2023年08月11日

入道雲遙か さよなら夏の日


「さよなら夏の日」は山下達郎の名曲。
10代の頃、ガールフレンドととしまえんのプールに行って雨に降られたことがモチーフとなっていると聞いたことがある。けれど都民の思い出のとしまえんも2020年8月31日で閉園した。

青に浮かぶ入道雲は空と海の境目を消して軽々と青を浮かべては深沈と青に沈む。
焦燥感と大胆な行動が隣り合わせで、できないことだらけなのに、できないことなどないと思える日々の象徴。広げては広げてさらに広げたくなる。それは無茶かもしれないが、広げなければ生きていてもつまらない。どんなに青くてももっと青くても(だれかが言っていたね、「愛してるの言葉だけで強くなれる気がした」って)。
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時代とともに色が薄れていくけれど、みかけの青の後にあるどっしりとした階調が見え始める。
分別というよりは本質、できないことができていく代わりに、できないことは増えていく不思議。
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さらに色は淡くなって忘却の彼方に沈んでいくけれど、できることが少なくなる。でも絞り込んでいくと、見つめる視点は深く、それなのに視野はさらに広がる。
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この海の深さは比類のないもの。動けなくなるほど。
遙かな入道雲は生きてきたみちを地平線に投影して見るようだ。

(美波町志和岐にて。フジX-T5+XF60mmF2.4)

写真を撮るって愉しいよね。心が感じたときにシャッターを押しているという感じ。そのときにカメラを無意識でダイヤルを回して絞りやシャッター速度、ISO、フィルムシミュレーション(画質設定)に触れている。一連の儀式のような操作がまた愉しい。スマートフォンでは永遠に追いつけないヒトの官能性に訴求するところ。「映える」画は見ていて疲れるだけ。AIでつくりこんでいない画は心にすうっと入ってくる。
 
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posted by 平井 吉信 at 22:14| Comment(0) | 生きる

2023年08月07日

台風とともにコロナにご警戒ください


台風6号は動きが遅いため、長時間の降雨や線状降水帯の発生が懸念されます。
そこで台風を中心とした災害情報のリンク集を提供しております。
(以下をブックマークしてください)
http://soratoumi2.sblo.jp/article/184340384.html

この情報のほとんどは海陽町在住の日比光則さん裕子さんご夫妻の提供によるものです。


台風で換気が難しくなるここ数日、コロナ感染が懸念されます。
時間を見て少しずつでも換気を行ってください。
できれば全熱交換器や第1種換気(機械吸気+機械排気)で空気の流れをつくること。

サーキュレーターの使用もおすすめです。サーキュレーターは24時間365日使うので基本性能が大切です。低消費電力のDCモーター仕様は必須(1万円以上が目安)、気流の流れをつくるには首を振らさず固定します(首振りタイプは可動部が故障や騒音の原因となるので最初から首振り機能なしを選びます。そもそもサーキュレーターは扇風機ではありませんので)。

毎日新聞デジタルに寄稿されている谷口恭先生(谷口医院院長)は、先月に自身が初めてコロナに感染したが、数時間の軽症に終わった経験をもとに書かれています。航空機での出張中に食事をしてしまったことが原因と推察し、従来から続けられてきた鼻うがいが有効であったこと、かかりつけ医への相談が前提となるが、悪寒を感じたら麻黄湯の服用が効果的だったとしています。
(参考記事「私のコロナ感染 発症数時間ですっかり回復」(2023年8月7日、谷口恭・谷口医院院長。毎日新聞デジタルには有益な記事が多く有償契約をおすすめします)。

私は外出から帰ったらただちに鼻うがいをしています。密室での会議など感染の可能性が高い場面を離脱すると出張先のトイレなどでもただちに実施しています。鼻うがいのおすすめは以下の製品です。
ハナノアb シャワータイプ(https://www.kobayashi.co.jp/seihin/hna_s/

上記のタイプが経験上からのおすすめで、ドラッグストアならどこでも入手できます。付属の洗浄液は出張時のみの使用にとどめ(食塩水を持ち歩けないため)、家庭では食塩水を使用するとより快適です(生理食塩水の濃度=つんとしない、ぐらいであればだいたいで可)。花粉症の人は鼻のすっきり感が違ってくるという副産物もあります。風邪を引きにくくなると谷口先生も言われています。

谷口先生のような最高に警戒している方でも感染が起こりえるということは、マスクをしていない人(あるいは付け方が不十分な人)は感染予備軍もしくは感染者かもしれません。五類になって「見たくないものを見ないふりする」コロナですが、現状でもすでに大流行の可能性が大きく、盆明け後に非常事態宣言が出ることも含めて予測対応しておくべきです。

コロナを根絶することはできません。2019年12月以降はコロナとともに生きる人類社会となったと考えるべきです(コロナの根源の理由がなくなっていないため)。鳥インフルエンザのヒト型変異の可能性や亜熱帯の風土病の温帯への上陸など、感染症対策は日常化していくことになります。

事業所においては二酸化炭素濃度は700PPM未満を目標に、マスクについては家庭では家族1人あたり200枚、職場では従業員1人100枚を最低基準に備蓄を行ってみてはいかがでしょうか?

台風も感染症も備えあってこその人生。それこそが幸福に生きる前提です。

追記
コロナが根絶できない根源の理由とは何かという質問をいただきました。
COVID-19のような感染症はヒトや家畜が未知のウイルスとの遭遇がきっかけです。
そのウイルスは熱帯雨林など未開の地にいます。
(ただしアマゾンなどの熱帯雨林はヒトにとって有益な効能を持つ微生物や新薬開発のきっかけとなる遺伝子資源の宝庫でもあります。それゆえに熱帯雨林を破壊してはならないのです)

ヒトが未開の地を開拓(破壊)しつづける限り、未知とのウイルスや風土病との遭遇はなくならず
ヒトが世界中に移動する現代は拡散を止めることも不可能です。
さらに温暖化が熱帯地方の風土病を北上させています。
そのうえ、ウイルスの突然変異、他の生物を媒介にさらに危険度の高い変異(例えば強毒性の鳥インフルエンザがヒト型化するなど)の怖れがあります。

つまり、温暖化と熱帯雨林の破壊(開発)とヒトの移動という3つの根源要素がなくなることはないのでコロナは撲滅することはなく、ヒトの社会と折り合いを付けて共存していく段階に入ったと考えるべきです。コロナひとつをとっても終息することはありえない以上、熱いからといってマスクをはずせない社会となっていることに気付くべきです。
(屋外で人が少なければマスクは不要ですが、ヒトが集まる場所では野外でも必須です。盆に阿波踊りを見に行く方はマスクを忘れずに。自身の安全を考えれば踊り手もマスクは必要でしょう。コロナ感染は後遺症によるQOLの低下や命の危険が伴います。ヒトの命の重みに思いを馳せて行動してください)




posted by 平井 吉信 at 10:59| Comment(0) | 生きる

2023年07月29日

家事はマルチタスクのWindows ときに同期させたりずらしたり 炊飯は調理の要 ここをどうするか?


遊んでばかりいるように見えても日付が変わるまで仕事をしている(そうは見えないですか?)
それから入浴やら雑用(家事)をして、寝る前に音楽を聴きながら読書して(たいていは5分ぐらいで落ちる)就寝。

だから趣味に生きる自由人などとはほど遠い、暮らしのマネジメントゲームをしながら合間に好きなこと(仕事や遊びなど)をやっている感じ。

家事とは複数のタスクを同時並行で行う必要があることは経験者ならご存知のとおり。これのついでにあれを仕込んで、終わった用事を片づけつつ、入ってくる情報を取捨選択しながら判断して次のタスクの準備や調整(自分以外との関係性から発生するもの)を行いつつ、隙間を広げていくマネジメントゲーム。

その家事も炊事、洗濯、掃除、ゴミ出し、片づけ、連絡調整とマルチタスクをさまざまなレシピで管理していかなければならない。そこに重要性と緊急性を勘案しつつ費用対効果、時間帯成果を求めて折り合いをつけていく。家事をその家で主にやっている人は会社を経営しているのと違わない。

そこに家事のモノサシをつくって変えるべきこと、変えないことを決め、効果的なやりかたを考えて家事の優先順位や手順を再構築することで、楽にミスなくしかも良い結果につながるようにする。これを家事のDX化という。

その際に道具を採用することで楽になることがある。例えば窓の清掃にはエトレのスクイジー(家庭向きには真鍮製35センチが良いだろう)を使うなど。

調理については、ぼくは子どもの頃から好奇心とおいしさを求めてやってきているし、掃除についてもセミナーなどで5Sや清掃のコツなどもお伝えしている。基本は楽してミスなくしかも良い結果というもの。

素材に変化を加えてヒトがおいしく安全にかつ栄養素を吸収しやすくするためには科学的な考察が必要だ。特に温度(加熱)と菌の増殖やおいしさの生成、タンパク質の変性、味を構成する要素の引き算などかな。つまりは安全の確保と素材を活かす調理が基本となる。

それに加えてヒトが先天的後天的に獲得した味を描く(記憶する)能力、感性も大きいと思う。ぼくは同じ食物なら数年前であっても比較ができる。そのため、食品の製造会社の担当者に「以前と比べてここがこうなっていますね」などというと驚かれることがある。季節によっても風味が異なるのは素材ならではで卵などは鶏が食欲がなくなる季節には当然味は落ちる。

身近な米ひとつ取っても奧が深い。米は東アジアの温帯モンスーンに住む日本列島の住人が数千年かけて獲得した消化器系への適合の高さがある(食事にパンを出されると食べた気がしない人も少なくないだろう)。それゆえ米に対する適応性の高さ(裏を返せば食物アレルギーなどの拒否反応の少なさ)につながっている。

食卓は米を中心に組みたてるべきとして、炊飯はなかなかの手間である。その手間とは、洗米して適量の時間に浸水させて炊飯器に適量の水を入れて炊けたら今度は釜が空になる時期を見計らって次の炊飯の準備を行うことである。このサイクルは家によって違うが、1人暮らしでなければ少なくとも1日1回以上は発生する。

炊飯には、良い米を使うという基本がある。それも日々食べるので求めやすい価格であること、安全でおいしいのは当たり前。

うちでは、近所で良い水(地下水やら山の湧き水)を使って自家用(農薬の使用量が明らか、もしくは販売用には名乗れなくても実質無農薬や低農薬に相当する)に米をつくっている複数の農家(専業兼業も兼業農家もある)さんから直接米を玄米で分けてもらって、それを毎日自宅で5分づきに精米して食べる。
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(梅干しはもちろん自家製)

これは米で重要な栄養素を摂るのと風味のコクを失いたくないためで、分搗き米から白米に変えると味気ないと思う。分搗き米は玄米と違って毎日食べても胃腸に負担がかからない。玄米を一般家庭で食べるという選択肢は炊飯がよくわかった人のみに限られる。白米では米のもっとも大切な部分を捨てるので食べる意義がないともいえる。
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米は定温(10度ぐらい)で玄米で保管するのが品質を保持しやすい。家庭用の精米機といっても大げさなものではなくポットぐらいの大きさで価格も2万円ぐらい、精米時間も1分ぐらい。自家製ぬかができる副産物もある。

さらに炊飯においては、切れ目を見ながら最後に食べる人が食べたい量が食べられなかったり、中途半端に余って容器に入れて冷蔵庫で保管することになれば冷蔵庫の容量も圧迫する。つまりは切れ目をどうするかが課題となっている。

