2026年03月30日

「さらば涙と言おう」(森田健作さん)がいま語り掛けること


世界を見れば、トランプ、ネタニヤフ、プーチン、習近平、金正日といった独裁者が我が物顔で社会を混乱と分断に陥れている。中国、ロシア、北朝鮮では厳しい締め付けでデモは起きないが、アメリカ全土では反トランプの人々が声を上げている。これらの指導者の系列に加わった(といっても過言ではないだろう)高市首相についても(なぜか報道されないが)退陣を求める声がデモとなって首都圏でうねりとなりつつある。自由と平和とはほど遠い、同調圧力、性差別の容認(女性天皇、選択的夫婦別姓は認めない)、金権政治や統一教会への崇拝、議論を否定するかのような独善的な国会運営、トランプへの迎合など、かつてこれほど堕落した首相があったとは思えない。

以前の投稿にも書いたが、日本のアキレス腱である、ホルムズ海峡の封鎖と、もうひとつのアキレス腱である南シナ海の海上封鎖(中国)のうち、前者は実現してしまった。

高市政権と中国政府との関係悪化は過去最悪で、観光客もレアアースもそして南方からの食糧や原料も、南シナ海を経由する海上輸送ということにほかならない。中国大使館で起こったあるまじき犯罪についても日本政府の対策は施されているとは思えない。このまま対中関係が悪化すると悪夢となる(トランプには犬のようにすり寄っていくのに)。

誰に迎合する、誰に媚びる、誰に屈するなどという話ではなく、イデオロギーの話でもない。独裁に突っ走る国々のようにはならないで、まっとうな理念を持って、誰に対しても筋を通すことが、国際社会で日本の信頼と存在感を上げることであり、ひいては日本円の価値や国民生活に反映されることになるはずである。日本の持つ潜在的な可能性(豊かな精神性)は、世界のなかでも屈指のものだと確信しているが、高市政権が台無しにしている(豊かで力強い日本とか、挑戦する未来とは真逆の行動だろう)。

21世紀を振り返れば、東日本震災(2011年)当時の管直人首相は自ら福島原発上空を飛んで指示を出した。未曾有の事態に腹をくくったからだろう(危機管理上の問題を指摘する声もあるだろうが、あの局面を判断し意思決定するにはあれが必要だったとぼくは思う)。あの頃の円相場は1ドル80円ぐらいで、いまの資産価値(国富)の倍はあった(円が安くなることは世界に対して国や国民の資産が減少することを意味する)。物価は安く、マクドナルドのハンバーガーが100円を切っていたし、ガソリン代も1リットル100円に近かった。高速道路は1000円でどこまでも行けた。消費税は、2014年に5%→8%、2019年に8%→10%と税率改定がなされた。ぼくは無党派の人間で民主党支持者ではないが、震災が起こったことを除けば、いまよりはるかに暮らしやすい社会だった(「悪夢の民主党政権」というレッテルを貼る人がいたが、いまと比べてどちらが豊かな社会だったか? たった15年前のことですよ)。

近年では、石破首相が21世紀の自民党政権では出色だった。さまざまな声に耳を傾け、誠実に実行していたが、自民党内の金権議員の圧力に屈してしまった。石破政権は野党ではなく自民党内の魑魅魍魎にやられてしまった感がある。世論を味方に、自民党を割るぐらいの腹をくくってほしかったのだが、第二次政権の機会があれば、今度は胆力で押し通してほしい。

政治の話をしているが、ほんとうに言いたいのは、本質を見ようとする国民の意思(洞察)と他者の心の痛みに思いを馳せながら幸福を願う心。その理念と魂を一人ひとりが持たなければ、第二第三のポピュリズムの化け物が選ばれてしまうから。

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さて、音楽の話題へ戻そう。1970年代は青春ドラマがまっさかりだった時代の、主題歌が「さらば涙と言おう」(森田健作さんの歌、阿久悠さん作詞、鈴木邦彦さん作曲・編曲)。ドラマそのものはエンターテインメントそのもので特に深いものはないけれど、「吉川君」や「丹下竜子」はよかったな。でもやっぱりこの主題歌あってのもの。

何がいいかって?
まず、調性(キー/D)がいい。ニ長調は前進する意思を感じる。わかりやすいコード進行の随所にセブンスが使われて次の解決の安堵感や高揚感につながっている。

歌い方がいい。森田さんは、歌い出しの「さよならは誰に言う、さよならは悲しみに」で、リズム隊よりも早く駈けだしている(次のフレーズからはテンポを掴んで以後は合っている)。作り手たちは歌の勇み足に気づいているはずだが、それでも修正をしなかったのは、完璧なリズムよりも衝動や熱量が音楽を動かす瞬間を大切にしたかったのだろう。忙しい関係者の合間を縫っての一発録りだったのかもしれない(楽曲を聴ける人は自分の耳で確かめてほしい)。この楽曲のテーマは青春の焦燥やまっすぐなまなざしだから、これでいいのだ。

アレンジがいい。ぼくは楽器のプロではないので間違っているかもしれないが、ハーモニカの前奏が甘酸っぱい青春の余韻を乗せて、ドラムスやベースのリズム隊のほか、華麗なブラスセクションを配置しながら、間奏や歌の合いの手に、スチールギター(ペダル・スチールギターか?)、哀愁をそそるハーモニカが効果的に使われている。しかも、「さみしさも 悲しさも 幾たびか出会うだろう」の部分などでは、ブラスセクションが沈黙して、ストリングスのオブリガートと淡々と刻むリズム隊に森田さんの声がぽつんと浮かび上がる(内省的な歌詞の内容を活かす)。断片的に合いの手を入れるスチールギターも独白のようだ。力強いブラス(人前で見せる笑顔)と、切ないハーモニカやスチールギター(自分を見つめる心)の対比が感情を描きわける。終結に向けては金管部隊も合流して、みんなで行こうぜの力感を打ち出す。リズム隊は、前奏や間奏は気持ち早め、歌のパートはやや落としているように聞こえる。デジタルにはない人の手の温もりや揺らぎが心地よいのかもしれない(AIにはこの投稿のようなでこぼこの文章は書けないのと同じ)。

調性(D)、歌手、作詞作曲編曲、演奏者が一体となった奇跡の楽曲ではないか。たとえ試合に負けても、恋に破れても、その過程で流した涙を「さらば」と肯定し、明日への糧にする。この過程の美学が、競争社会に身を投じ始めた当時の日本人にとって、癒やしであり、エネルギー源だったのではないか。

でも、70年代のまっすぐさ、青臭さを笑えるのか笑えないのか。むしろ、予定調和のナラティブに組み込まれ、集団の空気を読むことを強いられる現代において、たったひとりでも立ち向かう勇気や情熱を感じることができるかどうか。

今、この楽曲が問いかけるのは、集団の力で駆け上がる高揚感はなくなった時代に、別の意味で集団が悪い方向へと無邪気に無意識に、ゆでガエルのごとく進もうとしているときに、それに迎合したり流されたりせず、自分の道を行くという孤独な決意への鼓舞なのかもしれないと思う。

posted by 平井 吉信 at 23:42| Comment(0) | 音楽

2026年01月01日

竹内まりや「LOVE SONGS」。80年代の夜明けの音楽、毎日聴いていないと禁断症状に


前回は、「象牙海岸」を噛みしめるうちに写真へ行ってしまって、アルバムを語っていなかった。「LOVE SONGS」は、1980年発売の竹内まりやさんの3枚目のアルバム。時期としては、大滝詠一さんの「A LONG VACATION」の1年前に当たる。「不思議なピーチパイ」のヒットを受けてつくられたアルバムで、ぼくも何となく全曲を聴いたつもりになっていたけれど、改めて聴きこんでみると、一つひとつの楽曲のすばらしさと全体を通しての気取らない普段着と洗練とが同居している。
→ 夏雲が…それぞれの象牙海岸―四国東南部の海岸で当てはめるとしたら?
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1曲目「FLY AWAY」(Carole Bayer Stager&Peter Allen)は、これから始まる音楽の扉を開ける高揚感が漂う。楽曲は転調の妙が散りばめられていて幕開けにふさわしい佳曲。2曲目「さよならの夜明け」(竹内まりや&山下達郎)も淡々とフォーク調なのにコーラスワークと伴奏の付け方や「いつか時が経てば」の転調は職人技。3曲目「磁気嵐」(松本隆&杉真理)ではナスカの地上絵を上空から眺める。そんな非日常感のなかで、磁気嵐という専門用語が違和感なく、「この太陽航路の果てに…」の転調の経過句が雄大な景色とそこに置かれた「遠く離れた私の孤独感」が漂う。「象牙海岸」(松本隆&林哲司)については前回詳しく語ったが、音楽的には職人芸とそれを感じさせない叙情的な仕上がり。5曲目「五線紙」(松本隆&安部恭弘)はミニマムの伴奏と木綿の手触りにベルボトムのジーンズが似合いそうな80年代最良の時代の幕開け。いまのように政治や経済が劣悪な時代だからこそまばゆい感じがする。6曲目「LONELY WIND」(小林和子&浜田金吾)の人の手作りの温もりが漂う。

ここまでの楽曲はA+と思っている。この後はまりやさん作詞作曲が2曲続いて(「恋の終わりに」は歌謡曲調でアルバムのなかで浮いている感じがする)、ヒット曲「SEPTEMBER」(松本隆&林哲司)、「不思議なピーチパイ」(安井かずみ&加藤和彦)と続く。
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シングル曲なのにアルバムに収まりがよいのは楽曲の質が高いから。ラストはまりやさんの「little lullaby」がきらびやかなピアノ伴奏で始まり、締めくくる。

職業作家だけでない自作曲の散りばめと置かれている位置が違和感がないのがアルバムのトータルの品質につながっている。2019年には40周年記念リマスター盤が発売されて、さらにボーナストラックとしてライブで「SEPTEMBER (LIVE Ver.)」、「象牙海岸 (LIVE Ver.)、「恋の終わりに (LIVE Ver.)、「待っているわ (LIVE Ver)、「五線紙 (LIVE Ver.)が収録されている。

やはりこのアルバムは竹内まりやさんしか歌えない。気取らない、繊細ぶらない、土の香りがするけれど、垢抜けている。職人芸(特に1曲目〜6曲目と2曲のヒット)と何度か書いているように、歌詞に過不足があるシンガーソング系の歌い手と違って、日本語の存在感が際立つ歌詞と、歌詞の心象に楽曲が期待通りに寄り添うところ(転調の使い方が必然!)。だから音楽に浸れる(達郎さんの色が濃くないところがかえってよかったのかも?)。ぼくはこのアルバムを聴くときは音楽をつくった人たちの思いにひたひたと浸ることができて幸福感を覚える。毎日1回は聴かないと頭のなかでどれかの楽曲が鳴りだしてしまう。いずれにしても現代ではこんな音楽は世に出てこないのだ。
→ 竹内まりや「LOVE SONGS」
posted by 平井 吉信 at 01:02| Comment(0) | 音楽

2025年12月02日

夏雲が…それぞれの象牙海岸―四国東南部の海岸で当てはめるとしたら?


竹内まりやさんの3枚目のアルバム「LOVE SONGS」をご存知ですか? 彼女のアルバムでもっともPOPに振った音楽と思う。シングルヒットの「September」「不思議なピーチパイ」が収録されているけれど、アルバムではこれらのヒット曲は末尾に続けて配列されているので隔離されている感じ。

むしろアルバム前半の楽曲の流れが素敵だ。なかでも松本隆さん作詞、林哲司さん作曲の「象牙海岸」が白眉。前奏が流れてくると、海辺に雲が浮かんでいる情景が浮かんでくる。

遠い夏とは戻れないあの渚。ひとけのない海辺で振り返るけれど、おそらく些細なことですれ違った二人が互いに胸の疼きを抱えて流された3年。ふとかかってきた電話に(本意でないのに)冷たい対応をしてしまう。かつて恋人だった頃、自分たちの記念の場所に秘密の名をつける世界観。子どもの頃の秘密基地が恋愛の場面ではそれぞれの「象牙海岸」になるのだ。「PORTRAIT」に収録されている「イチゴの誘惑」も同じコンビによる佳曲。こんな楽曲が流れてきたら、気分が上向きになる。

「象牙海岸」の楽曲は、作詞家と作曲家の職人芸の上にまりやさんの強さ(精神的なブレのない安定した…。でも「道順さえも記憶の彼方」の刹那に万感を込める)があっての相乗効果と思う。提示部で「夏雲が雪崩れる」(なだれる)の表現で、雲がもくもくと湧いている様子を雪崩のように捉えた(ぼくは歌詞を見るまで「流れる」と思っていた)。初段で描かれた場面はおだやかな回想のよう。それを受け止める和声は、Cの循環コードで淡々と受け止める(C→ Am→ Dm → F)。

「人影もない入り江…」の展開部では、C系から離れて詩も和声も翳りを帯びて心の葛藤を暗示する(Am→ G#aug→ C/G→ F#m7-5)。「そこが二人の秘密の場所で…」と盛り上げて(心のうずきのようにきらめくね)(Dm7→ G9→ Em7-5→ A7(b9))、象牙海岸と名付けたと綴られて元に戻ってくる。

しかし、次の段落(あれから、私…)で、Cから遠いFm7を置いてBb7→EbM7→-Cm7と進むと時間の経過を感じさせ、気付きを得て揺れ動いた感情を表す。ここで過去(3年前)と現在が交錯する。歌詞と和声が結びついているので曲想が深い感情を揺り動かして(自分の体験と同期するように)落ちていく。

ここから歌詞のない間奏となって、ベースラインが下降して(Cのドミナントである)Gに到達して、Cに戻る(戻れる)と期待感。けれど「道順さえも記憶の彼方」で、同じ場所(心)へは戻れないと心がつぶやく。

2番と3番の歌詞の間奏で自在に転調しながら導かれて戻るのはヒット曲の王道のパターンで、和声を巡りつつ遠く旅してきたと回顧する時間。その際に即興(遊び)を混ぜつつ職人の仕事をする。間奏は、歌詞がないことで心に浮かんだ情景や感情を音楽の旅を追体験しながら楽曲の世界で遊んでもらうところ。象牙海岸は、6/8拍子のゆったりとしたリズムに時間と移ろいを織り込んだ佳曲。

そして、最小限の楽器とコーラスを従えてなつかしさがあふれる「五線紙」へと続く。いつ聴いても「SEPTEMBER」はあの頃に戻れる。間奏、コーラス、まりやさんの声がここにしかない世界を三次元で見せてくれるようだ。

音自体は次の「Miss M」がより磨かれているけれど、音楽の刺繍(詩集)を感じさせるのは「LOVE SONGS」。比べると「Miss M」は技術志向で演奏そのものを愉しみたい人向け。物語性を感じるのは「PORTRAIT」。いずれにしてもこの3部作が好きなのは確か。
→ 竹内まりや 40年目の「Portorait」の季節 

