2025年03月08日

橘湾に面した椿泊のうしろ 通る車も人も少ないが整地された集落が点在する(阿南市)


橘湾は、那賀川の河口と四国最東端の蒲生田岬(かもだみさき)の間の内湾である。湾の南部には大小多数の島々が浮かぶ多島海となっていて、湾奧には四電の火力発電所がある。これを誘致することで工事の期間中の好景気と工事終了後も電源開発の交付金で阿南市の官民は一定期間潤ったはずである。蒲生田岬の近隣にある船瀬温泉(現・かもだ岬温泉)もそのときの産物だろう。

橘湾には打樋川、福井川、椿川などが流れ込む。もし海面が下がれば、これらの川はひとつにつながるかもしれない。椿川はシロウオ漁でも知られる椿泊湾に流れ込む小河川で、椿泊湾は海面上昇によって椿川の河道が沈んだ溺れ谷ともいえる。

橘湾の北側は那賀川の運ぶ膨大な砂がつくりだす砂浜地形が形成された。これに対して南部はおぼれ谷が形成するリアス海岸で、その突端に燧崎、蒲生田岬がある。ふたつの岬の間にあるのが椿泊湾、ここに君臨したのが阿波水軍(森家)である。

椿泊湾は、北西に燧崎(ひうちざき)の半島が北西の季節風を遮り、南は蒲生田岬の尾根が南東の風を遮り、狭い湾の水域は波がおだやかで船を停泊するのに好適。ここからお城下(徳島)へは紀伊水道の流れの緩い沿岸を伝い、大阪方面へは紀伊水道の和歌山寄りに主流がある黒潮の引き込みに乗せる。帰りは淡路島南端で反時計回りの黒潮の反転流に乗って本拠地へ戻るという航海だったのではないか。

椿泊湾の北岸は漁師町として狭い平地に家々が点在する。どうやって通過するのかと思えるほど狭い道の曲がり角が先端の椿泊小学校まで連続する。椿泊湾の北岸を椿泊集落の銀座とすると、橘湾に面した反対側は居住が少ない地区となっており、地元では「うしろ」と呼んでいると聞いたことがある。地名を見ると、橘湾南部の最深部から半島北側をたどって燧崎方面へと向かう細い道がある。その出発点に後戸という集落がある。「戸」というのは入口という意味なので、「うしろ」の入口ということになる。前置きが長くなったが、今回は椿泊の「うしろ」を訪ねることにした。意外にもこの地区を訪れるのは初めてである。

うしろには車を停めるところがほとんどない。あっても対向車のすれ違い用に確保しておくべきなので、集落へ入るトンネルの出口が広がっている場所へ停めることにした。棚田のある冬景色を海に向かって歩きだしたところ
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ほどなく海沿いに出る。海面までの高さは2メートルぐらいの低いところを道路が走る。道は狭く対抗は困難である
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ツルソバが多く自生している。可憐な花弁をつける
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水面が近い。ここから見えるのは橘湾の内側なのでいつもどこかの陸が見えている
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道沿いには竹が繁茂している。風が吹くと大きな音を立てる鹿威しとなる
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道ばたの苔の小さな群生に足をとめる。無数の集合体がひとつの植物のようだ
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湿地をたどる。元は水田だったのかもしれない
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海にたどり着く
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盆栽のような島々が浮かぶ。古墳がある島もある。水軍が本拠としているのも船を隠す場所が多いからかもしれない
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よく手入れされた一角に出た
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小さな波止がある
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相変わらず水面が近く、道の下には渚があるという感じ
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夏は木陰の渚が続くので涼しいかもしれないが、居眠りすると波にさらわれる
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人が住む集落の周囲はよく整地されている
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西日に照らされた小さな入り江
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道から降りていくと、陸続きの島のような地形があって、そこまで行こうとしたが、時間切れで次回となった。この先にはさらにB&Gがあるが、そこへ行くにはうしろの海岸沿いのルートではなく、椿泊漁協から山を越えていく道が一般的だ。椿泊も強い印象を残す集落だが、その「うしろ」もかつての漁村集落が色濃く残る地域となっている。

(関連情報)
里海のまちなみ 阿南市椿泊 漁港から阿波水軍を源流に持つ集落をたどる 序章

里海のまちなみ 阿南市椿泊 漁港から阿波水軍を源流に持つ集落をたどる 写真編

タグ:阿南市
posted by 平井 吉信 at 21:33| Comment(0) | 里海

2025年02月11日

伊座利(いざり)の自然美〜海岸性照葉樹へと風が吹く〜


伊座利地区は、陸の孤島といわれてきた。四国の最東端、蒲生田岬(かもだみさき)へ向かう途中で山を越えてさらにジグザグに下っていく。伊座利川に沿って進むと海に面した崖を目印に漁港へと導かれる。集落とまちを結ぶ道路は1本だけなので、崩れたら遮断される。さらに南には阿部(あぶ)の集落がある。ともに漁村集落である。どちらの地区も地区内の結びつきは強い。災害が起きたら助け合わないと生きていけないから。

伊座利地区も人が住める場所は限られている。伊座利川の左岸にわずかばかりの区間に住居が建ち並ぶ。車が入るのは難しいし、廃屋も点在する。そんな集落だが、外からの移住者のほうが多いという。社会から弾かれた人を受け容れて成長を促す。そしてともに生きていく。

内容を知りたい人は「いざり人」のWebサイトへ
https://izarijin.jp/

近年の伊座利は地域の活動が全国的に知られるようになっているが、今回は観光客の視線で風光明媚な場所を回りながら自然美を見ていきたい。
伊座利漁港は地中海の漁村のようなラテンの雰囲気を感じる。冬でも強い日射しは温帯モンスーンならでは
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漁港を見下ろす小高い丘にいざりカフェはある。カフェといっても魚介料理を出す店である
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さしみ定食1,000円 ジャンボエビフライ定食2,500円(といってもイセエビが出るわけではないだろう)
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さしみ定食には4種の魚。イカはアオリイカ
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食後は伊座利漁港を散策
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漁港といってもリアス海岸に波止を拡げたもので、外洋に面している感じ
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港の外(南)は砂浜と崖。遠くにある消波ブロックが漁港の砦となっているが、すでに自然の海浜地形
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陸続きの波止を見れば漁船が帰ってきたところ
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漁港のはしけ機能を持つ突堤に停めた車が光を反射する。それは一瞬現れて消える光の明滅
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漁港の北に海崖、その下は伊座利川が海に注ぐところ。地中海というかエーゲ海のような深い碧
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港内の浅瀬であるとは思えない
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この海崖を伊座利キャニオンと呼んでいる。伊座利漁港がその風格を借りてくるというか、添えるというか
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足下の海は底まで見えている。体長1.5メートル程度のウツボがいる。波止で釣りをしていた人がそれを見て餌の付いた浮きを投げるが、見える魚は釣れない。水深は2ヒロ(4メートル弱)はありそう
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アジの生き餌を港内で泳がせていた釣り人が小型のアオリイカを釣り上げた。右がアジの生き餌(かじられるアジもたまらない)
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アオリイカは美味なので多くの釣り人がねらう。釣り上げてみるみる色が変わる。イカが背後のコンクリートの色に似せているのだろう
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伊座利キャニオンを背景に白い舟が冴える。漁船の名前は弘伸丸。那賀川町にはこの船で漁獲した魚を食べさせてもらえる同名の飲食店がある https://izarijin.jp/koushinmaru/
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テナガエビがいるだろうと以前から思っていた伊座利川。この川には内水面の漁業権はないので地元の子どもがよく獲っているそうだ。水は申し分なく清澄で淀みが少ない。モクズガニやウナギもいるのではないか。この少し先で海に出会うが、川が自然のまま海に注ぐ
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伊座利川左岸はそのまま伊座利キャニオンとなっている。冬場なので渇水しているが、夏場は水が多いはず。川が海の近くで原始の姿で存在する希有な場所。この風景がもっとも好きかもしれない
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伊座利川の河口はこの先で海に注ぐ。滝でもないのに磯と河口という組み合わせが希有。伊座利キャニオンは火山活動(プレートテクトニクス)による多様な地形と温帯モンスーンを中心に多様な気候を反映した日本列島の魅力と特徴が凝縮された地形ともいえる
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画面のほとんどが水中だが、水の存在を感じさせない。海苔が繁茂し貝を宿す
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海崖を見上げる。このような地形では長居せず、すぐに立ち去ろう(落石に注意)
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伊座利川左岸の山腹にある新田八幡神社。伊座利の氏神さまとして集落を見守っている
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この石段にも青石(緑色片岩)が使われている。このあたりでは産しないので吉野川下流域から運ばれてきたのだろう
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伊座利小学校は集落の中心的存在。この学校が拠点となって集落の喜怒哀楽が編み込まれていく
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伊座利地区の西方の標高74メートルに展望台がある。そこから日和佐、海南方面を見ている
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展望台の眼下に紺碧が横たわる
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上から見る伊座利キャニオン さらに蒲生田岬へと連なるリアスの海岸線
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伊座利地区の合言葉は「なにもないけど、なにかある」。実はこの言葉は徳島県全体に言えること。

未だに県内未踏の地や集落が数え切れないほどある。それを宝と思って紹介しているのが本ブログで投稿も2000近くなっている。

特に強調したいのが、ハレとケでいう「ケ」(日常)のくらし。多い雨が森を育て、ミネラルを多く含む川が随所に流れて田畑を潤し農産物と海の生態系を育む。海はというと瀬戸内海、紀伊水道、太平洋の3海域で採れる魚介の種類の多さ。それでいて京阪神へすぐに行ける戦略性のある立地が四国東南部。

そんなことを考えていると、邪馬台国=阿波説も真実味を帯びてくる。南海トラフの脅威は多様な鉱物資源という副産物も生み出した(先日も火入れによる最古の辰砂の採取記事を紹介したところ)。「なにもないけど、なにかある」は、住む人の気付きを促すメッセージである。

