2018年07月15日

高徳線 2600系「うずしお」に乗ってみた

西日本豪雨の翌日は出張。
天候は回復したものの
JR四国は高徳線を除いてほとんどが止まっている。
(本日中にすべて復旧するだろうと思っていたらそうではないことが後日判明)
牟岐線でも特急が止まっているので
徳島駅まで出てうずしおに乗ることができた。
ホームに滑り込んできたのは、2600系ではないか。
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2600系に乗るのは初めて。いつもは2000系しか乗ったことがない。
2600系はJR四国の最新車両(気動車)で空気バネが特徴。
以前から乗りたかったが、2両編成のときに限られており
ぼくがよく乗る時間帯は3両編成なのであきらめていた。
今回は時間帯をずらしたので初めて乗ることができた。
(2602と2652の2両編成)

動き出すと鮎喰川を渡り、吉野川の鉄橋を通過し
(実はこの辺りが高徳線でもっとも振動が多い)
レンコン畑を見ながら走るローカル特急「うずしお」。
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この色は山河の多い四国の風景に映える。
室内は青いシート(2652)に床は木目。
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明るい雰囲気は特急南風(2000系気動車)に似ているが、
シートはいしづち・しおかぜ仕様だ。
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床の材質は木なのかPタイルかは見分けが付かない。
厚めのポリエステル塗装を施した集成材かもしれない。
室内は明るい雰囲気が横溢している。
足元も従来よりは広く感じる。
なお、2602はえび茶色。
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シートはダンピングの効いたやや堅めのもので
ヨーロッパ車のような快適なもの。
シートの角度はやや立っている。
腰痛の人には歓迎されるのではないか。
2000系の車両は(クッションのへたりもあるのだろうが)やわらかい。

走り出して気付いたのは車両が揺れが少なく静かなこと。
空気バネを使っているだけではなく
最新の設計で細部が磨かれているのだろう。
空気バネはやわらかいので限界を超えると
突然傾くようなところがあるかもしれない。
しかし従来の2000系よりは快適である。

窓はカーテンではなくスクリーンとなっている。
そのため窓がサッシのように区切られている。
2000系と比べて視界はやや狭くなっている。
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各座席には充電にも使える100vのコンセントがお目見え。
JR四国では予讃線の特急しおかぜ・特急いしづち(8600系)ですでに装備されているものだが
高徳線では初登場。
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手荷物を置く場所が大きくなってキャリーカートを載せられるようにしている。
空調も静かだ。
足元には暖房装置と思われる吹き出し口がある。
しかし床下の清掃に難点があるのではと推察。

トイレや洗面室のレイアウトが曲線を描くのも8600系のいしづち・しおかぜと同じ。
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車内のアナウンスは日本語に続いて英語も加わった。
This is the limeted express train bound for Takamatsu.The next station is, Sanbon-matsu,thank you.
(首都圏でも似たようなお声を聴いている。もしかしてアナウンスの声の主はクリステル・チアリさんかもしれない。英語の発音ながら地名は日本語風に発音)
https://www.youtube.com/watch?v=yS3csiZbUMQ
https://www.youtube.com/watch?v=xs24fCftDGw

大雨がどこに行ったのか、おだやかな東讃の里山を縫って粛々と走る。
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いつもなら悠々と瞑想(寝る)するのだが、

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乗り心地を味わいつつ
久しぶりに晴天となった緑の田園を眺めようとして寝られない。
同じ場所を雪景色と比べてみた。
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屋島を過ぎると家屋やビルが立て込んでくる。
高架の栗林駅を過ぎて右カーブを続けてトンネルをくぐると
サンポートが見えてきた。
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初の2600は心が弾む体験だった。
JR四国にもっと乗ろう。
posted by 平井 吉信 at 11:16| Comment(0) | 徳島

2018年05月28日

吉野川大橋を河口付近から眺めて見送る落日


吉野川にかかる橋と眉山は徳島市の象徴。
普段なら感傷的になる時刻だけれど、このところの国の状況が…。
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何事もなければ良いが…。
タグ:吉野川
posted by 平井 吉信 at 22:45| Comment(0) | 徳島