さて、象牙海岸とは、本来はアフリカのコートジボワール共和国のことを指す(子どもの頃、地球儀に「象牙海岸」と書かれた地名を不思議に眺めていた。地図が好きだったので)けれど、歌詞はアフリカを連想させない。連想するのは、あめ色の砂浜が小さな入り江となって岬で海岸段丘を伴いながらどこまでも続く風景。歌詞の世界観からは、小さな入り江の砂浜で、周囲に何もない隔絶感がある海辺。もしかしたら海沿いの幹線道路から離れた半島の先にある(岬の崖に取り囲まれた)小さな入り江の砂浜といった趣き。規模が大きいけれど、大岐の浜(高知県土佐清水市)はぴったりかも。
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でも、ぼくにとっては、大砂海岸。この渚は10代の頃から通っている。かつての鄙びた雰囲気はないけれど、賑わう渚でもない。「人けのない」雰囲気とも違う。南阿波サンラインにもいくつかの渚があって雰囲気は鄙びていて(俗化されていなくて)佳い。名称は挙げないから訪れて発見してみて。

よくよく考えてみると(振り返ってみると)、四国東南部では海に沸き起こる入道雲(積乱雲)は東(海側)にしか見たことがない。四国山地と紀伊水道や太平洋という陸と海の配置からそうなるのかもしれない。この写真も山に積乱雲が起こっているように見えるけれど、山の向こうは海(中林海岸)。
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天文台の向こうに広がる雲は、那賀川河口から出島海岸の洋上
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北の脇海岸
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南阿波サンライン
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内妻海岸
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大砂海岸
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大手海岸(宍喰町)
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普段は波静かな白浜海岸(東洋町)
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あめ色の砂が好き 世界サーフィン選手権が開催されたこともある生見海岸
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四国東南部の渚をいくつか。室戸岬の手前にある尾崎の海岸(佐喜浜町)
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象牙海岸から四国東南部の海へと翔んでしまったけれど、それだけ心が夏を待っているんだろうな。とにかく初期の竹内まりやさんが好きなのだ。「LOVE SONGS」の次に発売されたのは「MISS M」。A面がLA録音の典型的な西海岸の音。シングル曲(ヒットにはならなかったが)「二人のバカンス」(この曲はLA録音ではない)が好きだった。竹内まりやさん作詞、林哲司さん作曲。楽曲が職人的に愉しいのはいつものこととして、詩を読むと、私たち何でもできる、もっと上へ上へ向かう可能性。それが彼女の屈託のない笑顔で弾けるようで。ヒット曲には翳りや変化が必要なのかもしれないが、空へ舞い上がっていく楽曲をからりと歌ってくれる。

そんな時間、そんな感じ方ができることが誰にも必要。でも、いまの時代はそんな歌もそんなヒトもいない。政治が暗黒だから、そしてそんな政治を支持する人が多いから。


posted by 平井 吉信 at 23:24| Comment(0) | 音楽

2025年11月03日

FM FESTIVAL 2025 桑田佳祐スペシャル企画!! 九段下フォーク・フェスティバル’25


クルマを運転中にふと点けたFMラジオ。山下達郎の「サンデイ・ソング・ブック」やピーター・バラカンの「ウィークエンド・サンシャイン」以外はFMラジオをかけることはほとんどないのだけど、偶然たどり着いた2025年11月3日(月)16時からの東京FMの標記の特番(ローカルではFM徳島80.7MHz)。

サザンの桑田さん発案の企画で、出演者は事前にわからないというサプライズのようだ。ここで参加された演奏者は桑田さんを敬愛していることを感じる。参加者のみなさんが音楽を深く呼吸しながら魂の歓びを淡々と綴る時間。ライブというと、演奏者のノリが自己陶酔の域を出ないことがあるよね。でも、このライブは演奏された人たちが自ら愉しんでいることはもちろん、参加された人を愉しませたいと、一歩引いて歌っているように聞こえた。

詳細はこちら。しばらくは聞き逃し配信で聴くことができるようだ。
https://www.tfm.co.jp/fmfes2025/

桑田さんというと、かつての紅白での奇抜なパフォーマンスの印象を持つ人もいるだろうけど、ここでのライブは後進の人たちを立てて、ともに愉しもうとしているように見える。「白い色は恋人の色」/ベッツイ&クリス (桑田佳祐,あいみょん)なんて、そんなことがあるんだなという感慨。えっ、あいみょんが「なごり雪」まで歌うの?

竹内まりやさんが出演して、桑田さんを「圭ちゃん」と親しく呼びながら、長い付き合いを感じさせた。山下達郎/竹内まりやと桑田佳祐/原由子の夫婦ライブが実現するとおもしろいだろうな。4人とも色彩が違うのに同じ時代の風が吹いている。ひとつの楽曲をデュエットやらコーラスやらでやってもらえたら!

桑田さんはすばらしい。ほんとうに長く音楽を続けながらマンネリ化することなく、けれどストイックになりすぎることなく肩の力を抜いて音楽を紡いでいる。ベテランのなかで「今」が旬と思わせる数少ない(ほんとうに数少ない)音楽家ではないか。だから大御所という言葉は桑田さんには似合わない。権威主義でも懐古趣味でもなく、モノサシがぶれないことで時代を超越しているのだ。この企画では、昭和の歌、唄が主だけど(楽曲の力もあるよね)、年代を超えて音楽が馥郁と香る。頬を緩めて身体が揺れるみたいな。3時間が長いと感じられない経験など滅多にないでしょ。

サザンのアルバムでは、5枚目の「NUDE MAN」が好きだけど、ここ数年から十年ぐらいの音楽のメッセージの温もりも素敵だ。桑田さんの音楽には作為性が感じられず、自然体だけど人々を愉しませよう、メッセージを伝えようとされているから聴くほうも心を寄せていく。やりとりをするみたいに。
タグ:竹内まりや
posted by 平井 吉信 at 23:41| Comment(0) | 音楽

2025年10月01日

秋になるとたまらなく聴きたくなる 「しあわせの彩色」/藤本恭子


音楽っていいなと思う瞬間は、人生に数回ではなく、頻繁に訪れる。噛みしめるという感じ。それもじわじわと沁みてきて、さらに花がひらいていくような心の動き。頭のなかで彼女の声と楽曲が鳴る。だから現実(再生音)と脳内(記憶=聴きたいという思い)を一致させるのだ。

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それは、秋の吟遊詩人(とぼくは呼んでいる)、作詞作曲で歌う藤本恭子さんのアルバムを手に取る時間が増えてきた。ぼくが音楽を聴く深夜では気温が下がり始めている。髪を扇風機で乾かしながら環境照明で手元を照らしてCDをマランツ(SACD 30n)のトレイに置く。

ストリングスが足下から立ちこめてきて、ピアノと絡みあい、そこへしずしずと声が波紋を拡げていく。恭子さんが同じフレーズを異なる歌詞で繰り返しながら高みに昇っていくと転調して「もう一杯だけローズティください」と綴る。ストリングスもピアノも声を引き立てる脇役でありながら、音楽の佇まいを決定づける。毎回同じ体験をしているのに、また感動している(ローズティーをもう一杯)。音楽ってこうだったよね、という感慨とともに、あてどもなく時間を遡る。

音楽を短調と長調に分けるとしたら、長調が好き。短調には調性に支配されてたどり着く不自然な音符が気になるから。長調ではそれがひらいていく。だから音楽の基本は長調と思っている。だけど、恭子さんの短調は作為性がない。この人のあるがままの姿が短調を自然に響かせているのだと思う。ギターのアルペジオもいい(冬の詩)。

もしかしたら短調と長調が交錯してどちらの調性なのかわからないというのが自然体の短調かもしれない。心弾むときと沈むときの二面性を水面に映したような楽曲「うれしい時も かなしい時も」は、D♭Major/B♭minorが明滅する。でも3曲目で何かがひらいていく感じがする。

その次の楽曲「春」は、明らかに場面が変わる。初春の兆しを秘めたこの楽曲もDmajor/Bminorがおだやかな光のなかで明滅するようだ。1枚のアルバムとして連続する時間(心)の流れを感じる。繊細でおだやかな女性なのだろうと作者を思う。

次の楽曲「透明な夢」では、北欧の春の到来を思わせる張り詰めた透明感のたゆたい。清少納言の詩に、グリーグが作曲したかのようだ。

日本語をとても大切にしている。日本語の語感とそれを歌ううたいまわしも。前の楽曲に続いて「せせらぎ」もモノトーンのなかに無限の階調が折りたたまれているかのよう。

マイナーな曲調であっても、その次の「フリュギアの丘」は編曲ともあいまって少しだけ古代オリエンタルの世界観。久保田早紀がうたっても似合いそうだ。

一転して口笛が導く弾むような前奏の「美術館行きのバスに乗って」は全編どこをとっても長調の糸で紡がれている。なんだかスキップした少女が誇らしげに風を切って髪が揺れている風情。このアルバムでもっとも好きという人も少なくないだろう。オアシスのような位置づけで、このタイプの楽曲がもう1曲あってもよいかもしれない。恭子さんの歌い方もスタッカートで軽やかに弾む。

叙情的なピアノの前奏を聞くと長調の楽曲かと思うが(香る花)、実は短調(Dminor)に彩られているというように、左右、白黒、上下のような区別を付けない楽曲の揺らめきが魅力といえる。

最後は地球の黎明に気づいた夜明けの決心とでも形容したい楽曲「私の中の小宇宙」で締めくくられる。アルバム全曲を通して世界観が統一され、質の高い楽曲とそれを活かす編曲、そしてていねいに歌を載せていくので、全編を通して音楽にひたひたと浸ってしまう。「しあわせの彩色」を深く愛する人はきっと少なくないと思う。売れる売れないなど音楽の価値にとって意味がないことを改めて意識する。

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手元にあるのはファーストアルバム「しあわせの彩色」とセカンドアルバム「時の岸辺」の2枚。このうち「しあわせの彩色」は気に入って新品を追加購入して未開封で取って置いたもの。ぼくが持っているCDでは間違って重複したものを除いて、時間を置いて2枚手に入れたのはこのアルバムだけである。その封印を20年ぶりに解いた2025年9月。CDは1992年の発売で、最初の版はおそらく初出盤、2枚目はまだカタログに残っていた2005年頃に通常価格で入手したもの。

マニアックな話題なので興味ない人はこの段落を飛ばしていただくとして、この2枚のCDの再生音に差があったのか? 1枚の再生回数は多く、4桁は行かないけれど3桁は越えていると思う。それだけレーザー光に照射されていることになる。CDは、暗く良好な環境で保存している。1枚目は初出盤なので33年が経過していることになるが、未開封だった2枚目と比べて音質の差は確かにある。でもそれは劣化というよりは進んだエージングの差といったニュアンス。音がこなれてきめ細かいのが1枚目、音の鮮度がやや高いのが2枚目だが、これはニュアンスの差。CDメディアは劣化するといわれているが、それは再生回数や年数ではなく保存によるのではないか。少なくとも33年選手の1枚目からこなれた音質は感じるけれど劣化は感じない。

セカンドアルバム「時の岸辺」は2025年の9月にやってきた。新品での入手は無理だろうと程度の良い中古をずっと探していた。おそらくこのアーティストを聴く人はCDをていねいに保管する人だろう。そう思ってヤフーオークションを見たら、未開封品が出品されていた。すぐに最低価格で札を入れたが、そのまま時間が経過して落札となった。送料を入れても新品の1/3程度だった。

1枚目の「しあわせの彩色」は、90年代の日本のポップスでは出色の品質ではないのだろうか。全10曲は藤本恭子さん作詞作曲、編曲は、大島ミチルさん、吉川忠英さんなど。楽器は、ピアノ、ストリングス、ギター、ヴァイオリンの生楽器の生演奏、ドラムスは隠し味といった程度。ここでは声が主役。お姫様を引き立てる脇役たちといった趣きだが、脇役も名手たちがずらり。この録音は手間と費用がかかっているはず。

先頃入手した2枚目「時の岸辺」も1枚目の延長線上にある。作詞作曲はすべて本人で、編曲は大島ミチルさんを中心に数人で担当。「しあわせの彩色」をつくった恭子さんの声はさらに伸びやかで抑制的というよりは開放的だが、節度はきいている。例えるなら、1枚目は録音に厳かに向かい合う、2枚目は録音を愉しむ。ていねいな音づくりには変わりなく、リズムを際立たせないよう音の出だしを弱めにして膨らませる歌い方は共通。数百回は聴いている「しあわせの彩色」ほどはまだ身近に感じられていないけれど、「時の岸辺」も好きになりそう。藤本恭子の共通の世界観の上に陽差しの温もりと吹っ切れた大胆さが加わった感じ。これからワインを熟成させるように聴きこんでいくつもり。

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1990年代はバブル崩壊後であっても日本に勢いがあった。日常に遭遇する一人ひとりの憧れや悲しみ、詠嘆の思いを普遍化した音楽がつくられていた。藤本恭子(現 山田恭子)さんもそのおひとりで(いまはどうされているのだろう)、日本語の自然な文章を、ていねいにブレスして、楚々と歌うという音楽アルバムがいくつかあった。矢野顕子さん、大貫妙子さんなどのように作曲技法でとんがってもいないが、シンガーソングライターの典型的な私小説にもなりすぎず、等身大のおだやかな音楽といえばよいだろうか。

いまの時代のように歌詞を詰め込んで転調や移調の作曲技法や跳躍する音程に、ファルセット、早口でラップのようなスピード感を織り交ぜた忙しげな「タイパ」音楽でもない。退屈と紙一重の音楽のようで、語り掛ける音楽だが語りすぎず、弦楽器やピアノなどのアコースティックな伴奏も入れながら、全体としては寡黙だけれど、伝えたい思いがあふれる。このアルバムのように、声が主役だけど、前奏も間奏にも人の心が奏でる「音楽」があった。21世紀は四半世紀が過ぎたけれど、生の楽器と人の声とその合間の余韻に浸る秋の時間がなつかしくも切ない。

藤本恭子ーしあわせの彩色
藤本恭子―時の岸辺

タグ:藤本恭子
posted by 平井 吉信 at 01:00| Comment(0) | 音楽

2025年07月26日

いつまでも「太陽・神様・少年」。そして「太陽の東、月の西」/野田幹子 


「太陽・神様・少年」の歌詞を想像してみて―。
いまの時代にはこんな歌詞は生まれないだろうな。時代が求めていないから。音符の連なりとリズムと日本語を組み合わせただけなのに、地中海の光が明滅する世界、例えば、シャガールのリトグラフ「ダフニスとクロエ」が現われる感覚。当時のぼくは(いまも好きな曲だけど)フォーレの「ペレアスとメリザンド」に傾倒していたな。アンセルメ指揮スイスロマンド管弦楽団のデッカ録音で。地中海の光と影の明滅に人生肯定のエロスが花ひらく。

SWEET NOTHINGSとは、恋人同士の意味のない甘い言葉の応酬のことだけど、「髪の毛が風に揺れたね」「横顔が…」「まぶしいよ」なんて感じ。まあ、実体験が乏しいので書けないけど、二人だけのささやきの世界、というコンセプトなんだろうね。でも音楽は甘甘でなく、細部にまで施された職人的な細工に、感性の跳躍が散りばめられている感じ。

