2025年02月22日
天性のギタリスト 朴葵姫さん、ヴィラ=ロボス(5つの前奏曲)を全曲弾いていただけませんか?
まずは、アルハンブラの想い出から。
朴葵姫(パク・キュヒ)さんは粒ぞろいのトレモロの美しさを持っているが、それがよく発揮されるのがアルハンブラの想い出。クラシックギター入門のような楽曲で、どちらかというと聴いて感銘を受けることは少ない曲だった。
うちには、親父が購入した中出阪蔵や河野賢といった日本の手工ギターの作品があり、ぼく自身も自分でつま弾いてそれらの音色の変化を体感していた。当時のギターには銘木がふんだんに使われていて、表板はドイツ松、裏板はハカランダやローズウッド、指板には黒檀が埋め込まれていたと記憶している。弦を張替えると安定するまで時間がかかり、たびたび合わせる必要があった(1〜3弦はオースチン、4〜6弦はサバレスを張ることが多かった。音叉=440Hzを何度も聴いてこの周波数が頭に入った)。ときどきは近隣の愛好家が集まって合奏などをしていたので、アルハンブラの想い出も生で何度も聴いていた曲だった。
朴葵姫さんの演奏にはギターをそれらしく鳴らそうとしていない(パチンと弾く快感を求めていない)。そんな演奏は弾き手の独りよがりになりがちで、そのように弾くギタリストは少なくない。朴葵姫さんはそうではなく、音が空間に放たれて余韻を残すまで心で見送るとでも。ゆえに、こんなリズム感で組みたてるのか、こんなにうたうのかと感嘆。川の流れのように長いレガートで大きな抑揚が感じられる。正確無比な音程や精緻な技術は後において、ただ楽器に心をのせるためという感じ。
まずは、この演奏を聴いてみて。粒ぞろいで精密機械のようなトレモロなのに人の手の温もりを吹きかけるよう。一本の川のようなレガートと転調してから高みに昇っていく高揚は何にたとえる?
Recuerdos de la Alhambra(アルハンブラの想い出)
https://www.youtube.com/watch?v=ycYC2pCDkhU
次は、アルバム「Harmonia」の1曲目に置かれている「インヴィテイション ~組曲“夏の庭"より」。ぼくは実演でこの楽曲を聴いたことがある(徳永真一郎&松田弦ギターリサイタル「在りし日の歌」(2023年8月19日)。
弾き方が対照的に異なる二人の愉しいギターデュオだった。徳永さんが小学生の頃(だったかな?)、今切川に小舟を浮かべて一緒に水質検査をしたことがある(覚えていますか?)。さて、2023年のコンサートでは組曲「夏の庭」を全曲弾いてくれた。夏の庭でもっとも好きなのがこの曲。デュオで弾く楽曲だが、朴葵姫さんはひとりの多重録音のよう。少年の頃、庭で遊んだ少年を太陽が照らし風が吹いていたという風情は心で聴く音風景。
https://www.youtube.com/watch?v=eqn3yC4Tg1s&list=OLAK5uy_mBeFLDDw755jekVrJzjZWSdqa6uw-2qHE&index=2
朴葵姫さんのアルバムではこれがもっとも好き
Harmonia -朴葵姫
ヴィラ=ロボスの5つの前奏曲から第2番ホ長調。
朴葵姫さんには以前のスタジオ録音もあるが、それと比べて情感あふれる演奏となっている。中学の頃、もっとも好きな曲は?と聴かれたら、アバとかビートルズとかBCRなどと答えずに、ぽつんとこの楽曲名を告げる。誰も知らない(知るよしもない。当時からマイナー指向だったのです)。
「THE LIVE」というコンサート音源のCDがすばらしい。朴葵姫さん、ぼくの大好きな第1番ホ短調も含めて全5曲、再録していただけませんか? 南米ならではの楽観と野性味が同居している楽曲を。
https://www.youtube.com/watch?v=hSK9xVdB_28&list=OLAK5uy_lKyacGXKwsm1JITWyTyxYlbZwSN1c0bus&index=8
The Live-朴葵姫
最後は、東日本大震災を経験した日本人なら誰もが聴いたことがある「花は咲く」。音楽のカタルシスを感じる瞬間が訪れる
Kyuhee Park / Hana wa Saku (Flowers will bloom) - Y.Kanno
https://www.youtube.com/watch?v=KELE-ogceUg
posted by 平井 吉信 at 19:24| Comment(0)
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SACDで聴くEACH TIME(大瀧詠一) 豊潤にして自然な音世界
前作「A LONG VACATION」のあと、3年を経て世に問うたもの。大滝さんにとっては前作の評判もあったので難産であったと想像する。どちらかというと外交的な前作と比べると内省的な作品、セブンスコードが多用されている。だからじっくり聴くと心の琴線を打ち鳴らす。どちらを取ることもできない秀作だよね。
EACH TIMEは発売後も難産であったようで、CD再発のたびに曲順、収録曲、音源まで変更されている。ぼくはアナログを発売当時に手にしたこともあって、初出の版がもっとも好き。
「君は天然色」と比べると冒頭の「魔法の瞳」は見劣りがするけれど、続く「夏のペーパーバック」「木の葉のスケッチ」では夏の午後の昼下がりの出会いのように心をかき乱す。「恋のナックルボール」を経て「銀色のジェット」に受け渡されるて解決しない仮終結。
B面は「1969年のドラッグレース」で幕を開ける。この並びもいい。A LONG VACATIONの「恋のスピーチバルーン」の同じ位置には「ガラス壜の中の船」が音符をていねいに組みたててぴたりとはまる。「恋するカレン」(A LONG VACATIONの聴かせどころ)で山場をつくったように「ペパーミント・ブルー」も歌の世界観、旋律美、編曲の広がり感で甲乙付けがたい。そして「レイクサイド・ストーリ」で初出の「大エンディング」で締めくくられる。ここで聴くのをやめてもよいが、ボーナストラックが「フィヨルドの少女」「バチュラー・ガール」で聴き手に委ねられるのもよい。
この初出の曲の並びと音源に、ボーナストラック2曲の追加という体裁を待ち望んでいたのが、2024年に40周年記念で発売されたSACD(シングルレイヤー)のEACH TIME(通常の40周年盤はこの版ではない)。SACDでもハイブリッド仕様ならどのCDプレーヤーでも再生できるが、これはシングルレイヤーなのでSACD対応装置が必要な点にご注意を。
SACDとCD(手元にあるのは20周年版と30周年版)と比べてみた。A LONG VACATIONのSACDで予想されていたとおり、むしろそれ以上にSACD化がはまっていた。
なめらかでうるささが皆無で、良質のヘッドホンのような漂う音場に浸るというところ。それなのに声はヴォーカルアルバムとしての魅力が際立っている。人の声が温もりと存在感がある反面、伴奏が奥ゆかしくはるか外側まで広がるのがSACDの特徴かもしれない。
そのため、音楽が空間を豊潤に満たす。ぼくの再生音は深夜に聴くぐらいだから昼間でも小さい。そのためスピーカーには接近して聴いている。左右のスピーカーの距離は70センチぐらい。その中心に頭を置いて近寄ったり遠ざかったりしてみたら再生音がまるで違って聞こえた。
二等辺三角形より離れると、おとなしい上品な音の印象が最大化される。二等辺三角形よりスピーカーに近づくと、途端に粒立ちや音場の漂う美音成分が際だって増える。そのうえ口元の輪郭がさらにはっきりして大滝さんのクルーナーボイスのヒーリングシャワーとなる。さらに近づいてスピーカーが真横に来るぐらいになると、ツイーターの指向性のエリアから外れて籠もった感じとなる。もっとも音が良かったのは二等辺三角形からさらに近づいて角度が広がったとき(スピーカーからの距離50センチ程度)。スピーカーからの距離と角度でまったく音楽が違って聞こえる。ぼくが音楽を聴くときにBGMにしないのはつくる人の意図を感じたいから(集中して聴くのでアルバム1枚か2枚で終える)。
これは再生装置と音量によって異なるかもしれない。スピーカーはクリプトンKX-1で、中高域を受け持つリングダイヤフラムツイーターはサービスエリアが広くないかもしれないが、良質の高域を響かせる。マランツSACD 30nはこの価格帯ではもっとも音楽を有機的かつ豊かに響かせる装置なので申し分ない。
この音を聴いていて思い出したのは、1970年代に発売されて世界的な評価を得たヤマハの名機NS-1000M。北欧の放送局で採用されたことを皮切りに世界に愛されるスピーカーとなった。
ところがこのスピーカーを評価しない人も少なくない。音楽が痩せている、音楽が聴きにくい、声に潤いがないなどという。ぼくの小学校や高校の同級生3人がこのスピーカーを持っていて、頻繁に聴かせてもらった(ウイスキーを片手に朝まで音楽談義に花を咲かせた)。聞きこんだ原体験から、ひとことでいえば「豊潤な音」の印象。
あるオーディオ専門店でNS-1000Mを聴かせてもらったとき、つまらない音でしょ?といわれた。え? そのとき比較で聴かせてもらったのが、店主おすすめのヨーロッパの2ウェイスピーカーであったが、切り替えた途端、音楽の生命力が失われた感じがした。ここの店主はいったいどこを聴いているの?と思った。オーディオ雑誌で絶賛されているからとか、有名だから1000Mを評価しているのではなく、音が好きだからで目隠しされても100%言い当てられると思う。
いま思い返せば、音楽のどこを聴いて判断するかは人によって違うということ。ぼくにとっては、音楽が豊かに鳴っているという印象がまっさきに来る。いま考えると、ツイーターとスコーカーが同じベリリウムの同一形状で口径が異なるだけ。位相も管理されていたから、スコーカーが疑似的に大口径ツイーターのごとく作用してサービスエリアを拡げていたのを豊潤と聞き取ったのかもしれない。密閉の30センチ紙ウーファーはこのスピーカーの弱点と指摘されることがあるが、ぼくはこれだから成功したのだと思う。その後にウーファーをカーボン素材などに代替した進化版が出たが、市場で淘汰されている。いまぼくが聴いているクリプトンも「密閉型」「紙コーン」だが、この方式に共通の歪み感の少ない低域と適度な空気漏れが心地よい音場を作り出すのではないかと推察している。
それはともかく、EACH TIMEの40周年記念のSACD盤は、ほんとうに豊かな音楽の世界を見せてくれる。CDは音の粒だちが人工的(それはそれで配信で聴くのならよいのかも)。それだけ聴いていると不満はないが、素材そのものを磨かれて出されたら(良い素材の料理を味付けを控えて出されたら)心の糧となるだろう。それはその人の音楽(食)の体験によるのだけれど。
EACH TIME 40th Anniversary Edition (SACD)
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タグ:大滝詠一
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2025年02月16日
小暮はな「ホタルの庭で」 しずしずと、ひたひたと歌のさざなみ
小暮はなさんは、ポルトガルのファド(ご当地の歌謡曲)に私淑しておられる。10代の頃からの経歴で発売されたアルバムは決して多くないけれど、良質の音楽を届けられている。
まずは、「ホタルの庭で」。
ホタルが庭に今年もやってきた。葉を揺らして来たことを告げる。はかないいのちが明滅して去って行く。そして(同じホタルでないかもしれないが)また戻ってくる。自然の持つ規則性とこの場にいる蓋然性。そしてホタルに愛しい人を投影しているのかもと思わせる佳曲。歌詞の一部はポルトガル語になっている。

控えめなピアノとギターの伴奏に、はなさんの歌が闇夜に灯すようにしずしずと入ってくる。間奏ではピアノの永田雅代さんがときおりピアニカ(?)でオブリガートする。音楽が空間に放たれ、喉の空間が中高音の余韻となって空気を震わせる。ビブラートや小節でなく、素のままの声と透明な倍音の響きがひたひたと波のように押し寄せる。こんなひたむきな歌への向き合い方があるのかと。張り詰めた沈黙感の背後に無限の安らぎ―。もう沈黙しかない。
「ホタルの庭で」小暮はな / Jardim dos Pirilampos - Hana Kogure
https://www.youtube.com/watch?v=Xyyv8r2HXLs

