2022年01月29日

ステージにマイクを置きました…

ぼくは知らなかった。これが何を意味するかを。

きっかけは知人の女性との何気ない艶っぽい会話から。
その人は「ビキニはステージに置いてきました」といった。

意味が分からないまま、気になったのでしばらくして訊ねると
標題の言葉の暗示でようやくわかった。

1980年10月5日、山口百恵の「伝説から神話へ 日本武道館さよならコンサート・ライブ」のこと。
最後の曲を歌い終えた彼女がステージにマイクをそっと置いて
振り返らないまま立ち去っていくという場面から。
(それ以後、彼女は一度も舞台に立っていないはず。ぼくはこの場面を知らなかった。近年ではこの演出を模倣した事例があるらしい。映像を見るとぼくには演出には見えない)

ぼくが歌手であったとして、
この映像を見たあとに同じ行動はしない、できない。
(もちろんステージでの動きや行動に著作権はない)。
それは「模倣」を避けるというよりも
歌い手への尊敬の気持ちから。

山口百恵の歌は完成された様式美がある。
ラストコンサートでの語りは音符のない独白のよう。
(ファンの歓声がやや興ざめだがそれも時代の写し絵)
鍛錬されたかたちを持ちながらも
一瞬に思いを込めてうつろう悠久の時間が微分された一期一会。

探してみるといまでもこの映像はDVD、Blu-rayで入手可能という。


山口百恵の楽曲でもっとも好きなのは、
最後のオリジナルアルバムに収録されている「想い出のストロベリーフィールズ」。
詩がほんのりとセピアの色彩を帯びた写真を見るようで
走馬灯が回想されていくように想い出を抱きしめる。
ときが過ぎて戻れない時間が浮かび上がる。
だから人生―。
そんなメッセージを感じる。

「想い出のストロベリーフィールズ」がB面に収録されている限定発売のシングル「一恵」
サイン色紙が封入されている。
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誰が書いたのだろう。
横須賀恵、これは本人のペンネームだった。
ステージでの山口百恵を支えているのは、まなざしの深み。
ノスタルジーを畳みかけるのは杉真理の作曲。

山口百恵は制作側がつくりあげた仮面を付けて歌をうたっている印象があった。
数々のヒット曲はあれども意外に心に響く楽曲が少ない。
そんななかで「想い出のストロベリーフィールズ」は素のままで歌える音楽だったのではと。

初恋の幼なじみが美しく成長して思いがけず再会したあのとき、
ぼくはこの楽曲に出遭って彼女を見るたび胸のなかで鳴らしていた。
(その後一度も逢うことはなく月日が流れた)
そんな「想い出のストロベリーフィールズ」である。

次に好きなのは「乙女座宮」。
セールス的にはもうひとつだったようだけど、
当時の天文少年のぼくは楽曲のきらめく世界観にときめいた。
いま聴いてもその気持ちは変わらない。
(でも、しし座の彼とおとめ座の彼女では相性はもうひとつかな?などと思ったり)

「夢先案内人」にも思い出がある。
とある会合で出遭った初対面の女の子が気になってしかたない。
空色のシャツ、トンボメガネ、黄色のカーディガンでホワイトボードに向かっていた姿を昨日のように覚えている。
その彼女と南の海へ出かけたとき、耳元で歌ってくれた曲。
(これも売上はいまひとつだったのかもしれないけれど、華々しいヒット曲よりぼくはこんな楽曲が好き)

そんなふうに、みんなそれぞれの「山口百恵」があるに違いない。
いまはどこでどう暮らしているのだろうと思うと
切なさとともに、ひと目逢ってみたい気もする。


「想い出のストロベリーフィールズ」を含む最後のオリジナルアルバム「This is my trial」



春夏秋冬をテーマにしたこんな企画が成立するなんて。これは秀逸な企画。新たな価値を訴求している
「山口百恵 日本の四季を歌う」



シングルを集めた2枚組「GOLDEN☆BEST 山口百恵 コンプリート・シングルコレクション」
posted by 平井 吉信 at 15:03| Comment(0) | 音楽

2022年01月01日

台湾から日本へ〜春の目覚めを待つあなたの果たせなかった夢〜

謹賀新年
今年も佳き年でありますよう。

きょうは台湾の歌姫の話題から。
首相経験者からきな臭い発言があったが気にしない。
相変わらず歴史に学んでいないけれど。

有事にならないよう避けるのが外交。
伝えることは伝えながらも
中国とも台湾とも良い関係を保っていく道筋を模索するのが政治の仕事。

2021年中に気になるアーティストの音源を聴いた。
それは台湾東部に住む少数部族のアミ族の女性、イリー・カオルーの歌。
アミ属の言葉や台湾華語などで歌われている。
歌詞対訳は英語と日本語が付いている。
彼女の名前の英語/台湾語の表記は次のとおり。
Ilid Kaolo/以莉高露
このアルバムはコロナ下で日本の演奏者たちとわずかな隙間を縫って残された音楽の足跡。
(アミ属の神話に由来する歌などが題材となっていて音楽としてとても愉しめる)

台湾は大陸に近い西半分は平野が多く、東半分は山岳地帯となっている。
イリー・カオルーさんは農業に従事しながら伸びやかな東部の風土に息づく歌をインスピレーションでつくられている。
そのアルバムを聴いてみたいと思いつつ、忙殺されて2021年末を迎えた頃、思い出した。
そうだ、彼女の歌を聴こう。

イリー・カオルー(Ilid Kaolo / 以莉高露)/《Longing》

日本でリリースされたそのアルバムは短編小説の付いた仕様とCDのみの仕様の2種類。
こういう音源はすぐに確保しないと市場から消えてしまうと考えてHMVを見ると在庫があった。

商品が到着したのが元日のこと。
元日の親族の集まりも昼過ぎに引けて後片付けも終わった。
さっそく封を切ってみる。

ぼくが注文したのはCD+短編小説付だが、
ていねいかつ作り手の思いがあふれているもので感銘を受けた。

CDはタブレットサイズのブックレットに挿入されており、
台湾東部と思われる写真や彼女の自筆歌詞などが寄せられた十数ページになるもの。
装丁は黒の帯に金文字、暗闇に灯火で浮かぶイリーさんの幻想的な写真を表紙にしている。
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短編小説だけで1冊の書籍と呼べるもので
彼女の音楽を小説化して日本語訳をつけて挿絵がある。
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1曲目の「17歳的你」(17歳のあなた)で遙かな世界へ連れ去られる。
楽曲は日本統治下で17歳で海に散った少年の切ない物語。
 → 公式YouTubeでのMV https://www.youtube.com/watch?v=dtL8thEd0zU

春の目覚めを待つあなたの果たせなかった夢を歌が叶えるような切なさ。
台湾から日本の南の海へと吹く偏西風、台湾沖から日本へ向かう黒潮…。
悲劇の物語というよりは感情を解き放って浄化されるようで。
イリー・カオルーの音楽もコロナ下で結ばれた意識のように東方へと羽ばたく。

音楽の普遍性って言葉や記号を簡単に越えて伝わること。
動物が人の奏でる音楽にうかれたり身体の動きで表したりすることがあることからもわかる。
イリーさんの音楽もそんな伝わり方をする。

元日早々、伸びやかな台湾の土と海の匂いが届けられたようで目と耳のごちそう。
これだけの制作物が埋没してしまわないよう発信するのは聴かせていただいた者の務め。

公式Webサイト
http://ilidkaolo.com/
(日本語を選択すれば日本語で読める)

まず音楽を聴いてみたい人はこちらから。
https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_ns2p3Nplz1r0iclp9b2YgV6JWhJrS7jYI

追記
台湾本島の西にある澎湖諸島では2015年に
北京原人、ジャワ原人、フローレンス原人とも異なるアジア第4の原人と見られる人類の化石が見つかっている(澎湖人)。台湾は人類学的にも目が離せない。
posted by 平井 吉信 at 17:46| Comment(0) | 音楽

2021年12月18日

週末の百円スイート+スイートな音楽


ときどき菓子売り場を歩くのは量販菓子でも季節限定があるから。
この日は不二家ルックのイチゴシリーズ(使っているのはペーストのはずで通年出回っても不思議ではないがそこは不二家、季節限定で消費者心理に訴求するから)

このチョコレート、1962年から発売されているらしいので
もうすぐ還暦を迎えるというめでたい菓子なのだ。
(コンビニの棚で2週間並べて売れなければ他の商品に場所を譲って二度と戻ることはないのだから)
商品名は「4種のいちご」)と奇をてらわない。パッケージも王道を行く。
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イチゴの種類は、「あまおう苺」「もういっこ」「ゆうべに」「淡雪」。
あまおうと淡雪では切り口の色も違えば風味も異なる。
甘み、酸味、匂いの違いが明確にあって、半分に切って断面を眺めながら食べるのもよい。
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今月公開されたYouTubeの製品公式動画を見るとコミュニケーション菓子として訴求している(それも男同士だ。なるほど、異性のカップルがこの状況で食べているのは想像しにくいから)

コーヒーは浅煎りの香り高いものを淹れよう。ぼくはいつものあの小さなコーヒー店の豆で。
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音楽はペギー・リーの「ブラックコーヒー」よりも若手の音楽で。
Faye Webster(フェイ・ウェブスター)の「Atlanta Millionaires Club」。
2019年の作品だけど時代が舞い戻ったかのよう。
甘いささやき声で気だるい時間を浮かばせる。




Clairo(クレイロ)の「Immunity 」は2019年のリリースで彼女が二十歳ぐらいの作品。



BLU-SWING 「10th ANNIVERSARY BEST」


田中裕梨「雨のウェンズデイ -Single」
同じくBLU-SWINGのヴォーカリストのソロは大滝詠一の名曲をカバー。


ところでいま聴いている音楽は?
高峰三枝子の「南の花嫁さん」と一青窈の「ハナミズキ」。
何か?
posted by 平井 吉信 at 18:18| Comment(0) | 音楽

2021年10月05日

グリーグピアノ協奏曲 秋の古色を奏でる田部京子/小林研一郎盤


秋が来ると気温が下がり 眼前の景色が黄昏を帯びてくる。
森ですらオータムグリーンの濁りと円熟の色を混ぜてくる。

すみれをはじめ山野草が芽吹く春は愉しくてたまらない。
水を近く感じる夏は翡翠や紺碧に彩られた盛りを感じる。
それでは秋は…。
自然界の物音や風の気配すら音の調べを伴うような。