ムーンライダーズのプロデュースが加わった1981年8月発売のファーストアルバム「SWEET NOTHINGS」(44年前になるのか)、2枚目の「太陽の東、月の西」(1988年4月)は、ともに甲乙付けがたいできばえ。

野田幹子さんも作詞作曲するけれど、ムーンライダーズの岡田徹さんによるプロデュース(作曲2曲)と鈴木慶一さんの楽曲提供(3曲)などムーンライダーズ色が濃い。いま聴いてもよくできているなあとため息。

1枚目と2枚目はLP(アナログ盤などとは当時は呼ばなかった)で持っているけれど、CDを買いたそうとしたら廃盤だったので中古でCDを入手した。

「太陽・神様・少年」は作詞家の石川あゆ子さんの感性が永遠に輝いている。そして作曲(鈴木慶一さん)が空に羽ばたかせた。この曲はミノルタが社運をかけて開発した世界初のオートフォーカス一眼レフα7000のCM曲でもあった。ぼくはミノルタのマニュアルフォーカスの最終形であるX700(国の内外をこれで飛び回ったけれど、いまも完動備品)を使っていたけれど、刷新的な変革(いまでいうゲームチェンジャー)もこの楽曲に託していたんだね。でもそれから数十年後、ミノルタは消滅してソニーがデジタル一眼としてαシリーズを受けついだのだけど、ぼくもαのAF一眼は憧れだった(買えなかった。言い換えればMFのX700を変えなかった。三好和義さんも楽園シリーズはX700ではなく、αで撮っていたと思う)。国産品でありながら南半球が似合うカメラだったね、ミノルタの一眼はMF/AF問わず。

ファーストアルバムの終わりから2曲目の「Distant Shore」で「たった1枚のフォトグラフのなかに無邪気な夏が横たわっているわ」と歌われると、(人が心地よいと思える最大公約数的な)ヴェルベットボイスといわれた声に色彩をつけるのは聴く人それぞれなのだと思える。

2枚目の「太陽の東、月の西」は続編で、「A LONG VACATION」に続く「EACH TIME」のよう。シングル曲としては「ほほにかかる涙-fairly-」がある。こんな楽曲がシングル曲だなんて、インパクトを起さなくて心に深く刻まれる佳曲。2枚目のアルバムは1枚目よりゆったりと時間が流れる。「エアポート」は心弾むA面(レコード)の白眉。B面では「夏のシエステ」「夜の泉」「ほほにかかる涙-fairly-」「太陽の東、月の西」と括られると音楽に浸った充実感。

野田幹子さんはアイドルではないけれどルックスがよいと言われる。ぼくはそんなおしゃれ感覚よりも、無色だけど有機的な彼女の声が好きで(深夜に、マランツのSACD 30nで「夜の泉」を聴いていると声が心の奥深くまで波紋を拡げていく感じ)、ムーンライダーズ色の音楽が好きだったので。音楽が幸福感を描くとこうなる。
廃盤だけど、それぞれ復刻して欲しい。この空気感はベストでは補うことはできないから。

野田幹子-SWEET NOTHINGS
野田幹子- 太陽の東、月の西

初めて聴く人はベストでもよいかもしれない。いまも新品が手に入るから(ぼくは初期が好きだけど)
BLACK VELVET〜野田幹子 20th BEST〜

ベストの選曲としてはこちらが好きだけど、やはり廃盤のよう
ミディ‐ベスト・コレクション‐野田幹子
タグ:野田幹子
posted by 平井 吉信 at 22:44| Comment(0) | 音楽

2025年07月16日

80年代の風はまだ熱かった kona weather -35th Anniversary Edition- - 杉山清貴


「kona weather」は杉山清貴さんのソロ3枚目で1987年12月発売の作品。2022年にリマスタリングされてBlu-spec CD2仕様(通常のCDプレーヤーで再生可能な高品質製盤)で発売されていた。

1曲目の「kona wind」から持って行かれる。音合わせの合図で無伴奏の歌とコーラスの息が合い、途中からドラムスがズシンと入ってくると、杉山さんが思わず「いいねえ」と声が漏れたバージョンが収録されている(後年のベストではこの導入がばっさりカットされている)。ここは80年代の空気が濃厚で、このアルバムの雰囲気を決めるといっても過言でない。こうでなければ。

汗ばむ偏西風(かぜ)がシートに吹きこむ太平洋(うみ)づたいのダスティーロード

カジキマグロの夢追いかけたあの年老いた少年のように


歌詞がいいね。はるばるやってきた太平洋の岸辺は自由と「アイタペアペア(なんとかなるさ)」の空気に溢れていた。振り返れば、80年代は冷めているようで、まだかなり人の氣が濃厚であったことがわかる。レイドバックしているのに楽曲の高揚感が横溢しているのは録音に参加している演奏者の熱気とノリだね。

この時代、徳島市出身の写真家、17歳の三好和義さんがハワイで撮影した写真がAPAで特選を取ってその後は広告業界で活躍しながら「RAKUEN」シリーズを発表。この頃はミノルタX700と超広角のMD20of2.8を多用されていた。20oの接近戦は主題を誇張しながら情景も説明するあざとい写真になりやすいが、それよりも好奇心が優るとでも。その頃のぼくは、同じX700にMD28of2.8を使うことが多かった。ぼくにとってはそれが心を同化させていくときの画角だったから。そして楽園とは、セイシェルやモルディブだけにあるのではなく、それを見ようとする心のなかにあると気付いた80年代でもあった。

この2022年リマスタリングの35周年盤の音質は、いかにもデジタル処理で鮮明になったマスタリングではなく、声を中心に粒立ちながらもブレンドされて溶け込みと熱気が同居する。余分な歪み成分や付帯音がなくて音像と音場が分離しているのに、人肌の温もりを感じる。アナログレコード特有の前後の物理的な接触が厳密に点ではなく線であることに起因する時間軸の重なり(リバーブ感)、逆に左右のクロストーク特性が完全でないがゆえの疑似的な中央定位の再現をデジタル処理で実現したよう。つまりは80年代が濃厚に蘇る。ボーナストラック6曲も自由が横溢している。
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kona weather -35th Anniversary Edition- - 杉山清貴

追記
「アイタペアペア」は南太平洋の合言葉。自由な風に吹かれていたから。

posted by 平井 吉信 at 01:48| Comment(0) | 音楽

2025年06月23日

屋久島の自然音で 集中の前のひとときに ゆるめる時間への導入に


ゴルフを鹿児島港でフェリーに乗せて屋久島へ旅立ったのはいつだったか。どうしてもアプローチで自分の車が必要(車中泊)だったことと、九州横断の道中で道草をしたかったから。

屋久島の森で印象に残っているのは、花之江河、白谷雲水峡、ウィルソン杉、縄文杉、島南部の海岸線、永田川など花崗岩質の岩盤をすべるように下る川、海から遡行することのできない川、海中温泉、いなか浜、西部林道、名もない風景や道、森の植生、屋久杉などすべてといえるのだけれど(世界自然遺産に登録される以前のこと)、山中で過ごした完全な闇にもっとも心を動かされた。

天文少年だったぼくは、口径10センチの反射赤道儀を分解して、父に車で人けのない山中に送ってもらって翌朝迎えに来てもらっていた。携帯電話などない時代で何かが起こっても連絡のとりようがない(武器となる木の棒は持って行ったような記憶がある)。夜の山はなかなか賑やかで、ミシミシ、ケケケケ、フーといったさまざま環境音が背後から聞こえてくる。星雲星団を見るために暗闇に慣れているはずだったが、新月の屋久島の山の夜は目の前にある(はずの)自分の手さえ見えなかった。視覚が失われた状態で聴覚はますます過敏になる。完全暗闇がこの世にあるのだと知った。

さて、せせらぎ、波の音、鳥の声といった自然音を収録したCDをぼくは持っているけれど、以前から気になっていて、ようやく買った音源を紹介する。屋久島の自然音で2枚。制作元のWebサイトに試聴音源がある。

屋久島〜Water/ネイチャー・サウンド・ギャラリー(自然音)
https://www.della.co.jp/products/dlns-213?srsltid=AfmBOorE09MLkWNqXUZG6SAmyMZof8yLmPT3M3naZXWJ7NbrHBDp53A0
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屋久島〜Deep Forest/ネイチャー・サウンド・ギャラリー(自然音)
https://www.della.co.jp/products/dlns-214?srsltid=AfmBOooD7raFIJ-bSzzdJaFNtbV6lnUPGT8kJJC4Ju6X4nuGSrwZZ9Wx
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音楽(楽器の演奏)は含まれない自然音のみの収録である。視聴してみると、良い感じの音源があったが、飛ばしたい音源も含まれている。

実はこの音源はダウンロード/配信のみで、CDはない。だから購入を見送っていたのだが、パッケージ版が発売されることはなさそうで、どちらを買おうかと迷った(2枚は要らないだろうが、欲しい曲はどちらにもある)。

ダウンロードのみということは、1曲ずつダウンロードできる。そこで2枚から選択してみたのが次の5音源(数字は時間)。金額は1,595円とアルバム1枚よりやや安い金額に収まった。

(1枚目から2音源)
@ 森に響く野生の声〜屋久島・西部林道(6:34)
A 巨樹を仰いで〜屋久島・紀元杉(7:55)
(2枚目から3音源)
B ウィルソン株の泉〜屋久島(13:41)
C 西部林の雨〜屋久島(5:21)
D 澄明の泉〜屋久島・大株歩道(10:01)

せせらぎの音源などは、どこの地域のも似たように聞こえる。そのうえ、オンマイクで(渓流に近接して)録られたせせらぎは音量が大きいこともあって音量を下げたくなる(スピーカーから聴くと水没して溺れているような錯覚すら受けることもある)。音量を合わせたいので上のような選択となった。

豊富な水が花崗岩の川床を滑りおちる屋久島の渓流ならではの硬質の響きを愉しむためにせせらぎを1曲入れておいてもよいかもしれない。ぼくが選んだ水音は、岩にしみいるような音や、株のなかに湧き出して狭い空間で残響している水音、屋久島特有の森に降る雨の音などの音源。擬音で表すと、ヤロヤロ、ヨロヨロ、ヨーロヤロといったヤ行のやわらかさとラ行の粒立ちを響かせた水音(ヤ行とラ行の組み合わせは癒しの記号かもしれない)は屋久島の表情と思うので選んだ。心が地面に向かってしずまっていくような心地。子宮内の記憶していない原体験に似ているのかも。

鳥の声が含まれる森のざわめきもよい。ただし「森に響く野生の声」は猿の争う声もあるので、瞑想やリラクゼーションに使うなら割愛してもよいかもしれない。でも、屋久島の森を体験しているぼくには生き物の声の饒舌が森に調和しているようにも思える。森を進むうちに五感が澄んでくるという疑似体験には生き物の声は不可欠と思うのだ。

購入は音源データが選べるOTOTOYから。
★屋久島〜Deep Forest/自然音 https://ototoy.jp/_/default/p/1330470
★屋久島〜Water/自然音 https://ototoy.jp/_/default/p/1296866

ダウンロードする際に、手元の端末で再生可能なデータの種類を4種類の音源から選べるので、ぼくは非圧縮でCDと同等の16bit/44.1KHzのwav形式を選んだ。普通の端末ならどのデータ形式も再生可能と思われる。もっとも音がよいのはwavデータ、次いでflacで、無難なのはflacだろう。Amazonでもダウンロードできるがmp3のはずで音質は良くない。

環境音は寝る前に聴きたいが、車で聞くことも多い。重要なプレゼンテーションや講演、セミナーの前に、集中&リラックスをするために聴くこともある。屋久島というブランドがありがたいのではなく、この島の持つ息吹や力が捉えられて閉じ込められているからで、目を閉じれば屋久島の森の逍遙が始まるように思えるから。

posted by 平井 吉信 at 00:13| Comment(0) | 音楽

2025年05月06日

5月になると思い浮かぶ楽曲 なつかしく何度も繰り返す プッチーニ「蝶々夫人」と鯉のぼり


プッチーニ「蝶々夫人」、フレーニ、パバロッティ、カラヤン/ウィーンフィル

連休中、数日間にわたって頭のなかで繰り返す楽曲は、プッチーニの「蝶々夫人」だった。それは蝶々さん登場の場面で同伴の友だちとの掛け合いのなかで歓びの絶頂を歌い上げる幸福に満ちた場面での楽曲。

Io sono la fanciulla piu lieta del Giappone, anzi del mondo.
Amiche, io son venuta al richiamo d'amor!
d'amor venni alle soglie!
ove s'accoglie il bene di chi vive e di chi muor!
Amiche, io son venuta al richiamo d'amor,
al richiamo d'amor,
son venuta al richiamo d'amor, d'amor!

第1幕から「そらやって来ましたよ」(ゴロー、友だち、蝶々さん)、「海の上にも、大地にも」〔美しい青空〕 (蝶々さん、友だち、シャープレス)

友だちが、「花がいっぱい、海が広い、空が広い」とうっとりと賛美するなかで、
蝶々さんは、「みなさん、私は愛の呼び声に誘われてやってきました」と応える。
(世界が自分を祝福していると感じる幸福の絶頂の音楽があるとしたらこんな音楽ですよ)。

そして最後の行の「d'amor!」の高い音が絶叫とならず、ピアニシモで空気と同化するように、人の声が空気を震わせ、心を震わせる。ぼくの時間が止まってしまう。

もし、みなさんもどこかで耳にできたら生涯忘れられない音楽になるはず。毎年、五月の薫風に立つと、幸せの蝶々さんが耳に響いて離れなくなる。

このオペラの第2幕は、長崎での任務を終えたピンカートンがアメリカに帰国し、「コマドリが巣を作る頃には戻ってくる」という彼の言葉を信じて待つ蝶々さんと下女スズキとのくらし。そのなかで「ある晴れた日に」が有名である。第3幕は、ピンカートンが本国で結婚した妻ケイトを伴って戻ってくる場面。子どもの将来を思ってピンカートンの妻に託した後、蝶々さんは父の遺品の短刀で果てる。

日本はアメリカの植民地ではなかったが、当時の欧米でありふれた現地妻を取り扱ったもので、題材としては受け容れがたい部分もある。けれどもプッチーニの音楽があまりにも耽美的で蝶々さんの歓喜が音楽に溶け込んで漂うように満ちあふれる第1幕は宝物のよう。それゆえ、ぼくは蝶々さんが長崎の丘の上の新婚の家に友だちを連れて上がっていく場面から、第1幕の最後を飾る愛の二重奏(可愛がってくださいね」までしか聴かない。

ぼくが聴いているのは、蝶々さんをフレーニ、そしてカラヤン/ウィーンフィルが伴奏するCD。カラヤン/ウィーンフィルの磨き上げられた音楽に、蝶々さんのひたむきさが明滅する。幸福の絶頂で終わる第1幕だけで幕を引きたい。

その後調べてみたら、抜粋版が廉価に(千円台の前半。しかも盤質の良いSHM-CD→すべてのCDプレーヤーで再生可能)販売されていることがわかった。無理に全曲盤を買わなくてもこれで十分に堪能できる。

