2022年04月04日

電子書籍からユーコン川へ 人間の幸せや冒険とはなんだろうと


野田さんの電子書籍を買った。
「ユーコン川を筏で下る」というタイトルで紙の本と比べても圧倒的に読みやすく
目が疲れず、アンダーラインも引けるし読みたいところからいつでも続けられるし
端末だって風呂場で読める防水仕様(Kindle Oasis)だ。

Kindle Oasisはシリーズ中もっとも高価だが、Kindle Voyageと比べても優位は明らか。
高価といってもスマートフォンの中級機種より安いぐらい。従来のKindleや廉価版と比べると情報量が多いのに読みやすい(文字の精緻さや快適な使用感など)。なにせ充電は月に1回か2回で済む小電力仕様だし、炎天下での可読性の良さは液晶とは比べられない。おすすめは8GB、Wi-Fi、広告なしの仕様のモデル。これが年に数回価格が下がる。ぼくが購入したときで22933円だった。


地元新聞のエッセイで女性のエッセイストが紙の本は線が引けて読み手の痕跡が感じられて良いが電子書籍は?という趣旨であった。この方は電子書籍がスマートフォンやタブレットで文字を読むのと勘違いされているのだろう。実際に可読性は紙にも優る読みやすさ、裏返せば目の疲れにくさ(大半の状況ではバックライトも不要でブルーライトも皆無)も紙より上回る。アンダーラインは自在に引けるし消すこともできるしアンダーラインの箇所だけを拾い読みする出力もできる。

そして数百冊かそれ以上の書籍が1つの端末に入る。登録端末はひとりで複数設定できるのでパソコンの広い画面でも見える(テキスト中心の書籍はKindle端末で、図鑑などはPCでという使い方もできる)。

Kindleでは自分の書いた文章も電子書籍形式に変換して読める。非売品であるけれど。
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Kindle Oasisのカバーはこの機種がいい。機能的で質感も高い。Kindle Oasisはひっくり返すと持ち手が左右に入れ替えられる。これで手が疲れない。上の写真では左手で持つように左に送りボタンとグリップがあるけれどこれを天地ひっくり返せば文字もひっくり返って右手で持つことができる。


「ユーコン川を筏で下る」の冒頭からはカラー写真が続く。これはKindleでも見えるがPCで見るのが良い。文章はKindleの圧勝である。夜寝る際にふとんに潜り込んで片手をわずかに布団から出して小さな灯りで読むのが日課(その際に歌詞のない音楽も小音量でかけている。本を読むのに飽きたら今度は灯りを消して音楽のみを聴きながら眠りに就く。文字に書くとなかなかだが、実際は本を読み出して寝るまでに10分ぐらいのことが多い。音楽は子守唄である。


野田さんはカヌーではなく筏で下ってみたかったそう。そこで試作を行い、材木をかすがいで止めて合板を渡した1人乗り(+犬2匹)の重量80kgの小型筏が最善とわかった。その筏でユーコン川を下るのだが、筏の上で焚き火や食材を炙ることもできて酒を飲みながらイスに座って広い川と正対しながら下るというのだ。ただし漕ぐときは後ろ向きとなる。

若い頃、ユーコンでカヌーの一人旅をしていると、川岸の小屋から自分に向けて銃を放たれたことがあった。こっちへ来てくれ、と岸辺の男が叫ぶので言ってみると、酒とコーヒーをごちそうしたかった、気付いてもらえそうにないので発砲した、済まないというものだった。

ぼくは限られた情報量と野田さんのウイットからこの場面を読み解く。実際に弾丸は自分に飛んできたのだが、それは撃つ意志がないととっさに判断したのではないか。名手であればしくじらない距離だったかもしれないし、続いて何発も撃ったのではないとしたら、呼んでいるのではないかと判断できたのだろう。銃を放った男の声の調子や態度からも命をねらったものではないと感じられるものがあったのではないか。

カヌーの旅人を打つ動機として金銭目当てではないし、狙撃しても流されていくカヌーをどのように止めるのか。人の痕跡がなく原野、それもクロクマやグリズリーのテリトリーで殺人狂が暮らしているとも思えない。仮に相手が射撃の名手であれば下手に逃げても無意味だろう。だから殺人目的に銃を撃つことはないとの結論に至ったのではないか。ぼくの想像に過ぎないのだけれど。

そんなことを考えながら75歳の野田知佑として筏で下る心境は如何に興味をそそられたので電子書籍を買ってみたのだ。

若者が冒険しなくなった、といわれる。こじんまりとして保守的で…。音楽までもそんな感じ。DTM、DAWの孤独な制作作業からつくられる音楽からは粗野な感じは消失している。その代わりコード進行やら音階の動きが器楽的というかアクロバティック。自分は歌えても他人は歌えそうにない感じがする。Lemonなんてそうだよね。