そこで聴きたくなったのはグリーグのピアノ協奏曲。
レコード盤ではツィマーマン/カラヤン/ベルリンフィルを持っている。
リリカルなグランドマナーといいたい若きツィマーマンのピアノを奔流のように包み込んで豊潤に歌わすオーケストラの詩情。この曲はシューマンのイ短調のピアノ協奏曲を組み合わされることが多く、ツィマーマン版もそうだ。

ツィマーマンは徳島市で公演を行ったことがある。もちろん行った。こんな機会は滅多にないから。演奏はもちろん良かったけれど、コンサート終了後に奥さんの肩を抱いて会場を去って行く彼の姿が印象に残っている。

ツィメルマン(ドイツ語ではこの音が近いのだろう)とも記されるが
東日本震災後からほぼ毎年日本で被災者のためのチャリティコンサートを行っているという。
CDで発売中のラフマニノフのピアノ協奏曲第2盤は名盤とされるリヒテルやアシュケナージとまったく異なる彫りの深い演奏だったが、作曲者が描いた甘美な世界観すら越えてしまった感がある。
(秋はラフマニノフの季節だよね)

外観は内面を表すというが、その哲学者のような風貌と相まって商業主義の匂いがしない求道者のようなピアニスト。尊敬している。


さて、2018年になって田部京子/小林研一郎/東京交響楽団のグリーグのピアノ協奏曲が発売になった。
ぼくはこの組み合わせが気になっていた。手持ちではモーツァルトのピアノソナタK331とピアノ協奏曲K488を絹のようなオーケストラとピアノの対話で演奏されたCDに心弾む。
作曲家にもよるが、田部/小林の組み合わせで聴くレパートリーのピアノ協奏曲は聞き逃せない。いまどきの演奏家に技術の齟齬などあるはずもなく、それだけではない音楽の香りが馥郁と漂いつつ音量やディナミークだけでない情感。録音も絹のような感触だ。

Amazonプライム(音楽視聴サービスがある)に田部/小林コンビのグリーグの協奏曲が載っているではないか。

第1楽章はおだやかに深い呼吸のオーケストラでピアノともどもにきらめきを抑えた表情が印象的。遅めのテンポで細部をほぐしながら悠然と漂う(ピアニズムのきらめきを封印したらグリーグが寄り添ってきたという感覚)。
第2楽章はツィマーマン/カラヤンの豊かな寂寥感も捨てがたいが、小林/東京交響楽団の音色は古色を帯びて胸にしみ入る。隠してもにじみ出るピアノの音色の凛とした透明感は田部さんならでは。
第3楽章は心のピアニズムとオーケストラが前2楽章に比べて楽曲の魅力に劣ると感じる終楽章を木訥につむいでいく。中間部の独白などこの曲はこんなにもしとやかで雄弁であったのかと気付いた。

カップリング曲はグリーグのペールギュント組曲からピアノ編。やはりグリーグはグリーグで通しで聴きたい。同じイ短調だからといってシューマンのピアノ協奏曲と組み合わされるとしっくり来ない。
ピアノソロになると一段と田部京子さんのピアノは独白の色濃く抑制されたピアニズムからグリーグの存在感が立ち上がる。

そして「朝」ですよ。誰もが知っているペールギュントの第1曲。劇音楽だけにオーマンディのような歌わせ方のオーケストラで聴いてみたい気もするけれど、饒舌を脇に置いたピアノで北欧の静的な風景、紺碧の湖やらフィヨルドを見下ろす夏に束の間に咲く植物のたたずまいが谷間の霧のように浮かび上がる。


posted by 平井 吉信 at 01:33| Comment(2) | 音楽

2021年09月21日

斑鳩から明日香まで古都をめぐる日々は遠く(広谷順子さんを偲んで)


秋が来ると夢のなかに繰り返し出てくる歌(楽曲)がある。

山に囲まれた大和路の四季を教えてくれたのはあなたでした
(中略)
斑鳩から飛鳥へとひとり静かに古都をめぐりたい
(広谷順子/「古都めぐり」から)



歌うのは広谷順子さん。
(YouTube上にあるので視聴してみて)
もし女性だったら大和路を案内してくれる恋人がいたらいい。
風を受けたレンタサイクルでめぐりつつ(明日香は自転車がいい)。
明日香川 明日も渡らむ石橋の 遠き心は思ほえぬかも

ときおり万葉集を引用しつつ振り返っては退屈していないか気に掛けてくれる。
でも実際は「私より古刹が好きなのね」と嫉妬するかもしれないけれど。

このブログを隅々まで読んでいらっしゃる方はぼくが明日香村を好きなことはご存知のこと。
春夏秋と季節をたがえながら訪れていた。
桜の咲く石舞台周辺、蝉時雨の雷丘(いかづちのおか)もいいが、飛鳥川上流の棚田の光景も好きだ。
歌は歌としていつまでも心に余韻を響かせている。
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「古都めぐり」は広谷順子さんのファーストアルバム「その愛に」に収録されている。
ぼくが買ったのはCD選書という廉価版であったが音質は良かった。
(しかしその後に発売されたUHQCDは声がさらに現実感があって買い足すかどうか悩ましい。なぜわかるかって? Amazonプライムに出ているので手元のCDと比較ができる。Amazonの低い帯域からもこのUHQCD版の生々しく地に足の付いた存在感がわかった。余談だけどレコードはA面5曲、B面5曲が多く、その場合だとAD46とかXL-146,HF-S46=要するにノーマルポジションの46分テープにダビングしていたよね)


このアルバム、いま気付いたけれど、編曲は全曲松任谷正隆で参加している演奏者は以下のとおり。
松任谷正隆(key)、高橋幸宏、林立夫 、村上秀一(ds)、高水健一(b)、鈴木茂 、松原正樹、吉川忠英 (g) 、斉藤ノブ(per)ほか豪華メンバーがサポート。オールスターを見ているような。でもあまりおかずを入れずに広谷順子さんの声を活かしているね。

けれどきょう知ってしまった。
2020年1月に広谷順子さんが亡くなられていたことを。
はやすぎるよ。

この方は歌の世界観がぶれることなく、年々純化していった感が強い。
ソロから、夫との2人ユニット「綺羅」になってからは万葉の逍遥のごとく。

80年代の日本の音楽は音志向(もっとも世界的にそうだと思うが)で
歌詞はというと、英語のフレーズがファッションのように装飾された歌詞を
腕利きのプレイヤーが粋をこらして曲を編み上げて涼しげに聴かせてくれた。
(それはそれで好きだけど、あの部分的な英語フレーズは苦手。例えばこんな感じ「夏空を追いかけた on the road あなたの横顔 見上げた blue sky 逢いたくて just the moment…架空の歌詞だけど当時のシティポップスと呼ばれる分野に多かった。でも広谷順子さんの音楽は日本語でそれも抽象的でなく歌詞が文章になっている)

「夏恋花」と題して世に問うた綺羅の1枚目のアルバムはさらに進めて万葉集の世界。
言葉を選び空間に放つ音の響きと多重録音の声が夢か幻かという音絵巻を魅せてくれる。
平安に迷い込んだような「さくら」に続く2曲目の「陽だまり」はいまの時代にこそ聞いて欲しい。
人の心の上澄みにある軽やかな夢心地をぽつんと空間に放つ。手練手管は感じない。
3曲目はアルバムのタイトル曲でもある「夏恋花」。
男女の声が空間にたんぽぽの真綿のように浮かび上がると順子さんの楚々と妖艶な童女のような声。
日本のポップス史上、この楽曲、この歌い手に似た存在を知らない。
海が見える丘を駆け下りた遠い少年少女たちの回想のように。


綺羅では童謡集を2枚出している。これは親密な日本の庭で遊ぶ愉悦がある。
http://www.kira-net.com/cd/tokinonagori1.html
http://www.kira-net.com/cd/tokinonagori2.html
次はこれを買いたい。


これもYouTubeを見ていて初めて知ったけれど
広谷さん、セーラームーンの楽曲を歌っている。
放課後の胸がキュンとする世界が直球で飛び込んでくる(「 Moon Heart Sequence」)。

鈴虫の「凛」と少女の「楚々」に人肌の温もりを加えたような声の人。
音楽っていいなという思いと誰もが遭遇する喪失感。

明日香も斑鳩も当分は行けそうにない。
秋に聴く古都めぐりはさみしい。いまゆえに。
いつか別れはくるものとなぜ知らずにいたのだろう♪(「古都めぐり」から)

(広谷順子さん、さようなら)


タグ:童謡・唱歌
posted by 平井 吉信 at 23:38| Comment(0) | 音楽

2021年08月13日

真夏の夜 しみ入る音楽 3枚


今年のペルセウス座流星群は大雨で見えない。線状降水帯が発生している地区もあるようだ。ご無事を祈りたい。

さて、眠りに就く前に音楽をかけている。
それもとても小さな音で近所にも隣の部屋にも迷惑にならないぐらい。
CDを1枚終えるまで起きていることはなく、3〜4曲目で意識が遠のいている。
一日の澱を洗い流すようで心地よいこのひとときは出張以外の毎日の習慣。

そんな音楽はリズムの刻みが大きいものや強弱が付くものは避けている。
ここでは3枚だけ紹介してみたい。


ロドリーゴ・レアン率いるヴォックス・アンサンブルというユニットからファーストアルバム
アヴェ・ムンディ・ルミナール/Rodrigo Leao & Vox Ensemble」

ソニーミュージックのWebサイトのアルバム紹介は以下のとおり。
ポルトガルの人気グループ「マドレデウス」の元キーボーダー、ロドリーゴ・レアンのリーダーアルバム。このアルバムは、ロドリーゴの音楽体験の集大成であり、ポルトガルの民族音楽の要素、モーツァルト、オルフ、グレツキー等、クラシックの要素、フィリップ・グラス、マイケル・ナイマン等ミニマル・ミュージックの要素が融合した素晴らしいアンビエンスのアルバム。


20年以上前に買ったCDでいまは入手できるかどうかわからないと思ってAmazonを見たらあった。視聴もできる。

1曲目はキリスト教のマリアを扱いながら弦楽の調べに載せて夢幻から聞こえてくる女性の声。
YouTube上にライブもある。
https://www.youtube.com/watch?v=rOEpOKIjgwY

本人が運営するYouTubeチャンネルに2020年の音源(ライブ)がある。
上記と比べてソロを抑えてコーラスとポリフォニーが感じられて好印象。
https://www.youtube.com/watch?v=r_T8r5oTpoU

こちらは映像詩。音源は手持ちのCDと違っている。低弦の和声が支える1996年CD編曲が好きだが、この版ももちろん作者のオリジナル。どちらも美しい
https://www.youtube.com/watch?v=XsGmZlpwMaA