海岸性照葉樹へと風が吹いた。潮騒、波状の海面、明日への光条―。ここは海部郡伊座利。
タグ:伊座利
posted by 平井 吉信 at 23:01| Comment(0) | 里海

2025年02月09日

大神子で見る冬の色


色彩とはなんだろう。色温度ならケルビン、光の波長ならナノメートル、透過光ならRGBのカラーコード、印刷物ならCMYKで。それらが同じ値のときにはだれもが同じ色を認識しているのだろうか?(そもそも同じ色を認識していることを何を持って判別するのか)

音楽の和声(コード)にも調性の個性(音符に宿るある種の雰囲気や感情)が感じられるように、季節の色もあるのではないか。その人に合う色を四季になぞらえて見出すこともある。ぼくの場合は秋。気が付くと確かにそんな色彩を選んでいる。

冬の海、冬の木々や木立、そしてそれが微妙に移ろう夕刻ならば、清少納言ならこういうかもしれに。「夕さりになりぬればなお…」

富士フイルムは半世紀以上に渡って写真を通した色を追求している。感光剤(アナログ)からセンサー(デジタル)に変わっても富士フイルムの色の探求は続いている。デジタルカメラの色彩でいえば、フジのほかにパナソニックに優位性を感じる。人の目で見ているこの場面は、キミ(デジカメ)はどう表現する?の問いかけからシャッターを押しているところもある。

冬の色を反映するのは太陽の高度、大気の透明度、太陽の軌跡(日出日没の位置)、植生のたたずまい、気温による人の感じ方の先入観などだろう。

ところは徳島市南部の大神子海岸。そこから北に突き出た大崎の半島の尾根から見える渚と紀伊水道の遠望などを色彩に注目しながら歩いてみた。

松の枝ごしに大神子海岸とそこで憩う家族
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青の影絵のようなモノトーンに近い再現。遠くの白い船が明るい
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渚の北端を見れば、砂浜に影を落とした陰影は赤みを帯び、影は青みを帯びる。夕陽に照らされて岩壁が反映する海の色と空の反映が色分けされつつ混じり合う水の表情
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風がさあっと走るとさざなみが盛り上がり、凹凸感が色彩の境界をつくる。見ていて飽きることがない
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尾根へ上がる大崎への散策路は斜めの光の色温度の温もりと冬木立のくすんだ緑がまだら模様
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光が当たる沖合(紀伊水道)は明るい藍色とすれば
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なかば逆光成分が混じる大神子海岸や越ヶ浜の内湾はくすみながら青の色彩を沈める
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西日が差し込むと光条(レンズ内の反射も含まれる)
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冬にじっとして春を待つ海岸性照葉樹の木々とその背後の海。冬の色だなと
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尾根の散策路の一角だけ陽光があたる
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紀伊水道の遠望。対岸の紀伊半島の山陰が見える
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津田の一文字波止
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大崎半島の突端から南の沿岸を見る。大神子小神子はここからは見えない。冬の夕暮れは孤独な色調
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一輪だけ岩壁に咲き残ったハマナデシコ。春の暗示ではないけれど、冬枯れに浮かぶ
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さらに日が落ちた大神子海岸の沖合は微妙な色彩の塗り絵
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車に乗り込む頃、西南の空には三日月と明るい紺碧から赤紫への階調が冬の音楽を奏でているよう
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(フジX-T5+XF16-50mmF2.8-4.8 R LM WR)

タグ:大神子
posted by 平井 吉信 at 12:30| Comment(0) | 里海

2025年01月19日

唱歌のような海 隠れ家のような場所(小神子)


「われは海の子」や「松原遠く消ゆるところ」などの唱歌のような浜辺は太平洋側よりも内湾に面した海浜の印象がある。

徳島市と小松島市の間にはほとんど人が訪れない渚、小神子(こみこ)、越ヶ浜、大神子(おおみこ)と続く。小神子は徳島市でありながら小松島市(小松島港元根井漁港)から山を越えて到達するひそやかなリゾート地。大神子はテニスコート、バーベキュー施設などもある江戸時代からの保養場所で、大勢の人で賑わう収容力がある。越ヶ浜はクルマではたどり着けず日峰山もしくは小神子や大神子から山を上がって森を抜けてようやくたどり着く隠れ渚のような場所。ぼくもたどり着くまでは山中を彷徨ったことがある。詳しくは本ブログの越ヶ浜の項で。

今回は日峰山から小神子へと。日峰山の駐車場へクルマを停めて東の山頂をめざす。この森へと上がる小径はこの散策でもっとも心弾む光景(この3枚はカメラで撮ったそのままだけど、微妙な色彩の移ろいを記録していて原版を見ると吸い込まれそうになる。フジフイルムの魔法だね)
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やがて日峰山の山頂(192メートル)へ到着。西の日の峰神社がある山頂が頂上と思っている人が多いが、実はこちら
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小松島港を中心とした小松島市街地から小松島湾を巻くように、京阪神からの海水浴客で賑わった横須松原、さらには海上自衛隊のある和田の鼻までを一望

192メートル山頂を過ぎると稜線の下りとなる。随所に展望台があり、東端の灯台まで尾根をたどると、元根井漁港へと降りる小径となる
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和田の鼻を遠くに望みつつ、小神子を見下ろす丘の上の施設(かつて喫茶店があり、その後に富士ゼロックスの保養所となっていた場所)
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途中で小神子方面へと北面を降りる小径があり、ほどなく小神子へ続く車道へと出る(左手へ降りていく)
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桃色の実がたわわになっている。マユミの木の実か
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小神子の渚は大神子と違ってクルマの置き場所が少なく、浜へ直接乗り入れる人が多い。正面へ見える海の岩は一本松と通称する。かつて松の木が目印となっていたため。現在では枯死してしまって松はない。一本松は国土地理院の地図では雉子岩と記されている
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冬の澄んだ水、薄雲をほのめかすやわらかな日射しが海をたおやかに見せる。そのおだやかさが心に静かな余韻を残す。浜には焚き火をしながらまどろむ男女、渚の岩をたどる中学生、貝拾いをする家族連れなど思い思いの時間。休日の遅い時間をゆったりと過ごす

帰路は違う小径で日峰山の尾根道へと戻る。ムラサキカタバミの大きな葉に目を留め、民家のサザンカに視線を向ける。山を上がる道からは静かな環境を求める人々の住宅や別荘が見える
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子どもの頃には小神子を見下ろす丘にあった喫茶店に連れて行ってもらい、いただいた紅茶が子ども心にも比類のないおいしさであったことを思い出す。オーナーの方には船で一本松まで連れて行ってもらったこともあった。昭和のできごとである。

(フジX-T5+XF16-50mmF2.8-4.8 R LM WR)
posted by 平井 吉信 at 22:34| Comment(0) | 里海

2025年01月03日

紺碧にたたずむ那佐湾 おだやかに暮れていってほしいと願う


2025年のWeb年賀の撮影場所はどこか?と数人からご質問をいただきました。
昨年末にご無沙汰している知人をお訪ねした際に、ご住居の近くにあるこの場所を散策し、那佐湾を見下ろす高台(愛宕山遊歩道)から入り江を写したもの。

遊遊NASAへ向かう途中で車を停める場所があり、そこから海沿いの遊歩道を北へ向いて歩いていく。最後は手倉湾/鞆奥(ともおく)漁港海浜公園へ降りていく。

日和佐の日和佐城から千羽海崖の海が見える四国のみちは必ず誰かと会うが、この場所ではあまり人を見かけない。この日は時間の関係で手倉湾までは行かず、途中で引き返したが、うららかな陽光に照らされた時間はかけがえのないひととき。みなさまと共有できればと。

ふれあいの宿 遊遊NASAは、風光明媚な海を見下ろす丘の上にある
https://uu-nasa.co.jp/
(トップページに那佐湾に面した建物の全景が上空から写されている)

第3回 四国おもてなし感激大賞の大賞を受賞されたとか
https://omotenashi-shikoku.jp/jusho2018.html

遊遊NASAの手前にあるふれあい広場
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広場のツバキまで陽光をふくんでいる。やはり県南部は暖かい
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ここはあまべの民が暮らした海陽町(旧海部町)なので海や船はテーマ
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散策路は緑が繁るが歩きにくいことはない。ただし真冬でも葉についているダニには注意(クルマに戻ったらズボンの裾をチェックして振るうと問題なし)
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冬といえども常緑の緑には階調がある
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散策路の道中で「くじら石」がある
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南面が開けると那佐湾の湾口から途中までが見える
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その紺碧に沈む深い青から手前の明るい青までの海の色がごちそう いくら食べても心の栄養になるだけ
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クルマに戻る頃には日が傾き始める
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知人宅で話が弾んでなごり惜しい帰路で眺めた那佐湾の夕暮れ
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紺碧からブルーモーメントに転じた空と海がおだやかに暮れていこうとしているが、すべての人がそうであってほしいと願った2024年の暮れのこと。


年賀の写真の再掲
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posted by 平井 吉信 at 12:41| Comment(0) | 里海

2023年10月07日

里海の記憶〜陸の孤島といわれた由岐町阿部(あぶ)地区、防災と自然の営み〜


かつて陸の孤島といわれた阿南市の那賀川中流域、蒲生田岬周辺、海部郡由岐町の阿部伊座利(あぶいざり)地区なども道路が整備されて行きやすくなった。それでも運転に慣れない人は見通しの悪い曲がりくねった海沿いの道を神経を使って運転すると疲れるかもしれない。