2018年05月18日

突き抜けようとした魂 ブルースカイブルー


歩いて買い物にいける範囲には八百屋が6〜7軒あった。
主に行く八百屋は決まっているが、
ときには子どものおやつはあそこで
パンはあの店でなどと買い回りをしていた。
(まだ子どもが1円玉を握りしめて買えるものがあった時代である)

自転車専門店、喫茶店、肉屋、すし屋(2軒)、キリスト教教会、ふとん店、餃子店、中華そば店、うどん店、仕出し屋、薬局、陶器店…。これらは全力で走れば1分とかからないところにあった。
歩いて2分の場所には子どもの遊ぶ広場(楠と小さな神社もあった)があり
フェンスの向こうは国鉄小松島線の広々とした線路が横たわっていた。
(JR牟岐線の中田駅と小松島港駅を結ぶ全長1.9kmの日本でもっとも短いローカル線でありながら、準急で四国の四県都と結ばれていた)

線路沿いには保線区(汽車の点検を行う車庫)、
石炭を置いておく小屋、
港に着いた乗客を徳島、高松、松山、高知へ向けて
いつ果てるともなく続く車列を踏みきりで見送っていた少年だった。
列車が通過する度、遮断機を人が上げ下げしていた。
路線バスには車掌が乗っていてお金を払って切符を切ってもらっていた時代である。
(岡崎友紀の18シリーズではバスガイドもあった)
https://www.youtube.com/watch?v=xSmRZzH5XS8
(今から見れば仕事の生産性はありえないが、それでもほとんどの国民が中流でいられた。その時代の歌の力と今が違っているのは当然かもしれない)
小松島線は昭和60年3月14日に廃止となる。その最後の日に汽車を見送った。

当時の小松島線の状況が掲載されている貴重なブログ
バッタやコオロギを追いかけた線路沿いの草むらがなつかしい
https://blog.goo.ne.jp/mazenannpuu260915uptodate/e/8d14e04b3976f3cdc009feaf6e3cfdf4

線路をはさんでまた別の公園があり、
地上から2メートルぐらいの高さの時計台の内部に潜り込んだりして遊んだ。
フェンスを跳び越えたボールをこっそり拾いに線路は入ると怒られたものだ。

映画館は2軒あった。
書店も2軒あった。
ハレの日には二条通の洋食堂コトブキに卵の乗ったカレーを食べに行く。
重厚な雰囲気のインテリアに囲まれて家族で食べるのはときめきだった。

その前にはハレルヤの本店もあった。
(同級生の女の子のご両親が経営していた)
いまでは別会社の経営になっているが
金長まんじゅうとたぬきのケーキは受けつがれている。
でも、あの至宝のアップルパイは復刻されなかった。
円形の土手が5センチぐらい盛り上がって多層になった焼き菓子で
このさくさくとした食感と
リンゴの切片がふんだんに載った中央の窪地に載せられて
その下にはラムレーズンのカステラ生地があったような。
(もはやレシピがないのだと思うが、再現されるときは記憶を総動員してお手伝いします)

まちなかに住んでいたように見えるけれど
桜が咲く公園、土だんごをつくれる場所、草むらのコオロギやキリギリス、桜に集まるアブラゼミの合唱、へびやトカゲもテントウムシもカナブンもコガネムシも日常の一コマ。
(近所を5分歩けば虫かごがたちまちあふれるのだ)
蚊にさされてぼりぼり掻きながら草むらに飛び込んだボールを探していると
夏草の草いきれの上に空が見えた。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/102997084.html

高度経済成長期にぼくが好きだった絵本が「大きい一年生と小さな二年生」。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/69583506.html


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あの人の指にからんでいたゴールドの指輪を引き抜き…♪

年上の女性へのほのかな憧れをどうすることもできない少年の夏の日、
どこまでも空を駈けようとする思い、
焦燥とほろ苦さをまっすぐな歌唱で向かい合う。
突き抜けようとする魂が歌わせたのではないか。

