2015年08月04日

酸酸と梅干し 燦々と夏の太陽 情熱のトマト 嗚呼情熱の人生


台風に邪魔されてなかなか明けなかった梅雨。
梅雨明けというけれど、
この言葉が表しているのは、
「梅雨が明けた」のか、
「梅雨を明けた」のか。
(どちらの意味もあるのではないかと推察)

それでようやく漬け梅の土用干しができることになった。
週末から4日間、人間が5分もいたくない炎天下にさらす。
5kgのうち、1kgは梅酒にしたので4kgを梅干しにする。
(土用干しの間は夕立に備えるため近所にしか出られない)

子どもの頃から梅干しが好きで
大粒の真っ赤な(しそが滴るような)梅干しを
口に放り込んで舌の上で転がす。
ときどき歯をからませて、ぐちゃぐちゃぐちゃ。
すっ、すっ、ごくん。
(ああ、親の目を盗んで3個食べてしまった子どもの罪悪感)。
種を出して熱い茶をすするときの充実感!
(千利休が奥の細道に旅に出たようなちょっと場違いなストライク感)

(よだれが出た人、いますか? いや、文章だけでは出ないでしょう)
(でも、よだれが出たという人はとても想像力が豊かで感性の磨かれた人ですよ、芸術家になれると思います)
写真ではどうですか?
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干して3日目。
これたまらん、食べたくなったでしょう。
では、みなさんの代わりにひとつだけ。ほんの1個だけ。
試しに食べたら、今年の完熟の南高梅もまた絶品。
もうひとつ試食を、いや切りがない。
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市販品には負ける気がしない。
一部は塩抜きをして蜂蜜漬けにしてみよう。

こちらは2年目の熟成梅酒。
熊本の35度の米焼酎と蜂蜜で漬け込んだもの。
まろやかでおだやかな酸味が夏バテを防いでくれる。
古酒の良さは感じるけれど、
3か月程度の新酒のみずみずしさも甲乙付けがたい。
これをそのまま氷で割り、原酒を味わった後、
炭酸で割るのが日課。
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外気は連日35度超だけれど、
自宅ではエアコンは使っていない。
信号待ちの駅、日陰で待つ人は多いけれど
ぼくは日向で太陽を全身で受け止める。
暑い夏を楽しみたいから。
(これは理屈じゃなくて本能)

徳島ではもうひとつ良いことがある。
それは、夏野菜をたっぷり食べられること。

毎日食べるのがゴーヤーのサラダ。
2oぐらいに薄く切って好みのドレッシングで食べる。
(1日1本は食べているかも)
ゴーヤーチャンプルーも本場仕込みの風味でつくれるけど、
冷蔵庫でサランラップをかけて少し冷やしたサラダがいい。
香味として、ミョウガのスライスを添えることもある。

オクラは1分程度茹でて輪切りにして鰹節を振りかけ
そうめんつゆをかけて。

シシトウは終わりかけているけれど
キュウリ、県内でも高地のミニトマト、カボチャは真っ盛り。

毎日野菜をたくさん食べていると
これも生きているって実感。
朝採れた野菜が近所で売っているのは
野菜の宝庫徳島ならでは。

寝る前はシャワーではなく風呂で代謝を良くする。
Kindle Voyageをジップロックに入れて
風呂で読んでいるのは「鳴門秘帖」。
(阿波藩は悪者なのだ)
夏だから、少しのわくわくを楽しみながら少し長めの風呂で汗をかく。

健康診断の結果が戻ってきた。
医者があきれるぐらいの完全A級の数値。
でも、数字に一喜一憂せず、生きていることを楽しむ。
一瞬一瞬を楽しむために生きていくこと、
それはもちろん、誰かに必要とされている実感があること。

時間の積み重ねに
こうありたいという意思(意識)をどれだけ込められるか、
そして結果に頓着せずに受け容れていくこと。
(だから、寝ていられない)

エアコンすらはずして
夏の暑さを楽しもうとするのは
エコのためでも身体を鍛えるためでもなく、
ただ受け容れることを幸せと感じているから。

近所の酒屋(多積商店)ですすめてくれたオリーブオイル。
ここには店主の目利きで有名になる前の良いワインや焼酎が揃っている。
(磨かれる前の原石の発掘や蔵元との交渉に努力されているので酒の銘柄は書けません)
食材や調味料も然り。
これまでおすすめで裏切られたことはない。
オリーブオイルの銘柄は、サジターリオ(250ml、1,750円)。
(ぼくは射手座生まれ、日出とともに生まれたのでアセンダントも射手座。太陽と射手座=銀河系の中心が重なる月と時刻に生まれた。サジターリオはイタリア語で射手座の意味と見た)

トマトに少々の粗塩とともにかけてみる。
青臭さが美味でおいしさ濃厚、どんどん身体に吸い込まれていく。
これは料理に使うだけではなく、飲んで味わえる。
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赤はいい、情熱の人生。熱い魂は暑い。
(涼しい部屋にこもって心と身体を冷やしてはダメですよ)

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梅干しもトマトもその根底には情熱が流れている。
降り注ぐ夏の太陽が育んだ。
暑いの好きだ。
暑い夏は生きている実感を与えてくれる。
暑いって、空を見上げるのは、
人間と夏の契約だから。

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posted by 平井 吉信 at 01:04| Comment(0) | 生きる

2015年07月22日

モネの庭 四国高知に息づく印象派の世界 青いスイレンがつなぐかけはし 


南四国は滞在して良さがわかる。
徳島から入って国道55号線を南に下り、
南阿波サンラインを経由して
室戸岬へ南下していく海岸線こそ、日本の白眉ではないだろうか。
室戸だけでも2泊3日は必要だけど、
岬を折り返して高知方面へ向かうと
やがて北川村への分岐がある。
モネの庭マルモッタンは近い。

モネの庭マルモッタンのコンセプトや由来はこちら。
http://www.kjmonet.jp/about_01.html

小さな日本の田舎がモネの庭をつくる?
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冬を除いて花が咲いている庭園、というのはどこでもあるけれど
モネの庭というのは、
フランスのモネの庭の関係者から認められたもの。
しかもここは散策する楽しみがある。
一度来るとときの経つのを忘れるほどで
この日も弁当を持っていって半日ほど楽しめた。
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台風11号が南四国を直撃し、訪問日はその2日後。
今回の台風は室戸岬に上陸したことからまさに台風の通り道。
高知、徳島では農作物や家屋に被害が甚大で
浸水した家屋や倒れた樹木も少なくなかった。
モネの庭は樹木と無数の山野草がある。
花は散り、草花はなぎ倒され、樹木の葉がちぎれて
園内は修羅場だろうと考えた。

ところが…。

信じられない光景が広がっていた。
倒れた草花はあったとしても、ごく一部。
言われてみなければ誰も台風の痕跡に気付かないほど。
一つひとつの草花をいのちとして扱うために
身体を張って風雨を防いだのでは?と思えた神業。
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この庭には、フランスの思いも
日本にモネの庭を再現しようとした人々の思いも
それを楽しみに応援、来訪する人々の思いが詰まっている。
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花に囲まれて夢のような時間を過ごす。
ユリはこのブログでも紹介しているタキユリの近種カノコユリ。
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緑に塗られた木の橋に辿り着くと最初の印象派が現れる。
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モネの模写と風景を対比させるためキャンバスが点在している。
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池にかかる橋の上にはバラの橋梁。
こんな木陰に椅子を置いて本を読んでみたい。
人生ってそんな時間をつくるためにあるんでしょう―。
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橋の上から眺めた池の全景。
スイレンを浮かべながら色彩が明滅する美に般若心経の無常観さえ漂う。
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かたちあるものは滅びる。
とらわれを捨てて、花の色彩さえ透明になって
心の目で観る庭の非日常感。
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その奥に確かに在るもの。
在るがゆえに美しく、美しいがゆえに存在しない。
来訪者の賑やかな歓声で日常に戻ると、
真夏の太陽の下、庭の花たちの饗宴。
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フランスの庭園に日本の夏の足音。
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庭だけでなく散策の小径がいい。
そこかしこに光が落ちていて
人の見知らぬ間に小人と妖精が歩くのだろう。
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小径もまた夏の叙情
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青いスイレンは熱帯の植物。
モネはアフリカ原産の青いスイレンをフランスで咲かせることを夢見た。
しかし、その願いは叶わなかった。
ここ南四国の高知で青いスイレンが開花する。
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アフリカから南四国へとかけた夢をフランスのモネの魂に返す。
それは水面に映る睡蓮の極楽浄土。
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台風で傷ついた羽とからだを投げ出すように
カノコユリの間を翔ぶ。
ぼくはここに生きている!と声が聞こえた。
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蝶が舞い、トンボが横切り、蜂がうなる。
その鱗粉のきらめき、葉音のときめき。
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蜂を引き連れてどこへいく?
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太陽にきらめく紺色の燐
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自らの可能性を信じていま咲き誇る花も、
散る前に最後の輝きを放とうとする刹那の花も、
すでに散って舞台から去った名残の花も、
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みんな愛されたのだから。
人は誰だって愛されるのだから。
花は庭に、花は心に。
(このブログもそうなりたいのだ)