「ホタルの庭で」は2枚目の「アズール」と、3枚目で最新作の「ジャカランダ」に収録されている。しかし(想像だが)音源は異なると思う。3枚目は「本格ファド編成によるアコースティック・アルバムを制作」とあり、はなさん自身がいまもっとも歌いたい曲ということで、これも期待作なのだ。ただし2枚目の収録版とアレンジ(もちろん歌い方も)も違うと思う。3枚目の視聴音源を探してみたけどどこにも見つからないので、2枚目から聴いてみては?と提案。
2枚目は公式YouTubeチャンネルでダイジェストが紹介されている
小暮はな Hana Kogure New Album『AZUL』2017年4月9日リリース!
https://www.youtube.com/watch?v=dGAOmRqEqO4
(追記)
アルバムの内容紹介を転載(やはりアレンジが違うようだ)
■最新作『ジャカランダ』で本格ファドを聴かせたSSW小暮はな
2017年発売の代表作『アズール』がボーナスCD付で再発!
遠いポルトの海風、鳥たちの声、石畳、かすかな青いエロスの香り……
紡がれた言葉と調べ、その歌声は光と陰
2023年にライス・レコードから『ジャカランダ』(OSR-8100)をリリースしたシンガー・ソングライターの小暮はな。以前より積極的にポルトガルとの関わりを表現してきた彼女が初めて放った本格的なファド作品『ジャカランダ』は、各方面で大きな話題を呼びました。そんな彼女の前作『アズール』(2017年作)の在庫が終了したことを受けて、この度ライス・レコードから同作の再発盤をリリースすることにいたしました。
小暮はなは15歳より自作曲を創り始め、ライヴハウスなどでギターの弾き語りを行うようなりました。その後関島岳郎(栗コーダーカルテット)プロデュースによる1stアルバム「鳥になる日」(off-note)を2004年に発表した彼女は、2008〜2011年までの間、ポルトガルを中心に欧州各地で活動を行うようになります。そしてそんな経験を元に、ファドの影響を随所に感じさせる哀愁漂うメロディーと、 深く叙情的な詞の世界、やわらかく凛とした歌声にさらなる磨きを掛けた彼女が13年ぶりに発表したのが、今回ライスから再発される『アズール』でした。
小暮はなの代表作とも言える『アズール』では、英珠や紅龍(上々颱風)との共同作業でも知られるピアニストの永田雅代が小暮と共にプロデュースを担当。そのほか、ロケット・マツ(パスカルズ)、関島岳郎、西村直樹、関根真理、塙一郎といった錚々たるミュージシャンが参加している点にも注目が集まりました。収録曲の多くは小暮はなの自作曲ですが、紅龍の提供楽曲「誰かが誰かを」や、詩人の金子光晴(作詞)/フォーク歌手ひがしのひとし(作曲)による「おかっぱ頭~愛情42~」も取り上げています。また最新作『ジャカランダ』ではファド・アレンジで聴かせていた「アンドリーニャ」「ホタルの庭で」のオリジナル・ヴァージョン、ポルトガルのカーネーション革命の開始の合図ともなった「Grândola, Vila Morena」のカヴァーなども収録しています。
さらに今回の再発にあたり、ボーナスCDを付録することにいたしました。内容は過去の未発表ライヴ音源を集めたもので、特に彼女が初めてポルトガルに渡って行ったライヴの音源は大変貴重で、ファンなら絶対に聴き逃せないものと言えるでしょう。
『ジャカランダ』で初めて小暮はなを知った新しいファンにはもちろん、ボーナスCDを求める以前からのファンにもお勧めいたします。
トラックリスト
〈メインディスク〉1. アンドリーニャ
2. 朱いさかな
3. MOJITO
4. ホタルの庭で
5. おかっぱ頭〜愛情42〜
6. 一羽のカモメ
7. 誰かが誰かを
8. AVIA
9. Grandola Vila Morena
10. タンポポのように
11. かもめの住む街
〈ボーナスCD〉
1. 咲き続ける花よ(ライヴ)
2. 一羽のカモメ(ライヴ)
3. チョウチョ(ライヴ)
4. 空の下で (ライヴ)
5. こもりうた(ライヴ)
追記その2
視聴できるサイトが見つかった(OTOTOY)
azul:https://ototoy.jp/_/default/p/2106303
ジャカランダ:https://ototoy.jp/_/default/p/2134429
posted by 平井 吉信 at 11:52| Comment(0)
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2025年01月25日
昼も夜もPolaroid Loveres(Sarah Jarosz)
県西部でのセミナー(参加者がとても感じの良い方々であった)の開催で向かう道中で、ひたすら聴いていた音楽は、Sarah Jarosz(サラ・ジャロウズ)の新作「Polaroid Lovers」 。世の中に溢れている音楽と似ているようで、まったく違う魅力を感じるのは彼女の声のせい。自作の楽曲も佳い(このアルバムではかつては苦手だった共作がほとんどで愉しいプロセスであったと動画サイトの後半で語っている)。
YouTubeで前半3曲をスタジオライブで歌っている動画がこれ
https://www.youtube.com/watch?v=PTRNQfESd0k
動画後半のインタビューでは、ブルーグラスやカントリーフォークに分類されることが多い彼女の新作について、「驚く人が多いのでは? 60年代のボブ・ディランがエレキギターを手にしたときのように」とインタビュー者が水を向ける(フォーク信者の観客がディランに向かって「ユダ!(裏切り者)と罵声を投げかけたんだよね。見てないけど)。
サラさんも、自分の音と違う感じ(私も驚いているのニュアンス)と答える。素朴で温もりの人柄から音楽性が漂うが、20代後半でグラミー賞を3度受賞している実力者。ここ数年人気を集めているベッドルームPOP(ClairoやBilllie Irishなど)もいいけど、生演奏の弾む感じは一体感がある。サラさんの声がとてもよい感じ。
2曲目の「When the Lights Go Out」の歌詞(夢のなかで二人はポラロイド写真に写った恋人だった)のPolaroid Loversという言葉が気に入ってタイトルにしたのだけれど、考えてみれば人生の場面はスナップ写真のようなもので、過去や未来を見つめるように楽曲に反映しているということ、過ぎていく一瞬が写真に定着するが、音楽もそんなものという(と言っているように解釈したけれど、歌詞と同様にやや抽象的なのがSarahさんの特徴かも)。
共作によってさまざまな共演者のアイデア(思い)が注入されたのがよかったのかも。21世紀に売れた日本の音楽では作詞がいまひとつと思えるものが多かった。誰が良き協力者がいれば別の伝え方、表し方が可能で、それがさらにその人やその楽曲を活かすのに、と思える場面が多かったので。DTMや配信でなく、誰かとの関わりから音楽が生れていくほうが自分も愉しめるはずなのに。それと、ここ十年ぐらいの日本の楽曲は早口になっているように感じるけど、これもタイパ?のため?
ぼくはこの音楽に(閉塞感からひらけゆく予兆のような)未来への希望を感じる。Sarahさんの倍音の多い声が小節のように揺らいで(特に抜けるように裏返る瞬間)、それが脳というか身体に浸透していく。車を運転するときも、夜寝るときも「Polaroid Lovers」に浸っている。
Amazonのタイムセールで2096円となっている
Polaroid Lovers/Sarah Jarosz
コロナ下の2020年6月に、前作アルバムをギター1本で歌っている(自宅ライブ?)の映像
https://www.youtube.com/watch?v=i3Z0skP0EeE
posted by 平井 吉信 at 13:16| Comment(0)
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2024年12月30日
サッちゃんとシャボン玉
日本の歌百選は、2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が、親子で長く歌い継いでほしい童謡・唱歌や歌謡曲といった抒情歌や愛唱歌の歌101曲を選定したもの。百選を見ていくと、「赤とんぼ」は3位。みんなが知っていて詩情溢れる佳曲としてぼくが挙げたいのは「雨降りお月さん」(7位)、「朧月夜」(21位)、「サッちゃん」(43位)。
特にサッちゃんは隠れた名曲、それも名曲中の名曲と思っている。作詞は、阪田寛夫さん。この方の訳詞で「学校へ行く道」が中学の音楽の教科書に載っていて、いまでも手元に保管しているほど好きな曲。
音楽の授業で黒田先生という女性教師が生伴奏のピアノを弾くのだが、曲想の変化でわずかにアッチェレランドをかけるところが曲想に合っており、「楽譜にはなくても自然にそうなる表現」があって、それが「芸術」なのだと思った。小学校までは単に和声が合っているだけだった。
サッちゃんの作曲は、大中恩(めぐみ)さん。この1曲だけでもすばらしい作曲家だが、ほかにも多くの作品が残されている。Amazonで見ると、混声合唱曲「島よ」がわずか749円で出ていた。ためらわず購入。
ぼくは合唱をやらないけれど、混声合唱組曲「水のいのち」( 高田三郎作曲)が好きで、20代の頃から聞き始めて、数百回はCDを聴いた。「四国の川と生きる」というWebページは開設以来、隠れた読み物コンテンツとなっているが、川に想いをはせるとき、この音楽がいつも響いている。「島よ」も聞きこんでみようと思う。
さて、サッちゃんは、詩と曲が一体となった最高の作品。1番の歌詞で、どこにでもいる愛らしい女の子が描かれ、2番の歌詞でサッちゃんはバナナを半分しか食べられないという。来年になれば1本まるごと食べられるかもしれない、昨日までできなかった逆上がりが、きょうはできるかもしれない。愛らしい時間は瞬く間に過ぎていく女の子の成長を宝物のように書いた阪田寛夫さん。
3番では、「サッちゃんがね」とこれまでの会話で何度も出てきたあのサッちゃんがね、の気持ちがぽんと置かれ、時間の経過を示す。そのサッちゃんが引っ越しするんだって―。男の子には人生で初めて感じる抗うことのできない(そして誰かに説明することができない)心のうずき。おとなになったとき、何かのきっかけで思い出すとしたら、この曲は幼かった当時を描いているようで、おとなになって振り返る子ども時代の回想かもしれない。
音符をひもとけば、サッちゃんはねと、子どもが一生懸命伝えようとするときの「あのね、これはね」とたどたどしくしゃべる姿を音符/リズムがたどる。その後、子どもが何かの衝動で駈けだしていくように細かい音符を綴る。作曲者の書いた前奏は不安定な調性を使っているが、導かれて歌い出しで着地するという芸術性が高いつくり。歌が始まるとヘ長調と平行調のニ短調を中心に、子どもでも覚えやすく、しかも流れるように進んでいく。魔法のようである。
サッちゃんのことを「おかしいな」(1番)、「かわいそうね」(2番)と他人事のように見ていたのに、3番では「さびしいな」と男の子の気持ちが出てくる。子どもの日常の一コマから心の成長や誰かへの思いが育っていくさまが描かれる。
童謡や唱歌は完璧な音楽かもしれない。そうでなければ子どもの心は掴めないし、おとなだって感動することはないから。
YouTubeには美しい音源が残されている。
歌い方があまりにはまっている山野さと子さんのチャンネルから。山野さんの歌い方が好きだな。特に母音の「う」の音が美しい。誇らしげな少年と涼やかな少女の両面が空間でブレンドされて空気が震えるというか、声帯の共鳴のような自然なビブラートが無意識に出ているような (声の倍音成分だね、きっと)。もう聞き惚れる(日本語では「う」と「え」の出現頻度が低いとされるが、語中の「う」は「お」に近く発音されるため、口を尖らす「う」は「え」より少ない。その数少ない「う」の音を美しく響かせている)。
https://www.youtube.com/watch?v=OvKMHHfYEf4
歌声シンセサイザーでも違和感がなく没入できる。静止画の余韻も愉しめる。
https://www.youtube.com/watch?v=8tGhrQCR0Y4
CDにおすすめがある。
「ザ・ベスト 懐かしの童謡」
「サッちゃん」をはじめ、山野さと子さんの歌が多く収められているが、コロムビアが誇る川田正子さんの「みかんの花咲く丘」や森みゆきさんの「ゆりかご」など35曲が収録されている。エバーグリーンな音源なので当分は廃盤にならないとは思うが、見たときに入手しておかなければ、ある日突然(トワ・エ・モワではないが)消えるかもしれない。
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さて、次は「シャボン玉」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)。誰でもご存知の「シャボン玉とんだ 屋根までとんだ」である。子どもが無邪気にシャボン玉遊びに興じるさまを歌にしたもの。この楽曲は前述の「懐かしの童謡」には山野さと子さんの歌で「サッちゃん」の次に収録されている(なんという)。ここで別のCDを紹介したいと思う。
「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」(絵本とCD)
(もし、新品を見かけたら万難を排しても手に入れるべき)
歌の情景が描かれた絵本が本体。それにCDが付属している。CDには、日本人で童謡歌手の雨宮知子さんが日本語でうたう童謡の後に、アメリカ人のグレッグさんが自ら英訳してうたうオリジナルが続けて演奏される。
まずは雨宮さんがノンビブラートの鈴の音のような声でやわらかくうたう。童心に還れる歌い方で聴いていて時の経つのを忘れてしまいそう。次に、グレッグさんがビヴラートをかけた思い入れたっぷりにオリジナルの英訳で同じ伴奏で歌う。歌詞を聴いていると、日本語の深いところから汲み取ったニュアンスが英語に置き換えられている驚き。しかもそれがときに韻を踏んでいたり(英語の歌詞にはよくある)。現代の英訳から「もののあはれ」や「おかし」が見えてくるよう。
グレッグさんの赤とんぼがYouTube上にある
https://www.youtube.com/watch?v=sVv7eCdDVHk
さらに全編を通して伴奏がすばらしい。ピアノが声に寄り添い淡々と音楽を紡いでいく。ここには安っぽいストリングスはなく、学芸会の伴奏でもなく、曲想を最小限の音でえぐり出すが、あくまで伴奏に徹する。
特に唱歌の赤とんぼの伴奏はこの演奏が理想だ。前奏だけで涙腺が緩む。赤とんぼにはピアノにチェロの響きがオブリガートするが、これが木霊のように心を揺さぶる(低弦の響きはヒトの独白にもっとも近い)。雨宮さんの歌い方も何の作為も感じず、凜としてそれでいてやさしい。赤とんぼの原曲はヘ長調(Fmaj)とされるが、この盤のように変ホ長調(E♭maj)がもっともしっくり来る。この赤とんぼだけでこの絵本付CDを買う価値がある。音楽を聴きながら絵本を見ているが、いつのまにか目を閉じてしまう。こんな企画が廃盤(廃刊)にならないよう世に紹介した次第。
それではシャボン玉について。
諸説あるが、子どもの無邪気なシャボン玉遊びであるとともに、「生れてすぐにこわれて消えた」は夭折した子どもへ思いを馳せたものとする説がある。
ぼくもそう思う。雨宮さんの日本語の歌は前者だが、明るい雰囲気のなかに「負けないで!」と子どもへの応援歌のように感じる。続くグレッグさんの英語版「Blowing Bubbles」では、stronger ones needs lots of soup, weeker ones needs lots of hope」と綴られて目頭が熱くなる。
雨宮知子さんのCDも入手が難しくなっているが、ダウンロード音源はある。
mora(AAC-LCデータ)かOTOTOYがおすすめ。音質の良好なflacかwav形式ならOTOTOYの一択。寝る前に聴いてみたら、おだやかな気持ちで休めるのでは?
ほんとうにいまの時代にこそ必要な思い、ヒトの心の動きだよね。物価高、原材料高騰、災害多発で思うように生きていけない、食べられない国民が2割や3割に達しているように思う。東証の大納会では株価は過去最高を記録したが、これらは過去30年の誤った政策で国民の貧困化を進行させて獲得した偽り。1億総中流といわれた30年前から、国民の富を消費税(&法人税の減税)という逆進性の高い政策で富を付け替えたに過ぎない。いまでは時価総額が世界のベスト30位に入る日本の企業はない(かつてはベスト10に8社あった。人々の犠牲になり立つ株価などくそ食らえ! 経済の実態を見ればほんとうの価値は1万円ぐらいだろう、そのうち弾けるよ、弾けてしまえ!と言いたいことはいわしてもろた)。
シャボン玉が空高く舞い上がるためには、たっぷりの石けん水だけでなく幸運が必要。不幸にして少ないシャボンで生きて行かなければならない人が増えた。わずかな泡で空に放たれたら、幸多かれと幸運を祈る社会。そして国の施策もすべての人が幸福になれるように注力する政治や行政でなければならない。シャボン玉の童謡にそのような思いが込められているように思えて仕方がない。
すべての人が安寧に年が越せるよう、2024年の晦日に祈る。
追記
ここまで1893のコンテンツをつくって見ていただいている。それでも見る人は1日に数人と少ない。文字だけでも166万文字を越え、掲載写真は40万枚を越える(もちろん撮影に使った枚数はさらに2桁は多いだろう)。拡散する手段はなく、見てもらっても1円のお金も入らない。それでも書き続ける。まあ、良い記事だなと思ったら、誰かに伝えてください。
タグ:童謡・唱歌
posted by 平井 吉信 at 22:57| Comment(0)
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2024年12月28日
倍賞千恵子 叙情歌全集 日本語の美しさを凜と
前奏が始まる。歌が出てくるのを待つ。前奏からある程度、歌の(歌い方の)入り方は見当が付く、と思っていたら不意を突かれる。岩の割れ目から懇々と湧き出す石清水のように空気を震わせる。人の声がまわりの空気を共鳴させて空間が鳴っていき、空気に同化していく。言葉にすればそんな感じが倍賞千恵子さんのこの全集。
フォークや昭和歌謡の名曲、唱歌、童謡、西洋の古典歌曲から派生して日本語の歌詞が付けられた有名な楽曲、世界各地の民謡に起源して日本の伝統曲のようになった曲などテーマごとの6枚組全102曲の全集。
倍賞千恵子 抒情歌全集
歌の表現は楽曲によって変えているが、小細工はしない。ヴィヴラートは強くかけず、オペラ唱法とも違う。背筋を伸ばして崩すことなく、なよなよする表現は皆無だが、やさしさが底流を流れる。それでいて、気持ちが入った箇所では気持ち早めに入ったり、部分的に小節や伸ばす音で震わせる表現はある。特に高音で伸ばす音から下降する際にスラー気味(ずり下げ)に顕れる。
しかし音楽に浸れる、安心して身を任せられる。凜としてふくよか。金縛りに遭う瞬間がどの楽曲にもある。油断していると「違う世界に持って行かれる」感じ。2分や3分の短い楽曲でも。
第1集から「夏の思い出」。リバーブがやや深めだけれど、声帯の特定の帯域で共振するような音域と歌い方があり、尾瀬の沼にはまってしまう。それでもこの曲とともに尾瀬に行きたい。
「あざみの歌」「四季の歌」「雪の降る町を」(ブルース調の編曲が惜しいが)では、短調を憂愁にしない凜とした意志がある。「雪の降る町を」であの転調の瞬間に木漏れ日が射す。ああカタルシス。それなのに最後の審判のように終わらせるのも深い。これだけ豊かな表情があるのに楽曲が壊れておらず、この音楽の深淵が見える。オリジナルの「神田川」は男性がうたう女唄だが、女性の視点からの語り掛け、独白の世界観。ああ、「さくらさん」と腑に落ちた。
第2集では、倍賞さんならではの楽曲が続いた後、「岬めぐり」。失恋の男唄の歌い方ではないのに元の楽曲のすばらしさを再確認する。「星に祈る」の軽やかな歌い方は誰が歌っているかわかる人は少ないだろう。高音で絶叫せずディミニュエンドするニュアンスは自在。でも第2集は短調の曲が多いこともあって再生する頻度は少なめ。
それに対して第3集は叙情歌集の白眉というべき唱歌。全集のなかでこの第3集をもっとも聴くという人は少なくないだろう。「からたちの花」「砂山」「この道」 このように歌ってほしい(歌ってくれるだろう)の心のシナリオに沿って流れる。「浜辺の歌」では声帯と楽曲の区別が付かない一体感で魂を揺さぶられるが、原曲がつくられた時代の矜持さえ感じられる(大正時代の湘南の海岸がモデルとされるが、海がまだ人工的な海浜となる前の日本中どこにでもあった外洋に面した砂浜を思い描くことができる。原曲は変イ長調でテノールの音域であるため、これだと女声では高すぎるので倍賞さんやトワ・エ・モワの白鳥英美子さんもヘ長調へと下げている)。編曲も声を活かす簡素さで佳い。期待した「ゴンドラの唄」は青春の青さや高揚感をうたってほしかった。
すべての楽曲で最高かといえばそうではない(誰が歌ってもそれはない)。第4集の「赤とんぼ」(ぼくは唱歌のなかでこの曲に深い思い入れがあるので)は(倍賞さんの歌い方というよりは)編曲が楽観的で、なんだか寅さんのよう。姐やへの思慕とそれゆえの哀感、過ぎ去ったときへの寂寥となつかしさの入り交じる想いを湛えて時空の彼方に昇華させる、涙を湛えてほほえむあのモーツァルトの長調の楽曲のようにうたってほしい。「叱られて」は寂しさのなかのこみ上げてくる肉親の愛情を湛える。第4集はだめだよ、涙腺ゆるませ集。
でもストリングスの伴奏よりはピアノかギターだったらと思える場面は多い。裸の声が聴きたいときに、オケがムード歌謡調に誘導してしまうから。
庭の千種と銘打たれた第5集は自在に羽ばたいている。オリジナル歌手の存在がないことでのびのびと肩の力を抜いている、だからどんどん景色がひらけていく。もう誰がうたっても追いつけない感じ。