とはいえ、ボカロなどで表現される音楽を否定してはいない。「はやぶさ」〜はじめてのおつかい〜と題してミクに歌わせた作品は、カプセルを地球に届ける使命をいくたの困難のなかで奇跡的に果たし、最後は反転して(司令部がはやぶさに地球を見せたといわれている)地球を見ながら大気圏で燃え尽きたはやぶさ初号機の感動的な物語を歌で綴ったもの。そこにあるのはボーカロイドの無機質な歌と演奏から波紋を拡げる無限の慈愛のような音の波。かえってボカロだから伝わる表現があることを知った。


ところで冒険をしなくなったのはなぜだろう。それを冒険とは言えないけれど、日本が経済大国と呼ばれた頃は海外旅行は日常茶飯事だった。国内旅行より割安というのも動機だった(円高でもあり経済力が国民の所得も世界的に押し上げていた)。ツアーだけでなく地球の歩き方などを見てバックパッカーとなる人も多かった。友人の石井君はインドに半年の放浪の旅に出て故郷に戻ったその日に自宅に帰る前にうちに寄ったのだけれどインドの香りというか異臭がした。家で愛犬が本人とわからずに吠えたというのも頷ける。河原君は大学を出て定職に就かず日本の山を歩きネパールのトレッキングに出かけるなどした。ぼくも南太平洋に行ったり東北や信州やら屋久島やらに気が向いたら出かけていた。70年代は反戦(ぼくの年代ではないけれど)、80年代は放浪が格好よく一種のインテリの装いのようでもあった。それでやっていけたし、そんな若い頃を過ごしていまも不自由なく暮らしている。

ところがバブルの崩壊前からおかしくなった。土地神話が崩壊したからだけではないと思っている。80年代は100万円を10年郵便局に預けたら倍近くになったし、1年で7%の利回りのある安全な金融商品もあった(100万円預けたら1年後に7万円増える。ただし20%の源泉課税があるので5万円)。経済だけでなく未来は愉しいもの、豊かなものという空気が横溢していた。

しかしそれは日本人も国も傲りにむしばまれていた兆候。人だけでなく企業も冒険しないで運営(5Sやらサービス残業やらシックスシグマやらカイゼンやらジャストインタイムやら。それらは道具であって目的ではない)を磨くだけになってしまった(それらが従業員の疲弊やら冗長性のなさからサプライチェーンの途絶を招いている)。安くて良いものをつくる、売るという競争に陥り、労働力の安い外国に工場をつくり、給与は上がらなくなった。それはレッドオーシャンにまみれ、世界標準からもはずれたローカルルールに浸るだけで、ゲームチェンジャーされる人になってしまった。以前の100円店はメイド・イン・チャイナが多かったが、いまではほとんどがメイド・イン・ジャパン。この現実を直視せよ。

気が付くとアメリカでラーメンを食べると2千円という事実に驚き、アメリカで年収1千万円は貧困層という現実を信じられないようになった、コロナ前に東南アジアからの旅行者が日本に増えたのは「リーズナブル」だからである(バブル期に卒業旅行と称して海外へ行っていた若者たちのように)。

科学技術すらつまらなくなった。実用性やら費用対効果を大学にまで求めて基礎研究やら長い視点での持続的な研究ができなくなっている。学問に合理性など要るか? 夢や志のない研究など何になる?

若者も冒険をしなくなった。若いということは気力体力がみなぎっていて、バックパックを担いでどこにでも行くようなことは若さの特権のようなもの。人が一生を終えるときに後悔することがあるとしたら、「もっと冒険がしたかった」というものが多いと聴いたことがある。やらなかった後悔とやって失敗したけれども経験を積めた充実感とどちらを選びますか?と言われたらどうですか?

幸せな人生って、自分が我慢することなくやりたいことをやって(やり尽くして)例え失敗してもやってよかったと思えること。なお、やりたいことをやってそれが誰かに支持され誰かの幸せに貢献しながら自分も思い通りに生きる人生ならどんなにいいだろう。誰にもそんな人生を送る権利がある。

冒険とは、人類未到の高峰をめざしたり危険な試みをすることだけではなく、日常の暮らしで挑戦し続けること。一過性の冒険など色あせる。そんなことよりも直線的な生き方から脱却することのほうが冒険と思える。直線的な生き方とは、学校を出て就職して結婚して家庭を持って子どもが巣立って夫婦だけになって余生を過ごしやがて一人になって死んでいくというもの。ある意味では後戻りできない生き方。