ライブもいいが、CDの漂うような録音とこの世とも思えぬ女声の遠い響きが美しい。ファド(ポルトガルの土着の音楽)の香りは感じないけれど、突き抜けた感があって夏の夜に天上に包まれて眠りの旅路に就く。




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Matthew Halsall(マシュー・ハルソール)Salute to the Sun

2020年11月のコロナ下のイギリスで発売されたジャズトランペットのクールな音楽。スピリチュアルジャズとワールドミュージックの融合と評する人もいる。レーベル名のゴンドワナでかつて地球上に存在した大陸名。人の汗がほとばしるような音楽ではなく、現生人類が発生したアフリカの鼓動を思わせる淡々とした進行が眠りを誘う。でもそこに存在のエネルギーが感じられて魂が共感して浮游する感覚を覚える。
YouTubeにもレーベルが掲載したスタジオライブがある。
https://www.youtube.com/watch?v=QTzV1YdQUZw




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小松玲子 Voice of Sanukaite

香川県にはサヌカイトという岩石がある。これを調律して楽器に組み上げた。その奏者が小松玲子さんである。倍音成分が多い楽器でおそらく高次の倍音(超高域)まで伸びているだろう。もちろんCDでは20Khz少々までしか再生できない。それでも可聴帯域内の響きが空間に広がっていく。
サヌカイト楽器は打楽器でありながら激しい打音はしない。楽器に触れたことはないが、小松玲子さんの演奏を見るにつけ良い音を出すには適度の加速度と減速による音量、音色の制御、ときには響きのミュートも相まって空間に音をデザインしている感じ。

ぼくが持っているアルバムは2枚。最初に「LOVE LETTER 」を、次にこのアルバムを手に入れた。ほぼ同じ時期に制作された2枚だが個性が違う。
LOVE LETTER は玲子さんの個性を凝縮した楽曲で散りばめられている演奏者の顔が見える気がする。
Voice of Sanukaiteはサヌカイトの響きに浸るとしたらこんな音符の動きの楽曲はどうかしら?という楽曲で埋められており、サヌカイト岩石が宇宙に向かって語り掛ける趣がある。どちらか選べと言われれば前者を選ぶけど、後者が好きな人は多いはず。

ご本人のブログを見ると演奏会が中止となるなど大変な時期が続いていらっしゃる。

コロナ下で演奏会が円滑に行われないなかでCDを購入するのも良いことと思える。
Amazonでは視聴はできないようだが、検索していただくと関係者によるWebサイトがあって視聴できる。

YouTube上で同名タイトルを見つけて聴くのもいいだろう。ぼくのおすすめは「LOVE LETTER 」の公式動画。演奏する姿も魅力的だが、没入没我の境地で石と向かい合っておられるように見える。今後のご活躍をお祈りしたい。
https://www.youtube.com/watch?v=wM_s1obu49w



追記
玲子さん、吉野川市で7月にコンサートの予定があったことをブログで拝見。
https://ameblo.jp/marimbareiko/image-12686053472-14971160986.html
コロナ下での中止(延期)とか。
(確かにいまは医療崩壊寸前の状況ではあるが、地元観客を対象に行うのに中止の必要性があったのか。東京から移動される演奏者のPCR検査と移動手段の管理を行うことでできたのではないか)
2018年9月に小松島市に来られたとき止むにやまれぬ所用で行けなかった。
再度県内で実現するときはぜひ行きたい。
posted by 平井 吉信 at 13:58| Comment(0) | 音楽

2021年07月04日

いまがダメならかたちから入ってもいいじゃないか


COVID-19ばかりではない。人々も会社も社会も自信をなくしているようだ。
だから大谷翔平選手の活躍に胸躍らせている。

若い人だけでなく、レコードやフィルムカメラ、カセットといった80年代前後の道具に憧れを持つ人がいる。道具というより空気感かもしれない。

あの時代のポップスが世界から注目されるようになった。きっかけは竹内まりやの「プラスティック・ラヴ」かな。70年代の社会問題から解放されて音楽を奏でる歓び、夢中になることを時代も後押しした。

あいみょんの「マリーゴールド」、沸き上がる入道雲のようなまぶしさを感じさせる。
歌詞は「揺れたマリーゴールド」のようになぜこの言葉を選ぶ?という推敲の余地を感じさせるけど「麦わらの帽子の君が…」「今日という日になんて名前をつけよう」「雲がまだ二人の影を残すから」なんて恋人たちが空や雲に祝福されている感じ。あふれそうな作者の自信が伝わってくる。(この曲をパクリという意見もあるけど、定番のコード進行が似ている楽曲があっても世界観が違うのでそれは当たらない)
この曲から長渕剛の「夏の恋人」を思い出した。初期の松山千春を感じさせる曲もあるね。


彼女の声はとても心地よい。テイラー・スウィフトは起伏の多い抑揚だが、あいみょんのフレージングは音符のかたちとは別に息が長い。ゆえに声に浸れる。

でもテイラーの曲作りは耳に残る。彼女は2021年になって版権の関係から自ら初期のアルバムを再録しはじめているが、声の魅力は31歳のいまのほうがしっくり来る。10代の頃の録音はアーティキュレーションが不安定(尖っていて)で聞いていて苦しくなることがあるが、今回の再録ではフレージングの息が長くなっている。抑揚がおだやかになって声にも艶が増している(SNSerなら「エモい」と綴るだろう)。日曜の朝に聞きたくなるね。
フィアレス(テイラーズ・ヴァージョン)



何度も取り上げるaikoのカブトムシはいまだ類似の楽曲は出てこない。
ジャズのコード進行という分析もあるが、コードの分散和音の音を半音下げて外したり(和声と旋律を一致させない)、和声を借りてきたり、和声の解決の手前で立ち止まったり。コード志向の作曲だけどそのコード進行が予想が付かない。コードありきで不協和音が挿入されてコードが後追いするような。彼女は和声の海を自在に泳ぐが、はずしかたがたまらない。
音階の動きもゆっくり上行させたり急激に飛んだり。作曲が声楽的というより器楽的。それが自然に響くのは抑揚の滑らかさと音符の着地を弓をぼわんとするように落とす。かすれ声の語尾の独白もあれば、畳みかけるブルースのうねり。提示部と再現部で同じ音型に導かれて最初はためらうように低徊するが、二度目は飛翔する(「カブトムシ」が歌詞に初めて出てきて印象づけられる)など、パターン化とパターンの崩し方(発展のさせ方)。理屈はわからなくてもそんな箇所は聞く人の胸に響いている(刺さっているなんて使わない。心に刺さるなんてひどい言い方)。
それでいて手練手管を感じさせず、本能で選び直感から生まれた生っぽさ。詩として読んでも情景が浮かぶ絵心のある歌詞。この曲の世界観を再現するには感性のきらめきと高度な技術を要するが、歌えたときの充足感は他の楽曲では得られないもの。すべての音符がさりげなく、たったひとつの音符の揺らめきの情感の深さ―。魂のヴォーカリストだよね。走馬灯のような経過句での場面転換と曲想の合致、はらはらと咲きこぼれる心情。可憐な乙女心の日本語の歌詞をビブラートのない安定した音程でジャズ風のコードと半音階を混ぜてうたう歌手なんて世界中探してもいない。


ニコンからZfcという品番で80年代のベストセラーのようなデザインのカメラが発売される。
おおむね熱狂的に迎えられているようだけれど、一部のカメラマンからは評判が悪い(例えば、動物写真家のあの人など。まだこの人は画素数を増やしたりノイズを減らしたり、AF速度やら画像処理を強化したりすることを求めている?)


ニコンが技術的な新規性に挑戦せず、流行に安直に迎合した、機能的な必然がないデザインという批判は見かける。
(ぼくもフルサイズでこの路線はないと思う。フルサイズの巨大なレンズが小さなレトロ一眼レフデザインに似合わない。この点ではフィルムの最適解が35oであったとしてもデジタルではAPS-Cというフジの主張に同意)

いま必要なのは高性能なカメラでなく、ヒトが写真を撮るカメラ。EOS Rシリーズのようなカメラに撮らせるのをヒトが見守るカメラじゃない。
デジカメはここ数年、画質の向上はほとんどなくなっている。スマートフォンで済ませられるので人々はあえてカメラを使うことの意義とか価値を見出せなくなっている。
(ぼくはスマートフォンのカメラは使いたくない。ときめきを感じないから)
ニコンの新製品はあの頃のようにカメラを操作する愉しさを味わいたい、というニーズに応えるもの(ただしほんとうにそのニーズに応えているかどうかは疑問はある。この操作系ならレンズの絞り環は必須のはず)。

フジの操作はその点、矛盾がない。さらにAPS-Cこそフィルムでのライカ版の世界観をデジタルで体現できる、という哲学にブレがない。
絞りもシャッターも意のままに決められるしそれが電源を入れなくてもわかる。
シャッター速度をオート、絞りリングをオートにすればフルオートとなるわかりやすさ。
トンビが飛んできたので動きを止めるために1/2000へとダイアルを回す。絞りを開けたくて2.8に合わせる、といった「見える化」された操作。少なくともPSAMダイヤルよりずっと機能的。

フジは新製品のX-S10で操作系を一般的な方式を採用したが、それが売れている。
しかしフジが好きな人たちは、レンズの絞り環、シャッターダイヤル、ISOダイヤルが独立しているのを好む。ぼくもそう。フルサイズのデジカメに魅力を感じないのは富士フイルムがあるから、ともいえる。


ニコンの新製品には惜しいところがあるけど、このカメラが売れることは確実。ぼくはそれでいいと思う。そこからZシリーズが本質的に深化する糧になればいい。道具としてはZ50のほうが使いやすいのだろうけど。

でもぼくがソニーのプロフィール(ブラウン管テレビ)を使っているのは懐古趣味ではない。この映像が4Kや8Kの液晶より好きだから(目が疲れず映像に浸れる)。

音楽を語りながら、イメージ写真としてマリーゴールドの幸福な世界観の心象風景を海辺に描き出してみた。
木洩れ日と照葉樹の森をゆっくり歩きたくなる
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緑の富士フイルムの面目躍如
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海岸性の砂地ゆえに植生も潮風を受けて地面に貼り付く
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一目でこことわかる大里松原の波打ち際
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みどりの国に迷い込んだ白昼夢
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(ここまでフジX-T30+XF35mmF1.4 R、XF60mmF2.4 R Macro)

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(ここまでフジX-T2+XF23mmF1.4 R。葉の一枚一枚が写しこまれていてそれが画面全体の現実感につながっている)

