2023年11月03日

名も知らぬ遠き島から室戸阿南海岸へ流れ着いた 亜熱帯のヒルガオ その名は?


南阿波サンラインでまどろんでいたところ、見慣れぬヒルガオが目にとまった。太平洋に面しているが波のおだやなか小さな湾となった砂浜に2株自生していた。季節は夏の終わりである。
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その葉が相撲の行司が持つ軍配に似ていることからグンバイヒルガオと呼ばれる。日本周辺では奄美や沖縄、さらには台湾やフィリピンに自生していると思われる。その種子が黒潮に運ばれてたどり着いた日本の砂浜で芽を出し花を咲かせるのだ。グンバイヒルガオはハマヒルガオとは明らかに異なり、大きく厚手の葉を持ち、ポリネシアの人たちを彷彿させるような大柄な植物の印象。どんな花が咲くのだろう。

続いて海部郡内で群生している渚を見つけた。このあまり知られていない渚の個体は群生していることから越冬して発芽、開花しているように見える。時期は9月上旬。
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日本のハマヒルガオの花より大きく色が濃いため群生するとつややかで見とれる
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付近にはネコノシタも見られる
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さらに10月、もっと南の海岸でも群生を見つけた。なんだか甘酸っぱい心象風景。ここには高校の頃から自転車で来て民宿に止まっていた場所の渚だから。
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海水浴場がある渚でも分散的に見かけた。ハマアザミが印象的。
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ここの個体は開花には至っていない。
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今年の夏に漂着した種から発芽した幼個体ではないか。この冬を越えて定着するかどうか注目される。

四国の東南部、室戸阿南海岸のいくつかの渚では、地球温暖化でかつて見かけなかった南洋の植物が定着しようとしている。外来種であり希少種なので移動や採取は厳禁としてしばらくは見守ってみようと思う。ぼくはこの植物は好きになりそうである。

夕暮れの海岸線はやがて薄明になった。
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地球に生まれて地上に生きている。


posted by 平井 吉信 at 12:12| Comment(0) | 山、川、海、山野草

森のしずく 霧に包まれて たくさんの Sense of Wonder(佐那河内いきものふれあいの里 自然観察の森)


徳島市内から約40分の大川原高原に到着する道中に佐那河内いきものふれあいの里ネイチャーセンターがある。周辺は標高7百メートル前後の音羽川(園瀬川支流)源流域の森の散策路がある。

散策路といってもネイチャーセンター(人が常駐する)まで5分程度で戻れる場所を周遊するので森を逍遙するのが不安という人や、子どもの自然観察にはうってつけである。連日事故が発生しているクマについては、四国のツキノワグマの生息数は少なく(以下のURLに調査報告)遭遇する機会は皆無に近く、この山域での目撃例もないので心配無用。
→ 日本自然保護協会の調査結果 https://www.nacsj.or.jp/2019/12/18290/

クマに関してはヒグマとツキノワグマの違いよりも個体差や状況(餌を探している、強い個体に追い出されて里山へ降りてきた、人と遭遇したことがあって攻撃してこないのを知っている、シカの死体あさりで肉の味を知っている、出会い頭であった、人を襲ったことがある、興奮状態、親離れしたばかりで世慣れない若い個体、子どもを連れている母熊などの状況ごと、また斜面の上下の位置関係(上が有利)、距離、地形、個体差があって、このように対応すれば良いという法則は見い出しにくい。

例えば、山菜採りなどで不意に襲われたときは顔と頭を守りながら地面に伏せることでケガはあっても命は守る姿勢を取るといったことを優先する。背中を向けて逃げてはいけないのは原則だが(逃げても追いつかれるうえ、攻撃を誘発する)、子グマを置いている母グマの心理からは子グマから離れて深追いを避けようとするなど例外的にそれが有効な場合もあるかもしれない(ほとんどの場面では背を向けて逃げないは不可欠と思われる)。

クマとの距離があれば、ゆっくりと後ずさりをしながら木の陰に隠れる(横の動きはクマにわかりやすいので場合によっては木の前に立って静止するのもあり)。クマの姿が見えなくなってもしばらくは静止してクマが消えていった方向を注視する。相手も隠れてこちらを見ている可能性があり、後ろを向いて歩き出すと追ってくることもある。後ずさりは半身で後方を確認しながらも前を向いたままで行うなど、さまざまな留意点があるようだ。とにかく、これだけクマが出没している現状では山菜採りや生息する山域に入山(登山)しないのが原則だろう。

