2020年01月01日

何もないように見えて豊かな時間 室戸岬の朝


前夜室戸市内での仕事を終えて
帰路に岬を訪れてみた。
時刻は日の出前。
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やがて光が満ちて岬の朝。
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冬の室戸岬の主役は黄色い花、シオギクとアゼトウナ。
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決して華やかな花ではないかもしれないけれど
栄養に乏しい、潮風をまともに受ける岩場で
根付いた種が咲かせた花。
植物は自分で場所を選べない。
いまいる場所が天国と思って咲くしかない。
だから、いまいる場所で咲いている―。

熱い思いを感じて逍遥を続ける。
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人はいまいる場所をよくする行動を行うのが自然。
そしてできるだけのことをやってみる、やってみた。

それでも場所が合わなければどうするか?
場所を変わるか、場を変える努力を続けるだけ。
いまいる場所で咲いている花の伝言。

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岬はいつも饒舌。
こんな場面を見つけるとうれしくてうずくまってしまう。
オーケストラもあればソロもある。
協奏曲もあれば弦楽四重奏もある。
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ここ数日不覚にも寝込んでいたが、
それでも起き出しては年の瀬の支度と仕事をしていた。
報告書が一段落したと思ったら除夜の鐘が鳴っていた。
いまいる場所、いまやるべきこと、それだけで幸福が横たわっている。
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岬が遠くなっていく。
それでも霞の向こうに横たわる四国東南部の背骨の半島。
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夫婦岩
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白浜海岸
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やがて海の駅東洋町へ。
四国東南部の先端をめざして走り
四国東南部の先端から戻る道中は
四国東南部の風が吹いている。

タグ:室戸
posted by 平井 吉信 at 17:59| Comment(0) | 山、川、海、山野草

新たな年を迎えるに当たりみなさまのご多幸をお祈りいたします


神棚を祀り
仏壇で供養を行い
荒神棚を手入れする。

祝詞を奏上し
読経を行う。

そして産土神社へと参拝。

年末にかけては寝込んでしまったが
かえって休養となったお陰で
普段はじっくりと聴けていない
ベートーヴェンと向かい合うことができた。
特に後期の弦楽四重奏曲、ピアノソナタはベートーヴェンの独白のようなもので
音楽が空間に波紋を広げていくと感情を満たしてくれる。
しずしずと深く広く展開する音楽を聴いていると
いまここにいるのだなと感じる。

年賀状は一度いただいた人は永久有効としているので
何度もお出しいただく必要はありません。
いただけるものはありがたく拝読しますが
返信もいたしません。

生きていくとすべての人にお世話になっていると気付き
正月だけでなくすべての刹那が大切な時間と思うようになってから
年賀状をお送りすることをやめてしまった。

変わることなく祈っているのは人々のご多幸、
生きとし生けるものが互いにその役割を果たしていのちを全うすることだけ。

だからこの瞬間が大切で
その祈りを届けていると感じていただけたらそれで十分。

やがて親族が集まってきた。
ささやかな宴を催そう。

生きていたらそれで十分だよ。

神棚は屋久杉でつくられた珍しい品物で
全国の神様(御札)が鎮座されている。
天津祝詞、十言神呪などを歌うように奏上する。
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仏壇は紫檀(パーロッサ)の前練仕様。
唐木仏壇の本場、徳島ならではだが、
今となっては良質の南洋材の入手が難しくなっている。
いつものように開経偈、般若心経、観音経(偈)、十三仏真言、光明真言、お大師法号と進む。
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いつもおもしろいのは
同じ御神酒(日本酒)をお祀りしてほんの数分後にお下げして飲んでみると神棚と仏壇ではまったく味が違うこと。これはどんな味覚の豊かでない人でもわかる。神棚では香りが増し、仏壇では香りが抜けてしまう。

続いて産土神社への参拝。
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個人の願い事はしないで神々の弥栄と世界の平和を祈る。
ここで産土神社、天照大御神、三宝荒神の神札を求める。
(神社を守る神職への感謝を込めている)







posted by 平井 吉信 at 16:29| Comment(0) | 生きる

南国に極彩色の札所 第二十五番 津照寺(しんしょうじ)