最後は手倉湾。
ここから5分でまったく別の世界がひらける。港を含む内湾でおだやかな入り江は透明度が高い。こんな場所は地元の人しか知らない。
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夕暮れ近くなったが太陽は依然として強い。少年も飽きずに水と遊ぶ
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砂に映す空色は徐々に染まってきた
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posted by 平井 吉信 at 00:00| Comment(0) | 音楽

2021年04月24日

5月の別れ


風の言葉に諭されながら 別れ行く二人が五月を歩く、という歌い出しで始まる。

別離を決めている(暗黙の了解かもしれない)二人がどこかを歩いている。
それはきっと明るい森だろう。
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何があったかわからない。
幾たびのできごとを共有しながら紡いだ時間がそれぞれの思い出から切り放されようとしている。

冬から春の装いはことのほか風が感じられる。
草花や木々のためいきのような匂い、
見上げた空の高さがぽんと飛び込んでくる。
そこにぽつんといるあなたとわたし。

風が教えてくれるのは この世は変わって行くということ。
無常とは無情という意味ではない。
「風の言葉に諭されながら」とは自然のたたずまい、
自分たちも含めて「あるがまま」を受け止めなさいと教えてくれている。
これでいいの、これでいいのだ、と。

何もなくても無限の慈しみに包まれている感覚がわかるような気がした。
そんな心象を受け止める森の心を音楽にしたような楽曲。
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他人に提供した楽曲はそれぞれの演奏者がヒット曲をうたう感じになるが
作曲者本人がうたうと「作品」になる。

「Best Ballade」井上陽水

〔収録曲〕
花の首飾り
つめたい部屋の世界地図
いっそ セレナーデ
恋の予感
恋の神楽坂
リバーサイド ホテル
恋こがれて
結詞
自然に飾られて
ワインレッドの心
TRANSIT
背中まで45分
新しいラプソディー
5月の別れ
真珠
少年時代



「真珠」で夢を紡いでほろほろと溶暗していく時間を描き、
「少年時代」で締めくくる。
自然界の綾なす横糸と、人の心の機微を持つ縦糸を
少年の感性で老練な詩人が紡いでいく。それも艶のある糸(声)で。

売れることに注意を向けず楽曲の世界観を再現することに専念できる。
5月の別れを四月の宵に聴いている。
井上陽水は詩人の魂を持つ音楽家だから。


追記
コロナ下で苦しいのは誰も同じだが、それゆえにいっそう自分に注意を払うことが誰かを守ることにつながる。
わずかな光でも感じられたらそれが未来への希望へとつながっている。
破滅は再生へのきっかけ、苦悩は歓びの序章。

posted by 平井 吉信 at 21:09| Comment(0) | 音楽

2021年04月17日

BREEZEが心の中を通り抜ける 40年目のロング・バケーション

BREEZEが心の中を通り抜ける 40年目のロング・バケーション

それは偶然だった。
インターネットを見ていると、ロングバケーションの40周年企画が出るとある。
A LONG VACATION VOX

初出は1981年3月21日だった(27AH1234=アナログLP初回プレスは手持ちにあるよ)。
「君は天然色」、よかったね。
どこかで聞いたようでなつかしく、けれど新鮮だった。
そうか、40年。

気付いたのは3月19日、発売2日前のこと。
予約を入れておこうとWebサイトを見るとすでに「完売」。
根気強く探すと家電量販店のWebサイトに在庫があった。
それも割引価格で。
時間の猶予はないと発注。

それで手元にやってきた。
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このなかにはA LONG VACATIONのすべてが詰まっている。
たっぷりの溝で切られたLP、
最新リマスタリングのCD、エピソード盤、初公開音源、さらに当時のイラストブックやポスターなどの宣材も復刻。
おお。
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音質についてコメントしておこう。
手元にある20th、30thとの比較から。
A LONG VACATION 20th Anniversary Edition
A LONG VACATION 30th Edition
A LONG VACATION 40th Anniversary Edition (通常盤)
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20thは、音の粒立ちを重視しつつ音像が迫ってくる。
30thは、立体感に乏しいが音場の自然な広がりとカセットテープを聞くような各楽器の一体感が特徴。
そして40thはというと、
これまでのマスタリングのいずれとも異なることが一聴してわかる。
声が伴奏から分離して浮き上がるのは過去の2エディションにはなかったこと。
音圧は明らかに30thより高く、中域の充実度、艶がある。
その反面、高域の音場感は30thがいい。
ほとんどの人は音の違いを聞き分けられると思う。
(ただしそれをコメントにするのは訓練が必要)

音圧の低めの30thはアンプの音量を上げると有機的な音の広がりが押し寄せて心地よい。
音色の色彩感は3種類のなかでは地味(モノクローム調)だが、Fレンジ、Dレンジは広いかもしれない。

40thはきらめきや透明感を持たせつつ音が粒立ち、モノクロームの思い出に色を付けている!
やや人工的な感じも受けるが、これはこれでいいじゃないか。
この夏にはSA-CDも出るようだからそれも愉しみに。

ぼくがもっとも再生したのもこのアルバムかもしれない。
だってまったく飽きることがない。
いまの音楽のつまらなさって、シェア(共感)を強いることだよね。
(言葉でいえば「〜じゃないですか」と同意を得るニュアンス)

A面の1曲目から3曲目まででリゾートに運ばれる。遊び心だね。
しっとりとしたB面の1曲目「雨のウェンズデイ」では天然色をモノクロに換える。
思い出の夏を回想するB-2「スピーチバルーン」の独白の深み。
固唾を呑んでいると3曲目「恋するカレン」に打ちのめされる。
B-4「Fun×4」でいったん終わらせて異なる場面「さらばシベリア鉄道」に導く幕引き。
ほんとうに同じことの繰り返し(こちらの感情)なのだけど
数千回目のロング・バケーションとなってしまったかも。

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ロング・バケーションには松本隆、大滝詠一の才能(魂)のぶつかりからほとばしる音楽がある。
松本隆のつぶやきがコピーとして残されている。
「生きる事が長い休暇なら どこまで遊び通せるか試してみたい気もする」
「音と絵と言葉の三角形で 俺たちのカレイド・スコープなんだね」

この格好良い世界観を大滝さんはリズムをぼかしてうたう。
伴奏との掛け合いを楽しむかのように。
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ぼくもいう。
「生きることが長い休みなら、どこまで愉しめるか試してみたい気がする」
(人生は愉しむためにあるよね)
「空と海と川のつながりで、ぼくたちの四国なんだね」
タグ:大滝詠一
posted by 平井 吉信 at 16:43| Comment(0) | 音楽

2021年02月12日

たまたま出遭った「運命」(ベートーヴェン交響曲第5番)


ラジオからふと流れてきたのは「運命」。
久しぶりに聴いた。
いい曲だな。

もっとも20代のぼくはこの曲と格闘するかのごとく没頭していた。
自分ならここをこう演奏するなどと。
(レコードとCDは20枚以上はあると思う)

仕事中に気軽に聴いてみようとYouTubeを探したらもちろんあった。
でも、こんな演奏に出会うなんて。

朝比奈隆/NHK交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=K_nrwuWRLIc

大河を渡る古武士のような風格。
弦の滋味豊かなカンタービレの厚み、古色を帯びた金管の重厚な魂の響き、
技術を超越して音楽に巻き込まれる。
第2楽章の出だしからして高貴な風格が漂う。
(全盛期のベーム/ベルリンフィル以上かもしれない。N響は指揮者によってはこんな音を出せるんだ)
ここ十数年のヨーロッパの指揮者でもこれだけの広々とした運命は演奏できない。
感染症で苦しむ社会に降り注ぐ慈雨のようだ。
CD化されないかな?
posted by 平井 吉信 at 14:05| Comment(0) | 音楽

2020年11月23日

笛(篠笛、フルート)とハープ。モーツァルトから狩野泰一、hatao&namiまで (たった5分で景色は変わる 変えることができる)


若い頃から好きなのはモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」(k299)。
典雅な宮廷音楽のようだが、幸せの虹を音で描いたような音楽。
優美で空間にすっと入ってくるのはモーツァルトの人たらし的な作風もあるけれど
聴き手の思いの深まりに呼応して深い水の色をたたえた湖のような表情にもなる。

モーツァルトは知人の貴族が演奏できるよう作曲したので
調性もハ長調にするなど難しい指使いは避けている。
きらびやかな第1楽章のあと、
第2楽章では人生がこんなふうに過ぎていけばいい、と思わずにはいられない。
微笑みはモーツァルトの創作の泉から湧き出しているが
フルートとハープという異色の組み合わせから
音楽の色が無限の階調をうつろいながら夢幻を漂う。
(この音楽はイヤフォンではなく小さな音量でいいから空間に高く描きたい。モーツァルトが書いた虹のような音楽だから)

おすすめは以下のCD(適宜検索で見つけてみて)
ヴェルナー・トリップ(フルート)
フーベルト・イェリネク(ハープ)
アルフレート・プリンツ(クラリネット)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:カール・ミュンヒンガー
録音:1962年9月
場所:ウィーン、ソフィエンザール
https://amzn.to/3kVDhTg


典雅なウィーンにじっくり浸れる前者に対し、きらめきを伝えるのはランパルとノールマン。
(どちらもじっくり探せば新品はあるかもしれないけれど当時1000円前後で買えた名盤のCDは2010年代後半が入手できる最後の機会かもしれない。ダウンロードやストリーミングでも入手は難しくなっている。かつてどこのレコード店にも置かれていた名盤なのに)


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ときは流れて平成の日本。
佐渡島を拠点に活動されている狩野泰一のCDをご紹介。
主役の楽器はもちろん狩野さんの篠笛。
それに津軽三味線、中国古箏、ピアノ、ベース、ストリングスなどがからむ。
アルバム名は「Fish Dance」。


ぼくは寝る前に小さな音量でこのアルバムを聴いている。
CDプレーヤーに盤を置いて再生ボタンを押す。
目を閉じて1曲目の「Fish Dance」の音の入りを待つ。
わずかな刹那にこれから浸る音楽の余韻に早くも没入している。

ピアノの短い序奏に続いて篠笛が揺れるような音階を奏でる。
この出だしのおだやかさはおだやかとしかいいようがないおだやかさ。
そして天に向かって憧れを伸ばしていくが
次の瞬間、ひそやかな告白(人生の振り返り)のパッセージがある。
そして人生を肯定するようにピアノに受け渡す。
(もうたまらない)