この場所は初心者向きで静かな散策が楽しめる場所。帰りはネイチャーセンターで見聞を深めたら良い。

下界から見る大川原高原は霧に包まれていた。層雲と呼ばれる雲である。この雲のなかに入ったら霧雨がしとしと湿らす程度だろうと考えて出かけることとした。折りたたみ傘と雨具の上着は持って行くとして、自宅から40分後には到着するのでおっくうにならない。

まずはセンターの上にある森を歩いてみる。森の入口にはタカクマヒキオコシ、シロヨメナ、オカタラコウが群生している。それぞれ紫、白、黄の花弁である。
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みずみずしい広葉樹の森を上がっていく
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オタカラコウにとまって蜜を吸うのはシロツバメエダシャクか?
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白い貴公子のよう
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ホウジャクが飛び込んできたが動きが速くて暗い場所でのシャッター速度では止められない
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こちらは透き通るような羽根をしたホシベッコウカギバ
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キノコではなく落ちてきた広葉樹の種
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テイショウソウ
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星が瞬くようなアケボノソウ
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露に打たれた植物
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蜘蛛の巣さえ水滴の花火
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オタカラコウは湿った森の番人のよう
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今度はセンターの下の散策路を行く 
(途中キイロスズメバチが集まっている樹木があった。巣があるのか樹液を吸っていたのかはわからない。たまたま黒い雨具を着ているぼくは足早に通り過ぎるしかない)
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沢が見えてきた。これが音羽川の源流域
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浅い水際をたどっていく
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トリカブトの仲間
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植物界でも毒性の強い植物で1グラムの葉で人が危うくなるという。触れるぐらいで致死量には至らないが皮膚や粘膜からも吸収されるので素手でさわらないほうが無難。しかしこれを薬にも使うのだから毒をもって毒を制すことがあるのだ。

オタカラコウがこの日の主役
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夕暮れが近づいて森が霧に深く包まれるようになった。
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この時間が良い。センターの周りを歩いているのでどこからでも5分で車道に戻れる。日常のなかの非日常は身近なところにある。

タグ:大川原高原
posted by 平井 吉信 at 11:24| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2023年10月28日

おいしさが見える世界観 でもほんとうに大切なことは目に見えない 


心が軽やかにならないのは自分のことではないから。どこを見渡しても、政治の劣化、戦争、生態系の破壊…と心が安まることがない。だって身の回りのことは自分が生きている世界のことだから、別々に考えることはできないから。

だからといって、楽しみを持ってはいけない、ということではない。身近なところに(探しに行こうとすれば)小さな幸福は散りばめられている。それを集めて誰かが(自分も含めて)元気になれたらそれはそれで良いこと。

「おいしい」ってどういうことだろう? 
世の中で行列ができる店は数え切れないぐらいあるけれど、そのなかにほんとうにおいしい店(もの)はあるだろうか?と疑問を拭えない。

ぼくは職業柄、そんな食べ物や店を見いだす機会がある。限られた量しかできないのは食品製造の宿命として、そこに無理がある場合はすぐにわかる。売れるからといって数日前から菓子を焼いたとしても、良質の材料を使っていることをアピールしていても、その使いこなしがどうなのか? 何より食品にとってもっとも大切な衛生管理や品質管理はどうなのか?

ぼくは以下の視点で見ている。どれも大切だが、規模や業種によって重み付けは異なる。
・食品を業務として提供するので菌数管理や芯温など火入れを含む高度な衛生管理(これらは風味とも密接な関係がある)
・原材料調達への取り組み。安定供給と持続的な活用法の工夫。生産者や消費者、地域社会にどのような影響があるかを考慮
・科学的な食材調理の知識(マギーキッチンサイエンスなどに代表される分子調理や原材料や風味の組み合わせの妙)
・地域の食文化を理解した上で独自の提案で新たな魅力を創出
・マーケティング(売るためのナラティブ=盛った価値)ではなく、それを届けた人たちの幸福を考えてつくられている。
これをすべて見通せないと食品の評価はできないと考えている。

