2018年04月10日

ネアンデルタール人への思いはいまも


強い者が生き残ると考えている人は多いだろう。
ところが進化については必ずしもそうとは言えない。
むしろ強すぎると生き残るのに不利になるような気がする。
(以下は生物学的な考察ではなく感覚的な感想に過ぎないのだけれど)

我が世の春を謳歌した恐竜は
6,500万年前の隕石衝突がきっかけとなって
一瞬のうちに絶滅したとされる。
(地球がその時々に全生命体に与える究極の試練、全球凍結や灼熱地獄などを経験した生命はその度に劇的な進化を遂げた。試練は機会となることを胸に刻んでおくとつらいことがあってもむしろ励みになるはず)

そんななかで生き残ったのは
強者の陰に隠れて細々と生きていた哺乳類の祖先だった。

強すぎるとどんな弊害があるのか?
環境に適応して勢力を伸ばす(増やす)ことになる。
これは間違いないだろう。

ところが環境の変化が起こり
生態系の変化が起こる。
生態系は連鎖しているので
頂点に立つ種への影響は計り知れない。

企業経営にも当てはまる。
あまりに我が世の春を謳歌している企業は
ビジネスの革新は自分の首を絞めることになりかねない。
(つまり収益の要となっている自社の主力事業を自社の新規事業が浸食していく)

ビジネスモデルの革新は
潜在的な需要を喚起するとともに
それまでの支配(競争)のルールを書き換えてしまう。
強みの源泉となっていたことが変化への障壁となって
ビジネスが成立する世界観が崩れてしまう。
強者の企業が強みを磨きつつも
多角化や複合化に走るのは革新への怖れからだ。

人類の場合、ぼくにとって謎であったことは
ネアンデルタールと現代人(ホモ・サピエンス)との関係である。

古い教科書には、ネアンデルタール人は現代人につながる旧人と記されていたが
いまでは紛れもない現代人として「ホモ」の冠称を付けて
「ホモ・ネアンデルターレンシス」ともいう。

ネアンデルタール人は、体格に優れ、脳の容積も
当時のクロマニョン人と比べても大きかった。
色白で褐色の髪をしていたとされ
スーツを着ていまの東京を歩いていても
誰も振り返ることはないだろう。

それなのに絶滅してしまった。
もっとも近い種族として
同じ地球上で試練や豊かさを分かち合った親しい仲間として
ネアンデルタール人への哀愁と感謝を込めて
ぼくは生きている(おおげさではなくそう思っている)。

おさらいだが
ネアンデルタール人は異なる人類である。
白人と黒人は随分見かけが違うので別の種類の人類のように見えるが
同じホモ・サピエンスである。
(70億人がほとんど同じDNAを持つということは、ホモ・サピエンスが小さな集団から再出発したことを意味している)
ところが、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは
遺伝子の配列が異なる。
もしかして見た目の違いは
同じホモ・サピエンスの白人と黒人の差が
異なるヒト属である現世ヨーロッパ人(ホモ・サピエンス)と
ネアンデルタール人のそれよりも大きいかもしれない。

ネアンデルタール人はホモ・サピエンスとの生存競争に敗れたともいえる。
それはなぜか?
数年前のぼくは、言語能力の差があったこと。
世代交代につれて生存を左右する知恵の蓄積と
それを共有する能力の優劣につながったという説を信じていた。
(わずかな骨格の差から発音の明瞭さが異なるのではないかとの推測による)

もしネアンデルタール人がいまも生きていたなら
大相撲の横綱はすべてモンゴル人ではなく
ネアンデルタール人になっていたかもしれず
脳の容積は知性に比例するのであれば
ノーベル賞の受賞率はホモ・サピエンスより高かったのではないか。

当然、異なる人類同士なので争いは起こったはず。
(同じ人類同士でも争いはあったはずなので)
その際に1対1での戦闘は体力で勝る彼らが上だっただろう。

しかしここでも強者は生存につながらなかった。
約3万年前(諸説あるが)に絶滅してしまった。
ぼくにはネアンデルタール人が文化や芸術の素養を持ち
むしろ争いを避けたのではないかと思えて仕方がない。

ネアンデルタール人は魅力的であったのではないか。
それは科学的な検証を得て復元されたネアンデルタール人の顔から想像する。
ぼくがクロマニョン人だったなら
ネアンデルタール人の女性に惹かれていたような気がする。
ネアンデルタール人のなかにも
ホモ・サピエンスの異性に惹かれる場面があったのではないか。