第6集の昭和歌謡もいい。「湖畔の宿」、当時を知らないけれど、淡々と運ぶ歌で情景が浮かぶ。「新妻に捧げる歌」には一抹の不安を打ち消す希望や未来の光が宿っている。ふと思ったけれど、加山雄三さんの楽曲を倍賞さんがうたうのはありかもと。歌詞カードは1頁に1楽曲が掲載されていてとても見やすい。
コロナやインフルエンザが流行している昨今、冬休みをじっくりと音楽に向き合ってみたい人にお薦め。昭和は遠くなりにけり、などとおっしゃらずに、若き倍賞さんの声に浸ってみては?
倍賞千恵子 抒情歌全集
蛇足
日本語が話せる人が少なくなっていくような気がする。少し遠回りするけれど書いておくね。
東京(とうきょう)をその文字どおりに発音はしない(でしょ)。近い音で表せば「と−きょー」。外国人には東京と発音するのは難しいようで、「と・きおぅ」と聞こえることが多い。大阪も「お・さか」。
ぼくがこれに気付いたのは20代前半に「四国カナダ協会」の例会に参加していた頃。日本人もカナダ人も気軽な軽食とビールを肴に会話は英語で行なう活動。地元のスーパーを「キ・ヨウエイ」とカナダ人のクララさんが発音していた。KYがKIOとなるのねと気付いた。
ところが21世紀になって日本人の日本語がおかしいと感じることが多くなった。NHKの連ドラの主題歌でAKB48がうたう「365日の紙飛行機」で、「…今日という一日が…」の「が」でひっかかった。これは日本人が発音する「が」ではないよ。このブログにも書いた記憶があるが、どうして関係者が気付いて伝えないのかと強く思った。楽曲は悪くないのだが、あの「が」が聞こえてくると朝のひとときが憂鬱な時間となってしまった。「ga」の「g」の成分が強すぎて言葉が歪んでいる。この楽曲の世界観はおだやかなもの。そうでなくてもこの文脈では「g」はかすかに入って後の母音が強勢となるように大多数の人は無意識に発音しているはず。日本語は母音のふくよかな響きが美しさの根源だから。倍賞千恵子さんのこの全集はそのような違和感はどこを探してもなく、日本語でうたわれた歌の美しさを堪能できる。宝物だね。
タグ:童謡・唱歌
posted by 平井 吉信 at 22:16| Comment(0)
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2024年12月18日
アリスの音楽を素材を活かして(SACDハイブリッド)
アリスといえば、70年代半ばに数多くのヒット曲がある。当時を知っている人なら誰もが口ずさめるヒット曲がいくつもある。出席番号のひとつ後の同級生がアリスのファンで、彼の下宿に立ち寄ると、フォークギターやらレコードがあって格好いいなと思っていた。ほかにも身近にアリスファンが多く、よく聞いている(聞かされている)のでCDを持っていなかった。
ステレオサウンド社のSACDソフトを販売するコーナーを見ていたら、アリスのベストアルバムが SACD化されていることに気付いた。その紹介文がこちら。
https://www.stereosound-store.jp/c/music/4571177052551
これはいいなと即座に買うことにした。音質を追求する手段はさまざまあれど、アナログ時代の名機といわれるスチューダーのA80、真空管プリ、アナログEQなどの機器を使っている(コンプレッサー使用せず)。素材を活かしてなるべく加工せずにDSD化(SACD)/PCM化(CD)している。いわば音楽の有機栽培のようなもの。
SACDが届き、冒頭に置かれた「冬の稲妻」を聴いて椅子から落ちそうになった。スピーカーのはるか外まで空間が広がり、ドラムスのキレとドライブ感、アコースティックギターの鮮度感、それでいてうるささが皆無。普段感じているスタジオ録音の箱庭感がなく、自由に音楽が解き放たれたよう(ダイレクト・カッティング?と思えるほど)。「涙の誓い」「ジョニーの子守歌」などは同級生がよく歌っていたのでなつかしく蘇った。
デビュー曲「 走っておいで恋人よ」を聴くと、アリスがフォークにルーツがあることがわかる。谷村さんと堀内さんという2つの異なる声質が主従になったり併走したり最後に解決したりと声の魅力がアリスの魅力でもあるし、「今はもうだれも」「冬の稲妻」のように矢沢さんの力量がアリスの音楽を支えていることがわかる。これによって、コンサートではアコースティックギター2本とドラムスだけで再現可能なうえに、リズム隊にベース、旋律にエレキギターやストリングスを加えるだけで楽曲の色彩が華やかにもできる。
アリスの音楽の懐の深さは個性のブレンド(君の瞳は1万ボルトと昴という楽曲の距離間)と小さな会場のコンサートで鍛えたミニマルエッセンスな再現力+バンド拡大時の色彩のバリエーションにあると思う。
このアリスを聴いていると、良質の音楽を後世まで、マスターテープが再生可能なうちにアーカイブしていく必要性を感じる(ピンクレディーもよいのではと思う)。レコード会社だけではうれる売れないの判断基準ではつくられないだろうと思った。
さて、このSACD盤はハイブリッドなので通常のCDプレーヤーやパソコンのディスク部で再生できる。SACDのCD層で聴いてみたが、それもすばらしかった。しかもこのディスクは、通常4950円のところ、本投稿時点で3300円となっている。こんな企画が売れないと次が続かない。
https://www.stereosound-store.jp/c/music/4571177052551
リストをたどっていくと、五輪真弓の「恋人よ」は完売となっている。シングルヒットの同名曲よりもアルバム全体が楽曲の質の高さを誇るので入手したかったけど。松田聖子の「Pineapple」「ユートピア」も数年前に入手不能となってしまった。薬師丸ひろ子は「歌物語」はあるが、「花図鑑」はSACD化(ハイブリッド盤)されていないようだ。アリスファンや当時の音楽が好きな人はご一考を。
posted by 平井 吉信 at 23:02| Comment(0)
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2024年11月23日
真夜中に波紋を拡げるように。オフコース「We are」
オフコースの「We Are」は1980年代の日本のポップスの金字塔であり、音質も最上級であると思う(例のドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」と同等の)。録音は日本だったが、トラックダウンを西海岸でやったのではなかったか?針を落とせば(アナログも当時買ったので)、小田さん、鈴木さん、松尾さんがそれぞれ異なる個性のリードヴォーカルを取りながら、冷たい感性のキレと感情の温もりが同居する楽曲がブレンドし、極上のコーラスワークと楽器が空間に躍動する。
オフコースの初期(デュオ時代)はフォークロックの湿り気を帯びている。けれど情感が伝わってくるのも事実。5人組バンドとなってからは洗練された音志向となった。転機はThree and Twoからだけど、それがWe areで跳躍した感じで、洗練と感傷が同居している。ただし小田さんの声には自己陶酔的な少年ぽさと同居する冷徹さが聴き手を突き放す印象もあって、ぼくはすべてを受け容れられない。抽象的な歌詞に西海岸風の伴奏を付けて雰囲気に酔うところがあるが、その一小節に聴き手は自分の体験に照らして同化させ、楽曲のなかに入り込む。そんな印象のアルバムである。
それでもこのアルバムにはぼくの想いが深沈と封印されている。それが楽曲の世界観を合致していたし、その音楽を再現しているような場面でこの音楽を聴いていた時間があるから。
「雪が降っているね」
「… 」
ままごとをした幼なじみが、校区が変わって会えなくなって、少女からおとなへとの飛躍を知らないまま、見知らぬ女性となって目の前にいる。それもまわりの空気を涼やかに響かせるような、しっとりとしたあでやかさを全身に秘めていながら、あくまで清楚にたたずまう。
その年は南国徳島でもまれに見る大雪が降った。暖かい室内で彼女は目を落とす。ぼくは窓の外を見て何も言えない。感受性の豊かな女性だから気付いている。そこに流れてきた音楽―「逢うたびきみは素敵になって、その度ぼくは取り残されて♪」。― 内面の美しさがそのまま完璧な女性の容姿をまとっていたから。
生涯に1人か2人出会う最良の女性だったのかもしれない、と思わずにはいられない。感情が泉のように湧いてくるいまは2024年秋。夜のしじまに音楽が空気に溶け込むように心に波紋を拡げていく。あのときと同じように、ぼくは受けとめるしかない。このアルバムは疑いようもなくオフコースの絶頂期の記録。
We are…のあとに省略されている言葉、言葉にならない言葉が表現されている。次作の「Over」とあわせると、We are overと深読みする人もいる。最高のときを迎えて(それゆえにあとは下るしかない、もしくは終わりがはじまった、解散に向けての過程のごとく)すれ違いの風が吹いていると解釈する人もいる。
ぼくはWe areのあとに省略されている言葉は、We are(what we are)ではないかと思っている。「私たちは…(私たちがあるがままの)」。―わかりますか?問いかけのようで答えにもなっている禅の公案のようなもの。あるがまますべてを受け容れていく諦念にも似た壮絶な美学が火花を散らしそう。緊迫感のなかで閉じ込められようとしている宇宙空間に咲く花とでも。
→ オフコース-We are追記ステレオサウンドから、オフコースの音源がSACDで販売されていて、2024年11月時点で特価(4,950円→ 2,970円)となっていることに気付いた。ステレオサウンドのSACDはていねいなつくりで定評がある。https://www.stereosound-store.jp/c/music/artist_kana/kana_o/off-course/4571177053183(これはハイブリッドSA-CDなので、通常のCDプレーヤーで再生できる)
Webコンテンツの解説を読むと、ぼくがこのアルバムが、ドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」で感じた音の処理との同質性の理由として、同じエンジニアが手がけたとある。やはりそうか。(解説文)
そしていよいよ到着。手持ちのCDと聴き比べ。意外にもCDの音質が抜け感で優る。高域の繊細な感じなどCDの心地よさに軍配を上げる人は多いに違いない。それに比べてSACDは聖母マリアの微笑みとでも形容したい、究極のおだやかさ。波ひとつない静かな湖面に音符が波紋を拡げていく。
絵に例えると、2.8MHzの精細な点描画(SACD)か、44.1KHzで荒削りな筆運びながら雰囲気を伝えるCDの違い。そしてどちらもよいと思えるところ。アナログレコード(LP盤)には、カートリッジが拾う信号のクロストークやアームの共振、RIAAカーブ特性を利用したカートリッジの周波数特性設計の相乗作用がある。これらの音楽に影響を与える要素をうまく相乗効果として活用したり相殺したりする現場の技術(ノウハウ)があったはず。
針の接触は無限小の1点ではなく縦に伸びていることから時間軸の重なりとなって、それがエコー感や逆相成分による音場をつくる。また、左右のクロストークは左右成分が交わることで生まれる疑似的な中央の定位感につながったのではないか。アナログの緻密さに追いついたSACDはアナログレコードさえ到達できなかったセパレーション、時間軸の歪みのなさ、絶対的なまでの低域の安定感や高域の可聴帯域外までの特性を従えて、歪みレス、クロストークレス、微少音からのダイナミックレンジで究極のなめらかさを備えたのだろう。
ただし、点描画がいつもいつも荒いタッチの絵に優るとは限らない。つるつるの麺(SACD)よりも適度にざらざらした麺(CD)が歯ごたえがあっておいしいと感じることがあるように。ソニー/フィリップスがコンパクトディスクの規格(収録時間、標本化など)を決める際に、ベートーヴェンの第九が1枚に入るために74分と設定した。そこから、44.1KHzの標本化周波数の決定や可聴帯域をわずかに越える高域限界などが設定されたCDというメディアが、偶然か必然かは別にして奇跡的に音楽のきめ細かさと迫力の両面をもたらす合理性を持つ規格になった。それゆえ40年続くメディアになったのだと。
SACDはほんとうに木綿のような有機的な肌触りで浸れるがCDの抜け感の良さは同等の魅力を持っている。We areのSACDとCDの聞き比べはそんなことに思いを馳せてしまう。(マニアックな話題ですみません)
追記
深夜の音楽は心に沁みる。この言葉だけで十分だ。いま聴いている装置を撮影してみよう。
音の出口はクリプトンKX-1。ビクターのSXシリーズの設計者によるもの。ドイツのクルトミュラーコーンに、ソフトドームツイーターを組み合わせたのがビクターオリジナルだが、21世紀では最新のリングドームツイーターを組み合わせたもの。箱は密閉なので低域の位相が乱れず音の濁りがない。それゆえ中域高域も明瞭なスピーカー。
ドイツの針葉樹の森から生まれた伝統のコーンはいまどき珍しい紙の素材。ウーファー素材の主流は、ポリプロピレン、カーボン系、ハイブリッド系に加えて金属素材なども見かけるようになった反面、紙はほとんど見かけなくなった。でも密閉型には紙のウーファーの素材の自然な響きが落ち着く。バビロンの時代からヒトが生理的に受け付けてきた木材や紙の醸し出す適度に豊潤で軽く抜けてくるところが生理的な心地よさにつながっている。
それを受けるリングダイヤフラムは高域の限界を伸ばすというよりは、可聴帯域内の輪郭をつくりつつ、密閉のウーファと中域を円滑につなげて声や弦を自然に再生させるねらいがあると思う。
プリメインは四半世紀使っているオンキヨーのD級アンプ。
アンプはもはやアナログの時代ではないと実感したアンプ。いまでもAB級(アナログ)アンプは販売されているが、音楽の実在感でAB級(アナログ)はD級に及ばない。まして限られた費用のなかで性能を追い求めるとデジタルになる。セレクターと音量以外につまみがない簡素なデザイン。筐体の内部も信号の流れが良く、発熱が極小のため経年変化がまったく感じられない。ボリュームのガリも皆無。このことから電子回路の熱は、素子や回路の経年変化を早めてしまうのではないか。ぼくがアンプのA級増幅(常にバイアス電流を流すため発熱が大きい)を避けるのは、エアコンがないため夏季を中心に1年のうち1/3が音楽を聴けなくなるという理由もあるが、スイッチング歪みだけが音楽再生に影響を及ぼすすべてではないとも思うから。プレーヤーはヤマハGT-2000。SACD/CDプレーヤーはマランツSACD 30nという組み合わせ。
この装置はどんな音がしますか?と尋ねられたら、「何時間でも浸れる音ですよ、でも細部を聞きに行けばいくらでも細かいところが見えてくる。森の奥の中に分け入ると、小さな 草や苔が見えてくるみたいに」。「それでいて音楽はよく弾んで有機的です。幸福感のある音ですよ」。
オフコースの初期(デュオ時代)はフォークロックの湿り気を帯びている。けれど情感が伝わってくるのも事実。5人組バンドとなってからは洗練された音志向となった。転機はThree and Twoからだけど、それがWe areで跳躍した感じで、洗練と感傷が同居している。ただし小田さんの声には自己陶酔的な少年ぽさと同居する冷徹さが聴き手を突き放す印象もあって、ぼくはすべてを受け容れられない。抽象的な歌詞に西海岸風の伴奏を付けて雰囲気に酔うところがあるが、その一小節に聴き手は自分の体験に照らして同化させ、楽曲のなかに入り込む。そんな印象のアルバムである。
それでもこのアルバムにはぼくの想いが深沈と封印されている。それが楽曲の世界観を合致していたし、その音楽を再現しているような場面でこの音楽を聴いていた時間があるから。
「雪が降っているね」
「… 」
ままごとをした幼なじみが、校区が変わって会えなくなって、少女からおとなへとの飛躍を知らないまま、見知らぬ女性となって目の前にいる。それもまわりの空気を涼やかに響かせるような、しっとりとしたあでやかさを全身に秘めていながら、あくまで清楚にたたずまう。
その年は南国徳島でもまれに見る大雪が降った。暖かい室内で彼女は目を落とす。ぼくは窓の外を見て何も言えない。感受性の豊かな女性だから気付いている。そこに流れてきた音楽―「逢うたびきみは素敵になって、その度ぼくは取り残されて♪」。― 内面の美しさがそのまま完璧な女性の容姿をまとっていたから。
生涯に1人か2人出会う最良の女性だったのかもしれない、と思わずにはいられない。感情が泉のように湧いてくるいまは2024年秋。夜のしじまに音楽が空気に溶け込むように心に波紋を拡げていく。あのときと同じように、ぼくは受けとめるしかない。このアルバムは疑いようもなくオフコースの絶頂期の記録。
We are…のあとに省略されている言葉、言葉にならない言葉が表現されている。次作の「Over」とあわせると、We are overと深読みする人もいる。最高のときを迎えて(それゆえにあとは下るしかない、もしくは終わりがはじまった、解散に向けての過程のごとく)すれ違いの風が吹いていると解釈する人もいる。
ぼくはWe areのあとに省略されている言葉は、We are(what we are)ではないかと思っている。「私たちは…(私たちがあるがままの)」。―わかりますか?問いかけのようで答えにもなっている禅の公案のようなもの。あるがまますべてを受け容れていく諦念にも似た壮絶な美学が火花を散らしそう。緊迫感のなかで閉じ込められようとしている宇宙空間に咲く花とでも。
→ オフコース-We are追記ステレオサウンドから、オフコースの音源がSACDで販売されていて、2024年11月時点で特価(4,950円→ 2,970円)となっていることに気付いた。ステレオサウンドのSACDはていねいなつくりで定評がある。https://www.stereosound-store.jp/c/music/artist_kana/kana_o/off-course/4571177053183(これはハイブリッドSA-CDなので、通常のCDプレーヤーで再生できる)
Webコンテンツの解説を読むと、ぼくがこのアルバムが、ドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」で感じた音の処理との同質性の理由として、同じエンジニアが手がけたとある。やはりそうか。(解説文)
■SACD/CDハイブリッド盤の製作についてアナログレコードに続いて発売されるSACD/CDハイブリッド盤の製作では、アナログレコード制作で使用したカッティング・マスターテープを元に、SACD層には、ハーフインチのマスターテープが持ち合わせる重厚なサウンドの質感を最大限に活かしつつ、dCS社のA/DコンバーターdCS905 ADCによってDSD2.8MHzへとダイレクトにA/D変換し、タスカムDA-3000にマスター音源を収録しました。悪いはずがないじゃない、と注文。
一方のCD層では、同じくハーフインチのマスターテープの音声信号をdCS905 ADCでPCM96kHz/24bitにA/D変換し、アビッド・テクノロジー社のPro Toolsハードディスクへ収録した上でCDフォーマットのDDPファイルを制作しました。SACD層とCD層それぞれの器に合わせ、松下エンジニアが丹精込めたマスタリングを施し仕上げています。
そしていよいよ到着。手持ちのCDと聴き比べ。意外にもCDの音質が抜け感で優る。高域の繊細な感じなどCDの心地よさに軍配を上げる人は多いに違いない。それに比べてSACDは聖母マリアの微笑みとでも形容したい、究極のおだやかさ。波ひとつない静かな湖面に音符が波紋を拡げていく。
絵に例えると、2.8MHzの精細な点描画(SACD)か、44.1KHzで荒削りな筆運びながら雰囲気を伝えるCDの違い。そしてどちらもよいと思えるところ。アナログレコード(LP盤)には、カートリッジが拾う信号のクロストークやアームの共振、RIAAカーブ特性を利用したカートリッジの周波数特性設計の相乗作用がある。これらの音楽に影響を与える要素をうまく相乗効果として活用したり相殺したりする現場の技術(ノウハウ)があったはず。
針の接触は無限小の1点ではなく縦に伸びていることから時間軸の重なりとなって、それがエコー感や逆相成分による音場をつくる。また、左右のクロストークは左右成分が交わることで生まれる疑似的な中央の定位感につながったのではないか。アナログの緻密さに追いついたSACDはアナログレコードさえ到達できなかったセパレーション、時間軸の歪みのなさ、絶対的なまでの低域の安定感や高域の可聴帯域外までの特性を従えて、歪みレス、クロストークレス、微少音からのダイナミックレンジで究極のなめらかさを備えたのだろう。
ただし、点描画がいつもいつも荒いタッチの絵に優るとは限らない。つるつるの麺(SACD)よりも適度にざらざらした麺(CD)が歯ごたえがあっておいしいと感じることがあるように。ソニー/フィリップスがコンパクトディスクの規格(収録時間、標本化など)を決める際に、ベートーヴェンの第九が1枚に入るために74分と設定した。そこから、44.1KHzの標本化周波数の決定や可聴帯域をわずかに越える高域限界などが設定されたCDというメディアが、偶然か必然かは別にして奇跡的に音楽のきめ細かさと迫力の両面をもたらす合理性を持つ規格になった。それゆえ40年続くメディアになったのだと。
SACDはほんとうに木綿のような有機的な肌触りで浸れるがCDの抜け感の良さは同等の魅力を持っている。We areのSACDとCDの聞き比べはそんなことに思いを馳せてしまう。(マニアックな話題ですみません)
追記
深夜の音楽は心に沁みる。この言葉だけで十分だ。いま聴いている装置を撮影してみよう。
音の出口はクリプトンKX-1。ビクターのSXシリーズの設計者によるもの。ドイツのクルトミュラーコーンに、ソフトドームツイーターを組み合わせたのがビクターオリジナルだが、21世紀では最新のリングドームツイーターを組み合わせたもの。箱は密閉なので低域の位相が乱れず音の濁りがない。それゆえ中域高域も明瞭なスピーカー。