シフォンケーキやマフィンを例にとっても、徳島で(というか全国的にも)上記の基準をすべて満たす事業所はおそらく存在しない。ほとんどの店はそれよりも見せ方(小道具の使い方、見栄えのする外観など)や売り方に力を入れている。
事実そのような店は売れている。確かに売れているが、そこにあるのは次々と消費される「盛った価値」である。そしてほとんどの人はそれで満足しており、何がどのように違うのかをわからないまま消費しているともいえる(ほんとうに良い店はFacebookやInstagramの「いいね」を集めようとしていない。SNSすらやっていないこともあり得る)。

ここで紹介する店は徳島では数少ない上記の基準を90%以上満たす店である。目には見えなくてもそこが大切というところは手を抜いていない(これが一般の人には見えない)。徳島の秋を閉じ込めた焼き菓子の世界に浸っていただけたらと企画したもの。

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商品や店の説明はしないのはマーケティングの片棒を担ぎたくないから。実際に食べてみたい人は以下のヒントから自分で探して実際に足を運んで買い求めて確かめてください。

・徳島市内で毎週金曜日のみ営業している。
・旬の地元の素材を見繕ってつくるので次の週には同じ商品はないことが多い。


今回は焼き菓子だが、SNSさえやっていないのに、広大な食の世界を独自にきわめて、地道に積み重ねている製品や事業所、店がある。ほんとうに紹介したいのはそんなところだけれど、紹介することで迷惑がかかることを懸念する。それまでその店の本質を理解し長く応援している人たちが手に入れられなくなったり、行列による近所迷惑などが起こりえる)。

それでも伝えていかなければ悪貨に駆逐されてしまうことも起こりえるという矛盾を抱えて第三者として頼まれもしないのに発信している(お金をもらっても広告記事は書きません)。こんな世の中だから、ほんものに近づく努力をしている人たちに思いを馳せてみたいから。

posted by 平井 吉信 at 22:40| Comment(0) | 食事 食材 食品 おいしさ

2023年10月21日

雲を眺めて小松島港 朱と空色と 釣り人と船と


路傍を見つめるのも、水面に視線を落とすのも、空を見上げるのも、宙を眺めるのも、不思議に思って無意識に行動するところが共通項。

心が遊ぶってそんな瞬間が日常のなかでふと訪れることかも。もしくは意識してそのような時間を持つことから(かたちから入る)切り替えをすることかも。

富士山や小笠原や北海道や沖縄は非日常的な心の動きがあるけれど、港と空ってどうですか? 
どこにでもあるけれど、このときしかないという、日常のなかの切り取り。

小松島港の北に日峰山がある。そのうえに雲が何層かに連なる場面に出くわしたとしたら、どう読み解く?
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雲の種類としたら高積雲、高度は3〜4千メートルぐらいかな。レンズ雲の形状で一部は塔状雲となっている。母体となったのは雄大雲で、さらに上部は濃密巻雲となっている姿。右下の人工物は船のマスト。
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港から広場へと歩いてくると、天頂から水平線にかけて飛行機由来巻雲が長く伸びている。高度は1万メートル弱ぐらい。
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毛状巻雲の姿から対流圏上層部では風の流れが強いことがわかる。
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東の空にレンズ雲が出ている。
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上ばっかり見ていると、地面に色彩感の妙ある葉が落ちていた
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おしろい花にからんでいるが、相手にされていないようだ
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少しずつ夕景に変わりつつある波止では釣り人がルアーでシーバス(スズキ)をねらっている。実際にかかってきた。
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港に停泊する船と淡い夕暮れ色を映す空。波止には釣り人が増えてきた
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上層の濃密巻雲は朱く染まっているが、中層の雲(高積雲)は碧灰色のまま
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この写真の色調がこの刻をあらわしているね
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その後、夕暮れが訪れた
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posted by 平井 吉信 at 23:12| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2023年10月14日

いつも行っているとくしま植物園 尾根筋はどうなっているのか?