そこにある里海の暮らしを訪れてみたくなった。かつては「いただきさん」と呼ばれた頭に篭を載せて魚を売りに行く行商が隣の伊座利地区とともに営まれていた。少女の頃から習練を積んで成人する頃には数十sを頭に載せることもあったという。その頃の展示があるのは由岐駅の2階にあるポッポマリンである。
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阿部地区のような里海は地元の暮らしの場であり、静かに足を踏み入れることとした。すれ違う人へのあいさつは欠かさない。集落へ車を乗り入れるのは見合わせて集落を見下ろす県道の広い路肩に置く。そこから歩いて10分程度で集落の中心までたどり着ける。
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県道は想定される最大高さの津波に浸水しないとされていて、そこに向けて集落から上がる里道を随所に整備、県道沿いにはヘリポート、食糧など災害対策品を各家庭が備蓄するなど災害対策を万全に行っている。これは他の里海の集落の手本となること。
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県道から集落へ下りていく道筋の沢(東谷川)は海とそのままつながっている。
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エビやカニが生息しているのでは。きっと集落の子どもの遊び場、いまの大人もかつて遊んだ場所ではないかな。海部郡の川はどこにもダムがなく海に注ぐので自然度が高い。里海には小川が果たす役割が大きい。伊座利の伊座利川も同じく魅力的。海に出る前に川筋で足が止まってしまう。
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集落を縦横につなぐ道は漁村らしく狭隘。隣家の会話が聞こえてくるのではと思えるほど民家も隣接している。あけすけで濃密だけど山村ほど干渉しないという漁村の意思疎通が構造的に見える気がする。
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郵便局がある集落の中心部
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町立阿部小学校は2009年まで由岐中学の分校も併設されていたが、2011年に休校となった
http://www.abukou.minamicho.ed.jp/
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集落を抜けると地域の産土神である宮内神社がある。
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階段を上がりきると標高約7メートルで津波の際の避難場所にもなっている。
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境内に置かれただんじり。秋祭りでの出番が近いのだろう。
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宮内神社の前には阿部の漁港が広がっている。漁港沿いに歩いていく
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津波からの避難とは高い場所に上がること。それは墓地の裏手や集落の裏手、神社の裏手など至るところに表示されている。集落の防災意識の高さがうかがえる
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漁港をなぞるように山裾から南の浜へ出られる小径がある。崖にはハマナデシコが群生している
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驚いたのはシオギク。四国東南部の蒲生田岬から室戸岬までの海浜崖に自生するのだが、ここのは生育が良い。室戸岬より自生の条件が良いのかもしれない。花期は冬である。
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このハマヒルガオも勢いがある。5月頃が花季である。
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漁港の隙間からハマナデシコがてんこ盛りの皿鉢料理のように溢れ出す。うれしいな
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これはツルナ。葉が食用にされているが、栽培しやすいので畑に移植されることもあるようだ。アイスプラントのような食感らしい。栽培種でなく自生種である
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ハマナデシコは造花や園芸種のように見えるほどあでやかで曇り空の下の集落を照らす燭台のよう
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港の南端から鹿ノ首岬方面と岬の東側の浜が見える。この浜へは阿部集落から渚づたいには行けなさそうなので集落の南の尾根に上がって下りるようだが、その小径は荒れているかもしれない。
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由岐に戻る途中の展望台で見たおだやかな夕暮れの空と海。人々の暮らしの燭台であってほしい。
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追記
阿部地区の隣には志和岐(しわぎ)地区がある。この海浜では地元の保護活動によってナミキソウが初夏に花を咲かせる。
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2023年秋、この志和岐で県外から来られた人が地元の水産振興をねらって新たな会社を立ち上げる。年内には営業が始まると思われる。思いの込められたその企業のご発展を祈りたい。



タグ:阿南市
posted by 平井 吉信 at 12:54| Comment(0) | 里海

2023年03月18日

おだやかな木岐の集落の さらにおだやかな春の日に 


春の訪れを感じる南国の漁村には、のどかな日射しが似合う。
ここは由岐町木岐の集落。いつも海沿いの散策路を満石神社まで散策するのだけれど、きょうはそこから木岐のまちを歩いてさらに四国のみちに足を伸ばすつもり。

椿がどこでも咲いている
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港のすぐそばにある畑。潮風を浴びて健康に育つのだろうな
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木岐は小さな漁港。そこに浮かぶ小舟のたゆらいはおだやかで
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海沿いを走る県道25号線、木岐漁港は木岐川(全長1.5km)を入り江のように活用した港、集落の奧には高規格道路の日和佐道路があり、由岐I.Cから木岐まで車で5分程度
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港の堤防上も人々の通路
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港の最奧部
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木岐川の河口が港となっている どこまでが川でどこからか港(海)なのか
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おそらく県道25号が架かる橋ぐらいが境だろうね
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上流部は水が途切れた川だから
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木岐駅に向かう途中の山裾を上がると延命寺
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寺のすぐ脇をJR牟岐線が通る 
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木岐駅のプラットホームが見える
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木岐駅からみた延命寺
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木岐駅の時刻表。阿南駅から南の牟岐線にはきっと宝物がいっぱい。木岐駅は田井ノ浜臨時駅の次の停車駅だよ(ただし海水浴シーズン以外は田井ノ浜臨時駅には停車しない)
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漁港の南側を通って白浜に向かう
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港内に磯がある。自然度は高い
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対岸は満石神社
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漁港を出るとすぐに白浜がある
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お遍路さんのための白浜休憩所
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遍路道は白浜沿いに続く
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途中の王子神社
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津波の痕跡を記す
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王子神社の外に広がるのは湿地 生態系マニア(ぼくのことです)が好みそうな風景
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白浜沿いの散策は渚を左手に見ながら
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さらに海沿いを歩くと山道にさしかかる。車は通れない
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四国の道をたどる山道に入る。適当なところから渚へと降りていくと白浜からひとつ南の海岸線に出る。地名はわからない。
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この渚にも棚田か段々畑の痕跡
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かつて農村で新鮮な魚は食べられなかったので干物や塩乾物で手に入れていた。一方漁村では魚との交換以外にわずかな作付け可能な場所で畑をつくっていた。その痕跡だろう。

四国のみちに戻り、木岐のまちへと戻る。漁港と漁船と再開するとなつかしい気持ちになる
日陰となった木岐漁港(木岐川)
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木岐の漁村集落はあたたかい。海部郡という土地柄に共通する風土だろう。適度なお節介はするが干渉しない。だからかつて海部町が人口あたりもっとも自殺者が少ないまちとして全国に知られるようになったわけだ。

野田知佑さんの遊び場だった日和佐川、西日本屈指の海部川、野根川、そして渚に流れ込む里の小さな川たち。

陸の孤島、阿部伊座利の人を寄せ付けない海岸線から、志和木、由岐、木岐の渚を挟んでウミガメが上陸する大浜海岸、さらに南阿波サンラインのような無人の海崖、何度も通って熱帯魚と戯れた大砂海岸、海部川河口に広がる白砂青松大里松原、10フィートの波を持つカイフポイント、そして県境の知られざる竹ヶ島。

海も川もこの国でもっとも良き場所でありながら観光地として認知されていない静けさ。徳島は観光の魅力度が全国最下位ということがかえって誇らしい。他と比べる必要があるのだろうか?

そして木岐の集落は海部郡のなかでももっとも親密な雰囲気をたたえている。一度でも木岐駅に降りたって郵便局や漁協のあるまちなみと漁港を抜けて右へ左へと歩いてみれば、渚を見ながらのどかな道を行く地元の方々とあいさつしながら気の向くままに歩くのなら、木岐のまちなみは一生忘れられない場所になる。

車を停めたところへいったん戻り、満石神社までのいつもの散策路を行って戻る。
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石の隙間から、ハマエンドウとアツバスミレ(海岸性のマンジュリカ)が花を咲かせていた。
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この世の中はほんとうに豊かなものに満ちているね。

→ 木岐のタグ
→ 田井ノ浜のタグ
posted by 平井 吉信 at 19:58| Comment(0) | 里海

2023年02月19日

千変万化の光と海 田井ノ浜と由岐のまちにある「あしづりの丘」


徳島県東部や南部に住んでいる人なら誰でも行ったことがあるのが田井ノ浜海水浴場だろう(由岐町)。水質が良いとされる海水浴場で、いまは高規格道路の由岐I.Cを降りてすぐと行きやすくなった。夏場はJR牟岐線に田井ノ浜臨時駅が開設される。駅を降りたらそこは砂浜という立地の良さ。鉄道写真が好きな人なら絶好の撮影場所となっている。
→ 田井ノ浜のタグ
いくつかの記事
http://soratoumi2.sblo.jp/article/190183627.html
http://soratoumi2.sblo.jp/article/187504178.html
http://soratoumi2.sblo.jp/article/186278611.html

田井ノ浜 手前が田井川の河口部
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田井ノ浜は渚そのものだけでなく見どころがある。渚の北に流れ込む田井川に咲くハマボウや湿地などの生態系、渚から半島(丘)を超えた南は木岐の漁港、そしてとても落ち着ける渚の散策路がある(これらはこのブログで何度も紹介しているところ)。

今回は初めて渚の北の半島(丘)から田井ノ浜を眺めてみる。地名がわからないので紹介しにくいが、現地を訪れてみると「あしづり展望台」の標記があったのでこれに従う(足摺岬では「あしずり」なので「あしずり」の誤記ではないかとも思われるのだが。足摺とは摺り足で歩かないと危ないぐらいの意味だろう。「あしづり」だと足がぶら下がる?)

