時の写真はいい。撮影後、渡辺さんの大切な一枚を見せていただいた。それは、野田さんたちと奄美大島を訪れたときのこと。早朝誰もいない渚をガクとふたりで散歩する野田さんが砂浜に残した足跡の写真である。画面からえも言われぬ魂の遊びが伝わってきた。

渡辺さんは2011年に長良川で取材中に川へ入って撮影中に流されて亡くなられたとその後に聞いた。ぼくの手元には長野五輪の公式写真班を務めた渡辺さんの「シュプール」という山スキーの秀麗な写真集がある。前年の姫野雅義さんといい、なんともやりきれない事故が続いた。

2025年の春、穴吹川の中流域と河畔の桜を目的地への道中で見た。ここは口山潜水橋
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渓谷となった穴吹川中流部
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タチツボスミレって思う人もいるかもしれないが、コスミレ。最初はどのスミレも同じように見える。そのうち図鑑を片手に比べながら見るけど、微妙な違いがまだ判別できない。ところが数百数千と見てくると、ぱっと見て感覚的に違うとわかるようになる(機会学習/Pattern recognitionを重ねる画像認識AIに似ている)。この出で立ちは大陸系でしょう(そう見えませんか?)
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幾年月の思いがめぐる。春の花と水辺を、還らぬ人たちに捧げたい。
posted by 平井 吉信 at 23:42| Comment(0) | 山、川、海、山野草

神山森林公園から西龍王山経由の周回コース サクラとスミレが愉しめる


いまは命名権で「イルローザの森」と呼ばれる神山森林公園は、桜の季節には大勢の人で賑わう。桜の密度は低めなのだけれど、開放的な雰囲気で身体を動かせる愉しさがあって、サクラ以外でもというのがほかの花見にはないところ。

桜だけなら道中の公園周辺がよいと思うけれど、開放感があるのはやはり上のほう。神山森林公園は徳島市近郊にあって、標高300メートル半ばの丘陵地帯を整備してつくられている。それゆえ山上とは思えない運動公園となっている。駐車場から北をめざして上がっていけば丘の上に出る。ここから眼下に徳島市一宮町周辺の鮎喰川やゴルフ場、さらに気延山から西へ延びる尾根を超えて吉野川平野が見渡せる。ルートを尾根沿いに東へ採ると西龍王山(495m)、さらに尾根を東南へ歩みを進めるといったんは車道に出て東龍王山(408m)へと到着する。西龍王山を経由して時計回りに駐車場へと戻る周回コースは風光明媚で春の散策にひたれる。あとは写真で。

中腹のソメイヨシノ、タチツボスミレ
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公園の広場はボールを投げたり蹴ったり地面に座ったり思い思いに過ごす人たち。マダニ予防のため、シートを使うことと虫除けスプレーを衣服にしておく。公園にはしだれ桜や樹木の迷路もある

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北の丘の上から見下ろす鮎喰川の屈曲点が印象的
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よく整備された尾根の散策路を東南へと歩けば展望台
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ツツジも目の保養
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足下にはシロバナシハイスミレが群生
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さらに進むと西龍王山へと直登する分岐がある
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山頂には八大龍王の鳥居
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散策路は分岐が至るところにあるが、どこを降りても公園にたどり着く設計になっていると思われる。やがて公園へと降りてくる
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再びサクラを見る
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スミレは色の濃い鮮やかさ。図鑑で見るような典型的な(絵で描いたような)ニオイタチツボスミレ
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徳島市南部の文化の森からも近い。徳島市南部は、丈六寺や古墳のある渋野地区、植物園や動物園、さらには五滝や中津峰などがあって、半日の休みを過ごすには良いところ。
タグ: スミレ
posted by 平井 吉信 at 23:13| Comment(0) | 山、川、海、山野草

オキナグサとスミレ(Viola mandshurica)


河川環境にこんな植物が自生しているとは…。
最初見つけたときは驚きだった。写真では鮮明に写っているが、ぼんやりと見ている人には見つけられないおぼろげな存在であることも確か。オキナグサはそんな二面性を持っている。園芸種のクリスマスローズに似ている。
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同じ場所で岩の隙間とか砂地に咲いているのがスミレ(Viola mandshurica)。日本固有の種のように見えて、実は渡来系。なんだか弥生人のようだ(縄文人と弥生人が別の種とも思えないが)。
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タグ:スミレ
posted by 平井 吉信 at 22:25| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2025年04月05日