室戸市の中心部にある室津港界隈に昔ながらのまちなみがある。
二つの商店街と大漁で懐が大きくなった漁師達を呑み込むスナックなどの飲食店が連なる。
その港から目と鼻の先に第二十五番札所の津照寺がある。
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津照寺は海の近くなのに写真だけ見ると山中にあるように見える。
港のすぐ近くの小山(独立峰)である。
山というよりは丘という感じだが、その階段は険しく急である。
まちなかの山門をくぐると
お大師さんのご加護をいただきながら階段を上がりきるとさらに門がある。
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この急な階段でふと目を留めるのはツワブキや萩である。
(撮影時期は11月中旬である)
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ここで折り返すように階段を上がりきったところに寺はある。
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山門とそのなかに安置されている鐘
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津照寺は途中から別の階段があって左手を上がることができる。
その途中でホトトギスがいくえにも咲いている。
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曲がりくねった階段を上がりきると一木神社(というらしい)。
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土佐藩の普請奉行(土木担当)の一木政利を悼んで建立されたという。
当時も港の改修は難工事であったが、
竣工後に自ら人柱となったという。

境内から見下ろす港、その向こうの太平洋
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室津港に停泊する船
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まちを歩いていていつのまにか誘われるようにやってきた津照寺。
その極彩色が心に残った。
タグ:室戸
posted by 平井 吉信 at 13:52| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2019年12月28日

ベートーヴェン第九 フルトヴェングラーのウィーン盤を聴く


ベートーヴェンは音楽の革新者である。
第九は当時の音楽の革新であり壮大な実験であり
それでいて美しく力強い。
没後二百年が迫ろうとしているが
彼の作曲した第九交響曲の人気はますます増しているように思える。

第九といえばドイツの指揮者フルトヴェングラーの1951年に録音されたライブ盤(バイロイト盤)が人々の記憶に刻まれている。
二十代の頃、このレコードを聴いたぼくは雷に打たれたような震えを感じていた。
なんと深い、そして優美、それでいて人間の感情が込められた音楽だろう。

音源はモノーラルで鮮明ではないが
音の実在感はひけをとらないばかりか
音楽の実在感がすばらしいのである。

近年になっても新たなライブ音源(あるいは別テイク)が発掘されている。
きょう始めて聴いたのは
1953年のウィーン盤である。

イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)
ロゼッテ・アンダイ(アルト)
アントン・デルモータ(テノール)
パウル・シェフラー(バス)
ウィーン・ジングアカデミー
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

録音時期:1953年5月30日
録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール
録音方式:モノラル(ライヴ)
【オットー・ニコライ演奏会(同年1月23日の繰り延べ演奏会)】
Produced by Epitagraph(原盤:エピタグラフ)


この盤が世に出たのは2009年であるが
今回の高音質盤が出たのは2019年4月のこと。
きょうまで封を開けずにとっておいたもの。

聞き終わった感想は?
文字に書けない―。
それでは伝わらない。
だから書く。

バイロイト盤との違いは
ウィーンの引力でベートーヴェンがローカライズされた感じ。
(ベートーヴェンは私たちの音楽なのよ、こうするのよ)
親密で親近感があり魅惑の花が咲きこぼれている。
(ほら、ウィーンフィルの弦が艶やかに歌ったり木管が空間に浮かび上がったり。もしかしてバイロイト盤よりオケのピッチがやや高い?)
一聴してこじんまりとしているようにも聞こえるが
それは同じ方向を向いた人々が指揮者と一体となって突き進むからだ。

第三楽章はベートーヴェンの書いた最高の緩徐楽章だが
聞く前から予想していた音の世界をさらに上回る。
バイロイト盤では天から降りてきて天に上がっていく荘厳な雰囲気に浸ったが
ウィーン盤ではもっと人間に寄り添う。
それでいてディティールの美しさというか匂いが全編に漂う。
光に誘われて地上から天上の楽園に足を踏み入れた人類の逍遥というか
フランダースの犬の最終回で少年ネロが昇天して天国で親しい人と再会してみたされるというか
神に導かれて音楽と絵画と詩の区別がない理想郷で魂を抜かれてしまいそうだ。
ところが突然の金管の咆哮(警告)で、また地上に呼び戻される歩み。
完結しない和声が終楽章(合唱付)への導きとなっている。