そう思っていたら
数年前に衝撃的な本が出版された。
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は混血していた、
現代人のなかにネアンデルタール人のDNAが生きているというのだ。

混血で獲得したDNAは特定の病気に罹りやすいデメリットをもたらしたが
それ以上に利点ももたらした。
異なる種族で受けつがれた遺伝子がもたらす多様性が
種の保存に有利に働いたのではないか。

ぼくが言いたいのは
現代に生きるホモ・サピエンスの画一的な生き方に危うさを感じるということ。
(みんなが同じものを良いと思って同一性を極限まで推し進めていく生き方)
言い換えれば、絶滅に向けて束の間の繁栄を謳歌しているようにも見える。

諸行無常、万物流転などの仏教の考え方や
生物多様性の価値や意義という生態系の視点に立てば
一人ひとりどのように生きていくかを自分で考えて
忖度とかSNSへの依存などではなく
自分のモノサシで生きていくことが何より必要なのではないか。

感情の動きをかたちにした非言語的な表現(芸術)をネアンデルタール人は持っていた。
一方で言語を道具に知識や知恵を体系化して承継していったホモ・サピエンス。
ホモ・サピエンスの社会で生きていくという現実を見据えながらも
ネアンデルタール人のような生き方や思いに共感しながら生きていきたい。

NHKで全3回シリーズで始まったNHKスペシャル「人類誕生」。
http://www.nhk.or.jp/special/jinrui/
今回はCGでの動きに最新かつ細心の技術や感性を取り入れている。
アルディピテクス・ラミダス猿人の動きは出色であった。
次回(5/13)は「そしてヒトが生き残った」。
(いよいよネアンデルタール人が登場する。ホモ・サピエンスとの関係はどのように描かれるか楽しみ)

およそ20万年前に生まれたホモ・サピエンスは、アフリカを旅立ち中東へと足を踏み入れた。そこで待っていたのは、別種の人類ネアンデルタール人との出会い。彼らとの混血で獲得した遺伝子が、私たちの進化に大きく貢献したことが分かってきた。
しかし、出会いからわずか1万年ほどでネアンデルタール人は絶滅。なぜ私たちの祖先だけが生き残ったのか? カギを握っていたのは、ホモ・サピエンスの「弱さ」とそれを補うために進化させた「協力」だった。(番組紹介文から)


ライバルと比べて圧倒的に不利な状況や乏しい経営資源だったからこそ
大きな飛翔ができた。
それを企業経営やプロジェクトで描いたのが
プロジェクトXであった。
弱いからこそ、道を模索する。
そこに人類の繁栄につながる大切な行動があったとしたら
現代の人類の生き方はその方向から逸れている。
ネアンデルタール人がかつての友朋に警鐘を鳴らしているように思えてならない。

人類の起源と進化については
年々新たな事実が書き加え(書き換え)られているのだ。
https://amzn.to/2HpiPYC

posted by 平井 吉信 at 20:18| Comment(0) | 生きる

2018年02月20日

台所のプリンス 1/2回転キッチンループで


空港でのできごと。
「サインしてください」
「一緒に写真を撮ってもいいですか?」
女性がぼくのところをめがけて押し寄せてきた。
「あの、ぼくはユヅルではないのですが…」
(ファンが怒りそうな悪い冗談を。でも、少し目の悪い方が後ろ姿をみて勘違いする人は100人に1人ぐらいはあるかもしれない。所作の真似はできるから→ ナイナイとの影の声)

目が覚めた。
なかなか心地よい夢だった。

実は台所ではぼくもプリンス(と言ってしまおう)。
前振りはこちらの記事から。

短時間で料理をつくるとき
台所を駆け抜けている。
(水場と冷蔵庫と電子レンジとガスコンロと乾物置き場が少し離れているため)。
火をかけたまま、追加の調味料を取りに行く。
そういえばシイタケが残っていた、このタイミングなら使える!
などとダッシュしてはターン。
その際にブレーキをかけながら右手で欲しいものを掴むと
その勢いで反転する
(1/2回転。前身のエネルギーをわずかなきっかけで、むしろその力を利用するように反転させる)。
(いや、ほんとうに日常です)

その姿は氷上の彼に似ていなくもない(と思い込んでいる)。

みなさんの一日もそう。
日常にはひそやかな愉しみが隠れている、と言いたかっただけ。
(突っ込み処満載だけど、納得しどころも少しはわかってもらえた?)