プッチーニ:歌劇《蝶々夫人》ハイライツ (SHM-CD) カラヤン/ウィーンフィル、
ミレッラ・フレーニ(ソプラノ:蝶々さん)
ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール:ピンカートン)
クリスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ:スズキ)ほか




鯉のぼり(文部省唱歌)

この「鯉のぼり」とは、「屋根より高い…」ではなく「甍の波と雲の波…」とうたわれる文部省唱歌のほうで、高知県安芸市出身の弘田龍太郎の作曲とされる。この楽曲も連休前から心に響いてくる「旬の楽曲」。親族に男の子が生れたこともあって、なおさらである。

甍(いらか)の波と雲の波
重なる波の中空(なかぞら)を
橘(たちばな)かおる朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

開ける広き其の口に
舟をも呑まん様(さま)見えて
ゆたかに振う尾鰭には
物に動ぜぬ姿あり

百瀬(ももせ)の滝を登りなば
忽(たちま)ち竜になりぬべき
わが身に似よや男子(おのこご)と
空に躍るや鯉のぼり


歌詞は格調が高いが、決して誇張ではなく、健やかな成長を願う子への願いが感じられる。「橘かおる朝風」「ゆたかに振う尾鰭」「わが身に似よや男子」の三行目の歌詞が特に心に響く。そしてこの部分は原曲(ヘ長調)の平行短調(ニ短調)と同型の旋律がリズムを平坦にして、しかもメゾピアノの指定がある。詩と音楽が高度に結びついたこの部分が芸術の香りをしのばせて存在感をつくっていると思う。ただし、律儀に伴奏を刻んで声を合わせるいかにも唱歌的な歌い方では、つまらない楽曲に陥ってしまう。

それゆえか、作曲家の團伊玖磨やサトウ・ハチローはこの唱歌を評価しなかったという。しかし、この楽曲に込められた、代々受けつがれてきた親から子への見守るような愛情、音楽的に高度な技をしのばせながらも、親しみやすいリズムと繰り返しの多い旋律の背後にある、高度な芸術の香りに気付くことができれば一生の宝物になるはずである(プロだから楽曲の世界がわかるというわけではない)。歌詞が現代語ではないのだけれど、それでも学校で歌い継いでほしいと願う楽曲である。

手持ちのCDでは、「有山麻衣子 幻のコンサート」から。ソプラノの有山さんは持ち味に合わせて原調より半音上げて変ト長調でうたっているようだ。ピアノ伴奏では黒鍵が多くなり響きがまろやかになって声楽を引き立てる効果も感じられる。この楽曲は唱歌というよりは声楽と思って楽譜に忠実に(特に三行目を大切に、その前後との極端な差異も避けて)、過剰な感情移入も避けながら楽曲に向かい合うことで世界観が見えてくる。男声で力強く歌う楽曲のようで、実は誰がうたっても曲想を我が物にすればゆたかに表現できるという見本。


posted by 平井 吉信 at 11:45| Comment(0) | 音楽

2025年02月22日

天性のギタリスト 朴葵姫さん、ヴィラ=ロボス(5つの前奏曲)を全曲弾いていただけませんか?


まずは、アルハンブラの想い出から。
朴葵姫(パク・キュヒ)さんは粒ぞろいのトレモロの美しさを持っているが、それがよく発揮されるのがアルハンブラの想い出。クラシックギター入門のような楽曲で、どちらかというと聴いて感銘を受けることは少ない曲だった。

うちには、親父が購入した中出阪蔵や河野賢といった日本の手工ギターの作品があり、ぼく自身も自分でつま弾いてそれらの音色の変化を体感していた。当時のギターには銘木がふんだんに使われていて、表板はドイツ松、裏板はハカランダやローズウッド、指板には黒檀が埋め込まれていたと記憶している。弦を張替えると安定するまで時間がかかり、たびたび合わせる必要があった(1〜3弦はオースチン、4〜6弦はサバレスを張ることが多かった。音叉=440Hzを何度も聴いてこの周波数が頭に入った)。ときどきは近隣の愛好家が集まって合奏などをしていたので、アルハンブラの想い出も生で何度も聴いていた曲だった。

朴葵姫さんの演奏にはギターをそれらしく鳴らそうとしていない(パチンと弾く快感を求めていない)。そんな演奏は弾き手の独りよがりになりがちで、そのように弾くギタリストは少なくない。朴葵姫さんはそうではなく、音が空間に放たれて余韻を残すまで心で見送るとでも。ゆえに、こんなリズム感で組みたてるのか、こんなにうたうのかと感嘆。川の流れのように長いレガートで大きな抑揚が感じられる。正確無比な音程や精緻な技術は後において、ただ楽器に心をのせるためという感じ。

まずは、この演奏を聴いてみて。粒ぞろいで精密機械のようなトレモロなのに人の手の温もりを吹きかけるよう。一本の川のようなレガートと転調してから高みに昇っていく高揚は何にたとえる?
Recuerdos de la Alhambra(アルハンブラの想い出)
https://www.youtube.com/watch?v=ycYC2pCDkhU


次は、アルバム「Harmonia」の1曲目に置かれている「インヴィテイション ~組曲“夏の庭"より」。ぼくは実演でこの楽曲を聴いたことがある(徳永真一郎&松田弦ギターリサイタル「在りし日の歌」(2023年8月19日)。
弾き方が対照的に異なる二人の愉しいギターデュオだった。徳永さんが小学生の頃(だったかな?)、今切川に小舟を浮かべて一緒に水質検査をしたことがある(覚えていますか?)。さて、2023年のコンサートでは組曲「夏の庭」を全曲弾いてくれた。夏の庭でもっとも好きなのがこの曲。デュオで弾く楽曲だが、朴葵姫さんはひとりの多重録音のよう。少年の頃、庭で遊んだ少年を太陽が照らし風が吹いていたという風情は心で聴く音風景。
https://www.youtube.com/watch?v=eqn3yC4Tg1s&list=OLAK5uy_mBeFLDDw755jekVrJzjZWSdqa6uw-2qHE&index=2

朴葵姫さんのアルバムではこれがもっとも好き
Harmonia -朴葵姫


ヴィラ=ロボスの5つの前奏曲から第2番ホ長調。
朴葵姫さんには以前のスタジオ録音もあるが、それと比べて情感あふれる演奏となっている。中学の頃、もっとも好きな曲は?と聴かれたら、アバとかビートルズとかBCRなどと答えずに、ぽつんとこの楽曲名を告げる。誰も知らない(知るよしもない。当時からマイナー指向だったのです)。

「THE LIVE」というコンサート音源のCDがすばらしい。朴葵姫さん、ぼくの大好きな第1番ホ短調も含めて全5曲、再録していただけませんか? 南米ならではの楽観と野性味が同居している楽曲を。
https://www.youtube.com/watch?v=hSK9xVdB_28&list=OLAK5uy_lKyacGXKwsm1JITWyTyxYlbZwSN1c0bus&index=8

The Live-朴葵姫


最後は、東日本大震災を経験した日本人なら誰もが聴いたことがある「花は咲く」。音楽のカタルシスを感じる瞬間が訪れる
Kyuhee Park / Hana wa Saku (Flowers will bloom) - Y.Kanno
https://www.youtube.com/watch?v=KELE-ogceUg


posted by 平井 吉信 at 19:24| Comment(0) | 音楽

SACDで聴くEACH TIME(大瀧詠一) 豊潤にして自然な音世界


前作「A LONG VACATION」のあと、3年を経て世に問うたもの。大滝さんにとっては前作の評判もあったので難産であったと想像する。どちらかというと外向的な前作と比べると内省的な作品、セブンスコードが多用されている。だからじっくり聴くと心の琴線を打ち鳴らす。どちらを取ることもできない秀作だよね。

EACH TIMEは発売後も難産であったようで、CD再発のたびに曲順、収録曲、音源まで変更されている。ぼくはアナログを発売当時に手にしたこともあって、初出の版がもっとも好き。

「君は天然色」と比べると冒頭の「魔法の瞳」は見劣りがするけれど、続く「夏のペーパーバック」「木の葉のスケッチ」では夏の午後の昼下がりの出会いのように心をかき乱す。「恋のナックルボール」を経て「銀色のジェット」に受け渡されるて解決しない仮終結。

B面は「1969年のドラッグレース」で幕を開ける。この並びもいい。A LONG VACATIONの「恋のスピーチバルーン」の同じ位置には「ガラス壜の中の船」が音符をていねいに組みたててぴたりとはまる。「恋するカレン」(A LONG VACATIONの聴かせどころ)で山場をつくったように「ペパーミント・ブルー」も歌の世界観、旋律美、編曲の広がり感で甲乙付けがたい。そして「レイクサイド・ストーリ」で初出の「大エンディング」で締めくくられる。ここで聴くのをやめてもよいが、ボーナストラックが「フィヨルドの少女」「バチュラー・ガール」で聴き手に委ねられるのもよい。

この初出の曲の並びと音源に、ボーナストラック2曲の追加という体裁を待ち望んでいたのが、2024年に40周年記念で発売されたSACD(シングルレイヤー)のEACH TIME(通常の40周年盤はこの版ではない)。SACDでもハイブリッド仕様ならどのCDプレーヤーでも再生できるが、これはシングルレイヤーなのでSACD対応装置が必要な点にご注意を。

SACDとCD(手元にあるのは20周年版と30周年版)と比べてみた。A LONG VACATIONのSACDで予想されていたとおり、むしろそれ以上にSACD化がはまっていた。

なめらかでうるささが皆無で、良質のヘッドホンのような漂う音場に浸るというところ。それなのに声はヴォーカルアルバムとしての魅力が際立っている。人の声が温もりと存在感がある反面、伴奏が奥ゆかしくはるか外側まで広がるのがSACDの特徴かもしれない。

そのため、音楽が空間を豊潤に満たす。ぼくの再生音は深夜に聴くぐらいだから昼間でも小さい。そのためスピーカーには接近して聴いている。左右のスピーカーの距離は70センチぐらい。その中心に頭を置いて近寄ったり遠ざかったりしてみたら再生音がまるで違って聞こえた。

二等辺三角形より離れると、おとなしい上品な音の印象が最大化される。二等辺三角形よりスピーカーに近づくと、途端に粒立ちや音場の漂う美音成分が際だって増える。そのうえ口元の輪郭がさらにはっきりして大滝さんのクルーナーボイスのヒーリングシャワーとなる。さらに近づいてスピーカーが真横に来るぐらいになると、ツイーターの指向性のエリアから外れて籠もった感じとなる。もっとも音が良かったのは二等辺三角形からさらに近づいて角度が広がったとき(スピーカーからの距離50センチ程度)。スピーカーからの距離と角度でまったく音楽が違って聞こえる。ぼくが音楽を聴くときにBGMにしないのはつくる人の意図を感じたいから(集中して聴くのでアルバム1枚か2枚で終える)。

これは再生装置と音量によって異なるかもしれない。スピーカーはクリプトンKX-1で、中高域を受け持つリングダイヤフラムツイーターはサービスエリアが広くないかもしれないが、良質の高域を響かせる。マランツSACD 30nはこの価格帯ではもっとも音楽を有機的かつ豊かに響かせる装置なので申し分ない。

この音を聴いていて思い出したのは、1970年代に発売されて世界的な評価を得たヤマハの名機NS-1000M。北欧の放送局で採用されたことを皮切りに世界に愛されるスピーカーとなった。

ところがこのスピーカーを評価しない人も少なくない。音楽が痩せている、音楽が聴きにくい、声に潤いがないなどという。ぼくの小学校や高校の同級生3人がこのスピーカーを持っていて、頻繁に聴かせてもらった(ウイスキーを片手に朝まで音楽談義に花を咲かせた)。聞きこんだ原体験から、ひとことでいえば「豊潤な音」の印象。

あるオーディオ専門店でNS-1000Mを聴かせてもらったとき、つまらない音でしょ?といわれた。え? そのとき比較で聴かせてもらったのが、店主おすすめのヨーロッパの2ウェイスピーカーであったが、切り替えた途端、音楽の生命力が失われた感じがした。ここの店主はいったいどこを聴いているの?と思った。オーディオ雑誌で絶賛されているからとか、有名だから1000Mを評価しているのではなく、音が好きだからで目隠しされても100%言い当てられると思う。

いま思い返せば、音楽のどこを聴いて判断するかは人によって違うということ。ぼくにとっては、音楽が豊かに鳴っているという印象がまっさきに来る。いま考えると、ツイーターとスコーカーが同じベリリウムの同一形状で口径が異なるだけ。位相も管理されていたから、スコーカーが疑似的に大口径ツイーターのごとく作用してサービスエリアを拡げていたのを豊潤と聞き取ったのかもしれない。密閉の30センチ紙ウーファーはこのスピーカーの弱点と指摘されることがあるが、ぼくはこれだから成功したのだと思う。その後にウーファーをカーボン素材などに代替した進化版が出たが、市場で淘汰されている。いまぼくが聴いているクリプトンも「密閉型」「紙コーン」だが、この方式に共通の歪み感の少ない低域と適度な空気漏れが心地よい音場を作り出すのではないかと推察している。

それはともかく、EACH TIMEの40周年記念のSACD盤は、ほんとうに豊かな音楽の世界を見せてくれる。CDは音の粒だちが人工的(それはそれで配信で聴くのならよいのかも)。それだけ聴いていると不満はないが、素材そのものを磨かれて出されたら(良い素材の料理を味付けを控えて出されたら)心の糧となるだろう。それはその人の音楽(食)の体験によるのだけれど。

EACH TIME 40th Anniversary Edition (SACD)

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タグ:大滝詠一 SACD
posted by 平井 吉信 at 14:18| Comment(0) | 音楽

2025年02月16日

小暮はな「ホタルの庭で」 しずしずと、ひたひたと歌のさざなみ


小暮はなさんは、ポルトガルのファド(ご当地の歌謡曲)に私淑しておられる。10代の頃からの経歴で発売されたアルバムは決して多くないけれど、良質の音楽を届けられている。

まずは、「ホタルの庭で」。
ホタルが庭に今年もやってきた。葉を揺らして来たことを告げる。はかないいのちが明滅して去って行く。そして(同じホタルでないかもしれないが)また戻ってくる。自然の持つ規則性とこの場にいる蓋然性。そしてホタルに愛しい人を投影しているのかもと思わせる佳曲。歌詞の一部はポルトガル語になっている。
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控えめなピアノとギターの伴奏に、はなさんの歌が闇夜に灯すようにしずしずと入ってくる。間奏ではピアノの永田雅代さんがときおりピアニカ(?)でオブリガートする。音楽が空間に放たれ、喉の空間が中高音の余韻となって空気を震わせる。ビブラートや小節でなく、素のままの声と透明な倍音の響きがひたひたと波のように押し寄せる。こんなひたむきな歌への向き合い方があるのかと。張り詰めた沈黙感の背後に無限の安らぎ―。もう沈黙しかない。

「ホタルの庭で」小暮はな / Jardim dos Pirilampos - Hana Kogure
https://www.youtube.com/watch?v=Xyyv8r2HXLs
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「ホタルの庭で」は2枚目の「アズール」と、3枚目で最新作の「ジャカランダ」に収録されている。しかし(想像だが)音源は異なると思う。3枚目は「本格ファド編成によるアコースティック・アルバムを制作」とあり、はなさん自身がいまもっとも歌いたい曲ということで、これも期待作なのだ。ただし2枚目の収録版とアレンジ(もちろん歌い方も)も違うと思う。3枚目の視聴音源を探してみたけどどこにも見つからないので、2枚目から聴いてみては?と提案。

2枚目は公式YouTubeチャンネルでダイジェストが紹介されている
小暮はな Hana Kogure New Album『AZUL』2017年4月9日リリース!
https://www.youtube.com/watch?v=dGAOmRqEqO4


(追記)
アルバムの内容紹介を転載(やはりアレンジが違うようだ)

■最新作『ジャカランダ』で本格ファドを聴かせたSSW小暮はな
2017年発売の代表作『アズール』がボーナスCD付で再発!