確かに生きた足跡を刻まれた。
時代の後押しと、自らを信じて歌に力を込めた。
そんな人がバラードをうたった。
ブルースカイブルー、
いまはあなたのために送ります。
西城秀樹さん、ありがとう。
https://www.youtube.com/watch?v=9L3LJqhyfFY
posted by 平井 吉信 at 10:51| Comment(0) | 徳島

2018年04月02日

知人が今夜テレビに出るよというので見てみたら…


数日前に仕事でお会いしたとき、テレビに出ると言われていた。
「深イイ話」という。
(「頂点を極めた女性は本当に幸せなのか?SP」)

すると、瀬戸内寂聴さんと阿波おどりで飛び出してきたではないか。
95歳の寂聴さんの豪邸、まったく落ちない食欲、
(毎日肉とアルコールのてんこ盛り)
いやはや呆れるやら。

たまたまここ数日、
「多々羅川」で寂聴さんネタが続いていたのは偶然。
番組収録の裏情報も事前に聞いていたけれど
(それはちょっと書けないけど)
主人公に負けていないよ、小林陽子さんの弾け具合も。

posted by 平井 吉信 at 21:37| Comment(0) | 徳島

2018年04月01日

とくしま植物園のチューリップやすみれ それから桜も


仕事を一段落して午後の遅い時間に足を運ぶとしたら
とくしま植物園がいいと思う。
丘を上がりながら花壇だけでなく法面の山野草も見ながら
高度を上げていくと動物園の観覧車が見えてくる。

人は生きていくうえで重力に逆らうことは大切なこと。
日焼けが気になる人もいるだろうけど
太陽光線そのものが免疫力を高める治療薬のようなものだから。
(光線療法というのさえ存在する)
実際に日の光を浴びて斜面を上がるのは究極の健康法かもしれないと思う。

さて、花はというとご覧のとおり。
(説明が必要な方、いらっしゃいますか? と言いながら手抜きの口実)
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追記
行政が本気で取り組めばこんなこともできるのに。

ネモフィラで満たされた国営ひたち海浜公園
http://hitachikaihin.jp/hana/nemophila.html

福島の花見山公園(画像集)
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A6%8F%E5%B3%B6+%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B1%B1&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwielr3ItpjaAhWMS7wKHZxcB5gQ_AUICygC&biw=1182&bih=783

これは? 福島県の花見山プロモーション動画?
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=9BFdY8rALYA

実は徳島にそんな場所をつくろうとしているのが
上勝の「彩山」構想なのだ。





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posted by 平井 吉信 at 15:27| Comment(0) | 徳島

2018年03月21日

雨に打たれる金長神社 春を迎える日はいつまでか


かつてここには無料の動物園があった(無料だったと記憶している)。
孔雀、狸、猿がいたように思う。
動物はコンクリートの箱形の建物で飼われていて
その建物に上がることができた。
(猿の檻は金網なので上がれない)

小学校の頃には写生大会があり
学校から歩いてきたことがあった。
遠足のおやつは、カバヤのジューシーとか明治のハイレモンとか。
森永ミルクキャラメルやチョコボールだった。
(それとバナナも忘れてはならないだろう)

金長公園にはいつも動物の鳴き声が聞こえていて
見上げると小松島の象徴、日の峰が背後にそびえていた。

金長神社は動物園の片隅にあった。
動物園の敷地には桜が植えられ、花見もできた。
妹を連れて来たことを思い出した。

小松島市では、来たるべき南海地震に備えるべく
この場所を防災機能を持つ都市公園に整備するということで
金長神社は撤去されるかもしれないとのことである。

ぼくはときどき金長神社を訪れているけれど
いまの金長神社が観光資源と呼べるかどうかはわからない。
低未利用地で数少ない種地でもあるこの場所を
市民生活に活かすために都市公園へ整備することは間違っていない。