うちには5台の炊飯器(うち3台は中古で全部で1万円しない)があって、それぞれ役割がある。うち1台は70〜75度1時間の蒸し焼きによるマスクの再利用専用としているが、残りは食品用である。
(マスクは感染予防の基本なのではずさないのが賢明。コロナの後遺症が残るヒトも少なくない。さらに感染症はコロナだけではないので)。

炊飯器による定温乾燥は短時間使ったマスクを再利用できる唯一の方法である(マスクは洗えない、アルコール、紫外線、オゾン、高温殺菌…いずれの減菌法もフィルター層を破壊する)。
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炊飯についてはサンヨー、タイガーの炊飯器で米を炊き、炊き上がったら東芝の真空炊飯器に移して保温専用としている。翌日になっても米はおいしい(酸化を防げるので風味の劣化はほとんどないし、白米と違って分搗き米は炊飯後に風味が変わりにくいのもある。野球でいえば先発(炊飯)と抑え(保温)の分担、負荷の高い「炊き専」は2台を確保して長いペナントレース(人生)を乗り切るつもり。これに対して保温は高い性能を要しないが、真空化できるのがミソ。

そうすることで炊飯器が壊れても慌てなくてすむ(炊飯手段の冗長化)のも利点。分搗き米の浸水は数時間かけているが、時間のあるときに研いで冷蔵庫でジップロック保管して翌日炊くことも多い。冷やした米は甘味も増す。

余談だがストックとして無印良品の冷凍食品で玄米の塩にぎりがあって、少しご飯が足りないときにはそれも重宝する。これは意外においしい。

今回は米(炊飯)を中心の話題だけれど、家事はヒトの暮らしを中心に効果的なやりかたを組みたてていくと成果が得られるし、工夫も愉しい。ここに書いてある家事の考え方や方法論は徳島の生態系や風土を気に入られて移住された方からの受け売りである。そのお考えに共鳴しているので積極的に採り入れている。

男は家事をしないなんてありえない。男女の区別なく家事を研究、工夫することで、生活の質を高めるとともにそこで生まれた余白にやりたいこと、好きなことをやっていったらどうでしょう?

追記
5台の炊飯器といっても台所におけるのは2台だけ。あとは別室で管理しています。
posted by 平井 吉信 at 15:49| Comment(0) | 生きる

2023年07月17日

街が壊れ社会が壊れ 現在から未来が消える日本


きょうもスーパーで買い物の帰りに生まれた街を遠目に見る。子どもの頃の街は、こうだった。
自宅から徒歩3分圏内に八百屋と市場が5軒あり、良く買う店はあるが、どの店でも分散して買うようにしていた。

徒歩5分で映画館が2軒あった。同じく5分ぐらいで本屋が2軒、ひとつは5階建て、もう一つは広めのフロアの2階建て。駅から歩いて帰るまでに天文学の専門書を立ち読みすることもできた(子どもの頃は天文学者になりたかったので)。

子どもが遊べる土の広場が徒歩3分で2ヶ所にあり、ひとつは樫の大木と神社を従えていた。もうひとつは時計台と森とブランコがあった。草野球、ろくむし、温泉、缶蹴り(すべて子どもの野外の遊び)をするのなら前者、かくれんぼや虫取りをするのは後者、そしてこの2つを組み合わせれば陣取りもできた。陣取りは遊びの総決算、ロングバージョンともいえるもので、知恵と冒険と協力、組織としての戦略などを折り込んでなおかつ体力を要求する究極の遊び。

この2つの公園の間を線路が横たわる。遮断機を下ろすのは人の手で丸いハンドルを回して上げ下げする。そして長く連ねた客車がいつ果てるともなく踏切を過ぎるのを待たなければならなかった(10両程度はあっただろう)。

2つの公園の間には駅が2つあった。駅と駅の間隔は60メートルぐらいだが、それぞれ別の駅名とプラットホームと利用者層まで違っていた。日本でもっとも短い国鉄の路線でなかったか。

前者の駅は四国に航路でやってくる人たちが乗降する駅、後者の駅は市内から放射状に集まる道の交点にある生活者の駅。中学生になってこの駅から7時7分発の快速列車で私立中学へ通っていた(当時は13分の乗車時間であった。いまは20分以上かかるだろう。時代とともに速度が遅くなったのか?)。この線路は昭和の終わり頃に廃線となった。

いつもこの時代が今より良いとは思わない。川や海には公害があり、タバコは飲食店でも職場でも、職員室や病院でも吸っていた時代。ぼくはこの臭さが嫌いで人生を通じて1本も吸ったことがない。興味のないことをやらないことで、やりたいことに全力を注げるという生き方は子どもの頃から。

昭和の終わり頃として、平均的な給与はいまと同じか高かった。消費税はなかったか、あったとしても3%だった。田舎の工業高校やら普通科の高校を出て就職した若者が、アルマーニのスーツやツインカムエンジンの車、高級オーディオ(ヤマハのNS1000Mなど)を買っていたよ。

物価は明らかに安かった。円は安かったが、やがてその価値が上がり、ぼくが記憶しているガソリンは80円台(いまの半額ではないか)ぐらいで入れられた。円が高いので大学生がバイトで小銭を貯めては外国旅行へ普通に出かけていた。

郵便局に10年預けたらほとんど倍近くになって戻ってきたよ、1年間100万円を預けたら7万円の利息がもらえたよ、などというとウソのようだが、ほんとうの話。金の延べ棒だって1グラム1000円少々で買えたから(いまは1万円近いのでは?)。

小さな八百屋や電気屋、氷屋、薬局を営む世帯の子どもも大学へ通えた(うちの近所の薬局の息子はNHKの記者になってテレビで何度も見かけた)。自転車がパンクしたら、直してもらえる自転車店は子どもが押して持参できる距離に何店もあった。刃物が切れなくなった、ミシンの調子が悪く油切れかも、というときにすぐに小さくても専門の店があった。餃子を食べたい、中華そばやラーメンが食べたい、すしが食べたい、うどんが食べたい、お好み焼きが食べたいと思ったら電話ですぐに持ってきてもらえた(Uber Eatsがなくてもどこの飲食店も近所の出前はやっていた)。

いまはどうだろう。金持ちはうんと金持ちになったが、中流以下の大多数の世帯は貧乏になった。消費税は10%になり、しかも数年以内に20%程度まで上げようと目論む勢力がいる。小規模事業者にも課税するインボイスは実は大企業にとっても厄介な制度。デザイナーや著述業、フリーカメラマン、アニメーター、声優などクールジャパンなどともてはやされた人たちの廃業の危機があと数ヶ月に迫っている。

今や国民の所得に対しての税負担率は50%を超えて60%に達しようとしている。これだけの税金を納めたら北欧のようにゆりかごから墓場まで暮らしを保障してもらえるのかというと、そうでない。

ことあるごとに自助努力が大切と称して弱者を切り捨てていく。国に寄りかかる人たちは甘えているという考え方。しかし大半の人は努力を重ねても報われない。なぜそんな国になってしまったのか?

納めている税金は一体何のために使われているのか? どこにお金が行っているのかを国民が知ろうとしない限り、今の政治家たちは喜んで政治家を続けるだけ。

理想の国を作るには税負担をどのように設計し、どのように再分配を行うか、増税一辺倒の政策なき欲望に国民は声を上げなければ、未来はおろか現在も壊れてしまう。

誰も喜ばない制度として、マイナカードの紐付け(個人情報は芋づる式に紐付けしてしまうとたった1枚のカードからの漏洩でその人の人生が終わりかねないリスクがある)はやってはいけない。ただ残念なのはマイナカードを返納してもしくみはなくならないので自分の知らないところで自分の個人情報が漏れている怖れがある。この制度はいったい誰のため? 

サラリーマンの通勤手当などにも課税されるという。しかし国会議員はタダで公共交通機関に乗れるという。身を切る改革とのたまうどこかの知事のように1日の出勤で100万円をらえるかもしれない。

経済政策も間違えている。株価を上げる政策(カンフルを打たなければ上がらない)ではなく、株価が上がる政策をやらなければならない。それは国民一人ひとりが幸福を感じられる社会をつくること。それが内需の拡大、未来への夢を実現する行動を呼びおこし、科学技術や学問の世界で羽ばたくことができる。まずは格差をなくすこと、貧乏を根絶すること、生まれながらの不利なスタート地点を全員同じ場所に立たせること。

心理学では常識だけど、人は幸福感がなければ成功することはできない。成功するから幸福になるのではなく、幸福は成功の出発点ということ。だからまずは国民を幸福にすること。幸福とはなにかを定義して、その実現の処方箋を明らかにして、全力を傾けること。それが政治だろう、

その最初の過程で株価は下がるかもしれないが、それはこの国の実態経済なんだから仕方ない。しかし時間とともに株価は自然体で上がっていく。アベノミクスと黒田バズーカでの低金利政策・円安誘導は経済の衰退を加速してしまった。

つまらない政治の世界であるが、選んだのは有権者。無関心や知ろうとしないことで自分も周りの人間も社会も未来もダメにしてしまう。勉強すればいまの政治がやってはいけないことばかりをやっているのはすぐにわかる。偏った情報を鵜呑みにせず曇りのない目で世の中を見て欲しい。

このまま政治家に勝手なことをさせていると、幸せな国民が住む国には戻せなくなる。しかし処方箋はある。大企業も農家も子育て世帯もおひとりさまも高齢者も身障者も等しく幸せになれる。そんな方策はある。

結局、政治に期待するorしない(それは傍観者、評論家のコメント)ではなく、自分たちがつくっていく社会を、ありたい未来を描いて、それに近づける誰かに託すことからやっていくしかないではないか。
(マグマが溜まったら毒を吐かなければやってられないのでご勘弁を)
posted by 平井 吉信 at 23:43| Comment(0) | 生きる

2023年06月23日

令和5年沖縄全戦没者追悼式


戦争を経験していない身でも、78年前のできごとをあらん限りの想像で思うと涙を禁じ得ない。
きょうは令和5年沖縄全戦没者追悼式。インターネットで見ている。
https://www.youtube.com/watch?v=VXbL_Q2LrjM (琉球放送提供)

高校生の言葉が響いた。
おばあの涙は 摩文仁の丘に永遠にともる平和の日は いま私たちに問いかける
平和とは何かを 私たちにできることは何かを
(中略)
先人たちが紡いできた平和を 次は私たちが紡いでいこう
そして世界へ届けていきたい


日本は沖縄を大切にしなければならない。
なぜなら沖縄は、東アジアのくさびとなる地域だから、平和へ願いを持ち続けている場所だから、世界へ伝えていくべき思いだから。

あじさいの花は沖縄に捧げたい。
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タグ:あじさい
posted by 平井 吉信 at 11:29| Comment(0) | 生きる