遠いポルトの海風、鳥たちの声、石畳、かすかな青いエロスの香り……
紡がれた言葉と調べ、その歌声は光と陰

 2023年にライス・レコードから『ジャカランダ』(OSR-8100)をリリースしたシンガー・ソングライターの小暮はな。以前より積極的にポルトガルとの関わりを表現してきた彼女が初めて放った本格的なファド作品『ジャカランダ』は、各方面で大きな話題を呼びました。そんな彼女の前作『アズール』(2017年作)の在庫が終了したことを受けて、この度ライス・レコードから同作の再発盤をリリースすることにいたしました。

 小暮はなは15歳より自作曲を創り始め、ライヴハウスなどでギターの弾き語りを行うようなりました。その後関島岳郎(栗コーダーカルテット)プロデュースによる1stアルバム「鳥になる日」(off-note)を2004年に発表した彼女は、2008〜2011年までの間、ポルトガルを中心に欧州各地で活動を行うようになります。そしてそんな経験を元に、ファドの影響を随所に感じさせる哀愁漂うメロディーと、 深く叙情的な詞の世界、やわらかく凛とした歌声にさらなる磨きを掛けた彼女が13年ぶりに発表したのが、今回ライスから再発される『アズール』でした。

 小暮はなの代表作とも言える『アズール』では、英珠や紅龍(上々颱風)との共同作業でも知られるピアニストの永田雅代が小暮と共にプロデュースを担当。そのほか、ロケット・マツ(パスカルズ)、関島岳郎、西村直樹、関根真理、塙一郎といった錚々たるミュージシャンが参加している点にも注目が集まりました。収録曲の多くは小暮はなの自作曲ですが、紅龍の提供楽曲「誰かが誰かを」や、詩人の金子光晴(作詞)/フォーク歌手ひがしのひとし(作曲)による「おかっぱ頭~愛情42~」も取り上げています。また最新作『ジャカランダ』ではファド・アレンジで聴かせていた「アンドリーニャ」「ホタルの庭で」のオリジナル・ヴァージョン、ポルトガルのカーネーション革命の開始の合図ともなった「Grândola, Vila Morena」のカヴァーなども収録しています。

 さらに今回の再発にあたり、ボーナスCDを付録することにいたしました。内容は過去の未発表ライヴ音源を集めたもので、特に彼女が初めてポルトガルに渡って行ったライヴの音源は大変貴重で、ファンなら絶対に聴き逃せないものと言えるでしょう。

 『ジャカランダ』で初めて小暮はなを知った新しいファンにはもちろん、ボーナスCDを求める以前からのファンにもお勧めいたします。

トラックリスト
〈メインディスク〉1. アンドリーニャ
2. 朱いさかな
3. MOJITO
4. ホタルの庭で
5. おかっぱ頭〜愛情42〜
6. 一羽のカモメ
7. 誰かが誰かを
8. AVIA
9. Grandola Vila Morena
10. タンポポのように
11. かもめの住む街

〈ボーナスCD〉
1. 咲き続ける花よ(ライヴ)
2. 一羽のカモメ(ライヴ)
3. チョウチョ(ライヴ)
4. 空の下で (ライヴ)
5. こもりうた(ライヴ)


追記その2

視聴できるサイトが見つかった(OTOTOY)

azul:https://ototoy.jp/_/default/p/2106303

ジャカランダ:https://ototoy.jp/_/default/p/2134429

posted by 平井 吉信 at 11:52| Comment(0) | 音楽

2025年01月25日

昼も夜もPolaroid Loveres(Sarah Jarosz)


県西部でのセミナー(参加者がとても感じの良い方々であった)の開催で向かう道中で、ひたすら聴いていた音楽は、Sarah Jarosz(サラ・ジャロウズ)の新作「Polaroid Lovers」 。世の中に溢れている音楽と似ているようで、まったく違う魅力を感じるのは彼女の声のせい。自作の楽曲も佳い(このアルバムではかつては苦手だった共作がほとんどで愉しいプロセスであったと動画サイトの後半で語っている)。

YouTubeで前半3曲をスタジオライブで歌っている動画がこれ
https://www.youtube.com/watch?v=PTRNQfESd0k

動画後半のインタビューでは、ブルーグラスやカントリーフォークに分類されることが多い彼女の新作について、「驚く人が多いのでは? 60年代のボブ・ディランがエレキギターを手にしたときのように」とインタビュー者が水を向ける(フォーク信者の観客がディランに向かって「ユダ!(裏切り者)と罵声を投げかけたんだよね。見てないけど)。

サラさんも、自分の音と違う感じ(私も驚いているのニュアンス)と答える。素朴で温もりの人柄から音楽性が漂うが、20代後半でグラミー賞を3度受賞している実力者。ここ数年人気を集めているベッドルームPOP(ClairoやBilllie Irishなど)もいいけど、生演奏の弾む感じは一体感がある。サラさんの声がとてもよい感じ。

2曲目の「When the Lights Go Out」の歌詞(夢のなかで二人はポラロイド写真に写った恋人だった)のPolaroid Loversという言葉が気に入ってタイトルにしたのだけれど、考えてみれば人生の場面はスナップ写真のようなもので、過去や未来を見つめるように楽曲に反映しているということ、過ぎていく一瞬が写真に定着するが、音楽もそんなものという(と言っているように解釈したけれど、歌詞と同様にやや抽象的なのがSarahさんの特徴かも)。

共作によってさまざまな共演者のアイデア(思い)が注入されたのがよかったのかも。21世紀に売れた日本の音楽では作詞がいまひとつと思えるものが多かった。誰が良き協力者がいれば別の伝え方、表し方が可能で、それがさらにその人やその楽曲を活かすのに、と思える場面が多かったので。DTMや配信でなく、誰かとの関わりから音楽が生れていくほうが自分も愉しめるはずなのに。それと、ここ十年ぐらいの日本の楽曲は早口になっているように感じるけど、これもタイパ?のため? 

ぼくはこの音楽に(閉塞感からひらけゆく予兆のような)未来への希望を感じる。Sarahさんの倍音の多い声が小節のように揺らいで(特に抜けるように裏返る瞬間)、それが脳というか身体に浸透していく。車を運転するときも、夜寝るときも「Polaroid Lovers」に浸っている。

Amazonのタイムセールで2096円となっている
Polaroid Lovers/Sarah Jarosz

コロナ下の2020年6月に、前作アルバムをギター1本で歌っている(自宅ライブ?)の映像
https://www.youtube.com/watch?v=i3Z0skP0EeE

posted by 平井 吉信 at 13:16| Comment(0) | 音楽

2024年12月30日

サッちゃんとシャボン玉


日本の歌百選は、2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が、親子で長く歌い継いでほしい童謡・唱歌や歌謡曲といった抒情歌や愛唱歌の歌101曲を選定したもの。百選を見ていくと、「赤とんぼ」は3位。みんなが知っていて詩情溢れる佳曲としてぼくが挙げたいのは「雨降りお月さん」(7位)、「朧月夜」(21位)、「サッちゃん」(43位)。

特にサッちゃんは隠れた名曲、それも名曲中の名曲と思っている。作詞は、阪田寛夫さん。この方の訳詞で「学校へ行く道」が中学の音楽の教科書に載っていて、いまでも手元に保管しているほど好きな曲。
音楽の授業で黒田先生という女性教師が生伴奏のピアノを弾くのだが、曲想の変化でわずかにアッチェレランドをかけるところが曲想に合っており、「楽譜にはなくても自然にそうなる表現」があって、それが「芸術」なのだと思った。小学校までは単に和声が合っているだけだった。

サッちゃんの作曲は、大中恩(めぐみ)さん。この1曲だけでもすばらしい作曲家だが、ほかにも多くの作品が残されている。Amazonで見ると、混声合唱曲「島よ」がわずか749円で出ていた。ためらわず購入。

ぼくは合唱をやらないけれど、混声合唱組曲「水のいのち」( 高田三郎作曲)が好きで、20代の頃から聞き始めて、数百回はCDを聴いた。「四国の川と生きる」というWebページは開設以来、隠れた読み物コンテンツとなっているが、川に想いをはせるとき、この音楽がいつも響いている。「島よ」も聞きこんでみようと思う。

さて、サッちゃんは、詩と曲が一体となった最高の作品。1番の歌詞で、どこにでもいる愛らしい女の子が描かれ、2番の歌詞でサッちゃんはバナナを半分しか食べられないという。来年になれば1本まるごと食べられるかもしれない、昨日までできなかった逆上がりが、きょうはできるかもしれない。愛らしい時間は瞬く間に過ぎていく女の子の成長を宝物のように書いた阪田寛夫さん。

3番では、「サッちゃんがね」とこれまでの会話で何度も出てきたあのサッちゃんがね、の気持ちがぽんと置かれ、時間の経過を示す。そのサッちゃんが引っ越しするんだって―。男の子には人生で初めて感じる抗うことのできない(そして誰かに説明することができない)心のうずき。おとなになったとき、何かのきっかけで思い出すとしたら、この曲は幼かった当時を描いているようで、おとなになって振り返る子ども時代の回想かもしれない。

音符をひもとけば、サッちゃんはねと、子どもが一生懸命伝えようとするときの「あのね、これはね」とたどたどしくしゃべる姿を音符/リズムがたどる。その後、子どもが何かの衝動で駈けだしていくように細かい音符を綴る。作曲者の書いた前奏は不安定な調性を使っているが、導かれて歌い出しで着地するという芸術性が高いつくり。歌が始まるとヘ長調と平行調のニ短調を中心に、子どもでも覚えやすく、しかも流れるように進んでいく。魔法のようである。

サッちゃんのことを「おかしいな」(1番)、「かわいそうね」(2番)と他人事のように見ていたのに、3番では「さびしいな」と男の子の気持ちが出てくる。子どもの日常の一コマから心の成長や誰かへの思いが育っていくさまが描かれる。

童謡や唱歌は完璧な音楽かもしれない。そうでなければ子どもの心は掴めないし、おとなだって感動することはないから。

YouTubeには美しい音源が残されている。

歌い方があまりにはまっている山野さと子さんのチャンネルから。山野さんの歌い方が好きだな。特に母音の「う」の音が美しい。誇らしげな少年と涼やかな少女の両面が空間でブレンドされて空気が震えるというか、声帯の共鳴のような自然なビブラートが無意識に出ているような (声の倍音成分だね、きっと)。もう聞き惚れる(日本語では「う」と「え」の出現頻度が低いとされるが、語中の「う」は「お」に近く発音されるため、口を尖らす「う」は「え」より少ない。その数少ない「う」の音を美しく響かせている)。
https://www.youtube.com/watch?v=OvKMHHfYEf4

歌声シンセサイザーでも違和感がなく没入できる。静止画の余韻も愉しめる。
https://www.youtube.com/watch?v=8tGhrQCR0Y4

CDにおすすめがある。
「ザ・ベスト 懐かしの童謡」

「サッちゃん」をはじめ、山野さと子さんの歌が多く収められているが、コロムビアが誇る川田正子さんの「みかんの花咲く丘」や森みゆきさんの「ゆりかご」など35曲が収録されている。エバーグリーンな音源なので当分は廃盤にならないとは思うが、見たときに入手しておかなければ、ある日突然(トワ・エ・モワではないが)消えるかもしれない。

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さて、次は「シャボン玉」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)。誰でもご存知の「シャボン玉とんだ 屋根までとんだ」である。子どもが無邪気にシャボン玉遊びに興じるさまを歌にしたもの。この楽曲は前述の「懐かしの童謡」には山野さと子さんの歌で「サッちゃん」の次に収録されている(なんという)。ここで別のCDを紹介したいと思う。

グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」(絵本とCD)
(もし、新品を見かけたら万難を排しても手に入れるべき)

歌の情景が描かれた絵本が本体。それにCDが付属している。CDには、日本人で童謡歌手の雨宮知子さんが日本語でうたう童謡の後に、アメリカ人のグレッグさんが自ら英訳してうたうオリジナルが続けて演奏される。

まずは雨宮さんがノンビブラートの鈴の音のような声でやわらかくうたう。童心に還れる歌い方で聴いていて時の経つのを忘れてしまいそう。次に、グレッグさんがビヴラートをかけた思い入れたっぷりにオリジナルの英訳で同じ伴奏で歌う。歌詞を聴いていると、日本語の深いところから汲み取ったニュアンスが英語に置き換えられている驚き。しかもそれがときに韻を踏んでいたり(英語の歌詞にはよくある)。現代の英訳から「もののあはれ」や「おかし」が見えてくるよう。

グレッグさんの赤とんぼがYouTube上にある
https://www.youtube.com/watch?v=sVv7eCdDVHk

さらに全編を通して伴奏がすばらしい。ピアノが声に寄り添い淡々と音楽を紡いでいく。ここには安っぽいストリングスはなく、学芸会の伴奏でもなく、曲想を最小限の音でえぐり出すが、あくまで伴奏に徹する。

特に唱歌の赤とんぼの伴奏はこの演奏が理想だ。前奏だけで涙腺が緩む。赤とんぼにはピアノにチェロの響きがオブリガートするが、これが木霊のように心を揺さぶる(低弦の響きはヒトの独白にもっとも近い)。雨宮さんの歌い方も何の作為も感じず、凜としてそれでいてやさしい。赤とんぼの原曲はヘ長調(Fmaj)とされるが、この盤のように変ホ長調(E♭maj)がもっともしっくり来る。この赤とんぼだけでこの絵本付CDを買う価値がある。音楽を聴きながら絵本を見ているが、いつのまにか目を閉じてしまう。こんな企画が廃盤(廃刊)にならないよう世に紹介した次第。

それではシャボン玉について。
諸説あるが、子どもの無邪気なシャボン玉遊びであるとともに、「生れてすぐにこわれて消えた」は夭折した子どもへ思いを馳せたものとする説がある。
ぼくもそう思う。雨宮さんの日本語の歌は前者だが、明るい雰囲気のなかに「負けないで!」と子どもへの応援歌のように感じる。続くグレッグさんの英語版「Blowing Bubbles」では、”stronger ones needs lots of soup, weeker ones needs lots of hope”と綴られて目頭が熱くなる。

雨宮知子さんのCDも入手が難しくなっているが、ダウンロード音源はある。
mora(AAC-LCデータ)かOTOTOYがおすすめ。音質の良好なflacかwav形式ならOTOTOYの一択。寝る前に聴いてみたら、おだやかな気持ちで休めるのでは?