→ 電子国土を閲覧

国土地理院の地形図からは3方向からの散策路があることがわかる。田井ノ浜の駐車場に車を置いて南に向かって道路を歩き始めるとほどなく「あしづり展望台」の案内と登り口がある。
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散策路は階段で整備されていて普段着のまま来られる。この雰囲気は日和佐の四国のみちとも似ている。海岸性照葉樹の森を海を崖下に見ながら歩みを進める。
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振り返ると田井ノ浜の全景
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椿はこの時期ならどこでも
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歌碑(と思う)があるが読めない。月夜に小舟を漕ぎ出でて月がおだやかに水面に揺れるさまを歌っている?(想像&創造的意訳)
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地図で見ても距離がない。由岐のまちへ降りる分岐を通り過ぎてさらに南下すると展望台に着く(標高約50メートル)。ここで海を眺める。
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天候は曇り。その合間に薄日が射すことが希にあるという状況。でもこれがおもしろい。空と海が刻一刻と万華鏡のように遷移する。

シャッターを押して数秒後にはこの光はもうない。蒼にび色の遷移を空と海が微視的にも巨視的にも見せてくれる(魅せてくれる)。ただたたずむだけ。
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田井ノ浜の遠景。田井ノ浜臨時駅を降りたら渚という構造がわかる
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由岐漁港の突端
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由岐漁港の沖合4kmに浮かぶ箆野島(ぬのしま)
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追記
道中で見かけたシハイスミレ。花弁の色が濃いのが特徴。かれんな媚態でもう釘付けになってしまう。葉の裏が緑色でヒナスミレにも似ているが、ミドリシハイスミレと同定
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(フジX-T2+XF23mmF1.4 R、フジX-T30+XF35mmF1.4 R。準広角と標準だけで事足りる。遠景の拡大はニコンD7200+AF-S 70-200mm f/4G ED VR)



posted by 平井 吉信 at 11:51| Comment(0) | 里海

2023年02月17日

海沿いの散策 人生の黄金の時間はこんな渚に似ている(木岐)


日和佐道路(高規格道路)ができて田井ノ浜のある由岐地区はかなり行きやすくなった。由岐インターを降りて左へ曲がれば由岐のまちと由岐駅、右へ曲がれば田井ノ浜、さらに木岐の集落へと続く。

木岐には満石神社(みついしじんじゃ)というイボにきくといわれる神社がある。この神社の前の井戸の水がそうなのだというが、成分分析では有効成分は認められないというから不思議だ。

木岐の漁港から海岸沿いの小径を行く
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右手には渚が樹間に見え隠れする。緑に彩られたおだやかな水際。人生がこんな瞬間ならいいのにと思える景観
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さらに歩みを進めるとちょっとした広場に出る。満石神社はその奧にある。
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(ここまでフジX-T2+XF23mmF1.4 R)

でもきょうの物語は神社に行くまでのこの散策路である。フジの標準レンズ(XF35mmF1.4 R)1本で撮ってみた
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光が踊るというのはほんとうにそうかも
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崖と海の小径をたどる詩人になれる
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振り返れば木岐漁港
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寒い日もあるけどどこか冬と違う 三寒四温だね
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漁船が嬉嬉と漁港を出て行くのは木岐だから
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打ち寄せる波 渚の岩に海藻が揺られてはきらめく
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目と鼻の先にある満石神社に立ち寄るまでに小径と渚に釘付けになってしまう ここで弁当を食べた それ以上に良いことってある?
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そうそう 早咲きのシハイスミレが崖のひなたでくつろいでいましたよ
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春はまだかと待つ慎みもあれば 春は来たなと追いかける愉しみもある


posted by 平井 吉信 at 23:35| Comment(0) | 里海

2023年02月07日

里海のまちなみ 阿南市椿泊 漁港から阿波水軍を源流に持つ集落をたどる 写真編


前項から続く

海沿いのみちに漁港がある
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海が見えなくなると椿泊の集落が始まる DSFT6702-1.jpg

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ところどころに寺社がある 森家歴代を祀った道明寺にはおごそかな雰囲気がある
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墓所の高台から集落と海を見下ろす 椿泊は山と海のわずかな隙間に東西に細長く集落が形成されている
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郵便局があるL字クランクは運転の最難関
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この細い道が手前で90度に曲がっている
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ここを抜けると左手に長い階段を持つ神社が見えてくる。阿波水軍の長、森家の先祖佐田九郎兵衛を祀った佐田神社
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時計台を持つ入口
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長い階段を上がる
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椿泊小学校が見えてくると終点が近づく 相変わらず細い道が直角に曲がる
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小学校を過ぎると燧崎への道は堤防直下 石垣に植物が飾られている
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先端部の突堤に来てしまった
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燧崎への散策路 崖崩れに注意しながら灯台へと向かう
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灯台直下の竜宮神社
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灯台から眺める東の海 正面は舞子島 ここに壮麗な古墳をつくった豪族はやはり海を支配した氏姓だろう
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ところでなぜこの地に阿波水軍の長が拠点としたのか。ぼくは歴史書を繙いていないし水軍に詳しいわけではないが、地政学的に推察してみた。

ここは四国の東端蒲生田岬の近くである。江戸や土佐から大阪や瀬戸内海、あるいは阿波をめざす船は必ず見つけられる。晴れた日には対岸の和歌山の建物を視力の良い人なら見分けられるが、紀伊水道を横切る船団はさらに識別しやすい。夜陰に紛れて航行するには座礁の危険がある。なにより友ヶ島水道や鳴門海峡を案内人なしに夜間に通過できるとは思えない。以上は防御や見張りの観点からの利点である。

次に阿波水軍が出航することを考えてみる。徳島や大阪には黒潮に乗って出航すればたどり着きやすい。江戸に向かうにも徳島や鳴門から出るよりは距離が短くなる。背後に山を従えているので冬の季節風(北西)をさえぎることができ、時化の際には椿泊湾の奧へ待避できる。橘湾の内湾性の魚と黒潮流れる外洋性の魚が狙える。ワカメ、アラメ、アンロクといった海藻も採れる。

徳島にいる藩主からの招集には船運でただちに駆けつけられるが、陸路からは適度な距離を置くことができる。これは窮屈でない立ち位置ではなかろうか。以上が水軍を椿泊に置く利点として考えてみたのだがどうだろう。

そんなことを考えながら来た道を戻っていると夕暮れとなった。
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椿泊の海は西方浄土の光景を鎮めるように湾の奥に残照。
posted by 平井 吉信 at 22:01| Comment(2) | 里海

2023年02月05日

里海のまちなみ 阿南市椿泊 漁港から阿波水軍を源流に持つ集落をたどる 序章


阿南市の橘湾は阿波の松島にも例えられる多島海である。
橘湾の北には那賀川、桑野川が流れ込み、淡島海岸、北の脇といった海浜を形成する。
湾の最奧部には橘のまちと橘港がある。
橘港は小勝島を控えた天然の良港である。その小勝島には四国電力の石炭火力発電所が2000年7月から発電を開始。この火電が阿南市の経済を潤したのは間違いない(電源立地地域対策交付金)。

橘湾の内湾部には打樋(うてび)川、福井川、椿川が流れ込み、その下流部が海進を受けて入り江を形成。いわゆる溺れ谷、リアス式海岸(現在ではリアス海岸)である。

阿南市の人口密集地を持ち、湾の奧では停滞することから橘湾、椿泊湾はときおり赤潮が発生する。ぼくの認識では蒲生田岬を境に水質が変化すると考えている。

徳島県と和歌山県の間に広がる紀伊水道は、幅約50km、最深部で約70メートル。淡路島との境目にある鳴門海峡、友ヶ島水道では潮の流れが海底が浸食されて水深が紀伊水道より深くなる。前後1kmの川幅を持つ吉野川が岩津橋で150メートルに狭まることで水深は30メートルを超える。このように狭い場所では水を流す断面を確保するため深くなる(河床が低下)。

紀伊水道は浅い海で瀬戸内海と太平洋の接点でもあり、徳島側からも和歌山側からも川の土砂やミネラルが供給されている。紀伊水道は徳島側でやや浅く、特に吉野川、勝浦川、那賀川の吐き出す砂地とミネラルが名産のアシアカエビ(クマエビ)、アカエビ、ハモを育んでいる。

おそらくは黒潮が南南西(時計の7時の方向)から流れ込むこと、蒲生田岬が通せんぼするかたちで張り出していることなどから紀伊水道の和歌山側を黒潮が多く通過するので深くなるのだろう。黒潮の一部は紀淡海峡、鳴門海峡を通過して大阪湾、瀬戸内海へと流入するが、ほとんどは紀伊水道内で反時計回りの流れを形成するのではないか(外へ向かう流れを蒲生田岬が囲い込む)。

蒲生田岬と日御碕を結ぶ線が外洋との境目である。和歌山側はこのラインより黒潮が北上して優勢となるが、淡路島に当たって紀伊水道内で反転流が起こり蒲生田岬で居座る。従って徳島側は内湾性の水といえる。そこにあるのが橘湾、椿泊湾であるから外の水と入れ替わりにくい構造がある。

海底には産業要因によるヘドロの堆積が懸念されるし、栄養塩の供給による有害プランクトンの発生が起こりやすい。見た目にも透明度の高い海の印象はない。水質基準では、椿泊湾はA類型(CODの基準値2mg/l)の海域である。同じ基準値であっても海部郡内の湾と比べて透明度が低い。生活排水の負荷も高いことからCODも海部郡の湾岸より高いだろう。

しかしこのことが漁業にマイナスかといえばそうとばかりは言い切れない。ノリや海藻にはある程度の栄養塩が必要とされる。海に栄養が多いと海藻が増え魚の餌となるプランクトンも増え(行きすぎると赤潮になるが)その結果漁獲高も増えるという関係がある。
ところが近年の人口減少や公害対策、家庭排水対策(合併浄化槽への更新推進)などで栄養塩は少なくなった(海は浄化された)。漁業関係者によっては沖合へ糞尿を計画的に投棄するよう求める意見もあると聴く。

それはともかく、藻場の減少とヘドロの堆積は生態系(ひいては漁業)に悪影響を与える。藻場の減少には貧栄養化よりも温暖化に伴う水温の上昇が大きいのではないか。山では冬を越せなかったシカなどの個体が温暖化で生存率が上がって増加したため、草木はことごとく獣害にあって消滅している。海では水温が上がることで磯にいつく魚種や数が増えたこと、特に藻場減少の犯人としてアイゴを上げる漁師は多い。