ピアノもおだやかに入って篠笛の和声の進行をなぞっていく。
和声のアルペジオの伴奏で指が触れただけの打鍵、
言葉にならない心の動き、感受性だけでできているピアノのはかなさ。
高揚した演奏家の心は雲間から差す木漏れ日のようにきらめいては
天使のように降りてくる。
このピアノはいつまでも続いてほしい、終わらないで欲しい。

誰だろう、こんな弾き方ができるのは。
羽田健太郎は健康的なロマンティストだが、このアルバムのピアニストは崩れ落ちそうなセンチメンタリスト、フェビアン・レザ・パネ。

手持ちのCDでは大貫妙子が弦とピアノの伴奏でオリジナル曲を再録した名盤「pure acoustic」で伴奏をしていたのはレザ・パネでなかったか。
「突然の贈りもの」の耽美的な美しさは聴く度に心が震えた。


笛は人の心にもっとも近い楽器。
感情を誰かを介することなく、楽器のメカニズムと接触することなく
音として空間に出せる。
ひとつの音符のなかにスタッカートとレガートを混ぜることも
レガートにアクセントを挟むこともできる。
これは弦楽器や鍵盤楽器、打楽器にはできないこと。
このアルバムではオリジナル曲だけで綴られているのもいい。
少ない音なのに豊潤な音絵巻に浸る感じ。
(心にしみ入る音楽ってこんな音楽だよね)。
演奏者も聴き手も心に豊かさがないとね。
全編で佐渡島の風や海鳴りを感じるのもアルバムコンセプトかも。
録音も極上。少ない楽器の息づかいと豊かな残響感。
立ち上がりの良い音で空間を刻みながら、あふれんばかりのソノリティで満たす。
(フルレンジやタイムドメイン理論のスピーカーで再生したら愉しいと思う)
狩野泰一/フィッシュダンス

余談だが、胡弓とか笛、ハープなどもそうだが、
唱歌やスタンダードな楽曲の演奏はしてほしくない。
人が謡う音符と楽器の音符は違う。
その楽器の個性を活かせるのは楽器を知った作曲家、演奏家によるオリジナルと思っている。

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笛とハープという組み合わせで北欧の味付けを基調にオリジナルを大切にされているのがhatao&namiのお二人(考えてみればフルートとハープの組み合わせはモーツァルトのあの一曲だけでほかにはないかもしれない。それをデュオとして演奏しているのだから)。

小西昌幸さんが館長をされていた北島創生ホールは
全国的にも希有な企画を地道に続けている。
公共の施設なのに、あまり聴いたことのない演奏や作品を採り上げておられる。
もしかして議会や町民からクレームがあったかもしれないが、小西さんは信念を持って取り組まれている。
役場を退職されたいまも精力的に活動をされており、
今回のコンサート「hatao&nami ケルト・北欧音楽への旅★5分間の魔法」も小西さんが企画されたのだろう。
*hatao&nami(畑山智明、上原奈未)
どこかのホールの席数をいくつにするかなどの形骸化した議論よりもそこにどうやって魂を吹き込むかが大切。どんな人にどんな権限を任せてどのようなコンセプトでやっていくかを考えたとき、ホールのあるべき姿が見えてくるだろう。加えて感染症対策が不可欠となった2020年以降に2千人を収容することは少なくとも1時間に6万立米の換気を求められる。その空調とアコースティック楽器のコンディショニングやモーターのうなりなどの暗騒音はどう解決するのか。県にひとつは大きなホールを、などの「もっと欲望症候群」のような文化の香りのしない意見を見ているとこれはダメだなと思ってしまう。検討委員会は小西さんのご意見を伺ってみてはどうか?。これまで全国的なイベントをいくつか徳島で実行してきた経験から使い勝手が良いのは400人から800人程度の音響の良いホールを複数、100人までの小さいけれど音響の良いホール(適度な残響感)を複数あるのが良いように思うのだけれど。


その小西さんが招へいするのだから行かなければと思った。
hatao&namiのお二人は関西を拠点にアイリッシュやケルト、北欧の伝統音楽とオリジナルを演奏されていてこれまで4枚のアルバムを出されている。

当日は2枚目のアルバムからの「雨上がり」「自由な鳥」で幕を開けた。楽器はアイリッシュフルート、アイリッシュハープ。未知の空間が開け放たれた印象。
親しみやすい旋律だが、hataoさんのフルートが縦横無尽に会場をかけめぐる。
どこかで聴いたような旋律は皆無で思いのままに音楽を呼吸している。
自由な曲だな、と浸る。
続いてフィンランドやアイルランド、スウェーデン、ブルターニュなどの伝統曲の再現と二人のオリジナル楽曲を織り交ぜる。

今回の演奏会は「5分間の魔法」と題された4枚目(最新)アルバムのタイトル曲が最後に置かれている。演奏会でのnamiさんのピアノ(この曲ではハープではなくピアノ)はスタジオ録音と異なって高域のアルペジオをきらめかせて音符が跳動する。

演奏家には緊張感はあったはずだが、
それよりも音楽できる歓びがほとばしるようで
自宅で聞いたCDの録音よりも高揚感があった。

愛好家が手慰みに吹く唱歌やオリジナル曲はベースが歌謡曲(歌)にあると感じるが、
それゆえに飽きやすい。
hatao&namiは器楽のアプローチで和声が基本にあって
音符はその時々の感興に任せているように感じる。
古典のソナタ形式のように序奏−提示部−展開部−再現部−コーダのような構成を感じる楽曲もあり、再現部では2つのテーマが調和に向かう。

そのためCDで繰り返し聞いても飽きることがない。
こんな良質の音楽をつくっている人たちがいると生きていて良いなと思える。
この社会では売れる売れないは価値とはまったく無関係なのだ。
(ぼくもこの言葉を自分に言い聞かせている)


ぼくは当日のプログラムでの印象からCDを2枚(2枚目と4枚目)を会場で購入。
お二人のサインもいただいた。
著作権はあるが、やはり優れた作品を紹介したいと思ってジャケットを掲載する。
細部まで行き届いた配慮と世界観が浸透している。
音楽そのものもさることながらCDパッケージの完成度が高い。
ダウンロードではなくCDをぜひとおすすめしたい。
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最初に買うのなら2枚目「雨つぶと風のうた」がいいかもしれない。
北欧の香りが部屋に立ちこめる。
録音も2枚目が良好である。
Songs of Raindrops and Breeze 雨つぶと風のうた


演奏家としてオリジナルで勝負しているのが最新作(4枚目)の「5分間の魔法」。
4枚目のアルバムは以下のWebサイトにhataoさんによる解説があり動画での視聴もできる。
https://celtnofue.com/blog/archives/5392

疾走感あふれる楽曲「曇り空の向こう」はいまの時代を見据えながらも元気をもらえる楽曲で思わず手を打ってしまう。演奏している二人がもっとも気持ちよさそうだから。
続く「黄昏時のリール」ではハーモニックス音のような音で始まる。アイルランドの古いまちなみに集う人と夕暮れの鐘のような余韻(心のざわめき)が心に残る。最初に何度も心で繰り返したのはこの曲だった(テレビドラマのエンディングで採用されたらきっとブレイクするね。ヒット曲の要素を持っている)。
音楽会でも演奏された「6年間」の音楽の心地よさ。
「三日月の星夜」では歌謡的な旋律を散りばめる。
ラストの「5分間の魔法」はピアノのアルペジオの導入の後、意外な調性でフルートが入ってくる。その後転調を重ねて新たなテーマもあらわれて川の流れのように変化していく。祈りの高揚感のあと、ピアノが導入を再現するが、フルートが転調して現れピアノが寄り添いフルートが心を満たされながら音を置く。長い人生だけど、たった5分で見ている景色が変わることがある、というメッセージ。

4枚目「5分間の魔法」もどうぞ。

https://amzn.to/39d85wJ

posted by 平井 吉信 at 12:41| Comment(0) | 音楽

2020年10月17日

しらいみちよさんの「豊かな時のなかへ」という曲を知っていますか?


少し前のブログで「檸檬」はつまらないと書いたが、
それはパフォーマーの才能というより
時代が求め人々が共感する方向がつまらないの意味である。
(文脈を読めば誤解なく伝わったと思うが念のため。人々を楽しませるという意図ではなく自分のためにつくっているような気がする。孤独を感じる人はその世界感に浸れるが、そうでない人は息苦しいと感じるのではないだろうか)。

1980年代の音楽は演奏家たちの職人芸とプロデューサーなど作り手の思いが組み合わされて
聴いていて愉しい音楽が量産されていた。
アイドル歌手を例にとっても、
新人歌手とは思えない大胆かつ伸びやかな松田聖子のファーストアルバム「スコール」(CBSソニー)、
ワーナーパイオニアからは大成を予感させる中森明菜の「プロローグ〈序幕〉 」(デビュー前の彼女を生で見て売れると思った。レコード会社は「ちょっとエッチなミルキー娘」というキャッチコピーを付けていたように思う)。
菊地桃子のデビュー作はホーンセクションをはじめみごとなまでのサウンド志向。これがアイドルのアルバムかと驚いた(当時のVAPさんはそこに力を入れていたんだろうな)。

1990年は環境の時代(Geeen Decade)の幕開け。
1976年にイギリスの片田舎で創業したボディショップが世界的な企業に登り詰めるのも環境というビジョンを掲げて邁進する姿に人々が共感したから。日本では自由が丘に1号店ができた。創業者アニータ・ロディックの原書「BODY AND SOUL」を梅田の丸善で購入して自分用に翻訳したのもこの頃(本の通販などなかった時代)。

そんな90年代半ばの1996年秋にシングルCDが発売された。
しらいみちよさんの「豊かな時のなかへ」。
(ジャケットは屋久島の森のようだ。当時の8センチシングルCDは縦長のジャケットなのだ)
緑あふれる理想郷への思いをうたったものだが、
90年代から理想の環境の時代が訪れる未来への祈りのような楽曲。
それを歌うしらいさんののびやかな表情に浸る。
癖のない透明な声だがふくよかな潤いを豊かに広げていく。
アレンジもアコースティック楽器の和音の重ねが素敵だ。
(いまの時代だからこそこんな歌が必要ではないのか)

どんなに悪政が繰り広げられても茹でガエルのように気付かず内閣の支持率が高いなんて。
(つまらない、つまらない。目を開いて現実を見よ。理想を描いたときに現実のひどさが見えてくる)。
そんな時代だからこそ
自分たちの手で未来をつくる覚悟と
夜も眠れないほどのわくわく感で時代を切りひらきたい。

