2025年04月12日

麁服(あらたえ)の里、三木家の春(美馬市木屋平)


美馬市内の企業を訪問したときのこと。協議が終わって雑談をしていたとき、美馬市出身の藤島博文さんの絵画展に行って感銘を受けたと話をしたら、その会社の社長が「親戚です、ときどきみなで集まっています」と答えられた。

偶然といえばまだある。目の前で面談している社長をぼくはテレビで拝見して一方的に存じ上げている。それは人助けをされた話をマスコミが取り上げたものなのだが、その映像を見てぼくはこの方が徳が高い人だと直感した。おそらく神霊の支えがなければなしえないと思えたのだ。だから、いつかはお目に掛りたいと思っていたら、偶然にもその機会がやってきた。当時の映像のテロップでは会社員としか出ていなかったし、どこの会社の社員かも知らなかった。その方が社長になられた会社へ仕事で訪問することになるとは。あの映像を見てから20年以上が経過していた2025年春。縁(えにし)は大切にしたいもの。

藤島画伯の絵でもっとも見たいと思っていたのが、木屋平の三木家が麁服を調進するために大麻を栽培する畑である。それも、しだれ桜が咲く季節ということになる。そこで早いうちからこの日は見に行く予定に入れていたもの。

三木家は重要文化財であり、その隣に週末だけ開館する三木家資料館がある。大麻をつくる畑は三木家の前にある。栽培には県知事の許可がいる。種を蒔いて収穫まで24時間の監視が求められるという。葉の1枚すら囲いの外へ出してはいけないとのことで、葉を集めてその場で焼いているのだという。栽培にはおそらく数千万円の費用がかかる。

収穫された大麻は茎のみを使う。その繊維を布にして践祚大嘗祭の儀式に持参する。天皇に即位されるとき、お一人で一晩かけて行なわれるらしい。一生に一度のもっとも重要な儀式で、何人もその儀式の場に入れない秘密の儀式である。

その儀式に使われる麁服(あらたえ)という大麻でつくられた布が儀式の要となる。毎年正月になると、天照大御神の御札を産土神社で求めるが、神宮大麻と書いてある。伊勢神宮の根源の神と大麻はかくも深い関係にある。

その麁服は、阿波の三木家(宮廷の祭祀を行なう忌部氏の末裔)から調進されなければならない。忌部氏は、天照大御神が天岩戸にお隠れになったとき、外で出ていただくために居合わせた天太玉命(フトダマ)の子孫といわれる。麁服は、木屋平の地でつくられなければならず、それも三木家でなければならない。

西洋では、イエス・キリストのご遺体を包んだ聖骸布が麻でできているという。大嘗祭の儀式は新天皇が一晩お一人で儀式を行なわれると聴いたことがあるが、王家の聖なる身体や御霊を包むというのは同じである。天照大御神の御霊が宿る麁服とお過ごしになるのだろう。

三木家は穴吹川を遡り、途中から川を離れて三木山へと上っていく。かつての木屋平村の尾根に近い場所である。徳島市方面からは、佐那河内村→神山町→川井峠→木屋平と進むのが近道である。

車は三木家の近傍の貢(みつぐ)公園に置いて歩くのが一般的。公園内にも花見をする人がいる。
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公園に隣接して三ツ木八幡神社がある。三木家と関係がありそうな名称である
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やがて眼下に麁服の原料をつくる畑、左手に三木家資料館、その奧に重要文化財三木家が見えてくる
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麁服の畑には大麻が植えられるのは、天皇の即位に備える時期のみである。直近では、令和元年、その前は平成元年が即位であったからその数年前から宮内庁からの要請か示唆を受けてつくられていたのではないか。しだれ桜に囲まれて明るい雰囲気である。次の作付予定は当然ながら未定(あってほしくない)。

大嘗祭に使用された麁服と同じ麻糸でつくられたストラップが資料館で販売されていた。国産の麻でつくられた稀少なもので部分的に藍染めされている(1500円)。これが最後の1個だったようで、これもご縁というべきか(当然ながら次の予定はない)。背景紙の紋様は阿波忌部氏の麻の葉文様の家紋のようだ。
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三木家資料館には週末にボランティアの方が順番に担当されているという。資料館内には、各種文献やパンフレットのほか、麁服を織る機械などが置かれている。
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資料館の前には畑がある
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重要文化財三木家住宅は独特の構造を持つという。桜に囲まれてのどかな季節を迎えている。さまざまな角度とレンズで撮影してみた。→ 国指定重要文化財三木家住宅(美馬市Webサイト)

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タチツボスミレまでが気品と華があるような
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居心地が良い場所で公園、神社、三木山、三木家資料館、三木家周辺(麁服の畑)を行き来しつつ数時間が経過。おだやかな春の過ごし方としてはこれに優るものはない。

麁服は麻で紡ぎ、藤島博文さんは筆で描く。高天原はこんなところにあったのではないかと思いつつ、レンズを通して心に刻む2025年の春。
posted by 平井 吉信 at 23:51| Comment(0) | 徳島

2025年03月14日

(号外)特急むろと号 最後の運行 満月と人々に見送られて


多いときは月に10日以上は乗っていた。特急むろと号は、1962年の準急に始まる牟岐線唯一の特急だった(ホームエクスプレス阿南はあったが、あれは近距離通勤仕様なので)。

そんな特急むろとは、2025年3月14日の徳島駅発19時33分→牟岐駅着20時58分の列車をもって、63年の歴史に幕を下ろした。「むろと」と名乗りながら、室戸市へは行かない。いつかは牟岐線が延伸されて室戸岬経由で高知市と結ばれることを夢見ていた列車。だけど夢は叶わなかった。

利用者の低迷に加えて、運転手のシフトが難しくなったとされる(運転手は牟岐駅の宿舎に泊って翌日7時発で徳島駅まで戻り運行する)。

2017年9月のむろと号。徳島駅でうずしお号から乗り換える
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2両編成で、一部座席指定
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8年後に廃止されるとはむろと号も夢に思わなかっただろう
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(回想の場面は終わって、現実の3月14日)

むろと号が到着する少し前、南小松島駅のホームには人が集まりかけていた
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まずは上りの普通列車が入線して待機
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むろと号が駅に向かって進入(カメラの位置はは柵の内側から)
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南小松島駅に停車
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乗客も知っている。これが最後のむろと号の姿であることを
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駅を発つ。万感の想いで見送る。さようなら、むろと号
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→ 動画で見送る

タグ:JR四国
posted by 平井 吉信 at 20:32| Comment(0) | 徳島

2025年01月04日

JR四国 牟岐線 キハ型ディーゼルが走る(特急むろとの廃止を惜しむ)


JR四国では次々と駅舎がなくなったり駅員がいない無人化が進行している。存続のためにはやむを得ないとわかっていても寂しさを禁じ得ない。

子どもの頃、10両程度を率いて線路を走っていた記憶がある。車内に暖房はあっても冷房はなかったため、夏は窓を手で開けて窓から顔を出していた。鉄橋にさしかかると川面を渡る風を感じていた。

駅舎とともにトイレがなくなったことで、列車にトイレが装備されるようになった。ワンマン車両だと誰かが長時間入っていると大変だけど、そこはなんとかということだろう。

ところで徳島県内の路線は電化されていない。SUICAも使えないので他県から乗車される際はご注意を。全線ディーゼル機関車で「電車」は走らない。学年が変わって担任が受け持ちクラスの生徒の通学手段を調べるために挙手を求める際、「汽車通の人は?」などという。

イルカがなごり雪で「汽車を待つ君の横で…」の風景が見られるのは徳島県ならでは。これから卒業の季節なので、風情のある徳島線と牟岐線で「なごり雪」ツアーなど企画してみては?(>>>JR四国さん)。

牟岐線にはときどきキハ47系が走る(鉄道マニアでないのでわからないが、おそらく1日1〜2本では)。まずは、キハ47-114型。オレンジ色をしている(首都圏色というらしい)。トイレは付いているようだ
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こちらは、キハ47-118型(空色=JR四国色)
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空色のキハ47系が通過した後、反対側からキハ185-12がやってきた。県内では特急で運用されている車両で、牟岐線(徳島駅から牟岐駅まで)の「特急むろと」(室戸には到達しない)、徳島線(徳島駅から阿波池田駅まで)の「特急剣山」(特急南風と接続することで高知方面へ乗り換えはあっても迅速に移動できる。ただし南風の自由席は座れないことが多いので座席指定を取っておくのが無難)、高徳線(高松駅〜徳島駅)の「特急うずしお」では2700系に置き換えられていてあまり見ることがなくなった気がする。
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この列車は特急むろとではなく、正月三箇日のみに仕立てられた薬王寺参拝用の臨時特急列車の「やくおうじ」(下りがやくおうじ1号、上りがやくおうじ2号)である。停車駅は特急むろとと同じ

ついでにJR四国と第三セクター線路のその他の仕様も見てみよう
JRでは古い車両をリニューアルして特別仕様車に仕立てることがある。それは観光臨時列車用で「藍よしのがわトロッコ」として前が動力を持たないキクハ32-501、押しているのがキハ185-20。貞光川の鉄橋を渡っているところ
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列車は、徳島県、高知県の普通列車でもっとも見かける1200型で、トイレ、冷暖房を装備。最高速は110km/h。列車はめずらしくないが、停車(この写真は発車直後)したのが夏の海水浴シーズンのみ開設される田井ノ浜臨時駅
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桜咲く時季の1552型普通列車が停車した阿波赤石駅
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夕陽を浴びて走る
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アジサイの季節
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田んぼの海を走る
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ご当地色あふれる土佐くろしお鉄道
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アンパンマン列車
外装のみ(大歩危峡を通過する特急南風)
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内装も
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特別仕立ても
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トロッコ仕様も
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阿波海南駅でモードチェンジをして線路から道路使用に変化するDMV。JR四国、阿佐海岸鉄道が存続できるよう、地元住民も観光客も乗車してほしい
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四国の鉄道、応援しよう!




