2025年05月06日

宮司さんのあたたかい人柄が感じられる神社 宅宮神社(徳島市上八万町)


徳島市南部から国府、石井町方面へ抜ける環状線沿いにこんもりとした森と佳き佇まいの神社があることは道路から見えていたので知っており、いつかは寄りたいと思っていたので立ち寄った。

宅宮神社(えのみやじんじゃ)は元の名を意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)といって延喜式神名帳に掲載された由緒ある神社であるが、戦国時代に焼失していまの場所に移転して名称も現在の名前になったという。

この神社は、住宅の神様とされる。ご祭神は式内社で唯一の大苫邊尊(おおとまべのみこと)で、伊邪那岐・伊邪那美の両神(ふたがみ)より古い神とのこと。拝観していたところ、草刈りをしていた地元のお世話役にお茶を振る舞われていた方に「どちらから来られましたか?」とお声がけをいただいた。なんと宮司さまであった。

宮司の河野通宣さんは戦国時代以降に代々この神社を管理されるようになって14代目、その以前の宮司の家系から数えると71代目になるとこと。河野水軍の末裔ともおっしゃる。ご祭神は全国でもっとも古いともいう。

さらに宅宮神社に伝わる神代文字(じんだいもじ)という古代文字を書いたものがあるとのこと。ただし神社の宝ともいえる貴重なお品を人目にさらすわけにはいかないので、江戸時代に門外不出の文字を伝えるために版木を作成した。その刷り物を社務所でお見せいただいた。漢字やひらがなよりも古い文字との位置づけである。

また、宅宮神社には古くから歌い継がれて県の無形民俗文化財に指定されている神踊りがある。いずも踊りについては前回に書いたが、「伊豆毛の国の伯母御の宗女 御年十三ならせます こくちは壱字とおたしなむ」のくだりが、魏志倭人伝の卑弥呼(伊豆毛の国の伯母御)と宗女壱与の記述と符合するなど興味深い。邪馬壹国阿波説、イヅモは阿波の説を補強しているともいえる。

さらにもうひとつ、神社の入口に岩がある。この大岩が令和元年の秋に真っ二つに割れたという。大祓の際に流行病の災いがあるというお告げがあって、コロナ流行が始まった。そんな伝説があったものだから、宮司さんも驚いたという。平安時代や江戸時代にも疫病の流行があって神社では御札を配ったとの記録があるとのことで、COVID-19が神社の歴史で3回目という。

周辺には古墳が数百あって、銅鐸が7つ出土しているという。古代阿波の中心地であった国府地区にも近く、天石門別八倉比売神社神社まで直線距離で4km少々しかない。

このような由緒と歴史ある神社について(ぼくが知らなかっただけなのかもしれないが)お伝えしたいと紹介している。境内には湧き水があって汲みに来る人、日々お参りに来る人が絶えないとのことで、宮司様の飾らないお人柄と、地域に根付いて歴史を刻んでいくありさまに感銘を受けた。

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posted by 平井 吉信 at 13:29| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説

2025年04月05日

テンノーハンとタマモノヒメ 生夷神社ものがたりと阿波のイヅモ


研究すればするほど徳島人の身びいきではなく邪馬壹国阿波説が濃厚になっていく。阿波説を研究されている方に情報提供をしておきたい。

上勝町に市宇(地元ではいっちゅう)という集落がある。高丸山に近いほうから、八重地、市宇、樫原、野尻と尾根の集落が並ぶ。勝浦川支流の旭川沿いを走る県道沿いに集落は少なく、ほとんどは尾根に人々が住んでいる。尾根が移動の近道であったことによる。車道から集落へは上がれば集落が点在するという四国の山上集落の構図はここでも見られる。

市宇集落で農家民宿を営む方から2000年頃に聞いたことだが、尾根に近い平坦な場所があって、地元ではその場所を「テンノーハン」と呼んでいるそう。どんな字を当てるのか、なぜ、そうなのかをお尋ねしたが、昔からそう呼んでいるので由来はわからないとのこと。

市宇地区では、野良仕事でハミ(マムシ)に遭わないおまじないがあるという。
「我行く先に鹿の子まだらの虫おらばタマモノヒメに言付けやせぬ アビラウンケンソワカ(3回)」

「虫」という字は毒蛇のマムシをかたどった象形文字で、本来はヘビのこと。道中でハミ(マムシ)がいるようならタマモノヒメに言いつけるという口上だろう。アビラウンケンソワカは、真言密教の十三仏の中心をなす大日如来の真言(サンスクリット語)を引用してそれを3度繰り返している。この言い伝えがいつからあるかは定かではないが、真言密教を伝えた空海以後のことだろう。

蛇足ながら都道府県別では真言宗の割合がもっとも高いのは空海の生誕地香川県(確か浄土真宗西であった記憶がある)でなく、徳島県である。一番札所(霊山寺)も徳島県鳴門市にある。それにしても、どこか古語ゆかしい響きと真言を織り交ぜたこの言葉を誰が伝えたか? 