西の空の雲が気になる。並積雲が発達しかけたけれども太陽の熱量が足りず上昇気流がおさまり、上部は濃密巻雲となっている姿と解いた。
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樹間の階段小径を行く
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この草木は何だろう。もしかしたら樹木かも。特徴ある造形をしている。
(戻ってからミモザ=ギンヨウアカシアと判明)
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遊歩道を上がっていくと路肩に咲いているヒルガオの仲間が気になる。この時期だし日本の自生種ではなさそう(帰化植物)。イモネノホシアサガオかな?
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枯れかけて色が褪せていく花といまが盛りと謳歌する花もある。そのどちらの存在も大切に感じる
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ススキにカモフラージュしているつもりのエダナナフシ。近づくと前足を伸ばして頭と触角と一体化して枝に見せようとしている。でもキミの目がぼくを見ているのをぼくは見ていて生き物と認識しているからムダだよ
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秋だね 実っているね わからないけどブルーベリーの仲間のようにも見える
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コムラサキって表示があるからわかった
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あれだけ頻繁に行っているのに植物園から尾根筋に続く小径は行ったことがない。暗い森へと足を踏み入れるわくわく感はあるが、愉悦感はなさそうと思っていたから。

丘に上がる頃には時刻は16時を回っていた。そろそろイノシシの出没時刻であるし、どうするかと考えたが、行けるところまで行ってみようと思った。

日が射すと心弾む森の散策路かもしれない。「市民の森林間コース」と標識がある。
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230メートル峰まで来たところで引き返すこととした。周辺は派手に掘り返しているところだらけ。イノシシが突進してきたら木の陰に隠れるのが良いとしても、ときどき見ているのでいまさら見なくてもいい
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太陽の光はほとんど消えているが、わずかな光を照り返す。照葉樹とは光の宿主のようだね。
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posted by 平井 吉信 at 13:11| Comment(0) | 山、川、海、山野草

朝の巻雲(すじ雲)まっさかり 夕暮れの空も染めて汽車が行く


巻雲は高度10km前後にあって対流圏ではもっとも高い位置にある雲である。氷の粒でできていて太陽に照らされて白く漂う。夕暮れとなれば朱く染まる。

大型の台風が小笠原方面へ向かうとのことで四国の空にも兆しが見られたのが今朝。巻雲が空いっぱいに絢爛豪華 巻雲豪華に絵巻物を見せてくれる。
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糸を引いたり途中が曲がったりは上空の気流の変化と強さを示している。
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同じ日の夕暮れには空に浮遊物が多いらしく太陽が沈む直前から西の空が染まってきた。車を停めて田園地帯のまっただ中で眺める。
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太陽の位置から上に青い光条が伸びている
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もう少し進んで線路と鉄橋がある場所にやってきた。
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そのとき2両編成のディーゼル車が通りかかった。
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宙に上がっていく列車のなかには、それぞれの哲朗とメーテルがいるのかも。
posted by 平井 吉信 at 12:36| Comment(0) | 気象・災害

2023年10月10日

参議院補選 高知のことはわからないから投票に行かない ではなく徳島の人も投票に行きましょう


高知の人のことはわからないから今回の選挙(10/22)は行かないという人がいるようです。しかし今回の選挙は、いまの政治が良いと思っているか、枠組みを変えるべきかの大切な選択肢となっているのでぜひ行きましょう。

ぼくの考えを書きます。自分は無党派でいずれの政党とも利害関係はなく、良い政策を提案できる政党ならどこでも応援する姿勢です。単なる無党派ではなく、良い未来をつくるにはどうずれば良いかを国民の一人として毎日のように考えて積極的に政治に関わろうとする一人です。ただしそこに自分の利益追求はありません。

ぼくがめざす理想の国づくりはこうです。
@この国があるべき姿、基本理念を描きます。いまの政治はこれが描けていません。それを理念として明確にします。
A理念を実現するために、ものごとの原理原則、因果関係や連鎖、人々の心理など見極めて、理念が実現するための構造を解明します。大切なのは課題を解決することではなく、どの課題を解決するか、取り組まないかなど課題設定力が最重要です。限られたヒト、モノ、カネ、ノウハウ、時間を有効に活かす視点がなければ消費税を50%にしても国は崩壊します。
B構造が解明できたら過程を描きます。
Cそれを実現できるしくみや社会体制を考えます。
Dここでようやく課題解決のための政策へと落とし込みます。@の実現のために必要があれば憲法や法律も見直します。
EPDCAサイクルだけではなく、確証がない場合は少しやってみて(仮説を実現するための等身大の社会実験)結果や反応を見ながら修正します。ソフトウェア開発でいうところのアジャイル、軍隊用語ではOODAループです。2年前に予算化して…などのスピード感ではなく、必要な施策をすぐにでも実行できること。予算という概念すら変えなければ(やることが目的で数字あわせのKPIを盛るだけからの脱却)。重要な政策は長期的な視点で達成度を評価しながら検証を進めます。方法が間違っていなければ成果に至らなくても続ける視点も必要です。