追記 特急むろとが廃止される

昨年末に、牟岐線を走る唯一の特急である「むろと号」が2025年3月15日のダイヤ改正で廃止される見通しとなった。2019年3月15日には、特急むろとの徳島〜阿南版で通勤客の便宜を図った「ホームエクスプレス阿南」も廃止されている。かつては高知県甲浦駅まで乗り入れ、1日3往復あった「特急むろと」も区間の縮小と減便を余儀なくされていたが、ついに廃止の日を迎えることとなり、牟岐線の特急は姿を消すこととなる。

調べてみると、特急むろとの起源は、1962年7月に運行を開始された高松駅〜牟岐駅間の「準急むろと」に端を発する。1966年には急行に格上げされた。20世紀の牟岐線を、ベージュに赤のラインの入った列車(キハ58型)が颯爽と風を切っていた姿を覚えている人も多いだろう。

牟岐駅を7時頃に出発する上り便では、海部郡内の教員、公務員、会社員などが出張の折に、あるいは岡山で新幹線に乗る県南部からの観光需要にも重宝されていた。牟岐線は単線で速度の遅い普通列車では各駅停車に加えてすぐに発車しない待ち合わせもあるため、特急の利便性は高い。

特急むろとは、例えば徳島駅〜阿南間を30分程度で結ぶ。この区間の道路はどこを通っても慢性渋滞であるため、クルマでは1時間程度はかかるし時間も読めない。渋滞の原因は、日亜化学(雇用や納税、寄付などの地域貢献で県内に大きな貢献している)への通勤が多いこともあるが、そもそも那賀川、勝浦川、吉野川の三角州地帯なので道路の制約が大きいうえ、渋滞を引き起こす橋が多いことも要因となっている。

一案として、徳島駅〜阿南駅間は特急で残しつつ、牟岐駅〜阿南駅間はデマンド方式のマイクロバスで運行するなどは考えてみたが、現実には、乗り入れ運行時の法規や乗車のしくみづくり、阿南駅での接続の余裕を見た場合の時間ロスがあって利用者がいるかどうか。最大の困難は運転手の確保だろう。

過疎は悪いばかりではないとしても、沿線住民の減少により公共交通は人口減の影響をまともに受ける。そしてそのことが離れた学校への通学、買い物、総合病院や専門医への通院などから地域外への住民移転を促進する悪循環となる。

タグ:JR四国
posted by 平井 吉信 at 23:13| Comment(0) | 徳島

2024年12月26日

誰かがやらないと何も生まれない 県南の海で未利用魚を食卓に届けたい会社の物語(株式会社澄海/徳島県美波町)


2023年春のこと、熊本県から徳島県に仕事で着任した濱隆博(はまたかひろ)さんが、長年使われずにがれきに埋もれた廃屋のようになっていた県所有の水産加工施設(美波町の志和岐漁港に設置)を数か月かけて使えるようにしました。この施設は、数年前まで地元漁協がアワビの稚貝を育成する施設として活用されていましたが、現在では使われなくなっていました。その施設を活用するためには補助事業のからみなど行政との交渉や調整がやまほどあったはずです。

志和岐漁港
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これが行政の事業だと数年を要する計画となるはずですが、濱さんは持ち前の行動力で会社を設立。荒れ放題となっていた施設の修復をひとりで行い、数か月で使えるようにしました。さらに地元の金融機関から融資を受けて必要な設備投資を行ないつつ、熊本県から知人の谷口毅さんを呼び寄せて社長に就任してもらいました。会社の名前は濱さんのご子息と同名の株式会社澄海(すかい)と名付けられました。澄んだ海と空を連想させる名前から、濱さんがこの事業に寄せる思いが感じられます。こうして二人三脚で事業が動きだしました。

左から取締役の濱さん、代表取締役の谷口毅さん
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施設には地元志和岐集落の高齢者を中心に地元民を雇用して水産加工(惣菜)をつくっています。魚種は徳島県内で採れたボラ、チヌ、タカノハダイなどの未利用魚や海部郡の沿岸で採れるブリやシイラなどを使っています。未利用魚とは、おいしいのになじみがないためあまり売れない魚など流通に乗りにくい魚です。濱さんは地元の漁業関係者や水産物を扱う事業者をくまなくまわり、ときに漁船に乗り込むなどして魚を出荷してもらえるよう信頼関係を築いていきました。

沿岸漁業がふるわないのは、温暖化で海水温が上昇したことで冬場に深みに移動する魚が磯に居着いて藻場を食い荒らすことが要因です。温暖化で冬に個体数が減少するはずのシカが減らず、林床の植生を食べ尽くすのと同じです(このほかには、里山の荒廃で人とケモノの境界が曖昧になっていることや上流の森の荒廃で川がフルボ酸鉄などのミネラルを海に供給しなくなったことも原因です)。未利用魚を流通に載せることは藻場の回復にも役立ちます。藻場は沿岸漁業を支える生態系のゆりかごで大切な存在です。

濱さんらがめざしているのは地域経済の循環を民間でつくるという地域経営の考え方です。濱さんの知人らが海部郡で藻場の再生を行なう一般社団法人藻藍部を立ち上げました。藻場の再生は未利用魚の流通化と密接な関係があるため、連携していくことになるはずです。濱さんは「徳島で水揚げされた魚たちに感謝して食べ(感食)、残さず食べて(完食)、魚を食べて海の環境改善に寄与(環食)しよう」とアピールしています。

また、施設には敷地内で陸上養殖のできる水槽を設置しました。県内では話題となった上勝町産のアメゴを使ったサツキマスの養殖も行なわれました。このことがご縁となって、上勝町の月ケ谷温泉では(株)澄海で生産した魚が使われるようになりました。魚のロスを出すことなくメニューを追加したい、厨房を楽にしてあげたい飲食店や宿泊施設は問い合わせされるとよいでしょう。

(株)澄海では直接お客様に届けられる商品も開発しました。12月23日と24日に徳島県庁で行なわれた県庁クリスマスマルシェに出店、持ち込んだ商品は完売となりました。その商品とは、シイラとブリの西京みそ焼きです。一度買った人たちはほとんどがリピーターになるそうですが、現時点では決まった場所での販売がありません。同社のWebサイトに販売情報が掲載されますので入手をご希望の方はご覧ください。

おなじみのブリ(左)とあまりなじみのないシイラ(右)。シイラは県南部の海で採れるが、地元スーパーではあまり出回らない。(株)澄海では地の利を活かして鮮度が落ちるまえに加工できる強みがある。ハワイでマヒマヒと呼ばれる南方系の高級魚であり、県南部のスーパーや産直市で見かけたときはぼくも購入して照り焼きなどにしている
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県庁での出店の際は微力ながら販売をお手伝いしました。一度に30個も求められたお客様(県職員の方でしょうか)もいらっしゃいました。「いままで子どもが魚を食べなかったけれど、これだけは喜んで食べるので。今度いつ買えるかわからないのでまとめ買いしました」とのことです。

商品は冷凍すれば半年持ちます。冷蔵庫で半日解凍して電子レンジ(ふっくら仕上げる)、オーブントースター(カリッと仕上がる)などで手軽におかず一品が追加できます。この商品のすばらしさは、魚が食べられなかった人でも食べたくなるおいしさと手軽さにあります。それでいて、食通の人にも訴求する食べ飽きないホンモノの旨味を再現できています。