ただし、金長神社のあり方については
都市公園と切り放して考えることもできると思う。
歴史や文化は未来へと続くまちづくりの資源(拠り所)であり
いまのかたちでなくても方策(リノベーションや再創造)はあるように思う。

公共の場所に宗教施設は御法度というのは理解できる。
しかし金長神社は宗教施設といえるかどうか。
昔からの由緒ある神社というよりは
映画のヒットへの感謝を込めて
昭和31年に映画関係者が建立したもの。
いわば神社というよりは顕彰施設。
(宗教法人ではなく自治会のような組織が運営しているのでは?)
だから市が宗教施設でない由来や経緯を付して
国土交通省に説明すればそれで済むような気もする。
(このようなローカルマターで国が市を指導する時代ではないだろう)
土地と建物を運営組織に管理してもらい、
地代家賃と相殺することもできるのでは?

いまの世の中、
権力を持った中枢に近い面々は
親族や知人の企業などが(まるで優遇されるように)
例外扱いやうまく大義名分を役所が忖度してつくることで
補助金を受けたり大きな事業を受託している。
(世間を騒がせているあの事件だけではないと思うよ)

その一方で
下々では法令を遵守することが目的となって
(法治国家である以上それは大切なこと)
法令を字義どおりに解釈して地元の事情とそぐわなくなってしまう。
(中央集権ではなく四国が判断すれば動かしていける自治が必要。そこがこの問題の本質だよね)

そして行政や議会に任せないで自分たちが考え動かしていくことが大切。
議員報酬など無償で良いから(議員報酬が低いから議員のなり手がいないのではないよ。誰でも議員ができるしくみを取り入れることが本質)。
どんどん市民が議決権を持って参加できる議会でありたいね。

父もぼくも狸に化かされたことがあることは以前にこのブログにも書いたけど
魑魅魍魎はどんどん消えていく。
小山助学館からかつて発刊されていた三田華子の「阿波狸列伝」はほんとうにおもしろいよ。
(スターウォーズやハリーポッターはこれと比べると人情の機微がない大味に見えてしまう)
関係者が電子書籍にしてくれたらもっと広まるのにと思いつつ。

だから雨がしょぼしょぶ降る夕方に金長神社に来てみた。
誰もいない。

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posted by 平井 吉信 at 22:20| Comment(0) | 徳島

2018年03月18日

大松川か多々羅川か? それとも勝浦川か?


タイトルを見て内容がわかる人は地理マニアである。
それも徳島在住。

中学に通うのに川の土手を自転車で走ったのは大松川沿い。
水鳥が羽根を休めている光景によく出会う。

とくしま動物園の西のため池から流れ出して
徳島市南部の渋野、西須賀、三軒屋を通って大松川へと合流、
さらに勝浦川へ合流するのが多々羅川。
多くの人が頭に描く里山の川といったところ。

この小さな小川が文学になっていることをご存知だろうか?
瀬戸内寂聴「多々羅川」(新潮社)。
場所」に収録されている。
http://www.shinchosha.co.jp/book/114436/

寂聴さんの母は、7月4日の徳島大空襲の折、
身体の不自由な祖父を守るように防空壕で折り重なって亡くなられたという。
寂聴さんの不戦への強い使命感もそのような体験があったからこそ。

大松川は、勝浦川下流の分流であった。
小学校の頃、祖父の持っていた地図には
大松川の記述が確かにあったことを覚えている。
(埋められる前の地勢)

川の下流は三角州が発達する。
ここで県内の河川の三角州を繙いてみる。

◆吉野川
もともと旧吉野川が本流であった。
お城下の水利を求めて水路を掘削(もしくは元々あった流れを拡幅)したところ
水が流れやすいほうへ流れるので
どんどん川が成長したのがいまの滔々と流れる吉野川。
その結果、藍住、松茂方面へ水が行かなくなったので
分流のための堰を設けたのが第十堰といったところ。
(諸説があるようである)
新町川ももともとあった田宮川からの流れと
吉野川からの引水でできたのかどうかはわからないけれど
大きく捉えれば吉野川デルタの一部だろう。