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花に魂を奪われた人は花を愛でる。
守られた花は魂となって夏の太陽に溶けていく。
そのやりとりを感じられたら―。
ここはモネの庭 マルモッタン。
posted by 平井 吉信 at 21:22| Comment(0) | 生きる

2015年07月21日

虫は一瞬立ち止まる 虫だった頃の記憶と人間につながるDNAの原形が見つめる 


このブログには昆虫の近接写真が出てくる。
でも、特殊な機材は使っていない。
X20という富士フイルムの小型デジカメで取ることが多い。
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(クマゼミとの距離3センチ)

車のボンネットの上にいたゴマダラカミキリ。
触覚が指に触れてくる距離で撮影。
(距離2センチ)
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同じ日、散歩していてバッタに遭遇。
ハンミョウのようにすばしこい。
(せわしなく動いてとどまらない)
でも、ぼくもナンバ歩きで気配を消して瞬時に移動する。
(バッタは驚く、いつのまに?)
そして、バッタの前2センチにカメラを置く。
(これはなんだ?)
ピントが合うまで時間がかかる。
(バッタのなかにはカマキリのような危険因子とは認識されない)
(その合間をついて)
― 撮影できた。
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それも一瞬のできごと。
バッタは、すたこらと路肩の草むらへ走り込む。
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花や虫は相手(人間)が安全かどうかを
本能的に判断しているのではないだろうか。
花は人間に認めてもらいたい。
人がいなければ、花を愛でる存在はない。
観測という行為が存在の根源にあると量子力学は語る。
だから、存在を認めて語り掛ける。
すると風に揺れていたのがぴたりと止まる。
無意識に押したシャッター音で我に返る。
その瞬間、光が花と人間を往復する。
光の粒子には意思疎通がある。
それをテレパシーと呼ぶのかも。

花はそれで良いとして
虫は自分の直前にレンズが来ると嫌な感じがするだろう。
それでも危険かどうかの処理に判断の空隙ができるのではないか。
空隙 ― それは好奇心(と仮にしておく)。

人間には海を泳いでいた微生物や虫の遺伝子がある。
だが虫にも人間につながる原形の遺伝子があるのだ。
危ないもの見たさの躊躇とスリルが人間の遺伝子から間借りしてわき起こる。
けれどそれも束の間、
現在の姿として持っている本能で
虫の性に戻って逃げていくのだ。


posted by 平井 吉信 at 00:00| Comment(0) | 生きる

2015年07月18日

台風一過 クマゼミの羽化 こぼれおちる太陽 空に向かって歩みをすすめる 

(サスペンスドラマの紹介文のような長いタイトルになってしもた)

どんよりとした雲が広がる朝、
朝起きると庭を見て回る。
すると、蝉の抜け殻に気付いた。
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ここの土で七年過ごした宿主はどちらに?
と探していたら軒下にいた。
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距離は約3メートル。
わざわざ桃の木に行かなかったのは
朝は雨がぱらついていて
退避していたのかも。

羽根はまだ伸びきっていない。
足取りもおぼつかない。
人間と視線を合わせるも先を急ぐ彼女(メスである)。
小さなオーバーハングを10分ほどかけて
越えようとしたそのとき、地面に落下した。
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誰かに踏まれたり小動物に食われる危険がある。
少しだけお節介をして桃の木にとまらせた。

雲の切れ目からこぼれ落ちる太陽をめざして
少しずつ上へ上へと。
(それをニコンD7000を片手に樹上から撮影するアクロバット)
(こないだも沢沿いの岩場に咲く山野草を撮影していて沢に落ちたっけ)
(それは慣れっこ)
(それよりも桃の木こそ迷惑)
(でも今年は毛虫を数十匹退治してウシガエルにやったから)
(食べたの?)
(わからない?)
(ウシガエルを飼っているの?)
(そうではなく、近所に住んでいるつがい)
(きょうもいるかな、とあいさつをするのが日課)
(ひとりごとはとりあえずおいといて)

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キキョウの花を背後に少しずつ上がっていく
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彼女は、人でいう額に
宝石のようなアクセサリーをまとっているのにお気づきだろうか?
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(実はこれも目。セミには5つの目がある)

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視線を合わせるセミとヒト。
残された時間は異なるけれど、
どちらも夏の太陽の下、息をしている。
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翔べ、大空をめざして!
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クマゼミの危機に対して手を差し伸べたのは集団的自衛権ではなく
誰かが救うだろう、未来にツケを回せという集団的無責任ではなく、
ただ生きている個体の判断。

この国よ、翔べ、大空をめざして!

(ニコンD7000+AF-S Micro 60mm f/2.8G)
posted by 平井 吉信 at 13:23| Comment(0) | 生きる

2015年07月13日

「かさね」という言葉 ― かさねとは八重撫子の名なるべし ―


この春に「紫の上かさね」と名付けた山野草のことを書いた。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/118377747.html

希少種ではないかと自生地を明らかにしなかったが、
その後、勝浦川沿いの堤防に至るところに生えていることがわかった。
その名前はクサフジという。

そのとき浮かんだのは、
芭蕉が「おくのほそ道」を綴ったなかで
那須野を訪れた際に弟子の曾良が詠んだこの句。

かさねとは八重撫子の名なるべし
 

馬をひくおかっぱの童女の名前が
「かさね」という鄙にはまれな名前であったことに着想したもの。

「おくのほそ道」は推敲された紀行文学だけれど
それでいて飄々とした一筆書きの潔さがある。
空間に響かせたときの余韻がいい。
(音の情景を楽しむともいえる)

「おくのほそ道」は学生時代に授業で習っているはずだけれど
いまのあなたの年齢で振り返ったとき、どんな世界観を感じるだろうか。
とはいえ、古典をひもとくには気が重いという方、
Kindleならこの解説本がいいだろう。
(リンク先は電子書籍)
おくのほそ道(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典<ビギナーズ・クラシックス 日本の古典> (角川ソフィア文庫)<ビギナーズ・クラシックス 日本の古典> (角川ソフィア文庫)

(紙書籍はこちら)
おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)


東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得されたドナルド・キーンさんは
「おくのほそ道」の世界を英訳で紹介している。
宮田雅之さんの切り絵が句ごとに挿入され
午後の紅茶を飲みながら読み返した名著。
「かさね」の句には次の英訳を施している。

Double--that must be
The name somebody gave to
A double-petalled pink.


全編を通してキーンさんが綴る
夢のような余韻を楽しめる本である。
この本は一句ごとに挿入されたカラーの挿絵を楽しみたく
めくりつつ出会いを楽しめるので
Kindleで買う選択肢はない。
(リンク先は紙書籍だが、入手は難しいかもしれない)
対訳 おくのほそ道 (Illustrated Japanese Classics)

クサフジという名のありふれた山野草だが
那須野にいた童女を思わせる素朴でありながら
遠くは万葉のあずまうたに通じる世界がある。
源氏物語への遡及は無理があるかもしれないが
京都に生まれたら優美な姫になれたかもしれないと
「紫の上かさね」と名付けたもの。
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仕事は多忙をきわめていても
ほんの10分だけ、ネットサーフィンの手を休めて
遠い時代の旅を胸にあたためることができれば
それはまたそれで生きる力になるのではないか。
(仕事の合間にこれだけのブログを更新しながら頭は仕事の着想を得ようとしている)
タグ:勝浦川
posted by 平井 吉信 at 11:28| Comment(0) | 生きる

2015年07月08日

タイムマシーンの出口にある松林 北の脇海岸


阿南市北の脇海水浴場は、徳島県南を代表する渚。
小学校時代…海水浴といえば、ここである。
学校でバスを貸し切り、浮き輪に尻を落として
夏の太陽の下、
ざぶん、どぶん、ゆらり、と波に遊んでもらう。
(波は友だちだから)
唇が紫色になったら、砂に潜り込む。
波で砂を洗い流してスイカ割りだ。
海の家では、おにぎりや焼きそばを食べる。

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とある夏休み

「行くよ」
「待って!」
松原まで走っていこう。

「口笛聞こえない?」
耳を澄ましてみる…。聞こえてくるのは松原のざわめきだけ。
「口笛?」
その音は彼女の右横30センチのところから聞こえてきた。
息をはずませた呼吸のまま、誰かが口笛を吹いている。
風がささやくように、空気をわずかに震わせていた。
「うん、聞こえる」
口笛はそのまま彼女の頬を撫でるように通りすぎると、
もうふたりの間に距離はなかった。

 国道を左へ 海に向かう真っ直ぐの道
  色づいた早稲の海 自転車ですり抜ける
   入道雲 田に風わたり せみの合唱
  そのとき松林から蝶が飛び出した
   動くものみんな 夏