いまの政治との比較を交えながら考えを具体的に簡潔に記します。

一人ひとりの幸福(感)をつくることを理念とします。企業も個人もサラリーマンも農家も研究者もなく、誰にとってもそれが必要で、誰からも反対のない理念です。

なぜ、人々の幸福感を出発点とするかは、その状態があらゆる面で良い社会をつくる原動力になるからです。幸福感のない社会では例えば首相の襲撃事件が頻発するはずです。行き場のない感情をぶつける場所がないので間違った行動を起こすのは空しいことです。抑圧されず失敗が許容されるという「心理的安全性」が担保されたうえで、多様な選択肢を自在に選ぶことができる状態が創造力や突破力を生み出します。

失われた30年はその真逆を行って同調圧力やら多様性の否定(どこかの政党を見ていたらわかるでしょう)を続けてきました。いまのままでは芸術家や発明家、ノーベル賞は近い将来日本から出なくなるでしょう。

人は幸福感を覚えるところから成功に至ることが立証されています。まずは理屈抜きで心理的安全性を確保するための社会制度、さらには突出して羽ばたく人をみんなが応援できるようにします。教育や基礎研究の予算は特に重要です。

株価は上昇していますが、中小企業の経営者や生活者は実感できていません。低金利が生み出したお金の行き場のない状態が作り出した政策バブルの状態でいずれ弾けます。長い目で見れば政治が変わらなければNISAはリスクが大きいでしょう。まずは失われた30年で行われた政策を総括する必要があります。

1980年代の終わり頃、世界の企業のベスト10(時価総額ベース)の8社は日本にありました。法人税はいまより遙かに高く、円も高く、輸出には厳しい状況であったにも関わらず、貿易黒字が問題になるほどでした。国民の所得はいまより高く消費税は低く税負担もいまより少なかったので国民は中流意識を持って学生が卒業旅行に海外へ行くのが珍しくなかった時代です。いまや日本の企業は30位にも入っていません。

この30年間に行われたのは法人税の減税と消費税の増税、所得税の累進の緩和とインボイスなど逆進性の高いしくみの導入でいまや所得の半分以上が税金となっています。この状態が格差を生み出し、貧しい家庭に生まれた子どもは一生をかけて出発点のマイナスを取り戻す(出発点に立つための借金を一生掛けて返す暮らし)ことになります。

格差が広がる状態では実は国の力は衰退することをあらゆる論文が示しています。まずは格差の是正による再分配を行います。法人税は少なくとも10%以上の税率を上げます。ほとんどの中小企業は赤字なので影響は受けませんが、内部留保をため込んでモノにもソフトにもヒトにも投資しない大企業が対象となります。これで倒産する企業はありません。なぜなら赤字企業や繰越欠損のある企業には法人税課税は影響がないからです。

その財源で消費税を5%、やがては廃止します。収入が10%増加したに等しいので可処分所得は消費に回り内需が活発化します。つまりお金をお金に投資するのではなく、未来や可能性に投資する、それも富める人も貧しい人も等しく享受します。いまのように補助金やら給付金、商品券をばらまいても効果はありません。消費税減税(廃止)は国民の幸福を担保しながら未来への投資を促すしくみと捉えるべきです(消費税の廃止はインボイス制度を不要にする利点もあります。

消費税を廃止すれば国の財政が破たんするのでは? それは税制に明るい経済の専門家にお尋ねください。国民を貧しく格差を大きくすればケアが必要となります。そこにお金を入れても供給を止めたら終わりです。財源の切れ目が政策の終わり。貧しさを増やして恵んでやるのではなく、自分で走っていける社会にするのが本筋では。そして配るフリをして儲けている一部の企業とそれが環流する政党があるとしたら、なんと志が低い。そんな連中に政治は語ってほしくない、社会を歪めてほしくない。

インボイスひとつを例にとっても、廃業せざるを得ない小規模事業者やフリーランスの悲鳴が聞こえてきます。特に飲食店の廃業が加速します。間接作業が比例する企業も悲鳴。残業の増加、生産性の低下など、この制度は誰も喜ばない悪法で歴史に残る自公の汚点。岸田内閣は消費税率のさらなる引き上げ、サラリーマン増税を睨んでいるようで、これが何のためなのかはおわかりと思います。