近所のサクラとスミレ2025年4月


立江の夫婦桜(小松島市)

市山煙火商会さんのご好意で見せていただいている。楽しい動物たちも置かれている
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岩脇さくらづつみ公園と桜の馬場(羽ノ浦町)

昔からの桜の名所である桜の馬場とその近くに整備された親水公園の桜。桜も良いがスミレも気になる
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墓地の近くの路傍に咲くスミレ(Viola mandshurica)
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側弁や葉には毛がなく葉が厚い。海からかなり離れた内陸部の民家の脇だけど、アツバスミレだね
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上大野の土手のサクラ(阿南市)

那賀川の午後はのどかだ
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熊谷のしだれ桜(阿南市)
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(フジX-T5+XF16-50mmF2.8-4.8 R LM WR)
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posted by 平井 吉信 at 13:22| Comment(0) | 山、川、海、山野草

神保町のあの名店のカレーに近づけるかも


ぼくのカレーづくりは子どもの頃に遡る。好奇心が高じて小学生の頃には一通りの料理はできるようになっていた。どういうわけか、うちの台所は広くて冷蔵庫から電子レンジまで6メートルある。調理器具の主力はガスだが(オール電化にしないのは災害対応のため。アウトドア用の持ち運べるガスバーナーが2機、イワタニのガスカートリッジの高出力機が1台と災害対策も万全)、炊飯器は6台(炊飯専用と保温専用の真空炊飯器、米以外の調理用、マスク乾燥用など)、両面グリルプレート(肉専用)、サンヨーのスチームコンベクション、温度調理電子レンジ2台、オーブントースター1台、スロークッカー1台、ホットデリ2台、精米機1台などが揃っているが、いずれも廉価で全部合せて10万円ぐらいかな。それに測定器(非接触赤外線温度計、芯温計、スケール2台)やタイマー4台が稼働中。

仕事は夜中までやっているが、その合間で調理するのは心がなごむ。といっても、のんびりやっているのではなく、調理中は厨房を走り回る(飲食店のよう。仕込みが終わるとまた仕事に戻る)。調理をすると運動ができる一石二鳥である。

ぼくはグルメでないので外食はほとんどしない。家でつくるので満足していることもある。家人からカレーのリクエストがあったので、きょうは新しいルーを使ってみることにした。それがグリコのZEPPINという商品。

近年の製品改良で減塩仕様となったという
https://with.glico.com/infocenter/column/report.html?number=54748
https://cp.glico.com/foods-tasty/
減塩リニューアル後の商品を、Amazonのレビューを見ると評価が二分されているが、この商品をどう捉えるかで食生活のタイプ、ひいては人生の健康をある程度予測することができると思う。

時間短縮のため、タマネギは炒めず電子レンジとホットデリで仕上げていく。始めて使うルーの味見をしてみると、「これはいける」。ルーはもちろん煮込まない。火を止めて入れて5分放置してかきまぜると、やや冷めるので少し温めて仕上げの香辛料を入れて混ぜたら火を止める。この味だったら、神保町のカツカレーの名店「南海」に近づけるのではとひらめいた。

これはキッチン南海のカツカレー。列はかなり長かったが時間は10数分で順番が回ってきた。黒いカレーが食欲をそそる。大盛りのキャベツも特徴。同店は閉店されたが、後継の店もあるようだ
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旨味の冗長さで味が濁るので、頭のなかで味を描く。酸味を付加したいので(南海風ではないが)トマトを入れる(南海のカレーは野菜の旨味が濃厚だが酸味は尖っていない)。素性が良いので足し算が違和感なくできていく。隠し味に高橋ソース(カントリーハーベストのウスター)を加えると少し南海に近づく。仕上げはガラムマサラで香辛料感を出してできあがり(色彩を黒くするのはできなかった)。写真ではおいしそうに見えないがそれが普段の家庭料理の良さでもあり「絶品」というよりは毎日食べられる吸い込まれ感を究めたという感じ。気に入ったので今度は別のアレンジを施してみよう。
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あり合わせの豚のこま切れ肉や野菜でつくったので見栄えは良くないが、何杯でも食べられるカレーに仕上がった。ハウス印度カレーなどとともに、専門店の風味に近づけるベースとしてはとても良いと思う。