学校が半日で終わった午後、自転車に乗って海水浴にやってきた。
彼女は浮輪につかまり、漂うように沖へ出ていく。
ぼくはその横を伴泳する。
水が冷たく感じられるころには、浜が小さくなっている。
見上げた空の高さと白い雲……空が視界から突然消えると、
しょっぱい感覚がした。それが二人にとって初めてのキスだった。

太陽は西へと傾いている。
さっきと同じ道なのにまるでちがう景色に思えてきて…
(きっと疲れたんだよ)
背中でこっくり──。
この道はもうすぐ黄金色に変わる。


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  .。'*・☆、。・*:'★     .。・*:'☆
 ☆、。 ・*'★ .。 ・':....*.:'☆        .。・:'*・':'・★


海開きには少し早い。
あの夏がやってきた!
夏はいまもそこにあるし
夏はこれから始まろうとしている。
おとなの衣装(分別)を脱いで
背の高い子どもに戻ろう。

思い出とは過去をあたためることだけでなく
未来への燭光であり、風を送るタイム扇風機。

空を映す鈍色(にびいろ)の海
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荒れ気味の渚から松林へ入ると
ここだけ時間が止まっている。
タイムマシーンの出口のようだ。
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世代を重ねがらも
あの日と同じような蝶が蜜を吸い、
ほほを撫でる風が松林を吹き抜ける。

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日常と非日常の接点を行き来しつつ
ヒトは生きていくことができる。
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そのような生き方、そのような土地を選ぶのは、自分。
(楽園は、それを見ようとする心のなかにある)
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さて、あなたは?

 → 北の脇の夏休み
 → 上向きの視線は人間が夏と交わした契約
posted by 平井 吉信 at 13:16| Comment(0) | 生きる

2015年06月14日

石見銀山の古民家を改修した宿にて


日本の歴史をひもとくとき、
明日香とともに出雲は欠かせないが、
これまで出雲は訪れていなかった。
そこで4月の初めに、
蒜山、大山、妻木晩田遺跡、皆生温泉、境港、美保関、
中海・宍道湖を経由して出雲へ入った。
(これらの旅日記は折を見て…)

宿は、 石見銀山のある大森町で
古民家を改修した宿に泊まることにした。
松場登美さんが経営されている他郷阿部家である。
偶然だが、(株)いろどりの横石知二さんと
3月に東北で講演会で一緒になられたことを
予約後に知った。

古民家は、
その風土のなかで育まれたかたち(というより智慧)に
持続可能な未来へ向けての箴言が含まれていると思う。
吉野川の第十の堰もそうであったように、
未来へのメッセージは至るところに落ちている。

上勝町の谷崎勝祥さんは、
全国棚田100選の「樫原の棚田」で保全の取り組みを続けてこられた。

標高600 メートルまで張りめぐらされた水路。
その昔、米は経済や生活の中心であり、
いかに効率的に米を作るかが農家の知恵。
劣悪な自然条件と闘いながら築かれた棚田も、
高齢化による耕作放棄や山林への転換が進む現在、
維持する苦労は並大抵ではなく、
数年後には維持できなくなりそうだとも言う。

棚田での農業はもはや経済的には成り立たなくなっている。
しかし、降った雨を受け、時間をかけてゆっくりと川へ流す棚田の役割は、
人と自然が調和した水循環のしくみである。
近年、「棚田」がマスコミ等でも取り上げられるようになったが、
棚田が持つ治水・利水効果はもとより、
生活と結びついた文化的な意味、
生態系に果たす役割などについては、都市の住民どころか、
多くの生産者も気づいていない。
「棚田は大きな水の器であり、ミミズの穴が都市を潤している」と谷崎さん。
しかし、里山の荒廃を憂えて、谷崎さんは次の戯れ歌(ご自身談)を読んだ。

ヒューと鳴き 棚田に近づく 鹿たちよ もみじの山に帰れよはやく

(里山びとの呼びかけに鹿から返歌があった)

去れという棚田のひとよ もみじ山 いずこにありや 杉ばかり見ゆ

棚田は、山に降った雨を一度に下流に流すことなく
時間と空間で受け止めて少しずつ下流に流す考えは
近代治水と対極の考え方である。

樫原の棚田に水が張られた(2015.5.17)
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(谷崎さんは数年前にお亡くなりになられている)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

伝統が尊いのではない。
かつてそこにあったものの本質を見つめて
いまの暮らしに合わせて再定義しないと
形骸化してしまう。

古民家とて然り。
これらは修復して未来に引き継ぐ「遺産」ではなく
これからも活用していく生きた「資産」であるはず。

世界遺産に登録された石見銀山のある大森町で
古民家を再生して日々の暮らしで使っている
松場登美さんのお話しを伺うこともあって
今回泊めていただくことになった。

徳島からの旅人は少ないらしいが、
私がデジタルサイネージコンソーシアムを通じて
存じ上げている方が泊まられていることを知った。

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こんな台所は男でも憧れる(包丁を研ぐのが趣味なので)
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おにぎりは、握り加減が肝。ある意味では究極の料理
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翌朝、大森町の集落を散策して感じた。
家々の軒先には季節の野の花が飾られている。
それは旅人をもてなす(=演出)けれど
住む人の心を映したもので
日々の暮らしの場を見つめている。
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だから、このまちは、
観光地としての記号を発していないし、
迎合する雰囲気を持っていない。
それゆえ、心のひだに触れてくる。

他郷阿部家は、
口コミサイトでの得点を意識した至れり尽くせりの宿ではない。
そこに住む人が心地よい空間を用意して
ともに分かち合おうとする座を提供している。
だから、食事は、客人と家人が同じ席で談笑しながらいただく。
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それゆえ、その土地で短期滞在をしているかの感覚を覚え
旅の印象、まちの風情を濃厚に感じるのだ。

レビューの得点を気にしてサービス競争に陥る宿、
パスポート、キャッチコピー、親善大使、コンテンツの仕掛けなど
四国各県で観光の仕掛けを行っているが、
アピールをすればするほど、風土と旅人、
いわば、風と土の関係が見えなくなり
旅人と四国の間に距離をつくってしまう。

石見銀山が世界遺産に登録されたのは、
数百年前から持続可能な産業構造をめざしていたことにある。
大森の町も未来へと続いていく人々の営みが感じられるから
若い人たちがまちに住みたいと思えるのだ。

都会でのくらしはよそよそしい、乾いている。
さりとて、田舎暮らしに憧れて移住した人が受ける洗礼が
田舎ならではの窮屈な人間関係である。
コミュニティ活動の名の下に
人間関係を無理強いする悪癖がどの地方にもあるが、
大森町ではそれは感じなかった。

ぼくは、家元に代表される伝統芸能に興味はないし、
形骸化していると思うけれど
伝統のかたちをなぞることが無意味だとは言い切れない。
特定のかたちが精神に影響を及ぼすことはあるだろうし、
身体感覚の奥深くに芽生える共感や畏れもあるだろう。
だから、自分なりに実践してみようと考えている。
それでも、いまの時代の精神に照らして
変えるところ、変えてはいけないところを見極めていく必要があると思う。


どんな家に住みたいかと自問自答してみる。
大手ハウスメーカーから地元ビルダーまで
高すぎる天井、ダイニングキッチン、オール電化、おしゃれな階段…
金太郎飴のようなモデルハウスを見る度、
空間が人の心とどのように作用するかが見えて来ない。
平均化された社会への従属意識が強い人はそれで良いのだけれど、
どうもそうはなっていないのがこの頃の住宅。
住む人が主で、住まいは従なのだが…。

幼い頃、押し入れを隠れ家にしたあの感覚がモデル住宅にはないでしょう。
風雅かどうかは別にして、にじり戸を開けて入る茶室はどうですか?

現代のモデルハウスに見るような住宅の違和感は、
多世代の家族が交わる感覚が希薄というのがひとつ。
その反面、ダイニングスペースで無理に家族の交流を
強いているやりきれない感覚がありはしないだろうか?
個としての自立や覚醒をうながす構造になっているだろうか?