アイゴは徳島ではアイノバリとも呼んで背びれに毒を持つ磯魚でその独特の臭みを嫌って流通しにくい魚である(店頭に並ぶアイゴは背びれを切除している。死んでも毒は消えないので注意。ただし肉には毒はない)。
父はアイゴが好きで、お前も来いと何度か同行したのがが徳島の最南端の那佐湾の波止。当時の国道55号線は蛇行しており一部は生活道として集落の間をすり抜けながらであったので那佐湾は世界の果てにあるよう。車に乗せられて車酔いするなどうんざりしたものだが、高校になると自転車で自分で来るようになったから不思議だ。海部川沿いの国道193号線も舗装されていない区間があった。

アイゴ釣りは繊細な釣りだ。小さなアミエビを針に付けて岸壁からウキ釣りで狙う。大きな型はなく20センチ未満。釣れると長靴で踏んで針をはずし、手袋をしてクーラーに入れる。食べてみて磯臭いと思ったことはなく、徳島の県南部ではウツボやヒメチ、カゴカマスなどとともに干物もよく見かける。
→ 徳島出身のぼうずコンニャクさんのアイゴの記事

海藻ではわかめが徳島の名産である。鳴門わかめの定義は以下のようになっている。

本県と香川県との県境から鳴門海峡までの播磨灘沿岸及び鳴門海峡から蒲生田岬までの紀伊水道沿岸で収穫され、県内に水揚げされたわかめ(以下「鳴門わかめ」という。)をいう。

ということで椿泊で水揚げされたわかめも鳴門わかめとして売られている。

もう一度陸地へ話を戻す。橘港を外に出ると椿泊の半島状の地形がリアス式海岸となって地形が一変する。その先端には燧崎と灯台がある。阿波水軍ゆかりの地区で漁村のまちなみで有名である。

燧崎の沖合800メートルには舞子島があり、絶壁に囲まれた無人の島に6世紀末から7世紀初頭と推察される古墳群があって注目される。なぜこんな場所に?との謎が深まるが、海にゆかりの豪族が存在したのではないか。

椿泊のまちは椿泊湾の北岸の山が迫る狭い場所にいくつかの漁港を従えて東西に伸びる集落である。目の前には椿泊湾、湾の対岸にはリゾート気分あふれるかもだ岬温泉、さらに四国の東端、蒲生田岬がある。

壮大な海の概観のあと、いよいよ人の暮らしに入っていく。今回は橘湾の奥座敷といえる椿泊(つばきどまり)の地区を見ていく。この地区の魅力を教えていただいたのは県南部にお住まいでエリアを隅々まで足跡を残している和那佐彦さんである。事前に情報をいただいて地区に入っている。

椿泊地区といえば、ほとんど足を踏み入れたことがない人が多い。その理由は狭い道路である。椿泊のまちなみを見て椿泊の漁港や椿泊小学校、さらには先端の燧崎まで足を伸ばそうとしたら逃げ道のない路地を運転する必要がある。

漁港が連なり漁協があり民間の水産会社がある椿泊は漁業のまちである。竹内水産のシラスは県内ではどこのスーパーでも入手できる。わかめも比較的良質のものを産する。

地元の人はまだいい。慣れているので車がどこにさしかかるとどれだけハンドルを切るかを身体で覚えているし、すれ違いができそうにないところですれ違うコツを知っているから。

でも地区の外からの訪問者が集落に車を入れるのは止めたほうがいい。椿泊漁協まではトラックでも入れるが、そこから先、竹内水産から奧へは軽自動車でも狭いと感じる。なにせ手を伸ばせば(伸ばさなくても)家屋や壁が車のすぐに迫るのだから。道を知り尽くし車幅感覚を1センチで見切れる人であれば、全幅1.7メートル、全長4.3メートルまでが限度だろう(数カ所あるL字のクランクでは全長もきいてくる。消防車、宅配便、引っ越しの車、救急車などはどのように入っていくのだろう?)

以上のことを知ったうえで漁協に行くまでの十分に広く地元に邪魔にならないと思われる場所に車を置いていく。すると先端の燧崎まで4〜5kmの道程でほどよい散歩コースとなる。今回はこのコースで椿泊の集落を見ながら燧崎まで行くことにする。半島の南側、椿泊湾に面したルートである。ちなみに半島の北側のリアス式海岸の地区を地元では「うしろ」と呼んでいるらしい。それでは行ってみよう。





タグ:阿南市
posted by 平井 吉信 at 00:45| Comment(0) | 里海

2023年01月25日

忘れられた里海の記憶 小神子〜越ヶ浜〜大神子への小みち〜その4 越ヶ浜の集落の痕跡を想像する


その3から続く

日峰山、小神子、越ヶ浜、大神子への経路を含む山域全体を理解できる地図を作成してみた。

赤線…日峰山山頂から北東へ延びる尾根筋から大神子へ降りる踏み跡
赤線…日峰山山頂から北東へ延びる尾根筋から越ヶ浜へ降りる踏み跡
赤線…遊歩道のもっとも下がった地点から沢沿いに越ヶ浜へ向かう踏み跡
桃色……遊歩道(阿波の道・讃岐の道・伊予の道・土佐の道をつなぐ階段の道)
緑…小神子と日峰山から灯台への尾根筋からのトラバース道(遊歩道/越ヶ浜方面)
空色…日峰山山頂から灯台へ向かう尾根筋の散策路(展望所や石像あり)
オレンジ破線…小神子から大神子までのトラバース道がかつて存在した可能性(わずかな痕跡あり)
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(国土地理院電子国土から切り出した地図に平井吉信が書き込み)

国土地理院地形図で描かれているもう1本の遊歩道を横切るトラバース道は廃道(道の痕跡がわずかに入口にあるのみ)である。地理院の地図にも誤りはあるし、かつての地形や地勢が変化してもそのまま残されていることがある。

けれどここに何らかの人為的な痕跡(家屋、田畑など)があったなら、そこから東の山裾と沢をなぞるように海へ出るルートがあった可能性は想定できる。地形図の点線はかつての名残で現在は痕跡を見つけるのが困難となっている

それではここにあった人為的な痕跡とはなんだろうか。真ん中の沢沿いに平坦を感じる地形があり、遊歩道から外れて足を踏み入れてみると石垣が沢と直角に連続していることを確認。見た目は砂防ダム(コンクリートではなく石垣だが)である。
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そこでこの施設(工事)は何のためにあったかを考えていくこととする。見た目で明らかなように自然が形成したものではなく人の手によるものである。


(1)沢筋にあることから砂防の床止め工
床止め工とは砂防ダムのようなものでコンクリートを使わない時代に石積みで行ったと想定。その目的は下流や護岸を守る治水にある。
ところが下流は越ヶ浜であるが、その手前に湿地(荒れ地)がある。3つの沢を集める湿潤(家がじめじめしてカビが生えてたまらないだろう)で海風をまともに受ける場所に家屋があったとは考えにくい。よって治水の床止めではない。普段は水はわずかしか流れない沢でも大水時には一変するものだが、所詮は集水域(流域)が小さいので治水目的ではない。

(2)棚田もしくは段々畑
沢筋といってもこの場所は涸れ沢であり、棚田(段々畑)の跡ではないか。というのも「平坦を感じる場所」と書いたように、もともとはある程度の平坦な場所が崩落した土砂で埋まったのではないかと考えた。

20年以上前にはじめて小神子からのトラバース道をたどったとき、確かに廃屋(作業小屋かもしれない)があった。それがこの真ん中の沢沿い(★印付近)ではなかったかと記憶している。それが近年はまったく見かけなくなった。

その理由としてこの沢筋で崩落があったと記憶している。その崩落で廃屋が流されたが埋まったか。いずれにしてもそのときの土砂が棚田(段々畑)の痕跡を埋めてしまったのではないか。
ところがそれから年月が経ち、沢の澪筋を水が流れて堆積した土砂の一部を流したとすれば、このような痕跡となるのではないか。廃屋比定地の周辺でやはり人為的な地形と石積みがある。
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ここからはさらに不確かな推論となる。小神子地区には水利が良くないためか水田がない。そこで水の得やすいこの場所で棚田をつくって集落の食糧としたのではないか。そのときの農機具の置き場所(納屋)、作業小屋、もしくは人が住んでいた可能性も捨てきれず、なんらかの建物があったのではないか。ぼくが二十数年前に見た廃屋はそれではないか。

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徳島市と小松島市から近いのに無人の渚である越ヶ浜とその周辺はまったく忘れ去られていたが、21世紀になって遊歩道ができて歩きによる接近ができるようになった。

かつて徳島市から小松島市にかけての沖合には地震で沈んだ島(お亀千軒)があるといわれる。昭和の時代には、鳥居が沈んでいるといって海中の探索をする人たちがいた。父は根井鼻を通り魔と呼んでいた。

大神子は病院やテニスコート、バーベキュー場、フィールドアスレチックがある静かな保養所。かつて徳島藩蜂須賀家の保養所が勝浦川河口南岸にあったという(いまのスーパー銭湯のあたりか)。

越ヶ浜はこのブログで探索したとおりかつての人為的な痕跡はあるけれども現在では無人の渚。

小神子は静かな里海の集落で集落を見下ろす丘には、海を眺められるレストラン、やがては一部上場企業の保養所に変わり、いまではそれもなくなって廃れてしまった。

歴史がどうであれ里海の記憶はここにあったのであり、(地権者のご理解もあって)21世紀の私たちが立ち寄れる場所となっている。そのことを記しておきたい。
posted by 平井 吉信 at 22:12| Comment(0) | 里海

忘れられた里海の記憶 小神子〜越ヶ浜〜大神子への小みち〜その3 日峰山山頂〜灯台〜小神子トラバース道へ

その2からの続き

数日掛けてこのエリアの探索により、これまでわからなかった地形や踏み跡を把握することができた。まちの近くにこんな場所があると改めて良さを確認できた。

今回は日峰山山頂から灯台までの尾根をたどりながら、灯台周辺の展望を愉しんだあと、再び尾根を戻る途中で小神子へのトラバース道へと降りていく道をたどる。トラバース道は越ヶ浜へも通じる遊歩道と交わるので、越ヶ浜を見て遊歩道から尾根へ戻る道程。歩けば1時間少々かもしれないけれど、そこはゆっくり歩いてみたら?