posted by 平井 吉信 at 00:22| Comment(0) | 食事 食材 食品 おいしさ

テンノーハンとタマモノヒメ 生夷神社ものがたりと阿波のイヅモ


研究すればするほど徳島人の身びいきではなく邪馬壹国阿波説が濃厚になっていく。阿波説を研究されている方に情報提供をしておきたい。

上勝町に市宇(地元ではいっちゅう)という集落がある。高丸山に近いほうから、八重地、市宇、樫原、野尻と尾根の集落が並ぶ。勝浦川支流の旭川沿いを走る県道沿いに集落は少なく、ほとんどは尾根に人々が住んでいる。尾根が移動の近道であったことによる。車道から集落へは上がれば集落が点在するという四国の山上集落の構図はここでも見られる。

市宇集落で農家民宿を営む方から2000年頃に聞いたことだが、尾根に近い平坦な場所があって、地元ではその場所を「テンノーハン」と呼んでいるそう。どんな字を当てるのか、なぜ、そうなのかをお尋ねしたが、昔からそう呼んでいるので由来はわからないとのこと。

市宇地区では、野良仕事でハミ(マムシ)に遭わないおまじないがあるという。
「我行く先に鹿の子まだらの虫おらばタマモノヒメに言付けやせぬ アビラウンケンソワカ(3回)」

「虫」という字は毒蛇のマムシをかたどった象形文字で、本来はヘビのこと。道中でハミ(マムシ)がいるようならタマモノヒメに言いつけるという口上だろう。アビラウンケンソワカは、真言密教の十三仏の中心をなす大日如来の真言(サンスクリット語)を引用してそれを3度繰り返している。この言い伝えがいつからあるかは定かではないが、真言密教を伝えた空海以後のことだろう。

蛇足ながら都道府県別では真言宗の割合がもっとも高いのは空海の生誕地香川県(確か浄土真宗西であった記憶がある)でなく、徳島県である。一番札所(霊山寺)も徳島県鳴門市にある。それにしても、どこか古語ゆかしい響きと真言を織り交ぜたこの言葉を誰が伝えたか? 

それはもしかして空海本人ではないだろうか。平安時代では、阿波国風土記をはじめ、ヤマト王権初期の時代の文献や口伝が多く残っていたと考える。嵯峨天皇とも近しい関係にあったとされる空海はそれを知る機会があったことだろう。

尾根沿いの集落の意義について、実感しやすい数字を掲載すると、例えば、県西部の美馬市の三木家と上勝町の八重地集落の直線距離はわずか16kmであるが、車で移動すると最短ルートで72km、Googleマップ推薦ルートで88km、なるべく広い道(県道16号、国道55号、国道192号など)を採用すると100kmを超える。徒歩では、八重地→ 高丸山→ 雲早山→ 砥石権現→ 穴吹川の川井集落まで尾根伝いに歩いて下り、その後穴吹川伝いに三木家へと到達可能である。

民俗学的に意味があると思われる言い伝えなのでここに記しておく。教えていただいた方も80代後半であるので貴重な箴言が失われる前に、もう一度お話を伺いたいとも考えている。

→ 聞き取りの音声データtamamonohime.wav

ここからは、邪馬壹国阿波説にはおなじみの内容なので、上記とつながるかどうかを考察いただけるのではと。勝浦町沼江地区に、生夷(いくい)神社という延喜式神名帳に記載された由緒ある神社(式内社)がある。ご祭神は事代主である。事代主は恵比須・夷・蛭子・蝦夷(いわゆる、えべっさん)と同じと考えられている。

なお、美馬市つるぎ町半田には「天皇」という地名がある(国土地理院地図にも記載)。吉野川を挟んだ近傍には、全国で唯一国生みの女神、イザナミを祀る伊射奈美神社やこれまた阿波にしかない倭大國魂神社がある。阿波説では美馬地区と崇神天皇との関係性が説明されていたと思う。126代の歴代天皇で「神」と諡が付けられたのは初代神武天皇と第10代崇神天皇のみ。神武天皇が平定した倭(ヤマト)がその後乱れた(魏志倭人伝には女王卑弥呼の死後、倭国大乱が起こったが、13歳の女王を立てて内乱が収まったとある→ 復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定)。第2代天皇から第9代天皇までの記載がないのはこの時期に当たる(国を平定するために多くの犠牲が払われたのだろう。天皇自身も闘いで命を落とされたこともあったのではないか。それゆえ歴史には記載されないと考えるのが自然。ぼくは初代以降は実在の天皇と考える)。ちなみに、神武天皇も崇神天皇も御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)といわれる所以は、ヤマト王権国家の基盤を拓いた(創業者の神武天皇)、調えた(第二創業者の崇神天皇)と解釈できる。崇神天皇の日本書紀名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)で「みま」の文字がここに現われる。