それはもしかして空海本人ではないだろうか。平安時代では、阿波国風土記をはじめ、ヤマト王権初期の時代の文献や口伝が多く残っていたと考える。嵯峨天皇とも近しい関係にあったとされる空海はそれを知る機会があったことだろう。

尾根沿いの集落の意義について、実感しやすい数字を掲載すると、例えば、県西部の美馬市の三木家と上勝町の八重地集落の直線距離はわずか16kmであるが、車で移動すると最短ルートで72km、Googleマップ推薦ルートで88km、なるべく広い道(県道16号、国道55号、国道192号など)を採用すると100kmを超える。徒歩では、八重地→ 高丸山→ 雲早山→ 砥石権現→ 穴吹川の川井集落まで尾根伝いに歩いて下り、その後穴吹川伝いに三木家へと到達可能である。

民俗学的に意味があると思われる言い伝えなのでここに記しておく。教えていただいた方も80代後半であるので貴重な箴言が失われる前に、もう一度お話を伺いたいとも考えている。

→ 聞き取りの音声データtamamonohime.wav

ここからは、邪馬壹国阿波説にはおなじみの内容なので、上記とつながるかどうかを考察いただけるのではと。勝浦町沼江地区に、生夷(いくい)神社という延喜式神名帳に記載された由緒ある神社(式内社)がある。ご祭神は事代主である。事代主は恵比須・夷・蛭子・蝦夷(いわゆる、えべっさん)と同じと考えられている。

なお、美馬市つるぎ町半田には「天皇」という地名がある(国土地理院地図にも記載)。吉野川を挟んだ近傍には、全国で唯一国生みの女神、イザナミを祀る伊射奈美神社やこれまた阿波にしかない倭大國魂神社がある。阿波説では美馬地区と崇神天皇との関係性が説明されていたと思う。126代の歴代天皇で「神」と諡が付けられたのは初代神武天皇と第10代崇神天皇のみ。神武天皇が平定した倭(ヤマト)がその後乱れた(魏志倭人伝には女王卑弥呼の死後、倭国大乱が起こったが、13歳の女王を立てて内乱が収まったとある→ 復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定)。第2代天皇から第9代天皇までの記載がないのはこの時期に当たる(国を平定するために多くの犠牲が払われたのだろう。天皇自身も闘いで命を落とされたこともあったのではないか。それゆえ歴史には記載されないと考えるのが自然。ぼくは初代以降は実在の天皇と考える)。ちなみに、神武天皇も崇神天皇も御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)といわれる所以は、ヤマト王権国家の基盤を拓いた(創業者の神武天皇)、調えた(第二創業者の崇神天皇)と解釈できる。崇神天皇の日本書紀名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)で「みま」の文字がここに現われる。

余談だが、イザナギ・イザナミの国生神よりさらに古い神を祀るという徳島市の宅宮神社(えのみやじんじゃ)にいまも伝わる神踊り(県無形文化財)の踊り歌に、「伊豆毛の国の伯母御の宗女 御年十三ならせます こくちは壱字とおたしなむ」とある。これは卑弥呼亡き後、卑弥呼の血縁者で13歳で祭祀を行なう女王となった壹与(いよ)と読めるし、イヅモが阿波にあった証しのひとつだろう。誰もが知っている出雲大社は由緒ある神社だが、明治4年に改称される以前は「杵築大社」(きづきたいしゃ)であった。

剣山へ向かう貞光ルートの入口には美馬があり、穴吹ルートには、御殿人の三木家、磐境神明神社や白人神社があり、神山ルートでは粟国(阿波)の別称となっている大宜都比売を祀る上一宮大粟神社、その下流には(阿波説では卑弥呼の墓があると考える)天石門別八倉比売神社、佐那河内ルートには、天岩戸に比定する立岩神社(神山町)、さらに関連する天岩戸神社(佐那河内村)、さらに天岩戸と対をなす立岩神社(徳島市)がある。

三木家が麁服を調進して執り行われる践祚大嘗祭は、皇室で最重要な儀式のひとつで天皇即位時に新天皇がひとりで行なう。その部屋に入室できるのが三木家ご当主。皇祖神の御霊を降ろすお役目を担われているのではないかと推察する。祖霊を降ろすのは土地の祭祀者の役割としたら、高天原が阿波の山岳地帯にあったことになる。さらに当時の海岸線を伝って勝占神社(徳島市)、遡れば生夷神社(勝浦町)と事代主系の神社、さらに今上天皇が皇太子時代に行啓された八桙神社(大国主を祭神とする)とイヅモの世界が展開され、古事記の物語が等身大に展開される。

生夷神社はえべっさんの生れた地という意味で、周辺にはいまも勝浦町生比奈という地名がある。これは旧生夷村から由来すると思われる。さらに勝浦川の源流域には旧八重地村がある。事代主は八重事代主とも呼ばれることから、勝浦川中上流域域は事代主に縁のある地区とされる。このことからもイヅモは島根ではなく阿波にあったと考える。

古事記(近年に編者の太安万侶が実在したことが発掘で明らかになった)の国譲りの記述で、大国主に国を譲るよう迫る天孫からの使者に、大国主は釣りに出かけている息子の事代主に聴いてくれと告げる。使者が事代主に会いに行くと、事代主は国譲りを承諾する。争いを避けて国の統一の一助となった事代主の決断は尊い。これにより天照大御神からの天津神と、大国主や事代主などの国津神の血統が統合されて、初代天皇の神武天皇につながっていく。ただしぼくは両血統はもともとの祖先を一にするのではと考えている。

上勝町旭地区の稜線伝いの道が事代主ゆかりの「テンノーハン」(かつて貴人が通っていった尾根のルート)なのか。タマモノヒメが事代主の配偶者である玉櫛媛(たまくしひめ)を指すのかなど、ぼくの手には負えない。

