寒々とした港町の景色から明るい空へと。
庭の桃は数十年前に両親が健在だった頃に宵えびすの植木市で買ったとのこと。
そのときは掌に載るような大きさだった。
それが2階に届く巨木になろうとは。
いまが満開。
毎年見ているが、これまで見たことがない勢い。
朝起きて外へ出れば太陽の光を受けた桃の花がわさわさ。この風情を仰ぐ心地こそ。


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小学生の頃、級友たちはぼくを「モモ」と呼んだ。
名前、体型、趣味、好物、ドイツのおとぎ話などいずれも関係のないネーミングで首をひねるけど、
百田宗治という詩人の作品を先生に当てられて朗読したからだったかな?
高校の英語の授業で先生に当てられて教科書を読んだとき、
何を勘違いしたか「訳して」と言われた英文を二度読んだ。ぼくは英語の発音が良いので範を示す意味で二度読みさせられていると勘違い(先生は止めなかったが、こちらは赤面の瞬間)。
あるセミナーで司会を担当したとき、パネリストの方から「司会の方の癒しヴォイスでご紹介いただきました」などと前置きされて(そんなつもりはなく地声なのだが、ときどき言われる)。人前で声を出すことをひそかに快感に思っている自分がいるというナルシーな勘違いを他人のふりして外から見ている。
百田宗治に話を戻すと「どこかで春が」という唱歌がある。
あの唱歌がそうなのだ。
ときは雨水と啓蟄の間。
春のきざしというが、
雪に閉ざされる三寒四温のいまこそ陽の光が恋しい。

ときおり強風が枝を揺らすけれど、
吹いてみよといわんばかりに空高く抜けている桃の花。春の氣を受けて。
以前にご紹介した広谷順子さんらのユニット「綺羅」の童謡集の下巻が冬から春へと綴られる。
「どこかで春が」も含まれる。おとなが聴く唱歌として掌で音楽を愛撫しているよう。声の純度も高い。


ただし「やーまーのさーんがつ」は
原曲どおり「やーまーのさんがーつ」とフレージングして欲しかった。
だって、三月は突然予告なく訪れて名残惜しくも通り過ぎていくのだから。
「さんがーつ」にはその感情が含まれているのだ。
それでもこのCDは入手しておくべき価値あるもの。だって聴いてみて。浸れるから。
それにしてもうちの桃、今年は照りが違う、まばゆいばかり。


雨水から三日。しばれる風に紛れて陽の温もりを宿している。

追記
池田みゆきさん(ゆめある & キッズソング ドリーム)の童謡・唱歌について
「どこかで春が」は
以前にご紹介した池田みゆきさんもいい(ゆめある & キッズソング ドリーム)。
歌詞は作曲当時のもので「そよかぜ」が「東風(こち)」となっている。
フレーズの切れ目でさりげなくピアノの合いの手が春のきざしを感じさせ、
「やーまーのーさんがーつ」で麓の近景が遠くの山に飛んでいって春を待ち望む気持ちが溢れる。
楽曲と歌い手が一体となって音楽だけが浮かび上がる瞬間。
同じアルバム中の「夕焼け小焼け」の素朴な旋律をそのまま歌にしながら伴奏の和声はさみしさを感じさせる芸術的な仕上がり。「どこかで春」とこの曲がアルバム中のベストトラックだね。
(中学の音楽担当の黒田先生の伴奏がまさにそれで、学生相手の伴奏といえども、わずかに入る小休止、アッチェレランド、リタルダンドなど歌っていて気持ちが高まった。当時はそんな音楽用語も先生の意図も気付かなかったけど、いまになってみてわかる芸術的な伴奏。それが教科書の楽曲に生命を与える。生きていくことも同じ。先生が伝えたかったのはそれだよね)
楚々として飾らず、正確な音程で曲の終わり以外はビブラートがないので心にしずしずと入ってくる。
ぼくはこんなふうに聴きたいので、童謡を池田さんのピアノの弾き語りで聴きたいし
CD(配信)はすべて買いたい。
(コロナで疲れた方、ちょっとだけ視聴してみたら?)
でもパッケージメディア(CD)は発売されていないようで配信のみ。
YouTubeでは映像とともに見られる。
YouTube:
https://www.youtube.com/watch?v=mzbcfZvvWV8ダウンロード音源(mora)はこちら。
https://mora.jp/package/43000074/TCJPR0000781176/?trackMaterialNo=18465631アマゾンでも買えるけどmoraのほうが音質が良いので。

posted by 平井 吉信 at 23:22|
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家の庭