2023年01月06日

ルンルンは「花の子ルンルン」から ゆめと希望を未来に渡すために


家に帰りたくなる理由ができた。地元のレモンで漬けた自作のレモン酒ができたので。
これを飲めると思うと渋滞の道すら鼻歌まじりとなる。レモン酒は梅酒と違って仕上がりが一月と早い。そのままストレートでぐいぐい飲める。喉の渇きを感じたのできょうは水で1対1に加水してみた。炭酸割だと天然のレモンスカッシュ風低アルコール飲料になる。とにかくつくってよかった。

こんな気分を「ルンルン気分」です―と表現するよね。
実はこの言葉の語源が1979年のアニメ「花の子ルンルン」にあるとご存知ですか?
もう40年も前のこと。当時の流行語で死語となった言葉は少なくない。「ナウい」「オニュー」「マジ」「フィバる」などがそうだろう。

ところがところが、東映アニメーションが公式チャンネルで「花の子ルンルン」の第1話を公開しているではないか。
https://www.youtube.com/watch?v=TcgLxXkITOA

絵の美しさはもちろんだけど、例えばこんな感じ。
(ネタバレ注意)第1話では列車で花探しの旅に出た主人公のルンルンが沿線で起こった民家の火事を見つけて列車を止めて消火を呼びかけるが、列車はそのまま行きすぎる。そこでルンルンと乗り合わせた一人の青年が列車から降りて火を消そうと奮闘する。

民家は若夫婦と子どもの家だった。ルンルンと青年が危険を省みず救出作業の真っ最中に、発車したはずの列車が戻ってきて大勢の乗客がバケツリレーを始めた。みんなの協力で民家の火を消し止めることができたため犠牲者は出なかった。ルンルンは乗客たちと再び汽車に乗るが、青年は汽車に乗らずその場を離れる際に花の種を若い夫婦に手渡して去って行く。

花の種は燃えてしまったけれど
美しい花が咲いたじゃありませんか。
みんなの心のなかにね、あの娘のお陰で。


青年はそう言ってこの種を蒔いて列車から見えるようにしてくださいと若夫婦に手渡す。
それはバーベナの種であった。

時が過ぎて沿線に咲き誇るバーベナの花。
そして花ことば「赤いバーベナ(一致協力)」で締めくくる。

うーん、昭和の女の子たちはこんな良質のアニメを見ていたんだな。

おっと、汽車が出発する前に線路に咲いていたスミレを撮影している青年を見てうれしくなった(なぜって? 聞かない、そんなこと → 令和になってもこんな人があなたの身近にいるかもしれませんから)。

この場面はさりげないけど深い意味が込められている。路傍の花にもいのちが宿り、その輝きに見せられ、列車に踏み潰されないよう移植する若者の行為。生物学的にも線路は環境圧(環境によって生息域が制限されること)を受けてほかの植物が生育できない場所に花を咲かせるスミレの特性をよく理解している制作者の手によるもの。すごいなとため息。

この青年が手にしているのが一眼レフであり、ニコンFのようにも見える。少女向けアニメでありながら細かい造形にまで手を抜いていない。いったい昭和ってどれだけ貪欲に未来への投資をいまの自分たちの手仕事を重ねて紡いでいたのだろう。そんなゆめと希望を紡ぐ努力を引き継いでいけないものだろうか。
posted by 平井 吉信 at 23:28| Comment(0) | 生きる

2023年01月01日

新年だから愉しい話題を サモア島の歌を知っていますか? 


青い青い空だよ雲のない空だよサモアの島とこなつだよ♪という歌は聴いたことがあるでしょう。

子どもの頃に聴いてからこの歌が好き。何が好きかって、繰り返しの多いポリネシア語圏を彷彿させる単純な日本語の歌詞。歌いやすく親しみやすい旋律、楽天的だけど素朴な歌詞。
ところが後半はなぜこんな旋律(和声)になるのだろうという不思議な進行。子ども心に音楽理論はわからなくても、単純で素朴な前半と、どこが切れ目なのかわからずたたみかける後半の対比に惹かれた。
「風が吹く」でほんとうにそよ風が感じられる。「波間をゆく」で和声を先送りにして「船出を祝い無事を祈る」がカヤックに揺られる漕ぎ手の存在が波間に浮かぶよう。そしてその帰りを待ち受ける人々の気持ちを「みんなの声が追いかける」と描く。
声が追いかけるとはどんな情景を指すのかわからないけれど、言葉の意味を超えて言葉の音(韻)が暗示するのは、人々が広場を行き交う光景、そして誰かの言葉を誰かがつないでいく存在承認(心理学の言葉)。「誰かが帰ってきたよ」「ああ帰ってきたね」「よかったね」「よかったよ」と。歌詞と音楽が一体なった奇跡の音楽といっても言いすぎではないと思う。

YouTube上にもいくつかあって聴いてみたらとても好きになった演奏があった。それが東京少年合唱隊の演奏。

テンポが小気味よい。急がないゆったりしすぎない。ウクレレが伴奏に入っている。少人数の歌唱で透明度が高く、無理に統率を取る必要がない。必要に応じて独唱と合唱、ユニゾンと和声、オブリガートやエコーのような表現を織り交ぜ、手拍子が温もりを醸し出す。歌も編曲も伴奏も良し。

CDで購入しようと思って探したらあったのだけど、この曲だけで良いのでダウンロードを探したらOTOTOYとmoraにあった。OTOTOYはロスレス(非圧縮形式)が選べる。ぼくの環境(Windows 10+JRiver Media Center+asio4all+タイムドメインライト)では音質が明確に違う。視聴もできるのでOTOTOYのWebサイトを以下にご紹介。もし購入される方は、音源の形式をプルダウンで「wav」形式を選択するとCDと同等となる。
https://ototoy.jp/_/default/p/81583

CDでも良かった。価格が900円で30曲も収録されているので。でもこれはここ近年でもっとも安い。普段は2千円前後である。



20代の半ば、南太平洋へ出かけてみようと思った。頭のなかにサモア島の歌があったのは間違いない。そこで行き先を西サモアにしようとしていたが、どういうわけかフランス領ポリネシア(タヒチ)になった。
それは「南太平洋の音楽」と題して民族音楽専門のノンサッチレーベルが録音していたこのレコードを聴いてから。当時この方面に直行便はなく、ニュージーランドとフレンチカレドニアを経由してタヒチ本島のファアア国際空港に降り立った。


南太平洋は陸がない海域に珊瑚礁の島々が点在する(珊瑚礁がない島もある)。冒険家たちの胸を熱くしてゴーギャンの心を捉えたポリネシア。危うく強制送還されかかったり、飛び込みで民宿を探し、市場に買い物に出て半月ほど自炊したこともあれば、セスナをチャーターしてマーロン・ブロンド所有の鳥の楽園(テティアロア島)に渡ったり、フランス人の観光客と素潜りを競い合って(20メートルぐらい)潜水病になりかけたり、南十字を見ながらファレ(かやぶき屋根)で寝ていたら近くの民家から母親が赤ん坊をあやす声にしんみりしたり、島をレンタサイクルで廻ったり、現地で調達した地形図で島の山脈に分け入ったり、現地の同年代の男女と無人島にピクニックに出かけたり,
夜に行われる地区の若者たちのタムレ(踊り)の練習に参加したり、現地の子どもたちと折り紙を教えながら遊んだり…。地球は友だちって感じ。そのときの様子は「南太平洋」のタグからどうぞ。当時の写真はミノルタX700とMDロッコールのポジで撮影したもの。

できないことなどなく、やりたいことがやれた時代だったかもしれないのは、沈まない太陽、日出ずる国、Japan as No1、世界の経済大国といわれた時代だったことも後押ししたかもしれない。金融機関や証券会社にまとまったお金を預けておけば1年でちょっとした旅行へ行く資金が増えた時代だったから。

2023年1月1日、サモア島の歌が人々の心に愉しげな歌を響かせて心を軽くしてもらえたらと願って。

タグ:南太平洋
posted by 平井 吉信 at 21:51| Comment(0) | 生きる

2022年11月26日

地元のゆこうとレモン 山間部で起きていることから国のあり方に思いが至ってしまった


南四国は香酸柑橘の宝庫である。
なかでもすだち、ゆず、ゆこうの三姉妹。すだちの亜種であるさなみどり、すだちの交配種である阿波すず香も加えて5姉妹と称されることもある。

丸亀製麺ですだちを使った製品が人気と聞く。果汁として用いる場合もゆず、ゆこうは調味料メーカーから強い引き合いがあるという。しかしそれはあと何年続くのだろうか。

これらはすべて山間部でしか採れないもので担い手がいない。ぼくも生産者の収穫を何度か手伝ったが、すべて棘がある樹種なので、厚手の木綿服などを着て収穫を行うのだが、枝をかき分けて実にたどり着く。枝から突き出た棘は斜めに向いているので、慎重に収穫しても身体のどこか(たいがいは手の甲か前腕)に傷を付けてしまう。収穫の際はゴーグルか度数のないめがねをかけておいたほうがいい。

この棘の奧に実がなっている
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ゆず
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すだち
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このカゴをさらにコンテナに統合するのでコンテナはかなりの重量となる
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それを篭に入れてコンテナまで運び、急傾斜地の崖を慎重にコンテナを軽自動車を停めた車道まで運ぶ。これをいくらで出荷するのかというと、1s100円という。ありえない安さである。

儲からないのに需要は年々増加している。そして担い手は年々高齢化しており一刻の猶予もない。子や孫が後を継がないので「来年はできるだろうか」と思いながらの作業である。

さらに追い打ちをかけているのが地球の温暖化による気温の上昇である。露地栽培のすだちでは近年農家ごとに収量が著しい差が出てきたという。

収量に明暗が分かれるようになった原因は不明であるが、考えられるのは栽培技術(手間)である。土壌や気温などの条件が異なってもそれらは変数として説得力を持たないだろう(機会学習、深層学習にかけても答えが出ないとデータサイエンティストは直感するだろう)。

気温の上昇が何に影響をもたらすかに論点を置いてみる。すると樹木の生育が著しく早く(旺盛に)なるのではないか。もしそうなら果実に行く栄養が取られる。となればこまめに剪定を行う必要がある。それができるのは体力がある農家(もしくはこまめに手入れを行う性格)に限られるのではないのだろうか。これが仮説である。AIは使わずとも近似の条件の樹木何本かでA/Bテストの検証で事足りる。

今年もありがたくゆこうの果汁をいただいている。ゆこうは日本の香酸柑橘でもっとも可能性があると思っている果実でこのブログでも何度が触れている。→ ゆこうの記事
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特に腔内環境や腸内細菌の分布に好影響をもたらすことが徳島大学の研究で判明してからは、ただおいしい果汁ではなくなってきた。現在でも調味料(ポン酢)の原材料として使われる量がもっとも多いのだろうが、最高の活用法はそのまま果汁を飲むことである。