使われているのは県内で特注した麦みそに、塩、醸造用アルコール、砂糖など。アミノ酸は使われていません。後味が良くひとりで一袋(100グラム)食べられます。九州生まれの濱さんがお母さんにつくってもらった味を再現したとのこと(九州男児で照れ屋の濱さんがはにかんで言いました)。麦みそは九州や愛媛県で使われていますが、徳島では求める風味に合う麦みそを特注してもらったとのことです。魚のおいしさを麦みそが引き出していてほんのり甘いやさしい風味です。

濱さんの手描きの黒板。この文字からどれだけ多くの情報(思い)を汲み取ることができますか?
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お隣には、シフォンケーキやマフィンなど素材系の菓子では県内ではもっともおいしい店のひとつ、howattoさんが出店されています。こちらのマフィンを買い求めました。ホールシフォンは早々と売り切れていました。今年最後の営業日は12月27日(金)です。
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アップルクランブルマフィン
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冬の看板商品 シュトレン
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すだちくんも買いに来てくれたそうです
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外は寒い冬の夜、キッチンカーも盛り上げます
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DMVのモードチェンジに乗車できる体験も子どもの人気を集めていました
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(株)澄海は、2024年10月にアスティ徳島で開催された徳島ビジネスチャレンジメッセで優秀賞に選ばれました。
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知事に説明しているところ
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(株)澄海は、高い理念、まっすぐな志を持ち、それに戦略性と行動力、社会貢献性が備わっていて、地域を巻き込んでいることが高く評価されたものです(地域の高齢者が家から歩いていけるような場所に雇用の場ができたことで、地元でこの設備ができたことがどれだけ喜ばれていることか。会社には全国各地から取引を希望する事業者が視察や商談に訪れているのも集落に活気を呼んでいます)。

(株)澄海では、生産性向上を高めるための設備投資にクラウドファンディングに挑戦しています。本日時点で締め切りまであと数日(2024年の年内まで)ですが、状況は道半ば、できたばかりの会社の資金力には限りがあります。会社を立ち上げた方々の思いの深さと献身に頭が下がる思いであり、応援したいと思います(すでにクラウドファンディングには応募しました)。当社への寄付は、ふるさと納税の寄付控除の対象となります。みなさまのご協力をお願いします。
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ふるさと起業家支援プロジェクト
→ 町の遊休施設を活用し地域水産業の未来を支えるDX化プロジェクト


posted by 平井 吉信 at 11:24| Comment(0) | 徳島

2024年07月26日

文化の森のカタツムリは文学がお好き


文化の森のカタツムリは言語を理解しているといわれる。
這ったあとにバーコードの模様が現れるので、3眼仕様のiPonをお持ちのかたはバーコードリーダーで読み取って欲しい。この画面からは次の文言がバーコードから読み取れた。
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我が輩はカタツムリである。名前はまだない。
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。
月日は百代の過客にして、月のころはさらなり。望月の欠けたることも つれづれなるままに やみもなほ、トンネルを抜けると、岩にしみ入る 蝉の聲。和をもって貴しとなす。


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意味はよくわかりませぬが、文化の森に棲むカタツムリともなれば、話す言葉も文学的で高尚だな。
つまらなかった東京都知事選の次に出ますか? それとも副大統領候補でかの国にでも?

追記
うちにネコを飼っていた頃、日本語で質問すると、考えたうえできちんと答えてくれた。
このネコはかなり高い知性があったが、質問する人の知性を試すネコでもあった。名前はマナという。

ヒト:マナ、ドルと円と、いまはどっちが安い? 
マナ:エーン(たしかに)
ヒト:人と人をつなぐ不思議な関係性は?
マナ:エーン(いわれてみればそうかも)
ヒト:滝廉太郎の荒城の月の出だしで、はるこうろうのはなの のあとに続く歌詞は?
マナ:エーン(なんという記憶力)
ヒト:S=πr2で求める図形は?
マナ:エーン(すごいな。人間でもわからない人が43%はいるはず)

確かにこのネコは質問するヒトの知性を試す。
暑い夏の夜を涼しくお過ごしください。
(投稿している部屋の室温32度で快適です)


posted by 平井 吉信 at 23:28| Comment(0) | 徳島

2023年07月19日

線路は続く 風が走り抜ける田園を 

いまもっともやってみたいこと。
それは夏の太陽の下、風を感じながら全力で走り続けること。
倒れたって構わない。力の限り走れ、走る、走ろう。

生きることって、夏の田園を全力で走ること。
その先になにかがある。遠慮なく躊躇なく自分の限界を超えて遙か高みへと。
誰も止めない。それが若さでしょ。
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その気持ちを込めて撮影したけれど、見方によっては列車が走らない寂しい線路にも見える。
JR牟岐線の阿南駅以南のことだけど。
でも、現在過去未来と風が走り抜けているでしょ。
タグ:JR四国
posted by 平井 吉信 at 00:09| Comment(0) | 徳島

2023年07月12日

2023年04月07日

知事選に寄せてその2 課題解決力ではなく課題設定力とは そして徳島の魅力とは


前投稿でご質問をいただいた。「課題解決は重要ではないのか」と。
重要か重要でないかの回答ではないので補足します。

ここ数ヶ月、そのカテゴリーで日本一という中小企業の変革をサポートしている。経営は優良で社員も超優秀で全方位で抜けがなく、これまで見てきた中小企業のなかでも課題解決力はトップクラスである。しかし優良企業だからこそ課題は深いともいえる。

課題を解決する前に吟味すべきことがある。その課題はほんとうにいま解決すべきことなのか? もしそうとしても優先順位はどうか? いまはその時期か?

こうした吟味がないまま課題に取り組むと、場合によっては組織が疲弊してしまう。ありがちなのは、狭い範囲で部分最適化が図られることになるが、それが全体と融合しない。
例えていうなら、ABCという3つの組織(機能)があったとして、それぞれ点数を付けると3点、2点、4点であったとする(総和は9)。そこで2点を3点に改善するとよかろうと誰しも考える。そして3+3+4=8ということもありえる(組織全体の成果は変わらないがヘタをするとマイナスになる)になってしまう。これが部分的な最適化が全体の最適化とは限らないという意味である。

適切な課題が設定できれば、これが3+3+4=12、もしくは3×3+4=13のように相乗効果が現れる。従っていま私たちが取り組む課題は何かを抽出する力こそが大切である。景気が悪いからといって商品券やポイントをばらまいたとしても一過性に過ぎず、単なる選挙の票取りで終始する。いまやるべきは減税であると看破できなければいくら補助金や給付金を連発しても人々の心に安心はもたらさない。

このような時代のリーダーシップに、トップの思いつきでマスクをばらまいたり、必要性の薄い事業を急きょ始めたりしても、それが地域全体としてはマイナスのエネルギーを生み出す結果になるだろう。やってはいけないことを見極め、やらなければならないことを的確にやっていくこと。そのためにあらゆる知恵やデータを集めて地域が納得できる意志決定を行えるしくみをつくることがリーダーの役割である。地域の力を活かすことができない「ワンマン」「思いつき」「対話の拒否」「トップセールス」は論外としても「政策のばらまき」は資源のムダづかい。誰が知事になってもこの地域をどうするかという理念に基づいて、どのような取り組みが必要かを見極める課題設定力こそがカギであるということ。


追記

徳島では、魅力度、知名度、宿泊者数、交通網の整備などのランキングで全国ワースト級であることが示されている。とりわけ観光分野がそうであるが、県民や識者のコメントを見ると「アピールが足りない」などの意見が出てくる。

それではアピールとは何か? 誰に向かってどのような価値を訴求するのか。そこを掘り下げないと意味がない。よそがやっているからとインフルエンサーマーケティングや動画投稿などを行っても露出度が増えるだけで(それも疑問だが)実際には足を運んではくれない。

そもそもアピールが必要かという論点が出てくる。さらにいえば「県民は徳島の魅力をどのように捉えているか」にまで遡る。「徳島は何もないので…」というコメントが目に付くが、この論点だけ取っても、県民が徳島の魅力を見えていないことが明らかである。自分の住んでいるところが魅力的でない、何が良いかわからない県に、いくら電通にお金を注ぎ込んだとしても人は来ますか?「人を集める」のではなく「人が集まる」行動が必要と思いませんか?