機能的には、
広い容積であって高気密高断熱に違和感がある。
これは空気が汚れたら一家全員が一度にやられることを意味する。
いつまでも匂いがこもることも想像に難くない。
それを換気システムで動かせば、低周波の暗騒音で
神経がやられてしまうだろう。

さりとて地元の木材で木の香りに包まれて…とやられると
マーケティングの匂いを感じてしまう。
究極的には、風土のなかで生きていくことと、
家族や外の人々との関係性をどのように構築したいかを
突き詰めて産み落とされるものだろう。

他郷阿部家の造りは伝統的な古民家の材を活かしてはいても
個と家族、集団の関係が整理されていることの心地よさがあるようだ。

石見銀山の土地の力、場の持っている生命力を投影した暮らしを
「群言堂」で展開されている。
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この方がお召しになっておられるのは他郷阿部家の衣装
(群言堂ブランドで販売されているかも)
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風土と食べ物、衣服は密接に関わりつつ、
まれ人に触発されて通じる風の道は根っこへの滋養となり、
土地びとに触発されて感じる土の匂いは
旅人に立ち止まるきっかけと元気を与える。
旅の本質はそこにあるのだ。

松場登美さんは、7月5日に徳島は井川町に来られる。
フォーラムの参加には申込が必要なので以下をご参考に。
http://www.gungendo.co.jp/?p=7665
http://www.topics.or.jp/localNews/news/2015/06/2015_14331174265507.html
http://www.tokushima-u.ac.jp/docs/2015060400033/files/270705.pdf

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posted by 平井 吉信 at 01:17| Comment(0) | 生きる

2015年05月23日

ブログからつながること 教育からつむぐこと


SNSはやっていないけど、
Web上に名前や顔写真、電話番号まで載せていると
良いこともある。

自分の世界観を打ち出していくと
そこに共感する人たちと最短距離で出会える。
すでに相手はこちらの思いがわかっているので
いきなり本題に入れる。
そこには、SNSのわずらわしさ、
お義理の「いいな」、からみ、炎上とは無縁。
ケータイ電話に「はじめまして」の着信をいただくこともある。
(そのためにWeb上に番号を公開している)
ラインのような内輪の閉じた空間ではなく
あくまで共感を求めて外へ開いていくもの。
それが匿名でないWebやブログの良さかも。


このブログがきっかけとなって
中学生の頃の同級生の女の子と電子空間で再開することができた。
当時の彼女のイメージは、足が早く運動神経が良くて
素朴で飾らないけれど笑顔がまぶしい小麦色の女の子。
(彼女の笑顔は好きだった)
感じたことを天然色で表現できる
連続テレビ小説のヒロインのようだった。

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話が弾んだのは中学の恩師について。
M先生は、当時齢七十を超えていた数学の教師。
春夏秋冬よれよれの灰色のコートを着て
手には黒板を指さす棒を持って
初登場のとき、机をぴしりと叩いて授業を始めたときは
教室が静まりかえった記憶がある。

がっしりとした骨格に引き締まった筋肉質の身体、
張りのある声はいまの30代〜40代には求めえない骨太さ。
風貌だけでも威厳に満ちていたが、
権威は一切まとっていない。
(学校や文部省の方針、出世にも頓着しない)
(教師というよりは数学者、哲学者というべき)
3年間の授業では、にこりともしたことがない。
誰にも媚びず、生徒を怖がらせる存在であった。

ときに声を荒げてて
「おせ(阿波弁でおとなの意)にならんとわからん」
などと苛立つこともあるけれど、
わかるように教える、わかるまで教えるという信念と
やさしさの照れ隠しのような感情を含んでいたと。
(中三の1学期には微分積分にまで進んでいた)。
「畏敬」とはこんなときに抱く感情。
そのとき教えてもらった生徒はみんな感じていた。
ぶっきらぼうな言い方ではあっても
生徒への愛が根底にあることを。


設立されたばかりの私立中学の第1期生だったので
後に学園の理事長となる方ともキャッチボールをした記憶がある。
歴史がないことで、学園が上から下まで等距離にあった。
先生と教科書以外の関連内容で質問したり討論することも少なくなかった。
屋上には後藤光学製の20センチアクロマート屈折赤道儀を備えた天文台があり、
当時は周囲が暗かったこともあって
肉眼の900倍の光を集める口径20センチ50倍の視野に
まぶしいばかりのオリオン星雲M42を捉えた夜には
♪ オリオン舞い立ちすばるはさざめく♪と
片道30分の真っ暗な土手沿いの道を
「冬の星座」を歌いつつ自転車を漕いで帰った。

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当時の学園は、徳島市内でありながら荒野に埋もれるような場所で
麦畑のような葦原(秘密基地をつくっていた)の道を駅に歩いていくと
M先生の自宅があった。
(スタジオジブリの素材になりそうな光景)
一度、数人で尋ねたことがあるが
自分に厳しく律する哲学者のような暮らしに感銘を受けた。

国語のF先生はやはり70歳を越えていたが
対照的に好々爺で、孫に接するように語りかける。
それでいて、背筋を伸ばし「稟」とした存在。
(やわらかな楷書、しっかりとした草書というか)

ときどきは教科書から離れて
時事問題や文学を語られるのだけれど
(特に瀬戸内文学など)
経験を積み円熟したものの見方を
わかりやすく展開していただいた。

その後、名門の公立高校に進むぼくであったが、
受験勉強は一切しなかった(これまでの人生でも一度も受験勉強をしていない)。
学校ではすでに高校の教科に進んでいたし、
受験勉強とはいえ、いまさら中学の教科書を繙くのも気が向かない。
さらに、学校には受験生がいないので合否のデータがなかった。

進学校とはいえ公立の高校に入った途端、
あまりの教師の水準、志の低さに愕然とした。
彼らは生徒が理解しようとしまいと時間通りに進めるだけ。
授業に創意工夫が見られないのだ。
この経験は、後に人前で話をするようになるぼくの反面教師となった。
高校の授業はおもしろくないので
授業中は天文学や天体物理学などの本を読みあさっていた。
教科書もわくわくするおもしろさがなかったし。

その後、レールの上を歩かず自分で人生を切りひらいていくと決めた。
大学では求めるものがないと判断して
(実際にそうだろう。狭い範囲であっても専門性、実用性はないし、広く俯瞰する汎用性、応用力も得られないだろう)
独学でさまざまな学問を勉強と実践をいまも続けている。
それは中学時代に得たものが大きかった。


再び、中学に戻ろう。
とある夏のこと。
F先生は、受け持ちの生徒全員(といっても7人しかいないので事実上の英才教育)を
明日香村に連れていってもらったことがあった。

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このときの甘酸っぱいできごとは胸のポケットにしまうとして
その後、たびたび訪れる明日香、ひいては考古学、民俗学に引かれるきっかけとなった。
(三内丸山遺跡への承継、遠野物語への探求、先月も石見銀山と妻木晩田遺跡へ)

日本は教育にもっとも力を入れよう。
それも既存の領域の予算を増額するのではなく
押しつけの道徳を施すなどではなく、
これまでの教育のしくみをゼロベースで見直すべき。
志を持つ地域の人たちやプレーヤーを活用しつつ
閉ざされた学校から地域に開かれ、地域とともに地域の役に立つ
人生の多世代がクロスする場でありたい。
授業は覚えることから、
「考える」こと、議論と合意形成を身に付けることへ。
(そうしないと実際に行動できないだろう)
突出した個性ある人材を生み出せるよう。
そして教育費は限りなく低廉に。
(だって人材は国、地域、企業の資産だろう。教育機会の差がその後数世代にわたって影響しているように見えるから)

一機の原発の災いが引き起こした途方もない損失や
オスプレイの購入費を見るたび
お金(というか力を入れるべきところ)の使い途を間違えていると思う。
何度も言っているが、政治家と政党はすべて廃止しよう。
志と知見を持つ人たちによる費用弁償に置き換えるべき。
場合によってはプロジェクトごとの任期付の雇用や特命もあり得る。
住民を巻き込んでコミュニティとして行動していくためには、
コンサルタントに依頼してはいけない。
中央集権は弊害のみ。
移民をもっと受け容れよう。


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あんなことがあった、こんなこと覚えている?
そうだったね。

人は、思い出を食べて生きていけるけれど
人生は短いようで長いから、
もっと輝く未来が待っているに違いない。

posted by 平井 吉信 at 19:10| Comment(0) | 生きる

2015年05月14日

凛とたたずむ


沢筋の木かげの森に群生するヤマシャクヤク。
陽光を受けて黄色にも緑にも見える白。
すべてを映し出しながら
ときに向こうが透けて見えそうなときもあり
それでいて自らの個性を輝かせる。

見る人が想像を膨らませても
ヤマシャクヤクは凛と風に揺れるだけ。

全体として躍動しながら
個々の花が存在をひらいていく。
社会もそうありたい。

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憲法はどのような役割を担っているのか?
自衛権と自衛の方策はどうあるべきか?
原発のない社会をどのようにめざすか?
教育は国の力なのに大学の学費を値上げ?
個人情報の秩序ある保全とは?
科学振興やものづくりは?
まち・ひと・しごと、地方創成の意義は?
補助金や交付金に依存しない方策は?
国がやるべきこと、地域がやるべきこと、地域、地区、個人の役割とは?



posted by 平井 吉信 at 10:49| Comment(0) | 生きる

2015年04月08日

初号スーパーニッカ 別れのグラスはさらになつかしく


今年の桜は雨にたたられた。
それでも、こんな桜は見られた。

(大山の麓の仁王堂公園から)
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続きはいずれまた。

新しい年度が明けたが
仕事は山ほど待っている。

それでも文章を書くこと、音楽を聴くことは好きだから。

夜更けを迎える頃、
発売日に手に入れた初号スーパーニッカ復刻版と向かい合う。
テイスティンググラスから口を付けて口を湿らせる。
口のなかで蒸発させるがごとく
飲むのではなく転がすのでもなく
ただじっと待っている。