ドイツの針葉樹の森から生まれた伝統のコーンはいまどき珍しい紙の素材。ウーファー素材の主流は、ポリプロピレン、カーボン系、ハイブリッド系に加えて金属素材なども見かけるようになった反面、紙はほとんど見かけなくなった。でも密閉型には紙のウーファーの素材の自然な響きが落ち着く。バビロンの時代からヒトが生理的に受け付けてきた木材や紙の醸し出す適度に豊潤で軽く抜けてくるところが生理的な心地よさにつながっている。

それを受けるリングダイヤフラムは高域の限界を伸ばすというよりは、可聴帯域内の輪郭をつくりつつ、密閉のウーファと中域を円滑につなげて声や弦を自然に再生させるねらいがあると思う。

プリメインは四半世紀使っているオンキヨーのD級アンプ。


この装置はどんな音がしますか?と尋ねられたら、「何時間でも浸れる音ですよ、でも細部を聞きに行けばいくらでも細かいところが見えてくる。森の奥の中に分け入ると、小さな 草や苔が見えてくるみたいに」。「それでいて音楽はよく弾んで有機的です。幸福感のある音ですよ」。
posted by 平井 吉信 at 21:59| Comment(0)
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2024年11月16日
A LONG VACATION 20th盤―30th盤―SACD盤を聴き比べる
A LONG VACATIONは1981年3月に発売された大滝詠一のベストセラーアルバム。ぼくは初出(初回プレス)のアナログレコードを持っている。その後、CDの版違いが出る度に買いそろえて、40thは限定VOX(アナログやカセット、番外編とグッズを詰めた限定箱)で持っている。
今回は、20th、30th、SACDで聴き比べを行うこととした。SACD盤が発売されているのは知っていたが再生装置がなかった。このSACDはシングルレイヤー(SACD単独層)のみで、SACD再生機能がない通常のCDプレーヤーでは再生できない。ところが2024年にマランツのSACD再生ができる機種(SACD 30n)を購入してからは、毎日の深夜の音楽鑑賞(0時を超えてからの極小音量での再生)が日課となっている(ときどきはニッカのウイスキーも手元に置いておく)。
再生装置は、プリメインアンプがオンキヨーA-1VL、スピーカーがクリプトンKX-1で小音量再生、かつ省エネ再生に向いた構成。スピーカーと背面は1メートル以上空けていて音場が後方にも展開する(配線や端子の清掃などにも利点あり。それゆえオーディオ装置周辺にはホコリはない状態)。この装置では頭の位置が数センチ動くだけで音場と音像が変化する。

頭の位置の固定は簡単だ。ヘリノックスのチェアワンという抜群に座り心地がよく、座ったときの耳の位置がツイーターのやや下で絶妙の高さになる。スピーカーにとってこのイスはソファのような吸音(阻害)要因にはならない。しかも座ると自ずと姿勢は固定される。アウトドア用のこのイスが生活空間でこそ快適なのはそこにある。身体を預けると軽量コンパクトな柔構造がしっとりと受け止める(うちにはソファがない、というか置かないようにしている。ソファは場所を取って清掃に手間がかかるうえに身体を保持する機能がない。ソファってヒトの活動性、創造性や動きの機能性を殺してしまうような気がする)。チェアワンには、柔軟性を保持しつつ束縛感のない安定感がある。お尻の位置はいつも同じで頭の位置もほとんど動かない。スピーカーとの距離は0.8メートル程度。このイスがなければ深夜の音楽再生は機能していない。純正オプションのゴムの球を脚に被せることでさらに安定感が増している。
アンプもCDプレーヤーも一晩通電している。再生前に部屋の清掃を行う。清掃後には音質が変わる(オカルトではないよ。やってみたらわかる)。CDは、再生前に静電気除去処理を行う。
比較する音源は1曲目の「君は天然色」。本番前の音合わせの間合いと合図があって始まる。これが空間の響きや静寂性の判断に使えるから。20th盤はバランスの取れた粒立ちの良い音、30th盤は声を中心に温もりのある音、SACD盤は浸れる音。20th盤は万能でヘッドフォンで再生するにも心地よさがあると思う。30th盤は声の厚みがあり、かつてのオーディオ装置でゆったり聴くのに適している。例えていうなら、20th盤はガラスの器で水が快活に揺れてきらめく音、30th盤は素焼きの陶器でやや粘りを持った水が躍動する音、SACD盤は器がなく水の塊が空間に躍動し水滴が飛散する感じ。
ところでこの楽曲についても感じたことを記しておきたい。「君は天然色」を初めて耳にしたときから、初めてでないような気がした。大滝さんのことだから、元曲(→The Pixies Three - cold cold winter)があるのだけれど、初めてに思えないのはそのせいというよりは、覚えやすいから。名曲だよね。でも、覚えやすいということは飽きやすさにもつながる要素がある。それがなぜなのか、自分でもわからなかったけど、数年前に腑に落ちたことがある。
それはサビの部分(想い出はモノクローム♪)が冒頭と同じ和声であること。サビの部分は「進んでほしい」と期待する聴き手の無意識な心理があるはず。ところがここで冒頭のコードに戻るので、なじみやすいけれど、どこか冒険をしないというか、安全運転に徹しているというか。
ところが、数年前に入手した30th盤に収録されていた「君は天然色」のオリジナルトラックを耳にして、あっと気付いた。大滝さんもサビで音を上げている(D→Eへの全音上げ)。これだとイントロ(E)と合うし、サビの独立感、浮遊感も出てくる。ではなぜDに下げたのか。高すぎて声に余裕がなかったと述懐されていたと思う。
すでにオリジナルトラックの録音は完了している。この楽曲にはピアノ数台をはじめ、多くの楽器が使われているので再録となるとメンバーを集めなければならないが、それは費用面でも日程面でも困難だったのだろう。大滝さんはハーモナイザーというピッチコントロールで、サビの部分を全音下げた(E→D)とのこと。
そこで導入とサビが同じ和音(Dのトニック)になった。この話はこれで終わらない。最後のコーラスのサビ前で、ハーモナイザーを早めに下げてしまった。「いまも忘れない♪」でA7からDに受け渡してそのままサビのはずが、「空を染めてくれ♪」でA7からCへと全音落として受け渡してしまった。ぼくの耳にはこれによって、大団円の終結感が出たことで、再度繰り返す最後のサビ(D)浮かび上がる効果となっていると思う。「君は天然色」だけをとっても奧が深いのだ。
再生音の話題に戻す。A LONG VACATIONのCDとSACDでは比べられない差がある、というのが結論。SACD(DSD1bit/2.8MHz)は声がピンポイントで定位する安定感と、効果音や伴奏の広がり(高さ、広さ、奥行きとも広く、眼前がぱあっとひらける)。アナログの広がり(音場感)とデジタルの音像感を合わせ持つので、デジタル信号でありながらCD(リニアPCM16bit/44.1KHz)とは似て非なる、しかもアナログではなしえない安定感は特に声(恋するカレン)の再生で感じた。チェアワンに座ると空間がヘッドフォンになった感じ。
ぼくは普段からBGMをかけない(特に仕事では)。講演やセミナー、重要なプレゼンテーションの前など集中したいときには音楽ではないせせらぎや野鳥の声、雨の音などの自然音を聴きながら呼吸を深く吐いて集中する。いつもいつも音楽が鳴っている状態は集中できないばかりか気が休まらない。それゆえ、音楽を聴くときは向かい合いたい。オーディオマニアとの違いがあるとしたら、ぼくは音楽のなかに溶け込んでいく感じ。音楽のほうも、この聴き手は何を聴いていると飛び込んでくる。するとだんだん音楽との同期が深まる(エヴァ的な)。それが音楽を聴く愉しみというか体験ではないかと思う。
SACD盤のA LONG VACATIONは、声はなめらか、楽器は艶やかで途中から比較試聴していることを忘れてしまった。大きく異なるのは声と伴奏の分離感、立体感。器の限界がなくなって音楽がのびのびと鳴っている。この音楽に哀しい思い出などないのに胸が熱くなる。亡き人、良き時間などが記憶の奥底で一瞬燦めくが、それが何かを確かめられず量子のように消えていく。CD初出時にこのフォーマットがあったら…と思わずにはいられない。
2024年夏には「EACH TIME」もSACDがリリースされたらしい。こちらはA LONG VACATIONよりもセブンスコードをより多用しているように思われ、DSD方式での音の広がり感がさらに効果的に響くのではないかと予想している。
A LONG VACATIONはいつまでもと結びたいが、かたちあるものはいつかは。それゆえなつかしく、愛おしく、切なく。