具体的には手動の絞り器で果汁を搾り、はちみつを入れて湯割りにする。ゆこうの青果がある時期は毎朝飲んでいる。おいしいけれど飲んだあとにほかほかすることや胃や腸のすっきり感がまるで違う。飲む前に歯磨きをしておいて口腔内に残すのもコツ。歯周病菌と腸内細菌は密接に関係しており、それらを良好な生態系(細菌同士が相互作用する状況を表現している)を保つのに効果があるとすれば、長寿やQOLの改善、成人病の予防にも役立つものだろう。

続いて近所の山で採れたレモンを酒にしてみた。このレモンは自家用のため農薬は使っていない。山間部で小規模の栽培で出荷もしないため使う必要がないもの。約1kgを皮と綿を除いてつけ込むが、そのうち1個は皮の付いたまま輪切りにして皮の苦みも風味に活かす。輪切りは3日ぐらいで取り出してタッパーで蜂蜜漬けにも転用する。それ以外は1か月ぐらいで抽出を終えてレモンを取り出す。材料はレモン以外にホワイトリカー1.8リットル、氷砂糖300グラム、蜂蜜少々(好みに応じて)、3リットルもしくは4リットル用の果実酒瓶があればできる。
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山間部の農業の実態は深刻である。担い手がいなくなれば単に収穫できなくなるだけでなく、人が消えた里山では獣害が増える。また棚田が荒廃することでダムに匹敵する保水力が失われて下流の洪水が頻発する。かつての薪炭林のように山の手入れができなくなることも輪を掛けている。CO2排出削減量も減少する。まちにとってもむらにとっても良いことはひとつもない。

農業を通じた食料の自給確保や生態系保全、国土強靱化(災害対策)は国の最重要課題のひとつである。少なくともコロナ下での経済対策よりも重要である。政治と行政がこれほど荒廃しきってしまった以上、小さな政府のほうがまだましと思うようになった。すべての補助金やら支援策は打ち切り、人気取りのばらまき支援も止める。特に公明党の主導した軽減税率は流通の混乱と悪法インボイスの口実となった。商品券のばらまきは費用がかかって何の経済対策にもなりはしない。子育て世帯へのばらまきも(もらえたほうがうれしいのは確かだが)それが何につながっているのだろう。その反面、ほんとうに困った人たちには民間有志が手を差し伸べてなんとか対応しているが、困っている人たちへのアクセス(支援が届かず苦しい暮らしを送られている方がいる)も容易ではない。

社会のあるべき姿を明確に描いて、そこに到達するまでの最小限の過程を統合的に政策として立案できない限り、政治や行政は存在意義がない。その意味で「政治屋」の活動が中心となる政党政治は終焉を迎えている。多くの良識ある人が多数直接参加できる政治と行政のしくみが不可欠である。その実験は地域単位に主権を持つことから始めるべきだろう。道州制よりももっと細かい単位(もしかして都道府県よりも)を想定している。そんなことまで考えさせられるこの冬の香酸柑橘である。
タグ:ゆこう
posted by 平井 吉信 at 12:32| Comment(0) | 生きる

2022年09月25日

毒を吐くことで徳を積めないけれど


無力感。といっても無気力とは違う。
どっちを向いてもため息と怒りと落胆。

・困窮している人たちに行くべきお金が別の不要なもの(国葬、かつての布マスクなど)に消えていく(政治・行政)。

・世界の各地で屁理屈をでっち上げて都合の良い解釈を力で押し通す。その影で多くの他国民、自国民が嘆きながら消えていく。

・わかっているだけでも千人近い感染者を出した阿波おどり。そこからさらに感染を広げ(追跡不能)そして後遺症に苦しみ亡くなった方もいるだろう。ちゃらちゃらと賑わいを求めて実施を決めた行政や関係団体の当事者はどのように罪を償うのか。当日の映像を見ると不織布のマスクすらしておらず、これは感染の予行演習か。しかもクラスターは発生していないそうだ。飲食店で3人が感染してもクラスター、阿波おどりイベントで千人が感染するのは非クラスター。戦前ののんき連に始まり、娯茶平連、天水連、藤本連などに受けつがれた阿波おどりも2022年に自ら歴史に背を向けるように消滅。四宮生重郎さんが生きていたらなんと言っただろう。ぼくも連で踊ったことがあるが、いまの阿波おどりのフォーメーションのような団体競技や動きを止める演出、手を高く画一的に挙げる踊りなど見ていているとため息が出る。Dancing is actually celebrating of your spirit。本能でしょ、踊りって。踊りそのものを比べても郡上踊りやおわらに品格も情感も遠く及ばない。あちらはショーではなく踊り手と観客の区別がなく同じ時間を共有できている。ぼくは一生阿波おどりを見ることはないと思う。

・つみたてNISAやiDeCoに熱を上げたって意味ないよ。所得増えず、産業衰退、物価高騰の円安であなたの資産は国際的に大きく下落している。貿易赤字が続くなかで円安が何を意味するか? 日本の経済はこの30年で回復困難なほど低迷している。その原因をつくったのは誰? 金融緩和は景気を支えるためというが、それならその政策を続けているのに企業の業績が回復しないのはなぜ?企業の業績が振るわないのは内需が拡大しないから。低金利をいくら続けても無意味。金融政策だけでない抜本的な経済対策を前提に金利は上げていくべき。金利を上げると経営が危うい企業はどうなる? いや、金利の影響は売上高比でせいぜい数%。それ以上に売上高経常利益率を増やす。そのための内需拡大。

・ぼくが生きている限りマスクをはずす時代は来ないと思う。SARS-CoV-2は手強い。ワクチンは後追いでどれだけ接種率が上がっても感染率は下がらない。それなのにコロナ慣れして浮かれる人たち。感染症が終息しないことは専門家ならもうわかっているはず。だって根源の原因がなくならないから(だからといって悲観などしていない。対策を取れば良いだけ。コロナ蔓延を前提に社会のしくみを調えていくよう政治がリーダーシップを取るべき。対策を行ってコロナが終息すればそれはそれで万々歳じゃないか。今より悪くなるというシナリオでやっていくこと。想定外という言い訳は東電で聞き飽きた。想定できたことだから。

・地元を見ても使われないことが明確な駅をつくるとか、集まって決めたことを覆すとか、そんなことばかりのローカル政治家たちにうんざり。論理的思考と感性と人間らしい感情で政治をしようよ。

権力で独裁的に支配することで誰が何の得をするのか? だれのためにやっているのか?
国家とか政党とかが人々の輝きを葬ろうとしているのなら要らないな、そんなもの。
きちんと課題設定をしようよ。いま取り組むべき問題は何かって? 
そうでない問題に取り組むのなら、そのためにどれだけ時間や資源や人生がムダになるか。
ぼくが政治家ならめざすべきことはたったひとつだけ。人々の幸福感をつくること。

はあ、多少の毒を吐き出さないとやってられない。次はさわやかな投稿にするから。

posted by 平井 吉信 at 22:23| Comment(0) | 生きる

2022年09月19日

台風情報チェックリスト(再掲)


四国では台風が接近しています。
台風情報を集約したブックマーク集を以下に置いています。

台風情報チェックリスト(本文のみ)
http://soratoumi2.sblo.jp/article/184340384.html
ご活用ください。
posted by 平井 吉信 at 20:45| Comment(0) | 生きる

2022年08月16日

祖霊供養と人混み回避、読書と歴史を直視する静かな盆


コロナが身の回りにあふれたことが実感できる。身辺や仕事先、近所の店の長期臨時休業でうかがい知ることができる。仕事で打ち合わせをキャンセルした人がいた。この人は3回ワクチンを接種していて感染症対策も知っている人だった。それが1週間ぐらいして電話があり、感染していたとの連絡。どこで感染したか見当が付かないそうだ。

コロナは生命の危機に直結する感染症でインフルエンザとは異なるというのが医療関係者の共通の見解である。人が密集すれば野外といえでも飛沫感染の怖れがあるので阿波おどりもよさこいもやらないほうがよいが、どうしてもやるというのなら観客なしが前提だろう。
踊り子は不織布マスクを付け、かけ声なし、笛などの吹奏楽器は離れたところからのPAも視野に。野外であればこれで感染の危険度は下がる。踊り手も仕事や家庭での立場、状況を顧みれば何が大切かはわかっているはず。

その一方で阿波おどりを心待ちにしている人のために動画配信(ライブ)を有償で行い、その収益に行政が開催費用相当を上乗せして観光関連の宿泊施設、飲食店、交通機関などに分配するという案もある。来年はそのような開催方法も含めて検討してほしい。

ぼくは決して悲観していないが、これまでのCOVID-19の動向を見ていると、ワクチン接種率や集団免疫の獲得よりも変異の速度が速い。時間の経過とともに感染症はむしろ悪化しているように見える。公衆衛生の意識がある日本で世界の感染者の2割を占めている(世界人口70億人に対し1億人なのに)。ある意味ではイベント開催どころか非常事態宣言が出されてもおかしくないと思うのだが。

もっとも留意すべきは空気感染対策、ずばりいえばマスク装着である。マスクを付けると体調が悪化するという人もいるが、感染はもっと怖い。後遺症がどれだけ残存するかは誰にもわからない。1位マスク、1位換気、3,4はないという対策順位。身近なところで付け加えるとしたらスーパーで買い物したら品物を家で洗っていますか?(紙パッケージもふやけるけれど洗えないことはない)。

連日、終戦記念日を迎えて戦争のドキュメンタリーをNHKで放映している。ガダルカナル、インパールを振り返るたびに大本営と軍の上層部に強い憤りを覚える。牟田口中将に至っては晩年になってイギリスの元中佐との手紙のやりとりで、敵から作戦を評価してもらえたとの思い込みで作戦を正当化している。一方で大本営は作戦の責任を否定するなど責任の所在があいまいで上の命令に服従という論理で玉砕していく。情報収集や情報セキュリティを高めることなく相手を過小評価、地形や兵站を検討することなく多くの兵隊、現地の民間人、相手兵士も含めて死に追いやった事実は消えない。

広い視野を持てない井の中の蛙、上から発表されたものを疑いもせず鵜呑みにする危険は、いまの自公政権が支持される状況と変わらない。おかしいこと、間違っていることに蓋をして国民に見せないようにしていることは戦前と変わらないではないか。
読書では、赤木雅子さんの「私は真実が知りたい」を一気に読んだ。恨みつらみだけでない、相手への思いやりも感じられ、どこかで自分を客観的に見つめながら、悩みながらも前へ進める意志は夫のため、夫と同じような境遇を作り出さないための祈りであると感じた。