このブログには本投稿前までに1598のコンテンツがあり、そのすべてがそうではないにせよ、ぼくが感じた魅力や良いところをお伝えしている。これまでにこれらのコンテンツを見て移住を決めて実際にいまも住んでおられる方々が少なくない。連絡をいただくことなく移住したり、訪れたりされたかたは把握する術がないが相当いらっしゃると思っている。

徳島の魅力は、ハレ(非日常)とケ(日常)でいうなら「ケ」の良さであると思う。確かに鳴門の渦潮や祖谷のかずら橋や大歩危小歩危はすばらしいが、それが四国4県のなかで際立っているかといえばそうでもない。

その代わり、徳島には全国有数の川がある。その川は人々の暮らしを育み、明治初期には全国有数の富める都であった徳島市。それも吉野川の洪水がもたらした藍に起因する。全国一のスジアオノリも同様である。世界中の川を見てきたカヌーエッセイストの野田知佑さんがなぜ終の棲家を日和佐にしたのか。それはほんとうに良い川は南四国(徳島と高知)にしかなく、交通の便の良い日和佐に決められたのだと推測する(野田さんについては雑誌の取材などのロケハンで県内の川を案内したことがある)。

県南部にはウルグアイラウンドの補助金で宿泊施設等の整備が行われてはいるが、収容人数はあまり多くない。しかしその海山川が持つ潜在的な可能性が大きいため、2007年に県(徳島県南部総合県民局。このときの職員は自らがサーファーであったり県南部の山野を誰よりも知る職員が集まったことで実現できた。当時の局長とも深夜まで議論したものだった)とともに「南阿波アウトドア道場」というコンセプトを作成し、体験型観光の先にある野性的なコンテンツを提案。癒しを求めて…のような生ぬるい考えではなく、県南部の自分の限界まで挑戦したときに見えてくる風土、そして自分に出会うことでほんとうの癒やしとなることを訴求したものである。

陸に目を転じれば、関西の食の供給源としての野菜や果物、柑橘類に恵まれている。直売所やスーパーの直売コーナーで朝採れが安く手に入るのも徳島ならではである。

内湾性の瀬戸内海と鳴門海峡の複雑な潮流による撹拌、川がもたらす砂やミネラルが育むハモやアシアカエビ、そして黒潮流れる県南部ではイセエビや磯魚、海藻類、回遊魚が採れる(近年は磯焼けが深刻である)。

このような徳島の真の魅力は川がもたらす風土(川と人々の暮らしの営み)であり、川のミネラルがもたらす恵みと癒やしである。このことは国立国会図書館にも蔵書されている「南阿波海部の新しい波〜エコツーリズムによる地域づくり」(1999年)で提案している。

行政は全方位の問題に対応しなければならないことは理解できるが、それは組織のかたちからも明らかである(○○課の仕事をつくるための事業)。しかし県全体で考えれば、困っている人や事業所の救済と、強みを伸ばすことだろう。そのように予算を立体的に編成する必要がある。もちろんその前提には県をこうしたいという揺るがない理念がある。

その理念に沿って政策を行う前提では継続性を重視という発想からも離れてときに議会などと対峙しても続けていく信念と覚悟が必要である(それが思いつきや暴走にならないための課題設定力である)。






posted by 平井 吉信 at 11:17| Comment(0) | 徳島

2023年04月05日

知事選に寄せて


政治家を選ぶのが選挙。その際に、政策や人柄で選ぶことが多いだろう。でも選挙の政策はあまり当てにならない。例えば「TPP断固反対 ウソつかない」と言っていた自民党が政権を取るとTPPを積極的に推進したように政策の転換は日常茶飯事。自分に関心のある政策があるとそれだけで入れてしまいがちだが、ちょっと待って。大切なのは政治理念です。

理念があって、政策の基本方針が定まり、それを実現するものが政策であるはず。このブログでも書き続けているように、ぼくはこの国を照らす理念は「国民一人ひとりの幸福」と信じている。

ところが日本が低迷し続ける30年はそれと真逆の政策方針が取られた。それは個人を犠牲にして一部の利権者が潤い、それが政治家に環流されるという構図。実際に国民の税負担率は上昇しており、収入の半分近くが税や保険に持って行かれている。消費税は3%、5%、8%、10%と上昇するも所得は減少している。税負担の増加と所得の減少で可処分所得が減れば、子どもをつくろう、育てよう、余暇を充実させよう、趣味を愉しもうなどと思わなくなる。

さらに2020年春からのコロナ禍で小規模事業者が特に疲弊している。その人たちをインボイスが直撃するといった信じられない政策が続いている。目を世界に転ずれば、コロナ下で減税を行なった国が半分以上はあると思われるのに、増税は日本だけかもしれない。

国民一人ひとりの幸福を求めていくという理念からは、生き方や多様性、多様な意見の尊重、減税を基調としたばらまきではない本質的な社会のあり方(=景気回復策)が行なわれるべきだが、政治はそんなことに目を向けない。

防衛費を突出して増やすというが、第二次世界大戦で日本が戦争で犠牲者を多く出したのは戦略なき行動とともに、兵站が抜け落ちていたからという反省が活かされていない。ミサイルを打ち込まれる前に、水や食料を止める、半導体などの供給を止めれば日本の息の根が止まる。

いまやるべきことは水や食料の自国内の安定的確保であろう。そしてミサイルを撃ち込まれない外交である(防衛費が増強されてもミサイルは撃ち落とせないし安価なドローンが多数襲来しても防ぐ術がない)。

むしろ地球に生きる私たちが本気で対策を行なうべきなのは宇宙からの隕石、小惑星の衝突回避。数kmの大きさのものでも直撃されれば衝突の衝撃波とその後に続く気候変動で人類に限らず生命は壊滅的な影響を受ける怖れがある。無差別にミサイルを撃ち込んだり他国の領海侵入を既成事実化するなどの無意味な行動を取っているようでは未来はない。

ロシアではプーチン、アメリカではトランプを一定の割合の人が支持しているというのも驚愕の事実。岸田政権も同様で、やってはいけない政策を意志を持ってやろうとしており、やらなければならない政策に無関心である。
 
国がこんな無能な状態だから、国とのパイプや人脈は何の意味もないと言いたかったのである。どんなに優れた人材がいてもそれらの知恵を集めようとせず、首長の思いつきで政策が決められるとどうなるか? 徳島市を見ているとわかると思う。井の中の蛙大海を知らず。

四国4県の他の県都を見ればわかる。高松市はサンポートを中心にこの10〜20年で丸亀町などを含めて商業機能一辺倒から福祉や医療、観光と一体感のある理想のまちにつくりかえた。理念が先行しているまちづくりである。

松山市は城下町を中心に、市駅前、JR松山駅の高架、ロープウェイ街(再開発後地価の上昇が全国有数)、道後温泉本館の改修も進んでいる。

高知市は中心部の帯筋界隈で市民が集まるハードとソフトが奏功して徳島市の商店街とは比べられない賑わいを誇っている(いずれの県都においても活性化の仕掛けで微力ながら自治体や事業主体に助言を行ったことがある)。

政策はトップの一存で決めるのではなく、在野に埋もれた知恵を活かすしくみをつくること。ある意味では意志決定のしくみづくりが最大の政策ではないだろうか。結論ありきの審議会、識者を集めた形式的な承認の場のような検討会ではなく、脱形式で本質をえぐる議論が出てきて行政がそれをサポートし尊重するやりかたが必要だろう。トップセールスという言葉は、政策ありき手柄ありきと同義語で無限に広がる潜在的な可能性を選択肢として排除するに等しい。今回の政見放送では政策を羅列した候補者もいたが、まさに理念なき政治の典型。なんでもあります、よりどりみどりは県民の幸福からもっとも遠い。

どの政策をやるかではなく、どのように政策をやるか。言い換えれば、課題を解決するのではなく、取り組む課題は何かを抽出すること。結論ありきの課題解決力ではなく、課題設定力を重視する政治や行政の運営はできないものか。そんな県政になればいいと願っているのだけれど、今回の候補者のなかには理想の政治家はいない。それでも次善の選択で投票には行こうと思う。
posted by 平井 吉信 at 21:20| Comment(0) | 徳島

2022年11月16日

吉野川大橋の下 雨が上がって弁当と散歩(6千歩)と


松屋でテイクアウトの昼食(牛めしランチ)を買った。
牛めしの並盛りといっても量はたっぷり。それに半熟卵とサラダがついて5百円。
付いてくるフレンチドレッシングがおいしくて店舗で売っていないかと尋ねたが売っていなかった。
どこで食べようかと考えて吉野川の河川敷へ向かう。

終日雨と思われた日中だが、車を停める頃には雨が止み、
食後に歩いてみたら次々と気になる場面があってここだけで6千歩。

至るところに赤く熟した木の実 水滴を帯びてたったいま生まれたかのように
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大河に沿った小さな流れがあることを知らなかった シラサギが草むらに浮かぶ
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つぶつぶ感
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11月の花とは思えないが雨上がりにもっとも妖艶な瞬間 おしろい花
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ノコンギク
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干潟に打ち寄せるさざ波 シオマネキとハクセンシオマネキを探したが姿は見えず
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川面を向いて石碑が立つ
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回り込むと不動明王
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大橋の下の水際はこんな場所 
県外の人に質問です。吉野川大橋を徒歩(時速4kmとしましょう)で歩くと何分かかると思いますか?
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答えは17分。そうです、橋を渡るのに17分。これが大河です。実際に基本高水という流量の基準では利根川や信濃川を凌いで日本一。ちなみに時速60kmの車でも1分8秒かかります。上りと下りで橋は別です。
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雨上がりの水たまり 水に映るベンチ 大橋などと説明する必要はないので
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ミサゴ?が飛ぶ空 生態系の頂点にいる鳥の一種
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河川敷に水路があることは知られていない
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サッカーや野球をやっている河川敷にカラスが降り立ち人の気配を感じて飛び立つ
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徳島市の中心部 吉野川大橋のたもとに出かけたのは人生で2〜3回かも。