つまらない社会(全体)を見たくないから部分に目を向ける アジサイ凝視


つまらない社会が加速していくのでブログを更新する気が起こらない。
防衛費増額(本質的に何の防衛にもならず武器商人を潤すだけ)、
難民に厳しい国(日本はあたたかい国ではないよ)、
社会の潤滑油で暮らしを支える小規模事業者や幸福と自らの生きる道を求めて起業するヒトを泣かせるインボイス制度(クリエイティブな仕事をしている人たちの廃業が続出する怖れ。インボイスの登録事業者になってはいけないよ。それは自殺行為)、
少子化対策には役に立たない子育て支援策(未婚率の高さが根源の要因なのにそこに手を入れようとしない見せかけのばらまき、そのうち消費税などで回収されるよ)、
マイナンバーカードと保険証は紐付けしないこと(河野大臣を見て信用できると思う? 個人情報が漏れても平気なヒトはいないはず)。
物価高、燃料費や電気代高騰、半導体不足やサプライチェーンの毀損でモノは入らない。
科学的な根拠に基づく適切な対策を放棄して感染症には蓋をして見ないフリ。
給与や所得は下がり、生きづらい国がますます生きづらくなっていく。
自公維新の責任ばかりではないけれど、少なくともこれらの3党には投票しないこと、それぞれができうる行動で社会を変えていく。
一人ひとりの国民が最低限、心理的安全性を感じられること、できれば幸福感があること。それが出発点。そうなれば個人も企業も若者も高齢者も問わず誰にとっても良い国となる。

いまの時期、どってへ行ってもアジサイ。これも1本のレンズだけで撮影してみた。場所は国道55号線の海南町の周辺(内妻海岸から少し南下した場所の旧道の沿道沿いに植えられているのですぐにわかる)。

つまらない社会で、わずか数十センチの世界のみが安住の世界となっている? いや、花の写真を撮るのも現実逃避みたいに思えてくるんだよ。
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フジX-T30+XF60mmF2.4 R Macro(どんなに高級なスマートフォンでもこんなふうには再現できないよ。おそらく「映える」写真しか撮れないから。やさしくやわらかく現実感を大切にするのならミラーレスのデジカメは持っておくと良いですよ)
タグ:あじさい
posted by 平井 吉信 at 00:04| Comment(0) | 生きる

2023年02月11日

吠えたい夜


吠えたくなる寸前である。国から身近なところに至るまで政治の劣化が度を過ぎている。国はマスクをはずせという(そうは言ってはいないが、一般大衆はそうは受け取らないことを知ったうえで計算してメッセージを出している)。

物価が上がり原材料が上がり、購買力が落ちているから価格を上げたら売上が落ちる。さらに小規模事業者やフリーランスをインボイスが直撃する。

仮に売上800万円のWebデザイナーがいたとしよう。取引先は法人がほとんどだから、望むと望まざるとに関わらず適格請求書発行事業者にならざるをえない。そして簡易課税を選択するとして消費税納税額は40万円となる。数年間は多少の緩和措置はあるものの、この負担感は大きい。益税ではないか、とうが、固定費がかからないことを価格に反映させているのが小規模事業者。その批判は当たらない。

コロナで苦境に陥って10万円とか20万円とかの給付を受け取っていたとしても、来年からは40万円の納税がプラスされる。仮にインボイスを選択しなければ消費税相当の値引きを迫られるだろう。すると前年と同じであっても売上は80万円の減少となる。Webデザイナーでも職業写真家でも著述業でも同じだ。インボイスに対応しちゃダメだよ。

コロナでは感染者の2%ぐらいが亡くなっているのではないだろうか。ぼくも身近な人を数人失っている。風邪とは違うのである。感染時は軽症に終わったが、その後長く続く後遺症で仕事を続けられない人も少なくない。感染を防ぐ最善策は換気とマスクであることはどの専門組織でも否定しない。換気なら1人1時間50立米を入れ替える全熱交換器がない職場で働くのは怖いよ。コロナが収束しないのは感染対策についての科学的な根拠を学ぼうとせず、勝手な解釈で徹底してやらない人間がいるからだよ。

マスクは付けても付けなくてもよいのなら、ワクチンなど無理に受ける必要はない。接種率が上がっても感染率は下がるどころが上昇していることから集団免疫が幻想であることが露呈している。ウイルスの変異で当初とは別物になっているし、mRNAワクチンの安全性も疑わしい。マスクを付ける付けないは個人の選択肢という前提で、お好みでどうぞと国が誤ったメッセージを発している。だとしたら、消費税は払いたければ払えばよいし、払いたくなければ払わない。マイナンバーは取得したければ取ればよいし、個人情報の紐付けを避けるのであれば取得しない。

そもそも個人情報は自分で管理するもので国が管理するものではない。国が個人情報にアクセスするときは許可を求めるべきだし、その際に拒否することもできる。国民の個人情報を外部から守れるセキュリティを政府が持つとは思えないし、ハッカーより政府が悪用しそうだ。SNSを通じて情報統制しようとしていることすらすでにばれている。オリンピックなどこの国では未来永劫やらない。甘い汁の原資は税金だろ。

おとなしく政治家のいうことを聴く国民になって貧しく不幸になりたければこの元凶をつくりだした自公を支持せよということだ。軽減税率やらインボイスやら(需要の先食いに過ぎない無意味な)商品券やらは公明党の十八番。これに小規模事業者や苦しめられている。維新や立民も同類だろう。

もっと単純に、もっとわかりやすく、もっと力強く、政治がめざすべきは人々の幸福である、とどうして言い切らないのか。ぼくがそう思うようになったのはブータン政府の一行から説明を受けてシンプルでわかりやすい行政の姿に感銘を受けたから。暮らしの満足度を8つぐらいの指標でアンケートを取ってそれが向上することを目標としているとのこと。わかりやすい。

これは実話だが徳島では有名な食品メーカーにベトナムからやってきて就職した男性が「こんな安い給料で日本人はよく我慢しているな」と毒を吐いて辞めていったそうだ(彼の給与は日本人の同僚より高かったらしいのだが)。東南アジアからの旅行者が増えているのは日本は物価が安いから。100エンショップで製造国を見ると半分以上は日本製。かつて100エンショップに日本製などなかったよ。貧しき国、日本。不寛容な国、日本。世界有数の国家であった日本がたった30年で底辺近くにまで落ちたのはどこの政党が政権を握っていたか?

夫婦別姓や同性婚などそれを望む人がいれば、認めるも認めないもなくありのまま存在していればよいじゃないか。認めたら社会が崩壊する? それはないよ。くだらん政治で社会が壊れていくのを目の当たりにしているけれど。株価を上げる政策や円が安くなる政策は国民の貧しさや不幸につながっている。

たまには吠えないと精神の健全性を保てない。吠えるだけではなく選挙という行動で示す。自分だけでなく周りも誘って。政治がこうせよと言われたらその逆をやっていかないと生き残れない、しあわせになれない。なぜなら政治が目指しているのは不寛容で貧しく無知で従順な国民に仕立てて奴隷のごとく搾取することしか考えていないから。否定できる人いないでしょ。防衛費を増やすほど高まるリスク、ほんとうの恐怖は他国の侵略ではなく自国政府の搾取。それより食べ物や水は十分に足りているの? 教育や健康はみんなに等しく機会があるの?

悪に染まらず、時流に流されず、夢と希望を持って生きていく。たとえひとりでも。そう言い聞かせるしかないじゃないか。


posted by 平井 吉信 at 00:57| Comment(0) | 生きる

2023年01月06日

ルンルンは「花の子ルンルン」から ゆめと希望を未来に渡すために


家に帰りたくなる理由ができた。地元のレモンで漬けた自作のレモン酒ができたので。
これを飲めると思うと渋滞の道すら鼻歌まじりとなる。レモン酒は梅酒と違って仕上がりが一月と早い。そのままストレートでぐいぐい飲める。喉の渇きを感じたのできょうは水で1対1に加水してみた。炭酸割だと天然のレモンスカッシュ風低アルコール飲料になる。とにかくつくってよかった。

こんな気分を「ルンルン気分」です―と表現するよね。
実はこの言葉の語源が1979年のアニメ「花の子ルンルン」にあるとご存知ですか?
もう40年も前のこと。当時の流行語で死語となった言葉は少なくない。「ナウい」「オニュー」「マジ」「フィバる」などがそうだろう。

ところがところが、東映アニメーションが公式チャンネルで「花の子ルンルン」の第1話を公開しているではないか。
https://www.youtube.com/watch?v=TcgLxXkITOA

絵の美しさはもちろんだけど、例えばこんな感じ。
(ネタバレ注意)第1話では列車で花探しの旅に出た主人公のルンルンが沿線で起こった民家の火事を見つけて列車を止めて消火を呼びかけるが、列車はそのまま行きすぎる。そこでルンルンと乗り合わせた一人の青年が列車から降りて火を消そうと奮闘する。

民家は若夫婦と子どもの家だった。ルンルンと青年が危険を省みず救出作業の真っ最中に、発車したはずの列車が戻ってきて大勢の乗客がバケツリレーを始めた。みんなの協力で民家の火を消し止めることができたため犠牲者は出なかった。ルンルンは乗客たちと再び汽車に乗るが、青年は汽車に乗らずその場を離れる際に花の種を若い夫婦に手渡して去って行く。

花の種は燃えてしまったけれど
美しい花が咲いたじゃありませんか。
みんなの心のなかにね、あの娘のお陰で。


青年はそう言ってこの種を蒔いて列車から見えるようにしてくださいと若夫婦に手渡す。
それはバーベナの種であった。

時が過ぎて沿線に咲き誇るバーベナの花。
そして花ことば「赤いバーベナ(一致協力)」で締めくくる。

うーん、昭和の女の子たちはこんな良質のアニメを見ていたんだな。

おっと、汽車が出発する前に線路に咲いていたスミレを撮影している青年を見てうれしくなった(なぜって? 聞かない、そんなこと → 令和になってもこんな人があなたの身近にいるかもしれませんから)。

この場面はさりげないけど深い意味が込められている。路傍の花にもいのちが宿り、その輝きに見せられ、列車に踏み潰されないよう移植する若者の行為。生物学的にも線路は環境圧(環境によって生息域が制限されること)を受けてほかの植物が生育できない場所に花を咲かせるスミレの特性をよく理解している制作者の手によるもの。すごいなとため息。

この青年が手にしているのが一眼レフであり、ニコンFのようにも見える。少女向けアニメでありながら細かい造形にまで手を抜いていない。いったい昭和ってどれだけ貪欲に未来への投資をいまの自分たちの手仕事を重ねて紡いでいたのだろう。そんなゆめと希望を紡ぐ努力を引き継いでいけないものだろうか。
posted by 平井 吉信 at 23:28| Comment(0) | 生きる

2023年01月01日

新年だから愉しい話題を サモア島の歌を知っていますか? 