今年の盆は、歴史を静かに振り返りつつ、いま起こっていることを見つめながら、夜は空を眺め、昼は人混みには行かず、先祖の霊をなぐさめる数日であった。

菩提寺の盂蘭盆会は今年も感染症によって中止となった。それで良いと思う。代わって御札をお送りいただいた。仏壇と墓を清掃し、御札を祀りつつ祖霊を迎えたので読経する。

開経偈
般若心経
観音経(偈)
十三仏真言
光明真言
大師宝号
祈願文
回向

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父をはじめ身近な祖先のみならず、過去の戦争、いまの戦争にも思いを馳せつつ過ごす盆。

posted by 平井 吉信 at 00:17| Comment(0) | 生きる

2022年07月09日

そんなことではなく


テレビを見た。
これはいかん、これをやったらあかん。
(政治信条とは関係ない突発的な犯罪とは思うが)

右とか左とか、心情とか宗教とかは関係ない。
(むしろ弊害でしかない)
虚心坦懐にあるべき国の姿を描くとき
政党やイデオロギーは要らない。
それらは実現するための手段や記号に過ぎない。

正しいと信じることをやり抜くとき代償を払うことがある。
1週間に車のタイヤが4度パンクしたこともあれば
やくざの事務所に呼び出されたこともある。
(そんな脅しには屈しない人間であることはブログを読んでいただくとおわかりになると思う)
なぜならそこに個人の利害得失などなく
多くの人々の幸福を願う気持ちだけだったから。

めざす世界は違っていてもあの人はあの人なりに自分の道を進んだ。
政策が批判されても人格を否定されることは決してない。
ましてや暴力など…。

同時に違う世界に旅立つ人が禊ぎのごとく神格化されるのも違う。
やはり格差と貧困をつくりだした政策は総括されなければならない。

民主主義への挑戦だ、言論の自由への冒涜だ、などのコメントはそのとおりなのだけど
それなら、いまからでも国会を民主主義の発露たる議論の場にしてほしい。

野党の質問に真摯に向かい合うことなく
適当にあしらっておけとの態度。
自身への批判や反対意見は力で封じ込め、虚偽を強要し
挙げ句の果てには自殺者も出た。

誰か一人を責めているのではない。
与党による国会運営のありかたが民主主義を否定していたのだ。

力と暴力で封じ込める社会と訣別するためにも
私たちは政治に無関心でいてはならないのだ。
異なる意見であっても耳を傾け、良い国(国民の暮らし)をつくるために議論を続けよう。

衷心より御霊の安らかならんことをお祈りいたします。
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posted by 平井 吉信 at 12:13| Comment(0) | 生きる

2022年07月02日

選挙に行こう 行く前に少し考えよう

21世紀になって世情が安定すると政治に無関心なロシア人が増えてきた。この状態は当局にとって好都合で選挙の不正も行われたと一部の新聞や放送局が報道を行った。現在では当局の見解と異なる報道は罰せられるという事態になっている。日本でも安倍政権下でメディアへの締め付けが進んだ。自分に不都合な真実は報道させないという点ではP大統領とA首相は同じ穴のムジナ。だから意気投合したのだろう(ただし一方的な片思いだが)。メディアの忖度や自己規制もあったが、クローズアップ現代や久米宏は止める必要があったのだろうか。メディアだけではない、挙げ句の果てにSNSにも介入して世論を誘導しようとしていることも既知の事実である。言論統制に関する限り、ロシアと日本は違わない。

ウクライナ侵攻後に大統領の支持率は上がり、侵攻も支持されているようだ。政治に無関心になると事実を直視しなくなり、当局が住民を飼い慣らすための情報をぱくぱく食べて脳で定説化してしまう。考えるのは面倒で考えないのは楽だから。

心あるロシア人は祖国の状況に心を痛めている。国外のロシア人は事態が見えているが、国内に残る親族に現実を話しても信じようとしない(思考停止)。当局のプロパガンダは大成功のようだ。

日本は平和だ、戦争は起こらないし言論の自由も確保されている。果たしてそうだろうか?

ネジを30年前に巻き戻すと世界2位の経済大国がそこにはあった。時価総額で評価すると世界のベスト10に日本の企業が7社名を連ねていた(いまやベスト30にかろうじて1社残っているだけだ)。金利は高く、郵便局に100万円預ければ10年後にはほぼ200万円となって戻ってきた。ぼくも1年で7%の利回りの元本保証の金融商品で運用していた。

学生たちは円高で卒業旅行へ出かけていた。ぼくの友人たちも大学を出てもすぐに就職せず、インドを放浪したり京都でアルバイトをしたり職人の道をめざしたりとそれぞれがやりたいことをやっていた。将来に不安はなく、青春という時間を有意義に過ごすことに専念できていた。ぼくもワーゲンゴルフの新車を現金で買って山や川へ出かけ、たまにはミノルタのX700とバックパックで東北や屋久島、信州の山々を10日ぐらいかけて巡ったし南太平洋の無人島などで一ヶ月暮らしてみたこともあった。

クリスマスには赤坂プリンスホテルを予約する若者たちも少なくなかった。音楽は予算をかけても売れた。アナログとデジタルの橋渡しの時期でもあった。

あれから30年、いまの日本はどうなったか?
コロナの影響がなければ東南アジアからの旅行者で溢れていたことだろう。日本は物価が安いから旅行をしても愉しいという。逆に日本人がアメリカへ行ってラーメン1杯3千円? 年収1千万円でも生活保護などの事実を知ると愕然とした。この30年で発展を続けた日本以外の国と、所得が下がり続けた日本との格差が広がった。

格差は日本人同士でも広がった。ぼくの子どもの頃は近所に7軒の八百屋があったが子どものいる世帯では大学に進学ができていた。映画館は近所に2つ、高層ビルに専門書を並べた書店も2つ、近所の駅からは高松、松山、高知へ直通の10数両を連ねた列車が走っていた。

何が間違ったのか? 誰がこんな国にした?
この30年政権を持っていた政党はどこで、どのような政策を行ったかを振り返ってみてほしい。
しつこいぐらいに書いているけれどぼくは不偏不党の人間で、たとえ家族が政治家に立候補しても能力なしとみなせば投票しない、という人間である。

国民が貧しくなったのはこんな例えでわかる。我が国に10人の国民がいました。1人ずつ年収1千万円で国の経済力は合計1億円です。これに対し、同じ1億円の経済力でも1人が9千万円を持ち、残りの10人はそれぞれ100万円ずつ、となると購買力は後者が落ちる。年収100万円での生活は購買力が限られるし、年収9千万円でも使うものは所得の差ほどはない。そして年収9千万円の人間もこの国でビジネスを行う限り将来性がないことはわかる。問題なのは貧困の質が諸外国と異なること。普通の人が普通に暮らしを営んで(=仕事をして)貧困になる(貧困状態から抜け出せない)ことが大問題だ。

なにより親ガチャ、どの親に産まれたかで一生が決まってしまうような社会って良くないでしょう。お金を借りて人並みになれても負債を背負ってのハンディスタート。だから政策は時計を逆に戻すような考え方で良いと思う。

所得税…累進性を強める。金持ちからむしり取るという貧しい考え方ではなく、所得の多い人はそれだけ納税で社会に貢献できるすばらしさ(尊敬される)。現実は、所得の低い人ほどすべての税金やら保険やらの負担率は金持ちより高くなっているのが事実。いまや低所得者層への課税強化となっている。インボイスもそう。軽減税率はインボイスとセットで結局は弱者いじめのかたちを変えたもの。格差の拡大は内需を縮小させ、消費を減退させ、国外へ企業が脱出して投資も技術も空洞化した。格差の是正に取り組むことは幸福への前提条件を整えることにもつながる。その逆を是正することなく弱者の切り捨てを継続する限り、大企業も沈没してしまう。

消費税…撤廃しても社会の混乱は起こらないし買い控えも起こらない(8月から撤廃となったところで食品などは買うし贅沢品は8月以降我慢していたものを買うようになるよね)。つまり内需を高めるのに給付金やら商品券やらプレミアムなんとかは間接費(事務局経費)がかかるしなにより買えない人、該当しない人は不公平。消費税の軽減とは、年間300万円をスーパーで使っていた人は、買い物のたびに節約できて年間で約28万円の給付をもらったことに等しくなる。これがさらに消費に回ると国内企業も売上が増える。新たな取り組みで海外展開やオンラインなどの展開もできるようになるかもしれないし、給与も上げられるだろう。消費税をなくしたら社会保障が犠牲になるのではなく、その財源を法人税の減税に充てたというのが実情。だから消費税は年金の支給率とは無関係。あくまで政策の意思決定によるもの。

ベーシックインカム…社会実験としてまず導入してみる。積極的に30年で溜まった社会の歪みを政策的に是正する必要がある。安心して暮らしていける環境があればこそ未来を考えたり教育を受けたいと思えるでしょ。

補助金…原則として撤廃。ほとんどの補助金は課題の解決に役だっておらず成果につながっていないのは現場を洞察しての感想。補助率が1/2、2/3などと自己資金の投下が減少するのでリスクは減少するが、その前に解決すべき課題は何か? その解決に最善の方策は何か?の吟味なく補助金があるから使ってしまう。結果は効果がない。国も事業者も使わなくて良いお金を使ってしまっているというのが実態。それよりも事業継続力強化計画の推進や伴走型支援のような本質的な施策が経済産業省からも出るようになった。この自走化をサポートする方針こそ経済政策の王道。

憲法…生態系保全や多様な生き方を認めること、権力の暴走をより明確に抑えるように改憲する。現在の憲法は九条の是非というよりも時代にそぐわない部分や権力者の勝手な解釈の余地を残している点に改善の方向性がある。よりより政策を求めて合議することなく独裁で突っ走った安倍政権のような事態を招かないためにも改憲が望ましい。

軍事力…自衛隊はもちろん合法だが、沖縄の基地を縮小して本土が沖縄を守る態勢を強化。基地の跡地は所有者に返還した後、東アジアの経済や金融のセンターとしての機能を担うために再開発を行うなども選択肢。つまり沖縄をゲートウェイとして近隣諸国とかけがえのない存在になることで外交による安全保障力を高めることにつながる。自然破壊のないソフトな沖縄振興にも貢献する。場合によっては自衛隊の機能を強化するも不戦の誓いはさらに強固に。核拡散防止条約へも署名。

エネルギー政策…災害多発する国土では小規模分散型の再生可能エネルギー発電の推進が合理的かつ効果的(その最小単位は家庭で太陽光発電して蓄電することで送電ロスなどがなくなる)。エネルギーコストの高い原子力は徐々に廃止。ただし技術者への厚遇も不可欠。