有言実行というのは実は大切なこと

言葉にすることでイメージを描くことはもちろんだが、
自分の本能に火を付ける。
高まった集中力をくまなく使い切るための準備を行うことができる。
それはドーピングすることなく
アドレナリンを分泌させるとともに
視界からすべてを消し去ること。

ライバルが予想以上に飛んだ、早かった、高得点を出した。
ならば、いつもより踏みきりを強めに…などど考えると失敗する。
人間は考えながら行うことはぎこちない。
(えーと、これができたから、次はと、これをして…)
これが失敗の要因。

ところが無意識でやるとどうなるだろう。
脳は集中してやるべきことを行うことができる。
それどころか、脳優位の身体の制御を
身体全体の制御に切り替える、もしくは連携の強化ができるのではないか。
当然、脳だけの制御よりもはるかに高速かつ正確で疲労が少ないのではないか。

そのとき脳内では神経細胞は新たな可能性を求めてつなぎ替えを模索する。
そこに人間の可能性がひらく。
だから、無心とか無欲というよりは、
無意識というのがメンタルの本質を表しているように思う。

数年をかけてスクワットやマシーンで鍛え上げたポパイのような筋肉が
本番でどのように動いてくれるのか。
緊張して我を忘れてしまえば、簡単に負けてしまうだろう。
制御できなければ鍛えたことがかえってブレーキになってしまう。
そのことをよくわかっているアスリートは筋トレは慎重に行うだろう。
骨、筋肉、神経が一体となって意のままに
いや、無意識に動いてくれると良い結果になる。
イチローはルーティンの効果(無意識の動き)と
正しい身体の使い方を実践しているよね。

メンタルを鍛えるというのは
考えずにやることで集中力を引き出すということ。
そこにはライバルはいない。
敵は己自身の心だけ。
そこには戦略はない(不要)。
(勝つために難度の高い技を封印して完成度の高い技の総合点で競うようにする、というのは戦略だけど、試合に臨む姿勢は戦略よりもっと根源的なものが大切)

ものごとを表面的に見ることなく
何のために、どのようなを見ていくと
本質が見えてくる。

→ 近道のようで近道じゃない(KPI達成重視)
→ 遠廻りのようで遠廻りでない(成功のためのプロセスを描く)

いまの時代、本質は既存の問題解決の外にあることが多いとしたら
その枠をはずす(意識しない)ことから始めるしかない。
日本が飛翔するために、一人ひとりが意識すべきこと。
posted by 平井 吉信 at 01:15| Comment(0) | 生きる

2018年02月10日

子どもを大切にする国 特急のなかのほのぼのとしたできごと。南太平洋の子どもたちを思い出した


それは心なごむ光景だった。
特急うずしおの車内に
志度駅だったか
幼稚園(保育所?)の子どもたちが4人の先生の引率で
集団で乗り込んできた。

相席になる人に先生(保育士?)たちが
ひとこと断って子どもを座らせていった。
(どうぞ、どうぞ♪)
子どもたちもどうにか着席できたようだ。

そのなかのひとりの先生(20代半ばかな?)が
一人ひとりの子どもにほほえみを浮かべながら
やさしい所作と澄んだ声で呼びかけて
デジカメで写真を撮ってあげていた。
特急の車内が教会のような厳かな空気さえ感じた。
(スマートフォンでなくデジカメでしかもシャッター音を消して自然光で撮られていた)

その姿が天使のように見えて
仕事といえでも使命感を持って
(だからこそ)楽しんでやっている姿にほのぼのと。

心のなかで、その調子で♪
良い人生になりますようにと願った。

(川端康成の「バッタと鈴虫」に出てくる少女をもちらりと思い出した)

.。'.*.'☆、。・*:'★    .。.・'☆、。・*:'★
  .。'*・☆、。・*:'★     .。・*:'☆
 ☆、。 ・*'★ .。 ・':....*.:'☆        .。・:'*・':'・★