→ A LONG VACATION 20th Anniversary Edition
→ A LONG VACATION 30th Anniversary Edition
→ A LONG VACATION 40th Anniversary Edition (SACDシングルレイヤー)
注)A LONG VACATIONのSACD盤は、シングルレイヤーなのでSACD再生対応の装置がないと再生できない。ハイブリッドSACDなら、CD層とSACD層のマルチ層になっていてCDプレーヤーでは前者の信号を読みとり、SACDプレーヤーでは後者の信号を自動判別して読み込むのですべての再生装置でかかるが、本製品はそうでないのでご注意を。
タグ:大滝詠一
posted by 平井 吉信 at 12:00| Comment(0)
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2024年11月02日
80年代とAOR いつの時代でもそれを必要としていた
ラジオのパーソナリティで出演している六角精児さんがAOR特集を取り上げた。六角さんは、フォークロックやブルース、カントリーが好きな人だから、AORとは水と油のような存在である(六角さんの気取らない「ディーゼル」は好きだな)。
AOR(Adult-Oriented Rock)は、1980年代に日本のレコード会社が洋楽を売り込むために仕掛けたキーワード。メッセージ性よりは洗練された音づくりで心地よさを訴求。当時でいえば、ボズ・スキャッグス、ビル・ラバウンティ、 ポール・デイビス、ラリー・リー、クリストファー・クロス、クリス・レアなどがたちどころに思い浮かぶ。オーストラリアのエア・サプライもそうかな?
AORは和製英語で、演奏している当人は異国でそんなカテゴライズされているとは思わなかっただろう。あくまでレコードを売る商業的な括り方である。
六角さんが当時のレコードの帯のコピーにある歯の浮きそうなフレーズをいかにも茶目っ気たっぷりに読み上げる(自ら愉しみながらも視聴者を楽しませようという六角さんの演出だと思う)。若い頃、演劇の下積みに明け暮れていたとき「クリスタルな」雰囲気をまとった同年代の若者が聴いている音楽(生き方)には嫌悪感があったのだろう(余談だが「なんとなくクリスタル」の原作者の田中康夫さんが徳島に来られたとき、何度か会話をしたことがある)。
ところがAORの有名曲がかかると続々と視聴者からなつかしい、こんな思い出がある、家事がはかどるなどのコメントが続々と寄せられた。これには六角さんも苦笑い。
ぼくは、70年代が終わって和みの10年となった80年代がそうさせるのだと思う(ベルリンの壁が崩壊したのは1989年である)。描きたい世界を描き、それを若者たちが共感して聴いている。レコードとCDの両方のメディアが発売された時代(カセットテープもあった)で、音楽業界もお金や時間をかけることができた。
そんな時代背景からA LONG VACATIONのような音楽が生まれたのだと思う。日本では、山下達郎、寺尾聡、角松敏生、杉山清貴(ソロ)とオメガトライブ、小田和正(後期オフコースも)などもそのカテゴリー(21世紀にはシティポップと呼ばれるようになった)。
六角さんのコメントもほどけてきた。同じ音楽をやるもの同士だし、佳い楽曲もたくさんあったから。例えば、J.D.サウザーの「You're Only Lonely」。この曲が流れてくると、ああ、これだなって蘇る。こんな感情だよね、10代の頃の恋愛って。
JDはイーグルスやリンダ・ロンシュタットにも楽曲をたくさん提供している。ジャクソン・ブラウンなどとともにこの時代の西海岸の交友関係を音楽に映し出している。JDの音源って持っていなかったなと思ったのでCDを注文した(千円未満で買える)。
→ J.D.サウザー「ユア・オンリ−・ロンリー」
笑い話だが、当時の国内版のジャケットは、(むさくるしそうな)本人の肖像が大写しのオリジナルデザインから、日本独自仕様に差し替えられることが多かった。クールな風景写真やリゾート風のイラストに、帯にはコピーライターが意味不明な?台詞を並べていた。それはそれで当時の世相だったのだろう。
80年代は音楽産業に勢いがあり、日本でも「LA録音」などと称して西海岸で録音したアルバムが多く発売されていた。おそらく彼の地ではレコーディング技術については一日の長があったのではないか。六角さんも指摘していたが、音の良いレコードとしてドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」を取り上げていた。トラックダウンやマスタリングのノウハウがあるのだろう(オフコースが西海岸で録音した「We Are」などもそうだ)。
感覚的に解説するなら、好きなレコードのシングル盤などを買って針を落としたとき、整然と調えられた箱庭のように感じることが多かった。それに引き換えライブは荒削りでも勢いがある。演奏者の歌い方も違うし。でもライブといっても崩して歌う(特にアリスなど)のはぼくは好きじゃない。レコードと比較してグレードの違いを感じるから。単に演奏者や歌い手の力量不足ではないかという気がする(薬師丸ひろ子さんもコンサートでは決して歌い崩さないという)。
良いスタジオ録音とは、この箱庭感を取り除いて広がりや空気感、躍動を感じる。一方で演奏者によってはライブが良い場合も当然ある。録音でこねくり回していないことと、本人の技術の高さ、繰り返し聞かれるスタジオ録音と違って一発勝負での生命感が記録されて、臨場感あふれる名盤も多い。
ドナルド・フェイゲンは、グループとしてのスティーリー・ダンでもそうだが、音の粒立ちがよく、存在感があるとともに、そこから色気が感じられる。音像のまわりの空気が動く感じとでもいうか。
→ ドナルド・フェイゲンーナイト・フライ
久しぶりに手持ちでかけてみたのは、バーティ・ヒギンズ。日本では郷ひろみが歌った「哀愁のカサブランカ」の原曲があるが、それよりもアルバムの1曲目、タイトル曲の「Just Another Day In Paradise」からから4曲目のKey Largoまでの南国の避暑地の気分が横溢する進行が好きだ。それ以外の楽曲は惹かれないのだが、この4曲を聴くだけで満たされる。特にKey Largoは何度でもなごり惜しく再生してしまう。目の前に朗々と開けた大西洋の潮騒と男女のため息が聴こえるようだ。
→ バーティ・ヒギンズーJust Another Day In Paradise
AIR SUPPLYのレコードの帯には(六角さんも冷やかした)ペパーミント・サウンドなどとうたわれているが、ツイン・ボーカルはひたむきでもっとベタに楽曲の世界を歌い上げている。感じるのは、格好良さよりもひたむきさ。純粋なまでの想いがリズムに旋律に詰め込まれているが、あくまでもさわやかに流れていく。
→ AIR SUPPLYーLost In Love
国内では、山下達郎もデビュー数作の伸びやかな声と熱い演奏はもちろん良いが、よく聴くのは「Ride On Time」のようなヒット曲を携えながらも内省的な世界観で描いたスルメのように味わいが飽きることがない。
寺尾聡の「リフレクションズ」に至っては、どのクルマのカーステレオからも流れていたよね、当時は。90年代ぐらいからはミュージックビデオの全盛期となって、ミュージックビデオでプロモーションを行っていた。
AORの楽曲と向き合っているうち、六角さんも、これもいいなという相づちに変わってきた。いまの六角さんは、人気も根強いファンも名声も得て、人生を振り返る時期にさしかかっている。60年代、70年代、80年代、90年代、そして2000年以降もそれぞれの時代のなかで音楽は音楽で、それは時代が背景にあって(ときどきはいまの演奏家がかつての時代のオマージュを混ぜながら)そこで生きている人たちが聴いて欲しい、必要としている、ということだから。
80年代は音楽家にとって過ごしやすい季節であったに違いない。音楽にもその空気感が漂っていた。日本もそうだったように。
AOR(Adult-Oriented Rock)は、1980年代に日本のレコード会社が洋楽を売り込むために仕掛けたキーワード。メッセージ性よりは洗練された音づくりで心地よさを訴求。当時でいえば、ボズ・スキャッグス、ビル・ラバウンティ、 ポール・デイビス、ラリー・リー、クリストファー・クロス、クリス・レアなどがたちどころに思い浮かぶ。オーストラリアのエア・サプライもそうかな?
AORは和製英語で、演奏している当人は異国でそんなカテゴライズされているとは思わなかっただろう。あくまでレコードを売る商業的な括り方である。
六角さんが当時のレコードの帯のコピーにある歯の浮きそうなフレーズをいかにも茶目っ気たっぷりに読み上げる(自ら愉しみながらも視聴者を楽しませようという六角さんの演出だと思う)。若い頃、演劇の下積みに明け暮れていたとき「クリスタルな」雰囲気をまとった同年代の若者が聴いている音楽(生き方)には嫌悪感があったのだろう(余談だが「なんとなくクリスタル」の原作者の田中康夫さんが徳島に来られたとき、何度か会話をしたことがある)。
ところがAORの有名曲がかかると続々と視聴者からなつかしい、こんな思い出がある、家事がはかどるなどのコメントが続々と寄せられた。これには六角さんも苦笑い。
ぼくは、70年代が終わって和みの10年となった80年代がそうさせるのだと思う(ベルリンの壁が崩壊したのは1989年である)。描きたい世界を描き、それを若者たちが共感して聴いている。レコードとCDの両方のメディアが発売された時代(カセットテープもあった)で、音楽業界もお金や時間をかけることができた。
そんな時代背景からA LONG VACATIONのような音楽が生まれたのだと思う。日本では、山下達郎、寺尾聡、角松敏生、杉山清貴(ソロ)とオメガトライブ、小田和正(後期オフコースも)などもそのカテゴリー(21世紀にはシティポップと呼ばれるようになった)。
六角さんのコメントもほどけてきた。同じ音楽をやるもの同士だし、佳い楽曲もたくさんあったから。例えば、J.D.サウザーの「You're Only Lonely」。この曲が流れてくると、ああ、これだなって蘇る。こんな感情だよね、10代の頃の恋愛って。
JDはイーグルスやリンダ・ロンシュタットにも楽曲をたくさん提供している。ジャクソン・ブラウンなどとともにこの時代の西海岸の交友関係を音楽に映し出している。JDの音源って持っていなかったなと思ったのでCDを注文した(千円未満で買える)。
→ J.D.サウザー「ユア・オンリ−・ロンリー」
笑い話だが、当時の国内版のジャケットは、(むさくるしそうな)本人の肖像が大写しのオリジナルデザインから、日本独自仕様に差し替えられることが多かった。クールな風景写真やリゾート風のイラストに、帯にはコピーライターが意味不明な?台詞を並べていた。それはそれで当時の世相だったのだろう。
80年代は音楽産業に勢いがあり、日本でも「LA録音」などと称して西海岸で録音したアルバムが多く発売されていた。おそらく彼の地ではレコーディング技術については一日の長があったのではないか。六角さんも指摘していたが、音の良いレコードとしてドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」を取り上げていた。トラックダウンやマスタリングのノウハウがあるのだろう(オフコースが西海岸で録音した「We Are」などもそうだ)。
感覚的に解説するなら、好きなレコードのシングル盤などを買って針を落としたとき、整然と調えられた箱庭のように感じることが多かった。それに引き換えライブは荒削りでも勢いがある。演奏者の歌い方も違うし。でもライブといっても崩して歌う(特にアリスなど)のはぼくは好きじゃない。レコードと比較してグレードの違いを感じるから。単に演奏者や歌い手の力量不足ではないかという気がする(薬師丸ひろ子さんもコンサートでは決して歌い崩さないという)。
良いスタジオ録音とは、この箱庭感を取り除いて広がりや空気感、躍動を感じる。一方で演奏者によってはライブが良い場合も当然ある。録音でこねくり回していないことと、本人の技術の高さ、繰り返し聞かれるスタジオ録音と違って一発勝負での生命感が記録されて、臨場感あふれる名盤も多い。
ドナルド・フェイゲンは、グループとしてのスティーリー・ダンでもそうだが、音の粒立ちがよく、存在感があるとともに、そこから色気が感じられる。音像のまわりの空気が動く感じとでもいうか。
→ ドナルド・フェイゲンーナイト・フライ
久しぶりに手持ちでかけてみたのは、バーティ・ヒギンズ。日本では郷ひろみが歌った「哀愁のカサブランカ」の原曲があるが、それよりもアルバムの1曲目、タイトル曲の「Just Another Day In Paradise」からから4曲目のKey Largoまでの南国の避暑地の気分が横溢する進行が好きだ。それ以外の楽曲は惹かれないのだが、この4曲を聴くだけで満たされる。特にKey Largoは何度でもなごり惜しく再生してしまう。目の前に朗々と開けた大西洋の潮騒と男女のため息が聴こえるようだ。
→ バーティ・ヒギンズーJust Another Day In Paradise
AIR SUPPLYのレコードの帯には(六角さんも冷やかした)ペパーミント・サウンドなどとうたわれているが、ツイン・ボーカルはひたむきでもっとベタに楽曲の世界を歌い上げている。感じるのは、格好良さよりもひたむきさ。純粋なまでの想いがリズムに旋律に詰め込まれているが、あくまでもさわやかに流れていく。
→ AIR SUPPLYーLost In Love
国内では、山下達郎もデビュー数作の伸びやかな声と熱い演奏はもちろん良いが、よく聴くのは「Ride On Time」のようなヒット曲を携えながらも内省的な世界観で描いたスルメのように味わいが飽きることがない。
寺尾聡の「リフレクションズ」に至っては、どのクルマのカーステレオからも流れていたよね、当時は。90年代ぐらいからはミュージックビデオの全盛期となって、ミュージックビデオでプロモーションを行っていた。
AORの楽曲と向き合っているうち、六角さんも、これもいいなという相づちに変わってきた。いまの六角さんは、人気も根強いファンも名声も得て、人生を振り返る時期にさしかかっている。60年代、70年代、80年代、90年代、そして2000年以降もそれぞれの時代のなかで音楽は音楽で、それは時代が背景にあって(ときどきはいまの演奏家がかつての時代のオマージュを混ぜながら)そこで生きている人たちが聴いて欲しい、必要としている、ということだから。
80年代は音楽家にとって過ごしやすい季節であったに違いない。音楽にもその空気感が漂っていた。日本もそうだったように。
posted by 平井 吉信 at 19:17| Comment(0)
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2024年09月21日
18世紀の芸術家は21世紀に自由な精神を投影する ワルターの田園(SACDハイブリッド)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏によるベートーヴェン「田園」は、説明する必要のない名盤である。田園を愛してやまなかった指揮者が晩年にステレオ録音と技術の進歩に遭遇して、後世に残したいという強い思いと、コロンビア交響楽団という録音のために集められた楽団員によるオーケストラがひたむきに演奏し、それを当時の音楽レーベル、技術者が細心の注意を払って録音したもの。ときは1958年、ところはアメリカの西海岸。
ワルターの田園はウィーンフィルとの録音が戦前の1936年に遡る。このウィーン盤は戦前のSP録音とは思えない鮮鋭かつやわらかな音質でノイズも感じない。当時のウィーンフィルがワルター指揮の下、弦楽のポルタメントなど古き良き伝統をたたえた演奏、縦の線を合わせるというよりも弾きながら呼吸を合わせる感覚のよう。木管の高貴な響きは、名手ウラッハか?。
しかしヒトラーの影が忍び寄るなか、ユダヤ系のワルターはヨーロッパを追われるようにアメリカ西海岸に移住。1936年のウィーンフィルとの田園は、ヨーロッパへの惜別の思いで指揮したのだろう。
アメリカに渡ってから約20年、1958年当時、現役を引退していたワルターにステレオ録音をとレコード会社からの熱意にワルターが応えたもの。
1958年のコロンビア盤について、LPとCDですでに持っていたのだが、SACDハイブリッド盤(SACDプレーヤーでもCDプレーヤーでも再生できる)が発売されていたので、SACDが再生できるマランツSACD 30nを入手できたことで購入したもの。
田園は子どもの頃から好きな曲。出会いは音楽の授業のレコード鑑賞。作曲家たちの肖像画が並ぶ音楽室で、先生がステレオにレコード盤をセットしてかけてくれた。何の先入観もなく、ああ、と思って気に入った。それからはFMでカセットに録音して聴いていた中学生だった。
10代後半からベートーヴェンに私淑して、レコードを買い集め、総譜を見ながら研究したり、ひたすら音楽に没入、セイヤーの大作「ベートーヴェンの生涯」(上下)も数か月をかけて読破した。今日までベートーヴェン作品のLPとCDだけで部屋の一部を埋めるぐらい。ベートーヴェンへの愛は止まらない。
コロンビア響とのSACDの田園が届いたとき、深夜になるのが待ちきれなくて(仕事の関係で夜12時ぐらいを回らないと音楽を聴く時間にならない)。そしていつもの極小音量で再生して恍惚感を覚えた。
そして休日、昼間からそれなりの音量でかけてみた(といっても普通の人の音量設定からはうんと小さい。昭和の時代は、各家のステレオから部屋の外まで山口百恵やアバが聞こえてきたものだったが)。
ワルターの田園では手持ちのCDが時代を感じさせない鮮度と音塊感があるのに対し、SACDは浮遊感と時代を超越した臨場感。低弦が右から床を這いながら左手のヴァイオリンに旋律を受け渡しながら音場が高く満ちていき、木管がぽっと浮かび上がる。どんなに小音量でも目の前にオーケストラがいるような立体感。個々の音が鮮明に聞こえるというよりは、音楽がブレンドして歪み感皆無で空間に漂いながら細部を聞き取れる。これがDSD方式の利点か。
アンプのオンキヨーA-1VLは20年以上使っているデジタルアンプの先駆けで正確かつ心地よい音を聴かせてくれる。田園のSACDでは、短いスタッカートとレガートが鮮明に区分されるのでリズムの刻みから縦の立体感、ブレンド感、横のフレージングのねらいが見えて指揮者の音楽の組み立てがより伝わってくる。
田園の第1楽章で、ワルターはルフトパウゼ(楽譜に乗っていない一瞬の間合い、休符)を取る。何が起こったのかと待ち受ける心に、わずかにテンポを落として音楽が立ちこめる(数十人のオーケストラの奏者がこの間合いを合わせるためにどれだけ練習をしたことか)。
それは、田園に来てよかった…というほっとついたため息と、そこからゆっくり歩き出すよう。ぼくには、ベートーヴェンがフロックコートを着て手を後ろに組んで変人と思われても気にしない体で愉悦に歩いている光景が目に浮かぶ。ワルターの再現芸術とベートーヴェンの持つ創造性が一体となった瞬間。
さて、1936年のウィーン盤は、生まれたときからベートーヴェンやモーツァルトを呼吸していたような演奏家たちが弾いていた。それに対して1958年盤は、古典の伝統を持たないアメリカの演奏家たちが、ワルターの手足となって心を合わせて演奏する。もしかしたら普段はハリウッド映画のサントラを演奏している演奏者かもしれず、契約の関係で名前は出せないが他のオーケストラから駆り出されたプレイヤーであったかもしれず。いずれにしてもワルターの録音のための臨時編成である。
夢中になって第1楽章(SACDの恩恵をもっとも受けているような)を聞き終えると、他のどんな指揮者よりも愉悦感のある第2楽章が始まる。ふと眺めた窓の外はブルーモーメントの空だったので手元の灯りをともす。この楽章もワルターの自在なテンポとカンタービレが寂しさのない独り歩きの愉悦のよう。同時代の作曲家たちがロココを演奏していたとき、作曲家の魂は自在にはばたき、心のままに綴った音符が18世紀の約束(ソナタ形式)のなかで精神、そして一部の形式さえも逸脱した自由(後の時代のドビュッシーやブルックナーのような)。楽章の終わりのほうでは、木管楽器がカッコウや夜鶯を模倣した音型を奏でる。ロマン・ロランだったか、耳の聞こえないベートーヴェンが自分の音楽のなかで小鳥の声を創造しているのだという。田園が好きという人の多くはぼくも含めてこの第二楽章「小川のほとりの情景」を21世紀に投影する心象風景。これ1枚あれば生きていける。
ベートーヴェンは18世紀から21世紀へ橋を架ける。ワルターは、ヨーロッパからアメリカへ、戦前から戦後へ橋を架ける。技術者は、SPからLP、さらにCD、ついにSACDへと橋を架ける。時空を越えた田園の成果。
えっ? まだワルターの「田園」を聴いたことがないのですか? これから聴く愉しみが残されていますよ、と聞き古された表現を置いてみたけど。お好きにどうぞ。
ワルター/コロンビア交響楽団 ベートーヴェン交響曲第6番ヘ長調「田園」作品68
(SACDハイブリッド=普通のCDプレーヤーで再生可能。プレスの精度が上がっているため普通のCDプレーヤーでも音質向上が期待できる。1999年発売のSACDシングルレイヤーのSACD盤は通常CDプレーヤーでは再生できないので間違わないよう。音質も2019年リマスターが良い。上記のリンク先から入るのが確実。本記事投稿後は発売後の最安値となっている)
★日本独自企画 ★日本国内のみの発売 ★SA-CDハイブリッド(SA-CD層は2ch) ★2019/20年DSDリマスター ジュエルケース仕様
《収録内容》
ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68 「田園」
[録音]1958年1月13日(第1楽章)、15日(第2・3楽章)&17日(第4・5楽章)
ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲 第2番 作品72
[録音]1960年7月1日
コロンビア交響楽団
指揮 ブルーノ・ワルター
ステレオ/SA-CDハイブリッド(SA-CD層は2ch)
[録音会場]ハリウッド、アメリカン・リージョン・ホール(在郷軍人会ホール)
[オリジナル・レコーディング]ジョン・マックルーア(プロデューサー)、ウィリアム・ブリッタン(エンジニア)
[オリジナル・アナログマスターテープからのトランスファー、DSDリマスタリング(2019年)]アンドレアス・K・マイヤー、ジェニファー・ナルセン(マイヤー・メディアLLC/ニューヨーク、スワン・スタジオ)
posted by 平井 吉信 at 23:54| Comment(0)
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2024年08月15日
フランスの高原の素朴な歌曲集 オーヴェルニュの歌は盛夏に冷涼な音楽の打ち水
それではと、舞台を(前投稿の)三好市からフランス中南部の高原地域へと。そこで羊飼いに歌い継がれてきた民謡を採取して、管弦楽の伴奏を付加して作編曲されたカントルーブのオーヴェルニュの歌を聴いてみよう。
民謡である原曲の素朴さが耳にやさしい。牧童の初々しさ、朴訥さ、あけすけな生活の歌が源流にあって、管弦の色彩が声を包み込む。漂う声と旋律の美しさは雲が流れる高原にかかる虹のよう。角笛が丘をこだまするようなオーケトレーションの洗練を加えた歌曲集は、音楽の打ち水に打たれた感じ。初めて聴く人はその洗礼を浴びる覚悟がいる。
古くは1960年代のウクライーナ出身のソプラノ、ダウラツによって初演されたが、彼女は半年にも及ぶオーヴェルニュ地方の方言(オック語)の抑揚を習得したうえで録音に臨んだといわれる。
ネタニア・ダヴラツ(歌),ピエール・ド・ラ・ローシュ指揮(管弦楽団名不詳)、1963年
全曲でもっとも美しい楽曲は「バイレロ」。谷を隔てて聞こえてくる歌は、羊飼いの男女のやりとり。わたしは谷を渡れないから、あなたがこっちへおいでなさいな、と誘っている。清涼な音楽に、睦み合う前の空気感が秘められているなんて。
次の「3つのブーレ」で、ダウラツは羊飼いになって、泉の水ではなく気持ちが良くなるワインを飲みなよ、とか、羊を花畑に放してその間に…とか、素朴だけど濃厚な歌詞を、ときにあけすけに、ときに腰に手を当てて誇らしげに歌う娘さんの趣。無名のオーケストラだが情感たっぷりに寄り添う。彼女のフランス語方言もはまっているように聞こえる(他の歌手と発音が異なる)。郷土色豊かな盤というでは最右翼だ。1960年代の録音だけど、良質のオーディオ装置やタイムドメインのような敏感な再生装置でも音楽に浸れる。日本盤は盤質もよく、しかも歌詞対訳付。これがあることで楽曲の魅力の再現度が違う。
その国内盤も2種類がある。2004年に日本コロンビアから発売された品番COCQ-83799と、2017年にキングインターナショナルから発売された品番GCAC-1012/3がある。ともに2枚組。ぼくが持っているのは前者コロンビア盤だが、後者キング盤はXRCD24bit仕様で音が良いとされる。確かめてみたい気がするが、2004年版の音質もまったく不満はない。やがて後者も入手困難になりそうな気がする。
ダウラツ盤は誰もがこの音楽に描く印象そのものだが、新しい録音というなら、ジャンス盤を紹介。この歌曲集はオペラではないし、そのように歌うと貴族のサロン調となって曲が死んでしまう。ダウラツは牧童の娘らしくてよかったが、ほかの歌手ではところどころオペラティックな歌い方が鼻についてしまう。そんななかで、同じくオペラ風でない歌い方が佳い。おそらくこの曲の最新録音(2004年)。
ヴェロニク・ジャンス(歌)、ジャン=クロード・カサドシュ指揮リール国立管弦楽団、2004年
しかもジャンスは、オーヴェルニュの出身で歌唱は癖がなく、オーケストラもご当地。さらに24bitの録音で透明感がある。ジャンス盤のテンポはやや早めでストレートな表現。オーヴェルニュの歌(全27曲)からの抜粋で主要な曲は網羅されていて抜粋盤で十分。問題は新しいのに入手が難しそうなこと。ぼくは新品で1600円程度で購入できたが、いまは中古で数千円とか。根気よく探さないと中古で高いものを買ってしまうのでご注意。
それに比べると名盤の誉れの高いダウラツ盤は全集だし、入手はまだ可能と思われる。1960年代の録音とはいえ、ダウラツ盤は色彩感では新しいジャンス盤を上回っている。YouTubeなどで音源が見つかるので試しに全曲聴いてみて、気に入ればご自宅の部屋にフランス中南部の高原地方の風を吹かせてみては。
上記2枚とも入手が難しければ、アップショウ、ケント・ナガノ指揮 リヨン国立歌劇場管弦楽団、1994年
アメリカ人のソプラノながら、素朴さを失わず、歌の色彩感があり、バイレロは、二人の牧童(男女)の掛け合いで、一方が谷の向こうから響いてくるような演出がされていて、音による映像を見ているよう。音楽に浸れる点では最右翼だが、ローカル色は薄まってフランスの牧童の雰囲気よりは劇場の歌手の趣。指揮者は繊細かつ細部に血を通わせた伴奏で、純音楽としての音の磨き上げでは最右翼だ。YouTubeでレコード会社公式音源で全曲が聴けるようだhttps://www.youtube.com/watch?v=cQMsSMXU-CM&list=PL1IXBSY4jc2s3ulYvnoPaPiRPFgKC23wf
手持ちの音源。ダウラツ盤のアナログは盤面、ジャケットとも極上の状態。CD2枚はやはりダウラツ盤を手に取るが、清涼感の高いジャンス盤もリッピングして車内でかけることが多い。
オーヴェルニュの歌は、音楽の風鈴。夏の朝、高原の風がそよぐ一日をどうぞ。