科学分野…大学は基礎研究などが心置きなく行えるよう予算配分を是正。目先の収益を追いかけると科学技術力が中長期で低迷。それが経済の尻すぼみにもつながる。

農業…食糧の自給率の向上のため、生産者の暮らしが成り立つようにするため直接所得保証を充実。経済合理性だけでは米をつくるのも困難である。ところが農業には生態系保全や水資源の管理など多面的な役割と価値があり、自民党が考えるような大規模化(生産者の集約)では解決しないというのが農業の現場で長年真摯に取り組んでいる人たちの共通の認識(願い)。高齢化と耕作放棄地の増大にもう時間は残されていない。

教育…無償化は子どもたちを等しい出発点に立たせてあげるため。夫婦別姓がダメなんて時代錯誤。なりたい自分になれるけれど、社会のなかで役割を担いつつ生きていける環境をつくろう。

個々の政策はこれが最良というわけではなく、あくまで例示に過ぎない。もっとも大切なことは国民の幸福を実現することを最上段の目標とすること(特定の政党とは無関係)。

幸福とは、一人ひとりがなりたい人生、やってみたいことを望めばやれる社会となること。平凡であっても青い鳥が身近に感じられる社会ですよ。そのことを実現するための政策を有機的に統合しブレイクダウンしていくと上記のようになるのではないかと。

今回の選挙での留意点は、いまの時代に陥った日本でこれまで行っていた方向性が間違っていることに気付いてそれをよかったときの政策に戻していくこと。一部では脱炭素やエネルギー確保、食糧安保などとの整合性を取りながら進めていくということ。

選択すべき政党はそれぞれの胸のなかにあるとしても、選択してはいけない政治勢力はどこかは明らか。普通に暮らしている大多数の国民が生活が苦しい(貧困)であるとしたら、自助努力が足りないのではなく政治が悪い(そして政治に委ねて現実を見ようとしない人たちも)ということに気付いてほしい。

しかも次の国政選挙まで3年。この間にさらなる増税(消費税率が19%まで引き上げの可能性あり。インボイス制度はまもなく)で普通の国民の暮らしは壊滅状態となる。国民の大多数が幸福になる権利がない国など何の価値もない。誰のためではなく自分の利益のためでもなく国民の幸福のための選択として、いま行動しないと将来はないことを今回の選挙ほど感じることはない。

追記
マスコミの分析は与党が議席を伸ばすとのこと。与党も野党もなく、あるべき国の姿をめざしてやっていかなければならないというのに。
政治の堕落もそうだが、それを見ようとしない国民を思うとき絶望しかない。勇気を持って発言する識者もいるが、安倍管政権ではそのような専門家、ジャーナリストを露骨に干してきた。
都合の悪いことにこそ耳を傾け、その意見を採り入れていく卓見と気概がある与党の政治家はいないのか。与党と野党で理想の国づくりに向けて大連立を組めないのか。
野党が勢力争いをしたことがどうなるかについて、今回低迷するであろう政党は考えてほしい。





posted by 平井 吉信 at 18:38| Comment(0) | 生きる

梅酒と梅干しの季節


梅酒と梅干しを漬けるのが習わしとなっている。
市販品では自作以上においしいものにはなかなか巡り会わない。特に梅酒はそう。
つくってみるとわかるが、手を抜こうと思えば抜けるけど仕上がりに影響する工程がある。
作業には数日かかるけれどやはりこれはやっておきたい。
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梅は美郷で調達する。標高が高い場所が多く農薬は使わないか、定められた基準を守っている農園がほとんどだし、作り手も存じ上げていることもあるので。

まずは梅酒用に鶯宿を3kg。
例年は焼酎や泡盛を使っていたが35度が入手できずホワイトリカーにした。
サントリーとタカラの2種類でまずはそのまま飲んでみた。ぼくにはタカラが良いように思える。
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梅酒には採れてから鮮度を落とさず作業を始めたいので流通の店頭に並んでいるものは選択外となる。例年は生産者に電話を入れてご都合の良い時間(たいがいは夕方前)に採りに行っている。自家用車であまり揺らさないようにして持って帰るので品質を保てる。

梅酒の作業が終わると半月遅れて南高梅(梅干し用)が出てくる。こちらは購入後に追熟させる。この状態で3日後。市販で完熟(木なり)はなかなか出てこない。
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塩分濃度は15%に設定。この濃度でもカビは生えないよう衛生管理を行っている。使う塩は旧専売公社の精製塩(1kg100円程度)。価格は手頃だが品質は良い。ミネラルを含む天然塩では多少風味は変わるかもしれないが、塩の役割は味付けではないので精製塩で十分。むしろ品質保持を考えると塩は製法や出所が明らかなものを使いたい。

紫蘇は程度の良いものが採れたらすぐに塩もみして冷凍庫に入れておく。今回も収穫後半日程度のものを生産者に分けていただいて作業に着手している。浸け梅はすでに梅酢が上がってきているが、もう少し塩だけで置いておく。
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世の中にスローライフという生き方があるが、1日10数時間、自らの事業と公職も担当しつつ家事もこなしているのでスローライフはできそうにない。京都の大原の里とか南房総の鴨川、もしくは鎌倉あたりでしずしずと暮らしている人たちはうらやましいが、四国には良い川があるから離れられない(そんな人間がよくブログを100万文字も綴っているなと叱らないでください)。

あとは梅雨明け後(もう明けてしまったが)の土用干しができれば一段落。その頃には番茶(阿波晩茶)の新茶も上がり始めているかもしれない。



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posted by 平井 吉信 at 17:46| Comment(0) | 生きる

2022年05月17日

沖縄 復帰50周年 もっと違う道があるはず


もしこの地上に沖縄がなければ世界はつまらないものになる。
南の島なんて地球上に数え切れないほどあれど、
沖縄(琉球)のような国はどこにも存在しない。

排他や競争とは無縁の人々のつながり、分け隔てなく隣人と接する態度、そこにある風土と食の誇らしさ。

新婚旅行は迷うことなく八重山(やいま)を選んだ。
石垣島を拠点に西表島、竹富島を巡った。

岡本太郎があまりの美しさに腰を抜かしたといわれる川平湾だけでなく
そこらにあるサトウキビ畑、その丘陵が海に続いていく。風が違うと感じた。
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海の色はやわらかな階調で淡くきらめき深く沈み込む。
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やなわらばー「青い宝」(観光地でない島の日常と歌の世界観が溶け込んでいる公式映像)
https://www.youtube.com/watch?v=ppw41qGMJcc

集落を歩けば至るところに文化の凝縮された何気ない竹富島の日常。
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西表の亜熱帯雨林を流れるヒナイ川の潮の干満を感じながらカヌーでピナイサーラの滝へと向かう。
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食べるものはすべておいしい。共通は塩辛くなく脂っぽくもなくそれでいて淡泊ではなくコクがあるけれどあっさりしているとでもいうか。
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地元の人たちが通う居酒屋や料理店を見つけて食べたものを徳島に戻って風味をそれ以上に再現できたときのうれしさ。

音楽だって、手元にあるCDを拾ってみても、やなわらばー、神谷千尋などの沖縄の色濃くも初々しい歌手だち、ネーネーズ、りんけんバンド、古謝美佐子、喜納昌吉などのベテランの音楽の恰幅の良さ、三線を聴かせる新良幸人、大島保克、大工哲弘による島唄。BEGIN、Kiroro、石嶺聡子、夏川りみなどのヒット曲を生み出した歌手勢、さらには上間綾乃。奄美まで拡げれば、朝崎郁恵、元ちとせ、里アンナ、城南海。またキングレコートから発売されている八重山の民謡集に収録されている楽曲、例えば「月ぬ美しゃ」などは酒を飲んで珍しく酔ったときに真っ先に口をついて歌ってしまう。No woman no cryはネーネーズ版(うちなーぐち)で歌ってしまう。

YouTubeを見ると、沖縄・八重山の楽曲には英語(海外)からのコメントが多いことに気付く。何か言語を超えて伝わる何かがあるのだろうね。

沖縄やアイヌの人たちにはヤマトにはない人間の本質的な存在感、誇りが感じられるよね。
でもその沖縄が復帰50周年を迎えて地元では憂いが濃いという。簡単に本土の人間には分かって欲しくないと思われるだろうが、沖縄の立場に立てば復帰を喜べないのはヤマトも同じだよ。

こんな状態が50年続いてこれからも続くようなら沖縄は日本からの独立もしくは連邦国家のような立ち位置も考えなければならないね。

沖縄の地勢と人々の気質を強みとする地域戦略を描きたいけれど、日本政府にはその能力がないのだろうね。日本、台湾、香港、ベトナム、大陸、朝鮮半島のハブとなり得る立地なのでシンガポールのような自由貿易特区、スイスのような厳格な個人保護を貫く金融センターを併せ持つ地域としてしくみをつくる。やがて各国から投資や人材が集まるようになる。幸か不幸か沖縄には米軍基地が種地としてあるから、地主にいったん返還した後に地権者として事業化に関わってもらったらいい。

本土は憲法を改正してまずは安倍内閣のように独裁が暴走しないように歯止めをかける。生態系保全や人権、考え方の多様性を明文化するための改正を行うとともに、自衛隊に代わって平和を守るための軍隊を置く(平時は災害救助などで活躍するいまの自衛隊と変わらない)。場合によっては徴兵制度が必要かもしれない。平和ぼけしている国民に平和の価値を考えてもらうきっかけとなる。

本土は沖縄を防衛する力を持って、沖縄は非軍事地域として交易拠点、金融センター、世界でも稀な風土を持つ観光を加えた三本柱で発展させていく。魅力ある移住先、投資先となった沖縄には有能な人材や資金が流入してやがて本土の所得を上回る。言語も日本語のみならず、数カ国語が併用されるようになる。それでも琉球以来の沖縄らしさはより色濃く打ち出されるようになる。

なぜなら経済力を背景に沖縄のことは沖縄で決める自治が機能するから。これまで基地と沖縄振興予算に依存してきた人たちから、独創的創造的な取り組みを行う人たちが台頭して沖縄が本来の輝きを取り戻す。

ヤマトにとってもそんな沖縄はもっと魅力的になる。もともとその風土や文化、食は本土の憧れの対象であったが、強みを活かせる沖縄が自主的な動けるようになると、どんどん沖縄がよくなり、その沖縄をゲートウェイ、ロールモデルとして本土も失われた30年から脱却を図ろう。

これは理想論ではなく現実的な考え方と思う。県土の17%が基地という状況でまともな施政などできるはずがない。沖縄から基地は全廃する代わりに本土が平和維持のための軍隊を装備して沖縄を守る構図をつくりあげること。本土からのスクランブルのみならず、基地がなくても例えば空母が沖縄に常駐することで、悪意を持った侵略者への備えはしておく。