生夷神社はそれほどの由緒ある神社でありながら、どこの田舎にもある神社とみかけは変わらない。むしろ豪勢な社殿をもたないのに長い年月地元の人々が祀り上げてきた身の丈のたたずまいに何かを感じることができる。
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生夷神社からそう遠くない山麓に、山と同化したような蛭子神社がある
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そのそばには、素戔嗚尊を祭神とする大将軍神社がある
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勝浦川をさらに下って徳島市に入ると、勝占神社がある。この神社も事代主ファミリーに縁の深い神社のようである。当時はそのあたりが海岸線であっただろう。勝浦郡から阿南市にかけては阿波と古事記(イヅモ)の関連はつながっていく。

posted by 平井 吉信 at 00:03| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説

2025年03月27日

藤島博文さんの絵を見たかった


ここ1〜2か月ほど集中して邪馬壹国について探求していた。とはいえ、文献を掘り下げたり現地に行く余裕はないので、これまでに持っている知識や判断力を総合的に駆使して自分なりに納得できる考察を求めていた。

それは新石器時代の日本列島にまで遡る。さらに別ルートからの流入の血を受け容れつつ、世界でも希に見る豊かなくらしを展開したのが縄文時代。

縄文時代は今日考えるよりずっと交易が盛んであったが、DNAの分析からは狭い地域の血縁関係がうかがえるという。このことから定住できる豊かな環境を賢く(持続可能な自然とのかかわり)利用していたと考える。そのため人々は争う必要はなく、物資だけでなく智恵を共有していたのではと推察する。

円熟の縄文時代に温暖になった地球で縄文海進が起こった。いまより海岸線が陸に進出していたので沖積平野は水没していたはず。さらに7300年前に鬼界カルデラの大噴火があった。西日本では灰に埋もれて数世紀にわたって人や生物が住めなかったはずで、生き残った西日本の人々は東日本、朝鮮半島、さらには大陸へと移動したと考える。しかし徐々に環境が回復してくると(海も後退してくるが)代々口伝で語り継いだだろう祖先の住んでいた場所に戻ってきた。その際に進出した先の民族の血を受け容れたり、日本列島への旅に同行する民族もあっただろう。渡来人=外国人とは限らないのである。同様に縄文人との共通の祖先が弥生時代にも海を渡ってやってきた可能性もある。海外からの戻り組は幾重にも行く度にもわたっており、そこに新たな文化の担い手として何かをもたらした可能性がある。その過程で共通の徴(しるし)を持っていたとしても不思議ではない。

災害が多発する日本列島が織りなす複雑な地形と、亜寒帯から亜熱帯までの湿潤な気候がつくる環境は地球史上でも希有の多様性を持っていた。そして人々も多様な場所から集まってきて多様な生き方をして、互いに受け容れながら弥生時代が始まった。

大陸の稲作、シルクロード、中東からの風習、言語、技術と、縄文時代に花開いた日本の技術や暮らしが融合していく。弥生時代は渡来人の影響が大きいが、そうであっても縄文人の土台があったからこそ。そしてこれらの悠久の時間と多様性の風土のなかで日本人の気質が醸成された。今日、日本人や日本文化が世界で称賛される、うらやましがられる部分があるとしたら、その流れはここにある。

そうはいっても誰かが国の起源を残したいと思わなければ、歴史に埋没したり書き換えられたりして失われただろうできごとを、ときの権力者に不都合な真実を婉曲的に、比喩的に、寓意で表すなどの部分を今日残された資料と、多面的な要素で考察していくと、邪馬壹国は阿波にあったと考えるのが自然と思うようになった(徳島に住んでいるからの身びいきではない)。

ただ阿波説に100%納得するのものではなく、卑弥呼=天照大神や壬申の乱の舞台は阿波であった、日ユ同祖論などは納得していない(ぼくは常識や当たり前と思わされている世界などを信じない人間であるが、阿波説のすべてが正しいとも思えない。うまくいえないが、日本や日本人、皇室の重みを逆に否定しているように感じられる)。これについては土の中から信頼に足る資料が出てきたときに決着が付くと思う。古事記の編者の太安万侶が実在した証しだって数年前に発掘されたように。

徳島には阿波忌部氏、あるいはもっと上位の血統が代々同じ場所で営みを続けながら、天皇が即位するもっとも重要な儀式である践祚大嘗祭で麁服を調進する、それが木屋平の三木家という事実の重さ。長くなるので邪馬壹国は別の機会にということで、麁服の原料である大麻も三木家が栽培する。その様子を藤島画伯が描かれたものを見て実物を見たい、と思った。

年度末の多忙ななか時間をなんとか捻出して会場へ足を運んだところ、幸運にも画伯が在廊されて作品の解説をいただいている。しかも会場に入る看板には写真撮影やSNSの発信が可能と記されている。藤島さんのお話を伺っていると、まったく偉ぶらない、しかも誠実かつ強い生命力を持った方だとわかった。

作品の1枚いちまいに感銘を受けたのは画伯の生命力や気迫がみなぎっていたから。決して高齢の権威ある先生が描いた「枯れた絵」ではなかったから。説明の最後に吟詠を披露されたが、それもまた見事で会場の空気が震えるようであった。

ところが画集はつくられていないようで、これについては飯原一夫さんとともに、地元新聞社で今回の主催でもある徳島新聞の文化部が出版企画を考えておられるのではと期待する。

写真撮影が可能とは思わなかったのだけれど、会場を出てまちのスナップを撮ろうと持参していたカメラで撮影できた(撮影時にストロ不使用は当然)。会場に来られなかった方にも藤島画伯の絵を見ていただけたらと思う。ただしご本人の許諾をいただいたとしても複製の問題等があるので、トリミングして掲載することとする。