タグ:吉野川
posted by 平井 吉信 at 23:20| Comment(0) | 徳島

2022年10月15日

悠久の石庭 徳島にこんな場所があったのかと


まずは写真をご覧ください。ここは徳島市内。
どこかおわかりですか?
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泰然自若とした石庭は夕暮れが似合うともいわれる。
昼頃に行ったのは立体感を見たかったから。
でも夕景を求める人も多いかもしれない。
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青石(緑色片岩)が使われている。
第十堰(上堰)にも青石の名残がある。
青石が使われたのは石井町近隣で産出したからと聞いたことがある。
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ここは第十五番札所の国分寺。
庭園名は、阿波国分寺庭園。
桃山時代の作庭とされる石の造形は国指定の名勝となっている。
posted by 平井 吉信 at 21:27| Comment(0) | 徳島

2022年08月13日

港町の夕暮れ 夏の入道雲やちぎれ雲は劇的に ときにほのかに染まる


駅前には広場があり、そこから幾重にも放射状に広がる道があった。逆に見ればここは収束点。広場の前は京阪神の航路があった場所(旧港という。後に北に新たな港=新港に移った)。船の待合室は鹿鳴館のような瀟洒な建物でハイカラ館とも呼ばれていたが、ぼくが子どもの頃にはユーレイ屋敷と呼ぶようになっていた。さらに昭和の終わりを告げる頃に廃線となり、やがて航路も廃止となった。

往時を知らない人には信じられない話だが、かつては四国の東玄関と呼ばれ、紙テープに見送られて多くの人が旅立った。ちくわ売りのおばさんもいた。鉄道は10数両を連ねて高知、高松、松山へそれぞれ直行する準急列車(今でいう特急)があったらしい。駅は広大な保線区、車両基地でSLが格納されていた。駅近くの踏切は車両の入れ替えなどで頻繁に遮断機が降りる。それは人の手でハンドルを回して上げ下げしていた。保線区内には石炭の貯蔵庫もあった。桜並木やバッタやコオロギがいる野原は鉄道の敷地内であったが、子どもが虫取りをするぐらいは大目に見てくれた。蚊に噛まれて痒いことをかゆいことを除けば1メートル四方に数え切れない虫がいる楽園だった。


昔話をしても仕方がないしぼくも年寄りではない。すみません。前置きが長すぎました。
写真はこちらです。かつての旧港と呼ばれた神田瀬川沿いの場所です。
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梅雨明け後の夕立を伴う天気の日はとにかく雲と黄昏が美しい。燃えるような光は最後の審判のようだし、ほのかな残照にもためいきのような情熱を感じた。これで終わりかと思ったら最後に予想外の朱に染まった。
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(フジX-T30+XF35mmF1.4 R、フジX-T2+XF23mmF1.4 R)
タグ:
posted by 平井 吉信 at 14:23| Comment(0) | 徳島

2022年05月03日

春のうららの鶴林寺 深山幽谷の趣のまま


四国巡礼は徳島は鳴門から始まるが、発心道場の阿波路では焼山寺と鶴林寺が道中が困難な札所だろう。
とはいえ車で上がる巡礼や参拝者も少なくなく細い山道は慎重に運転する必要がある。
車を停めるがそこからすでに幽玄の木立に包まれて昼なお暗い。山門に向かって歩き出す。
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境内には高い杉木立がそびえる
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樹木は苔むしている。霧がかかり湿度が高いのかもしれない。
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花(落花)を愛でながら仏像を拝謁して歩みを進める
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長い階段を上がると本堂、右手に五重塔
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特に読経したり納経帳に印をいただくわけではない。ただ苔むす古刹の醸し出す雰囲気が好きなのだ。寺もここまで来ると清浄をたたえて玲瓏神妙にある
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タグ:神社仏閣
posted by 平井 吉信 at 00:22| Comment(0) | 徳島

2022年04月15日

徳島には豊かなものがありすぎて


温帯モンスーンから亜寒帯にさしかかる日本には世界でも有数のスミレが自生する。
それは世界でも稀な多様な気候、地形、それらの複合作用の生態系、そして人間が関わる里山の暮らしがあるからである。
川とスミレについてのテーマが多いな、と思われる方、そのとおりです。
だってそれが日本が日本たる本質、四国や徳島の本質と思うので。

意外にも徳島はユリやスミレの種類の多様性は特筆もの。
海だって瀬戸内海から大河の砂が吐き出す海底の紀伊水道、そして太平洋まであるので海の魚の多様性も全国有数。
さらに雨が多いことにかけては南紀と四国東南部が双璧。深い森とそこから流れ出す良質の川に恵まれる。

そこでそれぞれの地区で川による野球を行うとして四国チームを編成してみた。
ちょっと負ける気がしない。いや、まるでほかの地区は土俵が違うという質の違い。
実際に全日本でオーダーを組んでみた。

1番 海部川
2番 沙流川
3番 長良川
4番 吉野川
5番 四万十川
6番 仁淀川
7番 那賀川
8番 熊野川
9番 錦川

DH:釧路川、信濃川、天塩川、江の川
代打の切り札:那珂川、筑後川、川辺川(球磨川)
代走:狩野川 魚野川


その結果、豊富なミネラルを宿した土から良質の野菜が採れる。
香酸柑橘だって、ゆず、ゆこう、すだち、阿波すず香、さなみどりとこれまた美味さわやか。
米だけはもしかしたら他の地域に及ばないかもしれないけれど、産地でなく生産者単位でいうとひけを取らない。

いやはや、徳島には何もかもありすぎてどこを訴求してよいのかわからない。その魅力をひとことのカタカナ(フレーズ)で表現すると「ミネラル・ヒーリング」。
これは1999年に著した「南阿波海部の新しい波〜エコツーリズムによる地域づくり」(国会国立図書館に蔵書)の核心となっている概念。それをアウトドアとしてコンテンツにしたのが「南阿波アウトドア道場」(初版を企画監修して現在は第3版がWeb上に掲載されている。第4版も計画されている)。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/FAQ/docs/00031554/


野田知佑さんが住んでいた日和佐町を例にとっても、海、川、暮らしとも一級品。
鳴門を例にとれば、渦潮、美術館、鳴門鯛、なると金時、レンコン、ドイツ館、一番札所、エクシブとありすぎて何を訴求してよいのやら。

そんなときあれもこれもではなく、特定の誰かのこんな場面で共感してもらえそうな物語を紡ぐというコンテンツの作り方が必要だよね。
posted by 平井 吉信 at 20:48| Comment(0) | 徳島

2022年01月09日

年末年始の神社訪問

人が集まるのを避けるために年末、夕暮れ近く、場所によっては午前中などと神社ごとに特性を考慮して訪問すれば密集は避けられる。

そして御札を求めて神々の弥栄をお祈り申し上げる。
若い頃から個人の願い事はしていない。
それらは自分の力で切り拓いていくものだから。

大麻比古神社(鳴門市)
阿波の一宮として。
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八幡神社(小松島市)
産土の神様として。
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天石門別八倉比売神社(徳島市)
少し古代に思いをはせつつ。
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事代主神社(鳴門市)
みなさまのご商売が繁盛するように。
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近隣の商店街のシャッターに描かれた絵 いまにも動き出しそうな生身感
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商店街から入った路地の片隅に昭和の時代の喫茶店
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余談
NHKの大河ドラマで近代が出ると視聴率が低迷する傾向があるようだ。
かといっていつまでも戦国時代とか江戸時代ばかりでもおもしろくない。
時代考証から離れて卑弥呼などはどうだろう?