ただし沖縄が近隣の国々と強い結びつきをつくることで相手にとってかけがえのない地域となる。外交力による解決の可能性が高まることで結果として戦争リスクを下げることにつながる(太平洋戦争での教訓は外交力を磨くこと、食糧や資源の自給率を上げることだったと思うから)。かつての琉球王国が持っていた礼節を重んじる守禮之邦(しゅれいのくに)に原点があるのだ。それはいまの世界がもっとも必要としている意思疎通でもある。

posted by 平井 吉信 at 00:36| Comment(0) | 生きる

2022年04月04日

電子書籍からユーコン川へ 人間の幸せや冒険とはなんだろうと


野田さんの電子書籍を買った。
「ユーコン川を筏で下る」というタイトルで紙の本と比べても圧倒的に読みやすく
目が疲れず、アンダーラインも引けるし読みたいところからいつでも続けられるし
端末だって風呂場で読める防水仕様(Kindle Oasis)だ。

Kindle Oasisはシリーズ中もっとも高価だが、Kindle Voyageと比べても優位は明らか。
高価といってもスマートフォンの中級機種より安いぐらい。従来のKindleや廉価版と比べると情報量が多いのに読みやすい(文字の精緻さや快適な使用感など)。なにせ充電は月に1回か2回で済む小電力仕様だし、炎天下での可読性の良さは液晶とは比べられない。おすすめは8GB、Wi-Fi、広告なしの仕様のモデル。これが年に数回価格が下がる。ぼくが購入したときで22933円だった。


地元新聞のエッセイで女性のエッセイストが紙の本は線が引けて読み手の痕跡が感じられて良いが電子書籍は?という趣旨であった。この方は電子書籍がスマートフォンやタブレットで文字を読むのと勘違いされているのだろう。実際に可読性は紙にも優る読みやすさ、裏返せば目の疲れにくさ(大半の状況ではバックライトも不要でブルーライトも皆無)も紙より上回る。アンダーラインは自在に引けるし消すこともできるしアンダーラインの箇所だけを拾い読みする出力もできる。

そして数百冊かそれ以上の書籍が1つの端末に入る。登録端末はひとりで複数設定できるのでパソコンの広い画面でも見える(テキスト中心の書籍はKindle端末で、図鑑などはPCでという使い方もできる)。

Kindleでは自分の書いた文章も電子書籍形式に変換して読める。非売品であるけれど。
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Kindle Oasisのカバーはこの機種がいい。機能的で質感も高い。Kindle Oasisはひっくり返すと持ち手が左右に入れ替えられる。これで手が疲れない。上の写真では左手で持つように左に送りボタンとグリップがあるけれどこれを天地ひっくり返せば文字もひっくり返って右手で持つことができる。


「ユーコン川を筏で下る」の冒頭からはカラー写真が続く。これはKindleでも見えるがPCで見るのが良い。文章はKindleの圧勝である。夜寝る際にふとんに潜り込んで片手をわずかに布団から出して小さな灯りで読むのが日課(その際に歌詞のない音楽も小音量でかけている。本を読むのに飽きたら今度は灯りを消して音楽のみを聴きながら眠りに就く。文字に書くとなかなかだが、実際は本を読み出して寝るまでに10分ぐらいのことが多い。音楽は子守唄である。


野田さんはカヌーではなく筏で下ってみたかったそう。そこで試作を行い、材木をかすがいで止めて合板を渡した1人乗り(+犬2匹)の重量80kgの小型筏が最善とわかった。その筏でユーコン川を下るのだが、筏の上で焚き火や食材を炙ることもできて酒を飲みながらイスに座って広い川と正対しながら下るというのだ。ただし漕ぐときは後ろ向きとなる。

若い頃、ユーコンでカヌーの一人旅をしていると、川岸の小屋から自分に向けて銃を放たれたことがあった。こっちへ来てくれ、と岸辺の男が叫ぶので言ってみると、酒とコーヒーをごちそうしたかった、気付いてもらえそうにないので発砲した、済まないというものだった。

ぼくは限られた情報量と野田さんのウイットからこの場面を読み解く。実際に弾丸は自分に飛んできたのだが、それは撃つ意志がないととっさに判断したのではないか。名手であればしくじらない距離だったかもしれないし、続いて何発も撃ったのではないとしたら、呼んでいるのではないかと判断できたのだろう。銃を放った男の声の調子や態度からも命をねらったものではないと感じられるものがあったのではないか。

カヌーの旅人を打つ動機として金銭目当てではないし、狙撃しても流されていくカヌーをどのように止めるのか。人の痕跡がなく原野、それもクロクマやグリズリーのテリトリーで殺人狂が暮らしているとも思えない。仮に相手が射撃の名手であれば下手に逃げても無意味だろう。だから殺人目的に銃を撃つことはないとの結論に至ったのではないか。ぼくの想像に過ぎないのだけれど。

そんなことを考えながら75歳の野田知佑として筏で下る心境は如何に興味をそそられたので電子書籍を買ってみたのだ。

若者が冒険しなくなった、といわれる。こじんまりとして保守的で…。音楽までもそんな感じ。DTM、DAWの孤独な制作作業からつくられる音楽からは粗野な感じは消失している。その代わりコード進行やら音階の動きが器楽的というかアクロバティック。自分は歌えても他人は歌えそうにない感じがする。Lemonなんてそうだよね。

とはいえ、ボカロなどで表現される音楽を否定してはいない。「はやぶさ」〜はじめてのおつかい〜と題してミクに歌わせた作品は、カプセルを地球に届ける使命をいくたの困難のなかで奇跡的に果たし、最後は反転して(司令部がはやぶさに地球を見せたといわれている)地球を見ながら大気圏で燃え尽きたはやぶさ初号機の感動的な物語を歌で綴ったもの。そこにあるのはボーカロイドの無機質な歌と演奏から波紋を拡げる無限の慈愛のような音の波。かえってボカロだから伝わる表現があることを知った。


ところで冒険をしなくなったのはなぜだろう。それを冒険とは言えないけれど、日本が経済大国と呼ばれた頃は海外旅行は日常茶飯事だった。国内旅行より割安というのも動機だった(円高でもあり経済力が国民の所得も世界的に押し上げていた)。ツアーだけでなく地球の歩き方などを見てバックパッカーとなる人も多かった。友人の石井君はインドに半年の放浪の旅に出て故郷に戻ったその日に自宅に帰る前にうちに寄ったのだけれどインドの香りというか異臭がした。家で愛犬が本人とわからずに吠えたというのも頷ける。河原君は大学を出て定職に就かず日本の山を歩きネパールのトレッキングに出かけるなどした。ぼくも南太平洋に行ったり東北や信州やら屋久島やらに気が向いたら出かけていた。70年代は反戦(ぼくの年代ではないけれど)、80年代は放浪が格好よく一種のインテリの装いのようでもあった。それでやっていけたし、そんな若い頃を過ごしていまも不自由なく暮らしている。

ところがバブルの崩壊前からおかしくなった。土地神話が崩壊したからだけではないと思っている。80年代は100万円を10年郵便局に預けたら倍近くになったし、1年で7%の利回りのある安全な金融商品もあった(100万円預けたら1年後に7万円増える。ただし20%の源泉課税があるので5万円)。経済だけでなく未来は愉しいもの、豊かなものという空気が横溢していた。

しかしそれは日本人も国も傲りにむしばまれていた兆候。人だけでなく企業も冒険しないで運営(5Sやらサービス残業やらシックスシグマやらカイゼンやらジャストインタイムやら。それらは道具であって目的ではない)を磨くだけになってしまった(それらが従業員の疲弊やら冗長性のなさからサプライチェーンの途絶を招いている)。安くて良いものをつくる、売るという競争に陥り、労働力の安い外国に工場をつくり、給与は上がらなくなった。それはレッドオーシャンにまみれ、世界標準からもはずれたローカルルールに浸るだけで、ゲームチェンジャーされる人になってしまった。以前の100円店はメイド・イン・チャイナが多かったが、いまではほとんどがメイド・イン・ジャパン。この現実を直視せよ。

気が付くとアメリカでラーメンを食べると2千円という事実に驚き、アメリカで年収1千万円は貧困層という現実を信じられないようになった、コロナ前に東南アジアからの旅行者が日本に増えたのは「リーズナブル」だからである(バブル期に卒業旅行と称して海外へ行っていた若者たちのように)。

科学技術すらつまらなくなった。実用性やら費用対効果を大学にまで求めて基礎研究やら長い視点での持続的な研究ができなくなっている。学問に合理性など要るか? 夢や志のない研究など何になる?

若者も冒険をしなくなった。若いということは気力体力がみなぎっていて、バックパックを担いでどこにでも行くようなことは若さの特権のようなもの。人が一生を終えるときに後悔することがあるとしたら、「もっと冒険がしたかった」というものが多いと聴いたことがある。やらなかった後悔とやって失敗したけれども経験を積めた充実感とどちらを選びますか?と言われたらどうですか?

幸せな人生って、自分が我慢することなくやりたいことをやって(やり尽くして)例え失敗してもやってよかったと思えること。なお、やりたいことをやってそれが誰かに支持され誰かの幸せに貢献しながら自分も思い通りに生きる人生ならどんなにいいだろう。誰にもそんな人生を送る権利がある。

冒険とは、人類未到の高峰をめざしたり危険な試みをすることだけではなく、日常の暮らしで挑戦し続けること。一過性の冒険など色あせる。そんなことよりも直線的な生き方から脱却することのほうが冒険と思える。直線的な生き方とは、学校を出て就職して結婚して家庭を持って子どもが巣立って夫婦だけになって余生を過ごしやがて一人になって死んでいくというもの。ある意味では後戻りできない生き方。

そうではなく、例えば10年1クールぐらいでテーマを決めてそのときほんとうにやりたいことに取り組んでみる。うまくいけばそれで良し、うまく行かなくてもそのとき(その年齢で)挑むことができたらそれはそれで幸せなのではないかと。レールの上を行かないある意味では危険な生き方を敢えて選んで生きてみるというのは一生をかけた冒険といえるかも。リニア(後戻りできない)ではなく、やりたいことをやりながらもうまくいかなかったとしてもやり直すという循環する生き方ね。

あまりに伝えたいことが多すぎて下手な文章でもこうやって綴っている。ブログだけでも文字数を数えたらここまでに綴った文字数は120万を超えている。でもまだ足りない気がするのでこれからもブログを書き連ねていきたい。

野田さんの話題に戻るけど、本に書かれているようなハレの場面ばかりではなく、人間関係に悩んだり病気や世俗のごたごたで悩むことなども当然あったはず。でもやりたいことをやってきた。その足跡が人々を勇気づける。それらも含めて野田さんは幸せな人生だったのではないかと。