…ときは南太平洋ポリネシアにいた頃のこと。
滞在したボラボラ島(自炊していた)のオテマヌ集落の教会で
日曜の礼拝があり、10代半ばと思われる白いスカートの少女が
小さな子どもたちにマリアさまのようなおだやかな笑顔で接していた。
子どもを飽きさせないように留意しつつ読み書きを教えていたのだろう。
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この少女が天使のように見えた。
10代で諦念にも似たおだやかなほほえみをたたえて。
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(特急うずしおで出会った女性とも雰囲気が似ているので思い出した)

ヴァイタペ村にバスが着いた
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ターザンごっこ
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自転車買ってもらったんだね
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そんなにレンズに近づいても…。駆けっこ早くなったかな?
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愛くるしいムーシン・ダニエルちゃんももう大人になっているんだろうな
右は妹。よく面倒を見てあげていたね。
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乙女ですから
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鶴の折り方、覚えている?
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風がやんだ夕暮れ。ひとり旅っていいね
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観光地から離れた暮らしの匂いがいい
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無人島でのピクニックの記念に
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南太平洋高気圧 1020ミリバール?
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ラグーンのサメはおとなしい。泳いでいてよく囲まれた
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鳥の楽園への入口
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自転車で島を一周すると半日はかかった
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椰子の実を頭に当てると大変
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ボラボラ島の象徴、オテマヌ山
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環礁の外海はいきなり水深数百メートルに
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地球の休日を愉しんでいますか?
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マーロン・ブランドが所有するテティロア島にセスナをチャータして
そこから鳥の楽園に向かった
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ぼくがカメラを持っていると
洋の東西を問わず、日本の田舎を問わず
子どもが寄ってくる。
(警戒されない雰囲気を持っているのは強み? いや、子どもは瞬時に本質を見抜くのだろう)
そしたら一緒に遊ぶ。
折り紙はよく教えてあげたし
ペタンクに入れてもらったり、飛び込みをしたり。
同世代の人たちとはときに無人島に船でわたってピクニックにも行った。
岩に参加者全員の名前を書いているスナップがそのときのもの。
国は変わってもところは変わってもひとの心は同じなんだということを
身体で感じられたことがポリネシア滞在の収穫だった。
(年を取ってから何かをしよう、ではなくいまできるならいまやること。「若さの特権」は時間やお金で買えないよ)

どこも同じ。人は同じだよ。
そして夏は終わらない。永遠に終わらない。
楽園は、それを見ようとする心のなかにあるから。

(ミノルタX-700+MD28/2.8、35/1.8、50/1.4。いいなあ、この時代のカメラって。価格は安いのに完成された技術が凝縮している。このカメラは18年にわたって販売された。篠山紀信や三好和義も使っていたよね。ぼくが常用しているフジのデジカメではこの色は出ないのでなつかしくなる。こんなカメラ、いまの時代にある? ただしぼくが持っている2台のX-700は骨董ではなく完動の現役。ファインダーの優秀さは一眼レフ市場で最優秀。だからピントが合わせやすい。1/1000秒までに抑えたシャッターも安定感抜群で長年の使用に耐えるもの。ミノルタ最後のMF一眼レフとして産業遺産になってもおかしくないと思う。クラウドファンディングでミノルタブランドのデジカメってできないものかな?) 
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http://soratoumi.sblo.jp/article/61144747.html
http://soratoumi2.sblo.jp/article/182280055.html
http://soratoumi2.sblo.jp/article/181212781.html
posted by 平井 吉信 at 13:10| Comment(0) | 生きる

2018年02月04日

朝のお好み焼きから「生産性」を考える 料理も仕事も生きることも同じ

徳島といえば、大塚食品(ボンカレー)、徳島製粉(きんちゃんラーメン)がある。
ボンカレーはレトルトカレーの元祖だが、子どものぼくはおいしいとは思わなかった。
ルーのカレーでは、当時の家庭の定番はバーモントカレーという家が多かったと思うが
ぼくは満足しなかったので、あらゆるルーをためしてみた。

すると、ゴールデンカレー(中辛)がもっとも好みにあった。
ところがこのカレーにすると幼い妹が辛いといって食べない。
ぼくはバーモントカレーの甘口だけは食べたくない。
そこでカレーの日はルーを2種類用意して
ゴールデンカレーの分は自分でつくるようになった。
(いまでも使うけれど、レシピの7割程度のルーに抑えている)