カップリング曲の「23夜」は屋久島への旅をうたったもの。
それは水の滴、静寂の森、23夜の月の出を待ちながら風を感じる人の心。
屋久島のやわらかな心象風景はしずしずと―。

満たされた思いは未来への希望に抱かれているから。

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しらいみちよさんのアルバムも聴いてみたいのだが入手が難しい。
しらいさんは被災地の復興を後押しする取り組みを続けておられるようである。
信念を持って活動されている音楽家にとって受難のときを迎えておられるが
積極的にコンサートへ行ったりCDを購入して支えたい。
(正しい知見に基づく感染症対策が施され、かつ参加者がルールを守れば音楽会は安全に開催できる。留意点は音響と空調の流れの制御)
「豊かな時のなかへ」を多くの人に聴いていただける機会があれば。
(アマゾンで2万円の高値が付いているが、せめてダウンロード音源だけでも確保されないものだろうか)

posted by 平井 吉信 at 23:43| Comment(0) | 音楽

2020年08月23日

真夏の夜のオレンジ〜Caroline Shaw: Orange / キャロライン・ショウ:オレンジ アタッカ四重奏団〜


夏の暑い日々も少しずつ秋の気配が感じられるこの頃、
そんな時節にとてもおいしい音楽を見つけた。
(梅干しの次はオレンジ)。

楽曲や演奏者の解説は以下のWebサイトをご覧いただくとして。
https://wmg.jp/attacca-quartet/discography/20725/

https://www.npr.org/sections/deceptivecadence/2019/04/19/700361912/caroline-shaws-love-letter-to-the-string-quartet


バレンシアオレンジはアメリカのスーパーマーケットでどこにでも売られているありふれた果実。
そのオレンジから受けた霊感を
冷涼かつ温もりのある陰翳、精緻な造形で描いた音楽(といっても伝わらない)。

弦楽四重奏曲はハイドンやベートーヴェンの古典から
近代ではバルトークやショスタコーヴィチの名作が知られる。
この音楽も古典の造形や構造は採り入れているが、
新たな価値(心象)を再現するのに成功している。
といっても作者のひとりよがりの実験音楽の印象はない。
音が空間に鳴り出すとわくわくする感じ。
(千利休の一期一会という言葉がこの音楽との出会いそのもの)

強いていえばラヴェルの弦楽四重奏曲を自由に解き放ち、時間と空間に拡散させながら
音楽そのものはあくまで人間に寄り添っている風情。
現代に活きる作曲家が自由に魂を羽ばたかせて
そこに漂う人肌の温もりとオレンジの酸味が飛び交う刹那が交錯し
弦楽がピッチカートや和声を織り交ぜて空間に積み重なっていく現象を
現実に受け容れて音空間に浸る歓びは何物にも代えがたい。

晩年のベートーヴェンがもっとも力を入れたのは弦楽四重奏曲で
彼がこの世を去るまで描かれている。
ときに一筆書きのように融通無碍で
馥郁とした音楽の香りが立ちのぼるが
それとともに作曲家の魂に触れる親密さ。
そしてどこか遠くへ連れ去られる。
(バルトークやショスタコーヴィチも同様だろう)

作曲者のキャロライン・ショウも純粋な音楽の表現として弦楽四重奏が最適と考えたという。
そして自らが呼びかけて結成したアタッカ四重奏団が彫りの深い演奏で応える。
(2003年、ジュリアード音楽院の学生により結成されたもの)

音楽とは形式や構造を持っていて、そこに和声、リズム、テンポがあり
楽器を出し入れしつつそれぞれの絵の具を足したり引いたりしつつ
空間に並ぶ音の粒子の千変万化諸行無常に浸るもの。

紙ジャケットのデザインは秀逸。二つ折りの最初の袋には作者からの楽曲に寄せるメッセージが書かれている。2枚目の袋にはオレンジ色のCD。
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オレンジの持つ酸っぱさ、明るい存在感、親しみやすさ…。
オレンジを素材として自らの世界観を庭になぞらえて
幸福な音の編み物に仕上げた。心に清涼感をもたらす音楽の風鈴が夏の夜に凛と鳴る。

換気の行き届いたカフェで聴きたい音楽はこれかな(コロナ禍の贈り物として)。
真夏の夜に聴いているただいまが愛おしい。


Caroline Shaw: Orange / キャロライン・ショウ:オレンジ【輸入盤】

視聴はYouTubeでできる(アタッカ四重奏団公式アカウント)
https://www.youtube.com/watch?time_continue=206&v=tQPY89YQmJQ&feature=emb_logo
https://www.youtube.com/watch?v=zgQnjRwsFNc&list=OLAK5uy_m3o5c-TkpHRhQN1T8d3AOmvGpWAeDMPlE&index=2

2020年グラミー賞(最優秀室内楽・小編成アンサンブル・パフォーマンス賞)受賞を記念してピクチャーアナログLPを限定発売! レコード盤がオレンジ色?
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https://www.youtube.com/watch?v=64ozoqUKZ9c
(↑キャロラインとアタッカ四重奏団の遊び心が伝わる場面)

追記
録音も最上級。
眼前でアタッカ四重奏団のメンバーが演奏しているよう。
技術者もよい仕事をしたね。

みかん食べたくなってきた。
posted by 平井 吉信 at 11:26| Comment(0) | 音楽

2020年05月22日

でもいまは…。フジコ・ヘミングの愛の夢、月の光


フジコのピアノを聴いて大勢の人がいう。
音楽は技術じゃないと感じさせてくれたと。

実はぼくはまだ実演もCDも聴いたことがない。
でもいまは動画で視聴することができる。
(ぼくはAmazon PRIMEで聴いている)
いい時代だ。

決して指が器用に動く人ではないのに超絶技巧を求められる楽曲を弾く。
ピアノを叩くような強音はなく
空間に消えそうな弱音もない。
もしピアニストが粒立つアルペジオや
ピアニズムのきらめきを封じられたらどうなるだろう?
たどたどしいピアノの練習のように聞こえてしまうかもしれない。
だが、繊細ぶらないタッチのなかに、指が置き忘れたような隙間があって
ぽつんと濡れたような音が滑り込む。
そこに時間が刻まれる(心に余韻を残す)。
音の隅々に意志をみなぎらせて
テクニカルな打鍵の切れではない底まで鳴っている硬質のきらめき。
(これ、ベーゼンドルファーか? うちにはアトラスのアップライトやヤマハのグランドピアノがあってぼくもときどき弾いていた)

木訥に聞こえる演奏のようで凍らせた愛の感情のほとばしるよう。
極力ピアノをピアノとして存在させないのに
ピアノの音色が楽器を離れて演奏者と一体となったよう。
(むしろピアニズムの深みを感じる)
音符をいったん楽譜から剥がして彼女が再び並べているよう。
聴衆にも媚びず、ただ彼女が自らの裸の心をピアノに吹き込んでいるよう。
言葉にできなくても多くの人がそう感じているのでは?

リスト、ショパンが有名だが
ぼくはドビュッシーもいいと思う。
複雑な響きや晦渋さをおとぎ話に変えてお話するかのごとく。

2020年6月13日、徳島でフジコ・ヘミングを聴くことはできなかった。


posted by 平井 吉信 at 23:22| Comment(0) | 音楽

2020年04月22日

愛国の花 それは古関裕而の玉手箱 女性の持つ普遍的な強さ そして美しさ


あの頃の政府は国民を駆り立て戦争に向けて暴走した。
その結果は誰も幸福にならなかったばかりか
尊い生命が犠牲になった。
焦土となった国土の回復は奇跡ともいえるが、失った北方領土は戻ることがない。
近隣諸国とのぎくしゃくした関係はどれだけそれぞれの国民の幸福を逸失したことか。
その責任は重大であり、例え何世紀になろうと忘れることはできない。
箴言に耳を傾けず、狭い了見と思いつきで突っ走る内閣。
国粋主義はいかなる正当性もない。

NHKの連続テレビ小説で作曲家の古関裕而が取り上げられている。
甲子園でおなじみのあの楽曲も、NHKの昼時の放送のあのテーマも彼の手によるもの。
古関さんは戦時歌謡も手がけている。
(それが本意であったかどうかはわからないが、若者を戦場に志願させたのも音楽の力であったかもしれないことを後悔されていたのではないだろうか。けれど現地で兵隊が涙を流しながら古関さんの戦時歌謡に耳を傾けていたのも事実)

「愛国の花」は太平洋戦争に突入する前の昭和12年の作品で、
銃後の女性たちに思いを馳せてつくられた。
歌手は渡邊はま子さん(でもぼくはあまり感銘を受けなかった)。
いま聴くと女性はか弱きものと描いているように感じる人もいるだろう。
ときの為政者の意向をに従いながら
作詞家と作曲家の願いは別のところにあったのではないかと思える。
(この曲と古関裕而について予備知識は持たないで書いている)

最初にこの楽曲を知ったのは有山麻衣子さんのソプラノで。
初々しさは誰の心にもほのぼのとあかりを灯すアルバムであった。
ここでは戦時歌謡を純音楽としてうたっている。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/177021874.html

YouTube上には本家も含めて
現代の自衛隊の演奏なども聴けるが
ぼくがこの曲に思いを寄せられるようになったのは
藍川由美さんの歌唱である。
(YouTube上には歌い手の名前がクレジットされていない)
https://www.youtube.com/watch?v=_PJcJ-z0JIY

ピアノの静かで簡素な伴奏に乗ってゆったりとしたテンポで歌が響き出す。
声楽家にありがちな声を響かせてよく聴かせようとする作為がないのに
落ち着いたテンポのなかに凛とした空気が張り詰める。
ビブラートや小節に頼らずひたすら自分を信じて
静かに押し出していく声の強さ、それでいてレガートの魅力。
どこまでが藍川由美でどこまでが愛国の花かわからない一体感。

古関裕而特有の音階の高揚感が人を酔わせるのだろうけど
それとは対照的にぐっと力を蓄えつつ落ち着いて徘徊する旋律の魅力がある。
楽曲の構造も軍部に文句を言われない戦争賛美は入れているけれど
ほんとうに作詞家と作曲家が言いたかったのは
最後の旋律にあるのではないだろうか。

2番の歌詞を例に取ると「ゆかしく匂う国の花」のフレーズ。
高揚する音程が終わって
ここでゆかしくの「く」の箇所で次の音符までの間に
藍川さんが音程をずり下げているが
そこに得も言われぬ奥ゆかしさを醸し出す。
(このような歌い方が明確に聞き取れる歌い手は少ない)
藍川さんはアカデミックに楽曲の再現をされる方なので楽譜が求めているのだろう。
(たったひとつのスラーを入れるだけで部分的な旋律の表情、ひいては楽曲の印象が変わってしまう。古関裕志はそれがわかっていた方なんだろうな。そしてそこに大衆の気持ちが入り込む場所をつくりだした)