タグ:野田知佑
posted by 平井 吉信 at 20:48| Comment(0) | 生きる

2022年03月24日

何が正しいかを考えるのではなく


いまの時代にほんとうに必要な生き方というか社会のあり方を最小限の言葉で表すとしたら
「失敗を経験してそこから学ぶこと」「多様な価値観を認めること」。
その大切さは生態系を観ていてわかること。
資本主義でも共産主義でもなければ、それらを否定する独裁主義でもない。
(いまはどの国でもそのようなリーダーを待望する声が少なくないのだろうが)
ヒーローや救世主は要らない、ヒーローや救世主に頼らない、一人ひとりが主役の社会。
日本がこの30年できなかったこと。世界の国々ではそれと反対の方向へ動いていること。

多様な価値観を許さず、あるべき姿と反対のことをやり続けてきた安倍政権。
経済政策の失敗は数字に明らかだがその数字すら改ざんして隠蔽する。
プーチン大統領にすり寄ってあしらわれてしまった。
(プ氏から見ればあ氏は同類の匂いを嗅ぎつつも与しやすかっただろう)

これらに共通するのは、単一の価値観で覆い尽くす社会を理想とすること。自らの権力基盤に陶酔して当たり前の社会が見えなくなっていること。
おそらくこの犯罪(侵略)はロシア政府の敗北に終わり、プ政権も長くはもたない。

危険を顧みず意見する人々を意のままにならぬと社会から抹殺する(これは日本でも近年に行われていた)、どんな不祥事も開き直る、住民の意見を聴かず気まぐれと独断で意思決定を行い市民からノーを突きつけられる、…残念ながら身近なところにも聴く耳を持たない帝王がはびこっている。

ウクライナ人もロシア人も犠牲にしてはならない。何人たりとも平和でいられる権利がある、幸福を求める権利がある。
3月5日の投稿は現時点でも最善と考えている)。

ウクライナの人々の勇気が独裁者の夢から醒めない世界各国の人々に本質を見よと投げかけている。
資本主義でも共産主義でも独裁主義でもない別の道があることを(この三者に共通するのは住民の幸福を犠牲にしつつ国家の枠組みを悪用して非人道的かつ合法的に私腹を肥やす利権が跋扈すること)。手が届くところに未来があることに気付けと。

身近なもの、例えば食べることなどはできるだけ小さな場所で循環させる(食糧は地元や自国で調達)。文化や価値観もそう。そして人類の幸福につながる発明や道具は自由な交易で世界中の人がその恩恵にあずかれること。二酸化炭素排出抑制についても現在の枠組みや思考の外にまだまだ解決策があるかもしれない(例えばEVの普及がCO2削減につながるとの思い込みからは別の解決法は出てこないだろう)。

先日、NHKの番組配信を見るともなく見ていたら、先人の知恵で縄文時代に学ぶ趣向の番組があり、ゲストに知人が出ていた。でも彼女の発言でひとつ気になることがあった。SDGsにかけて有機野菜などを食べることを説いていた。でもそれをやると食糧の生産性や自給率が低下したり所得の低い人が満足な栄養を摂取できなくなりはしないかと疑問に思った。もちろん多国籍企業が喧伝する安全性が怪しい化学物質を使えというのは断じて違うけれど正解は有機栽培だけではないことも事実。

一見良いことのようでも単一的なものの見方から漏れていく大切なことがある。SDGsをひとことでいえば多様性(生態系)を尊重することをモノサシとしながら生物とその共有財産である地球の幸福とは何かを考えて実践することではないかと思える。

ロシア政府の蛮行はウクライナにとって過酷な試練だけれど、この惨事(失敗)から世界が学べることは大きい、学ばなければ。そしてこのことがきっかけとなって、自由で思いやりがあり多様性を尊重する社会をつくろうとする人々が世界に広がることを願っている。
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(写真は勝浦町横瀬立川のひまわり畑で撮影したものをイメージ化。ウクライナ国旗の青と空の色はCMYKで合わせている。でもこのひまわり畑はいまは存在しない)
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 23:32| Comment(0) | 生きる

2022年03月05日

シナリオとなるか


この記事を書いたのは5日前。公開するかどうか迷っていた。
自分なりに出口を見据えて各国がどう行動すれば良いかを考えて書いたもの。

やってはいけないことをやっているのはロシアだけれど、物事は一方向からのみで考えるとうまくいかないと思う。一方を持ち上げて一方を落とす。挙げ句の果てにロシアに由来するものはすべて白眼視していく。在日ロシア人への誹謗中傷など最低の行為だろう。街頭でプーチンを避難するヒロイックなデモ行進をいくら行ってもそれで何も解決しない(ただ世論の高まりを当事者に届けることは無意味ではない。この記事を書いたときはまだ原発攻撃などは起こっていなかった。ウクライナ軍の善戦を讃える論調ばかりの頃)

ぼくは考えた。バイデン政権にはこの問題を解決する力はなく、もちろん当地へ出兵するなど有り得ないしアメリカがどう動いても問題をこじらせる方向でしかない。一方で中国が仲介を行う可能性をつくるのもその後の力学を考えると避けたいこと(中国は五輪期間中のうえ世界覇権を目論むのでこの問題では慎重に行動するとも考える)。何のための戦争なのか疑問に思っているのは、ウクライナ、ロシア双方の国民だろう。これ以上は1人でも犠牲を出さないため出口戦略を構築して停戦を具体化させるプロセスに一日も早く取りかかりたい。

まずは当事国のウクライナがNATOに加盟しないことを前提に停戦合意に入る。ロシアも侵攻の大義名分がなくなったのでウクライナ全土から軍を引き上げる。さらには東部地域の国家承認も取り消す。クリミア半島についてもウクライナに返還するが、ウクライナは不凍港として黒海に面した港をロシアの物流拠点としての使用を認める。もちろん各国はロシアへの経済制裁を停止して侵攻前の状態に戻す。日本もサハリンやシベリアの共同開発を従来どおり進めていく。このことで世界経済の不安定要因(各国のインフレなど)を軽減させる。

以上のようなシナリオでは両国は納得できないことだろうか。両国の国民の安全と利益を第一に、そして両国の国益を損ねることなく、そして指導者の面子をつぶすことなく、さらには世界全体にも良い影響が波及していくことではないだろうか。

ウクライナの人々が求めているのはNATO加盟の是非というよりも、どこからも侵略の怖れのない平和な独立国家でありたいということ。西側諸国がウクライナに侵攻するシナリオはほぼない。あるとすればロシアだが、ウクライナが緩衝地帯としてNATOの盾になる限り、ウクライナへの容認できない軍事行動は不要となる。ウクライナはどちらにも与しない立場を大いに活用して経済的にはどちらとも密接に結びつき、人や物資が豊かに行き交う交易地域として位置づけることで平和と繁栄を手に入れることは困難だろうか?

影が薄かった国連だが、戦争の当事者である両国とも痛手を負ったことで国連主導で侵攻の代償(賠償金など)の調停を行う。もちろん世界各国(官民問わず)もウクライナの復興支援を行う。また、常任理事国を増やすとともに、一定の手続きで一定期間罷免できる条項も調えておくべきとも考える。

外交や軍事、国際法、国連の役割、世界情勢などにうとい素人の考えでどこかに誤りや錯誤があると思うけれど、何が人々(当事者も世界も)の幸福につながるかを原点に書いてみた。

タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 18:38| Comment(0) | 生きる

2022年03月04日

ロシアがウクライナの原発を攻撃!?


ロシアがウクライナのザポロジエ原発を攻撃しているという情報がもたらされた。チェルノブイリの10倍の規模でヨーロッパ最大という。

CNBCの動画「Ukraine nuclear plant under Russian attack」では火器が訓練施設に向けて飛び交う様子が報じられている。
https://www.youtube.com/watch?v=5P6eidg59ek

被害を受けた施設と反応炉は離れているとして、通常ならこの程度の流れ弾が反応炉に当たっても影響はないだろう。偏西風の影響を考えるとロシア本土も重大な影響を被るためあくまで脅しの意味だろう。

しかし現場では何が起こるかわからない。ロシア兵としてもこの任務はやりたくないはず。異様な心理状況に置かれた現場では何が起こるかわからない。攻撃目標を誤って設定したり、上官の指示の聞き取りミスや狂気にかられての戦闘もあり得る。

管理棟や近傍で電源の集中制御を行っているとすれば、電源盤が機能不全に陥って電源喪失ともなればどうなるか?(これが起きたのが福島第一原発であって津波はその事象のきっかけに過ぎない)

ウクライナはソ連崩壊後に非核三原則をうたって国内に核弾頭はないとされる。チェルノブイリを経験して原子力はもうたくさんという国民感情もあっただろう。

どさくさに紛れての核武装の発言は容認できない。日本にとっても非核三原則は基本原則として日本政府が依って立つ理念であることを確認しておきたい。

ロシアを止めるのはアメリカでもEUでも中国でもない。ロシア内部からの動きが必要だ。
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 14:24| Comment(0) | 生きる

2022年02月26日

ウクライナの大統領の声を聴こう


毎日新聞の記事で知った。
「ロシア軍のウクライナに対する攻撃が続く中、全面侵攻開始直前の24日未明にウクライナのゼレンスキー大統領がSNS「テレグラム」の公式チャンネルへ投稿した1本の動画がインターネット上などで注目されている。」


その動画はYouTubeで見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=p-zilnPtZ2M&t=51s

Zelenskiy大統領のTwitter
https://twitter.com/ZelenskyyUa

ゼレンスキー大統領の言葉に耳を傾けてみませんか?
ロシア国民に向けてのロシア語だが英語の字幕が付いている。
この動画は一国の大統領としての国民を守る誠意と決断があふれている。
例え言語はわからなくても言葉の抑揚に、表情に。

EUの会合にWeb会議で参加したゼレンスキー大統領の5分の演説についてワシントンポスト紙からの記事を以下に引用。

Volodymyr Zelensky dialed into the meeting via teleconference with a bracing appeal that left some of the world-weary politicians with watery eyes. In just five minutes, Zelensky − speaking from the battlefields of Kyiv − pleaded with European leaders for an honest assessment of his country’s ambition to join the EU and for genuine help in its fight with the Russian invaders. Food, ammunition, fuel, sanctions − Ukraine needed its European neighbors to step up with all of it.

“It was extremely, extremely emotional,” said a European official briefed on the call. “He was essentially saying: ‘Look, we are here dying for European ideals.”

Before disconnecting the video call, Zelensky told the gathering matter-of-factly that it might be the last time they saw him alive, according to a senior E.U. official who was present.