今度は隠し味をためしてみた。
リンゴをすりおろしたり、はちみつをいれたり
コーヒーの粉、ケチャップなど、
理屈はわからないが、気が済むまで自分でやってみる好奇心旺盛な小学生だった。
餃子やホットケーキを焼くのも当時から家族のなかではもっとも上手だった。

見た目の盛り付けはどうでもいいと思ってしまう。
(どうせ胃袋に入ってしまうので)
料理をすることは好きで、むしろ楽しいといっても差し支えないけれど
時間はかけられない(やりたいことが多いので)。
冷蔵庫や野菜室を見てあまっている食材で
20分で3品程度をつくるというのが日課。

その際に出汁の素とか、○○の素は使わない。
旨味の足し算は味が濁ると気付いてからは
むしろ引き算に徹するようになっている。

そのことに気付いたのは
佐那河内で虎屋 壺中庵という料亭をされている岩本さんの手料理に接してから。
吉野川の河原で芋煮をするのだが
そのさい配を岩本さんがふるわれたことがあった。
メニューは地元佐野塚で採れたジイモを塩だけで味付けをした汁。
それが言葉を失うほど衝撃的だった。
素材の切り方、温度、入れる頃合いなど変数はそう多くない。
それなのにこれまで食べたことがない次元のおいしさだったのだ。

炊飯器で米を炊く、肉を焼く、野菜を茹でる、
といった誰がやっても同じ結果になりそうなことが
実は天と地ほどの差となる。
(できる人はこの言葉を決しておおげさとは思われないと思う)

炊飯器で米を炊くことさえ
ぼくが炊いたのとほかの家人が炊いたのでは質が違う(違いすぎる)。

うちは近所で特別栽培米をつくっている人から玄米を買って
毎日自家精米をして食べているけれど
おいしいご飯はやはりぼくが炊かなければ食べられない。
研ぎ方で、その際の水の使い方、浸し方(時間や温度)で変わってくる。

さらにいうと体調によって材料や調理も変えている。
身体が欲している食べ物を腸に届けるという感じ。

食は人の考え方、性格、体調、免疫力、つまり人生まで変えてしまう。
このブログから楽天的な生き方やユニークな洞察力、
自然への感受性を感じる人がいらっしゃるとすれば
その原点はまちがいなく日常の食にある。
(毎日どこかで外食していることを誇らしげにSNSに投稿する人は食の本質を身体が感じていないのだろう)

だから高校のときから体重や体型はほとんど変わっていないし
体力もさほど落ちていない。見かけも年齢よりは若く見える。
結局、アンチエイジングを突き詰めていけば、やはり食になるのだ。

かといって、オーガニック食材や特殊なサプリメントは買わないし買おうとも思わない。
ていねいにつくられた地元の食材や顔が見える食材であれば十分だ。

限られた時間を有効に活用しようとすれば
食をつくる生産性を上げることが人生の大切な要素と気付く。
(仕事の生産性も大切。特に製造業ではなくホワイトカラー。ぼくからみるとムダな作業をやっているホワイトカラーの生産性を上げれば=ここが経済のボトルネックと思いませんか?=日本の経済はもっと飛翔する)

早い話が戦略的な手抜きを行うこと。
成果に結びつかない作業はやらなくていい、
というよりやめるべき。
人生はプラスαしていくのではなく、
減らすことに意識を傾ける。
空いたところに成果につながる資源(時間、資金、意識)をつぎ込んでいくこと。

大きな組織では社長とか理事長とかの鶴の一声で現場が混乱する。
(経営資源を理不尽に動かすことがどれだけ生産性を下げるかわかるよね)
その反面、現場では不毛な合議(忖度)と冒険をしないありきたりの結論ありきで
絞りこんだ戦略を打ち出せていない。
それが今日の日本を招いている。
行政や大企業だけでなく政治もその片棒を担いでいる。
ゼロベースでリセットしてあるべき姿を描かないと未来はないよ。

おいしい料理をつくるために今度は○○を導入しよう、
こだわりの素材を使おう、
○○式の調理をしよう、
など手段だけに焦点を当てると
ここ十数年の日本と同じになるよ。

食べるとは何か(何が究極の目的=成果か)
その成果に至るには何が必要か(やらなくていいことは何か)
その成果に至る過程でどのような変数が存在するか
その変数における最適解はなにか