ほんとうにいまの時代にこそ必要な思い、ヒトの心の動きだよね。物価高、原材料高騰、災害多発で思うように生きていけない、食べられない国民が2割や3割に達しているように思う。東証の大納会では株価は過去最高を記録したが、これらは過去30年の誤った政策で国民の貧困化を進行させて獲得した偽り。1億総中流といわれた30年前から、国民の富を消費税(&法人税の減税)という逆進性の高い政策で富を付け替えたに過ぎない。いまでは時価総額が世界のベスト30位に入る日本の企業はない(かつてはベスト10に8社あった。人々の犠牲になり立つ株価などくそ食らえ! 経済の実態を見ればほんとうの価値は1万円ぐらいだろう、そのうち弾けるよ、弾けてしまえ!と言いたいことはいわしてもろた)。

シャボン玉が空高く舞い上がるためには、たっぷりの石けん水だけでなく幸運が必要。不幸にして少ないシャボンで生きて行かなければならない人が増えた。わずかな泡で空に放たれたら、幸多かれと幸運を祈る社会。そして国の施策もすべての人が幸福になれるように注力する政治や行政でなければならない。シャボン玉の童謡にそのような思いが込められているように思えて仕方がない。

すべての人が安寧に年が越せるよう、2024年の晦日に祈る。

追記
ここまで1893のコンテンツをつくって見ていただいている。それでも見る人は1日に数人と少ない。文字だけでも166万文字を越え、掲載写真は2万枚を優に超える(撮影に使った枚数はさらに2桁は多い)。拡散する手段はなく、わずらわしい広告を掲載せず、見てもらっても1円のお金も入らない。それでも書き続ける。まあ、良い記事だなと思ったら、誰かに伝えてください。

タグ:童謡・唱歌
posted by 平井 吉信 at 22:57| Comment(0) | 音楽

2024年12月28日

倍賞千恵子 叙情歌全集 日本語の美しさを凜と


前奏が始まる。歌が出てくるのを待つ。前奏からある程度、歌の(歌い方の)入り方は見当が付く、と思っていたら不意を突かれる。岩の割れ目から懇々と湧き出す石清水のように空気を震わせる。人の声がまわりの空気を共鳴させて空間が鳴っていき、空気に同化していく。言葉にすればそんな感じが倍賞千恵子さんのこの全集。

フォークや昭和歌謡の名曲、唱歌、童謡、西洋の古典歌曲から派生して日本語の歌詞が付けられた有名な楽曲、世界各地の民謡に起源して日本の伝統曲のようになった曲などテーマごとの6枚組全102曲の全集。

倍賞千恵子 抒情歌全集

歌の表現は楽曲によって変えているが、小細工はしない。ヴィヴラートは強くかけず、オペラ唱法とも違う。背筋を伸ばして崩すことなく、なよなよする表現は皆無だが、やさしさが底流を流れる。それでいて、気持ちが入った箇所では気持ち早めに入ったり、部分的に小節や伸ばす音で震わせる表現はある。特に高音で伸ばす音から下降する際にスラー気味(ずり下げ)に顕れる。

しかし音楽に浸れる、安心して身を任せられる。凜としてふくよか。金縛りに遭う瞬間がどの楽曲にもある。油断していると「違う世界に持って行かれる」感じ。2分や3分の短い楽曲でも。

第1集から「夏の思い出」。リバーブがやや深めだけれど、声帯の特定の帯域で共振するような音域と歌い方があり、尾瀬の沼にはまってしまう。それでもこの曲とともに尾瀬に行きたい。
「あざみの歌」「四季の歌」「雪の降る町を」(ブルース調の編曲が惜しいが)では、短調を憂愁にしない凜とした意志がある。「雪の降る町を」であの転調の瞬間に木漏れ日が射す。ああカタルシス。それなのに最後の審判のように終わらせるのも深い。これだけ豊かな表情があるのに楽曲が壊れておらず、この音楽の深淵が見える。オリジナルの「神田川」は男性がうたう女唄だが、女性の視点からの語り掛け、独白の世界観。ああ、「さくらさん」と腑に落ちた。

第2集では、倍賞さんならではの楽曲が続いた後、「岬めぐり」。失恋の男唄の歌い方ではないのに元の楽曲のすばらしさを再確認する。「星に祈る」の軽やかな歌い方は誰が歌っているかわかる人は少ないだろう。高音で絶叫せずディミニュエンドするニュアンスは自在。でも第2集は短調の曲が多いこともあって再生する頻度は少なめ。

それに対して第3集は叙情歌集の白眉というべき唱歌。全集のなかでこの第3集をもっとも聴くという人は少なくないだろう。「からたちの花」「砂山」「この道」 このように歌ってほしい(歌ってくれるだろう)の心のシナリオに沿って流れる。「浜辺の歌」では声帯と楽曲の区別が付かない一体感で魂を揺さぶられるが、原曲がつくられた時代の矜持さえ感じられる(大正時代の湘南の海岸がモデルとされるが、海がまだ人工的な海浜となる前の日本中どこにでもあった外洋に面した砂浜を思い描くことができる。原曲は変イ長調でテノールの音域であるため、これだと女声では高すぎるので倍賞さんやトワ・エ・モワの白鳥英美子さんもヘ長調へと下げている)。編曲も声を活かす簡素さで佳い。期待した「ゴンドラの唄」は青春の青さや高揚感をうたってほしかった。

すべての楽曲で最高かといえばそうではない(誰が歌ってもそれはない)。第4集の「赤とんぼ」(ぼくは唱歌のなかでこの曲に深い思い入れがあるので)は(倍賞さんの歌い方というよりは)編曲が楽観的で、なんだか寅さんのよう。姐やへの思慕とそれゆえの哀感、過ぎ去ったときへの寂寥となつかしさの入り交じる想いを湛えて時空の彼方に昇華させる、涙を湛えてほほえむあのモーツァルトの長調の楽曲のようにうたってほしい。「叱られて」は寂しさのなかのこみ上げてくる肉親の愛情を湛える。第4集はだめだよ、涙腺ゆるませ集。
でもストリングスの伴奏よりはピアノかギターだったらと思える場面は多い。裸の声が聴きたいときに、オケがムード歌謡調に誘導してしまうから。

庭の千種と銘打たれた第5集は自在に羽ばたいている。オリジナル歌手の存在がないことでのびのびと肩の力を抜いている、だからどんどん景色がひらけていく。もう誰がうたっても追いつけない感じ。

第6集の昭和歌謡もいい。「湖畔の宿」、当時を知らないけれど、淡々と運ぶ歌で情景が浮かぶ。「新妻に捧げる歌」には一抹の不安を打ち消す希望や未来の光が宿っている。ふと思ったけれど、加山雄三さんの楽曲を倍賞さんがうたうのはありかもと。歌詞カードは1頁に1楽曲が掲載されていてとても見やすい。

コロナやインフルエンザが流行している昨今、冬休みをじっくりと音楽に向き合ってみたい人にお薦め。昭和は遠くなりにけり、などとおっしゃらずに、若き倍賞さんの声に浸ってみては?
倍賞千恵子 抒情歌全集

蛇足

日本語が話せる人が少なくなっていくような気がする。少し遠回りするけれど書いておくね。
東京(とうきょう)をその文字どおりに発音はしない(でしょ)。近い音で表せば「と−きょー」。外国人には東京と発音するのは難しいようで、「と・きおぅ」と聞こえることが多い。大阪も「お・さか」。

ぼくがこれに気付いたのは20代前半に「四国カナダ協会」の例会に参加していた頃。日本人もカナダ人も気軽な軽食とビールを肴に会話は英語で行なう活動。地元のスーパーを「キ・ヨウエイ」とカナダ人のクララさんが発音していた。KYがKIOとなるのねと気付いた。

ところが21世紀になって日本人の日本語がおかしいと感じることが多くなった。NHKの連ドラの主題歌でAKB48がうたう「365日の紙飛行機」で、「…今日という一日が…」の「が」でひっかかった。これは日本人が発音する「が」ではないよ。このブログにも書いた記憶があるが、どうして関係者が気付いて伝えないのかと強く思った。楽曲は悪くないのだが、あの「が」が聞こえてくると朝のひとときが憂鬱な時間となってしまった。「ga」の「g」の成分が強すぎて言葉が歪んでいる。この楽曲の世界観はおだやかなもの。そうでなくてもこの文脈では「g」はかすかに入って後の母音が強勢となるように大多数の人は無意識に発音しているはず。日本語は母音のふくよかな響きが美しさの根源だから。倍賞千恵子さんのこの全集はそのような違和感はどこを探してもなく、日本語でうたわれた歌の美しさを堪能できる。宝物だね。
タグ:童謡・唱歌
posted by 平井 吉信 at 22:16| Comment(0) | 音楽

2024年12月18日

アリスの音楽を素材を活かして(SACDハイブリッド)


アリスといえば、70年代半ばに数多くのヒット曲がある。当時を知っている人なら誰もが口ずさめるヒット曲がいくつもある。出席番号のひとつ後の同級生がアリスのファンで、彼の下宿に立ち寄ると、フォークギターやらレコードがあって格好いいなと思っていた。ほかにも身近にアリスファンが多く、よく聞いている(聞かされている)のでCDを持っていなかった。

ステレオサウンド社のSACDソフトを販売するコーナーを見ていたら、アリスのベストアルバムが SACD化されていることに気付いた。その紹介文がこちら。
https://www.stereosound-store.jp/c/music/4571177052551

これはいいなと即座に買うことにした。音質を追求する手段はさまざまあれど、アナログ時代の名機といわれるスチューダーのA80、真空管プリ、アナログEQなどの機器を使っている(コンプレッサー使用せず)。素材を活かしてなるべく加工せずにDSD化(SACD)/PCM化(CD)している。いわば音楽の有機栽培のようなもの。

SACDが届き、冒頭に置かれた「冬の稲妻」を聴いて椅子から落ちそうになった。スピーカーのはるか外まで空間が広がり、ドラムスのキレとドライブ感、アコースティックギターの鮮度感、それでいてうるささが皆無。普段感じているスタジオ録音の箱庭感がなく、自由に音楽が解き放たれたよう(ダイレクト・カッティング?と思えるほど)。「涙の誓い」「ジョニーの子守歌」などは同級生がよく歌っていたのでなつかしく蘇った。

デビュー曲「 走っておいで恋人よ」を聴くと、アリスがフォークにルーツがあることがわかる。谷村さんと堀内さんという2つの異なる声質が主従になったり併走したり最後に解決したりと声の魅力がアリスの魅力でもあるし、「今はもうだれも」「冬の稲妻」のように矢沢さんの力量がアリスの音楽を支えていることがわかる。これによって、コンサートではアコースティックギター2本とドラムスだけで再現可能なうえに、リズム隊にベース、旋律にエレキギターやストリングスを加えるだけで楽曲の色彩が華やかにもできる。

アリスの音楽の懐の深さは個性のブレンド(君の瞳は1万ボルトと昴という楽曲の距離間)と小さな会場のコンサートで鍛えたミニマルエッセンスな再現力+バンド拡大時の色彩のバリエーションにあると思う。

このアリスを聴いていると、良質の音楽を後世まで、マスターテープが再生可能なうちにアーカイブしていく必要性を感じる(ピンクレディーもよいのではと思う)。レコード会社だけではうれる売れないの判断基準ではつくられないだろうと思った。

さて、このSACD盤はハイブリッドなので通常のCDプレーヤーやパソコンのディスク部で再生できる。SACDのCD層で聴いてみたが、それもすばらしかった。しかもこのディスクは、通常4950円のところ、本投稿時点で3300円となっている。こんな企画が売れないと次が続かない。
https://www.stereosound-store.jp/c/music/4571177052551

リストをたどっていくと、五輪真弓の「恋人よ」は完売となっている。シングルヒットの同名曲よりもアルバム全体が楽曲の質の高さを誇るので入手したかったけど。松田聖子の「Pineapple」「ユートピア」も数年前に入手不能となってしまった。薬師丸ひろ子は「歌物語」はあるが、「花図鑑」はSACD化(ハイブリッド盤)されていないようだ。アリスファンや当時の音楽が好きな人はご一考を。

タグ:SACD
posted by 平井 吉信 at 23:02| Comment(0) | 音楽

2024年11月23日

真夜中に波紋を拡げるように。オフコース「We are」

オフコースの「We Are」は1980年代の日本のポップスの金字塔であり、音質も最上級であると思う(例のドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」と同等の)。録音は日本だったが、トラックダウンを西海岸でやったのではなかったか?針を落とせば(アナログも当時買ったので)、小田さん、鈴木さん、松尾さんがそれぞれ異なる個性のリードヴォーカルを取りながら、冷たい感性のキレと感情の温もりが同居する楽曲がブレンドし、極上のコーラスワークと楽器が空間に躍動する。

オフコースの初期(デュオ時代)はフォークロックの湿り気を帯びている。けれど情感が伝わってくるのも事実。5人組バンドとなってからは洗練された音志向となった。転機はThree and Twoからだけど、それがWe areで跳躍した感じで、洗練と感傷が同居している。ただし小田さんの声には自己陶酔的な少年ぽさと同居する冷徹さが聴き手を突き放す印象もあって、ぼくはすべてを受け容れられない。抽象的な歌詞に西海岸風の伴奏を付けて雰囲気に酔うところがあるが、その一小節に聴き手は自分の体験に照らして同化させ、楽曲のなかに入り込む。そんな印象のアルバムである。

それでもこのアルバムにはぼくの想いが深沈と封印されている。それが楽曲の世界観を合致していたし、その音楽を再現しているような場面でこの音楽を聴いていた時間があるから。

「雪が降っているね」
「… 」

ままごとをした幼なじみが、校区が変わって会えなくなって、少女からおとなへとの飛躍を知らないまま、見知らぬ女性となって目の前にいる。それもまわりの空気を涼やかに響かせるような、しっとりとしたあでやかさを全身に秘めていながら、あくまで清楚にたたずまう。

その年は南国徳島でもまれに見る大雪が降った。暖かい室内で彼女は目を落とす。ぼくは窓の外を見て何も言えない。感受性の豊かな女性だから気付いている。そこに流れてきた音楽―「逢うたびきみは素敵になって、その度ぼくは取り残されて♪」。― 内面の美しさがそのまま完璧な女性の容姿をまとっていたから。

生涯に1人か2人出会う最良の女性だったのかもしれない、と思わずにはいられない。感情が泉のように湧いてくるいまは2024年秋。夜のしじまに音楽が空気に溶け込むように心に波紋を拡げていく。あのときと同じように、ぼくは受けとめるしかない。このアルバムは疑いようもなくオフコースの絶頂期の記録。