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木々や石、羽根の一枚までを追い求めた写実性と、そこに生きとし生けるものへの共感のようなやわらかな光の帯(オーラ)をにじませた耽美性、被写体が画面からはみ出しそうな生命力で一筆書きのような強さ。年齢を超越しながら権威を否定し富や名声で曇っていない魂の力をぼくは感じた(美術の門外漢の失礼な感想をお許しください)。

日本の伝統文化に帯する揺るぎない信念を未来への光に変えてください―。ぼくが藤島先生の絵から受け取った箴言である。

タグ:邪馬壹国
posted by 平井 吉信 at 22:08| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説

2025年02月22日

邪馬台国はどこにあったか それは重要ではないけれど考察してみる


邪馬台国がどこにあったかは種々の仮説があるので、その優劣やどの説を採るかについては深掘りしない。邪馬台国研究はここ数週間の「にわか好奇心」であることをお断りしながらも、この問題を考えるうえでの態度(考え方)は明確にしたい。

その1 文献は正しいと思って読む

前提として、邪馬台国ではなく、邪馬壹国とする。
文献を読む際に、自説に合わなければ、誤解があった、勘違いだろうなどと解釈せず、ただ記述を受け止める。
魏志倭人伝は公文書であり、当時の晋が置かれていた状況から、国内で対峙するうえで外交は重要機密に属する内容と考える。ゆえに能吏が任されて作成する以上、誤りは許されず、可能な限り正確を期して書かれていると解釈。古事記、日本書紀も同様である。ただしそれを見せる側の意図(ナラティブ)には留意する。

その2 科学的論理的な多様な視点で捉える 

多様な視点とは多様な角度からの検証である。当時の気象、天文学、測量技術、交通手段、まつりごと、風俗、地理、地勢学、遺伝子情報からの人の流れの分析、地名、神社名、祭神に至るまで。そして、時間軸を前後に多く取ること(旧石器時代まで遡って考える)。地政学的には日本だけでなく東アジアから中東あたりまでの動きに至る考察が必要。

その3 提唱する人の態度

物理的時間的な制約、経済的な理由などの制約があるため、現場や一次情報にあたるわけにはいかず、特定の説を提唱する人の主張を精査するのが早道となる。鵜呑みにせず咀嚼していくと主張の問題点に気付く。それに悪意があるか過失かなど、程度の問題はあるので完全無欠の解釈は求めないのは当然。

その4 自分なりの史観と前提を持つ

邪馬壹国がどこにあったかについては重要ではないという考え方を前提とする。神代(神話)の神は実在の人物であると考える。少なくとも神武天皇以降は実在と見なさないと歴史を綴ることができない。

・日本列島は少なくとも4万年前ぐらいまでにはホモ・サピエンスが到達している。
・アジアの古人研究の第一人者であり、身体を張って台湾から与那国島へ太古の船を建造して渡ろうとした海部陽介博士のお話を実際に伺っており、アジアには多様な人類(ホモ属)が存在していたことが前提。
・新石器時代の住民を中心に、南方北方からの流入が加わって縄文時代と縄文人に移行している。
・縄文時代は世界的に見て希有の時代で狩猟採集を定住しながら(管理しながら)行なったSDGsの先取り。この恵まれた環境は日本列島のみに見られた生態系の多様性が背景になっている。争いを避けて共存するという縄文人の資質の高さも特筆されるべき。外からの流入を受け容れて同化させる(外部の良いところは受け容れる)など人も自然も、恵みと災いを区別することなく受け容れた「多様性の受容」が縄文文化の根底にあり(平井吉信説?)、それが弥生文化への円滑な流れにつながっていると考える。
・人種としての縄文人も弥生人も存在しない(一様ではないという意味)。弥生時代は、縄文人と渡来人が混血して形成されたという単純な話ではない。いったん外へ出て戻る場合もあるし、渡来人といっても、アルタイ方面、オホーツク海沿岸、沿海州、中国東北部、朝鮮半島、長江流域、中国南部、スンダランド(東南アジア)、チベット、中東などさまざま。日本人の遺伝子のハプログループが多様なのはそのため。
・日本で最初のまとまった勢力であるヤマト王権には渡来人の関わりが大きい。淡路島や剣山のユダヤの遺構やアーク伝説なども実在した可能性が高い。ただし別の渡来人や縄文由来の人たちも関わるかたちでヤマト王権は成立していると考えるのが統治の原則。ゆえに特定の民族や部族のみが政権の始祖というわけではない。
・魏志倭人伝の邪馬壹国の記述からは、女王の死後、倭国大乱となったとあるが、神武天皇以後の数世代が該当する。ここで統合のために祭祀を司る女性を立てたのが魏志倭人伝の卑弥呼(おそらく倭名は異なる)。
・古事記は、邪馬壹国の誕生物語ではなく、ヤマト王権が誕生して政権の基盤を確立するまでの史実をナラティブで語っていると解釈。その際に寓意(神話から象徴的に示唆する)を読み取る必要がある。(例/サメと結婚して子どもが生まれるはずはないので、サメとは海洋民族を象徴するなど)。
・現存する神社(延喜式神名帳に綴られた式内社)と祭神は丹念に由来や移設を追跡する。
・弥生時代から古墳時代にかけては縄文海進が終わった後であっても現在よりも水際が高かった地形で考える。
・縄文時代に西日本を直撃した鬼界カルデラの大噴火の影響を考慮する。また、邪馬壹国の機能の分化や移動について考えられる外部要因(例/南海トラフによる津波など)も要素として意識する。