こう考えるべきなのに(以下はたとえですよ)
目標:「○○方式による○○の素材を3割以上採用した朝食を6割以上提供すること」

一見定量的に把握できるけれど、
成果に至る必要なこと、そうでないことの見極めが抜けているよね。
(料理もホワイトカラーの生産性を上げることも同義語とわかりましたか?)
仕事を依頼するなら言葉の定義ができる人、実行している人に依頼しなくてはダメですよ。
(適切な設問をつくることができる能力と言い換えてもいい)

日曜朝の料理の前振りでこれだけ語る人も希有、奇特な人でしょうけど
きょうはお好み焼き。
徳島市内の標高の高い場所で雪に耐えてつくられたキャベツをたっぷり食べたいから。

材料:キャベツ、小麦粉、レンコンパウダー(現在あるところで試作中のもの)、卵

広島焼きのように薄く広げた生地に
富士山のごとくキャベツを盛り上げる。
ひっくり返す前に生地をかけて
キャベツを蒸し焼きにする。
これで十分な栄養が採れるものが調理し始めて15分後には食べられる。

フライパンはリバーライトの26センチの鉄。

これだけで十分。
弱火から強火までリニアに温度が調整できる。
焦げ付くことはないがメイラード反応(焦げ目)を付けやすい。
テフロンでは時間かかって短時間調理ができない。
とはいえ、このお好み焼きも工程の9割は最弱火(生地が薄い点にご留意)。
最後はパリッとさせるために火力を上げる。
これが鉄でないとおいしくできない理由。
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見た目は悪いけれどキャベツたっぷりの後味良しのお好み焼きのできあがり。
(青海苔は日和佐産の青のりを使っている。品質管理がしっかりしていて安心して使える。道の駅日和佐やキョーエイで入手できると思う)
http://www.pref.tokushima.jp/takarajima/docs/2014012200349/
http://www.pref.tokushima.jp/takarajima/docs/2014012200394/

365日のほんのひとこまだけど食べることが大切なら
手間と時間をかけずにあるものを使って自分で作ること。
(食べ終わる頃にはほとんど洗い物も終わっている時短調理)

ゆうべは、窪川の生姜と鳴門わかめのスープをつくった。
(身体を温めるのがねらい)
具材はほかに余り物のシイタケが少々。
出汁と食感を楽しむために
トマトを半分に切って入れてある。
基本は薄めの塩味だけだが、
味付けは自分の器のなかで醤油を好みに応じて垂らす。
これも5分の時短料理。
(写真は撮っていない)

成果に結びつく生産性を上げること。やらないことはやらない。
(しかも「脱こだわり」&かっこつけない、あるもので自然体でやっていく)
そのほうが楽で愉しい。
posted by 平井 吉信 at 11:31| Comment(0) | 生きる

2018年01月16日

今がいい


徳島でも一面雪景色になったのが数日前、
聞くところによれば、通勤に数時間かかるなどの大渋滞が市内で起こったそうだ。
ぼくはJRで県外出張だったが、東予では雪はなかった(途中の香川県でも)。
(今週だけで四国4県すべてに出張)

ところが今夜はあたたかい。
久しぶりに近所を歩いて戻ってきたところ。
数日前の寒波と大違い。
そしてこの変化を楽しむことができる。
それがすばらしい。
季節の変化、日々の変化、そのなかに妙がある。
それを感じられて満足している。

歩きながら思ったこと。
それは、去年と比べても今年がいいと思う。
たぶん今が一番いいと思う。
人生は地道に積み重ねていくと
知らぬ間に長い距離を歩んでいることに驚く。
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今が一番いいけれど
未来のほうがさらにいいだろう。

積み重ねるだけでなく
やらなくてもいいことをしないようにする。
捨てることが充実した生き方につながる。

充実しているかどうかは自分が決めること。
自分が良ければそれは最良。
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もう一度時間を戻してやり直しても
ここまで来られるかわからないから。
(やり直すとはそういうこと)
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(写真は妙見山の岩脇公園=羽ノ浦町)

自信を持って生きているけれど
(自信なんて必要かな?とも思う。人と比べることもないし)
どちらかといえば淡々と歩みたい。
今が一番いい。

(思ったとおりの人生にならなくても気にしないこと)


posted by 平井 吉信 at 22:56| Comment(0) | 生きる