この曲に女性の持つ生命力、いのちのたゆたいを感じさせる。
細部のニュアンスを忠実に、しかも美しい日本語の発声を添えて
愛国の花という楽曲をいまの時代にメッセージとして届けているようだ。
(ぼくは藍川さんの唱歌や昭和の歌謡を聴いてみたい)

戦時歌謡と言われる楽曲をいまの時代に冷静かつ情感を込めてうたうことで
当時の楽曲の作り手と歌い手、ひいてはそこに共感した国民の感情が見えてくるのではないか。

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(愛国の花に献呈するのはナガバノタチツボスミレ、佐那河内村で撮影)
posted by 平井 吉信 at 00:38| Comment(0) | 音楽

2020年03月29日

「青い瞳のステラ、1962年夏…」と「星空の南十字星(サザンクロス)」の柳ジョージ 


ふと耳にしたのは柳ジョージの「青い瞳のステラ、1962年夏…」。
その瞬間、雷に打たれたよう。

初めて柳ジョージ(&レイニーウッド)を耳にしたのは中学の頃だったか、
ダイエーの4階にあったオーディオ売場で
オンキヨーのM6マーク3という31センチ2ウェイのスピーカーから流れた
「微笑の法則 〜スマイル・オン・ミー〜」だった。
国産のスピーカーでこれ以上に鳴りっぷりが良いスピーカーはないと思われる機種だったと思う。
そこからせり出してくる声に足が止まった。

成人してからは柳ジョージの最高作と言われている
2枚組のアナログLP「Woman and I」を購入。

徳島には米軍基地も横浜のような街並みもないけれど
音楽で背伸びをしていたのだ。
「青い瞳のステラ、1962年夏…」はこのアルバムの目玉曲でもあった。
YouTubeに1993年のライブ音源がある。
https://www.youtube.com/watch?v=j5aINIgqRVE

魂で歌っているように感じられるけれど
音楽はあくまで端正に流れていく。
最高の職人芸を提供しながらすれていないアマチュアリズムを持ち続けた人。
(だからライブ音源がすばらしいのだろう。なぜこんなバンド、音楽、歌い手が現在はいないのだろう)


レイニーウッド時代の音も悪くないけれど
アトランティック時代では「GEORGE」も好きだ。
「星空の南十字星」という楽曲を聴くと
南太平洋の離島で過ごした日々を思い出す。


ある日、近くの民家から子どもの鳴く声がして母親があやしていた。
どこの国も、どの母親も同じ…
ああ地上はどこもそうなんだと腹に落ちた。
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すがすがしさと切なさに眠れずファレを抜け出して
見上げた夜更けの空に南十字星が燦々とあった。
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柳ジョージの歌は本人が地上にいなくなってもなお南の空に輝いている。


追記1
CD1枚で聴きたい人はこのベスト盤がいいだろう。
プレミアム・ベスト 柳ジョージ オリジナルレコーディングのリマスター
〔収録曲〕
1. 「祭ばやしが聞こえる」のテーマ
2. 微笑の法則~スマイル・オン・ミー~
3. 青い瞳のステラ、1962年夏…
4. さらばミシシッピー
5. 酔って候 (Live at Budokan)
6. 雨に泣いてる (Live at Budokan)
7. 星空の南十字星
8. RUNAWAY〔悲しき街角〕
9. ビッグ・カントリー
10. 真夜中のテレフォン・コール
11. コイン ランドリィ ブルース
12. For Your Love
13. フーチー・クーチー・マン
14. 明日への風
15. Long Time Comin’
16. 愛しき日々


追記2
南十字星は赤道近くに行かなければ見えないと思っている人も多いだろう。
北に位置する星は意外にも高知県から見える。
もっともそれを見たからといって南十字星の一部とはわからないかもしれない。
全天第二の輝星にして南極老人星とも呼ばれるりゅうこつ座のα星、カノープスが2月に南中する時は徳島でも地平線から少し上で見ることができる。
この星を見ると長生きできる、といわれているのはご存知のとおり。
知っていればけれど。
posted by 平井 吉信 at 23:31| Comment(0) | 音楽

2020年03月16日

80年代の名盤 ハニー&ビーボーイズ「Back to Frisco」が28年ぶりに再発売!


ぼくがミノルタのX700を持って南太平洋から日本各地を旅するように回っていた頃、
しっくりと来る音楽があった。

オリジナルが発売されたのは1987年、
Honey & B-Boysはこのアルバム1枚だけのユニットで
山下達郎の秘蔵っ子と言われた村田和人に山本圭右、平松愛理、西司の4人組。
強力な4人のヴォーカルと西海岸のからりとした風が吹くような雰囲気は
まさに80年代ならでは。

特に1曲目の「Morning Selection」は出色の出来映え。
村田和人がサビを、山本圭右が主パートをツインヴォーカルで
突然の風に驚いて振り返るとそこには…のような雰囲気。
身体が動き出すのを止められない。
村田和人はハイトーンが伸びてさわやか。
山本圭介は少年の夢を宿したどこか翳りのある表現が出色。

この頃はhPaではなくミリバールの時代(なつかしい)。
タンタンと雨のリズムを刻むなか、マイナーのバラード調のが曲が響く。
1000mbの雨♪、と2番まで歌って
3番は
この雨は僕からのメッセージ 1000mbの愛♪と締める。
(うまいなあ。和声がメジャーに開きかけるので曲調はすがすがしい)
滴が滴りそうな男性ヴォーカルは誰だろう?
(1000mbのサヨナラ)
→ 西司でした。「雨はてのひらにいっぱい」も西司がヴォーカルを取っている。
切なく繊細な歌い方でアルバムにひんやりとした叙情を与えている。

小休止
ミリバールといえば、ソニーの野外ラジオシリーズの名称。
山用として名を馳せた 防水耐衝撃仕様の黒のICR-3000があるが
そこからNSB受信をFMに置き換えたのが黄色のICF-S73。
暗闇でもわかりやすいよう上面に星型の蛍光シールを貼って使っている。
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アルバムジャケットも秀逸。


カントリー調のイラストの中央にはちみつの入った瓶が置かれている。
この画面はもちろん静止画だけど
きっと雲の流れは早いんだろうな、
でもその風がぴたりと止んだ一瞬が絵になったんだろうな。
このイラストで物語がひとつ書けそうな想像と創造をかきたてる。

ところが廃盤になってほとんど20数年が経過した2019年7月、
しかも「2019年最新リマスタリング/SHM-CD/紙ジャケット仕様/ボーナス・トラック10曲追加」ときた。
(それまではダウンロード音源すらなかったのだ)
初回プレス枚数を想像するとメディアとしては最後の入手の機会だろう。

平松絵里は2年後にソロデビューを果たし
5年後に「部屋とワイシャツと私」がヒットする平松愛理。
英語の歌詞など彼女に合っていない楽曲もあるけれどアルバムに可憐な花を添えている。
結局、このアルバムは4人の別々の色を持つヴォーカリストと
西海岸の音で束ねて木綿のような風合いを味わうアルバム。
(カラオケで聴くとコーラスの和声が浮かび上がる)

若いっていいよね。
守るものがない生き方が惨めでなく自由と思えた時代が後押しした。

アルバム最後を飾るのはシュガーベイブの名曲「雨はてのひらにいっぱい」。
ぼくは本家よりもこちらが好きだ。
切なくてストレートでそれでいて含みがあって。

さらにカラオケトラックが追加されて、
紙ジャケットに当時の解説資料が満載されて
レコードを取り出すようなビニール袋仕様で。
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同じ1987年、村田和人のソロアルバム「ボーイズ・ライフ」も世に出ている。

同時代の山下達郎のアルバムと比べても遜色がない。
特にA面がいいよね。これもからりと陽気な音づくり。
空を駈けめぐるような気分にしてくれる。
(確か西海岸で基本トラックが録音されたのでなかったっけ?)

(私小説や引きこもりの告白のような歌は聴きたくない)

それはそうと
マスク付けるより心の免疫を上げることが大切。
それにはていねいな食生活と心の栄養。

今夜つくった豚肉と野菜煮込み。
これと五分づきのご飯だけで何も要らない。
(もちろん炊飯の直前に精米したもの。そして米の味は研ぎで決まる)

言葉をしゃべりたくないぐらいうまい。
どっさりのタマネギとあまりものの根菜類に生姜を刻んでコトコト、
それに豚バラ肉のオリーブとニンニク炒めを加えて
テルモスの保温鍋で2時間放置。
(オリーブ油はサルバーニョのEV)
ねらいは風邪気味の家人の体温を上げること。
味付けは酒と塩(小さじ半分も使っていない)とトマトパウダーが少し。
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薄味だけどうまいうまいとむさぼるように食べる。
店でこんな料理はなかなかお目にかかれない。
下ごしらえは20分だけ。
仕事の合間に手を走らせたので。

posted by 平井 吉信 at 21:02| Comment(0) | 音楽

2020年02月22日

雨の休日 ラジオから流れるパット・メセニー 不眠でなくても眠りに落ちる


ピーター・バラカンさんが担当する土曜朝の「ウィークエンドサンシャイン」(NHKーFM)は楽しみ。
有名な曲はその背景やアーティストの動機まで解説があり
そうでない曲にもはっとする感覚を受けてメモをすることが多い。
(番組Webサイトには当日の楽曲が掲載されている)
この番組を聴いて買った洋楽CDは数え切れない。

うちは徳島市の眉山にある送電アンテナからは強電界区域なので
音の良いラジオを流すと空気感がぱっと変わる。
(かつてのトリオのシスコンのチューナを操作してセンターシグナルに同調したみたいに)

そんなときのラジオはICF-801。
ソニーの数少ない日本製アナログラジオでよくできている(現在は生産されていない)。
選局性能こそ最近のPLLシンセの機種には勝てないが
ローカル局では高らかに音を再生する。
籠もることはなく豊かな中低域を響かせつつ
声は自然に響く。
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→ メイド・イン・ジャパンの至福のラジオ〜ICF-801〜
http://soratoumi.sblo.jp/article/57853049.html

バラカンさんはパット・メセニー・グループから3曲紹介。
取り上げたのはメンバーの一人の訃報からだった。
さわやかなフュージョンは朝にリズム感をもたらしてくれた。
久しぶりに聴いた感じがする。