青い青い空だよ雲のない空だよサモアの島とこなつだよ♪という歌は聴いたことがあるでしょう。

子どもの頃に聴いてからこの歌が好き。何が好きかって、繰り返しの多いポリネシア語圏を彷彿させる単純な日本語の歌詞。歌いやすく親しみやすい旋律、楽天的だけど素朴な歌詞。
ところが後半はなぜこんな旋律(和声)になるのだろうという不思議な進行。子ども心に音楽理論はわからなくても、単純で素朴な前半と、どこが切れ目なのかわからずたたみかける後半の対比に惹かれた。
「風が吹く」でほんとうにそよ風が感じられる。「波間をゆく」で和声を先送りにして「船出を祝い無事を祈る」がカヤックに揺られる漕ぎ手の存在が波間に浮かぶよう。そしてその帰りを待ち受ける人々の気持ちを「みんなの声が追いかける」と描く。
声が追いかけるとはどんな情景を指すのかわからないけれど、言葉の意味を超えて言葉の音(韻)が暗示するのは、人々が広場を行き交う光景、そして誰かの言葉を誰かがつないでいく存在承認(心理学の言葉)。「誰かが帰ってきたよ」「ああ帰ってきたね」「よかったね」「よかったよ」と。歌詞と音楽が一体なった奇跡の音楽といっても言いすぎではないと思う。

YouTube上にもいくつかあって聴いてみたらとても好きになった演奏があった。それが東京少年合唱隊の演奏。

テンポが小気味よい。急がないゆったりしすぎない。ウクレレが伴奏に入っている。少人数の歌唱で透明度が高く、無理に統率を取る必要がない。必要に応じて独唱と合唱、ユニゾンと和声、オブリガートやエコーのような表現を織り交ぜ、手拍子が温もりを醸し出す。歌も編曲も伴奏も良し。

CDで購入しようと思って探したらあったのだけど、この曲だけで良いのでダウンロードを探したらOTOTOYとmoraにあった。OTOTOYはロスレス(非圧縮形式)が選べる。ぼくの環境(Windows 10+JRiver Media Center+asio4all+タイムドメインライト)では音質が明確に違う。視聴もできるのでOTOTOYのWebサイトを以下にご紹介。もし購入される方は、音源の形式をプルダウンで「wav」形式を選択するとCDと同等となる。
https://ototoy.jp/_/default/p/81583

CDでも良かった。価格が900円で30曲も収録されているので。でもこれはここ近年でもっとも安い。普段は2千円前後である。



20代の半ば、南太平洋へ出かけてみようと思った。頭のなかにサモア島の歌があったのは間違いない。そこで行き先を西サモアにしようとしていたが、どういうわけかフランス領ポリネシア(タヒチ)になった。
それは「南太平洋の音楽」と題して民族音楽専門のノンサッチレーベルが録音していたこのレコードを聴いてから。当時この方面に直行便はなく、ニュージーランドとフレンチカレドニアを経由してタヒチ本島のファアア国際空港に降り立った。


南太平洋は陸がない海域に珊瑚礁の島々が点在する(珊瑚礁がない島もある)。冒険家たちの胸を熱くしてゴーギャンの心を捉えたポリネシア。危うく強制送還されかかったり、飛び込みで民宿を探し、市場に買い物に出て半月ほど自炊したこともあれば、セスナをチャーターしてマーロン・ブロンド所有の鳥の楽園(テティアロア島)に渡ったり、フランス人の観光客と素潜りを競い合って(20メートルぐらい)潜水病になりかけたり、南十字を見ながらファレ(かやぶき屋根)で寝ていたら近くの民家から母親が赤ん坊をあやす声にしんみりしたり、島をレンタサイクルで廻ったり、現地で調達した地形図で島の山脈に分け入ったり、現地の同年代の男女と無人島にピクニックに出かけたり,
夜に行われる地区の若者たちのタムレ(踊り)の練習に参加したり、現地の子どもたちと折り紙を教えながら遊んだり…。地球は友だちって感じ。そのときの様子は「南太平洋」のタグからどうぞ。当時の写真はミノルタX700とMDロッコールのポジで撮影したもの。

できないことなどなく、やりたいことがやれた時代だったかもしれないのは、沈まない太陽、日出ずる国、Japan as No1、世界の経済大国といわれた時代だったことも後押ししたかもしれない。金融機関や証券会社にまとまったお金を預けておけば1年でちょっとした旅行へ行く資金が増えた時代だったから。

2023年1月1日、サモア島の歌が人々の心に愉しげな歌を響かせて心を軽くしてもらえたらと願って。

タグ:南太平洋
posted by 平井 吉信 at 21:51| Comment(0) | 生きる

2022年11月26日

地元のゆこうとレモン 山間部で起きていることから国のあり方に思いが至ってしまった


南四国は香酸柑橘の宝庫である。
なかでもすだち、ゆず、ゆこうの三姉妹。すだちの亜種であるさなみどり、すだちの交配種である阿波すず香も加えて5姉妹と称されることもある。

丸亀製麺ですだちを使った製品が人気と聞く。果汁として用いる場合もゆず、ゆこうは調味料メーカーから強い引き合いがあるという。しかしそれはあと何年続くのだろうか。

これらはすべて山間部でしか採れないもので担い手がいない。ぼくも生産者の収穫を何度か手伝ったが、すべて棘がある樹種なので、厚手の木綿服などを着て収穫を行うのだが、枝をかき分けて実にたどり着く。枝から突き出た棘は斜めに向いているので、慎重に収穫しても身体のどこか(たいがいは手の甲か前腕)に傷を付けてしまう。収穫の際はゴーグルか度数のないめがねをかけておいたほうがいい。

この棘の奧に実がなっている
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ゆず
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すだち
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このカゴをさらにコンテナに統合するのでコンテナはかなりの重量となる
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それを篭に入れてコンテナまで運び、急傾斜地の崖を慎重にコンテナを軽自動車を停めた車道まで運ぶ。これをいくらで出荷するのかというと、1s100円という。ありえない安さである。

儲からないのに需要は年々増加している。そして担い手は年々高齢化しており一刻の猶予もない。子や孫が後を継がないので「来年はできるだろうか」と思いながらの作業である。

さらに追い打ちをかけているのが地球の温暖化による気温の上昇である。露地栽培のすだちでは近年農家ごとに収量が著しい差が出てきたという。

収量に明暗が分かれるようになった原因は不明であるが、考えられるのは栽培技術(手間)である。土壌や気温などの条件が異なってもそれらは変数として説得力を持たないだろう(機械学習、深層学習にかけても答えが出ないとデータサイエンティストは直感するだろう)。

気温の上昇が何に影響をもたらすかに論点を置いてみる。すると樹木の生育が著しく早く(旺盛に)なるのではないか。もしそうなら果実に行く栄養が取られる。となればこまめに剪定を行う必要がある。それができるのは体力がある農家(もしくはこまめに手入れを行う性格)に限られるのではないのだろうか。これが仮説である。AIは使わずとも近似の条件の樹木何本かでA/Bテストの検証で事足りる。

今年もありがたくゆこうの果汁をいただいている。ゆこうは日本の香酸柑橘でもっとも可能性があると思っている果実でこのブログでも何度が触れている。→ ゆこうの記事
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特に腔内環境や腸内細菌の分布に好影響をもたらすことが徳島大学の研究で判明してからは、ただおいしい果汁ではなくなってきた。現在でも調味料(ポン酢)の原材料として使われる量がもっとも多いのだろうが、最高の活用法はそのまま果汁を飲むことである。

具体的には手動の絞り器で果汁を搾り、はちみつを入れて湯割りにする。ゆこうの青果がある時期は毎朝飲んでいる。おいしいけれど飲んだあとにほかほかすることや胃や腸のすっきり感がまるで違う。飲む前に歯磨きをしておいて口腔内に残すのもコツ。歯周病菌と腸内細菌は密接に関係しており、それらを良好な生態系(細菌同士が相互作用する状況を表現している)を保つのに効果があるとすれば、長寿やQOLの改善、成人病の予防にも役立つものだろう。

続いて近所の山で採れたレモンを酒にしてみた。このレモンは自家用のため農薬は使っていない。山間部で小規模の栽培で出荷もしないため使う必要がないもの。約1kgを皮と綿を除いてつけ込むが、そのうち1個は皮の付いたまま輪切りにして皮の苦みも風味に活かす。輪切りは3日ぐらいで取り出してタッパーで蜂蜜漬けにも転用する。それ以外は1か月ぐらいで抽出を終えてレモンを取り出す。材料はレモン以外にホワイトリカー1.8リットル、氷砂糖300グラム、蜂蜜少々(好みに応じて)、3リットルもしくは4リットル用の果実酒瓶があればできる。
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山間部の農業の実態は深刻である。担い手がいなくなれば単に収穫できなくなるだけでなく、人が消えた里山では獣害が増える。また棚田が荒廃することでダムに匹敵する保水力が失われて下流の洪水が頻発する。かつての薪炭林のように山の手入れができなくなることも輪を掛けている。CO2排出削減量も減少する。まちにとってもむらにとっても良いことはひとつもない。

農業を通じた食料の自給確保や生態系保全、国土強靱化(災害対策)は国の最重要課題のひとつである。少なくともコロナ下での経済対策よりも重要である。政治と行政がこれほど荒廃しきってしまった以上、小さな政府のほうがまだましと思うようになった。すべての補助金やら支援策は打ち切り、人気取りのばらまき支援も止める。特に公明党の主導した軽減税率は流通の混乱と悪法インボイスの口実となった。商品券のばらまきは費用がかかって何の経済対策にもなりはしない。子育て世帯へのばらまきも(もらえたほうがうれしいのは確かだが)それが何につながっているのだろう。その反面、ほんとうに困った人たちには民間有志が手を差し伸べてなんとか対応しているが、困っている人たちへのアクセス(支援が届かず苦しい暮らしを送られている方がいる)も容易ではない。

社会のあるべき姿を明確に描いて、そこに到達するまでの最小限の過程を統合的に政策として立案できない限り、政治や行政は存在意義がない。その意味で「政治屋」の活動が中心となる政党政治は終焉を迎えている。多くの良識ある人が多数直接参加できる政治と行政のしくみが不可欠である。その実験は地域単位に主権を持つことから始めるべきだろう。道州制よりももっと細かい単位(もしかして都道府県よりも)を想定している。そんなことまで考えさせられるこの冬の香酸柑橘である。
タグ:ゆこう
posted by 平井 吉信 at 12:32| Comment(0) | 生きる

2022年09月25日

毒を吐くことで徳を積めないけれど


無力感。といっても無気力とは違う。
どっちを向いてもため息と怒りと落胆。

・困窮している人たちに行くべきお金が別の不要なもの(国葬、かつての布マスクなど)に消えていく(政治・行政)。

・世界の各地で屁理屈をでっち上げて都合の良い解釈を力で押し通す。その影で多くの他国民、自国民が嘆きながら消えていく。

・わかっているだけでも千人近い感染者を出した阿波おどり。そこからさらに感染を広げ(追跡不能)そして後遺症に苦しみ亡くなった方もいるだろう。ちゃらちゃらと賑わいを求めて実施を決めた行政や関係団体の当事者はどのように罪を償うのか。当日の映像を見ると不織布のマスクすらしておらず、これは感染の予行演習か。しかもクラスターは発生していないそうだ。飲食店で3人が感染してもクラスター、阿波おどりイベントで千人が感染するのは非クラスター。戦前ののんき連に始まり、娯茶平連、天水連、藤本連などに受けつがれた阿波おどりも2022年に自ら歴史に背を向けるように消滅。四宮生重郎さんが生きていたらなんと言っただろう。ぼくも連で踊ったことがあるが、いまの阿波おどりのフォーメーションのような団体競技や動きを止める演出、手を高く画一的に挙げる踊りなど見ていているとため息が出る。Dancing is actually celebrating of your spirit。本能でしょ、踊りって。踊りそのものを比べても郡上踊りやおわらに品格も情感も遠く及ばない。あちらはショーではなく踊り手と観客の区別がなく同じ時間を共有できている。ぼくは一生阿波おどりを見ることはないと思う。