posted by 平井 吉信 at 01:33| Comment(0)
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2024年07月31日
薬師丸ひろ子「古今集」〜ひといろに描かれた無限の階調〜
薬師丸ひろ子さん(以下、敬称略)を語るとき、中学の同級生の女の子(以下、Kちゃん)を思い出す。育ちがよいお嬢さんでありながら、人を疑うことを知らず庶民的、それでいて凜としていて頭が良くて学年で1位(はばかりながら2位はぼくだった。でも仲が良いから順位などに一喜一憂しない。良い点とったらさすがと称賛の気持ちだけ)。音楽の時間に独唱をしたら、Kちゃんの声にうっとりと聴いてしまう(その表情を悟られたくない)。バリトン歌手のようなパパの声とアルトの声質の娘だったね。
薬師丸ひろ子の声は、Kちゃんの声や雰囲気に似ている。その声は不思議成分たっぷり。高域と低域で声の音色が変わる歌手はいるが、薬師丸ひろ子はほとんど変わらない。また、話し言葉とも変わらない。一見細い声に思えるが、声量と呼ぶべきか、声の幅というべきか、倍音を含んでいるのか浸透性が高い。これは岩崎宏美さんのようなビブラート成分でもないように思う。
今回は、1984年に発売されたファーストアルバム「古今集」について。このアルバムはミドルテンポの楽曲が多い。また、短調と長調で揺れる調性の楽曲が多い。先入観をもたずに聴いていると、ヨーロッパの印象を受けるな、大貫妙子さんが歌うといい曲があるななどと思ってCDの歌詞カードを見て驚いた。
作詞は、(敬称略で)竹内まりや、来生えつこ、湯川れい子、大貫妙子、阿木耀子、松本隆。作曲は、竹内まりや、南佳孝、大貫妙子、井上鑑、 大滝詠一、大野克夫。何という顔ぶれ。これだけ多彩な作家が描きながら、アルバムの色が一色(ひといろ)に染められている。そして低域から高域まで一つの声でモノローグのように歌う。 これがファーストアルバム?
さらに発売当時のオリジナルアルバムには収録していなかった4曲がCDに追加されている。それは 「探偵物語」「少しだけやさしく」「セーラー服と機関銃」(別バージョン)、「探偵物語」(strings version)。
当時はリアルタイムで聴いていた場所はN君宅のオーディオ装置から。コーラルのDX-7という大口径スコーカーの3ウェイスピーカーは声が浮かび上がる。このスピーカーはフルレンジのような中域を軸に無理なくレンジが広げられている。ある意味では国産3ウェイスピーカーの行き着いた完成と思っている。入力系は、イギリスのロクサンのベルトドライブのレコードプレーヤーにオーディオテクニカのMCを付けて、プリメインはヤマハのA2000aで増幅という万全の布陣で音楽が悪いはずがない。さらにそれをぼくがチューニングしてあるので(説明略)。
話は脱線するが、小学校の同級生のM君宅へ行けば、ヤマハNS-1000M、アンプA-2000、プレーヤーGT-2000(ピュアストレートアーム仕様)+デンオンDL-103。ここで彼が針を降ろすのは荒井由実の「ひこうき雲」から「ベルベット・イースター」。透明度の高い空間から声が降りてくるとしばし聴き入ったもの。弦やピアノはいまも無敵なのではと思える。位相管理が正確で、ベリリウムの中高域に紙ウーファが奇跡のブレンディング。透明感や彫りが深いのはいうまでもないが、ヨーロッパの著名な2ウェイより豊潤で酔わせる音楽を聴かせた(決してモニタースピーカとは思っていない。むしろ音楽を奏でる楽器ともいうべき)。以後、ヤマハからは第2のNS-1000Mは現れなかった。今日復刻したら当時の3倍〜5倍の価格設定になるかもしれない。ヤマハさん、考えてもらえない?
高校の同級のK君宅、ダイヤトーンDS-1000Zをラックスマンのプリメイン、ケンウッドのレコードプレーヤーKP-1100でかけるのはストーンズとビートルズ。国産のレコードプレーヤでもっとも音が良いのはテクニクスやヤマハでなくこのケンウッドではないかな。これが10万円未満で買えたのだから当時のオーディオ業界は幸せといえる。奴はにやにやしながらレコードを取り出して「まあ、聴け」と訪問客に選択の余地はない。それぞれが人に聞かせるフリして自分が聞きたいからかけている。
ぼくは、ダイヤトーンの16センチフルレンジP-610DB(アルニコユニット)を左右連結して機械的に直結する構造に畳1枚ほどの段ボールの平面バッフルをフロントに添えた自作スピーカー。ヤマハA2000aのプリとメインを分離して、プリアウトとメインインを直結する(つまりフラットアンプとボリュームをパスする=増幅率は下がるがボリュームは解放)。アンプのフォノイコでMCカートをMM入力で受けることで音量調節がきかなくても音楽を聴ける音量に収まる。スピーカーにはネットワークやバッフルがないので位相は乱れず音もこもらない(紙のバッフルの低域は空振りしている)ことと相まって、しかもA級増幅で歪率は21世紀のアンプが逆立ちしても勝てない特性を誇っていたので究極の純度の再生となる。それは音場と音像が一体化してソリッドに豊潤に広がるという相反する再生音。操作はレコードに針を落としてからプリメインカプラーを切り放す。友人を呼んできては「この斉藤由貴を聴いてみ、歯のどこに虫歯があるかまでわかるだろ」と得意顔(だったらしい)。
それだけ音楽を聴くのに真剣に努力していた時代だったんだね。話が長くなったけど、それで古今集は耳に残っているわけ。
そこで2024年になってCDを買ってみた。録音については、記憶が頼りなのだが、N君の家でロクサンのアナログディスクプレーヤーでかけていたあの色彩豊かで美しい残響の再生音は21世紀のCDからは少し聞かれなくなったと思う。ただし、このCDは、SHM-CD仕様で信号音を忠実に刻んでいる仕様である。
「元気を出して」が流れてくると、Kちゃんの声とN君の部屋で鳴っていたことを思い出す。佳い声だな、朴訥とした野生味と楚々とした上品さが同居している。録音は10代最後の年ではないかと思うのだが、「ジャンヌダルクになれそう」を聞くと、これは確かに10代の薬師丸ひろ子なんだろうけど、この愉悦感はらしくない。そこがまた佳い(でも、ぼくは当時も今も角川映画で薬師丸ひろ子を見たことがない)。
このアルバムにも収録されている1983年の「探偵物語」では、古今集収録より若い時点なのにおとなびて聞えるのはこの楽曲の世界観を彼女なりにつくりあげたから。そして彼女が短調の楽曲に染められない人ということもわかる。短調の楽曲には、その音階が人を不自然な気分に落ち込ませる要素があるが、彼女が歌う短調にはそれがない。短調らしさを脱却できるのは、女優の表現力と天性の資質なのだと思う。探偵物語で2枚目のシングルにしてすでに世界観を確立。短調の楽曲はこのように歌うのよ、という見本のよう。「A LONG VACATION」、太田裕美の「さらばシベリア鉄道」と同じく「松本隆&大滝詠一」です。それにしてもこれが2枚目のシングルとは…。誰がこんな歌い方ができる?
「カーメルの画廊にて」は素敵な歌詞。カーメルとは確かシスコの近郊にある芸術家コミュニティだね。ぼくがこのまちを知ったのはNHKラジオ「英語会話」の特番「サンフランシスコ with ヴァレリー」だったかな。番組の出演者のヴァレリーが、No neon signs ...などと説明していたのを思い出した。歌詞は湯川れい子さん。これもアドレサンスの背伸びのようで共感する。
「月のオペラ」は歌うのは難しいだろう。一つの楽曲の中で意外なコード進行、部分的な移調転調で推移しながら典型的な大貫妙子ワールドなのだが、それを自分色に染めている。
アルバムの最後に置かれた「アドサンス(十代後期)」は、未来へのときめきにあふれている。「十代の最後のひとときは明日を映す万華鏡 甘やかな期待ね 恋に恋してる」と綴るのは阿木燿子さん。そんな詩をヨーロッパ調の旋律で歌えるなんて歌手冥利に尽きるね。
アルバムを通して、これもできる、あれもできるというヴァラエティの実験がなく、参集した職人たちが彼女の声質を活かしながら世界観を統一している。最後の楽曲が終わると、CDプレーヤの再生ボタンをまた押してしまったよ、ということになる。
改めて思ったのは ダウンロード音源や配信では、歌詞カードとか挿入された写真がないので、このアルバムの世界観を表面的にしか捉えないことがあるかもしれない。
「元気を出して」と、このアルバムは穏やかな1ページで始めたい日々の祈りのよう。今の時代には「おだやかな経営」とおだやかな20世紀の楽曲が必要なのである。
→ 薬師丸ひろ子「古今集」
→ 6枚組のセットが出ていた。こちらを買えばよかったかも。「薬師丸ひろ子 ピュア・スウィート」
タグ:大滝詠一
posted by 平井 吉信 at 23:12| Comment(0)
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2024年07月13日
夜の静寂にピアノの弾き語り 言葉のまわりで感情を伝える人(谷山浩子さん)
めっちゃナントカという言葉、いたるところで聞くけれど、どうなんだろう? 伝えたくないから使うの? 言葉で伝えられないのなら言葉にしなくてもいいし、言葉で伝えたいなら自分の気持ちの内面に気付いて(それを言葉にする作業は大切)。メッチャとか絶品とか使わずに感じたままを言葉にしてみたらいいと思うよ。それで伝わればいいし、伝わらなくても気にしない。
言葉による表現の限界と可能性を感じながら、言葉の可能性をぽんと置いて、こんな感じでどう?と微笑むのが谷山浩子さんなんだろうな。
知人がかつて谷山浩子さんを個人で徳島に招いて(確か「101人コンサート」と名付けていたような)、チケット購入を頼まれて行った記憶がある。
「カントリーガール」を知っているぐらいだったぼくがコンサートに出かけてよかったと思ったので、それからレコードを買った。「眠れない夜のために」と題したアルバムで、浩子さんがピアノの弾き語りをしている。深夜に小さな音でこのレコードをかけると、目を閉じて天空の旅に出るよう。ピアノは宇宙空間のひび割れのように空間にきしみとなり、そのまわりを声が追いかけてまわる。きらびやかなピアノの音色から電子ピアノかなとも思ったけれど、ヤマハのグランドピアノをオンマイク(ピアノの響板、ハンマーにマイクを近づけての録音)で録ったものかな。右手のタッチを強めにして。
レコード盤の「眠れない夜のために」は内袋に星座が描かれている

声を聞いただけでわかるし、詩を耳にしただけでもわかりそうな人はそうはいない。楚々とした夢想する少女が表層で色は白とすると、愉悦的諧謔的な下層がある(黒とする)。しかも白と黒は汽水域の淡水と海水のように混じり合うことはないので灰色にはならない。「カントリーガール」は白の楽曲としても、こんな曲をつくって歌う人は田舎にはいない。作者のなかにカントリーガールをホログラム化する強い憧れがあるから、楽曲と歌に生命力があるのではないか。
言葉の選び方の感性が散文的かつ具体的それでいて抽象の世界を描くというか、短歌や俳句のように前置き(状況の説明)があって披露されるものと違って、谷山浩子の楽曲の世界に入ってしまう。
たとえば「青い海」、「白い雲」、「悲しい気持ち」などと紋切り型の形容詞を付けず、雲と発したら、それがどんな雲がどのように浮かんでいるか情景が見えてきそうで。そこにある行動や事象から感情の動きを共有できる世界観。そこから感情を共有するというか。
斉藤由貴さんに提供した「MAY」「土曜日のタマネギ」が好き。斉藤由貴の初々しさと10代の尖った繊細な表現力、舌足らずとためらい、その裏返しとして強い思いが明滅する。佳い歌い方、佳い楽曲だなとため息が出る。
それを作詞者本人が歌うと、霞が掛った白いヴェールに漂う少女のような世界観が漂う。斉藤由貴の実在感も、谷山浩子の耽美感もどちらも好きとしかいいようがない。それにしても詩の世界の行動(潜在的心象)が人の心を実像化させてしまう。こんな詩を体感してしまうと、ここ10年ぐらいのヒット曲の歌い手(=作り手)は、作詞で首をかしげる箇所が多すぎるので(誰と誰かはいわないけれど)。
2つのMAYに違いがあるとすれば、ワンフレーズごとに感情移入で異なる感情の波をぶつける女優の斉藤由貴さんと、音楽としての伸ばす音、伸ばさない音という楽曲の構造を大切にしながら歌としての構成を組み立てる谷山浩子さん。表現することで楽曲を語らせるやり方と、楽曲の素のままの良さを歌を通して可能性を広げるやり方の違いがあるとしても、どちらもすばらしいことに変わりはない。
表現の可能性と楽曲(の精神)を忠実に再現することを高度にやってのけた歌手を一人だけ挙げるとしたら、ちあきなおみさんだろうな。「矢切の渡し」がその典型。彼女の天才性はモノマネで代替できるものではないよ。
斉藤由貴さんに提供した「MAY」「土曜日のタマネギ」に「カントリーガール」のピアノ弾き語り版、初期の「猫の森には帰れない」(こんな歌の世界がほんとうにあるなら世の中はどんなに潤いのあるものになるだろうに)、「お早うございますの帽子屋さん」、「すずかけ通り三丁目」(ジョージ・ウィンストンの「December」の透徹した叙情のような)などが含まれている1987年発売のベスト「谷山浩子bestア・ラ・カルト」をまずは聴いてみてはいかがでしょうか?