九州の北部で生まれた少女が神がかりて人々の信望を集め
争いの絶えない国々をまとめる象徴として位置づけられていく。
そうして中国地方、山陰地方(出雲)と出会いつつ、畿内に入って大和に定着する。
各地の有力者たちとの関係性を描きつつ、執政を補佐する弟、後継者選びと教育、
来るべく王朝を予感しながら卑弥呼が大和盆地を見下ろしつつ番組を終えるという筋書き。
(邪馬台国が国のかたちを調えながら九州から畿内へと移動発展していくことで邪馬台国の比定は問題なくなる)

言語はときどき縄文語と古代やまとことばを散りばめながら(番組テロップで翻訳)
脚本家の創造で世界を遠くへ飛翔させてみる。
卑弥呼を誰に配役するか? ぼくは無名の新人が良いと思う。
極力人間的な演技に走らないほうがよく、そのかわり佇まいや立ち居振る舞いを重視してオーディションを行えば良いと思う。
posted by 平井 吉信 at 22:36| Comment(0) | 徳島

2021年12月19日

狸はいまも そしてこれからも 阿波の狸の物語


狸に化かされたことがなければ信じられないだろう。
ぼくも親父も同じ場所で別々の機会に狸に化かされている。
場所は那賀川下流の南岸、桑野川(岡川)との三角州状の地区で
夜間に1時間ばかり同じところを車で徘徊していたというもの。
(親父の車には母が乗っていたので証人がいる。ぼくはひとりで運転していたが自分のことだから信じるまでもない)
ぼくは小学生の頃から地図収集が趣味で知らない土地でも道に迷わない。日本地図など小学3年生の頃には湾や大きな川の位置も含めて宙でかけた。県内ならどこでも土地勘がある(字=あざで話をしてもだいたいわかる)。それなのに迷わされてしまったのだから。

さらに近年になってわかったのは、かねて狸に化かされたことが多いという場所が那賀川北岸(この場所の対岸)にあって目と鼻の先。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/177277035.html

2016年10月26日発刊の「小松島タウンニュース 第334号」(徳島新聞小松島市販売店会発行)によると、冒頭の泉正夫さんの「あの話この話」で県内の地蔵信仰が綴られている。
そのなかで、狸に化かされないように地蔵を建てた話として以下のように書かれている。
「那賀川町江ノ島、島尻、西原地区には道を通るときにタヌキに化かされないように建てた地蔵がある」

泉正夫先生は小松島高校の教頭をされていた方で「あの話この話」が書籍にならないかと楽しみにしている。退職後も精力的に活動をされている。


かつて芥川賞候補にもなった作家、三田華子さんの「徳島昔ばなし」には言い伝えが多く収録されている。例えば(記憶違いがあるかもしれないがこんな内容)、徳島市の佐古の辺りで夜に眉山で狸火が見えることがあった。狸が遊んでいるから邪魔をしないようにというのが住民の心情。特にやってはいけないことは、狸火を見ながら袖の下から手招きをすればたちまち火が向かってくるという。実際にやった若者がいて火が近づいてきて腰を抜かしたとか。

まあ、この話は一例だが、阿波の狸の話には事欠かない。スタジオジブリの平成狸合戦ぽんぽこの総大将は小松島の金長狸であった。

小松島市のキャラクター「こまポン」は小松島市の登録商標。竹ちくわを持っている。
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小松島市ステーションパーク たぬき公園の巨大なタヌキ像
(かつて小松島駅があった場所で阿波池田行きの10数両編成の列車が手動の踏切を通って煙を吐きながら行き来した)
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金長だぬき郵便局のポストの上にもいる
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日本たぬき学会の大平正道さんによる講演(2008年11月15日)
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南小松島駅前の泉のある公園のたぬき
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この金長狸にゆかりの大和屋の家系(梅山家)が金長神社の宮司を担われている。
→ 雨に打たれる金長神社 春を迎える日はいつまでか
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阿波狸合戦はかつて新興キネマの映画にもなり、その際に建てられたのが金長神社
宗教法人由来でない寺としては珍しく、長らく市民に親しまれてきた。
小松島市が運動公園に整備するため取り壊されようとしていた際に
地元住民が署名を集めて守るための組織を立ち上げた。
(修繕には1千万円以上かかる見通し。ご寄付は以下へ。清掃のお手伝いも歓迎)
 → 一般社団法人 金長と狸文化伝承の会 

その代表となられて活躍されたのが松村優子さんや地蔵寺のご住職であった。
松村さんからいただいた藍の染料で描かれた書画は宝物となっている。
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→ あいいろ企画株式会社の運営するIndigo MINERVA

マクドナルド小松島店の近くに藤樹寺という寺がある。
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境内の一角で祀られているのが藤ノ木寺の鷹とその子の小鷹、弟の熊鷹という狸である。鷹は金長の一の子分であったが、四国の総大将、津田の六右衛門に謀反の疑いをかけられてやむなく合戦となった折、一騎打ちで六右衛門に噛みつかれた深手を負った金長をかばいながら日開野(小松島)まで逃げ延びたが、鷹は一命を落とす。金長も三日三晩苦しんでこの世を去る。津田方も大将の六右衛門が一騎打ちで敗れて双方の大将が倒れる壮絶な闘いであった。合戦の後、無数の狸の屍が勝浦川下流(論田から大原地区だろう)を埋めたという。
→ 阿波狸合戦のあった勝浦川下流の散策(徳島市南部の論田、大原、小松島市江田地区)
http://soratoumi2.sblo.jp/article/185077495.html

2代目金長を継いだのは一の子分 藤ノ木寺の鷹(当時は寺社などに狸が棲んでいた)の息子、小鷹である。六右衛門の継承者、津田の千住太郎と和解して阿波の狸界に平和が戻った。

ここから始まるのが三田華子さんの「阿波狸列伝」である。
最初は在所の狸の活躍など小咄から始まるが、そのうちなんだかきな臭い匂いが混じるようになる。他国から某かの陰謀が感じられ、今度は2代目金長や千住太郎、それを取り巻く堅気の狸たちの奮闘を描いている。阿波の国、お城下、そして剣山を舞台に繰り広げられる人情話や妖怪変化の怪奇譚、冒険話、陰陽道などが散りばめられてスターウォーズやハリーポッターよりずっとおもしろいよ。メディアドゥさん、版元の小山助学館さんや著作者の三田華子さんのご親族と協議してこれを電子書籍化してみませんか?(紙媒体での流通リスクとどこでも読めるために電子化がいいと思う)
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『阿波狸列伝』第1巻「風雲の巻」、小山助学館、1959年5月。
『阿波狸列伝』第2巻「変化の巻」、小山助学館、1979年4月。
『阿波狸列伝』第3巻「通天の巻」、小山助学館、1979年7月。

お城下の3大女傑狸といえば、臨江寺のお松、興源寺のお染、妙長寺のお睦だが、
うちは毎年冬になるとお睦さんから御札が送られてくる。
そもそもぼくの名前は近所に狸の憑いた方が柳町の路地の奥まった一角に日吉大明神という祠を祀っておられたがその方が付けたという。ほんまか?

小松島というか徳島を代表する銘菓といえば金長まんじゅう。
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生みの親は二条通にあったハレルヤ製菓。
(うちから歩いて2分、走れば1分)
誕生日に買ってもらえるアップルパイやたぬきのケーキは楽しみだった。

水瀬マユさんの「姫さま狸の恋算用」は小松島や金長神社が舞台となったコミック作品。著者のサイン入りの初版を持っている


さても狸づくしのようであるが
今朝の徳島新聞を開くと、「長道のお絹」という徳島市安宅町界隈に住んで美人に化けていたお絹という狸が近頃人々が驚かなくなったので霊力を高めるために助任の万福寺の三太郎狸に会いに出かける途中で夕立に遭い、雨宿りに立ち寄った軒先で下駄師の爺さんに呼び止められて爺さんの話を聴いて諭される(爺さんは着物から尻尾が覗いていたので狸と気付いたがそんなことに構わず人生の深い話を語った)。寄稿されたのは徳島文理大の名誉教授の飯原一夫先生である。

子どもの頃はこっくりさんという遊びがあった。狐狗狸とも書くが、動物のお告げを聞くというもの。ほんとうに動物だったか人間の霊が変化したものかはわからないが、あまり深入りしないほうが良いのは確か。

こんなふうに阿波国、徳島では人と狸が文字どおり境目なく共生していた。
(知的な方も、ふつうのいなかのおっちゃんおばちゃんも狸について語る語る)
蛇足ながら蜂須賀家を藩主とする徳島藩はあるが阿波藩はない。徳島藩は阿波と淡路を所領する25万石であるが、実際は藍商人など藍や塩などの産物の利益(含み益)があって40万石以上とされた。そんな風土のなかで阿波の狸の物語が育まれてきたのだろう。

でもいまは政治家に化かされないようにしなければならない。ニュースやマスコミの報道を裏読みしていかないと真実はわかりませんよ。SNSの情報も悪意を持って拡散させているものを見抜かないと生きていけませんよ。ものごとには動機がある。その動機から見ていく方が真実に辿り着きやすいかも。権力を監視するためやら生態系や人権をより尊重するための憲法改正なら大いに賛成しますよ。
(狸の話題や写真は「狸」のタグからたどってくださいね)