終楽章はぼくはバイロイト盤が好きだ。
寄せ集めのオーケストラと言われるが
(縦の線が合わないとかコーラスの入りが遅れる箇所とかある)
多様な価値観(オーケストラ)が認め合いながらひとつになろうとする刹那ではなかったか。
戦後間もないドイツでフルトヴェングラーが音楽会に復帰してまもない頃
ドイツ民族にとってバイロイトでの演奏がどんな意味を持つものであったか。
「歓喜に寄せて」というシラーの詩とベートーヴェンの人間性と
フルトヴェングラーやこのときの関係者の気持ちが同一化した希有の場面が残されている。
(最善の録音環境ではなかったから、このバイロイト盤をよりより音で響かそうとする試みが2019年末になってもさまざまな手段やリマスターでの発売が絶えないのはそのためだろう)

人類同胞が心を寄せて演奏するのに完璧な演奏は求める必要がない。
それゆえ人々が寄り添おうとする心がベートーヴェンの精神のようにも思える。
独唱もぼくは神々しさを感じるバイロイト盤が好きだ。
(ウィーンはそれだけまとまりがよいのだ)
そう、そのまとまりの良さで
熱狂と精妙を両立させながら最後は途方もないテンポに加速して
一糸乱れず昇り詰める心意気はウィーンの名人芸。
熱狂する聴衆の力を借りてウィーンフィルがともに作り上げた芸術だろう。

しばらくは立ち上がれないと思ったが
意を決して文章を書いた。
年末だからベートーヴェンではない。
生きているからベートーヴェンを聴くのだ。

追記
フルトヴェングラーの指揮の様子が断片的に動画として残されている。
優美や幽玄と熱狂が同居するその姿は岡本太郎がいう「美」に近い。
誰かに見せようとしているのではない。
指揮する姿がすでに絵になっている。
若い頃、物憂げに遠くを見るような目をした少年は女性を虜にしたかもしれない。

ベートーヴェンの作品で例えば作品101のピアノソナタを耳にすると伝わるものがあるだろう。
愛する女性への憧れが漂うな楽曲、それでいて全編を覆う切なさ、その裏返しの寂しさ―。
それでも音楽は前を向いて進もうとするのだ。ベートーヴェンならでは。
https://www.youtube.com/watch?v=-EGZUJnPHvQ

フルトヴェングラーのベートーヴェンには熱情と寂しさがある。
(それなくしてベートーヴェンの音楽は再創造しえないだろう)
今日では彼の解釈が古い箇所があるといわれたとしても
表現の持つ真実はいささかも失われていないばかりか
2020年を迎えようとしてますます輝いているようにも見える。
それは人間の人間による人間のための音楽であったからではないか。

フルトヴェングラーの音楽の呼吸は深い。
禅の吐く息のように細く長くつながっている。
ピアニシモでは張り詰めた糸を引くような
痛切な憧れを秘めたような音色を出す。

そして音楽が押し寄せるような(例えば「英雄」の第一楽章のように加速しながらなだれこむ)フォルテ。
それはふくよかな厚みというか、鋭いというよりは沈み込む重さというか。
単に協奏強打させているのではない。

これはオーケストラがどこであってもそのような音を引き出せるようだ。
楽団員が練習しているときに、彼が練習場に入った途端
温色が変わったことを目撃している関係者が多い。
ある種の超能力にも似た意思疎通の深い領域へと入り込めた人ではないか。
そしてそれをすべて芸術のために使った人ではないかと。