(もしかしたら入手が難しいかもしれない。その場合は代替できるベストがない気がする)
音づくりから耳に入る80年代の「シティポップス」と違って海外の人に入っていくには時間がかかるかもしれないけれど、日本人ならではのやわらかで繊細でそれでいて芯がぶれない世界観はいずれ理解されるような気がする。
でもね、売れる売れないって重要でしょうか? 世の中のヒット曲ってほとんどがつまらないと思っている。なくても生きていけるし、「なぜこんな楽曲が売れるの?」と思うことがほとんど。例を挙げると数百挙げられそうだから挙げないし、ぼくが佳いなと思った楽曲は売れていないことが多いけど。
このブログもここまで1814のコンテンツを自分なりに積み上げているけれど、アクセス数は伸びないし、それを目標とはしていない。だからSNSもやらない。売れれば正義、当選すれば正義、大勢が支持すれば正義、論破すれば正義、嘘を重ねてシラを切れば悪でなくなる…そんな世の中だから、谷山浩子さんを聴きたくなりませんか? ほんとうにやりたいことを、心のままにやり続けることはヒット曲以上に価値あること、精神の高みの愉しみそのものでしょう。
オリジナルアルバムを1枚も持っていないコアでないファンだけど、感謝の気持ちを伝えたくて。
谷山浩子さん、無理をなさらず、けれど、ご活躍をお祈りします。
posted by 平井 吉信 at 14:35| Comment(0)
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2024年07月06日
真夜中のSACDプレーヤー 静寂を満たす3枚のCDから
人も寝静まった1時過ぎ。 静かに音楽に浸れる時間がやってきた。もちろんごく小音量である。
まず、谷島明世さんの民謡のCD「いいあんばい〜明世の唄つむぎ」から。主に茨城県の民謡を歌っている。大衆芸能としての民謡というよりは宇宙空間にぽつんと置かれて流れてきた音楽のようで心が洗われる。録音当時は20代前半ぐらいかな。
彼女を知ったのは、伍代夏子さんがパーソナリティの番組に生出演して生で歌声(ワンフレーズだったけど)を聴いたとき。暑い夏こそこんな音楽を聴きたい。録音も極上で、鮮度の高い音が自然体でそのまま閉じ込められており、真夜中のCDプレーヤーはそれをほぐしながら空間にひたひたと
波紋を拡げていく。特に好きなのは「篠山木挽き唄」、「磯節」「君田の炭焼き唄」など。尺八だけの伴奏でうたわれると民謡(芸能)というよりは心の声といった趣がある。
次にソプラノの有山麻衣子さんのCD「有山麻衣子 幻のコンサート」をかける。日本の唱歌、オペラのアリア、フォーレのレクイエムからの抜粋などを収録する。声とピアノ伴奏だけの組み合わせ。唱歌では「十五夜お月さん」「七つの子」は叙情的。一見ソプラノに向かないと思える「鯉のぼり」がよくて、作為的でない自然な強弱で自然に流れていくと、楽曲の良さに心を打ち抜かれる思い。「さくら」は声の声域との適合もあって楚々として散っていく。
洋物では、フォーレのレクイエムからPie Jesuを採り上げている(普段はコルボのCDでレクイエムを通して聴いている)。もし近しい人を亡くされた方がいれば、繊細で壊れそうな2分56秒の楽曲の静寂に浸ってみてはと声をおかけする。
最後は、オーヴェルニュの歌から「羊飼いの歌」(バイレロ)。フランスの高原地方の民謡を素材とした純朴な歌曲集(歌手はダウラツ。レコードで持っている)で、これを聴いた20代の頃、信州に行きたくなって野辺山高原や飯盛山を散策したことを思い出した。オーディオファンにはおなじみの高音質録音で部屋のエアコンを付けた環境ではこの良さはわからない。深夜に小音量で聴くべき音楽。
3枚目は小松玲子さん(音楽には関係ないがぼくの幼稚園の先生と同姓同名)のサヌカイト演奏のCD。この日は手持ちの3枚から「ボイス オブ サヌカイト」を選んだ。
世界でも珍しい香川県に産するサヌカイト石を旋律を持つ打楽器に仕立てたもので、音の純度は極めて高く、スピーカーの存在が消えて部屋の中にサヌカイトで音楽が満たされていく。調律は不可能な楽器なので平均律で調整されていると思われるが、ひたひたと音が階段を駆け上がる刹那に、わずかなうなり(不協和音成分)が重なって、それが主旋律を美しくぼかしながらも浮かび上がる趣はなにものにも代えがたい(1曲目の「Misty Blue」だけでも聴いてみて)。
音楽を聴き始めたときは必ずしも平穏が心境ではなかったが、終わる頃には過去を照らす光が未来の自分を見つめるような心境となった。静寂のなかから立ちこめる無限のエネルギーといおうか。
追記
マランツSACD 30nをお使いの方への参考情報(設定による音質の違い)
ネットワークプレーヤーとSACD/CDプレーヤーが一体となった本機は音質が良いのはどなたも知るとおり。設定でさらに音質が変わる(ACコンセントの極性は合っていることが前提。RCAラインケーブルはソニーの数百円のものでも音が素直で十分)。
言語モードの設定…言語を日本語と英語に切り替えられるが、日本語モードより英語モードの方が音の立ち上がり感が速く、音の輪郭が明瞭。日本語モードでは音の角が丸まる。
デジタルフィルター…フィルター1が圧倒的に高音質。フィルター2では、平板な印象になって、本機の強みが活かされない。声が楽器が浮かびかがるモード1に対して、モード2では一体化してしまう。
ライティング(ディスプレイ照明)…意外に差が大きい。明らかに Offが良い。明るさの違いによる音質差は感じないが、オンオフ差は大きい。オフは伸びやかで、目の前が開けて彫りが深くなる。
ネットワーク/USB再生…もっとも大きな差となるのは、SACD/CDを聴くときにネットワークをオフにしておくこと。
可変オーディオ出力…オフにするのが基本。
多機能でありながら各回路をアイソレートしている本機でも設定で回路を閉じられるならオフにしたほうが良い設定が多い。これは深夜にスピーカーの前50センチで聴いているからかもしれないが、音の差はかなり大きい。けれど昼間にエアコンをかけて大きな音量で再生していると違いは気付かないかもしれなず、再生環境によるところが大きい。
posted by 平井 吉信 at 12:06| Comment(0)
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2024年06月29日
真夜中のCD再生
CDプレーヤーが到着した日、実際に開封するのは深夜になった。意外と重くてどっしりしている。このような機器は通電して音が目覚めるのが時間がかかる。駆動メカやコンデンサのエージングを考えると1〜2か月後ぐらいから本領を発揮するだろうと思っていた。
まずは通電して各部の動作チェック、入力ごとの再生や初期設定などで1時間。ようやくCDが聴けるようになったのが日付が変わる頃。スピーカーの前数十センチに座る。スピーカーは壁から1メートル程度離して設置しており、しかもどの壁面とも並行(or垂直)になっていない。
スピーカーの間隔は1メートルを切っているのは小音量再生が多いため。真夜中は静けさがあって背景音に邪魔されず音楽に集中できる。社会活動が停止されるので供給される電源も汚れていない。もともとごく小音量再生なので家庭内にも近隣にも迷惑はかからない。
最初にかけたのは田部京子と小林研一郎のモーツァルトのピアノ協奏曲K488。深夜の極小音量再生にもかかわらず、空気に溶け込むような低域の音場が床を這うように漂う。最初の音出しで打ちのめされた(普通はこんなもんかという鳴り方しかしないのがオーディオ装置の初日)。
でも瞬時に逆相感ありと判断。CDプレーヤーの電源を落としてACコンセントを逆に差し込んでみる。思ったとおり中央の音像がくっきりと浮かび上がり逆相感は消えた。ぼくは初対面のオーディオ装置でのコンセントの極性合わせはA/Bテストをしなくてもわかる。極性が合っていないときの鳴り方には独特の刺激感、逆相感があるから。
極性が合い、通電して2時間が経過したことで、再生音はさらに繊細かつ豊潤となった。田部京子はSACDと表示された。ハイブリッドディスク(SACDとCD層が多層的にプレスされたもの)だったのでこれが初のSACD体験となった。

それは、夢見心地。目の前の空間のどこかで、音の波がぽつんと空間に飛び出して波紋を広げ、その波紋が重なり合いながら漂っている様子がわかる。ピアニシモでオーケストラ全体の漂う音場が低く出現するのはSACDの特徴かもしれず、再生音の耽美的までの美しさをあえて言葉にして表現しようと試みる。
これはSP再生など現実的な音像と対照的な世界だけれど、一方で客席で聴いているような臨場感はなまなましい。装置が消えて空気が震える体感。ネコがいなくなって笑いが漂っているような不思議の国のアリスになった気分。コルボ指揮のフォーレのレクイエムを再生していて停止ボタンが押せなくなった。
CDを聴いてみると、いつものオーディオ装置を聴いている気分。いわゆるハイファイだけれど装置の存在を感じる。