12/20追記
本日、小松島商工会議所へ立ち寄ったら以下の行事があることを教えていただいた。
(商工会議所による88狸の取り組みとその地図

2022年2月19日(土)15:00〜16:30
阿南市文化会館夢ホール
講師:森脇佳代子​『阿波の狸合戦〜物語と地域〜』
「阿波の狸合戦」を郷土史の視点から見つめ直すと、新しいものが見えてきます。
江戸時代の写本、明治時代の講談、大正・昭和の民話、戦前の映画、平成のアニメ映画や小説、町おこし。様々な媒体を経由しながら、独自の進化を遂げてきたコンテンツ「阿波の狸合戦」。
地域性や各媒体の特性、時代の風を自在に飲み込みながら、今もなお世界を広げている「阿波の狸合戦」ワールドを、資料紹介も交えながらお話しします。


12/22追記
本日、小山助学館本店に立ち寄ったら、「阿波狸列伝」の第1巻と第2巻の在庫があった。
(写真はぼくの手元の第1巻〜第3巻)
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さらに店頭で「小松島の歴史と文化―阿波地域文化の特質―」を見かけたので求めた。
2021年3月21日刊の新たな研究成果が盛り込まれている。
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目次は以下のとおり。
・鍍金甲冑で身を飾る人〜子安観音塚古墳をめぐって〜
・コラム 水神社と立江馬淵遺跡・立江柳ノ内移籍
・豊国大明神と小松島
・阿波狸合戦と小松島
・阿波の奇僧 閑々子と小松島
・阿波の円山派の絵師 松浦春挙と小松島
・コラム 小松島のマンホール

なお、著者のお一人が上記の夢ホールでの講演の森脇佳代子さんであった。
書籍の価格は徳島新聞では1,000円と紹介されていたが1320円であった。





posted by 平井 吉信 at 11:39| Comment(0) | 徳島

2021年11月13日

藍よしのがわトロッコとの遭遇(徳島駅)


コロナ下では県外出張が少なくなっていたここ数年、久しぶりのJR四国での特急利用。
徳島駅の1番線に停車中の列車を撮影している人たちが見えた。
停車しているのはJR四国の特急として長年牽引してきた2000系、
そしてホームの電光掲示板には「トロッコ」の文字。
―よしのがわトロッコか?
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高徳線と予讃線はJR四国の看板路線でいち早く新型車が投入されてきた。
特に高徳線では空気バネを用いて乗り心地を改善した2600系が数年前に投入された。
→ 高徳線 2600系「うずしお」に乗ってみた
→ 特急うずしお N2000・2000系から新型2600系へ   

2600系はとても気に入っていたのだが、
長い距離でカーブの多い土讃線では空気の容量が足りないようで
量産されたのは車体の傾斜装置に振り子式が用いられた2700系。
見た目は2600系を踏襲し、技術的には2000系の改良版と
双方の良いところを組み合わせた感じ。
きょうは2700系に乗る。
(県内を走る徳島線と牟岐線では列車は更新されず2000系であるが、それだけになつかしさもある)

特急うずしおが出発する数分の時間に駆け足でよしのがわトロッコを撮影した。
藍色と木目の室内
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藍色から青への階調が基本となっている
「藍」と書かれた文字が戦国武将の兜のようだ
前へ回って顔を見ても藍から青への流れが吉野川を想起させる良い色である
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鳴門行きの普通列車の隣で先発の特急うずしお。
これから東京からの方々を迎える会議で高松へ出かける。
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JR四国をみんなで利用して支えよう。政策的にはJRを統合して全国組織としよう。

タグ:JR四国
posted by 平井 吉信 at 16:07| Comment(0) | 徳島

2021年08月27日

やまびこ打線の池田高校 ノーサインの富岡西高校 野球と光のまちでみんなが主人公となって始めること


仕事での打ち合わせを何度か行っていた県西部の方が帰り際に池田高校野球部のご出身と打ち明けられた。
畠山投手を擁して初優勝した前年度の選手という。
先発メンバーの名前がすらすらと出てくる、互いに。
そして「山間の…」と声を合わせて蔦監督の言葉を合唱。そして意気投合。

※「山あいの子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」という蔦監督の言葉が刻まれた碑が池田高校にはある。


「さわやかイレブン」のメンバーですら宙で言えるぼくも池田高校ファン。
池田高校全盛期の出場校は、(地名)高校とか、(地名)商業などのような公立高校が多かった。(漢字の熟語やアルファベット)学園のような私学はまだそれほど多くなかった。

さわやかイレブンとは、部員11人の山間部の学校が二度目の甲子園で準優勝したときのこと。
開会式直後の試合で一番の雲本選手がホームスチールに成功。
監督のサインは二塁盗塁なら二塁ベースを指さす(ほんとうかと相手も呆気にとられる)ものだったので県内の対戦相手にはばれていたという(当たり前だろう)。このときもホームベースを指したのだろう。大胆である。

いや、ホームスチールなんて野球のなかでも成功の確率がもっとも低い仕掛けの典型。なにせピッチャーが投げる130kmのボールと競争してキャッチャーがタッチするより早くホームベースに到達しなければならないのだから。左腕投手で3塁が見えないとか、右投手でもワインドアップのときとか、セットポジションでも一塁ランナーに気を取られている隙を突くことはあるとしても。
虎穴に入らずんば虎児を得ずの例えがあるが、失敗すれば三塁まで進んだランナーの憤死という高い代償を払うことになる。

さわやかイレブンがきっかけとなってマスコミの露出が増えた蔦監督を慕って(判官贔屓と監督の実直な言動が人気を呼んだこともあるだろう)県下からも生徒が集まりだした。
畠山投手の実家は三好郡ではなくうちから数キロの海辺のまち。
水野投手の実家もぼくの母校(富岡西高校)の通学路にあったあんこやさん。
この2人の投手を擁して夏(畠山投手)、翌春(水野投手)と優勝。
いまでも語り草となっている広島商業や早稲田実業との試合はYouTubeで見ることができる。

池田の対戦として印象に残るのは華々しい打撃戦の勝利ではなく、PL学園に敗れる直前の天王山といわれた中京戦。試合はがっぷり四つに組んだ横綱戦で双方が全力でぶつかって1対1のまま9回に突入した。
この回に池田がホームランをきっかけに2点を取って突き放したのだが、中京の野中投手が立派だった。
グランドマナーというか王者の風格。勝負に負けても全力で闘って悔いなしの表情にぼくは感動した。高校生の彼の器の大きさと野球以外であっても将来の大成を感じるのだ。この年は桑田・清原の1年生コンビを擁するPL学園が優勝するのだが、中京・野中投手には惜しみない賛辞を送りたい。

翌年の春は準決勝での明徳義塾との試合が印象的。スクイズで先制した明徳が隙のない試合運びで1点を守り抜き、8回裏1アウトまで来た。次打者も快音は聞かれず1塁への平凡なゴロ。残り4つしかないアウトを思えば点差は1点であっても見ている人は池田の敗戦を覚悟したはずだ。これで2アウトかと思った瞬間、守備でお手玉があった(甲子園には魔物がいる)。
命拾いしたランナーを1人おいて9番打者の井上選手が低めのボール球をすくい上げて右中間三塁打で同点。そして先頭に戻って坂本選手が同点の興奮が球場を包んでいた初球をライナーに右前へ運んで逆転。たった2球のできごと。この1点のリードで十分であった。9回表を迎える水野投手は息を吹き返したに違いない。

蔦さんはいう。「教育はちっぽけな大人の再生産ではない。大きい小児をつくること。これは自分の天職だ」。野球は好きでたまらない野球の申し子だが、それよりも生き方を問いかける。
PL学園に完敗したあの試合の後にマスコミの質問に答えた。
「この子たちの人生を考えたら負けたほうがいい。それも水野が打たれる形で」。

さて、池田高校からときは流れてコロナ禍の1年前、2019年の春のこと。
母校の富岡西高校が21世紀枠で初めて甲子園に出場。創部120年目にして初の甲子園出場となった。
(21世紀枠というが、このときの富西は四国大会のベスト4。かつて四国の野球の全盛期には選抜の四国枠が4つあったため普通に出られたはず。四国の野球の全盛期とは公立高校が甲子園の常連であった頃かもしれない。校名を売りたい私学が手段を選ばす選手を集めるに至っては地方色も高校野球らしさも薄れてしまった。そんななかで富西は公立高校で地元の選手ばかりでの出場であった)

この大会は愛知の東邦高校が優勝したのだが、冨西の応援団が応援団の最優秀賞に選ばれた。試合内容でも富西は1回戦で東邦と対戦し1対3で敗れたものの、この年の優勝校をもっとも追い詰めたのは富西といってよく、決勝戦のような緊迫した試合展開だった(実は試合当日は県外出張でテレビを見られなかったのであるが)。1点を先制された富西は6回に同点に追いつき、続く2死満塁で鋭い当たりが野手の正面を突いた。