浄水器シーワンの水を口に含む。
このとき水のおいしさが滲みてくる。
水を流し込んで初めて気付くのが
舌の奥、咽の入り口あたりに残る
少し塩気を含んだ甘酸っぱい香り。
鼻に抜けてまた香る。

ウイスキーの良さがわかると
ほかの酒に戻れなくなりそうなほど。

ウイスキーはほんの少し。
だけど、水割りにはしない。
少し飲んでは水を流し込む。
音を立てて咽を通り過ぎる
冷たい、それでいて、ほのかな甘み
逆説的には、ウイスキーは水のおいしさを引き立てるとも言える。

音楽はマッサンのサントラをかけている。
アマゾンではなく、ototoyから購入する。
アマゾンのダウンロードはmp3だから魅力がない。
ototoyからは、wavとflacの両方で購入することができる。
たまたま欲しい曲がマッサンの3枚のサントラにまたがっていた。
ダウンロード購入はこんなとき理に叶う。

その3曲とは、
マッサンのメインテーマ
Auld Lang Syne(蛍の光)〜Orchestra Ver.
The Parting Glass 〜Piano Quintet Ver.〜

マッサンのメインテーマは、スコットランドの民族楽器を配しつつ
前を向いて草原を駈けていくかのようなみずみずしさに憧れる。
夢や希望、不安を織り交ぜつつも
上を向いた瞳に憧れをたたえた青春の一コマ。
(作曲 :  富貴晴美 )

このドラマの成功は
ヒロインを演じたシャーロット・ケイト・フォックスにある。
(といっても仕事でほとんど見られていないのだが。しかもブラウン管のアナログテレビのわが家ではテレビが見られなくなるのは秒読みに入っている)

彼女の演技は計算を感じさせないのに
すみずみまで繊細な感受性と大胆な表現が散りばめられている。
日本語を話せない、理解できないはずなのに
言葉の呪縛を離れて感情が裸になって突き動かしていく。

きわめてEQが高い人なのだろうと思う。
彼女の共感力が、まわりの人の共感を引き出し
場の空気を作り出す。
それを引き出したのが
マッサン(玉山鉄二)の公私を越えた支えや気付きにあるのだと思う。

2曲目に選んだのは、螢の光のオーケストラ版。
閉店で耳にするあの音楽と同じ旋律とは思えない
オーケストラの奏でる和声の縦の構造が複雑な人の感情に訴求する。
螢の光/Auld Lang Syneの持つ旋律は
どこにいても、誰が聞いても「なつかしい」。

3曲目は、同じくスコットランド民謡の旋律から
The Parting Glass 〜Piano Quintet Ver

Of all the money that e’er I spent
I’ve spent it in good company
And all the harm that ever I did
Alas it was to none but me
And all I’ve done for want of wit
To memory now I can’t recall
So fill to me the parting glass
Good night and joy be with you all

今まで私が持っていたお金は、
すべて気の合う仲間たちと一緒に使ってしまった
人を傷つけることもあったけれど、
結局最後に傷つくのは自分だった
後先考えずにやったことなんて
今となっては思い出すこともできない
だから、別れの一杯をついでおくれ
さようなら 楽しんで生きておくれ…


人生を悟ったエリーが雪の河畔にひとりで口ずさむ。
雪化粧、白鳥のうた、辞世の句。
https://www.youtube.com/watch?v=eAJPkPbABd8

初号スーパーニッカはグラスの底に名残惜しそうに溜まっている。
きょうも時間をかけてここまでたどりついた。
人生の最後にやって来る別離を祝福するかのように…。

別れのグラスは最後の数滴になり、
やがてウイスキーはなくなっても
さらにさらになつかしく、香りを漂わせる。
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 → 連続テレビ小説「マッサン」オリジナル・サウンドトラック

 → 連続テレビ小説「マッサン」オリジナル・サウンドトラック2―北海道・余市編―

 → ニッカ 初号スーパーニッカ 復刻版 700ml



タグ:音楽
posted by 平井 吉信 at 00:11| Comment(0) | 生きる

2015年04月05日

小松島市で地域おこし協力隊の募集のお知らせ


このブログとご縁のある方で
三大都市圏にお住まいであって
田舎暮らしをしながら社会の役に立つ仕事がしたい方にお知らせです。

小松島市が地域おこし協力隊を募集中です(市の嘱託職員)。
(募集要項、応募用紙、待遇など)
https://www.city.komatsushima.tokushima.jp/soshiki/16/tiikiokosi.html


業務概要としては、
「共通業務」
小松島市の地元では地域資源の掘り起こしや活用方策、
柔軟な発想による地域おこし提案などを行うとともに、
フェイスブックやインターネット動画配信などによる
地域おこし活動などの情報発信を日常的に行う。

「商工観光業振興支援」
地域行事・イベントの運営・支援や空き店舗の利活用
(例:チャレンジショップ・アンテナショップ)も含めた中心市街地活性化の検討、
地域資源の発掘による観光地としての情報発信、
みなとまちづくり支援活動(NPO法人との連携)などを行う。

「農林水産業振興支援」
「こまつしまブランド」など特産品の開発と物産販売・情報発信、
里山等の環境保全への地域支援活動、
生き物調査、関係団体と連携しての六次産業化支援等を行う。

募集対象
(1)心身ともに健康で誠実に職務ができる方
(2)任用される前に小松島市に住所を定めたことがなく、任用の日に年齢20歳以上、40歳未満の方(性別は問いません)
(3)三大都市圏及び政令指定都市(条件不利地域を除く)に現に在住されている方で、小松島市に住民票を移すことが可能である方
(4)地域にとけ込み、地域の自治会活動に参加できる方
(5)普通自動車免許を取得している方(マニュアルが望ましい)
(6)文書作成(ワード等)・表計算(エクセル等)・E メールを使用できる方

募集期間: 平成27年4月1日(水)から平成27年4月30日(木)必着

ということで、参考となる情報を以下に集めてみました。

港には外国航路の客船が立ち寄り、巨大なたぬきの公園があります
http://soratoumi2.sblo.jp/article/102997084.html

小松島は人口4万人のちいさなまち。昭和のテイストを残した二条通など。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/101853542.html

まちのすぐそばなのに、人が踏みこまない静かな渚があります。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/114463056.html

港のそばに広くて走り回れる緑の公園があります
http://soratoumi2.sblo.jp/article/102997084.html

特急が止まる駅から市役所まで3分です
http://soratoumi2.sblo.jp/article/81295030.html

里山では勝浦川の伏流水を利用しておいしい米がつくられています。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/76293552.html

かつては四国の玄関口として栄えた旅客航路や日本一短い国鉄の路線があり
京阪神からのリゾート客が海水浴を楽しむまちでした。
http://niki.main.jp/komaline/index.html

市街地の背後には日峰山があります。
http://soratoumi2.sblo.jp/article/104415420.html

ジブリの平成狸合戦ぽんぽこで有名になった金長たぬきは小松島の出身です。
映画の題材として広く使われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E7%8B%B8%E5%90%88%E6%88%A6

竹ちくわ、ちりめん、アシアカエビなどの海の幸が豊富です。
一方で、徳島県の木になっているヤマモモは全国生産の7割を占めるなか
その主要産地が小松島で、私の親戚筋が栽培を始めたものです。
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=15467


地域おこし協力隊は全国で展開されている総務省の所管する事業です。
うまく行っている事例もありますが、成果の出ない事例もあります。
うまく行かない事例を分析すると、
(1)自治体が求める仕事内容が明確でなく雑用係となっている。
 → 自治体に明確なビジョンと人を活かす工夫が求められます。
(2)活性化の仕掛けを協力隊に丸投げして協力隊が孤立化している。
 → 行政、商工会議所などの経済団体、NPOなどが協力隊と一体となってフォローすることが求められます。いわば協力隊の夢を叶えるサポーターの存在が必要です。

この2つが主な要因です。
幸いにして小松島にはそのようなことは少ないと思われます。
(行政スタッフが優秀です)

応募要項からは、
中心市街地の活性化と第一次産業の振興が2つのテーマであり、
そのための企画、調整やコンテンツ作成といった役割を求めていることがわかります。

協力隊のみなさんが陥る失敗の要因は、
(1)地元への調整、根回し、ていねいな説明を省いて行動しようとして自ら孤立してしまう。
 → 巻き込みがなにより大切。共感を得るためには能力よりも資質が大切です。
(2)地域の課題の解決を、自分の得意分野に収斂しようとして地域ニーズと乖離してしまう。
 → 協力隊はある意味では地域の課題を解決するのと個人の夢が合致させる事業ですが、誰も求めていないことをやることは意味が労多くして実りが少ない結果に終わるでしょう。