We are…のあとに省略されている言葉、言葉にならない言葉が表現されている。次作の「Over」とあわせると、We are overと深読みする人もいる。最高のときを迎えて(それゆえにあとは下るしかない、もしくは終わりがはじまった、解散に向けての過程のごとく)すれ違いの風が吹いていると解釈する人もいる。

ぼくはWe areのあとに省略されている言葉は、We are(what we are)ではないかと思っている。「私たちは…(私たちがあるがままの)」。―わかりますか?問いかけのようで答えにもなっている禅の公案のようなもの。あるがまますべてを受け容れていく諦念にも似た壮絶な美学が火花を散らしそう。緊迫感のなかで閉じ込められようとしている宇宙空間に咲く花とでも。

→ オフコース-We are追記ステレオサウンドから、オフコースの音源がSACDで販売されていて、2024年11月時点で特価(4,950円→ 2,970円)となっていることに気付いた。ステレオサウンドのSACDはていねいなつくりで定評がある。https://www.stereosound-store.jp/c/music/artist_kana/kana_o/off-course/4571177053183(これはハイブリッドSA-CDなので、通常のCDプレーヤーで再生できる)

Webコンテンツの解説を読むと、ぼくがこのアルバムが、ドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」で感じた音の処理との同質性の理由として、同じエンジニアが手がけたとある。やはりそうか。(解説文)
■SACD/CDハイブリッド盤の製作についてアナログレコードに続いて発売されるSACD/CDハイブリッド盤の製作では、アナログレコード制作で使用したカッティング・マスターテープを元に、SACD層には、ハーフインチのマスターテープが持ち合わせる重厚なサウンドの質感を最大限に活かしつつ、dCS社のA/DコンバーターdCS905 ADCによってDSD2.8MHzへとダイレクトにA/D変換し、タスカムDA-3000にマスター音源を収録しました。

一方のCD層では、同じくハーフインチのマスターテープの音声信号をdCS905 ADCでPCM96kHz/24bitにA/D変換し、アビッド・テクノロジー社のPro Toolsハードディスクへ収録した上でCDフォーマットのDDPファイルを制作しました。SACD層とCD層それぞれの器に合わせ、松下エンジニアが丹精込めたマスタリングを施し仕上げています。
悪いはずがないじゃない、と注文。

そしていよいよ到着。手持ちのCDと聴き比べ。意外にもCDの音質が抜け感で優る。高域の繊細な感じなどCDの心地よさに軍配を上げる人は多いに違いない。それに比べてSACDは聖母マリアの微笑みとでも形容したい、究極のおだやかさ。波ひとつない静かな湖面に音符が波紋を拡げていく。

絵に例えると、2.8MHzの精細な点描画(SACD)か、44.1KHzで荒削りな筆運びながら雰囲気を伝えるCDの違い。そしてどちらもよいと思えるところ。アナログレコード(LP盤)には、カートリッジが拾う信号のクロストークやアームの共振、RIAAカーブ特性を利用したカートリッジの周波数特性設計の相乗作用がある。これらの音楽に影響を与える要素をうまく相乗効果として活用したり相殺したりする現場の技術(ノウハウ)があったはず。

針の接触は無限小の1点ではなく縦に伸びていることから時間軸の重なりとなって、それがエコー感や逆相成分による音場をつくる。また、左右のクロストークは左右成分が交わることで生まれる疑似的な中央の定位感につながったのではないか。アナログの緻密さに追いついたSACDはアナログレコードさえ到達できなかったセパレーション、時間軸の歪みのなさ、絶対的なまでの低域の安定感や高域の可聴帯域外までの特性を従えて、歪みレス、クロストークレス、微少音からのダイナミックレンジで究極のなめらかさを備えたのだろう。

ただし、点描画がいつもいつも荒いタッチの絵に優るとは限らない。つるつるの麺(SACD)よりも適度にざらざらした麺(CD)が歯ごたえがあっておいしいと感じることがあるように。ソニー/フィリップスがコンパクトディスクの規格(収録時間、標本化など)を決める際に、ベートーヴェンの第九が1枚に入るために74分と設定した。そこから、44.1KHzの標本化周波数の決定や可聴帯域をわずかに越える高域限界などが設定されたCDというメディアが、偶然か必然かは別にして奇跡的に音楽のきめ細かさと迫力の両面をもたらす合理性を持つ規格になった。それゆえ40年続くメディアになったのだと。

SACDはほんとうに木綿のような有機的な肌触りで浸れるがCDの抜け感の良さは同等の魅力を持っている。We areのSACDとCDの聞き比べはそんなことに思いを馳せてしまう。(マニアックな話題ですみません)

追記
深夜の音楽は心に沁みる。この言葉だけで十分だ。いま聴いている装置を撮影してみよう。
音の出口はクリプトンKX-1。ビクターのSXシリーズの設計者によるもの。ドイツのクルトミュラーコーンに、ソフトドームツイーターを組み合わせたのがビクターオリジナルだが、21世紀では最新のリングドームツイーターを組み合わせたもの。箱は密閉なので低域の位相が乱れず音の濁りがない。それゆえ中域高域も明瞭なスピーカー。DSCF3983-1.jpg

ドイツの針葉樹の森から生まれた伝統のコーンはいまどき珍しい紙の素材。ウーファー素材の主流は、ポリプロピレン、カーボン系、ハイブリッド系に加えて金属素材なども見かけるようになった反面、紙はほとんど見かけなくなった。でも密閉型には紙のウーファーの素材の自然な響きが落ち着く。バビロンの時代からヒトが生理的に受け付けてきた木材や紙の醸し出す適度に豊潤で軽く抜けてくるところが生理的な心地よさにつながっている。DSCF3993-1.jpg

それを受けるリングダイヤフラムは高域の限界を伸ばすというよりは、可聴帯域内の輪郭をつくりつつ、密閉のウーファと中域を円滑につなげて声や弦を自然に再生させるねらいがあると思う。DSCF3989-1.jpg

プリメインは四半世紀使っているオンキヨーのD級アンプ。DSCF3986-1.jpgアンプはもはやアナログの時代ではないと実感したアンプ。いまでもAB級(アナログ)アンプは販売されているが、音楽の実在感でAB級(アナログ)はD級に及ばない。まして限られた費用のなかで性能を追い求めるとデジタルになる。セレクターと音量以外につまみがない簡素なデザイン。筐体の内部も信号の流れが良く、発熱が極小のため経年変化がまったく感じられない。ボリュームのガリも皆無。このことから電子回路の熱は、素子や回路の経年変化を早めてしまうのではないか。ぼくがアンプのA級増幅(常にバイアス電流を流すため発熱が大きい)を避けるのは、エアコンがないため夏季を中心に1年のうち1/3が音楽を聴けなくなるという理由もあるが、スイッチング歪みだけが音楽再生に影響を及ぼすすべてではないとも思うから。プレーヤーはヤマハGT-2000。SACD/CDプレーヤーはマランツSACD 30nという組み合わせ。DSCF3959-1.jpg

この装置はどんな音がしますか?と尋ねられたら、「何時間でも浸れる音ですよ、でも細部を聞きに行けばいくらでも細かいところが見えてくる。森の奥の中に分け入ると、小さな 草や苔が見えてくるみたいに」。「それでいて音楽はよく弾んで有機的です。幸福感のある音ですよ」。
タグ:SACD
posted by 平井 吉信 at 21:59| Comment(0) | 音楽

2024年11月16日

A LONG VACATION 20th盤―30th盤―SACD盤を聴き比べる 


A LONG VACATIONは1981年3月に発売された大滝詠一のベストセラーアルバム。ぼくは初出(初回プレス)のアナログレコードを持っている。その後、CDの版違いが出る度に買いそろえて、40thは限定VOX(アナログやカセット、番外編とグッズを詰めた限定箱)で持っている。

今回は、20th、30th、SACDで聴き比べを行うこととした。SACD盤が発売されているのは知っていたが再生装置がなかった。このSACDはシングルレイヤー(SACD単独層)のみで、SACD再生機能がない通常のCDプレーヤーでは再生できない。ところが2024年にマランツのSACD再生ができる機種(SACD 30n)を購入してからは、毎日の深夜の音楽鑑賞(0時を超えてからの極小音量での再生)が日課となっている(ときどきはニッカのウイスキーも手元に置いておく)。

再生装置は、プリメインアンプがオンキヨーA-1VL、スピーカーがクリプトンKX-1で小音量再生、かつ省エネ再生に向いた構成。スピーカーと背面は1メートル以上空けていて音場が後方にも展開する(配線や端子の清掃などにも利点あり。それゆえオーディオ装置周辺にはホコリはない状態)。この装置では頭の位置が数センチ動くだけで音場と音像が変化する。
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頭の位置の固定は簡単だ。ヘリノックスのチェアワンという抜群に座り心地がよく、座ったときの耳の位置がツイーターのやや下で絶妙の高さになる。スピーカーにとってこのイスはソファのような吸音(阻害)要因にはならない。しかも座ると自ずと姿勢は固定される。アウトドア用のこのイスが生活空間でこそ快適なのはそこにある。身体を預けると軽量コンパクトな柔構造がしっとりと受け止める(うちにはソファがない、というか置かないようにしている。ソファは場所を取って清掃に手間がかかるうえに身体を保持する機能がない。ソファってヒトの活動性、創造性や動きの機能性を殺してしまうような気がする)。チェアワンには、柔軟性を保持しつつ束縛感のない安定感がある。お尻の位置はいつも同じで頭の位置もほとんど動かない。スピーカーとの距離は0.8メートル程度。このイスがなければ深夜の音楽再生は機能していない。純正オプションのゴムの球を脚に被せることでさらに安定感が増している。

アンプもCDプレーヤーも一晩通電している。再生前に部屋の清掃を行う。清掃後には音質が変わる(オカルトではないよ。やってみたらわかる)。CDは、再生前に静電気除去処理を行う。

比較する音源は1曲目の「君は天然色」。本番前の音合わせの間合いと合図があって始まる。これが空間の響きや静寂性の判断に使えるから。20th盤はバランスの取れた粒立ちの良い音、30th盤は声を中心に温もりのある音、SACD盤は浸れる音。20th盤は万能でヘッドフォンで再生するにも心地よさがあると思う。30th盤は声の厚みがあり、かつてのオーディオ装置でゆったり聴くのに適している。例えていうなら、20th盤はガラスの器で水が快活に揺れてきらめく音、30th盤は素焼きの陶器でやや粘りを持った水が躍動する音、SACD盤は器がなく水の塊が空間に躍動し水滴が飛散する感じ。

ところでこの楽曲についても感じたことを記しておきたい。「君は天然色」を初めて耳にしたときから、初めてでないような気がした。大滝さんのことだから、元曲(→The Pixies Three - cold cold winter)があるのだけれど、初めてに思えないのはそのせいというよりは、覚えやすいから。名曲だよね。でも、覚えやすいということは飽きやすさにもつながる要素がある。それがなぜなのか、自分でもわからなかったけど、数年前に腑に落ちたことがある。

それはサビの部分(想い出はモノクローム♪)が冒頭と同じ和声であること。サビの部分は「進んでほしい」と期待する聴き手の無意識な心理があるはず。ところがここで冒頭のコードに戻るので、なじみやすいけれど、どこか冒険をしないというか、安全運転に徹しているというか。

ところが、数年前に入手した30th盤に収録されていた「君は天然色」のオリジナルトラックを耳にして、あっと気付いた。大滝さんもサビで音を上げている(D→Eへの全音上げ)。これだとイントロ(E)と合うし、サビの独立感、浮遊感も出てくる。ではなぜDに下げたのか。高すぎて声に余裕がなかったと述懐されていたと思う。

すでにオリジナルトラックの録音は完了している。この楽曲にはピアノ数台をはじめ、多くの楽器が使われているので再録となるとメンバーを集めなければならないが、それは費用面でも日程面でも困難だったのだろう。大滝さんはハーモナイザーというピッチコントロールで、サビの部分を全音下げた(E→D)とのこと。

そこで導入とサビが同じ和音(Dのトニック)になった。この話はこれで終わらない。最後のコーラスのサビ前で、ハーモナイザーを早めに下げてしまった。「いまも忘れない♪」でA7からDに受け渡してそのままサビのはずが、「空を染めてくれ♪」でA7からCへと全音落として受け渡してしまった。ぼくの耳にはこれによって、大団円の終結感が出たことで、再度繰り返す最後のサビ(D)浮かび上がる効果となっていると思う。「君は天然色」だけをとっても奧が深いのだ。

再生音の話題に戻す。A LONG VACATIONのCDとSACDでは比べられない差がある、というのが結論。SACD(DSD1bit/2.8MHz)は声がピンポイントで定位する安定感と、効果音や伴奏の広がり(高さ、広さ、奥行きとも広く、眼前がぱあっとひらける)。アナログの広がり(音場感)とデジタルの音像感を合わせ持つので、デジタル信号でありながらCD(リニアPCM16bit/44.1KHz)とは似て非なる、しかもアナログではなしえない安定感は特に声(恋するカレン)の再生で感じた。チェアワンに座ると空間がヘッドフォンになった感じ。

ぼくは普段からBGMをかけない(特に仕事では)。講演やセミナー、重要なプレゼンテーションの前など集中したいときには音楽ではないせせらぎや野鳥の声、雨の音などの自然音を聴きながら呼吸を深く吐いて集中する。いつもいつも音楽が鳴っている状態は集中できないばかりか気が休まらない。それゆえ、音楽を聴くときは向かい合いたい。オーディオマニアとの違いがあるとしたら、ぼくは音楽のなかに溶け込んでいく感じ。音楽のほうも、この聴き手は何を聴いていると飛び込んでくる。するとだんだん音楽との同期が深まる(エヴァ的な)。それが音楽を聴く愉しみというか体験ではないかと思う。

SACD盤のA LONG VACATIONは、声はなめらか、楽器は艶やかで途中から比較試聴していることを忘れてしまった。大きく異なるのは声と伴奏の分離感、立体感。器の限界がなくなって音楽がのびのびと鳴っている。この音楽に哀しい思い出などないのに胸が熱くなる。亡き人、良き時間などが記憶の奥底で一瞬燦めくが、それが何かを確かめられず量子のように消えていく。CD初出時にこのフォーマットがあったら…と思わずにはいられない。

2024年夏には「EACH TIME」もSACDがリリースされたらしい。こちらはA LONG VACATIONよりもセブンスコードをより多用しているように思われ、DSD方式での音の広がり感がさらに効果的に響くのではないかと予想している。

A LONG VACATIONはいつまでもと結びたいが、かたちあるものはいつかは。それゆえなつかしく、愛おしく、切なく。
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→ A LONG VACATION 20th Anniversary Edition
→ A LONG VACATION 30th Anniversary Edition
→ A LONG VACATION 40th Anniversary Edition (SACDシングルレイヤー)

注)A LONG VACATIONのSACD盤は、シングルレイヤーなのでSACD再生対応の装置がないと再生できない。ハイブリッドSACDなら、CD層とSACD層のマルチ層になっていてCDプレーヤーでは前者の信号を読みとり、SACDプレーヤーでは後者の信号を自動判別して読み込むのですべての再生装置でかかるが、本製品はそうでないのでご注意を。
タグ:大滝詠一 SACD
posted by 平井 吉信 at 12:00| Comment(0) | 音楽

2024年11月02日

80年代とAOR いつの時代でもそれを必要としていた

ラジオのパーソナリティで出演している六角精児さんがAOR特集を取り上げた。六角さんは、フォークロックやブルース、カントリーが好きな人だから、AORとは水と油のような存在である(六角さんの気取らない「ディーゼル」は好きだな)。

AOR(Adult-Oriented Rock)は、1980年代に日本のレコード会社が洋楽を売り込むために仕掛けたキーワード。メッセージ性よりは洗練された音づくりで心地よさを訴求。当時でいえば、ボズ・スキャッグスビル・ラバウンティポール・デイビスラリー・リークリストファー・クロスクリス・レアなどがたちどころに思い浮かぶ。オーストラリアのエア・サプライもそうかな?