◆那賀川
河口付近で岡川(桑野川)と合流している(していない?)ようだ。
三角州というよりも
日本有数の雨の多い木頭地区からの水を集めた急流が
土砂を押し流してくちばしのように平野を海に突き出しているようにも見える。
急流河川ゆえ、三角州の形成よりも堆積の力学が働いているように見える。

◆勝浦川
自由蛇行という点では県内では勝浦川がもっとも三角州地域が広いように見える。
大松川から神田瀬川までもがかつての勝浦川の流路と考えられる。
特に園瀬川、多々羅川、大松川、勝浦川本流が競うように流れる下流は
人が住みにくい湿地帯となっていたはずである(いまも残る)。

前述の世に勝浦川の分流であった大松川は、
JR牟岐線鉄橋の下流付近から分波して北流する。
大松川下流は水を湛えているが
上流はというと川の痕跡があるだけ。
ということは、上流は伏流していたのではないだろうか。
だから人為的に土手を閉めて埋め立てられたのではないか。
(勝浦川の分流であった大松川を吉野川水系と記述しているウィキペディア(Wikipedia)は間違っているのではないか?)

堤が締め切られて表面を流れる水はなくなったが、
それでも不思議なもので小さな流れは残っている。
そして多々羅川から水をもらうと大河のような雰囲気に変わる。
つまり大松川は勝浦川分流の三日月湖の上流が締め切られた川となっている。

締め切られる前は勝浦川に挟まれた地域があったことになる。
南部中学校はおそらくは大松川の河床につくられたもので
バイパスから二軒屋方面へ左折すると橋がある。
明らかな土手の流れや河床のような地形があることから
かつて川であったことが容易にわかる。
ゆえにこの辺りの建物は沖積平野の地盤に建てられている。

勝浦川に限らず、川の下流は三角州が発達する。
小松島市田浦地区から清浄が池、菖蒲田池を経て
小松島旧港へと注ぐ神田瀬川も勝浦川のかつての流路だろう。
徳島市南部は居住に適した地域だが
そのほとんどが沖積平野のため
洪積台地など岩盤らしき地盤を選んで家を建てるのが良い。
(山の裾野などに見ることができる)

多々羅川と大松川は何度か合流と分流をしているため
どの部分が多々羅川でどの部分が大松川なのかわかりにくい。
さらにその多々羅川も
徳島市方上町付近からの流れを集めて並行して流れ
(間に植物が繁茂する中州が続く)
合流することなく片方は大松川と合流して勝浦川へ
片方は園瀬川へと注ぐ。
自然地形なのか、水利権などの人為的な要素なのか?
この地形を読み解ける人はいますか?

(グーグル航空写真から引用)
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(合流することなく並行して流れる多々羅川)
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さらに勝浦川はどこまでが勝浦川なのか?
多々羅川の下流はかつての勝浦川の三角州の一部と見える。
その中州の地形を利用して人為的に土手(道路)となっているようにも見える。
もともとの水面を閉じたのであれば多々羅川の下流の広がった溜まりは
勝浦川と見なすのが自然である。
一方閉めた部分を多々羅川と見なすと
多々羅川は園瀬川へと注ぐことになる。
真実を求めて勝浦川下流域のこれらの川は自転車でめぐるのがいい。

多々羅川はJR牟岐線で中田駅から勝浦川を渡ってすぐに見える小川がそう。
里山の風情を宿した流れはぼくが子どもの頃から変わっていない。
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そんなことを書いていると
きょうはこんな夕焼けが大松川にやってきた。
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ところで、電子辞書の購入が文章を書く時間を短縮できている。
→ ホワイトカラーの生産性を上げる〜電子辞書の活用〜シャープPW-SH5を選んだ〜

(X-E2+XF18-55mmF2.8-4 R LM OIS)
posted by 平井 吉信 at 01:34| Comment(0) | 徳島