高校野球では運と勢いを味方に付けたら番狂わせが起こる。いや、番狂わせに見えて実は理詰めの理由が隠されている。富西の野球は浮橋投手の冷静かつ読みの深い投球術にあるのは間違いないが、9人がそれぞれチームとして「何が求められるか」と個人として「何ができるか」を考え抜く。ノーサインで選手同士が考えて無言で意思疎通を行い試合を組み立てるのが大きな特徴。でも、そんなことはあり得るのか(超能力でも使うのか)。

現場の最前線に答があるとしたら、戦況をもっとも把握する選手がリアルタイムで作戦をつくりあげていく姿勢が運を呼ぶことはあり得るだろう。場面ごとに何をすべきかを選手たちがきっと共有していたはずである。

富西の小川監督は次のように説明する。
「もどかしいというより、お前、すごいことするなと驚いてばかりです。社会に出た時に生きると思うんです。こういう時はこんな選択がいいなとか、自由な発想ができる。彼らは楽しくて仕方ないんじゃないかな。面白いと言って卒業していきますよ。サイン通りだと指示待ち人間になってしまう。今は考える力を求められている世の中。主体的に動ける人間。社会に巣立った時に独創性豊かに活躍して欲しいなと思うんです」(引用元 https://baseballgate.jp/p/458123/

勝敗がすべてではないのだ。後輩たちの頼もしい活躍はその後の人生できっと生きる。人は苦しいことを経験してこそ、幸福にたどり着ける。なぜなら幸福とは、「状態」ではなく、それをどう捉えるかの考え方だから。

自転車で稲穂の海を渡るまっすぐの道を自転車漕いで通った北の脇とあの夏を思い出す。明日はその富岡の町に仕事で出かける。

(そして翌日…)
夜に開催されたセミナーが終わった。
CO2センサーの指標を説明しながら参加者は換気ファーストの原則を納得していただいた。一時CO2濃度が800ppmに達したが、やがて自然換気の効果で数分後に600ppm未満に下がった。この日、徳島では過去最高の感染者数の発表があったばかり。ワクチン接種を終えた当日にわざわざ参加された方もいた。一人ひとりが自発性と積極性を持って自分ごととして受け止めていただたいことで中味のある2時間半だった。

外に出て目の前に広がるLEDの森を見てシャッターを押した。この人たちの思いがまちの未来を照らすように。
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(夜の牛岐城公園は22時までLEDの点灯があるらしい)

追記
実は池田高校と富岡西高校の校歌は歌い出しの旋律がそっくりなのだ。

しののめの 上野が丘に 花めぐり そびゆるいらか みどりこき(池田高校)
はつらつ若き胸はりて仰ぐ眉山の空ひろく(富岡西高校)
https://tomiokanishi-hs.tokushima-ec.ed.jp/4045a6cfe9b444a802f6a477e985f6a0/826a29f8fa01d50ab18fc1504f6b3321

どちらの校歌もいまでも歌えるのだけれど出だしで混同してもわからないぐらい似ている。
甲子園での池田高校の校歌は1番のあとコーダをくっつけているのだが、実は2番と3番がある。音符の結びが甲子園版とは違って1番2番の結びは解決しない和声で終了感を3番まで持ちこんでいる。
https://ikeda-hs.tokushima-ec.ed.jp/g-shoukai/kouka
(甲子園バージョンとフルバージョンの2種類で聴ける)。

しののめの上野が丘が吉野川の河岸段丘にあることが実感できる学校のPR動画
https://www.youtube.com/watch?v=V7rTer-MPL0

実に優れた校歌だな。雄大で凛として。
(CD化しても売れるのではないかな)
終盤では装飾音(短前打音)が入るので技術的に難しいところも入っている。

posted by 平井 吉信 at 00:14| Comment(0) | 徳島

2021年05月18日

祖谷(東祖谷)の奥深さ 時を経ても縁は切れない


ここは東祖谷。秘境祖谷のなかでも最深部の釣井(つるい)集落。
近くには重要文化財の木村家がある。
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ぼくが遊んでもらった子どもたちは近所の子だ。
子どもの遊びを見ていると
高い崖(2メートル以上ある)からひとりが飛び降りた。
するとあとの子たちも続いた。
何事もなかったかのように着地して駈けていく。
骨が丈夫なのだろう。

やがてお姉ちゃんがじゃれる弟の足を引っ張る。
すると弟の頭は道路でコトコト音を立てる。
弟は笑っている。
アニメじゃない、実写だ。
映画じゃない、暮らしの一コマだった。
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あのお姉ちゃんと会話を楽しんだ。名前も覚えている。
もうとっくに成人して子どもがいるだろう。

東祖谷山村の釣井集落でミノルタX-700を手に出会う人々と会話をしながら撮影していた。
→ 詳しく見たい人はこちらに古いコンテンツ「東祖谷と三嶺・探訪絵日記」
https://www.soratoumi.com/river/iya/iya1.htm


それから数年後、
山と渓谷社からのご依頼で「ヤマケイJOY秋号」の取材で東祖谷と三嶺を訪れて写真撮影を行った。
投宿した宿ではひらら焼きなどをいただいた。
この取材に同行したのは後に「とくし丸」の創業メンバーとなる村上稔さんとその奥さんである。
村上さんとは仕事でいまも交流が続いている。

祖谷は平家の落人伝説がある。
伝説というよりは史実だろう。
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まず言葉(抑揚)が徳島の平地と異なる。
異国のように感じるほどだ。

ほとんどの人は祖谷のかずら橋を見て大歩危小歩危や妖怪伝説で帰っていくけれど
やはり東祖谷の集落で身体(時間)を埋めないと魅力はわからない。
SNSの受信音の鳴らない環境で急斜面の家の縁側から谷底と向かいの山を眺めてごらん。
雲を映した瞳、風になびく髪、千年のかくれんぼを感じる心。

1973年にアメリカの青年が祖谷に魅了されたのは釣井集落である。
ぼくも庵を訪ねていったが、このときアレックスさんは不在だったと記憶している。
(なぜ、こうも釣井集落に縁があるのだろう。実はさらにもうひとつ縁があるのだが)

アレックス・カーさんの語りで綴る6分少々の動画をご覧ください。
(三好市まるごと観光戦略課制作)
TRAVELS in IYA ~in the words of Alex Kerr~
https://www.youtube.com/watch?v=Pyskw3yjza8

(観光PR動画とは一線を画す静かな語り口、邪魔にならない音楽で佳いコンテンツですね)

追記
前述とはさらに別のご縁があった。
数年前に台風で壊れた屋根の修理を依頼した業者さん。
仕事がきっちりと評判の方。
実はこの方が東祖谷のご出身。
それだけでない。
東祖谷に特化したWebコンテンツをつくられていた方で
さきほどのWebでぼくがリンクを貼った先だった。
(現在はリンク切れでたどらないように)
さらに、東祖谷山村のご出身で後に知事になられた方のご自宅にお招きいただいたこともあった。
さらにさらに…いや、省略ということで。
祖谷はかくれんぼをしながら人のえにしをつないでいる。

タグ:祖谷
posted by 平井 吉信 at 22:13| Comment(0) | 徳島

2020年12月14日

海に沈む太陽を眺める気分の川辺の光景 吉野川大橋


県外の人に川に架かる橋を渡るのにどれぐらいかかりますか?と訊いてみる。
川幅にもよるけど、歩いて3分ぐらいと答えるかもしれない。

いえいえ、徳島の人は鳴門方面から市内へ入るのに川を渡る橋がありますが
時速60kmの車で68秒、
時速15kmの自転車で4分33秒、
時速4kmの徒歩で17分かかります。

それは吉野川大橋(1,137メートル)です。
海に沈む夕陽を見ているようです。

かつて阪神方面へ向かう水陸両用機が離発着していた古川橋(吉野川橋=1,071メートル)のたもと。
浮桟橋があったそうです。高度経済成長に差し掛かるオリンピック直前の頃らしいです。
川の水面を飛行場に使っていたとは。
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吉野川橋から1.4km下流に架かる吉野川大橋。
(下流に阿波しらさぎ大橋=1,291メートルが架かるまでは最長だった)
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(ご覧になっている光景は川に沈む夕陽ですよ)

でも高速バスに乗って東京関西方面から戻るとき
ああ徳島に戻ってきたと思うのです。
(橋の上を通過するときに、徳島駅まで迎えに来てもらうために携帯電話をかける光景を見ることがあります)

いまは県境を越える移動は控えておきましょう。
でも公共交通機関での感染の怖れはほとんどないことも
記憶にとどめておいていいかもしれません。
タグ:吉野川
posted by 平井 吉信 at 21:36| Comment(0) | 徳島