・つみたてNISAやiDeCoに熱を上げたって意味ないよ。所得増えず、産業衰退、物価高騰の円安であなたの資産は国際的に大きく下落している。貿易赤字が続くなかで円安が何を意味するか? 日本の経済はこの30年で回復困難なほど低迷している。その原因をつくったのは誰? 金融緩和は景気を支えるためというが、それならその政策を続けているのに企業の業績が回復しないのはなぜ?企業の業績が振るわないのは内需が拡大しないから。低金利をいくら続けても無意味。金融政策だけでない抜本的な経済対策を前提に金利は上げていくべき。金利を上げると経営が危うい企業はどうなる? いや、金利の影響は売上高比でせいぜい数%。それ以上に売上高経常利益率を増やす。そのための内需拡大。

・ぼくが生きている限りマスクをはずす時代は来ないと思う。SARS-CoV-2は手強い。ワクチンは後追いでどれだけ接種率が上がっても感染率は下がらない。それなのにコロナ慣れして浮かれる人たち。感染症が終息しないことは専門家ならもうわかっているはず。だって根源の原因がなくならないから(だからといって悲観などしていない。対策を取れば良いだけ。コロナ蔓延を前提に社会のしくみを調えていくよう政治がリーダーシップを取るべき。対策を行ってコロナが終息すればそれはそれで万々歳じゃないか。今より悪くなるというシナリオでやっていくこと。想定外という言い訳は東電で聞き飽きた。想定できたことだから。

・地元を見ても使われないことが明確な駅をつくるとか、集まって決めたことを覆すとか、そんなことばかりのローカル政治家たちにうんざり。論理的思考と感性と人間らしい感情で政治をしようよ。

権力で独裁的に支配することで誰が何の得をするのか? だれのためにやっているのか?
国家とか政党とかが人々の輝きを葬ろうとしているのなら要らないな、そんなもの。
きちんと課題設定をしようよ。いま取り組むべき問題は何かって? 
そうでない問題に取り組むのなら、そのためにどれだけ時間や資源や人生がムダになるか。
ぼくが政治家ならめざすべきことはたったひとつだけ。人々の幸福感をつくること。

はあ、多少の毒を吐き出さないとやってられない。次はさわやかな投稿にするから。

posted by 平井 吉信 at 22:23| Comment(0) | 生きる

2022年09月19日

台風情報チェックリスト(再掲)


四国では台風が接近しています。
台風情報を集約したブックマーク集を以下に置いています。

台風情報チェックリスト(本文のみ)
http://soratoumi2.sblo.jp/article/184340384.html
ご活用ください。
posted by 平井 吉信 at 20:45| Comment(0) | 生きる

2022年08月16日

祖霊供養と人混み回避、読書と歴史を直視する静かな盆


コロナが身の回りにあふれたことが実感できる。身辺や仕事先、近所の店の長期臨時休業でうかがい知ることができる。仕事で打ち合わせをキャンセルした人がいた。この人は3回ワクチンを接種していて感染症対策も知っている人だった。それが1週間ぐらいして電話があり、感染していたとの連絡。どこで感染したか見当が付かないそうだ。

コロナは生命の危機に直結する感染症でインフルエンザとは異なるというのが医療関係者の共通の見解である。人が密集すれば野外といえでも飛沫感染の怖れがあるので阿波おどりもよさこいもやらないほうがよいが、どうしてもやるというのなら観客なしが前提だろう。
踊り子は不織布マスクを付け、かけ声なし、笛などの吹奏楽器は離れたところからのPAも視野に。野外であればこれで感染の危険度は下がる。踊り手も仕事や家庭での立場、状況を顧みれば何が大切かはわかっているはず。

その一方で阿波おどりを心待ちにしている人のために動画配信(ライブ)を有償で行い、その収益に行政が開催費用相当を上乗せして観光関連の宿泊施設、飲食店、交通機関などに分配するという案もある。来年はそのような開催方法も含めて検討してほしい。

ぼくは決して悲観していないが、これまでのCOVID-19の動向を見ていると、ワクチン接種率や集団免疫の獲得よりも変異の速度が速い。時間の経過とともに感染症はむしろ悪化しているように見える。公衆衛生の意識がある日本で世界の感染者の2割を占めている(世界人口70億人に対し1億人なのに)。ある意味ではイベント開催どころか非常事態宣言が出されてもおかしくないと思うのだが。

もっとも留意すべきは空気感染対策、ずばりいえばマスク装着である。マスクを付けると体調が悪化するという人もいるが、感染はもっと怖い。後遺症がどれだけ残存するかは誰にもわからない。1位マスク、1位換気、3,4はないという対策順位。身近なところで付け加えるとしたらスーパーで買い物したら品物を家で洗っていますか?(紙パッケージもふやけるけれど洗えないことはない)。

連日、終戦記念日を迎えて戦争のドキュメンタリーをNHKで放映している。ガダルカナル、インパールを振り返るたびに大本営と軍の上層部に強い憤りを覚える。牟田口中将に至っては晩年になってイギリスの元中佐との手紙のやりとりで、敵から作戦を評価してもらえたとの思い込みで作戦を正当化している。一方で大本営は作戦の責任を否定するなど責任の所在があいまいで上の命令に服従という論理で玉砕していく。情報収集や情報セキュリティを高めることなく相手を過小評価、地形や兵站を検討することなく多くの兵隊、現地の民間人、相手兵士も含めて死に追いやった事実は消えない。

広い視野を持てない井の中の蛙、上から発表されたものを疑いもせず鵜呑みにする危険は、いまの自公政権が支持される状況と変わらない。おかしいこと、間違っていることに蓋をして国民に見せないようにしていることは戦前と変わらないではないか。
読書では、赤木雅子さんの「私は真実が知りたい」を一気に読んだ。恨みつらみだけでない、相手への思いやりも感じられ、どこかで自分を客観的に見つめながら、悩みながらも前へ進める意志は夫のため、夫と同じような境遇を作り出さないための祈りであると感じた。

今年の盆は、歴史を静かに振り返りつつ、いま起こっていることを見つめながら、夜は空を眺め、昼は人混みには行かず、先祖の霊をなぐさめる数日であった。

菩提寺の盂蘭盆会は今年も感染症によって中止となった。それで良いと思う。代わって御札をお送りいただいた。仏壇と墓を清掃し、御札を祀りつつ祖霊を迎えたので読経する。

開経偈
般若心経
観音経(偈)
十三仏真言
光明真言
大師宝号
祈願文
回向

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父をはじめ身近な祖先のみならず、過去の戦争、いまの戦争にも思いを馳せつつ過ごす盆。

posted by 平井 吉信 at 00:17| Comment(0) | 生きる

2022年07月09日

そんなことではなく


テレビを見た。
これはいかん、これをやったらあかん。
(政治信条とは関係ない突発的な犯罪とは思うが)

右とか左とか、心情とか宗教とかは関係ない。
(むしろ弊害でしかない)
虚心坦懐にあるべき国の姿を描くとき
政党やイデオロギーは要らない。
それらは実現するための手段や記号に過ぎない。

正しいと信じることをやり抜くとき代償を払うことがある。
1週間に車のタイヤが4度パンクしたこともあれば
やくざの事務所に呼び出されたこともある。
(そんな脅しには屈しない人間であることはブログを読んでいただくとおわかりになると思う)
なぜならそこに個人の利害得失などなく
多くの人々の幸福を願う気持ちだけだったから。

めざす世界は違っていてもあの人はあの人なりに自分の道を進んだ。
政策が批判されても人格を否定されることは決してない。
ましてや暴力など…。

同時に違う世界に旅立つ人が禊ぎのごとく神格化されるのも違う。
やはり格差と貧困をつくりだした政策は総括されなければならない。

民主主義への挑戦だ、言論の自由への冒涜だ、などのコメントはそのとおりなのだけど
それなら、いまからでも国会を民主主義の発露たる議論の場にしてほしい。

野党の質問に真摯に向かい合うことなく
適当にあしらっておけとの態度。
自身への批判や反対意見は力で封じ込め、虚偽を強要し
挙げ句の果てには自殺者も出た。

誰か一人を責めているのではない。
与党による国会運営のありかたが民主主義を否定していたのだ。

力と暴力で封じ込める社会と訣別するためにも
私たちは政治に無関心でいてはならないのだ。
異なる意見であっても耳を傾け、良い国(国民の暮らし)をつくるために議論を続けよう。

衷心より御霊の安らかならんことをお祈りいたします。
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posted by 平井 吉信 at 12:13| Comment(0) | 生きる

2022年07月02日

選挙に行こう 行く前に少し考えよう

21世紀になって世情が安定すると政治に無関心なロシア人が増えてきた。この状態は当局にとって好都合で選挙の不正も行われたと一部の新聞や放送局が報道を行った。現在では当局の見解と異なる報道は罰せられるという事態になっている。日本でも安倍政権下でメディアへの締め付けが進んだ。自分に不都合な真実は報道させないという点ではP大統領とA首相は同じ穴のムジナ。だから意気投合したのだろう(ただし一方的な片思いだが)。メディアの忖度や自己規制もあったが、クローズアップ現代や久米宏は止める必要があったのだろうか。メディアだけではない、挙げ句の果てにSNSにも介入して世論を誘導しようとしていることも既知の事実である。言論統制に関する限り、ロシアと日本は違わない。

ウクライナ侵攻後に大統領の支持率は上がり、侵攻も支持されているようだ。政治に無関心になると事実を直視しなくなり、当局が住民を飼い慣らすための情報をぱくぱく食べて脳で定説化してしまう。考えるのは面倒で考えないのは楽だから。

心あるロシア人は祖国の状況に心を痛めている。国外のロシア人は事態が見えているが、国内に残る親族に現実を話しても信じようとしない(思考停止)。当局のプロパガンダは大成功のようだ。

日本は平和だ、戦争は起こらないし言論の自由も確保されている。果たしてそうだろうか?