Just that quickly, the Ukrainian president’s personal appeal overwhelmed European leaders’ resistance to imposing measures that could drive the Russian economy into a state of near collapse. The result has been a rapid-fire series of developments boosting Ukraine’s long shot fight to hold off the Russian military and shattering long standing limits on European assertiveness in national security affairs.

(引用元@washingtonpost.com:https://www.washingtonpost.com/business/2022/02/27/russia-ukraine-sanctions-swift-central-bank/?pwapi_token=eyJ0eXAiOiJKV1QiLCJhbGciOiJIUzI1NiJ9.eyJzdWJpZCI6IjE1MzMxODIiLCJyZWFzb24iOiJnaWZ0IiwibmJmIjoxNjQ2MDAwMTg2LCJpc3MiOiJzdWJzY3JpcHRpb25zIiwiZXhwIjoxNjQ3MjA5Nzg2LCJpYXQiOjE2NDYwMDAxODYsImp0aSI6ImY3OWIxZDg5LTRkYmEtNGVkZC04ZjdjLTEwNmRjMmViYmEzNyIsInVybCI6Imh0dHBzOi8vd3d3Lndhc2hpbmd0b25wb3N0LmNvbS9idXNpbmVzcy8yMDIyLzAyLzI3L3J1c3NpYS11a3JhaW5lLXNhbmN0aW9ucy1zd2lmdC1jZW50cmFsLWJhbmsvIn0.yorP4Gz6NAn1hoiIDIdqJqjUahz6nW8qRCI8eCyTeaM

為政者は心から語り掛けることで世界情勢も動いていく。
ウクライナの人々はもちろん、独裁者に翻弄されて闘いたくないロシアの兵士も経済政策にあえぐロシアの人々も救いたい。

海を隔てた隣国では、ウクライナ侵攻を台湾支配のロールモデルと見ているかもしれないが、それとて自国の核配備をうたう誤ったメッセージにすり替えてはならない。
狂気の独裁者を止められるのは良識あるその国の民。
Stand With Ukraine!

Zelenskiy大統領の声が掲載された公式Instagram
https://www.instagram.com/zelenskiy_official/channel/?hl=en




posted by 平井 吉信 at 15:39| Comment(0) | 生きる

2022年02月02日

2022年2月2日 いつのまにか24


次にこれだけ2が並ぶのは2222年2月2日で、もしかしたらぼくは生きていないかもしれない。
本日24歳の誕生日を迎えたのはぼくではなく、ぼくが始めた事業。
つまり創業24年目。

2022年2月2日 → 24年ということなるが、数学に強い人なら数式の変形ができる。
(2222-200)年2月2日 → (22+2)年
これをさらに変形すると
(2222-222+22)年2月2日 → (22+2)年

創業前にも得がたい経験があるがそれはまだ先に記すとして
創業2年目で書いた報告書が国会国立図書館に蔵書されるようになり
さまざまな役割や課題をいただきながらなんとか今日まで来ている。

それに対してお世話になった方々に何ができたかを自問自答すると
できていない。ほんとうにそうだ。謙遜ではなくそう思う。

しかし完全でないヒト同士が支え合うから良いとも言えるので
「ありがとうございます」。

すべての方々の顔は思い出せないけれど、静かな乾杯を。
(竹鶴25年はないので17年で)
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追記
来春の連続テレビ小説が牧野富太郎を描くと発表があった。
このブログでもよく採り上げているので「佐川町」「牧野富太郎」のタグからどうぞ。


posted by 平井 吉信 at 22:58| Comment(0) | 生きる

2021年12月31日

神棚と仏壇を浄める(大晦日)


神棚にご利益を願ったりはしない。
ただ八百万の神々に感謝を申し上げるだけ。

仏壇にも願い事はしない。ただ先祖や故人となった親族の安らかならんことを祈るだけ。
その過程で祝詞を奏上し、読経する。
きょうは日頃疎遠となっている神々や祖霊の寄である神棚と仏壇を清掃する。

まずは神棚から。
この神棚は三社で屋久杉でつくられている。
眺めているだけで落ち着くオブジェと言える。
茅葺一社も捨てがたいが
中央に天照大御神、右に産土神、左に信仰している神を祀るので三社でいい。
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扉を開けて御札を格納する。
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階段は金で装飾されている。
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屋根の素材感
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清掃が終わったところ
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続いて仏壇。
まずは位牌を別に於いて上から固く絞った水拭きで拭いていく。
表面はポリエステル塗装なので水拭きはなんともない。

仏壇には黒檀と紫檀が主力でうちは紫檀を選んだ。
材質はパーロッサという南洋材。
それが前方を覆うように加工されている(前練りという)。
さらに高級になれば二方練り、三方練り、四方練りと進む。
それだけ稀少材の比重が増すので重量も重くなる。
すべて稀少材のパーロッサということはありえない。
重いし加工もしずらい。もしあるとしても目の玉が飛び出るような価格になってしまう。
おそらくは堅いけれども経年変化に弱くなってしまうかもしれない。
そこで心材に貼り付ける工法(練るという)を採用する。

前練りより落とすと、木の皮を貼った杢貼り、さらに落とすとプリント(印刷)となる。
前練り以上の仏壇の一大産地は徳島。静岡は廉価品と棲み分けている。
近年では唐木を使わない家具調が増えている。
祈りの対象はかたちにとらわれなくていいわけだ。

選ぶ際は清掃がしやすくものにした。この部分に華麗な彫刻を施したものは清掃が面倒になる
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宮殿(くうでん)の部分。彫刻が施されているのが一般的
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欄干はダボで取り外しができるのが高級品。廉価なものは接着してある。
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昔の人は仏壇の隠し扉に預金通帳などをしまっていた。
泥棒も仏壇は開けないというわけだ。
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香炉の部分がもっとも高貴な場所でここに信仰している仏像を置く。
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真言宗なら大日如来を置くことが多い。印を結んだ結跏趺坐ですぐにわかる。
観音菩薩の立像などを置く場合もある。
うちは掛け軸(十三仏)で代用している。
左は不動明王、右は弘法大師。
その不道明王の前に吊ってあるのは浅草の浅草寺で求めた観音様の掛け軸。
(読経するときに観音経も唱えるので)

コロナ下でつつがなく2021年が終わる。
良いことばかりではないが悪いことばかりでもない。
生きていれば生きている。それでいい。
posted by 平井 吉信 at 22:47| Comment(0) | 生きる

2021年12月30日

土の匂いのする道を樫の広場まで歩く子ども 


ぼくが生まれた家の横は土の道で
線路の枕木を立てて囲いとした畑があった。

畑ではトマトやなすびを植えていたが
背の高いヒマワリやタチアオイもあった。
ホウセンカは実が弾けるのがおもしろい。

土の道をしばらく行けば木登りをしたくなる大きな樫があり
その根元に小さな祠(神社)があった。
その神社の前の広場で野球や鬼ごっこ、缶蹴り、温泉、ろくむしなどをした。
野球はゴムボールでするのだが小学生であってもカーブ、ドロップ、シュート、スライダー、フォーク、ナックルのような球を投げていた。
(どの遊びも年長、年少を混ぜているが、年少者には特別ルールがある)
土で団子をつくって掌で擦って虹色の光沢が出ると「金」が出た、などと騒いだ。
いまではこの広場はなくなって、代わりに巨大なたぬきが鎮座している。
駅も線路もなくなってしまった。

線路沿いにも小径があってそこの桜並木は毛虫が多く、アブラゼミやシマヘビもいた。
虫取りで草むらに入るとヤブ蚊に刺されてかゆいことかゆいこと。
ぼりぼり掻いて血が出ればヨモギの葉を揉んで付けた。
イタドリは至るところに生えていておやつ代わりに食べることがあった。
それをおいしいとは思わなかったが、サルビアの蜜は甘かった。

広場を過ぎると駅があった。
駅前は舗装していなくて
そこから四方八方へ道が伸びていた。
(市街地のすべての道がここに集まる放射状の頂点にあった)

夏になれば京阪神からの海水浴客で賑わった横須松原。
帰りは螢の光に見送られながら竹ちくわを買って帰るのだろう。
ぼくは遠浅の海で泳いだあとの海の家での飴湯が思い出に残っている。

駅は始発駅で、そこから長い編成の列車が出発した。
車両基地であったので列車の往来が多く踏切は人力で上げ下げしていた。
バスに乗れば運転手とは別に車掌がいて切符を切ってくれた。

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年末でガスコンロや浴室の清掃、菩提寺へのお礼や近所の和菓子店へお願いしていた餅を取りに行ったり、清掃の途中でワイングラスを落として割ってしまい、急きょ買いに行ったりと一日かけてさまざまな家の用事をしていた(近所のCANDOで買ったがこれが100円?という品質感だった)。

夕食のあと、Amazonプライムで前日見た小津安二郎監督、原節子の「東京物語」に続いて、
きょうは「麦秋」を見た。

冒頭で北鎌倉の駅と背後の山、落ち着いた風情の民家が映し出された。さらに生け垣の土の小径を歩く場面で釘付けとなった。
(鎌倉は首都圏に住む人にとって、まちと自然が融合した憧れの土地と聞いている。鎌倉に住んでいる知人が数人いるが、趣味が良いだけでなく自分の役割を果たしつつ凛と背筋を伸ばして生きている人たち)。

この映画の撮影は昭和20年代だそうだが、すでに北鎌倉駅には電車が走っている。
ちょっと驚いた。東京(丸の内界隈)までは2時間ぐらいかかったのだろうか。
(もしや徳島県外の人がこの記事を読まれていたら、いまも徳島県には電車が走っていない。走っているのは「汽車」といったら驚かれるだろうか。その代わり、線路も道路も走れる列車兼バスは走っているよ。これもほんとうだけど)

小津安二郎の映画はおだやかに時間が過ぎていく。
ぼくは映画はほとんど見ないので映画はわからない。
でも画面を見ていると写真の引き算だなと気付いた。
構図は木村伊兵衛のような美学を感じるし
見せ方が「見せる」という意識(植田正治の砂丘の人物写真のような)を感じる。

スタジオジブリのとなりのトトロは名作だと思うが、
メイが迷子になる事件だけはないほうがいいと思っていた。
麦秋では事件は起こらず日常が淡々と流れていくが、
根っこが固定されて葉がそよぐような演技と演出が続いていく。
ある意味ではソナタ形式のなかで演奏家がカンタービレするような。
嫌な感じはしない。

麦秋では線路と生け垣の小径が出てくる。
線路沿いの土の道はぼくが幼い頃、遊んだ場所。
路上では金だらいに水をはって小さな子どもが水浴びしていた。
(道路は車が通れる車幅はないので人と自転車しか通らない)
子どもばかりではなく、日傘をさして着物を着た女性も通っていた。
家へ帰ると真っ先に足を洗うように言われたことを思い出した。
そこからさまざまな植物に接した原体験がいまも続いているような気がする。