この散策路は人とすれ違うことが多い人気のみち。山頂からは急に下るが(帰りは登り返す)ほどなくなだらかな椿の咲く尾根筋となる。
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ツワブキらしい葉と落ちた椿花
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休憩所を左に降りていくと菱形に一周する遊歩道(阿波の道→讃岐の道→伊予の道→土佐の道)へ。右は灯台へと伸びる尾根道。まずは灯台へ。小神子からのトラバース道は阿波の道と讃岐の道の間と、伊予の道と土佐の道の間をつないでいる短絡路ともいえる
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灯台に向かう尾根
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ゆるやかな起伏を灯台まで向かう。灯台は空に映える。このまま元根井漁港へ降りていけるのだが、きょうは小神子へのトラバース道をたどるのでここで引き返す
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子どもの頃おいしい紅茶をいただいた喫茶店/レストランは追憶の彼方に
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引き返すとまもなく右へ降りていく道がある。これが小神子の集落上部から派生するトラバース道と合流する
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尾根から北へトラバースしながら下る途は小神子の集落の上部からのトラバース道と出会いそのまま遊歩道/越ヶ浜方面へと水平移動する
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小神子の集落に近いせいか竹林が茂る。イノシシの寝床があるとしたらこんな場所だろうが、痕跡は見いだせない
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岩を切り拓いた場所
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椿の季節 落ちた花と芽を出した若木 通る人のほとんどない道に生命力のやりとり
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小神子からのトラバース道は越ヶ浜へと降りられる遊歩道(阿波の道と讃岐の道の間)に出る
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讃岐のみちをいったん降りて越ヶ浜をめざす。道ばたに東屋がある
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posted by 平井 吉信 at 00:00| Comment(0) | 里海

2023年01月14日

忘れられた里海の記憶 小神子〜越ヶ浜〜大神子への小みち〜その2 踏み跡をたどる〜

その1から続く

GPSを持っていないので紙とシルバコンパスを道具に、実際に歩いて地形観察を行いながら記したものである。小学生の頃から国土地理院の2.5万と5万を集めていた地図マニアなのでGPSはなくても散策の実用性には問題ないと考えている。

コース全体は低山の海岸性の明るい照葉樹の森が主役で人工林(植林)はほとんどない。傾斜の強い部分と平坦な部分、岩の露頭が現れて充実感がある。ところどころに海(紀伊水道、大神子、越ヶ浜)が眺められる場所があり、それらも地図に記しておいた。標高はカシオのプロトレックで読み取った値を日峰山山頂での実測値から補正を行って求めたもの。なお、写真は2023年1月上旬の数日間の記録をまとめたもので時刻や天気は異なる点にご留意。
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(電子国土のデータに平井吉信が追記、加工)

日峰山山頂(191メートル)は山頂直下駐車場から徒歩5分にある。駐車場からだと汗もかかない登山
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今年初のスミレ(タチツボスミレ)
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山頂から東の灯台へ向けて尾根沿いを下っていく。道中では仏像が随所に配置されていてミニ八十八ヶ所の雰囲気
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小松島湾と市街地を見下ろす「みなと展望台」を過ぎてほどなく展望所がある。その手前で海に降りる階段の遊歩道がある。菱形のコースは阿波の道、讃岐の道、伊予の道、土佐の道と名付けられている。
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現地の看板。水平に延びるのが日峰山の尾根の散策路。菱形が遊歩道。その真ん中を突っ切るのがトラバース道
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遊歩道の阿波の道と讃岐の道の境に小神子からのトラバース道が接続する
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小神子から遊歩道までのトラバース道は比較的歩かれている雰囲気。ただし夏場は蜘蛛の巣やら虫に悩まされそう
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小神子からのトラバース道と遊歩道の合流。このまま奧へ遊歩道を進むとほどなく遊歩道と分かれてまっすぐに進むトラバース道が現れる(次写真)
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阿波の道から讃岐の道へのつなぎ目に竹に囲まれたトラバース道がある。遊歩道は下へ下って伊予の道(越ヶ浜)方面へと向かうがトラバースはそのまま竹藪を直進する
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遊歩道(讃岐の道)へ降りずにトラバース道を行くとこんな竹藪の小径
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トラバース道が沢を横切るあたりで崩落の痕跡
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トラバース道の上手に人工的な段差。棚田か集落の痕跡か。二十数年前に廃屋を見たのはこの沢がトラバース道を横切る付近ではなかったか?
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トラバース道は再び西の遊歩道と出会う。上へ行けば土佐の道経由で日峰山尾根筋の散策路へと戻る。下へは伊予の道経由でもっとも高度を下げて反転して登るのが讃岐の道。さらに阿波の道をたどって日峰山尾根に戻る。遊歩道を横切るトラバース道を進んでみたが、この先で崩落したのか消滅。おそらくは大神子方面へ向かうトラバースとなっていたのではと推測
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遊歩道がもっとも下に降りた場所。ここから沢沿いに渚(越ヶ浜)へと向かう
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沢を渡り左岸を行くと荒れ地に出る。沢は荒れ地(湿地)へとしみこんで海へは通じていない
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沢を再びわたって山沿いを行くと渚(越ヶ浜)に出る
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小神子から越ヶ浜まで海伝いに行くことは危険
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越ヶ浜の真ん中あたりで西南西へ上がっていくルート。紀伊水道展望所がある尾根筋へと向かう
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越ヶ浜の夕暮れ
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少し上がって海側が開けた場所で越ヶ浜をもっとも近くに見られる。浜の北端は見られないが、真ん中から南端が手に取るように見られる。季節の良い時期にここでおにぎりを食べたら気持ちいいだろう
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赤テープを目印に尾根沿いに高度を上げていく。照葉樹の森を快適に歩ける
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途中で大神子方面への分岐がある(上へと上がる際は右へ)。この場所を左(小神子方面)へ探りを入れるとトラバース道の名残を発見。
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尾根筋の上のほうに紀伊水道展望所と名付けられたヤカンのある伐採地がある。
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この場所へは日峰山山頂直下の駐車場から歩いてすぐの場所である。展望所直下に越ヶ浜が見える。距離が相当ありそうだが、展望所のある尾根からの下りでは半時間程度の散策である。
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尾根をさらに下ると第二展望所がある。
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第二展望所からはやや近づいて見える。この場所は崖の上にあるので足下に注意
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大神子から張り出す大崎
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ここから北東へ大神子へ向かって降りていく。急坂なのでロープがあるが、三点支持を心がければ特にロープを掴まなくても可能
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急坂が終わると平坦な開けた地形となる。越ヶ浜から日峰山北東尾根に上がる道から右へトラバースする道と合流する。大きな岩場がある。ここが第二展望所の直下と推察する。
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大神子へ向かって降りていく道で一度小さな丘を登り返す。そこに東側が開けて小神子方面が見える。天然のベンチが設けられている。
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あとは北北東へ向かって降りていくと大神子南端の岩場へと出られる。降りるところにロープがあるが、ここも特に危険な箇所ではない。万一滑り落ちても大けがをするような場所ではない。降りたところが小さな石ころの渚となっている。大神子海岸はまだ岩を超えていくことになる
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紀伊水道展望所から見る大神子と大崎
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日の峰神社の夕暮れ
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散策路を通して自然度が高い里山/里海を体感できる。公有地、民有地を問わず、自然破壊、ゴミ放置は行わないでこの土地を静かに訪れて里海の記憶を追体験することは価値がある。
なお、今年度になって小松島市内では市街地にイノシシが出没して噛まれるなどの被害が出ている。けれどこの山域ではイノシシの本通し(けもの道)、アシ(痕跡)は見られなかった。
生態系としては良好に見受けられるが、都市に囲まれた狭い山域ゆえ生息できる個体数に限りがあるのだろう。モグラの痕跡は多く見られたし、猿の目撃例はあるようだ。カラスとトンビはよく見かけるし、野鳥の好きな方は探す楽しみがあるのではと推察。
日峰山一帯は都市の近くで味わえる里山の魅力を見せてくれる山域である。
posted by 平井 吉信 at 15:27| Comment(0) | 里海

忘れられた里海の記憶 小神子〜越ヶ浜〜大神子への小みち〜その1 序章〜


県都の徳島市から小松島市にかけては大神子小神子(おおみここみこ)の名で知られる海岸がある。北から南へ徳島市の勝浦川河口から半島となった大崎地区を回り込むと大神子海岸、いくつかの渚を経て小神子海岸、小神子からは根井鼻をまわると元根井漁港と小松島港がある。
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(国土地理院「電子国土」から引用した地図を加工)

大神子も小神子も行政区域では徳島市大原町である。大神子は徳島市からのみ、小神子は小松島市からのみアクセスできる。大神子も小神子も山を超えてたどり着く行き止まりの地区で、大神子と小神子の間には車道はなく無人の渚があるのみ。

小神子と大神子の間は徒歩でたどる人も希な場所である。ぼくはかつて小神子から山伝いに奧へと延びるトラバース道を見つけてこの方面を「奧小神子」と呼んでいる。
奧小神子は奥飛騨、奥道後と同様に地域を表すもので地名ではない。本ブログでも「越ヶ浜」が正しいとの指摘をいただいており、その名称が適切と思われる。越ヶ浜の地名は国土地理院の地図に記載はなく、大原町の住所一覧にもないが、町名の記載がないのはよくあること(ぼくの生まれた町の名も地図にも郵便住所にも載っていない)。

