橘湾は、那賀川の河口と四国最東端の蒲生田岬(かもだみさき)の間の内湾である。湾の南部には大小多数の島々が浮かぶ多島海となっていて、湾奧には四電の火力発電所がある。これを誘致することで工事の期間中の好景気と工事終了後も電源開発の交付金で阿南市の官民は一定期間潤ったはずである。蒲生田岬の近隣にある船瀬温泉(現・かもだ岬温泉)もそのときの産物だろう。
橘湾には打樋川、福井川、椿川などが流れ込む。もし海面が下がれば、これらの川はひとつにつながるかもしれない。椿川はシロウオ漁でも知られる椿泊湾に流れ込む小河川で、椿泊湾は海面上昇によって椿川の河道が沈んだ溺れ谷ともいえる。
橘湾の北側は那賀川の運ぶ膨大な砂がつくりだす砂浜地形が形成された。これに対して南部はおぼれ谷が形成するリアス海岸で、その突端に燧崎、蒲生田岬がある。ふたつの岬の間にあるのが椿泊湾、ここに君臨したのが阿波水軍(森家)である。
椿泊湾は、北西に燧崎(ひうちざき)の半島が北西の季節風を遮り、南は蒲生田岬の尾根が南東の風を遮り、狭い湾の水域は波がおだやかで船を停泊するのに好適。ここからお城下(徳島)へは紀伊水道の流れの緩い沿岸を伝い、大阪方面へは紀伊水道の和歌山寄りに主流がある黒潮の引き込みに乗せる。帰りは淡路島南端で反時計回りの黒潮の反転流に乗って本拠地へ戻るという航海だったのではないか。
椿泊湾の北岸は漁師町として狭い平地に家々が点在する。どうやって通過するのかと思えるほど狭い道の曲がり角が先端の椿泊小学校まで連続する。椿泊湾の北岸を椿泊集落の銀座とすると、橘湾に面した反対側は居住が少ない地区となっており、地元では「うしろ」と呼んでいると聞いたことがある。地名を見ると、橘湾南部の最深部から半島北側をたどって燧崎方面へと向かう細い道がある。その出発点に後戸という集落がある。「戸」というのは入口という意味なので、「うしろ」の入口ということになる。前置きが長くなったが、今回は椿泊の「うしろ」を訪ねることにした。意外にもこの地区を訪れるのは初めてである。
うしろには車を停めるところがほとんどない。あっても対向車のすれ違い用に確保しておくべきなので、集落へ入るトンネルの出口が広がっている場所へ停めることにした。棚田のある冬景色を海に向かって歩きだしたところ

ほどなく海沿いに出る。海面までの高さは2メートルぐらいの低いところを道路が走る。道は狭く対抗は困難である


ツルソバが多く自生している。可憐な花弁をつける

水面が近い。ここから見えるのは橘湾の内側なのでいつもどこかの陸が見えている


道沿いには竹が繁茂している。風が吹くと大きな音を立てる鹿威しとなる

道ばたの苔の小さな群生に足をとめる。無数の集合体がひとつの植物のようだ

湿地をたどる。元は水田だったのかもしれない

海にたどり着く

盆栽のような島々が浮かぶ。古墳がある島もある。水軍が本拠としているのも船を隠す場所が多いからかもしれない



よく手入れされた一角に出た

小さな波止がある

相変わらず水面が近く、道の下には渚があるという感じ

夏は木陰の渚が続くので涼しいかもしれないが、居眠りすると波にさらわれる


人が住む集落の周囲はよく整地されている



西日に照らされた小さな入り江

道から降りていくと、陸続きの島のような地形があって、そこまで行こうとしたが、時間切れで次回となった。この先にはさらにB&Gがあるが、そこへ行くにはうしろの海岸沿いのルートではなく、椿泊漁協から山を越えていく道が一般的だ。椿泊も強い印象を残す集落だが、その「うしろ」もかつての漁村集落が色濃く残る地域となっている。
(関連情報)
里海のまちなみ 阿南市椿泊 漁港から阿波水軍を源流に持つ集落をたどる 序章
里海のまちなみ 阿南市椿泊 漁港から阿波水軍を源流に持つ集落をたどる 写真編
タグ:阿南市