AORは和製英語で、演奏している当人は異国でそんなカテゴライズされているとは思わなかっただろう。あくまでレコードを売る商業的な括り方である。

六角さんが当時のレコードの帯のコピーにある歯の浮きそうなフレーズをいかにも茶目っ気たっぷりに読み上げる(自ら愉しみながらも視聴者を楽しませようという六角さんの演出だと思う)。若い頃、演劇の下積みに明け暮れていたとき「クリスタルな」雰囲気をまとった同年代の若者が聴いている音楽(生き方)には嫌悪感があったのだろう(余談だが「なんとなくクリスタル」の原作者の田中康夫さんが徳島に来られたとき、何度か会話をしたことがある)。

ところがAORの有名曲がかかると続々と視聴者からなつかしい、こんな思い出がある、家事がはかどるなどのコメントが続々と寄せられた。これには六角さんも苦笑い。

ぼくは、70年代が終わって和みの10年となった80年代がそうさせるのだと思う(ベルリンの壁が崩壊したのは1989年である)。描きたい世界を描き、それを若者たちが共感して聴いている。レコードとCDの両方のメディアが発売された時代(カセットテープもあった)で、音楽業界もお金や時間をかけることができた。

そんな時代背景からA LONG VACATIONのような音楽が生まれたのだと思う。日本では、山下達郎、寺尾聡、角松敏生、杉山清貴(ソロ)とオメガトライブ、小田和正(後期オフコースも)などもそのカテゴリー(21世紀にはシティポップと呼ばれるようになった)。

六角さんのコメントもほどけてきた。同じ音楽をやるもの同士だし、佳い楽曲もたくさんあったから。例えば、J.D.サウザーの「You're Only Lonely」。この曲が流れてくると、ああ、これだなって蘇る。こんな感情だよね、10代の頃の恋愛って。

JDはイーグルスやリンダ・ロンシュタットにも楽曲をたくさん提供している。ジャクソン・ブラウンなどとともにこの時代の西海岸の交友関係を音楽に映し出している。JDの音源って持っていなかったなと思ったのでCDを注文した(千円未満で買える)。
→ J.D.サウザー「ユア・オンリ−・ロンリー」

笑い話だが、当時の国内版のジャケットは、(むさくるしそうな)本人の肖像が大写しのオリジナルデザインから、日本独自仕様に差し替えられることが多かった。クールな風景写真やリゾート風のイラストに、帯にはコピーライターが意味不明な?台詞を並べていた。それはそれで当時の世相だったのだろう。

80年代は音楽産業に勢いがあり、日本でも「LA録音」などと称して西海岸で録音したアルバムが多く発売されていた。おそらく彼の地ではレコーディング技術については一日の長があったのではないか。六角さんも指摘していたが、音の良いレコードとしてドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」を取り上げていた。トラックダウンやマスタリングのノウハウがあるのだろう(オフコースが西海岸で録音した「We Are」などもそうだ)。

感覚的に解説するなら、好きなレコードのシングル盤などを買って針を落としたとき、整然と調えられた箱庭のように感じることが多かった。それに引き換えライブは荒削りでも勢いがある。演奏者の歌い方も違うし。でもライブといっても崩して歌う(特にアリスなど)のはぼくは好きじゃない。レコードと比較してグレードの違いを感じるから。単に演奏者や歌い手の力量不足ではないかという気がする(薬師丸ひろ子さんもコンサートでは決して歌い崩さないという)。

良いスタジオ録音とは、この箱庭感を取り除いて広がりや空気感、躍動を感じる。一方で演奏者によってはライブが良い場合も当然ある。録音でこねくり回していないことと、本人の技術の高さ、繰り返し聞かれるスタジオ録音と違って一発勝負での生命感が記録されて、臨場感あふれる名盤も多い。

ドナルド・フェイゲンは、グループとしてのスティーリー・ダンでもそうだが、音の粒立ちがよく、存在感があるとともに、そこから色気が感じられる。音像のまわりの空気が動く感じとでもいうか。
→ ドナルド・フェイゲンーナイト・フライ

久しぶりに手持ちでかけてみたのは、バーティ・ヒギンズ。日本では郷ひろみが歌った「哀愁のカサブランカ」の原曲があるが、それよりもアルバムの1曲目、タイトル曲の「Just Another Day In Paradise」からから4曲目のKey Largoまでの南国の避暑地の気分が横溢する進行が好きだ。それ以外の楽曲は惹かれないのだが、この4曲を聴くだけで満たされる。特にKey Largoは何度でもなごり惜しく再生してしまう。目の前に朗々と開けた大西洋の潮騒と男女のため息が聴こえるようだ。
→ バーティ・ヒギンズーJust Another Day In Paradise

AIR SUPPLYのレコードの帯には(六角さんも冷やかした)ペパーミント・サウンドなどとうたわれているが、ツイン・ボーカルはひたむきでもっとベタに楽曲の世界を歌い上げている。感じるのは、格好良さよりもひたむきさ。純粋なまでの想いがリズムに旋律に詰め込まれているが、あくまでもさわやかに流れていく。
→ AIR SUPPLYーLost In Love

国内では、山下達郎もデビュー数作の伸びやかな声と熱い演奏はもちろん良いが、よく聴くのは「Ride On Time」のようなヒット曲を携えながらも内省的な世界観で描いたスルメのように味わいが飽きることがない。

寺尾聡の「リフレクションズ」に至っては、どのクルマのカーステレオからも流れていたよね、当時は。90年代ぐらいからはミュージックビデオの全盛期となって、ミュージックビデオでプロモーションを行っていた。

AORの楽曲と向き合っているうち、六角さんも、これもいいなという相づちに変わってきた。いまの六角さんは、人気も根強いファンも名声も得て、人生を振り返る時期にさしかかっている。60年代、70年代、80年代、90年代、そして2000年以降もそれぞれの時代のなかで音楽は音楽で、それは時代が背景にあって(ときどきはいまの演奏家がかつての時代のオマージュを混ぜながら)そこで生きている人たちが聴いて欲しい、必要としている、ということだから。

80年代は音楽家にとって過ごしやすい季節であったに違いない。音楽にもその空気感が漂っていた。日本もそうだったように。
posted by 平井 吉信 at 19:17| Comment(0) | 音楽

2024年09月21日

18世紀の芸術家は21世紀に自由な精神を投影する  ワルターの田園(SACDハイブリッド)


ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏によるベートーヴェン「田園」は、説明する必要のない名盤である。田園を愛してやまなかった指揮者が晩年にステレオ録音と技術の進歩に遭遇して、後世に残したいという強い思いと、コロンビア交響楽団という録音のために集められた楽団員によるオーケストラがひたむきに演奏し、それを当時の音楽レーベル、技術者が細心の注意を払って録音したもの。ときは1958年、ところはアメリカの西海岸。

ワルターの田園はウィーンフィルとの録音が戦前の1936年に遡る。このウィーン盤は戦前のSP録音とは思えない鮮鋭かつやわらかな音質でノイズも感じない。当時のウィーンフィルがワルター指揮の下、弦楽のポルタメントなど古き良き伝統をたたえた演奏、縦の線を合わせるというよりも弾きながら呼吸を合わせる感覚のよう。木管の高貴な響きは、名手ウラッハか?。
しかしヒトラーの影が忍び寄るなか、ユダヤ系のワルターはヨーロッパを追われるようにアメリカ西海岸に移住。1936年のウィーンフィルとの田園は、ヨーロッパへの惜別の思いで指揮したのだろう。
アメリカに渡ってから約20年、1958年当時、現役を引退していたワルターにステレオ録音をとレコード会社からの熱意にワルターが応えたもの。

1958年のコロンビア盤について、LPとCDですでに持っていたのだが、SACDハイブリッド盤(SACDプレーヤーでもCDプレーヤーでも再生できる)が発売されていたので、SACDが再生できるマランツSACD 30nを入手できたことで購入したもの。

田園は子どもの頃から好きな曲。出会いは音楽の授業のレコード鑑賞。作曲家たちの肖像画が並ぶ音楽室で、先生がステレオにレコード盤をセットしてかけてくれた。何の先入観もなく、ああ、と思って気に入った。それからはFMでカセットに録音して聴いていた中学生だった。

10代後半からベートーヴェンに私淑して、レコードを買い集め、総譜を見ながら研究したり、ひたすら音楽に没入、セイヤーの大作「ベートーヴェンの生涯」(上下)も数か月をかけて読破した。今日までベートーヴェン作品のLPとCDだけで部屋の一部を埋めるぐらい。ベートーヴェンへの愛は止まらない。

コロンビア響とのSACDの田園が届いたとき、深夜になるのが待ちきれなくて(仕事の関係で夜12時ぐらいを回らないと音楽を聴く時間にならない)。そしていつもの極小音量で再生して恍惚感を覚えた。

そして休日、昼間からそれなりの音量でかけてみた(といっても普通の人の音量設定からはうんと小さい。昭和の時代は、各家のステレオから部屋の外まで山口百恵やアバが聞こえてきたものだったが)。

ワルターの田園では手持ちのCDが時代を感じさせない鮮度と音塊感があるのに対し、SACDは浮遊感と時代を超越した臨場感。低弦が右から床を這いながら左手のヴァイオリンに旋律を受け渡しながら音場が高く満ちていき、木管がぽっと浮かび上がる。どんなに小音量でも目の前にオーケストラがいるような立体感。個々の音が鮮明に聞こえるというよりは、音楽がブレンドして歪み感皆無で空間に漂いながら細部を聞き取れる。これがDSD方式の利点か。

アンプのオンキヨーA-1VLは20年以上使っているデジタルアンプの先駆けで正確かつ心地よい音を聴かせてくれる。田園のSACDでは、短いスタッカートとレガートが鮮明に区分されるのでリズムの刻みから縦の立体感、ブレンド感、横のフレージングのねらいが見えて指揮者の音楽の組み立てがより伝わってくる。

田園の第1楽章で、ワルターはルフトパウゼ(楽譜に乗っていない一瞬の間合い、休符)を取る。何が起こったのかと待ち受ける心に、わずかにテンポを落として音楽が立ちこめる(数十人のオーケストラの奏者がこの間合いを合わせるためにどれだけ練習をしたことか)。

それは、田園に来てよかった…というほっとついたため息と、そこからゆっくり歩き出すよう。ぼくには、ベートーヴェンがフロックコートを着て手を後ろに組んで変人と思われても気にしない体で愉悦に歩いている光景が目に浮かぶ。ワルターの再現芸術とベートーヴェンの持つ創造性が一体となった瞬間。

さて、1936年のウィーン盤は、生まれたときからベートーヴェンやモーツァルトを呼吸していたような演奏家たちが弾いていた。それに対して1958年盤は、古典の伝統を持たないアメリカの演奏家たちが、ワルターの手足となって心を合わせて演奏する。もしかしたら普段はハリウッド映画のサントラを演奏している演奏者かもしれず、契約の関係で名前は出せないが他のオーケストラから駆り出されたプレイヤーであったかもしれず。いずれにしてもワルターの録音のための臨時編成である。

夢中になって第1楽章(SACDの恩恵をもっとも受けているような)を聞き終えると、他のどんな指揮者よりも愉悦感のある第2楽章が始まる。ふと眺めた窓の外はブルーモーメントの空だったので手元の灯りをともす。この楽章もワルターの自在なテンポとカンタービレが寂しさのない独り歩きの愉悦のよう。同時代の作曲家たちがロココを演奏していたとき、作曲家の魂は自在にはばたき、心のままに綴った音符が18世紀の約束(ソナタ形式)のなかで精神、そして一部の形式さえも逸脱した自由(後の時代のドビュッシーやブルックナーのような)。楽章の終わりのほうでは、木管楽器がカッコウや夜鶯を模倣した音型を奏でる。ロマン・ロランだったか、耳の聞こえないベートーヴェンが自分の音楽のなかで小鳥の声を創造しているのだという。田園が好きという人の多くはぼくも含めてこの第二楽章「小川のほとりの情景」を21世紀に投影する心象風景。これ1枚あれば生きていける。

ベートーヴェンは18世紀から21世紀へ橋を架ける。ワルターは、ヨーロッパからアメリカへ、戦前から戦後へ橋を架ける。技術者は、SPからLP、さらにCD、ついにSACDへと橋を架ける。時空を越えた田園の成果。

えっ? まだワルターの「田園」を聴いたことがないのですか? これから聴く愉しみが残されていますよ、と聞き古された表現を置いてみたけど。お好きにどうぞ。

ワルター/コロンビア交響楽団 ベートーヴェン交響曲第6番ヘ長調「田園」作品68
(SACDハイブリッド=普通のCDプレーヤーで再生可能。プレスの精度が上がっているため普通のCDプレーヤーでも音質向上が期待できる。1999年発売のSACDシングルレイヤーのSACD盤は通常CDプレーヤーでは再生できないので間違わないよう。音質も2019年リマスターが良い。上記のリンク先から入るのが確実。本記事投稿後は発売後の最安値となっている)

★日本独自企画 ★日本国内のみの発売 ★SA-CDハイブリッド(SA-CD層は2ch) ★2019/20年DSDリマスター ジュエルケース仕様

《収録内容》
ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68 「田園」
[録音]1958年1月13日(第1楽章)、15日(第2・3楽章)&17日(第4・5楽章)

ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲 第2番 作品72
[録音]1960年7月1日

コロンビア交響楽団
指揮 ブルーノ・ワルター

ステレオ/SA-CDハイブリッド(SA-CD層は2ch)
[録音会場]ハリウッド、アメリカン・リージョン・ホール(在郷軍人会ホール)
[オリジナル・レコーディング]ジョン・マックルーア(プロデューサー)、ウィリアム・ブリッタン(エンジニア)
[オリジナル・アナログマスターテープからのトランスファー、DSDリマスタリング(2019年)]アンドレアス・K・マイヤー、ジェニファー・ナルセン(マイヤー・メディアLLC/ニューヨーク、スワン・スタジオ)
posted by 平井 吉信 at 23:54| Comment(0) | 音楽