ネジを30年前に巻き戻すと世界2位の経済大国がそこにはあった。時価総額で評価すると世界のベスト10に日本の企業が7社名を連ねていた(いまやベスト30にかろうじて1社残っているだけだ)。金利は高く、郵便局に100万円預ければ10年後にはほぼ200万円となって戻ってきた。ぼくも1年で7%の利回りの元本保証の金融商品で運用していた。

学生たちは円高で卒業旅行へ出かけていた。ぼくの友人たちも大学を出てもすぐに就職せず、インドを放浪したり京都でアルバイトをしたり職人の道をめざしたりとそれぞれがやりたいことをやっていた。将来に不安はなく、青春という時間を有意義に過ごすことに専念できていた。ぼくもワーゲンゴルフの新車を現金で買って山や川へ出かけ、たまにはミノルタのX700とバックパックで東北や屋久島、信州の山々を10日ぐらいかけて巡ったし南太平洋の無人島などで一ヶ月暮らしてみたこともあった。

クリスマスには赤坂プリンスホテルを予約する若者たちも少なくなかった。音楽は予算をかけても売れた。アナログとデジタルの橋渡しの時期でもあった。

あれから30年、いまの日本はどうなったか?
コロナの影響がなければ東南アジアからの旅行者で溢れていたことだろう。日本は物価が安いから旅行をしても愉しいという。逆に日本人がアメリカへ行ってラーメン1杯3千円? 年収1千万円でも生活保護などの事実を知ると愕然とした。この30年で発展を続けた日本以外の国と、所得が下がり続けた日本との格差が広がった。

格差は日本人同士でも広がった。ぼくの子どもの頃は近所に7軒の八百屋があったが子どものいる世帯では大学に進学ができていた。映画館は近所に2つ、高層ビルに専門書を並べた書店も2つ、近所の駅からは高松、松山、高知へ直通の10数両を連ねた列車が走っていた。

何が間違ったのか? 誰がこんな国にした?
この30年政権を持っていた政党はどこで、どのような政策を行ったかを振り返ってみてほしい。
しつこいぐらいに書いているけれどぼくは不偏不党の人間で、たとえ家族が政治家に立候補しても能力なしとみなせば投票しない、という人間である。

国民が貧しくなったのはこんな例えでわかる。我が国に10人の国民がいました。1人ずつ年収1千万円で国の経済力は合計1億円です。これに対し、同じ1億円の経済力でも1人が9千万円を持ち、残りの10人はそれぞれ100万円ずつ、となると購買力は後者が落ちる。年収100万円での生活は購買力が限られるし、年収9千万円でも使うものは所得の差ほどはない。そして年収9千万円の人間もこの国でビジネスを行う限り将来性がないことはわかる。問題なのは貧困の質が諸外国と異なること。普通の人が普通に暮らしを営んで(=仕事をして)貧困になる(貧困状態から抜け出せない)ことが大問題だ。

なにより親ガチャ、どの親に産まれたかで一生が決まってしまうような社会って良くないでしょう。お金を借りて人並みになれても負債を背負ってのハンディスタート。だから政策は時計を逆に戻すような考え方で良いと思う。

所得税…累進性を強める。金持ちからむしり取るという貧しい考え方ではなく、所得の多い人はそれだけ納税で社会に貢献できるすばらしさ(尊敬される)。現実は、所得の低い人ほどすべての税金やら保険やらの負担率は金持ちより高くなっているのが事実。いまや低所得者層への課税強化となっている。インボイスもそう。軽減税率はインボイスとセットで結局は弱者いじめのかたちを変えたもの。格差の拡大は内需を縮小させ、消費を減退させ、国外へ企業が脱出して投資も技術も空洞化した。格差の是正に取り組むことは幸福への前提条件を整えることにもつながる。その逆を是正することなく弱者の切り捨てを継続する限り、大企業も沈没してしまう。

消費税…撤廃しても社会の混乱は起こらないし買い控えも起こらない(8月から撤廃となったところで食品などは買うし贅沢品は8月以降我慢していたものを買うようになるよね)。つまり内需を高めるのに給付金やら商品券やらプレミアムなんとかは間接費(事務局経費)がかかるしなにより買えない人、該当しない人は不公平。消費税の軽減とは、年間300万円をスーパーで使っていた人は、買い物のたびに節約できて年間で約28万円の給付をもらったことに等しくなる。これがさらに消費に回ると国内企業も売上が増える。新たな取り組みで海外展開やオンラインなどの展開もできるようになるかもしれないし、給与も上げられるだろう。消費税をなくしたら社会保障が犠牲になるのではなく、その財源を法人税の減税に充てたというのが実情。だから消費税は年金の支給率とは無関係。あくまで政策の意思決定によるもの。

ベーシックインカム…社会実験としてまず導入してみる。積極的に30年で溜まった社会の歪みを政策的に是正する必要がある。安心して暮らしていける環境があればこそ未来を考えたり教育を受けたいと思えるでしょ。

補助金…原則として撤廃。ほとんどの補助金は課題の解決に役だっておらず成果につながっていないのは現場を洞察しての感想。補助率が1/2、2/3などと自己資金の投下が減少するのでリスクは減少するが、その前に解決すべき課題は何か? その解決に最善の方策は何か?の吟味なく補助金があるから使ってしまう。結果は効果がない。国も事業者も使わなくて良いお金を使ってしまっているというのが実態。それよりも事業継続力強化計画の推進や伴走型支援のような本質的な施策が経済産業省からも出るようになった。この自走化をサポートする方針こそ経済政策の王道。

憲法…生態系保全や多様な生き方を認めること、権力の暴走をより明確に抑えるように改憲する。現在の憲法は九条の是非というよりも時代にそぐわない部分や権力者の勝手な解釈の余地を残している点に改善の方向性がある。よりより政策を求めて合議することなく独裁で突っ走った安倍政権のような事態を招かないためにも改憲が望ましい。

軍事力…自衛隊はもちろん合法だが、沖縄の基地を縮小して本土が沖縄を守る態勢を強化。基地の跡地は所有者に返還した後、東アジアの経済や金融のセンターとしての機能を担うために再開発を行うなども選択肢。つまり沖縄をゲートウェイとして近隣諸国とかけがえのない存在になることで外交による安全保障力を高めることにつながる。自然破壊のないソフトな沖縄振興にも貢献する。場合によっては自衛隊の機能を強化するも不戦の誓いはさらに強固に。核拡散防止条約へも署名。

エネルギー政策…災害多発する国土では小規模分散型の再生可能エネルギー発電の推進が合理的かつ効果的(その最小単位は家庭で太陽光発電して蓄電することで送電ロスなどがなくなる)。エネルギーコストの高い原子力は徐々に廃止。ただし技術者への厚遇も不可欠。

科学分野…大学は基礎研究などが心置きなく行えるよう予算配分を是正。目先の収益を追いかけると科学技術力が中長期で低迷。それが経済の尻すぼみにもつながる。

農業…食糧の自給率の向上のため、生産者の暮らしが成り立つようにするため直接所得保証を充実。経済合理性だけでは米をつくるのも困難である。ところが農業には生態系保全や水資源の管理など多面的な役割と価値があり、自民党が考えるような大規模化(生産者の集約)では解決しないというのが農業の現場で長年真摯に取り組んでいる人たちの共通の認識(願い)。高齢化と耕作放棄地の増大にもう時間は残されていない。

教育…無償化は子どもたちを等しい出発点に立たせてあげるため。夫婦別姓がダメなんて時代錯誤。なりたい自分になれるけれど、社会のなかで役割を担いつつ生きていける環境をつくろう。

個々の政策はこれが最良というわけではなく、あくまで例示に過ぎない。もっとも大切なことは国民の幸福を実現することを最上段の目標とすること(特定の政党とは無関係)。

幸福とは、一人ひとりがなりたい人生、やってみたいことを望めばやれる社会となること。平凡であっても青い鳥が身近に感じられる社会ですよ。そのことを実現するための政策を有機的に統合しブレイクダウンしていくと上記のようになるのではないかと。

今回の選挙での留意点は、いまの時代に陥った日本でこれまで行っていた方向性が間違っていることに気付いてそれをよかったときの政策に戻していくこと。一部では脱炭素やエネルギー確保、食糧安保などとの整合性を取りながら進めていくということ。

選択すべき政党はそれぞれの胸のなかにあるとしても、選択してはいけない政治勢力はどこかは明らか。普通に暮らしている大多数の国民が生活が苦しい(貧困)であるとしたら、自助努力が足りないのではなく政治が悪い(そして政治に委ねて現実を見ようとしない人たちも)ということに気付いてほしい。

しかも次の国政選挙まで3年。この間にさらなる増税(消費税率が19%まで引き上げの可能性あり。インボイス制度はまもなく)で普通の国民の暮らしは壊滅状態となる。国民の大多数が幸福になる権利がない国など何の価値もない。誰のためではなく自分の利益のためでもなく国民の幸福のための選択として、いま行動しないと将来はないことを今回の選挙ほど感じることはない。

追記
マスコミの分析は与党が議席を伸ばすとのこと。与党も野党もなく、あるべき国の姿をめざしてやっていかなければならないというのに。
政治の堕落もそうだが、それを見ようとしない国民を思うとき絶望しかない。勇気を持って発言する識者もいるが、安倍管政権ではそのような専門家、ジャーナリストを露骨に干してきた。
都合の悪いことにこそ耳を傾け、その意見を採り入れていく卓見と気概がある与党の政治家はいないのか。与党と野党で理想の国づくりに向けて大連立を組めないのか。
野党が勢力争いをしたことがどうなるかについて、今回低迷するであろう政党は考えてほしい。





posted by 平井 吉信 at 18:38| Comment(0) | 生きる

梅酒と梅干しの季節


梅酒と梅干しを漬けるのが習わしとなっている。
市販品では自作以上においしいものにはなかなか巡り会わない。特に梅酒はそう。
つくってみるとわかるが、手を抜こうと思えば抜けるけど仕上がりに影響する工程がある。
作業には数日かかるけれどやはりこれはやっておきたい。
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梅は美郷で調達する。標高が高い場所が多く農薬は使わないか、定められた基準を守っている農園がほとんどだし、作り手も存じ上げていることもあるので。

まずは梅酒用に鶯宿を3kg。
例年は焼酎や泡盛を使っていたが35度が入手できずホワイトリカーにした。
サントリーとタカラの2種類でまずはそのまま飲んでみた。ぼくにはタカラが良いように思える。
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梅酒には採れてから鮮度を落とさず作業を始めたいので流通の店頭に並んでいるものは選択外となる。例年は生産者に電話を入れてご都合の良い時間(たいがいは夕方前)に採りに行っている。自家用車であまり揺らさないようにして持って帰るので品質を保てる。

梅酒の作業が終わると半月遅れて南高梅(梅干し用)が出てくる。こちらは購入後に追熟させる。この状態で3日後。市販で完熟(木なり)はなかなか出てこない。
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塩分濃度は15%に設定。この濃度でもカビは生えないよう衛生管理を行っている。使う塩は旧専売公社の精製塩(1kg100円程度)。価格は手頃だが品質は良い。ミネラルを含む天然塩では多少風味は変わるかもしれないが、塩の役割は味付けではないので精製塩で十分。むしろ品質保持を考えると塩は製法や出所が明らかなものを使いたい。

紫蘇は程度の良いものが採れたらすぐに塩もみして冷凍庫に入れておく。今回も収穫後半日程度のものを生産者に分けていただいて作業に着手している。浸け梅はすでに梅酢が上がってきているが、もう少し塩だけで置いておく。
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世の中にスローライフという生き方があるが、1日10数時間、自らの事業と公職も担当しつつ家事もこなしているのでスローライフはできそうにない。京都の大原の里とか南房総の鴨川、もしくは鎌倉あたりでしずしずと暮らしている人たちはうらやましいが、四国には良い川があるから離れられない(そんな人間がよくブログを100万文字も綴っているなと叱らないでください)。

あとは梅雨明け後(もう明けてしまったが)の土用干しができれば一段落。その頃には番茶(阿波晩茶)の新茶も上がり始めているかもしれない。



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posted by 平井 吉信 at 17:46| Comment(0) | 生きる

2022年05月17日

沖縄 復帰50周年 もっと違う道があるはず


もしこの地上に沖縄がなければ世界はつまらないものになる。
南の島なんて地球上に数え切れないほどあれど、
沖縄(琉球)のような国はどこにも存在しない。

排他や競争とは無縁の人々のつながり、分け隔てなく隣人と接する態度、そこにある風土と食の誇らしさ。

新婚旅行は迷うことなく八重山(やいま)を選んだ。
石垣島を拠点に西表島、竹富島を巡った。

岡本太郎があまりの美しさに腰を抜かしたといわれる川平湾だけでなく
そこらにあるサトウキビ畑、その丘陵が海に続いていく。風が違うと感じた。
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海の色はやわらかな階調で淡くきらめき深く沈み込む。
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やなわらばー「青い宝」(観光地でない島の日常と歌の世界観が溶け込んでいる公式映像)
https://www.youtube.com/watch?v=ppw41qGMJcc