バイロイトの第9は数多く発売されているので
迷わないようよう1種類上げておこう(EMI正規版で一般向きするもの。同じ演奏だが、音質がやや異なる)
https://amzn.to/2SzQ03k




posted by 平井 吉信 at 21:51| Comment(0) | 音楽

2019年12月27日

かかりつけの先生と楽しむ会話


ここ二日は体調がもっとも悪かった。
熱を測ると39度近い。
(いつもはそれぐらいでも自宅でできる仕事はやっている。高熱には強い)
ところが両日とも朝から夜遅くまでぎっしりとスケジュール。
どちらの日にも夜は長時間のセミナーがある。

人前に出るため合間を見てインフルエンザの検査はしておいた。
幸いにも陰性だった。
(キャンセルできない仕事だったのでインフルエンザだけは避けられてよかった。せっかく来ていただける方々のために最善を尽くしたい)

二日目の午後の早い時間から気力だけで仕事をしている感じ。
その夜のセミナー(10回シリーズの最終回)で誰にも悟られないようにふるまったが
お一人の女性の方が近づいて「きょうは顔色がお悪いですね」と気付かれた。
(このとき38.8℃ぐらいだっただろうか)

二日間の強行日程を終えて三日目の朝にかかりつけ医に駆け込んだ。
前日の晩はほとんど寝られないほど苦しんだ。

実はこの患者、自分の症状から病名はほとんどわかっている(つもり)。
(高熱ではあってもインフルエンザでないのは検査を受ける前からわかっていた)
実はかかりつけの先生も患者の特性を理解されている。
(先生も椅子に背伸びをしながらリラックスされて会話を楽しんでおられる)
主訴を整理して(5W1Hに順序立てて)お伝えすると
こちらが出題するような感じとなる。
会話がカンファレンスのようになって病名が絞りこまれていく。
先生はにこやかに検査と措置を決めて看護師に指示を出す。

点滴を受けてベッドで休んでいると
先生が血液検査の結果を持って現れた。
「白血球の値がやや高いですね」
(ああそうか、抗生物質を処方されるのだな)
「三日間出しておきましょう」
忘年会のシーズンなのでどんなに気を付けてもありますよ、
と先生は笑う。

徳島近郊には食生活という根源から心臓病の治療を行う心臓クリニックなど
自宅の近くには現代の赤ひげ先生はいらっしゃる。
(実は徳島県は人口当たりの医師の数は全国一という恵まれた県である)
かかりつけの先生は薬漬けの医療を行う方ではない。
抗生物質も適量を守ればもちろん有益ではあるけれど
漢方薬を使われることが多い。
(漢方薬は対症療法ではないが症例と合えば速効で効く)
そこで、抗生物質以外に何を処方されるかを心のなかで描いてみる。
投与された薬を見ると予想はほぼ当たっていた。

近所の先生なので身元はばれているし身内もばれている。
(義弟は世界的な医薬品メーカーのMRでかつてこちらを担当していたこともある)
先生も遠慮がないし、こちらもお慕いしながらも茶目っ気を持って接している。
(症状の説明に専門用語を使う患者はいないでしょ)

点滴を受けている間に診療所は昼休みに。
先生と看護師たちとの屈託のない会話が大声で響いている。
(いや、診療中だって同じ。そこがいい)
いつもいつも病人ばかり診ているので気が滅入ってしまう。
それをコントロールするための明るい雰囲気が定着している。
医師とか僧侶とかの職業は明るくふるまうことは自己防衛でもあるのだ。

医学の世界も日進月歩で新たな治療法や診断法が見つかっている。
知識をアップデートすることにも熱心な先生で
学会に参加するために本人は休診で別の通いの医師が診られていることもある。

かかりつけの診療所は
外観が新しいわけでも最新鋭の設備があるわけでもないとしても
患者が絶えることがない。
前夜あれほど苦しんだ症状がほとんど消えて
いまはブログを更新している。