さらにUSBメモリ、SSDからの再生を行ってみると、ヴェールのないCDの再生と比べると、付帯音が感じられてさらにハイファイ調となるけれど、微細な陰影は感じにくい。やはり巷で言われるように、ネットワーク再生はディスク再生を越えられないというのがわかった。しかもその差は大きい(これは理屈ではわかっていても体感しないとわからない)。最後のディスクプレーヤーとしてCDを再生する日々が始まった。
posted by 平井 吉信 at 22:17| Comment(0)
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2024年06月27日
音楽を聴くホモ・サピエンス、言葉より前から存在したものを再生し続けるために
音楽を聴くってどんな感じだろう? 考えたことはなくても感じることはできる。ここでの音楽はレコードやCD、カセットテープ、音声データなどの再生音源のことで生の音楽ではない。生の音楽は聴きたいときに聴きたい場所で聴きたいように聴けないから。
音楽を再生する。耳に入ってくる。耳を通して入った音が身体に入り込んでいく。どこが心かどこが肉体かの区別はないように感じる。ただ音の振動が波のように波紋を拡げたり共鳴したり。
共鳴? それは何と? わからない。
細胞といえばしっくりくる。細胞が音の響きに共鳴して動く、振動する、波のように伝播する感じ。
それを感じるためには、澄んだ音でなければならない。歪みの少なさ、雑音の少なさ、大きな音から小さな音まで連続して推移する。どんな再生装置でもよいわけではない。
いまぼくがデスクトップで使っているデスクトップPC+asio4ドライバ+JRiver Media Center+タイムドメインlight(チューンアップ仕様)では、空間に放たれた音の粒子や音の波が見える/聞える気がする。元の音源は、パイオニアのBlu-rayライターBXR-X13J-XでCDからリッピングしたもの。これとは別にプリメインアンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤー、カセットデッキ(ウォークマンプロ)、スピーカー3組(クリプトンKX-1、JVC SX-V1、パイオニアピュアモルトSP)がある。
例えていえば、これらの装置で再生すると、音の塊が身体に入り込むと飛散して身体のなかで再び元に戻る、というか輪郭が再形成される。
言葉で表せないことを文字にする意志は大切と思う。道元の正法眼蔵を理解できているわけではないけれど、只管打坐(ひたすら座る)という言葉で表せない何かを、文字で著わそうと(二次元に顕そうと)している様子は感じられる。
音の連なりや早さ、強さ、抑揚の変化も同じだろう。ホモ・サピエンスやネアンデルタール人、デニソワ人が感じる意識を持って奏でる(発する)妙なる音のつながりは言葉より先にあったもの。もしかしたら後期のホモ・エレクトゥスだって空気の震えを意識して発していたかもしれない。
ぼくの手持ちのなかではCDが多い。音質と利便性と保存性からみれば、CDが最良のメディアであると思う。遮光や湿度に気を付けて保管する限り、読み取りは永遠に可能だ。
でも、ここ1年ぐらいのオーディオの動きを見ていると、CDプレーヤーが発売されなくなる時代が近づいているように思える。需要はまだありそうだが、個々の部品を供給するメーカーがいつまであるのか。オーディオに適した電源トランス、電解コンデンサー、増幅の素子やデバイス、回路設計、CDを回転させる駆動系(トランスポーター)、デジタルからアナログへと変換するD/Aコンバーター、小音量まで特性の落ちないアッテネッター(接点切り替えや電子制御の可変式)、リレーやセレクター、デジタル輻射ノイズを軽減する技術。これらの部品は日本で世界でつくることができるメーカーは限られている。そしてこれらのパーツや回路を最終的な音づくりにまとめあげるノウハウなど、オーディオ装置は10年後に存在するといえるのか?
オーディオに限らず、農業や漁業、パンクを修理するまちの自転車店、包丁を研いでくれる刃物屋、小回りの利く職人の技などこれらを提供している人たちを直撃しているのがインボイス制度。社会の崩壊が目に見えているのに、未だに国会議員の不正すら正せず。
いまぼくにできる数少ないこととして、20年を経たCDプレーヤーをそのままに、1台追加しようと考えた。空間に放たれた音楽が、心と身体を区別することなく内部に沁みてきて震える感覚を少しでも長く味わいたくて。
その機種は、繊細に音をほぐしながらも、それと矛盾する芳醇で有機的な響きを持ち、実在感のある音像を結びながら、同時に空間に美しい波を伝播させることができる。それは、音波が粒子でもあり波でもあることの証しのように。
その機種も7月1日から3割の価格改定されるという。次々と装置を買い替えるオーディオマニアもいるだろうけど、ぼくにとっては20年ぶりのこと。リッピング用のドライブ(BXR-X13J-X)は確保済。CDプレーヤも複数確保しておきたい。音楽は生きるうえでなくてはならない呼吸のようなものだから。
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2024年06月12日
松田聖子「レモネードの夏」を5種類の音源で聞き比べる
前回に引き続いて名作「Pineapple」のなかから「レモネードの夏」を3種類のCDと2種類のリッピング機器で比較する。それらの音源は以下のとおり。
@「Touch Me,Seiko」(32DH792)1984年CD(BDR-XD05Rリッピング)
(同アルバムのアナログマスターサウンド盤もあるが、今回はCD比較のため除外)
A「Touch Me,Seiko」(32DH792)1984年発売CD(BXR-X13J-Xリッピング)
B「Pineapple」(CD選書)(BXR-X13J-Xリッピング)
C「Pineapple」(Blu-spec CD2)(BDR-XD05Rリッピング)
D「Pineapple(Blu-spec CD2)(BXR-X13J-Xリッピング)
BDR-XD05R…2014年3月発売のパイオニア製外付ポータブル型BD/CD/DVDライター
BXR-X13J-X…2023年11月発売のパイオニア製外付BDドライブ(最新型)
「Touch Me,Seiko」は「マドラスチェックの恋人」(ほかのアルバムには収録されていない)が聴きたくて買ったのだが、シングルのB面集とは思えない佳曲揃い。商品番号32DH〜はソニーの最初期のCDの品番なのにいまも新品が手に入る(Blu-spec CD2化される前に買っておいたほうが良いと思うよ)。そのなかに「レモネードの夏」も入っていたので比較してみることにしたもの。それぞれにリッピングの音質の違いは以下のとおり。
@…古いCDだが、CD発売当初のもの。自然な再生だが、Aと比べると鮮度感が落ちる。ただし声の自然な感じがあって音楽には浸れる。リッピングに使用したポータブル型ゆえの制約と長所(電源ノイズが少ない?)が再生音に反映されている。
A…@と同じ音源をリッピング装置を変えたもの。抜け感、音の立ち上がりが良く鮮度が高いが、自然な再生。声は@よりやや若い感じでが背景から浮かび上がるが、背景の楽器もよく聞こえる。バックが声を盛り立てている感じが伝わる。
B…音量はもっとも小さい。低域の力感は少ない。ただし声の表情、微妙なニュアンスは小音量でもよく伝わる。音量を揃えるとさらに良い印象になると思われる。
C…音量がいきなり上がる。体感的には3dbは上がったかと思われ、うるさささえ覚える。声が間近に聞こえるが、バックは抜け感が後退する。声はもっとも太く再生されて聖子の魅力が伝わりにくい。
D…Cに比べて抜け感が俄然向上する。リッピングによってここまで違うのかと思わせてヴェールがとれた感じ。それでいて音の角が丸まらず、かつうるさくならず弾むので愉しく聴ける。相変わらず声は前面に出てくるが、奥行き感は出にくい。高い音圧ゆえのデメリットか。
結果は、それぞれ特徴があって好みにも左右されるだろうが、Instagram映えで代表されるようなぱっと見(ぱっと聴き)はBlu-spec CD2盤からのリッピングだが、音楽を聞きこんだ人、楽器を演奏する人、良質のオーディオ装置を持っている人なら拒否反応を示すかもしれない。Blu-spec CD2という優れたCDプレスの技術を採用しながら、音圧至上主義のマスタリングが足を引っ張って音楽に浸れない。言葉を選ばなければうるさいだけに聞こえてしまう。ソニーさん、マスターテープが劣化しないうちに、良いマスタリングを施して再発できないものだろうか? プレス技術としてのBlu-spec CD2は優れた仕様だと思うので。
意外にももっとも良かったのが初期CD盤で最新BDドライブからのリッピング。盤は二十年以上を経過しているが、光とホコリを遮って保管しているので信号面の拾い出し、実際の再生音に劣化は感じられない。初期CDにはデジタルに不慣れでマスタリングに難があるCDもあるといわれるが、本CD(32DH792)の帯を見ると、税抜2,920円、税込3,008円(消費税3%)と書かれている。消費税は10%まで上がったが、経団連は20%まで上げるよう提言しているという。余談だが、経団連の製品を個人的に不買運動を続けている。盤面に小さく記されたIFPI-L277という記載からCDのプレスは、ソニー・ミュージックエンタテインメント静岡工場でなされたものと推察。
CD選書からのリッピングは、やはり良好な結果。余裕のある鳴り方で声とバックの楽器の関係性はもっともよくわかる。声がもっとも楚々としているので小悪魔的な声の表情はもっとも伝わるかもしれない。IFPI-L274でこちらもソニー静岡工場でのプレス。CD選書のCDをお持ちの方は、通常とは逆向きの収納(信号面が上を向くように)にしないと、裏が透明のケースゆえ、光が当たって信号面が劣化するのでご注意を。
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2024年06月10日
松田聖子「ユートピア」の音源を聞き比べる―通常とハイレゾの違い、それよりもマスタリングの違いが大きい―
松田聖子ファンならきっと気になっていること。それは音源による音質の差だろう。そこで、松田聖子の名盤と呼ばれるアルバムから「ユートピア」(1983年オリジナル)を聞き比べる。なお、この作品からPCMレコーダーが使用されたデジタルレコーディングとなった。ぼくの手元にはアナログの初出盤(それもマスターサウンド盤)がある。前作のパイナップルとは明らかに音の鮮度が上がったなと思わせた。しかしDRを使いこなせていないかマスタリングのせいか、アナログレコードで聴いたときもハイ上がりに聞こえていた。
正確な聞き比べではないが、この楽曲をダウンロード音源のWebサイトを使って聞き比べる。まずは同一配信元の通常とハイレゾから。次に異なる配信元同士の同じ仕様での比較など(ただし視聴用の音源が販売用データと同一とは限らず、特にハイレゾは異なるのではと推察)。
CDが初めて発売されたのは、CBSソニーなど3社で1982年10月1日のことであった。ぼくはソニーのCDプレーヤー初号機CDP-101(当時168,000円)を業界筋から借り受けて視聴した記憶がある。そのときの印象は透明感があるが音が固いな(ほぐれないな)というものだった。それでも低域の抜けの良さには驚いた。
松田聖子はソニーのドル箱であったので作家陣や音づくりも力が入っていて、録音技術も力を入れていたのだろう。後年にオーディオ雑誌が独自にSA-CDを限定販売したことがあったが、このときの音質が松田聖子のアルバム史上で最高の音質という評価は不変である(ぼくも1枚だけ持っている。パイナップルやユートピアが欲しかったのだが、気付いたときはすでに売り切れであった)。
自分で聞き比べる人のために以下に配信サイトを3つ掲げる。
●mora
(通常/AAC-LC 320kbp)https://mora.jp/package/43000087/MHCL20154B00Z/?trackMaterialNo=1789579
(ハイレゾ/flac96.0kHz/24bit)https://mora.jp/package/43000100/MHXX01284B00Z_96/?trackMaterialNo=3771094
●OTOTOY
(通常/16bit/44.1kHz)https://ototoy.jp/_/default/p/906575
(ハイレゾ/flac 24bit/96kHz)https://ototoy.jp/_/default/p/823592
●e-onkyo
(ハイレゾ/flac 96kHz/24bit)https://www.e-onkyo.com/music/album/smj4582290407579/
通常仕様では、2曲目の「マイアミ午前5時」がわかりやすい。通常音源では、声が太く圧迫された感じを受ける(聴いていて苦しくなるほど)。これは音圧を上げて圧縮して迫力ある聴かせ方をしているのだろう。電車などでヘッドフォンで聴く人はこれでよいが、音楽に浸りたい人はきついだろうな。
ぼくの再生環境は、デスクトップパソコン+再生プレーヤーJRiver Media Center+アクティブスピーカーのタイムドメインライト(チューンアップ仕様)、聴取距離50センチで微少な差がわかりやすい。CDからのリッピングは、パイオニアBXR-X13J-XからEACで抽出している。その際にエプソンのデスクトップPC(Windows10)では一切の作業やソフトを立ち上げずCPUをリッピングに集中させている(背後で動いているソフトまでは停めていないが)。
先の通常版の音は、パッケージでは音圧が高いといわれるBlu-spec CD2として販売されているシリーズではないかと推察する。それに対してアナログのマスターサウンド盤が基準として、これにもっとも近い音は意外にもCD選書と銘打って廉価版の簡易パッケージで販売されているCDである。「マイアミ午前5時」はのびやかで高域は清涼感、低域は量感は少ないもののよく弾み、アルバムのコンセプトにふさわしい。
これに対し、手元にある「SEIKO MEMORIES ~Masaaki Omura Works~」(Blu-spec CD2、2018年デジタルマスタリング仕様)で「セイシェルの夕陽」を聴くと、もともと収録音量の小さなこの楽曲では、音圧が高いマスタリングが極端には災いせず、細部がむしろ聞き取りやすいが、意外にダイナミックレンジの広いこの楽曲ではやはり圧縮感のある(ピアニシモのない)再生で音楽に浸れない印象。
このあとでCD選書からのリッピング音源を聴くと、音楽を聴いたなという充実感がある。それは音量の大きなところから小さなところやその遷移が心の動きと一致しているから。それを改変しているBlu-spec CD2でのマスタリングはオリジナルの良さを伝えていない。
配信では、通常より圧倒的にハイレゾが良いが、これは方式の違いというよりは元のマスターが違うのが大きいのではないか(ハイレゾでは音圧を極端に上げていないように聞こえる)。Blu-spec CD2はCDプレスとしては秀れた技術だが、それとは無関係の音源のマスタリングには再考の余地があるように思う。
結論として、アナログのマスターサウンド盤(32AH1610)とステレオサウンド社の限定SA-CD(SSMS-005)が最良だが、入手困難(プレミアム価格の中古のみ)なので、ソニーから新たなマスタリングで再発売(例えばハイブリッドSA-CDなど)されない限り、パッケージとしてはCD選書(CSCL-1271)が最良ということになる。
区別がつきにくいのでAmazonでのCD選書のリンクはこちら。
CD選書の視聴はソニーWebサイトから
https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&cd=CSCL000001271
タグ:松田聖子
posted by 平井 吉信 at 23:58| Comment(0)
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2024年06月09日
8センチのシングルCD、おぼえていますか? その名曲は21世紀にこそ聴いて欲しい
レコードでは、シングル(17センチ)、LP(30センチ)が存在する。レコードではさらに12インチシングル=30センチ45回転仕様があって回転が速いので音質が良い。CDには一般的な12センチ(アルバムもシングルもある)のほかにシングル(8センチ)があっていまも生産されている。CDのシングルはその後、アルバム(12センチ)サイズになった。店頭の万引き対策や店側の陳列しやすさもあるが、量産されている12センチはコスト面でも有利なのではないか。

数年前からCDは売れなくなったとされ、ダウンロードやデータ配信が主流となっているというが、ぼくはあらゆる点でパッケージメディア(レコード盤やCD、カセットなどの物理規格)が好き。ジャケットや歌詞カードといった副産物もさることながら、手元にあると安心できる。配信などはマーケティングや配信元の意向でリストから消えてしまう可能性が高いこと、データの保管をきちんとやらないとデータが消滅・紛失するリスクがある。
それに圧縮音源の配信やダウンロードと比べて非圧縮のパッケージは音質が良い。再生装置によっても変わってくるが、レコードもCDも優劣なく、どちらも配信やネットワークよりは音質が良い。特に扱いが簡単でパッケージ性もあり、データ化(リッピング)も容易なCDは良さが見直されるはずである。
CDは44.1Kのサンプリングなのでヒトの可聴帯域の20Kを少し越えてはいるが、量子化しないアナログディスクはさらに高域が伸びていて有利などといわれる。確かに最高のアナログレコードプレーヤーで再生すると、アナログ盤はCDを上回る再生が可能なことは知られているが、そのためには費用と調整技術を要するので誰でもというわけにはいかない。
でも録音する際のマイクロフォンは可聴帯域をはるかに越えて収録することができるだろうか? それに中高年なら耳の高域限界が落ちているので一概にアナログがCDより音質が良いとは言い切れない。なにはともあれ、扱いやすさ、持ち運び、音質と3拍子揃ったメディアはCDであり、みなさんも配信ではなく物理メディアで購入することをお勧めする。おそらくは応援する演奏者の実入りも増えるはず。
CDの扱いで気を付けるのは保管時に光を遮ること。湿気も良くないが、まずは光を当てないこと。理想は、暗闇で空調の行き届いた場所。
前置きが長くなった。8センチCDはいまとなっては12センチシングルに押されて少数派となってしまったが、縦長だが、折りたたんで正方形に小さくすることもできる。

留意すべきはディスクを挿入するタイプ(オートローダー)のCDプレーヤーにはかからない可能性が高いこと。再生できるのは引き出し型のトレイの中央に8センチの溝があること、もしくは上から蓋を開けてディスクを入れるタイプ(ラジカセやハイエンドCDトランスポートに多い)。

8センチCDにはいまとなっては入手が困難な音源が多く、それらはダウンロードや配信もなされていないことが多い。小さな円盤は精緻な感じがする。手持ちの8センチから何枚か紹介しよう。
●「サラダ・クラシック」オニオンは、タイスの瞑想曲や亜麻色の髪の乙女を、前橋汀子さんが憑依したような鬼気迫る演奏を行っている。ヴァイオリンの美音を追求するのではなく魂の抑揚を込めた演奏との印象。こんなのが8センチで売られていたのが奇跡的。音圧が低い(圧縮していない)のが幸いして自然な再生音でダイナミックレンジも広い。CDをプレスする工場としては、当時からソニー、JVCは自社工場があってプレス技術が高く音質が良いと言われてきた。今日でもソニー、JVC,メモリーテックの3社がそれぞれが切磋琢磨しながらCDのプレスを行っているらしい。技術の灯を消さないためにももっとCDを買おう。いまやCDを買うのは日本人ぐらいといわれるが、日本人であろうとなかろうと優れたフォーマットであるCDを盛り立てよう。
●「幸せな結末」(大滝詠一)は、アルバム「EACH TIME」以後の数少ない音源で、20世紀最後の年の流行のドラマの主題歌となったので説明不要だろう(ぼくはドラマを見ていない)。郷愁を込めた楽曲が90年代の終わりにもあった。録音、マスタリングともポップスを愉しむに極上で楽曲や声の良さの相乗効果で心地よさに酔いしれる。音楽で極めた幸福感といえば当たっている?
●「花〜すべての人の心に花を〜」(喜納昌吉)は、20世紀が生んだ名曲のひとつ。多くの歌手でカバーされたが、本家の歌に込められた魂を揺さぶられる歌唱はまねできるものではない深みがある。光が降り注いで細胞がひらいていくような。もし、この歌をネアンデルタール人やホモ・サピエンスの縄文人に聴かせて反応を見てみたい。瞬時に何かが伝わるのではないか。
●「豊かな時のなかへ」(しらいみちよ)は、太古の森の木霊のような編曲の美しさに乗って「ようこそ豊かな時のなかへ」と凜とした声が大地の風となって降り注ぐ。こんな佳曲がいまでは再発もされず配信もなく、という事態に残念。カップリングの「二十三夜」も屋久島の水滴がこぼれたような詩的かつ純度が高い楽曲。しらいさんの声は作為や表現を感じさせず、ただヒトと自然が一体となって流れるのみ。
●「春告げ鳥」(山崎ともみ」は、岩手県出資の演歌歌手の山崎さんの実話に基づいた楽曲。硬質でありながら凜と張り詰めたひたむきな質感がすばらしく、歌詞の感動的な世界観をこれ以上深く掘り下げて歌える人はいないのではと思える。みずみずしくもひたむきな時分の花が咲いた名曲。歌の世界については以下でも触れている。いまはパッケージも配信も入手できず。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/89683284.html
●「愛して愛して愛しちゃったのよ」(原由子&稲村オーケストラ)は、昭和の名曲。原さんの声で聴くとオリジナル(ややコミカルな感じがある)と比べて切なさで優り、誰かを好きになったときに心の深いところに不覚にも入り込んだ。編曲もスチールギターの郷愁たっぷりで、後半は独自の旋律と編曲で舞い上がっていく。サザンの名曲「真夏の果実」と表裏一体の楽曲。
●「ちゅらぢゅら」(りんけんバンド)は、色彩豊かな楽器による前奏に乗って島唄のうたしゃのような上原知子さんの声が印象的(個性がきらぼしのごとく)。琉球音階に載せて伝統楽器とドラムスなどが融合、さらに世の平安をうちなーぐちで願う祈りの詩でもある。世界中のどの音楽にも似ていないのに、心がふくれあがるような。大陸風の落ち着いた演奏も恰幅よく歌の世界を拡げていく。うちなーでなければ、こんな音楽は生まれなかっただろうな。衣装もいいな。
●「太陽に出逢う風」(高橋リナ)は、日本の若者が夢と冒険心を持って「地球の歩き方」のバックパッカーになって世界に飛びだった時代の音楽。不安と期待を持って訪れた異国のまちで出逢った人々や景色はおだやかだった。そんなときの耳元をくすぐる風を歌にしたらこうなるんだろうな。リナさんの歌は、日本語の美しさを全編にたたえながら「踊りながらはしゃぎながら」などの箇所では声色がわずかに上ずる表現の素敵さ。表現と声の美感を高い次元で両立させた普遍性で、楽曲の佳さもあってこれも名曲だよね。旅に出たいけれど、あの頃の日本には戻れない。この音源もパッケージも配信もいまでは入手することができない。

追記
車やデスクトップで聴くことも多いので、自分が購入したCDからリッピングすることが多い。その際に役に立つ(必要)ものが、PCに接続する外付けの光学ドライブである。この春に購入した装置(パイオニアBXR-X13J-X)は、音質がとても良い。そのため過去にリッピングした音源も再度やり直している。過去に読み込めなかったメディアからもデータを抽出できる。2023年に販売されたが、リッピング用の決定版といっても良いだろう。実績と優れた設計思想に裏打ちされたこの機種をパイオニアがいつまで生産してくれるかわからないので2台確保しておきたいぐらいだ。
https://jpn.pioneer/ja/pcperipherals/bdd/products/bdr-x13j-x/
(こういう機械はAmazonで買わずに、メーカー直販がもっとも安心できる)
従来は同じパイオニアのポータブル型の光ドライブだったが、同じメディアからEAC経由で抽出してみると、以下の違いがある。
・SN比が向上し音量がやや高くなる。
・声が引き締まって小さな範囲から聞こえる。
・背景と声が明瞭に分離して声が浮かび上がる。
・各楽器、特に低音楽器の音程や刻みがよく聞こえる。音楽の土台が安定すると聴いていて安心感がある。
・新旧2つのデータをブラインドで比較する際に、比較しなくても最初に聴いたものがどちらか当てることができる。これはACコンセントの極性による逆相感が両方比較せず片方だけで判別できるのと似ている。
・音楽が平板にならず抑揚が豊かでリズムが弾むので聴いていて愉しい。
・全体の印象は作り上げた印象ではなく、自然体。
金額は約5万円と高価だが、現時点で入手できるリッピング機器としては、パイオニア独自のCDを読み取るエラー訂正技術(アルゴリズム)のみならず、インシュレーター、回転系などの防振や筐体の剛性化、メカ精度の向上などハード系の物量投入と改善が施されている(パイオニアはまじめな技術者集団である)。そのため手元のCDプレーヤーで読み取りができないメディアでもトランスポート機能としてデータを抽出することも可能となる。
タグ:大滝詠一
posted by 平井 吉信 at 01:37| Comment(0)
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