集落を歩けば至るところに文化の凝縮された何気ない竹富島の日常。
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西表の亜熱帯雨林を流れるヒナイ川の潮の干満を感じながらカヌーでピナイサーラの滝へと向かう。
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食べるものはすべておいしい。共通は塩辛くなく脂っぽくもなくそれでいて淡泊ではなくコクがあるけれどあっさりしているとでもいうか。
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地元の人たちが通う居酒屋や料理店を見つけて食べたものを徳島に戻って風味をそれ以上に再現できたときのうれしさ。

音楽だって、手元にあるCDを拾ってみても、やなわらばー、神谷千尋などの沖縄の色濃くも初々しい歌手だち、ネーネーズ、りんけんバンド、古謝美佐子、喜納昌吉などのベテランの音楽の恰幅の良さ、三線を聴かせる新良幸人、大島保克、大工哲弘による島唄。BEGIN、Kiroro、石嶺聡子、夏川りみなどのヒット曲を生み出した歌手勢、さらには上間綾乃。奄美まで拡げれば、朝崎郁恵、元ちとせ、里アンナ、城南海。またキングレコートから発売されている八重山の民謡集に収録されている楽曲、例えば「月ぬ美しゃ」などは酒を飲んで珍しく酔ったときに真っ先に口をついて歌ってしまう。No woman no cryはネーネーズ版(うちなーぐち)で歌ってしまう。

YouTubeを見ると、沖縄・八重山の楽曲には英語(海外)からのコメントが多いことに気付く。何か言語を超えて伝わる何かがあるのだろうね。

沖縄やアイヌの人たちにはヤマトにはない人間の本質的な存在感、誇りが感じられるよね。
でもその沖縄が復帰50周年を迎えて地元では憂いが濃いという。簡単に本土の人間には分かって欲しくないと思われるだろうが、沖縄の立場に立てば復帰を喜べないのはヤマトも同じだよ。

こんな状態が50年続いてこれからも続くようなら沖縄は日本からの独立もしくは連邦国家のような立ち位置も考えなければならないね。

沖縄の地勢と人々の気質を強みとする地域戦略を描きたいけれど、日本政府にはその能力がないのだろうね。日本、台湾、香港、ベトナム、大陸、朝鮮半島のハブとなり得る立地なのでシンガポールのような自由貿易特区、スイスのような厳格な個人保護を貫く金融センターを併せ持つ地域としてしくみをつくる。やがて各国から投資や人材が集まるようになる。幸か不幸か沖縄には米軍基地が種地としてあるから、地主にいったん返還した後に地権者として事業化に関わってもらったらいい。

本土は憲法を改正してまずは安倍内閣のように独裁が暴走しないように歯止めをかける。生態系保全や人権、考え方の多様性を明文化するための改正を行うとともに、自衛隊に代わって平和を守るための軍隊を置く(平時は災害救助などで活躍するいまの自衛隊と変わらない)。場合によっては徴兵制度が必要かもしれない。平和ぼけしている国民に平和の価値を考えてもらうきっかけとなる。

本土は沖縄を防衛する力を持って、沖縄は非軍事地域として交易拠点、金融センター、世界でも稀な風土を持つ観光を加えた三本柱で発展させていく。魅力ある移住先、投資先となった沖縄には有能な人材や資金が流入してやがて本土の所得を上回る。言語も日本語のみならず、数カ国語が併用されるようになる。それでも琉球以来の沖縄らしさはより色濃く打ち出されるようになる。

なぜなら経済力を背景に沖縄のことは沖縄で決める自治が機能するから。これまで基地と沖縄振興予算に依存してきた人たちから、独創的創造的な取り組みを行う人たちが台頭して沖縄が本来の輝きを取り戻す。

ヤマトにとってもそんな沖縄はもっと魅力的になる。もともとその風土や文化、食は本土の憧れの対象であったが、強みを活かせる沖縄が自主的な動けるようになると、どんどん沖縄がよくなり、その沖縄をゲートウェイ、ロールモデルとして本土も失われた30年から脱却を図ろう。

これは理想論ではなく現実的な考え方と思う。県土の17%が基地という状況でまともな施政などできるはずがない。沖縄から基地は全廃する代わりに本土が平和維持のための軍隊を装備して沖縄を守る構図をつくりあげること。本土からのスクランブルのみならず、基地がなくても例えば空母が沖縄に常駐することで、悪意を持った侵略者への備えはしておく。

ただし沖縄が近隣の国々と強い結びつきをつくることで相手にとってかけがえのない地域となる。外交力による解決の可能性が高まることで結果として戦争リスクを下げることにつながる(太平洋戦争での教訓は外交力を磨くこと、食糧や資源の自給率を上げることだったと思うから)。かつての琉球王国が持っていた礼節を重んじる守禮之邦(しゅれいのくに)に原点があるのだ。それはいまの世界がもっとも必要としている意思疎通でもある。

posted by 平井 吉信 at 00:36| Comment(0) | 生きる

2022年04月04日

電子書籍からユーコン川へ 人間の幸せや冒険とはなんだろうと


野田さんの電子書籍を買った。
「ユーコン川を筏で下る」というタイトルで紙の本と比べても圧倒的に読みやすく
目が疲れず、アンダーラインも引けるし読みたいところからいつでも続けられるし
端末だって風呂場で読める防水仕様(Kindle Oasis)だ。

Kindle Oasisはシリーズ中もっとも高価だが、Kindle Voyageと比べても優位は明らか。
高価といってもスマートフォンの中級機種より安いぐらい。従来のKindleや廉価版と比べると情報量が多いのに読みやすい(文字の精緻さや快適な使用感など)。なにせ充電は月に1回か2回で済む小電力仕様だし、炎天下での可読性の良さは液晶とは比べられない。おすすめは8GB、Wi-Fi、広告なしの仕様のモデル。これが年に数回価格が下がる。ぼくが購入したときで22933円だった。


地元新聞のエッセイで女性のエッセイストが紙の本は線が引けて読み手の痕跡が感じられて良いが電子書籍は?という趣旨であった。この方は電子書籍がスマートフォンやタブレットで文字を読むのと勘違いされているのだろう。実際に可読性は紙にも優る読みやすさ、裏返せば目の疲れにくさ(大半の状況ではバックライトも不要でブルーライトも皆無)も紙より上回る。アンダーラインは自在に引けるし消すこともできるしアンダーラインの箇所だけを拾い読みする出力もできる。

そして数百冊かそれ以上の書籍が1つの端末に入る。登録端末はひとりで複数設定できるのでパソコンの広い画面でも見える(テキスト中心の書籍はKindle端末で、図鑑などはPCでという使い方もできる)。

Kindleでは自分の書いた文章も電子書籍形式に変換して読める。非売品であるけれど。
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Kindle Oasisのカバーはこの機種がいい。機能的で質感も高い。Kindle Oasisはひっくり返すと持ち手が左右に入れ替えられる。これで手が疲れない。上の写真では左手で持つように左に送りボタンとグリップがあるけれどこれを天地ひっくり返せば文字もひっくり返って右手で持つことができる。


「ユーコン川を筏で下る」の冒頭からはカラー写真が続く。これはKindleでも見えるがPCで見るのが良い。文章はKindleの圧勝である。夜寝る際にふとんに潜り込んで片手をわずかに布団から出して小さな灯りで読むのが日課(その際に歌詞のない音楽も小音量でかけている。本を読むのに飽きたら今度は灯りを消して音楽のみを聴きながら眠りに就く。文字に書くとなかなかだが、実際は本を読み出して寝るまでに10分ぐらいのことが多い。音楽は子守唄である。


野田さんはカヌーではなく筏で下ってみたかったそう。そこで試作を行い、材木をかすがいで止めて合板を渡した1人乗り(+犬2匹)の重量80kgの小型筏が最善とわかった。その筏でユーコン川を下るのだが、筏の上で焚き火や食材を炙ることもできて酒を飲みながらイスに座って広い川と正対しながら下るというのだ。ただし漕ぐときは後ろ向きとなる。

若い頃、ユーコンでカヌーの一人旅をしていると、川岸の小屋から自分に向けて銃を放たれたことがあった。こっちへ来てくれ、と岸辺の男が叫ぶので言ってみると、酒とコーヒーをごちそうしたかった、気付いてもらえそうにないので発砲した、済まないというものだった。

ぼくは限られた情報量と野田さんのウイットからこの場面を読み解く。実際に弾丸は自分に飛んできたのだが、それは撃つ意志がないととっさに判断したのではないか。名手であればしくじらない距離だったかもしれないし、続いて何発も撃ったのではないとしたら、呼んでいるのではないかと判断できたのだろう。銃を放った男の声の調子や態度からも命をねらったものではないと感じられるものがあったのではないか。

カヌーの旅人を打つ動機として金銭目当てではないし、狙撃しても流されていくカヌーをどのように止めるのか。人の痕跡がなく原野、それもクロクマやグリズリーのテリトリーで殺人狂が暮らしているとも思えない。仮に相手が射撃の名手であれば下手に逃げても無意味だろう。だから殺人目的に銃を撃つことはないとの結論に至ったのではないか。ぼくの想像に過ぎないのだけれど。

そんなことを考えながら75歳の野田知佑として筏で下る心境は如何に興味をそそられたので電子書籍を買ってみたのだ。

若者が冒険しなくなった、といわれる。こじんまりとして保守的で…。音楽までもそんな感じ。DTM、DAWの孤独な制作作業からつくられる音楽からは粗野な感じは消失している。その代わりコード進行やら音階の動きが器楽的というかアクロバティック。自分は歌えても他人は歌えそうにない感じがする。Lemonなんてそうだよね。

とはいえ、ボカロなどで表現される音楽を否定してはいない。「はやぶさ」〜はじめてのおつかい〜と題してミクに歌わせた作品は、カプセルを地球に届ける使命をいくたの困難のなかで奇跡的に果たし、最後は反転して(司令部がはやぶさに地球を見せたといわれている)地球を見ながら大気圏で燃え尽きたはやぶさ初号機の感動的な物語を歌で綴ったもの。そこにあるのはボーカロイドの無機質な歌と演奏から波紋を拡げる無限の慈愛のような音の波。かえってボカロだから伝わる表現があることを知った。


ところで冒険をしなくなったのはなぜだろう。それを冒険とは言えないけれど、日本が経済大国と呼ばれた頃は海外旅行は日常茶飯事だった。国内旅行より割安というのも動機だった(円高でもあり経済力が国民の所得も世界的に押し上げていた)。ツアーだけでなく地球の歩き方などを見てバックパッカーとなる人も多かった。友人の石井君はインドに半年の放浪の旅に出て故郷に戻ったその日に自宅に帰る前にうちに寄ったのだけれどインドの香りというか異臭がした。家で愛犬が本人とわからずに吠えたというのも頷ける。河原君は大学を出て定職に就かず日本の山を歩きネパールのトレッキングに出かけるなどした。ぼくも南太平洋に行ったり東北や信州やら屋久島やらに気が向いたら出かけていた。70年代は反戦(ぼくの年代ではないけれど)、80年代は放浪が格好よく一種のインテリの装いのようでもあった。それでやっていけたし、そんな若い頃を過ごしていまも不自由なく暮らしている。