長くなったけれど、現時点で(おそらく変わらない結論として)、魏志倭人伝に書かれた邪馬壹国は阿波にあったと考えている。以下に根拠(状況証拠)。

・魏志倭人伝での邪馬壹国の所在地の記述と矛盾がない。この点では畿内説も九州説も脱落している。
・古事記の国生みは渡来人の上陸と統治の順番を表す。オノコロジマ(沼島と比定)の次は淡路島(阿波路=あわへ向かうの意)。台湾から与那国島をめざした海部陽介博士によれば、黒潮の流れは新石器時代の当時も現在とそう変わらないとのこと。台湾南部から船を出せば黒潮に乗って日本列島に運ばれ、紀伊水道へ入れば和歌山寄りを主流して淡路島で反時計回りの反転流が蒲生田岬(四国の東端の岬)の間で生じる。淡路島南部の上陸は地理的にあり得る状況。
・その次にイヨノフタナジマ(四国)であることに留意。ただし到着してすぐに国がつくれるはずもなく、そこには同化と支持者を増やす年月が必要。神武以前の神はそのような時代を象徴しているのではないか。
・その際には、朝鮮半島経由で長江流域、中国東北部、沿海州あたりの渡来人もそれぞれの技術を持って渡ってきている。先住の倭人(縄文系だがそればかりでもない渡来系も)とも協力しあって一大勢力を作り上げていったのではないか(特定の渡来人だけで政権を固めたとは思えない。国譲りなど象徴的な場面があるので。渡来人のなかにも縄文人と共通の始祖を共有する部族がいたはず)。
・淡路島のユダヤの遺跡の痕跡、徳島の白人神社の由来やその近隣の磐境神明神社がユダヤの遺跡(駐日イスラエル大使の判断)であったことなどからユダヤが倭王朝の成立に関わっている。剣山の例祭の神輿やそれが行なわれる日などユダヤの痕跡はあまりに多い。
・魏志倭人伝の邪馬壹国はヤマト王権のすべての機能を有しているとは限らない。徳島平野は浅い海のなかにあった時代、女王が祭祀を行なった場所は、剣山から神山町あたりの山中にあったと考える。当時の四国は尾根沿いにみちが走り集落は尾根にあった。天石門別八倉比売神社神社や上一宮大粟神社はそれらの場所に近いところではないか。大乱が起こったのは中国地方と考えると、統治には陸続きの畿内のほうがやりやすい。のちに行政機能のみならずすべての機能を畿内へ動かしたのではないか。
・邪馬壹国が阿波にあったとしても、阿波が日本国の始まりでも日本の歴史の特筆すべきできごとでもなく、時系列で見ればその時代にそのような機能があったということ。
・天皇が即位する際に行なう大嘗祭は最重要の儀式であり、そこに阿波忌部氏(もしくは天太玉命)の直系である三木家が麁服(あらたえ)を調進することの意味は大きい。この特別な儀式は天皇陛下ひとりが部屋に籠もって行なわれる秘儀であるが、そこに麁服を持ち込むために入室するのは三木家。麁服は天皇陛下が召されるのではなく、神を降ろすよりしろとして使われる。このような重要な祭事を司る家系が剣山の近隣で、ユダヤの遺構(磐境神明神社)から10km少々の距離に住まわれている。
・多くの人が指摘するとおり、式内社で重要な神社が阿波にしかない、もしくは阿波から移設されて各地にあるという記述が多い。
・魏志倭人伝では、邪馬壹国周辺の山々で水銀が採れたとある(「其山有丹」=その山には丹(辰砂=水銀)がある)。水銀は古代の宗教儀式や埋葬に使用されており、邪馬壹国の特産物として水銀が重要であったことを示す。弥生時代から古墳時代にかけて水銀が採れた国内の場所としては阿南市の若杉山遺跡がある。水銀朱の生産が行われていたこと、採掘に日本で初めて火が使われた痕跡がある(2025年1月)ことが確認されている。日巫女(祭祀)を語るうえで、水銀が採れない場所は邪馬壹国から除外できる。個人的にはこの項目がもっとも重要と考えている(数字などと違って定性情報として間違えようがないから)。
・1991年に皇太子徳仁親王さまが阿南市の八桙神社に行啓された。この年は立太子の礼を行なわれて皇太子に即位された年で2年後に雅子さまとご成婚されることとなる。八桙神社は大国主命を祭神とする神社で(縁結びとしても知られる出雲大社ではなく)、なぜこの神社に行啓されたのか。皇室では、三種の神器や儀式の意味や由来について口伝での秘匿すべき情報があるのではないか。

邪馬壹国が阿波にあったというのは子どもの頃から多くの人から提唱されているが、徳島人のぼくもこれは眉唾ではないかと思っていた。だからぼく自身も考察するに当たって客観的に見ているつもり。邪馬壹国が阿波にあったといって喜ぶのでも自慢するのでもなく、ただ事実を知りたいと思っただけ。歴史の中で見ると、ヤマト王朝成立には多くの要素が関わっており、祭祀の役割を担う機能としての邪馬壹国(どこにあったかを含めて)はそれほど重要ではないように思える。魏志倭人伝や古事記を多面的に考察していくと、邪馬壹国の比定だけでなく必然として見えてくるヤマト王権の黎明から今日に至るまでの一筋の流れがある。