地元に溶け込みながらも、なじみすぎず、共感と問題意識の両面を持つことが求められます。
ここで成果を出したら、これからのあなたの可能性が見えてくるかもしれません。

応募する前に質問等がありましたら
小松島市産業振興課(0885-32-3809)
もしくは私(平井吉信)までどうぞ(070-5680-7800)。
(行政関係者でなく一市民です)


posted by 平井 吉信 at 15:06| Comment(0) | 生きる

2015年03月29日

四国の春 点描 2015年3月

春は豪華絢爛のときを迎えつつある。
四国各地の春を集めてみた。
(富士フイルム X20)

四万十川 中村の赤鉄橋上手の右岸の菜の花
http://www.city.shimanto.lg.jp/kanko/img/news/news20150307.pdf
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石垣の里に展示されていた小学生の愛らしい作品(愛南町外泊)
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JR四国 予讃線下灘駅(双海町)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%81%98%E9%A7%85
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吉野川第十堰下流の北岸

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最後は、那賀川下流の岩脇公園の桜から。
http://www.rurubu.com/season/spring/sakura/detail.aspx?SozaiNo=360002

どんがん淵から流れ出す小川が那賀川へと注ぐ。
幼い頃は葦が繁る沼地で
子どもは近づかないように言われていた。
近年は、どんがん淵の周囲を整備して公園となった。

昨日の晴れが打って変わって雨。
それでも午後から雨が上がり、夕方近くになって薄日が射してきた。
買い物がてら足を伸ばしてみよう。
ひょうたん型のどんがん淵の中央には赤い太鼓橋がかかっている。
(富士フイルム X-E2+XF35mmF1.4 R)

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雨の雫を宿す
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薄曇りのやわらかな光にたゆたう
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もう夕方だね、帰ろう。
桜が満開を迎えると五月の薫風は近い。


posted by 平井 吉信 at 20:14| Comment(0) | 生きる

2015年03月23日

那賀川中流域のオキナグサ


春の色、那賀川下流編から半月が流れて
中流へと遡ってきた。
季節も山へ向かって駆け上がっていく。
ここも水量は多く流れは早い。

春を迎えることを心待ちにしている。
まるで初めて春に出会うように。
季節がめぐること、それは地球がめぐること。
血がめぐること、それはいのちがめぐること。
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木々や草花が次々と芽吹いていく。
期待と不安が入り交じる人の春。
清い流れも濁った流れも人の世ゆえ。
矛盾を抱えて生きていくのが人だから
歓びが多いほど無常もまた然り。
無常であるから歓びも輝いて見える。
そのことを教えてくれるのが、春なのだ。
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いつもの河原をたどってみる。
山からの小さな流れ込みが本流に流れ込み
砂と岩がつくる生態系の妙。
ここは、那賀川が生み出した奇跡の場所。

陽光とそよ風が瀬音をきらめかす。
弁当を持ってピクニックに来ている男女を見た。
テーブルのような岩に腰掛けて
彼女の手作りの料理が並べられ
おいしいお茶でのどを潤している。

春を駆け足で知らせに来たオオイヌノフグリのときめき
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岩に這いつくばるスミレがいい
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浅瀬に集まっておとなになる日を感じるオタマジャクシ
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最初のオキナグサはいつもの場所にあった。
でも100人中95人はこの花に気付かない。
数年前のように花があちこちにあるという感じではない。
それでもあるところにはある。
それも千手観音のような盛りつけで。
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両手を広げて存在感を示す子どものように
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産毛が西に傾いた太陽に照らされてまさにオキナ。
やがて白髪のオキナグサに変わってしまう。
人の世のように。
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竹取の翁の「かぐや姫の物語」は日本人の世界観を表出している。
諦念を覚えて人は執着を放つことができる。
月の衣を着ることは
地上の記憶を失うことを意味するが
自ら切り放せたとき、魂の存在が見えてくる。


posted by 平井 吉信 at 22:04| Comment(0) | 生きる

2015年03月14日

文明の始まりは麦酒の始まり 竹鶴12年から17年へ 

人が小さな集団で生きていた頃から、
部族間で争いが起こると解決の手段(和解)を求めて宴がひらかれた。
同じ席で飲食をともにして
過ちを犯さないよう互いの絆を深めていく。
その席では、大麦を発酵させた太古の麦酒がふるまわれたという。
(最初の麦酒は何かの偶然で発見されたのだろう)

あれから数千年、
太古の麦酒の子孫ともいうべきウイスキーがつくられている。

ぼくは酒飲みではない。
(ウイスキーなら数年かけて1本空けるぐらい)
おいしい酒を少量味わうことが好きなので
ウイスキーも手が届く範囲で10数年をかけて揃えてみた。
親父は髭のブラックニッカばかりであったが、
ぼくは好奇心で同じウイスキーを2回買うことは稀。

ニッカでは、オールモルトをよく買っていた。
サントリーでは、山崎12年を3本買った。これはいい。
外国では、ジャック・ダニエル、ジョニーウォーカー 黒、
マッカラン12年、グレンフィディック12年、オールドパーなど。

西暦2千年、ニッカから竹鶴12年ピュアモルトというウイスキーが発売された。
口のなかをなめらかに伝い、ほのかな蜜の味とともに
うまみが濃く回されていく。
宮城峡の華やかさを基本に余市のコクが顔を出す。
おそらくはウイスキーが売れない時代に
贅沢なモルトが選ばれて合わさったのではと想像。
これがぼくがもっとも好きな銘柄だったけど
このところのウイスキーブームで原酒が足りなくなったためか
竹鶴12年は廃番となった。

手元には、竹鶴、竹鶴12年、竹鶴17年がある。
竹鶴12年に代わって発売された竹鶴(無印)は
アルコールが残る後味で手が伸びない。
(竹鶴の名称を付けないほうが良かったのでは?)
竹鶴17年は12年をさらに濃厚にしたような感触だが
何度も飲んでなじんだ12年が好み。
フロム・ザ・バレルなども手に入りにくくなった。

ブレンダーの技と意思が
1つとして同じ風味のない樽から交響曲を奏でる。
だから、同じ銘柄でも買う度に風味がわずかに違う。
ウイスキーは生き物だからそれでいい。
この次の竹鶴17年はどんな表情を見せるだろう。
(余市の熟成ものにはまだ手を出せていない)

深夜、音楽を聴きながら
竹鶴17年をワイングラスに入れて
香りをかざしつつ
時間をかけてそのままで味わう。

舌の上を転がす時間は短いけれど
麦の熟成にも似て、思いは走馬燈のようにかけめぐる。

浄水器でろ過したミネラルの多い水を一滴一滴足していくと
そのままでは気付かなかった別の表情が出てくる。
あるいは、そのままを、追い水と交互に飲むことも多い。
香りとともに竹鶴17年の扉が開き
舌触りで幸福感のスイッチが入り
水で伸ばされて現れる素顔を発見していく。

良い音楽と良いウイスキーだけで人生は語れないけれど
生きる時間を楽しみなさい、と教えてくれる。




【3/23追記】
アサヒビールのプレスリリースから引用
https://www.asahibeer.co.jp/news/2015/0320.html
 ニッカウヰスキー株式会社(本社 東京、社長 中川圭一)が製造する『竹鶴17年ピュアモルト』は、ウイスキーの国際的コンテスト「ワールド・ウイスキー・アワード2015」(WWA)において、「ワールド・ベスト・ブレンデッドモルトウイスキー」を受賞し、“世界最高賞”のブレンデッドモルトウイスキー(ピュアモルトウイスキー)として認定されました。
 『竹鶴17年ピュアモルト』が世界最高賞を受賞するのは、2012年、2014年に続き今回で3回目となります。
 また、『竹鶴21年ピュアモルト』が07年、09年、10年、11年にワールド・ベスト・ブレンデッドモルトウイスキーを4回受賞していることから、「竹鶴」ブランドとしては今回で7回目の受賞となります。1ブランドが7回世界最高賞を受賞するのは、WWA史上初となります。

 『竹鶴17年ピュアモルト』は、“日本のウイスキーの父”と呼ばれるニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝の名を冠したピュアモルトウイスキーです。深みのある香りで、凛としたボディ感と爽やかな余韻が特徴で、様々なタイプの原酒をバランスよく組みあわせ、長期熟成することで生まれるリッチな樽熟成香と長く持続する豊かで重厚感あふれる味わいが楽しめます。

 『竹鶴17年ピュアモルト』の評価のポイントはバランスのとれた味わいで、審査員からは「スモーキーでありながら甘みを感じさせるバランスのとれた味わいが絶妙である」といったコメントがありました。


タグ:音楽
posted by 平井 吉信 at 12:34| Comment(0) | 生きる

2015年03月05日

仕事の合間に立ち寄ったカフェにて


徳島市内の山のふもとにある
花と緑に囲まれたとあるカフェ。
雨に濡れた夕方に「ここにいるよ」とささやかれた気がして。

DSXE7883-4.jpg
(フジX-E2 XF35mmF1.4 R→f1.4)