健康なときは身体のことを忘れている。
病気になればそのことを受けとめる。
そこには何の価値判断も不要。
(遍界かつて蔵さず)
ただ感謝あるのみ。



posted by 平井 吉信 at 21:09| Comment(0) | 生きる

2019年12月22日

お城下のリゾート 大滝山のふもとに黄花亜麻が咲いた

徳島お城下の象徴、眉山の北部界隈を大滝山という。
由緒ある神社仏閣が集まっている区域で
実は徳島市の隠れた観光地ではないかと思っている。
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大滝山は風光明媚な場所でもあり
滝の焼き餅という素朴な菓子を販売する茶店が開いている。
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和田の屋本店は大滝山から流れ落ちる滝が
店の庭を通過していくという立地にある。
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気取らないお店でありながら
つくりものではない風情の持つ落ち着きがいい。
和田の屋さんにはもうひとつ冬の風物詩がある。
それはモラエスも愛したとされる黄花亜麻。
これからが満開を迎えて見頃となる。
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花を目当てに、そして甘味処をいただいて
しばりごゆるりとお過ごしになるのも一興。

(ここは山奥ではなく街なか。阿波おどり会館から歩いて5分程度)
タグ:和田乃屋
posted by 平井 吉信 at 21:55| Comment(0) | 徳島

生姜は生姜、お菓子はお菓子と思っていたけど、生姜がお菓子に生まれ変わってもっと生姜になる


生姜とお菓子というと素朴な感じがある。
洋の東西を問わず昔からつくりつづけられている定番のお菓子。
でも食べる前から想像が付くという感じがあって
特に新鮮な驚きはないという感覚。

ところが生姜を使ったマフィンをいただく機会があって
その仕上がりに書きたくなったのだ。
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その店はこのブログでも何度か紹介している店で
金曜午後のみ営業の菓子店。
howatto(ほわっと)徳島のシフォンケーキとビスコッティ=旬の素材の焼き菓子専門店
https://www.howatto.jp/

販売と同時に売り切れることもあるらしいが
客足の落ち着く午後3時ぐらいを見計らって店主の伊豆田裕美さんに伺ってみた。

自宅の畑でお母さんが育てている生姜を使っているとのこと。
ご存知の方もいらっしゃるだろうが
一般的な生姜は大量の農薬を使って栽培されている。
家庭でつくるにはなかなかハードルが高いのだ。
ところが小さな規模で土を休ませながらつくると
農薬不使用でも立派な生姜はできる。
この生姜を使っている。

まず素材そのものの力がある。
生姜のぴりっとする感じが強い。
これを菓子にしたらどうなるだろう。

ご本人もブログでこう振り返っている。

生姜のやや刺激のある辛さを砂糖で抑えきることはめざしていません。
まずほのかな甘みがあって、これはおいしいって感じていただけると思うのですが
さらに舌の上でぴりっと感じる生姜らしさが持ち味。
素材の持つ意味を翻訳して、菓子のバランスに気を配りながら
おいしさに変えるのがhowattoの使命と感じています。
だから、ぴりっとが特徴でも甘さが目立つのでもなく
生姜という主人公をお菓子という舞台で再生させてみる―。
そんなお菓子ができました。


これらの生姜がジャムになり
紅茶とスパイスでチャイシフォンになり
今回いただいた香ばしいマフィンになる。


火を入れると生姜はその性質がおとなしくなり、
一緒に入れたバターや小麦と相まっていっそう香ばしくなる。
生姜の菓子は生姜の風味が支配してしまいがちであるが
伊豆田さんの菓子は生姜の個性が鮮鋭になっていながら
むしろ生地のおいしさを引き立てる。

地元の素材を活かす、というのはどこの菓子店でもうたい文句にしているが
一度伊豆田さんのを食べてみれば素材の真髄を活かすことの意味が見えてくる。

それは素材に覆い尽くされず
素材の良さを抽出して(良さを先鋭化して)
元の生地の良さをさらに高い次元に上げるという試み。
(これまでも栗の渋皮煮をはじめ、地元の素材に光を当てておられた)
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ここでも生姜風味に支配されずに
生姜の存在を浮かび上がらせた希有の菓子なのだ。
残念ながら2019年の販売は本日の午前で終了らしいが
来年の営業開始日に足を運んでみてはいかがだろう。


posted by 平井 吉信 at 11:01| Comment(0) | 食事 食材 食品 おいしさ