ところがバブルの崩壊前からおかしくなった。土地神話が崩壊したからだけではないと思っている。80年代は100万円を10年郵便局に預けたら倍近くになったし、1年で7%の利回りのある安全な金融商品もあった(100万円預けたら1年後に7万円増える。ただし20%の源泉課税があるので5万円)。経済だけでなく未来は愉しいもの、豊かなものという空気が横溢していた。

しかしそれは日本人も国も傲りにむしばまれていた兆候。人だけでなく企業も冒険しないで運営(5Sやらサービス残業やらシックスシグマやらカイゼンやらジャストインタイムやら。それらは道具であって目的ではない)を磨くだけになってしまった(それらが従業員の疲弊やら冗長性のなさからサプライチェーンの途絶を招いている)。安くて良いものをつくる、売るという競争に陥り、労働力の安い外国に工場をつくり、給与は上がらなくなった。それはレッドオーシャンにまみれ、世界標準からもはずれたローカルルールに浸るだけで、ゲームチェンジャーされる人になってしまった。以前の100円店はメイド・イン・チャイナが多かったが、いまではほとんどがメイド・イン・ジャパン。この現実を直視せよ。

気が付くとアメリカでラーメンを食べると2千円という事実に驚き、アメリカで年収1千万円は貧困層という現実を信じられないようになった、コロナ前に東南アジアからの旅行者が日本に増えたのは「リーズナブル」だからである(バブル期に卒業旅行と称して海外へ行っていた若者たちのように)。

科学技術すらつまらなくなった。実用性やら費用対効果を大学にまで求めて基礎研究やら長い視点での持続的な研究ができなくなっている。学問に合理性など要るか? 夢や志のない研究など何になる?

若者も冒険をしなくなった。若いということは気力体力がみなぎっていて、バックパックを担いでどこにでも行くようなことは若さの特権のようなもの。人が一生を終えるときに後悔することがあるとしたら、「もっと冒険がしたかった」というものが多いと聴いたことがある。やらなかった後悔とやって失敗したけれども経験を積めた充実感とどちらを選びますか?と言われたらどうですか?

幸せな人生って、自分が我慢することなくやりたいことをやって(やり尽くして)例え失敗してもやってよかったと思えること。なお、やりたいことをやってそれが誰かに支持され誰かの幸せに貢献しながら自分も思い通りに生きる人生ならどんなにいいだろう。誰にもそんな人生を送る権利がある。

冒険とは、人類未到の高峰をめざしたり危険な試みをすることだけではなく、日常の暮らしで挑戦し続けること。一過性の冒険など色あせる。そんなことよりも直線的な生き方から脱却することのほうが冒険と思える。直線的な生き方とは、学校を出て就職して結婚して家庭を持って子どもが巣立って夫婦だけになって余生を過ごしやがて一人になって死んでいくというもの。ある意味では後戻りできない生き方。

そうではなく、例えば10年1クールぐらいでテーマを決めてそのときほんとうにやりたいことに取り組んでみる。うまくいけばそれで良し、うまく行かなくてもそのとき(その年齢で)挑むことができたらそれはそれで幸せなのではないかと。レールの上を行かないある意味では危険な生き方を敢えて選んで生きてみるというのは一生をかけた冒険といえるかも。リニア(後戻りできない)ではなく、やりたいことをやりながらもうまくいかなかったとしてもやり直すという循環する生き方ね。

あまりに伝えたいことが多すぎて下手な文章でもこうやって綴っている。ブログだけでも文字数を数えたらここまでに綴った文字数は120万を超えている。でもまだ足りない気がするのでこれからもブログを書き連ねていきたい。

野田さんの話題に戻るけど、本に書かれているようなハレの場面ばかりではなく、人間関係に悩んだり病気や世俗のごたごたで悩むことなども当然あったはず。でもやりたいことをやってきた。その足跡が人々を勇気づける。それらも含めて野田さんは幸せな人生だったのではないかと。

タグ:野田知佑
posted by 平井 吉信 at 20:48| Comment(0) | 生きる

2022年03月24日

何が正しいかを考えるのではなく


いまの時代にほんとうに必要な生き方というか社会のあり方を最小限の言葉で表すとしたら
「失敗を経験してそこから学ぶこと」「多様な価値観を認めること」。
その大切さは生態系を観ていてわかること。
資本主義でも共産主義でもなければ、それらを否定する独裁主義でもない。
(いまはどの国でもそのようなリーダーを待望する声が少なくないのだろうが)
ヒーローや救世主は要らない、ヒーローや救世主に頼らない、一人ひとりが主役の社会。
日本がこの30年できなかったこと。世界の国々ではそれと反対の方向へ動いていること。

多様な価値観を許さず、あるべき姿と反対のことをやり続けてきた安倍政権。
経済政策の失敗は数字に明らかだがその数字すら改ざんして隠蔽する。
プーチン大統領にすり寄ってあしらわれてしまった。
(プ氏から見ればあ氏は同類の匂いを嗅ぎつつも与しやすかっただろう)

これらに共通するのは、単一の価値観で覆い尽くす社会を理想とすること。自らの権力基盤に陶酔して当たり前の社会が見えなくなっていること。
おそらくこの犯罪(侵略)はロシア政府の敗北に終わり、プ政権も長くはもたない。

危険を顧みず意見する人々を意のままにならぬと社会から抹殺する(これは日本でも近年に行われていた)、どんな不祥事も開き直る、住民の意見を聴かず気まぐれと独断で意思決定を行い市民からノーを突きつけられる、…残念ながら身近なところにも聴く耳を持たない帝王がはびこっている。

ウクライナ人もロシア人も犠牲にしてはならない。何人たりとも平和でいられる権利がある、幸福を求める権利がある。
3月5日の投稿は現時点でも最善と考えている)。

ウクライナの人々の勇気が独裁者の夢から醒めない世界各国の人々に本質を見よと投げかけている。
資本主義でも共産主義でも独裁主義でもない別の道があることを(この三者に共通するのは住民の幸福を犠牲にしつつ国家の枠組みを悪用して非人道的かつ合法的に私腹を肥やす利権が跋扈すること)。手が届くところに未来があることに気付けと。

身近なもの、例えば食べることなどはできるだけ小さな場所で循環させる(食糧は地元や自国で調達)。文化や価値観もそう。そして人類の幸福につながる発明や道具は自由な交易で世界中の人がその恩恵にあずかれること。二酸化炭素排出抑制についても現在の枠組みや思考の外にまだまだ解決策があるかもしれない(例えばEVの普及がCO2削減につながるとの思い込みからは別の解決法は出てこないだろう)。

先日、NHKの番組配信を見るともなく見ていたら、先人の知恵で縄文時代に学ぶ趣向の番組があり、ゲストに知人が出ていた。でも彼女の発言でひとつ気になることがあった。SDGsにかけて有機野菜などを食べることを説いていた。でもそれをやると食糧の生産性や自給率が低下したり所得の低い人が満足な栄養を摂取できなくなりはしないかと疑問に思った。もちろん多国籍企業が喧伝する安全性が怪しい化学物質を使えというのは断じて違うけれど正解は有機栽培だけではないことも事実。

一見良いことのようでも単一的なものの見方から漏れていく大切なことがある。SDGsをひとことでいえば多様性(生態系)を尊重することをモノサシとしながら生物とその共有財産である地球の幸福とは何かを考えて実践することではないかと思える。

ロシア政府の蛮行はウクライナにとって過酷な試練だけれど、この惨事(失敗)から世界が学べることは大きい、学ばなければ。そしてこのことがきっかけとなって、自由で思いやりがあり多様性を尊重する社会をつくろうとする人々が世界に広がることを願っている。
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(写真は勝浦町横瀬立川のひまわり畑で撮影したものをイメージ化。ウクライナ国旗の青と空の色はCMYKで合わせている。でもこのひまわり畑はいまは存在しない)
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 23:32| Comment(0) | 生きる

2022年03月05日

シナリオとなるか


この記事を書いたのは5日前。公開するかどうか迷っていた。
自分なりに出口を見据えて各国がどう行動すれば良いかを考えて書いたもの。

やってはいけないことをやっているのはロシアだけれど、物事は一方向からのみで考えるとうまくいかないと思う。一方を持ち上げて一方を落とす。挙げ句の果てにロシアに由来するものはすべて白眼視していく。在日ロシア人への誹謗中傷など最低の行為だろう。街頭でプーチンを避難するヒロイックなデモ行進をいくら行ってもそれで何も解決しない(ただ世論の高まりを当事者に届けることは無意味ではない。この記事を書いたときはまだ原発攻撃などは起こっていなかった。ウクライナ軍の善戦を讃える論調ばかりの頃)

ぼくは考えた。バイデン政権にはこの問題を解決する力はなく、もちろん当地へ出兵するなど有り得ないしアメリカがどう動いても問題をこじらせる方向でしかない。一方で中国が仲介を行う可能性をつくるのもその後の力学を考えると避けたいこと(中国は五輪期間中のうえ世界覇権を目論むのでこの問題では慎重に行動するとも考える)。何のための戦争なのか疑問に思っているのは、ウクライナ、ロシア双方の国民だろう。これ以上は1人でも犠牲を出さないため出口戦略を構築して停戦を具体化させるプロセスに一日も早く取りかかりたい。

まずは当事国のウクライナがNATOに加盟しないことを前提に停戦合意に入る。ロシアも侵攻の大義名分がなくなったのでウクライナ全土から軍を引き上げる。さらには東部地域の国家承認も取り消す。クリミア半島についてもウクライナに返還するが、ウクライナは不凍港として黒海に面した港をロシアの物流拠点としての使用を認める。もちろん各国はロシアへの経済制裁を停止して侵攻前の状態に戻す。日本もサハリンやシベリアの共同開発を従来どおり進めていく。このことで世界経済の不安定要因(各国のインフレなど)を軽減させる。

以上のようなシナリオでは両国は納得できないことだろうか。両国の国民の安全と利益を第一に、そして両国の国益を損ねることなく、そして指導者の面子をつぶすことなく、さらには世界全体にも良い影響が波及していくことではないだろうか。

ウクライナの人々が求めているのはNATO加盟の是非というよりも、どこからも侵略の怖れのない平和な独立国家でありたいということ。西側諸国がウクライナに侵攻するシナリオはほぼない。あるとすればロシアだが、ウクライナが緩衝地帯としてNATOの盾になる限り、ウクライナへの容認できない軍事行動は不要となる。ウクライナはどちらにも与しない立場を大いに活用して経済的にはどちらとも密接に結びつき、人や物資が豊かに行き交う交易地域として位置づけることで平和と繁栄を手に入れることは困難だろうか?

影が薄かった国連だが、戦争の当事者である両国とも痛手を負ったことで国連主導で侵攻の代償(賠償金など)の調停を行う。もちろん世界各国(官民問わず)もウクライナの復興支援を行う。また、常任理事国を増やすとともに、一定の手続きで一定期間罷免できる条項も調えておくべきとも考える。

外交や軍事、国際法、国連の役割、世界情勢などにうとい素人の考えでどこかに誤りや錯誤があると思うけれど、何が人々(当事者も世界も)の幸福につながるかを原点に書いてみた。

タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 18:38| Comment(0) | 生きる