西三子山の福寿草は盗掘で全滅に近いと聞いたけどどうだろう?
花はそこにいるのがしあわせ。
(花を悲しませて「楽しい」ですか?)
わざわざ現地を探し歩いて
そのお裾分けをいただくのが、ささやかな歓び。

それは、長いようで短い、短いようで長い、
地球の歴史ではほんの一瞬、
いのちを感じる刹那の遭遇にときめくしかないから。

山深い土地であれ、まちのカフェであれ
春のささやきに耳を澄ませる季節。



タグ:カフェ
posted by 平井 吉信 at 11:25| Comment(0) | 生きる

2015年02月11日

いつもいつも見つからなくても言葉は社会から預けられた道具 


生まれて一度も使ったことがない言葉はたくさんある。
知らないから使えない、ということはあるとしても、
意識して使わない、使えない言葉がある。

そのひとつが「マジ」。
(伏せ字にしたいぐらいなのだが、それではわからなくなるので)
中学の同級生がよく使っていたけれど、
最初に聴いたときに意味がわからなかった。
前後の文脈から察すと「まじめ」「真剣に」という意味ではなさそう。
そのときのわからなかった経験が心に残骸となって
この言葉は使わない言葉となった。

この類はほかにもある。
「ハンパナイ」というのもそう。
中途半端ではない、を短くしたのかと思ったけれど
意味が少し違うような気がする。
ひねらずに「優れている」のひとことで足りる。

「正直、もうダメだと思いました」のように使う
「ショウジキ」も使いたくない。
「正直に言って」を略しているように見えるけれど
「率直に言って」に近いように感じられる。

言葉って無頓着に使いがちだけれど
人を傷つけたり誤解されたりすることは避けたい。
どこかの国で演説を行った誰かの言葉が「誤解されて」
(相手方からみれば、「誤解をしたふりをして」)
口実を与えたかもしれない。

スポーツのインタビューで
「ぼくの(私の)プレーで被災地の人たちに夢や希望を与えられたらと…」
のコメントを耳にすることがある。

えっ!?
言っている人には悪意はないと思う。
でも、これを聴いている人はどう思う?

夢や希望って、さあ、どうぞと与えられるもの?
誰かの言動がきっかけとなることはあっても
自分で掴みとり感じるものではないだろうか。
世界平和のためには?の問いに
「家に帰って家族を愛してあげてください」と答え、
人々に無償の愛を伝えたマザーテレサならどう言うだろうか?

もっともスポーツ選手(典型的な体育会系の人)の場合、
あまり深く考えずに話している人が少なくない。
「きょうはね、まっすぐがね、いいコースにね、ちょうどきたんでね、バットを思い切り振りました。チームに貢献できて最高っす! これからも応援ヨロシク!」

国語を磨いて生きている人たちではないことはわかるけれど
スポーツだって洞察力や直感力、感性が必要では?って思う。

その点、イチローのインタビューは機知に富んでいて楽しい。
記者の思惑をはぐらかしつつ
スポーツ選手の既成概念を覆すやりとりのなかに
彼のプレーにつながる要素が垣間見えるのだ。

大リーグで長きにわたって一流選手であり続けられるのは
PDCAサイクルを意識して回しているから。
彼のなかでは毎日の決まり決まった日課や所作があって
その結果、何がどのように変化したかを観察して修正している。
結果に一喜一憂することなく、
納得できるプロセスを積みあげることを大切にしているように見える。
そのことがかえって結果につながっているのだ。

すぐれた動体視力、強肩、俊足という3つの強みを活かした
プレー様式をつくりあげている。
ドラッカーなら、強みを活かして特化できた選手と評するだろう。

だから、部分的な筋トレなどではなく
骨格の動きを中心に、
神経作用の伝達や筋肉の動きを磨き続けているのだろうと思う。
しなやかで、したたかな野球への向き合い方が
言葉ににじみ出ていると思うのだ。

言葉を使ううえで暗黙のルールがあるとしたら
その言葉が誰もが認識する意味(語義)で使うことだろう。
(辞書を引けばわかるということ)

単語を組み合わせて感情を解き放つのが文章であり言葉であるはず。
ルールというよりは言葉を使う「前提」と捉えたい。

いい楽曲だなと思って聴いていると
歌詞がひっかかることが少なくない。
(もったいない)
歌詞は論文ではないし国語の問題集でもない。
(学術論文でも無意味な二重否定の多用、〜と言えなくもないであろう、あざやかに記録を残す選択肢を考える余地がなかったというべき〜など持って回った「学者表現」が鼻につく。論文こそ、気取りを捨てて簡潔に伝えるべき)

歌詞は聴き手が自在に自分のイメージをふくらませ
自分の体験や思いを重ねて捉えられたらそれでいい。
だからこそ、語義をいじる使い方は避けた方がいい。

クールジャパンの本質のひとつにアニメの表現がある。
そこで、90年代のある人気アニメを分析しているところ。
世界各国で放映されたもので
もう20年になるというのに根強い人気がある。

作品の転機となる場面で挿入される歌の一節にこんなフレーズがある。
「夜のまほうの 封印はなって」

自分をかばって倒れた恋人を抱きかかえて
主人公が涙を流す。
すると、幻の銀水晶が引き寄せられるように出現する。
放心状態でたちすくむ主人公。
そして、仲間に見守られながら
探し求めていた月のプリンセスが現れる。
純白の衣装を身にまとい、
重い運命を背負う永遠の哀しみと諦念さえ浮かべた主人公がうつむきがちに、
そして顔を上げてかすかに微笑む。

花びらがはらはらと舞い降りてくるような
晴れやかで朗らかでおだやかな慈しみ。
この作品の白眉の場面と思う。

ただ、「封印を放つ」とはどんな意味?
見えざる力が働いてて封印が解けていく。
この「封印が解かれる」状態を「封印を放つ」と言い換えられる?

とはいえ、全200話のなかでも
作品の世界観が凝縮されたこの数分。
「そっと耳をすまして 甘やかな吐息…」の作詞の感性。
寄り添う楽曲とコーラス、心の変化を暗示するコード進行。
初めて大切な人に触れたときのときめきと切なさを思い出して
胸が熱くなる人もいるだろう。
(美少女戦士セーラームーン 第34話「光輝く銀水晶! 月のプリンセス登場」)

もしプッチーニがこの場面を見たのなら
感動してオペラをつくったことだろう。
彼の「蝶々夫人」第一幕で、
蝶々夫人が日傘をさし友だちを従えて
背後にきらきらと光る海を愛でつつ
弾む息をこらえつつ歓びを隠そうともせず
しずしずと登ってくるあの場面の音楽のように。
(蝶々夫人の第1幕はぼくの宝物)

余談だが、各国の言語でアニメ化されているのを見ると
やはり日本のアニメはオリジナルのまま、字幕で見た方がいいと思われた。
声優の細やかな表現、間合いの取り方、息づかい、
それに音楽との一体感が作品に生命を吹き込んでいる。
海外での吹き替え版はまるで大味で
翻訳した台詞をそれらしく当てはめているだけのように聞こえる。

正しい言葉を使うことが目的ではなく、あくまでも言葉は道具。
言葉が感情を伝えるとは限らないし
感情を的確に伝えられる言葉が
いつもいつも見つかるとは限らない。
それでも、生身の人間だから、
一つひとつの言葉を品定めしつつ
社会から授けられた道具を大切に使っていきたい。

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2015年4月6日(月)18時30分からNHK BSプレムアムで再放送とのこと
http://www.nhk.or.jp/anime-blog/0010/207768.html


posted by 平井 吉信 at 11:51| Comment(0) | 生きる

2015年02月08日

「なに」をするか、ではなく「どのように」


事業仕分けが行われたとき、その事業は是か非かで仕訳が行われた。
問題は事業そのものではなく、その運用ではないかと考えている。
政権が変わると予算の配分が変わり、選択と集中が行われる。

年金記録のチェックをしよう、
中小企業の支援を行う拠点をつくろう、
日本人が危険にさらされたとき救助すべきだ―。

そのこと自体は誰も異論はない。
問題は、それをどのように行うか。

多額の費用をかけて成果が得られなかったとしたら―。
政策が目的とする支援対象者に届けられず、元締めが潤うとしたら―。
請け負った事業者が現政権に関係がある、かつて政権にいた者だとしたら―。
軍需産業や憲法改正、自衛隊派遣の口実になるものとしたら―。

大義名分がパフォーマンスとなって
国民の目を欺きつつ特定の誰かが利得して
それが環流する政官財の癒着が見えてくる。

それなのに、
まじめにこつこつ執行されている大多数の事業が減額されていく。
(事業仕分ではやぶさ関連の予算が削減されたと聴いて驚いた。一律にばらまいたところで国の未来はつくれない。日本の強みを伸ばす予算は削減してはならない)

消費税を増税して景気が減速すると
またもばらまきが行われる。
それらは一時的なもので財政を悪化(=未来から借金)させるだけ。
(もし増税をするのなら、財政はむしろ引き締めなければ)。

この国には問題が山積している。
けれど根源をたどっていくと2つか3つの課題に帰結するように思える。

・少子高齢化 → 人口減少と生産活動の衰退。
       → 各産業で構造的な人手不足
       → 世代間の不公平感 → 晩婚化で少子化が加速
・中央集権  → 利権の温床と補助金依存の構造
       → 地域や国民の自立の機会の喪失
・格差が広がる社会 → 貧困層の増大
          → 教育の機会均等の喪失
          → 持たない者の健康や食生活が脅かされる

日本はすでに負の循環に入っている。          
これらの課題にただちに着手しなければ、この国はどうなるのか?