子どもの頃から小神子はよく遊びに行った。元根井漁港から山ひとつ超えて降りていく(自転車では行きも帰りも汗をかく。特に下りは注意)と小神子の渚に出る。この地区には別荘があり、昔からの住人のほか、閑静な住処を求める人たちが移り住んでいる。
小神子を見下ろす丘は小松島湾と港が見える丘でもあり、かつてここにはレストラン(喫茶店)が営まれていた。祖父の友人だそうで、ぼくも何度か連れて行ってもらえた。ここでいただいた紅茶がとびきりおいしかったことを鮮明に覚えている。

いつの頃からかレストランは閉鎖され、この土地を買い取った富士ゼロックス社が社員向けの福利厚生施設(社員専用の保養所)に改装して活用していた。一般公開はされていないが、勝浦川についての勉強会を社員向けにやって欲しいとのご要望をいただいて講師として訪問したことがある。居心地の良い施設だったとの記憶がある。その富士ゼロックス社も近年になって資産売却の候補となって手放された。いまは誰が所有しているのかわからないが、娯楽施設があるようである。

施設の直下には岩礁が複雑に入り込む根井鼻(ねいのはな)があり、親父からは行ってはならないと釘をさされていた。父はこの場所を「通り魔」と呼んでいた。これが一般的な名称なのかどうかは不明。子どもが行くのは危ない場所ということでは確かに頷ける。岩伝いにたどっていく途中で滑落は大いにあり得るが、子どもの冒険心をかきたてる場所でもあり、ぼくもこっそりと通り魔の岩場を訪れたことがある。小神子の沖合には松が生えた岩があり、一本松と呼んでいた。レストランのオーナーの方に誘われた祖父とともに小舟で一本松まで来たことがある。風呂屋のタイル絵になりそうな風景である。国土地理院の地図では一本松は雉子岩と記されている。

峠を越えて小神子に降りる途中から北へ向かう山道を見つけて歩いた。山の中腹をトラバースするその小径は集落を俯瞰しながら北へと続いており、それをたどっていくと廃屋があった記憶がある。その辺りで日峰山からの沢に遭遇し、沢を下っていくと湿地(荒れ地)に出たと記憶している。国土地理院の1/25000でも荒れ地の標記のある場所の先には海があるが、荒れ地には背丈より高い藪が生い茂り、潮騒は聞こえども波間を見ることはできなかった。この体験は二十年ぐらい前のことであり、その渚が越ヶ浜とわかったのは近年のことである。

その後、日峰山の192メートルの山頂から東へ向かって尾根沿いに延びる散策路から北斜面を降りる遊歩道が整備された。尾根から降りていくものの渚へは行かず、菱形のように折り返す。その四辺形には阿波、讃岐、伊予、土佐にちなんだ名前が付けられている。

〔参考〕日峯大神子広域公園(公益財団法人徳島県建設技術センター)
http://www.toku-eta.or.jp/park/h_sogo/
→ この地区の散策路は平成15年)2003年)以降に順次整備されたと記載があるので、ぼくが最初に小神子からのトラバース道をたどった時点(おそらく2000年前後)では散策路(遊歩道ミニ四国八十八ヶ所箇所と記されている)はなかったことが確認された。
http://www.toku-eta.or.jp/park/h_map/
→ この地図には小神子方面からの散策路が記されている。ここに記されている道は行政が整備したものだが、今回ぼくがたどる道は古くから(もしくは近年になって)この道を整備された民間(おそらくは地権者)によるものである。小神子の北に位置する海岸は「越ヶ浜」と記されている。
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越ヶ浜に人は住んでいない。この荒れ地は沢の水が集まる湿地になっており、もしかしてかつて田んぼがあったのではないかとも想像する。小神子から延びるトラバース道から沢へ降りるあたりで廃屋を見た記憶があるが、いまは廃屋も見当たらない。いずれにしても日峰山を南西にひかえて紀伊水道を臨むこの地区(越ヶ浜)へは小神子から入るのだ。

日峰山についても記しておこう。国土地理院では日峰山ではなく芝山と記されている。しかし小松島市民でも芝山と呼ぶ人はほとんどいない。かつて四万十川を国(建設省)は渡川と名付けていたが地元では誰もそう呼んでいなかった。官製の地名にはこのようなことはよくある。

日峰神社がある場所が日峰山の山頂と思っている人も少なくない。ここの標高は165mである。そこから東にはさらに高いピーク(191.4m)があり、ここが日峰山の山頂である。
この山頂の直下にも駐車場があり、車と徒歩で容易に山頂にたどりつける。この山頂近くに紀伊水道を見下ろす展望所が近年になって整備され(紀伊水道展望所と名付けられているが民間の有志が開かれたものと推察)、ここを拠点に越ヶ浜や大神子へ歩き始めることとする。

この一帯を整備された方は地権者もしくは地権者の了解を得た有志かもしれない。いずれにしてもこの場所に愛着を持って大切にしておられることが伝わってくる。そのお気持ちを尊重して生態系を毀損したりゴミを捨てることなく歩きたい。

この正月はコロナの猛威を受けて外出は控えた。その代わり、この山域の踏み跡をたどって地形図に落とし込んでみるのを課題に設定した。次項からはそれを具体的に記してみよう。

posted by 平井 吉信 at 15:04| Comment(0) | 里海

2022年07月13日

田井川(由岐町)にハマボウを見に行ったけどまだ咲いていなかった 雨も降ってきた いとおかし


いつもハマボウが咲く田井川沿いの河畔の道だけど、今年は一輪も咲いていない
でもここには濃密な生態系の営みがあるので傘を差して散策している
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葉の造形が趣がある 清少納言ならいとおかし
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マングローブのような地形があって雨の波紋が浮かび上がるいとおかし
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アカテガニが木登りしている。垂直の幹で決して倒れている樹木ではない。蟹の木登りいとおかし
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マングローブの密林に雨がしとしといとおかし
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いつもの弁当変わり映えなくいとおかし
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追記
町名が違うとのご指摘をいただきました。現在は美波町ですが、地元で美波町といってもわかりにくいので旧の由岐町で表記しています。わかりやすく記述するには「美波町旧由岐町田井ノ浜」と書いたほうが良いかもしれません。よけいわかりにくいいとおかし。



タグ:田井ノ浜
posted by 平井 吉信 at 23:34| Comment(0) | 里海

2022年04月15日

由岐のまちなみと海を見下ろすときのゆりかご(貝谷峠のブランコ)


遍路道は峠を越えていく。阿南市福井町貝谷と由岐町田井とを結ぶひとのみち。
途中にある峠からさらに海を見下ろす台地にブランコが地元有志のみなさんが設置された。

海を見下ろすブランコといえば同じ海部郡で牟岐町の出羽島を思い出す。
→ 出羽島 アートが島の非日常が人々を結びつける

由岐I.C近くから案内板に従って峠をめざす
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竹林に覆われた遍路道、途中から雑木が混じるようになる
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ほどなく松坂峠にさしかかる。展望はない。仏像と石碑がある。
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ここから貝谷峠まで700メートルとある。
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雑木林を抜けていくと三叉路に出る。開けたほうへ行くと海を見下ろす台地に出られる。
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ブランコは2本の木と金属ポールの補強を土台にしている
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海に向かって飛び出していけば、近くに由岐の漁師町と田井ノ浜のある集落に近づいていく。
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posted by 平井 吉信 at 20:20| Comment(0) | 里海

2022年01月17日

海が見える丘 大神子の大崎半島から日峰山と越ヶ浜を見る


日峰山から見た大神子と大崎半島であった前回と逆で、大神子の大崎半島から日峰山と越ヶ浜を見る。

徳島市と小松島市に挟まれた海域は静かな入江や砂浜と海崖が連続する海域で
勝浦川が運ぶ栄養で磯釣りも期待できる。
勝浦川の源流域はブナの森で知られる高丸山や雲早山がある。
そのミネラルが運ばれてくる。

徳島市側から見ると勝浦川河口、大崎半島、大神子海岸、越ヶ浜、雉子岩、小神子、根井鼻、小松島港と続く。
途中の根井鼻は海崖なので陸地から接近することになるが、岩の屋根筋を通る場所がある。
親父はこの一体を「通り魔」と呼んで近づくなと言っていた。
子どもには危ない場所である。足を滑らせたら終わりであるが、こっそり出かけていた。

小神子は小さな渚だが、沖に雉子岩がある。親父は「一本松」と呼んでいた。
目印となる松の木が生えていたからである。
小神子のなかほどに渚から突き出た磯があってここで波を見るのは楽しみ。
小神子は小松島港の北から峠を越えて下っていくしか道はない静かな場所。
昔ながらの漁師の集落と静かな環境を愛でる人たちが住んでいる。
「我は海の子」という唱歌のような渚である。

かつて小神子と小松島港を見下ろす丘の上に喫茶店があった。
祖父に連れられて来たこの店で飲んだ紅茶のおいしかったことを覚えている。
良い茶葉を使って適切に淹れられたお茶の風味が小学生の心を打ったのだろう。
(ぼくは決してグルメではないけれど、子どもの頃から素材のおいしさには感度があったように思う)

喫茶店の経営者は祖父の知人であったと記憶している。
いつだったか小松島港から船を出して通り魔の沖を回って小神子に抜けて一本松付近まで接近したことがある。港を出て走っているとうねりを感じて外洋と実感した。確かボウゼを釣って港へ帰った子どもの頃の記憶がかすかにある。

海が見える丘にあった喫茶店はその後、富士ゼロックスの保養所へと改修され、
どういうご縁か富士ゼロックスの社員の方に施設内にご招待いただいたことがある。
生態系だったか勝浦川流域の取り組みの勉強会の講師としてでなかったか。