映画館は歩いて数分のところに2軒、八百屋は5〜6軒、
洋食堂、うどん店、駄菓子店、市場、電気店、酒屋、米屋、すし屋、ラーメン店、餃子店、喫茶店、お好み焼き店は徒歩1分以内にあり、出前はいつでも頼めた。ラーメンは白い豚骨系、餃子は生姜や香辛料の聞いたピリ辛系、駄菓子店ではラムネや黒棒をよく買った。喫茶店はほうれんそうが添えられたうどんがおいしい。金長まんじゅうのハレルヤの本店もあった。学校からの帰りはナショナルの電気店の店頭でクーガ115を眺めるのが日課。歴代の日本のラジオのなかで貴公子のように美しい。

ハレルヤ本店の斜め前にあった洋食堂は
祖父が接待で使うことがあったが、たまに家族で出かけることがあった。
ぼくはカレーライスを注文するのだが、卵とグリーンピースが入っていた記憶がある。
(豪華だろう)
このカレーの風味を再現したくて料理をするようになった。
そのうちおもしろくなって、
小学高高学年になる頃には餃子や炒飯、焼きリンゴやドーナツ、ホットケーキ、みそ汁などは日常的につくっていた。

だからいまもつくるのが好きなのだ。
2台のガスコンロ、用途別に分けている4本の包丁、数台の炊飯器、トースター、電子レンジ、電気湯沸かし器、マルチグリル、スロークッカー、スチームコンベクション、3台のタイマー、2台の精米機、温度計を駆使してつくる(同時並行のマルチタスクで走り回りながら調理を行う。ただし電気調理器具は契約電力の関係か同時に3台は使えない)。主力はリバーライト製26センチの鉄のフライパン。小さい頃から使い慣れているので火加減を自在に調整できるし手入れも洗ってガスで乾かして油を塗っておくだけのお手軽。晦日のきょうは包丁をすべて研ぎ、数の子を漬け込み、鰹節を削り出しておいた。

いつのまにか昭和から平成、令和へと時代が変わっていく。



posted by 平井 吉信 at 23:47| Comment(0) | 生きる

2021年12月11日

車内のポンタがしょげている


布製のティシューケースで車内でいつもいる。
いつからかここに棲み着いてどれだけの年月が経ったか覚えていない。
暑い炎天下も寒い路上でも助手席裏で吊されてがんばっている。
人間の鼻がむずむずすると、気を聞かせて「はい」とお腹から取り出すのだ。
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そのポンタがしょげているように見えた。
持ち主が車を手放すことを知ってしまったから。
愛着のある車内を離れるのがつらいのだろう。
(ポンタは新しい車に引っ越すことになるのだが)

ものにはなにか目に見えない気配(精神というか魂というか)が宿るような気がする。
ぼくは物持ちが良くて小学校の頃から使っている道具なども未だにある。
(ときめかないものは捨てる、という教祖さまもいるけど、それって?)
そのせいか故障やトラブルはほとんどない。

たまに見るテレビはソニーのプロフィールという15インチのトリニトロン型ブラウン管。
(予備に19インチもある。VHSデッキも当時の高級品が完動状態)
ブラウン管は応答速度が速く経年変化はあっても液晶にはないおだやかな画質が特徴だ。

ペンタックスSPF(スクリューマウントなのに開放測光だよ)、ライツミノルタCL(ライツとミノルタの提携)、ミノルタX-700(篠山紀信や三好和義も使っていたミノルタ最後のマニュアル機)といった往年のフィルム用のカメラはいまも健在で博物館で飾られてもおかしくないほどメカも外観も程度は良い(最初の2台は親父のお下がり。いずれも売る気はないけれど)。

大切にするとは隔離して保管するのではなく、自然体で使いながらも感謝の気持ちで接していくことと思っている。すると、ものはヒトに応えてくれるような気がする。

車もそうだ。最初に乗ったワーゲンゴルフも床に穴が空くまで使っていた(日本の湿気に合わなかったのだろう)。

それからだいたい10年20万km以上でやむなく乗り換えてきた(遠出や出張が多いので出先でのトラブルを避ける意味もある)。今回は11年1か月で21.4万kmである。

ポンタも淋しいが、乗り手も淋しい。
引き渡しの日が近づくと降りるのが名残惜しく
しばし車の後ろにたたずんでエンブレムに手を当ててみる。

色も気に入っていた。ほとんど街では見かけない自然色(セージグリーンメタリック)。
(ぼくは白黒銀赤の車には乗らない)
どこに行っても迷うことなく見つけられるのは乗っている人がいないから。
(ここ数年は地球色や自然色の車がやや増えたように思う)。

ガソリン車(レギュラー仕様)で4AT、AWDと聞くと燃費は良くなさそうに見えるが
郊外で19km/リットルを走ったこともある。
まあ、遠出をすると16km/リットルは堅い。
ディーラーが信用してくれないのでExcelでの記録を見せたことがある。

エコ運転のコツは遅く走らないこと、飛ばさないこと、ただし先を読むこと、(無意識に)微妙なアクセルコントロールをすること、それだけ。
真冬の短距離の街乗りでも10km/リットルを切ることはない。
4速ATは長年の枯れた(安定した)技術で構造も簡単、乗り味も自然で長期間乗るのは悪くないと思っている。
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運転席に座ると4隅が見渡せて車幅も掴みやすい。ウインドーの傾斜は立っていて圧迫感がない。アイサイトがなくても安全運転に貢献する見切りの良さや走る曲がる止まるの基本性能の高さがあった。運転席から見えるボンネットからは地球の張り詰めた大気や静かな海洋を思わせる落ち着いた色彩が目に飛び込んで来て心を落ち着けてくれた。
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車内も毎日清掃していたので新車のようだ
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車を降りるとき、車のエンブレムに手を当てて一日の働きをねぎらう。
(失敗しないという天才女性外科医が手術の終わりに患者の肩に手を当てるあの人気のテレビドラマも似たようなことをやっているけど、ドラマよりずっと以前からこちらはやっている)。

別れの朝、家人も次々とやってきて車に触れている。
年老いた母も酒をかけてねぎらった。
この11年も無事故非接触(金免許を永年続けている)だった。

半導体不足でSUVも足りないのか、この状況で買い取りたい中古車業者が何社もあった。
査定と買い取りが決まった後、
ぼくは引き取られる前日にフロントのヘッドランプ(HID)をそっと新調したのでライトはまばゆいばかりの輝きを取り戻した。
エンジンオイルも交換したばかり、タイヤも1年を経過していない。
新たな所有者に可愛がられて第二の途を乗り手ともども無事で過ごせるよう。

動いている自分の車の後ろ姿を初めて見送った。
(感謝の気持ちがあふれて心の中で手を振る)。
おだやかな運転はおだやかな人生につながり幸福の扉を開ける。
そう思って生きている。
posted by 平井 吉信 at 13:12| Comment(0) | 生きる

2021年11月30日

ゆでガエル このままでは日本はなくなる なぜ円安? なぜ食糧自給しない?


絶望的な日々である。高齢の農家は次々とこの世を去るか耕作ができなくなってしまう。
山間部はもちろんだが、都市近郊ですら耕作放棄地(もしくはその予備軍)がじわりと広がる。
若手が運営する農業法人に耕作依頼が殺到するが、彼らとて度重なる設備投資のため金融債務(返済と金利負担)にあえいでいる。

先日も農業関係の第三セクターの社長と突っ込んだ話をしていて
農業の規模拡大をめざす施策は行き詰まりとなっていることを痛感している、で一致。
環境保全型農業など多様な視点で小規模生産者の支援(所得補償)が不可欠だ。
これは商工サービス業にも言える。
そのうちまちなかからも自転車がパンクして修理する店がなくなる(もうないかもしれない)、錆びた包丁を研いでくれる包丁店もなくなる、壊れたミシンを修理してくれる店もなくなる。

小規模零細事業者を大切にしていくべきなのにインボイス制度の導入などありえない愚策。
(何度も言っているけれど長らく続いた自公政権がこの国を沈没させようとしているが、その影で潤う政商たちや利権の恩恵に被る定番企業たちが暗躍している)。

低金利政策を続けているのに生活関連商品の物価が上がっている。
可処分所得は減少している。生産性は上がらない。
円は安いが輸出は伸びず貿易収支は改善せず、国内の物価を押し上げているだけ。
原油高が追い打ちをかける。だから100円ショップの製品はほとんど日本製。

世界のあちこちでまっとうでないクーデターが起こっているが
もっと穏当にもっと強く声を上げて行動しなければ未来はやって来ない。
日本でもクーデターが起こっても不思議ではないが、
政治への参加(投票)はその機会だから棄権せずに!

コロナは引き金を引いただけ。構造的な問題を改善しないことがコロナ下をコロナ禍に変えてしまった(何度も書いているがコロナについては科学的な根拠に基づく的確な対策が費用をかけずにできる。コロナはいまの時代の本質的な問題ではないのだ)。

とにかく内需を増やすこと。そのためにできることはたくさんある。消費税の撤廃や格差を縮小させる税制改革(インボイスは逆行だ)。法人税は上げても企業はつぶれないし名だたる経営者はむしろ歓迎する(それこそ企業の社会貢献、社会的使命だろう)。

金利を上げるのも選択肢。金利上昇と円高と内需拡大のための施策(補助金ではない)と弱者を救済する簡単かつ公正な施策(ばらまきではない。軽減税率やクーポンは誰のため?)。

国内でつくっていないことがサプライチェーンの途絶で身に染みて体感できたはず。
半導体や電池だけじゃなくて今度は食糧、食品。
日本を屈服させるのに核弾頭は不要。食糧止めればいいだけ、と思われているだろう。
農家を支援しなければ明日は口に入るものがなくなるかもしれないのに。

コロナで仕事がなく溢れた人たちを食糧の自給率向上のための仕事に就いていただく施策もあり得る。やってはいけないことをやり、やらなくてはならないことに知らんぷり。
(れいわ新選組は危機感を背負って自らを犠牲にしてもなんとかしたいと使命感を持って立ち向かっているように見える)

経済政策は? 少子高齢化対策は? 教育問題は?
十人十色の意見があるだろう。
でも個別の政策は何が正しいかを議論するのではなく、
国民の幸福とはなにか? そのために何を行うべきかを組みたてていけば採るべき政策は自ずと収斂されていくはず。

いまはその力学がまったく働かない。政治に無関心な人が増えれば増えるほど我が身に降りかかってくるがそのことすら気付かない。
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楽観的現実的に考える人間でも日本という国が地図から消える日も遠くないように思えてしまう。
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 23:01| Comment(0) | 生きる