あるべき姿は、日本の強み(クールジャパン)を伸ばすこと。
・最低限の公助(財政規模に合った身の丈の小さな政府)を基本に、共助、自助を中心とした地域社会をつくる。
・格差の是正をうながす(税制措置として消費税のわずかな増税、資産課税や累進課税の強化、法人税は軽減しない→ すぐれた経営者は法人税率など問題にしない)
・世代間の格差の是正
・食糧の自給に向けて産業政策
・製造業の国内での拠点回帰、ものづくりの楽しさの啓発
・外国人労働者の受け容れ緩和
・近隣諸国を最重点に、いかなるイデオロギーとも対立しないで日本のすぐれた価値観(クールジャパン)を啓発する真の意味での平和国家。
・観光の本質を磨く(といっても国は何もしなくていい。日本の文化やおもてなしに憧れて外国から来るのは口コミが原動力なっていて政策などではないのだから)

もはや政党政治は機能していないし、
良識ある政治家が引退したり、落選することが少なくなく(=有権者に見る目がない)
政治には期待はしない。
(だからといって無関心はもっといけない)
その代わり、国から地方に至るまで議員を廃止し
特定のテーマ毎に専門的知見と現場感覚を持つ人を集めて
権限を持たせ(これまでの行政主導の委員会ではなく)
公開で議論を行い
その成果を踏まえて行政が執行していくのがよいのではないか。
(議員報酬の代わりに費用弁償程度を支給)

報道でさえ本質を伝えなくなっている。
気骨のある政治家、ジャーナリストがこの世を去ったり高齢化している。
NHKを筆頭にマスコミが権力に屈している。


何が正しいかそうではないかという基準はあくまで相対的なもの。
現実の世界(社会)は矛盾だらけ。
それがあたりまえ。
社会が矛盾に充ちていて、この世界が理想郷でない以上、
矛盾を矛盾として抱えたまま、顕在化させずに生きていくことはできる。
それが、人生であり、経営(マネジメント)であり、国家の舵取り。

大切なのは「どのように」行うか。

追記

数年前、ある政治家が公費である島を購入しようと計画を企てたことがきっかけとなって
近隣国と関係が劇的に悪化し、双方の国に精神的物理的な損失をもたらした。
「正しさ」を振りかざして国益を損ねた。
国内外で多くの犠牲者を巻き込んだ
70年前のできごとから何も学ぼうとしていない。
(イスト、イズムを越えたところに日本ならではの花が咲いている)

何が正しいかではなく、それがどのような影響を及ぼすかに思いを馳せること。
なにかに取り憑かれたように周囲が見えていないのではないか。

経済とて時代錯誤だ。
ピケティーの著書を読むまでもなく
戦後のある時期だけに発現した現象を
人口減少の低成長期のいまに処方しようとしている。
滴はしたたり落ちたりしない。
なぜなら泉が沸き上がってこないのだから。
このような時代には格差を是正する方向でなければならない。

この国の行く末に対して処方箋が見当たらない。
「おめでとう」と愛でる気分にはなれそうもないので
年賀状は数年前から筆が止まっている。

どのような国にしたいかを一人ひとりが課題として受け止めて
よく考え、自ら実行していくしかない。
一人ひとりにできることを地道に―。
宮沢賢治もあのケンジさんもそう信じていたはず。

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東京出張の帰りの飛行機から見えた富士山
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東京駅 丸の内側
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併設されている水族館にふらりと
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光のプロムナード
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posted by 平井 吉信 at 12:43| Comment(0) | 生きる

2015年01月08日

冬の「天涯の花」しずかに

いまは冬の四国だけれど
夏の剣山に思いをはせている。

天涯の花―。
宮尾登美子さんが1996年8月から1997年2月まで
徳島新聞に綴った連載小説。
その後、舞台やドラマでも上演された。

人のつながりのみならず、
人と風土のつながりをつむぐ文章は
天涯の花、仁淀川など四国そのもので
凛とした光の柱が立っているのを感じた。

そして、昨年末に天璋院篤姫のように旅立たれた。

2012年から2014年の夏の剣山で撮影した
キレンゲショウマを捧げたい。

森に包まれてふくらむつぼみ
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仲間から離れてぽつんと咲いている
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月の妖精のような花。
それぞれ自分の見せ方を知っている
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谷間にうつむいているだけでなく、光のかけらを投げかけているような
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キレンゲショウマ・パルマータ。涙をためた珠子のように露をやどす
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季節は夏 虫たちが忙しい
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華やかな森の精 早朝は霧に包まれるはず
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日陰の花ではなく、陽光を求めてすくっと立ち上がる。
キレンゲショウマは月光と太陽の両方を味方にしているのだ。
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あたり一面に広がる光景は夏の剣山の風物詩
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冬の剣山の銀世界を思いつつ
険しい沢沿いの斜面にひろがる
黄色の桃源郷を待っている。

何度も読み返した「天涯の花 」(集英社文庫)

特に感銘を受けた「天璋院篤姫」(上) (講談社文庫)

同じく「天璋院篤姫(下) 」(講談社文庫)



追記

つるぎ町役場の篠原さんは
東京の宮尾さんのご自宅まで
何度か地元の特産品の干し柿を持参されたという。
人のつながりから地域も仕事も動いていく。



posted by 平井 吉信 at 11:48| Comment(0) | 生きる

2014年12月31日

一年を終えてベートーヴェンの第九


ベートーヴェンに出会ったのは十代の終わり頃。
心の糧としてしみこんできた。
畢生の大作、セイヤーの「ベートーヴェンの生涯」(上下)を
数ヶ月かけて読み込んだ。
作品を録音したレコードを集め、
9つの交響曲の総譜を見ながら
いつか指揮する日が来ると信じて
感じたことを書き込んでいった。

年末は第九という人は少なくないけれど
ぼくもそのひとり。
生きていることの証しとして
身体で受け止めながら聴く。

第九で年を越えるのではない。
第九で一年を終えるのだと思う。

ベートーヴェンとは何だろう?
向き合ってきて
ベートーヴェンの人間像が近く感じられる。
ぼくには音楽室に飾られた楽聖のしかめっ面をした印象はない。

もっとおどけてもっと陽気で
器用な人ではないけれど
生きることの歓びと哀しみを背負って生きた人だったのだろうと思う。
どんな場面でも人生肯定の匂いがする。

うたう人を、聴く人を
知らず知らず高みに押し上げてしまう。
しかも、踊らされた感はまったくない。
一人ひとりが自ら駆け上がろうとする。

そのような人はいそうでいない。
第九は第九であって
ほかの作曲家には書けないのだ。

個と全体の結びつきを切り放すことはできず、
さりとて個は世界を染めることはなく
身近なできごとを昇華して
宇宙の響きに高めていくなど
宮沢賢治の世界と近い気がする。

第九の第1楽章の冒頭の崩れ、
展開部から再現部の魂の振り乱し、
第2楽章の妖精のクールな熱狂の舞、
第3楽章の人間が書いた最良の天上の響き、
第4楽章の単純さは人を世界の歓喜に押し出す。

第九のレコードやCDはたくさんあるけれど
年末に聴くのはこれだけ。

ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱つき》[バイロイトの第9/第2世代復刻]

第九で終える理由?
ベートーヴェンがいなければぼくは存在していないから。
posted by 平井 吉信 at 15:43| Comment(0) | 生きる

地元の産するものをいただく


今年の梅酒は良かった。
泡盛と蜂蜜でていねいに漬け込んだ。
新酒でありながらふくよかで
香りが跳ねながらも旨味は落ち着いている。
市販品とは比べられないほど。
ひねものではこの感じは出ない。

梅干しも良かった。
塩としそだけでていねいに漬けただけ。
ふくよかで後味が良く何個でも食べたくなる。
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ゆこうのジャムも良かった。
流通に乗せる商品は賞味期限を伸ばすために甘さを控えることはできないから。
だから、酸味のなかの果実の風味がうねる。

塩レモンも良かった。
人の体が欲するからか、何でも使いたくなる。

地元で採れたものを自分でつくる。
地産地消とはマーケティングではなく
生き方を指す言葉。

お金を持っている、
地位を持っている。
それよりも、食べることで
地元の人たちの顔が見えること。
地元で生きていく覚悟をすること。

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posted by 平井 吉信 at 15:42| Comment(0) | 生きる