追記
邪馬台国の多くの研究者が気付いていないことをひとつだけ。
川の氾濫が八岐大蛇の寓話で象徴されるとしたら、日本でもっとも基本高水のピーク流量が大きい川が吉野川(毎秒24000トン)で、次点が利根川の毎秒22,000トン。西日本の多雨地域、それも西日本で1番目と2番目の石鎚山系と剣山山系からの水を集めるので洪水が頻発した。それを制したのが竹林(水害防備林)。池田から岩津までの全長50km、270ヘクタールは全国最大となっている。



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posted by 平井 吉信 at 22:25| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説

2025年02月17日

八桙神社 当時の皇太子さまが行啓された由緒ある神社(阿南市長生町)


ぼくにとって、この国でもっとも尊敬する方が天皇皇后両陛下である。徳仁天皇と雅子皇后がこの国で果たされている役割はあまりに大きい。国民には見えない祈りの力をいただいているように感じる。

いまこの国は国難といえる危機に直面している。それは劣悪な政治による国民の貧困化。この国難をもし逃れることがあるとしたら、両陛下の御心のなせる技ではないだろうか。

抽象的な話はさておき、謙虚で飾らず真摯にものごとに取り組みながら誰にでも変わらない接し方をされている。それが日本人らしさとして海外にも好感されている(大谷翔平もそうだよね)。

その徳仁天皇が皇太子徳仁親王の頃、1991年に阿南市長生町の八桙(やほこ)神社に行啓されたことがあった。それから2年後、皇太子さまは雅子さまとご成婚されることになる。

八桙神社には国指定重要文化財と刻まれた石柱があり、菊の紋が入っている。どのようないわれがあるのか知らないが、この時期の徳仁さまは将来の即位とお妃選びを控えて心に思うことがおありになったのではないかと推察する。そんな大切な時期にご決心を顕すかのように訪問されているように見える。

そのような由緒ある神社でありながらこれまで一度も訪れたこともなく、存在すら知らなかった。四国内を隈なくまわっているつもりだったが、徳島(それも卒業した高校のあった阿南市)でまだまだ未踏の場所があるのだから(徳島には何もないという人、何もないのは徳島ではなく、それを見ようとしない心のありよう)。

阿波国の一宮は大麻比古神社である。そこをご訪問されるのならまだしも、八桙神社とはどんなところなのだろう。全国にこの名称の神社はひとつだけだとか。主祭神は大己貴命(大国主命)。徳島といえば、徳仁天皇のご即位の歳の大嘗祭に調えられた麁服(あらたえ)は木屋平の三木家(忌部氏直系)から調進された。これはとても重要な意味を持っている。

邪馬台国阿波説については、これまで熱心に語る人の話を聴いてみたが、納得することはなかった。熱意の裏返しなのか論証が荒っぽく、それで断定できる? 地名や神社名があるからといってそれが有力な証拠になる? そう思って眉唾説とみなしてきた。ぼくは徳島人だけれど、このことに限らず身びいきは一切しない。よいものはだれ(どんな)であってもよい、わるいものはわるいという態度はこれまでも貫いている。

それでも文献の解釈、当時の地形や気象、地勢学、鉱物資源、後漢書(魏志倭人伝)をはじめ、周辺の史書とそこに描かれる倭国や朝鮮半島の国々の風習などの記述、縄文海進と人々の暮らし、縄文から弥生、そして古墳時代への社会の遷移(鬼海カルデラの噴火、南海トラフ地震などの災害と社会のあり方など)、そして近年の遺伝子分析などを総合的かつ系統的に分析して、もっとも説明のできる物語をつくりあげると、邪馬壹国は阿波というのはもっとも有力な仮説に変わった(地域おこしのロマンではなく学究的な態度で。確信といっても言いすぎていないように思う)。これに対し九州説も機内説も矛盾があまりに大きい。

ただ、最後まで納得していないことがあった。それは、重要な史跡や神社が一直線に並ぶ。例えば、○○神社と▲▲神社が夏至の太陽の方向に並ぶとか、中国のある地点から東に邪馬壹国が位置するとの記述があっても、当時の人がどのように方角を把握したのかという点。三国志や古墳時代にそんなことができたのか?

ぼくは天文学が好きだったので、古代ギリシャでエラトステネスが予め距離が判明している二地点の夏至の太陽の南中高度の差から地球の直径を求めた(それは正確な値だった)ことを知っている。しかし稲作をしていた弥生後期から古墳時代の人々がどのようにそんなことを把握できたのか?

ところが見えてきた当時の社会はすでに交易が盛んに行なわれていた。日本各地で同じものが出土する、海外にあるものと同じものがある、言葉の音(発音)が似ている、などはおおいにあり得た。先月(2025年1月)には阿南市で日本最古の火を使った水銀の採掘が行なわれた痕跡が発見されたが、これなどは従来は江戸時代と考えられていたもの。それが一気に千年以上も遡る。

稲作についても大陸からの伝来を待たず、縄文晩期には自然由来の稲が定着して稲作が行なわれていたのではないかとか、縄文時代には国家の概念がない(ある意味では勢力やら階級、争いがない平和な)時代であり、国を作って統治するという発想や行動は縄文人にはなかったのではないか(だから渡来人が王になる)。ゆえに縄文人は混血しないで後の時代まで残ることもあったのではないか。歴史は大いに塗り替えられようとしている。

邪馬壹国が国を統一する際には技術、つまりは渡来人の智恵があったと考える。天孫降臨と称する事案は渡来人の上陸が不可欠であったのではないか(そのなかに大陸系やユダヤ系があったのではないか)。それと在来の平和を愛する縄文人とが混血して日本人が形成されたのではないかと考えると腑に落ちた。