やがて番組はゴンチチのDJに変わった。
再生される音楽は二人の造詣を反映してジャンルを問わず広いが
バッハのゴールドベルク変奏曲(テーマの提示から第5変奏まで)がかかったのには驚いた。

この音楽が聞きたくなって数日前の夜にかけながら眠ったところ。
この楽曲は不眠症の貴族のためにバッハが作曲したと伝えられている。
バッハは音楽に人間的な感情を排して淡々と紡いでいくので
かえって現代人にも入りやすい。
(誰も眠る前にショスタコーヴィチやマーラーを聴きたいとは思わないだろう)

思い起こせば小学校の同級生のM君(いまも近所に住んでいる)の愛聴盤だった。
彼の部屋を訪れれば、ユーミンのひこうき雲、ビートルズ、クーベリックのモーツァルト、
そしてグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を
ヤマハの名機NS1000MとA2000で聴かせてくれたものだ。
(この組み合わせは高校の同級生のK君も持っている。いまでも彼の家でときどき聴かせてもらっている)

そしてラジオを聴きながら
冷凍食パン2枚に、
豚肉をキャベツを炒めた具材を挟み込んでプレスして食べた。
朝だからコーヒーよりも紅茶で。
朝は陽が射していたが、雨に変わろうとしている。
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そういえば、東京に「雨と休日」というCDショップがある。
雨の休日に聴きたいCDを集めたお店でぼくも何度か購入した。
コンセプチュアルな小さなお店は応援したくなるね。

オンライン店舗内を訪ね歩いてみると
ゴールドベルグがありました。
グールドの演奏ではなくて
眠りに落ちるよう研究された奏者の演奏、というのがこのお店らしくていい。
https://shop.ameto.biz/?pid=148711205
(みなさんも視聴してみて。♪マークをクリック)

ところでアンビエンス音楽というと
ブライアン・イーノ。
ぼくはこのアルバムを数え切れないほど寝る前に聴いた(そのまま眠りに落ちているので最後まで聴いたことはない)。
https://amzn.to/2uXw0i1
(上記の5曲目を聴いてみて)

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朝のFMはめざめの音楽であり
それは快適な眠りに続いている。
さあ、日の光を浴びよう。
posted by 平井 吉信 at 14:46| Comment(0) | 音楽

2020年01月11日

フルトヴェングラーの第9 バイロイト盤 2019年DSDリマスタリング仕様(WPCS-28425)


ベートーヴェンの第九で欠くことのできない名盤が
JVCスタジオのエンジニアの手でリマスターされたので
年末に発注して新年に入手できたのでさっそく聴いてみた。
(夜は大きな音が出せないので休日の午後を待っていた)
販売店の記述は以下のとおり。

オリジナル・マスターテープより、アビイ・ロード・スタジオにて、DSD11.2MHzへデジタル変換。そのDSDマスターより、JVCマスタリングセンター 杉本一家氏により、UHQCDでそのマスターを再現すべくマスタリングが施されています。


かつてLPをヤマハGT-2000にデンオンDL-103系列で聴いていたときより
音の抜けが良くデジタル特有の高域の寸詰まり感がない。
オリジナルマスターテープ(もしくはコピーテープ)の状態が良好なのか
最新録音とも遜色がない。
これが1951年のライブ録音とはわからないほどの再生音であった。
初めてフルトヴェングラーの第九を買う人は
価格も手頃なこのアルバムが標準となるのではないだろうか。
DSCF8924-1.jpg

聴いているうちに理性がどんどん薄れて感情がわき起こる演奏だから
最後には立ち上がっていたのだ。
https://www.yodobashi.com/product/100000009003195554/

再生装置
プリメインアンプ:オンキョー A-1VL
CDプレーヤー:C-1VL
スピーカー:クリプトンKX-1
スピーカーケーブル:江川式1メートル×2本
視聴空間:12畳相当洋室

追記
リマスタリングを行われた杉本一家さんが2019年10月にお亡くなりになられたとのこと。
ご冥福をお祈りいたします。
https://tower.jp/article/campaign/2019/12/04/01
posted by 平井 吉信 at 16:05| Comment(0) | 音楽

2019年12月28日

ベートーヴェン第九 フルトヴェングラーのウィーン盤を聴く


ベートーヴェンは音楽の革新者である。
第九は当時の音楽の革新であり壮大な実験であり
それでいて美しく力強い。
没後二百年が迫ろうとしているが
彼の作曲した第九交響曲の人気はますます増しているように思える。

第九といえばドイツの指揮者フルトヴェングラーの1951年に録音されたライブ盤(バイロイト盤)が人々の記憶に刻まれている。
二十代の頃、このレコードを聴いたぼくは雷に打たれたような震えを感じていた。
なんと深い、そして優美、それでいて人間の感情が込められた音楽だろう。

音源はモノーラルで鮮明ではないが
音の実在感はひけをとらないばかりか
音楽の実在感がすばらしいのである。

近年になっても新たなライブ音源(あるいは別テイク)が発掘されている。
きょう始めて聴いたのは
1953年のウィーン盤である。

イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)
ロゼッテ・アンダイ(アルト)
アントン・デルモータ(テノール)
パウル・シェフラー(バス)
ウィーン・ジングアカデミー
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

録音時期:1953年5月30日
録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール
録音方式:モノラル(ライヴ)
【オットー・ニコライ演奏会(同年1月23日の繰り延べ演奏会)】
Produced by Epitagraph(原盤:エピタグラフ)


この盤が世に出たのは2009年であるが
今回の高音質盤が出たのは2019年4月のこと。
きょうまで封を開けずにとっておいたもの。

聞き終わった感想は?
文字に書けない―。
それでは伝わらない。
だから書く。

バイロイト盤との違いは
ウィーンの引力でベートーヴェンがローカライズされた感じ。
(ベートーヴェンは私たちの音楽なのよ、こうするのよ)
親密で親近感があり魅惑の花が咲きこぼれている。
(ほら、ウィーンフィルの弦が艶やかに歌ったり木管が空間に浮かび上がったり。もしかしてバイロイト盤よりオケのピッチがやや高い?)
一聴してこじんまりとしているようにも聞こえるが
それは同じ方向を向いた人々が指揮者と一体となって突き進むからだ。

第三楽章はベートーヴェンの書いた最高の緩徐楽章だが
聞く前から予想していた音の世界をさらに上回る。
バイロイト盤では天から降りてきて天に上がっていく荘厳な雰囲気に浸ったが
ウィーン盤ではもっと人間に寄り添う。
それでいてディティールの美しさというか匂いが全編に漂う。
光に誘われて地上から天上の楽園に足を踏み入れた人類の逍遥というか
フランダースの犬の最終回で少年ネロが昇天して天国で親しい人と再会してみたされるというか
神に導かれて音楽と絵画と詩の区別がない理想郷で魂を抜かれてしまいそうだ。
ところが突然の金管の咆哮(警告)で、また地上に呼び戻される歩み。
完結しない和声が終楽章(合唱付)への導きとなっている。

終楽章はぼくはバイロイト盤が好きだ。
寄せ集めのオーケストラと言われるが
(縦の線が合わないとかコーラスの入りが遅れる箇所とかある)
多様な価値観(オーケストラ)が認め合いながらひとつになろうとする刹那ではなかったか。
戦後間もないドイツでフルトヴェングラーが音楽会に復帰してまもない頃
ドイツ民族にとってバイロイトでの演奏がどんな意味を持つものであったか。
「歓喜に寄せて」というシラーの詩とベートーヴェンの人間性と
フルトヴェングラーやこのときの関係者の気持ちが同一化した希有の場面が残されている。
(最善の録音環境ではなかったから、このバイロイト盤をよりより音で響かそうとする試みが2019年末になってもさまざまな手段やリマスターでの発売が絶えないのはそのためだろう)

人類同胞が心を寄せて演奏するのに完璧な演奏は求める必要がない。
それゆえ人々が寄り添おうとする心がベートーヴェンの精神のようにも思える。
独唱もぼくは神々しさを感じるバイロイト盤が好きだ。
(ウィーンはそれだけまとまりがよいのだ)
そう、そのまとまりの良さで
熱狂と精妙を両立させながら最後は途方もないテンポに加速して
一糸乱れず昇り詰める心意気はウィーンの名人芸。
熱狂する聴衆の力を借りてウィーンフィルがともに作り上げた芸術だろう。

しばらくは立ち上がれないと思ったが
意を決して文章を書いた。
年末だからベートーヴェンではない。
生きているからベートーヴェンを聴くのだ。

追記
フルトヴェングラーの指揮の様子が断片的に動画として残されている。
優美や幽玄と熱狂が同居するその姿は岡本太郎がいう「美」に近い。
誰かに見せようとしているのではない。
指揮する姿がすでに絵になっている。
若い頃、物憂げに遠くを見るような目をした少年は女性を虜にしたかもしれない。

ベートーヴェンの作品で例えば作品101のピアノソナタを耳にすると伝わるものがあるだろう。
愛する女性への憧れが漂うな楽曲、それでいて全編を覆う切なさ、その裏返しの寂しさ―。
それでも音楽は前を向いて進もうとするのだ。ベートーヴェンならでは。
https://www.youtube.com/watch?v=-EGZUJnPHvQ

フルトヴェングラーのベートーヴェンには熱情と寂しさがある。
(それなくしてベートーヴェンの音楽は再創造しえないだろう)
今日では彼の解釈が古い箇所があるといわれたとしても
表現の持つ真実はいささかも失われていないばかりか
2020年を迎えようとしてますます輝いているようにも見える。
それは人間の人間による人間のための音楽であったからではないか。

フルトヴェングラーの音楽の呼吸は深い。
禅の吐く息のように細く長くつながっている。
ピアニシモでは張り詰めた糸を引くような
痛切な憧れを秘めたような音色を出す。

そして音楽が押し寄せるような(例えば「英雄」の第一楽章のように加速しながらなだれこむ)フォルテ。
それはふくよかな厚みというか、鋭いというよりは沈み込む重さというか。
単に協奏強打させているのではない。

これはオーケストラがどこであってもそのような音を引き出せるようだ。
楽団員が練習しているときに、彼が練習場に入った途端
温色が変わったことを目撃している関係者が多い。
ある種の超能力にも似た意思疎通の深い領域へと入り込めた人ではないか。
そしてそれをすべて芸術のために使った人ではないかと。

バイロイトの第9は数多く発売されているので
迷わないようよう1種類上げておこう(EMI正規版で一般向きするもの。同じ演奏だが、音質がやや異なる)
https://amzn.to/2SzQ03k




posted by 平井 吉信 at 21:51| Comment(0) | 音楽