余談だが、イザナギ・イザナミの国生神よりさらに古い神を祀るという徳島市の宅宮神社(えのみやじんじゃ)にいまも伝わる神踊り(県無形文化財)の踊り歌に、「伊豆毛の国の伯母御の宗女 御年十三ならせます こくちは壱字とおたしなむ」とある。これは卑弥呼亡き後、卑弥呼の血縁者で13歳で祭祀を行なう女王となった壹与(いよ)と読めるし、イヅモが阿波にあった証しのひとつだろう。誰もが知っている出雲大社は由緒ある神社だが、明治4年に改称される以前は「杵築大社」(きづきたいしゃ)であった。

剣山へ向かう貞光ルートの入口には美馬があり、穴吹ルートには、御殿人の三木家、磐境神明神社や白人神社があり、神山ルートでは粟国(阿波)の別称となっている大宜都比売を祀る上一宮大粟神社、その下流には(阿波説では卑弥呼の墓があると考える)天石門別八倉比売神社、佐那河内ルートには、天岩戸に比定する立岩神社(神山町)、さらに関連する天岩戸神社(佐那河内村)、さらに天岩戸と対をなす立岩神社(徳島市)がある。

三木家が麁服を調進して執り行われる践祚大嘗祭は、皇室で最重要な儀式のひとつで天皇即位時に新天皇がひとりで行なう。その部屋に入室できるのが三木家ご当主。皇祖神の御霊を降ろすお役目を担われているのではないかと推察する。祖霊を降ろすのは土地の祭祀者の役割としたら、高天原が阿波の山岳地帯にあったことになる。さらに当時の海岸線を伝って勝占神社(徳島市)、遡れば生夷神社(勝浦町)と事代主系の神社、さらに今上天皇が皇太子時代に行啓された八桙神社(大国主を祭神とする)とイヅモの世界が展開され、古事記の物語が等身大に展開される。

生夷神社はえべっさんの生れた地という意味で、周辺にはいまも勝浦町生比奈という地名がある。これは旧生夷村から由来すると思われる。さらに勝浦川の源流域には旧八重地村がある。事代主は八重事代主とも呼ばれることから、勝浦川中上流域域は事代主に縁のある地区とされる。このことからもイヅモは島根ではなく阿波にあったと考える。

古事記(近年に編者の太安万侶が実在したことが発掘で明らかになった)の国譲りの記述で、大国主に国を譲るよう迫る天孫からの使者に、大国主は釣りに出かけている息子の事代主に聴いてくれと告げる。使者が事代主に会いに行くと、事代主は国譲りを承諾する。争いを避けて国の統一の一助となった事代主の決断は尊い。これにより天照大御神からの天津神と、大国主や事代主などの国津神の血統が統合されて、初代天皇の神武天皇につながっていく。ただしぼくは両血統はもともとの祖先を一にするのではと考えている。

上勝町旭地区の稜線伝いの道が事代主ゆかりの「テンノーハン」(かつて貴人が通っていった尾根のルート)なのか。タマモノヒメが事代主の配偶者である玉櫛媛(たまくしひめ)を指すのかなど、ぼくの手には負えない。

生夷神社はそれほどの由緒ある神社でありながら、どこの田舎にもある神社とみかけは変わらない。むしろ豪勢な社殿をもたないのに長い年月地元の人々が祀り上げてきた身の丈のたたずまいに何かを感じることができる。
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生夷神社からそう遠くない山麓に、山と同化したような蛭子神社がある
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そのそばには、素戔嗚尊を祭神とする大将軍神社がある
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勝浦川をさらに下って徳島市に入ると、勝占神社がある。この神社も事代主ファミリーに縁の深い神社のようである。当時はそのあたりが海岸線であっただろう。勝浦郡から阿南市にかけては阿波と古事記(イヅモ)の関連はつながっていく。

posted by 平井 吉信 at 00:03| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説