一部上場企業の保養所がなぜ小松島にあったのか、
前オーナーの喫茶店はなぜなくなったのかなどの顛末は知らない。
でも小神子の地が都市近郊でありながら「我は海の子」を彷彿させる漁村であり、漁師の集落でありながら魚の匂いのしない静かなリゾートでもあり、その雰囲気に惹かれてインテリが住む地でもある。

小神子の次に奥小神子と呼んでいる越ヶ浜。どういうわけが越ヶ浜へは海からも陸からも辿り着く道(小径)がなく、十数年前に近くまで行きながら渚(越ヶ浜)には辿り着けなかった。そのときは小神子の集落の上のトラバース道を辿って越ヶ浜の流域(沢筋がある)の谷へ降りていき、海まであと十数メートルで行く手を茨に阻まれたのだ。
数年後に越ヶ浜に注ぐ沢を辿れば浜に出られることを発見しこのブログにも書いた。
それは人気コンテンツとなっていてアクセス数はもしかしたらこのブログでもっとも多い。

いまは遊歩道から沢沿いを下る場所に小さな案内板があってそれを辿れば容易に浜にたどり着けるようになっている。かつてこの渚をめざした折に人里離れた山中に廃屋を見つけて驚いた。海を見下ろす山の斜面にどんな目的でどんな人が住んでいたのか。世捨て人の庵か、はたまた炭焼き小屋のような住居だったか。いまではその廃屋跡すら見つけられなくなってしまった。小神子からのトラバース小径の近傍で見かけたが、草が生い茂り崩落が随所にある廃道となっている。

越ヶ浜を見下ろせる場所は2箇所ある。日峰山山頂から北東尾根の張り出した場所と大神子の北側の尾根沿いをたどる大崎半島の散策路からである。

越ヶ浜から大神子へも道はない。小神子から越ヶ浜へは小径が通じていたが、越ヶ浜から大神子へは小径はない。海崖と岩を越えて一部は引き潮時に磯伝いに行くかしかない。大神子は小神子と違って多少開けた場所で保養施設、テニスコート、キャンプやバーベキューができる場所がある。夏場はこのバーベキュー施設も人気である。

大崎半島は勝浦川河口と大神子の間にある突き出した半島で、大神子から遊歩道を伝って半島の尾根をたどると随所に展望台があり、いくつかの分岐で展望台へ向かう。北へ向かう分岐は勝浦川沿いの海へと降りていく散策路だろう。大崎半島の先端まで行けば、勝浦川河口やら津田海岸、大神子、越ヶ浜と連なる海岸線(小神子は入り江となっていて見えない)、そして根井鼻(通り魔)と小松島湾をはさんで和田の鼻と航空自衛隊基地が見える。

大崎半島を下って北の勝浦川筋へと降りていくと勝浦川河口に張り出した洲が見える。
この一帯は蜂須賀公が「籠の藻風呂」と呼んだ江戸時代の藩侯の保養地でもあった。

徳島市と小松島市の間の海岸の沖合、もしくは津田海岸の沖合に鳥居が沈んでいるといわれる。お亀千軒と言い伝えのある場所である。

コンビニが立ち並ぶ市街地から山を越えればこんな場所がある。徳島市、小松島市に住んでいる人は散策してみるといい。

大神子北部から大崎半島の尾根筋に出て大神子を振り返る
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大神子から見る日峰山山頂北東の尾根(もっとも標高の高い場所)、ここから越ヶ浜(画面左下の渚)が見える。この地は対岸から越ヶ浜と日峰山の裏側が見えている。
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手前の出っ張りが越ヶ浜から小神子へと続く海崖。奧の出っ張りが小神子から小松島港へと続く根井鼻(通り魔)
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尾根は快適な散策路 多少のアップダウンと分岐がある
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植生を見るのも楽しみ
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すみれが群生している場所があるが、この時期は開花していない。このすみれはタチツボスミレの仲間のようだが葉が厚い。もしかして園芸種のクロバスミレの野生化ではないか。
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分岐をたどれば数カ所に展望台がある。対岸の和歌山は晴れていればよく見える
展望台から村瀬真紀さんの小麦屋でつくられたパンをいただいた。良い素材でていねいにつくられたパンは冬のひだまりで潮風に吹かれながら噛みしめる。県内では北島さんのブーランジェリーコパンと村瀬さんの小麦屋が好き。流行のパン屋の盛った外観とは対照的に、素材の良さを愛情を持って引き出しているから。
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大神子から越ヶ浜、裏日峰山
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大崎半島の先端に近づいて来ると磯に降りる小径があるようだ。水の透明度は高い
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大崎半島の先端からさらに進むと下りになって勝浦川筋の海辺に出られる。砂はきめ細かい
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勝浦川筋から北に広がる津田海岸を埋め立てた造成地。津田海岸町はさらに再整備が進んでいるようだ
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この景観がいい。勝浦川河口の洲、遠景に津田の六右衛門がいた津田山、さらに向こうは紀貫之が愛でた眉山。これを見ていると金長まんじゅうが食べたくなる
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河口洲が形成された場所は本来は水衝部だが、山の岩盤に当たってそれ以上南下できず、流速が落ちたところで海の波の作用もあって右岸に堆積が進むのだろう。その一方で左岸は水を流すために掘れているはずである。

帰路の尾根筋から大神子〜越ヶ浜〜小神子北端を見る
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散策路は下っていく
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人々も家路へ向かう夕方
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ドボルザークの新世界のあの第2楽章が心で鳴っていたので車に戻って聴いてみる。USBメモリに入れたケルテス指揮ウィーンフィルのデッカ盤。若きケルテスの渾身の演奏を聴きながらたどる家路。

イシュトヴァン・ケルテス…遊泳中に不慮の事故で43歳でこの世を去ったハンガリーの指揮者。風貌からして芸術への姿勢が伺える。惜しい人を亡くした。海を見ながらの「新世界」はそんな思いが背景にある。



posted by 平井 吉信 at 23:37| Comment(0) | 里海

2021年11月29日

防潮堤に描かれた走馬灯 幼心の君は心のままに


子どもたちが防潮堤に描いた絵を見られるのが出島野鳥園(那賀川町)から海沿いの場所。
以前に描いたのが消えかけているので今年の秋に描いたものらしい。
淋しげな秋の海辺を感じたくて訪れてみて、ああ新聞に載っていたなと思い出した。
→ 初夏に訪れたのはこちら(今回の絵と重ならない)

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確かここで潮干狩りをした記憶がある
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那賀川の強い流量が運ぶ土砂が堆積した海岸
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防潮堤の小径から指呼の間に出島野鳥園の自然林が見える
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いずこも同じ秋を象徴する野ブドウの色とりどり 
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季節は何度かめぐり、人の記憶容量をあふれさせようとするけれど
ふとした拍子にあの日のできごと、逝ってしまった人たちを脳裏に呼び戻す。
いまはそんな季節なのだろう。

タグ:出島野鳥園
posted by 平井 吉信 at 22:32| Comment(0) | 里海

2021年11月28日

人けのない田井ノ浜 秋の終わりの「冬景色」


季節がどんどん進み行く晩秋だから「冬景色」を置かなくては。

さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し、朝の霜。
ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家。

烏(からす)啼(な)きて木に高く、
人は畑(はた)に麦を踏む。
げに小春日ののどけしや。
かへり咲(ざき)の花も見ゆ。

嵐吹きて雲は落ち、
時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
若(も)し灯火(ともしび)の漏れ来(こ)ずば、
それと分かじ、野辺(のべ)の里。

(注/「冬景色」は作詞作曲不祥の文部省唱歌で著作権は消滅)

CDはNHK東京放送児童合唱団で聴いている。
ただ音楽を信じて声を合わす少年少女の澄んだ音世界。
小学校の音楽で習った唱歌だけど冬景色の歌詞は文語調で小学生には意味がわからない。
それでもなんとなく情景が思い浮かんだ。教科書に挿絵があったからかもしれない。

葦の生えた入江、川の河口なのだろう。
(歌詞には表現がないが、入江、朝霧から葦原を感じる。こんなところはエビが採れる。もしかしたらニホンカワウソもいたかもしれない)
張り詰めた朝はじーんと寒気が縛るようで空気が動かない。
そんな印象を子どもながらに持った歌。

日本の漁村周辺ならどこでも当てはまりそうな風景。
葦原が残る入江に霧が立ちこめるという情景は詩的なまでに美しい。
詩と楽曲が一体となって初冬の人々の暮らしを描いているけれど
眠りから覚めない朝、仕事に励む昼、嵐の一日のあと、夜の帳を照らす灯火。
短いようで長い人生をまっとうしようとしている人たちの賛歌とも取れる。

四国の風景は必ずしも歌の世界観と合致しないかもしれないけれど晩秋の風を感じたので置いてみた。
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追記

もし中古でも手に入るようならぜひご入手を。
「早春賦−珠玉の唱歌名曲集」/NHK東京放送児童合唱団
(メーカー:キングレコード、発売:1988年5月5日、品番:K30X-244)
収録曲はこちらから
→ 童謡、唱歌で 夢は山野を駆けめぐる

春夏秋冬の唱歌を季節ごとに並べているので春から聞き始めて冬になって
また春に戻ってくる歓びを歌で感じる。
合唱団の実力あってのことではあるが、ソロと合唱を適宜織り交ぜている。合唱にありがちな手練手管はなく、楽曲の魅力に静かに浸ることができる。合唱だからビブラートのない透明感のある再現(=作為感がない)。一部のソロでは歌の上手な女の子などが少しビブラートをかけて歌い上げるがそれも楽曲の魅力を高めている。著名な歌手が朗々と歌い上げたり(歌い手の体臭が立ちこめて詩の世界が崩れる)、語り掛ける(歌の世界が個人体験になって固定化矮小化してしまう)のではなく演奏者の個性を離れて楽曲を聞きこみたいなら何度聴いても飽きることのない宝もののような名盤CD。



posted by 平井 吉信 at 23:53| Comment(0) | 里海