重点政策も変わってきます。地球温暖化による異常気象が農業や生態系を破壊していくこと(=身の回りの環境が壊れていく)で食糧の確保が難しくなって飢えが現実のものとなっていきます。農業とは必ずしも生産性や効率重視の視点だけではやっていけず、環境保全型の農業もあります。就農機会を増やす制度や農地のしくみの見直し、就農者への直接所得補償、地域の一体的な食糧増産や加工のしくみをつくります。

政治家の数も足りません。国会、県議会、市町村議会などと区別せず、議員の数をいまの10〜100倍に増やし、自己顕示欲や権力の亡者のような議員ではなく、ボランティアで真剣にこの国のことを考える人に政治家になってもらいます。もちろん兼業政治家です。利益相反のテーマであってもそれが事情に精通した説得力があれば構わないでしょう。その代わり報酬は実費弁償。政治家として活動を行った時間や日数、役割に応じて費用が支払われます。それだけで生活していけないので政治家は兼業で議会はリモートが半分程度を占めるようになり、高齢者、若者、子育て世代、身障者も政治に関われるようにします。

そうすると、電通やパソナなど政治家と結託した一部の会社が中抜きをして税金を抜き取り、政治家に環流する悪い習慣はなくなります。例えばこういうことです。ある条件を満たした人に給付金を配るとします。そのための事務局を委託します。予算100億円、委託費90億円、人々の手に支払われる給付は10億円です。これがこの国のあちらこちらで少数の企業を潤しながら行われているようなムダをなくしましょう。オリンピックや万博もうやむやにされてしまいました。

頭の良い人はこう考えます。給付金が必要な人はこんな人だ。だったらもっと賢い手段がある。事務局などに手間をかけない方法でかつ誰にでも行き渡る即効性、公平性のあるしくみとして減税をしよう。実際のコロナ下で世界の大半の国が行った減税を、30年間所得が下がり傾向にあるこの国で物価高やエネルギーコストの高騰に悩み、挙げ句の果てにインボイスで小規模事業者が行けていけない社会にしようとするこの国で行われていないことを知ってください。法人税を減税? そうじゃなくて増税でしょう。

企業に負担を求めるのは経営者としては納得いかない。ほんとうにそうですか? 経済の好循環をつくりだす座標にセットすればあとは自走(好循環)が始まり内需拡大(国民が国内でお金を使うことは株式よりももっと有効な企業(上場非上場、規模も問わない)への投資ではないですか?

ここに書いている政策を行うと最初は株価は下がるでしょうが、そのうち経済の基盤が強化されて経済力が自ずと株価を押し上げるようになるでしょう。アベノミクスは企業にお金が貯まるようにしましたが、国民や取引先には降りていきませんでした。その逆に国民が豊かになれば家庭に眠る途方もないお金で自国の企業へと降り注いでいく、何の補助金も給付金も必要なく。国民を豊かにする(いまは搾取する方向。搾取した原資は一部の利権のためのみという構造)ことから始めてその成果が経済を潤し回っていく。企業の営業利益は増加し、賃金は上昇し、起業の増加、産業構造の転換へとプラスの循環を回していけば良いのです。トリクルダウン(アベノミクス)は淀む構造しかないのですが、国民主権は小さなシャワーが集まって光の洪水となって未来を照らすと信じています。そんな政治をやってくれるのなら誰でも応援します。

いまは国がやらなくて良いこと(補助金だの給付金だの増税だの人気取りの場当たり政策)をやり、やらなければならないこと(どんな国にするかの理念と構造の解明、シンプルな落とし込みによる政策をやらず、文化財の保護、貧困の解消などをボランティア(美談)に任せようとしている。

誰もが挑戦してみたいと思える社会としくみをつくればあとは走り出しますよ。そんな社会にしませんか? 

どの政党に投票すべきかはわかりません。場合によってはすべての政党からなる連立内閣でも構わないのです。ただしいまの政治の枠組みでは社会が奈落の底へ全員が落ちていくのは明らかです。こんな社会を未来に渡せるのですか?

高知県の政治家はわからない、入れたい政党がない、ではなく、どのような構図を排除するのがましなのかを考えれば投票行動は見えてくるはずです。何度も言いますが特定の政党を上げる下げる話ではありません。投票とは幸福な未来をつくるための最初の一歩です。国はその国民が選ぶ、つくるということを心にとどめて行動してください。

posted by 平井 吉信 at 20:53| Comment(0) | 生きる