歴代の天皇は秘められた祭事の秘密や口伝もしくは門外不出の文献などを三種の神器とともに継承されているのではないか。世界の平和を願う御心は、日本のなりたちをすべてを知っておられるからではないか、などと想像が膨らむ。

イデオロギーや宗教をめぐる世界の対立、例えば、中東でいまも起こっていることなどを良い方向へ持って行けるとしたら、ユダヤ系にもアラブ系にも敵対しない(特に日本の皇室は尊敬されている)日本の役割なのではないか。核の廃絶を本気で働きかけて説得力を持つのは日本だけではないか。といっても国民すら幸福にできずにいる日本の政治家には無理な相談かもしれないが。

多様な意見や説があっていい(むしろあるべき)。それでも邪馬壹国が阿波であったというのはもっとも有力な説のひとつと確信する。近い将来、教科書にはこう書かれるかもしれない。「女王卑弥呼(日巫女)を中心に、九州北部から畿内までを勢力に置いていた邪馬壹国は(渡来人が上陸した)阿波にあった。後に奈良へ移動して大和王朝へとつながる過程を神話になぞらえて記したのが古事記である」などと記載されるのではないか。史書や古文書は一概につくりもの、誤りと片づけずに、一定の方向から偏光フィルター(歴史がかけた意図を逆バイアスで光を通す)をかけると真実の方向が浮かび上がる。邪馬壹国に関する限り、それは光が当てられるところに来ていると確信している(身びいきでもオカルトでもなく)。

前置きが長くなったが、八桙神社は大国主命を祀った延喜式内社であるが、どこにでも数え切れないほど点在する神社と何も変わったところがないように見える。もし天皇家にとって大切な存在であるなら、その出自が関わらない限り、この神社の重要性は説明できない。このことを持って、邪馬台国阿波説の証明にはならないけれど、さりとてそれ以外の説明ができるとは思えない。
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posted by 平井 吉信 at 23:47| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説

2025年02月02日

邪馬台国は阿波にあった説を愉しむ


邪馬台国は阿波であるという説が昔からあった。うちの親父もその類の本を1冊、書棚に置いていたように記憶している。おそらくその本はぼくも読んだかもしれない。

ときにその類いの本は、熱意のあまり論理の飛躍があったり(説明不足や思い込み)、誤解に基づく記載が数カ所あると全体の信憑性がなくなってしまうなど、批判に耐えるのが難しいところもあると思う。

しかし時代を経るとともに、阿波説はさまざまな人が提唱するようになり、九州説と機内説に対抗する有力な仮説として提示しているように思う。地域活性化という立ち位置もあってそれはそれでよいと思う。しかし史実を読み込んで客観的に実地検証して事実を積み重ねるという姿勢も同時に窺える。キワモノ、郷土愛のロマンだけでは片づけられない問題提起を行っていると思う。

阿波説が九州説や機内説に比べて弱いとすれば、それだけの権勢を誇った土地にしては○○遺跡とか○○古墳のような痕跡が九州や大和と比べて少ないというところにある(卑弥呼の実在は古墳時代の前なので大規模な痕跡があるとは思えないのでそれは支障がないように思う)。

そこで古事記に書かれた記述をそのまま解釈していくとどうなるかという姿勢(検証)が必要だろう。検証の際に気をつけなければいけないのは、江戸時代や明治時代などの近世に提唱された誤った解釈、名称や由来が書き換えられたり当て字となっている事案を、古事記が書かれた当時に遡って改めていく作業が必要となる。現在の地名が当てはまるからといって、それが明治時代以後であれば、古事記の記述を裏付けることにはならないからである。

魏志倭人伝の記述にある邪馬台国までの旅程の解釈も論点である。記述があいまいで海を隔てた島国の国々の位置を正確には記していないのではないかとも考えられる。三国志の(孔明などが実在した)時代は日本では弥生時代から古墳時代への移行期で日本に書物がなかった時代である。当時の中国(晋)には優秀な官吏がいたはずで文書として正確に記載されているのではないかとも個人的には考えるが、魏志倭人伝の解読からは正解にたどり着かない気がする。

阿波説についてはこれから読み進めていこうと思うが、古事記の記載を無理なく説明できるという主張が特徴である(古事記に記載されている地名や神社に合致する事例が阿波説)。

卑弥呼から後の世では大和に王権があったのは事実であるから、卑弥呼が生まれ育った、もしくは 卑弥呼が移住してきて、それなりの時間を阿波で過ごした後、何らかの事情で機内へ移動した(あるいは移動しなかった?)と考えることもできる。邪馬台国は最初から同じ場所にあったのではないと考えるのである。

史跡や書物の解読とは別のアプローチから興味深い事実がある。日本人の起源は縄文人と渡来人が長い年月をかけて混血して形成されたことがわかっている。そこで血液検査のDNAから由来を2020年に行われた調査がある(ただしこのサンプルにはアイヌは含まれていないそう)。各地から発掘されて古人骨のDNAも同様の結果だったと記憶しているが、渡来人のDNAをもっとも色濃く残すのは四国と畿内であることが判明した。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/

大陸からの入口にあたる九州北部や山陰ではなく、なぜ四国や畿内に多いのかは興味深いデータである。このことは渡来人が西から東へと移動しながら四国と畿内に定住した結果と読み取るのが自然だろう。

邪馬台国阿波説と関係があるかどうかはわからないが、剣山にはアーク伝説がある。鶴石亀石もあって鶴亀(つるぎ)と読めるとするもの。同様のかごめの解釈やヘブライ語の解釈も含まれるようだ。

空海が構築した巡礼のしくみ(四国八十八箇所)も大切なものを秘匿する結界という説もある。「四国」という字には「八」と「玉」が囲われている(神と王)という例えもよく耳にする。

何かを秘匿したいとすれば、その痕跡を残さないようにするが、秘匿しながらも同時に手がかりも残しておくもの。それは後世のために真実を歪曲せず伝えたいという願いでもあると思う。その痕跡をたどるには、地名の由来などをていねいにたどって後世に付いた手垢(脚色や秘匿の意図)を洗い流し、客観的に再構築する必要がある。もとの地名や神社は阿波にあったものが移転した、分祀したとの記載が移転先に残っているなど起源を明らかにしていくなかで阿波説が浮かび上がるとしている。隠されていることが事実であればそれ自体が雄弁に物語るとということ。

これは洋の東西を問わず同じだろう。推理小説ではアルセーヌ・リュパンの最高傑作「奇巌城」で高校生探偵が「Aiguille creuse」(空洞の針)の謎解きをして、その地名とそこにある城にたどり着いて謎解きができたと得意顔になっているところに、秘密を知られたくないリュパンがわざわざ研究家の名前で投稿して、暗号の書物が描かれた時代と地名がついた時代を比べてみよ、と挑発する。宿敵に材料を提供するリュパンならではの騎士道的な態度と好奇心が混ざった行動だろう。しかし、最後は高校生探偵が謎解きを完了して、リュパンの財宝と隠れ家であった奇巌城の秘密が暴かれてしまう。

それではなぜ秘匿されなければならなかったか? なぜ移動する必要があったかの2点の動機を明らかにしていく必要があるだろう。

また、 天皇即位の大嘗祭に献上される麁服(あらたえ)と呼ばれる布は大麻でできており、許可を得て厳格な管理で栽培されたものを用いている。それを調進しているのが忌部氏直系で美馬市木屋平地区に在る三木家である。麁服がなければ即位したことにならないのだが、それがなぜこの地からなのか。

このところ話題になる似非政治家や権力者は真実を隠蔽して、ディープステートや陰謀説という偽のナラティブをSNSで拡散して社会を悪意に動かそうとしている。そこにある情報が真実と思い込まないように。「見せよう」「信じ込ませよう)とする意図、力学、動機を見抜いて情報を洞察するように。邪馬台国の謎解きはそれらと違って健全で愉しいものである。

どの説にも根拠があることから、九州に上陸した渡来人の一派がその技術や知見を伝えながら土地の豪族と小競り合いをしたり融合したりしながら分派して西へ進み、大和へ帰着したその過程が、吉野ヶ里遺跡やタタラ/出雲、阿波、畿内に残されているのではないか。大和王朝としてはその正当性を主張する際に融合の歴史の消去が必要となったのではないか、などと素人なりに考えている。

amazonで入手できる本がいくつかある
邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる

2025年1月になって地形、気象、鉱物資源の観点から科学的に読み解く本が出版された。著者の越智正昭さんは邪馬壹国を神山と比定している。文献を読み解くだけでなく、0次情報にあたる著者の姿勢もすっきり感がある。
サイエンスで読み解く古代史ミステリー 最終結論 邪馬台国は阿波だった!

YouTube上で越智正昭さんの出帆記念のトークショーはこれまでのアプローチと異なるDXのプロセスをなぞっており説得力がある。
https://www.youtube.com/watch?v=T9s3O1C-i6c

そして1月には阿南市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡で世紀の発見があった。それによると、火を使った鉱物の採取が行われた国内最古の可能性があるとのこと。鉱物資源の観点(道具の開発と交易)からも読み解く必要がある。以下は徳島新聞の記事だが、この発見がいかに画期的かが理解できる。火を使った鉱物採掘は江戸時代からとされてきたが、それが弥生時代後期にまで遡ることになる。卑弥呼を統合の象徴として有力な豪族が阿波の地にあったことの裏付けになるのではないか。
https://www.topics.or.jp/articles/-/1184327

四国は全国でも渡来人のDNAが色濃く残る地域だが、その先進の技術が存在したことが明らかとなった。邪馬壹国が阿波にあったという説がさまざまな角度から合流して太い幹を形成しつつある

youtubeで見たい方は 次の動画など。なにごとも「○○でなければ」の原理主義に陥らずに愉しんでください

ごく最近、山口智子さんや 月刊ムーの編集長が徳島に来られていたよう。ここでは天石門別八倉比売神社神社編
https://www.youtube.com/watch?v=VW20WkHcdjs

現地の検証
https://www.youtube.com/watch?v=bGxc3uhj1t8

三木家のご当主との対談
https://www.youtube.com/watch?v=6VS7Vnw6o9M

緻密で客観的な考察に徹しており、八倉比売神社、白人神社、さらには剣山とユダヤまで深掘りされている
「忌部氏の謎、アマテラスのお墓、剣山には何が眠る?【阿波・淡路古代史編E】」
https://www.youtube.com/watch?v=6VYHw_in9Zk

徳島人でありながら、阿波説には距離を置いていたぼくなので、本ブログでも阿波説流布の意図はないものの、上一宮大粟神社天石門別八倉比売神社立岩神社などを紹介している。でもなぜかこれらの神社へは行きたくなる

posted by 平井 吉信 at 12:39| Comment(0) | 邪馬壹国阿波説