そうではなく、例えば10年1クールぐらいでテーマを決めてそのときほんとうにやりたいことに取り組んでみる。うまくいけばそれで良し、うまく行かなくてもそのとき(その年齢で)挑むことができたらそれはそれで幸せなのではないかと。レールの上を行かないある意味では危険な生き方を敢えて選んで生きてみるというのは一生をかけた冒険といえるかも。リニア(後戻りできない)ではなく、やりたいことをやりながらもうまくいかなかったとしてもやり直すという循環する生き方ね。

あまりに伝えたいことが多すぎて下手な文章でもこうやって綴っている。ブログだけでも文字数を数えたらここまでに綴った文字数は120万を超えている。でもまだ足りない気がするのでこれからもブログを書き連ねていきたい。

野田さんの話題に戻るけど、本に書かれているようなハレの場面ばかりではなく、人間関係に悩んだり病気や世俗のごたごたで悩むことなども当然あったはず。でもやりたいことをやってきた。その足跡が人々を勇気づける。それらも含めて野田さんは幸せな人生だったのではないかと。

タグ:野田知佑
posted by 平井 吉信 at 20:48| Comment(0) | 生きる

2022年03月24日

何が正しいかを考えるのではなく


いまの時代にほんとうに必要な生き方というか社会のあり方を最小限の言葉で表すとしたら
「失敗を経験してそこから学ぶこと」「多様な価値観を認めること」。
その大切さは生態系を観ていてわかること。
資本主義でも共産主義でもなければ、それらを否定する独裁主義でもない。
(いまはどの国でもそのようなリーダーを待望する声が少なくないのだろうが)
ヒーローや救世主は要らない、ヒーローや救世主に頼らない、一人ひとりが主役の社会。
日本がこの30年できなかったこと。世界の国々ではそれと反対の方向へ動いていること。

多様な価値観を許さず、あるべき姿と反対のことをやり続けてきた安倍政権。
経済政策の失敗は数字に明らかだがその数字すら改ざんして隠蔽する。
プーチン大統領にすり寄ってあしらわれてしまった。
(プ氏から見ればあ氏は同類の匂いを嗅ぎつつも与しやすかっただろう)

これらに共通するのは、単一の価値観で覆い尽くす社会を理想とすること。自らの権力基盤に陶酔して当たり前の社会が見えなくなっていること。
おそらくこの犯罪(侵略)はロシア政府の敗北に終わり、プ政権も長くはもたない。

危険を顧みず意見する人々を意のままにならぬと社会から抹殺する(これは日本でも近年に行われていた)、どんな不祥事も開き直る、住民の意見を聴かず気まぐれと独断で意思決定を行い市民からノーを突きつけられる、…残念ながら身近なところにも聴く耳を持たない帝王がはびこっている。

ウクライナ人もロシア人も犠牲にしてはならない。何人たりとも平和でいられる権利がある、幸福を求める権利がある。
3月5日の投稿は現時点でも最善と考えている)。

ウクライナの人々の勇気が独裁者の夢から醒めない世界各国の人々に本質を見よと投げかけている。
資本主義でも共産主義でも独裁主義でもない別の道があることを(この三者に共通するのは住民の幸福を犠牲にしつつ国家の枠組みを悪用して非人道的かつ合法的に私腹を肥やす利権が跋扈すること)。手が届くところに未来があることに気付けと。

身近なもの、例えば食べることなどはできるだけ小さな場所で循環させる(食糧は地元や自国で調達)。文化や価値観もそう。そして人類の幸福につながる発明や道具は自由な交易で世界中の人がその恩恵にあずかれること。二酸化炭素排出抑制についても現在の枠組みや思考の外にまだまだ解決策があるかもしれない(例えばEVの普及がCO2削減につながるとの思い込みからは別の解決法は出てこないだろう)。

先日、NHKの番組配信を見るともなく見ていたら、先人の知恵で縄文時代に学ぶ趣向の番組があり、ゲストに知人が出ていた。でも彼女の発言でひとつ気になることがあった。SDGsにかけて有機野菜などを食べることを説いていた。でもそれをやると食糧の生産性や自給率が低下したり所得の低い人が満足な栄養を摂取できなくなりはしないかと疑問に思った。もちろん多国籍企業が喧伝する安全性が怪しい化学物質を使えというのは断じて違うけれど正解は有機栽培だけではないことも事実。

一見良いことのようでも単一的なものの見方から漏れていく大切なことがある。SDGsをひとことでいえば多様性(生態系)を尊重することをモノサシとしながら生物とその共有財産である地球の幸福とは何かを考えて実践することではないかと思える。

ロシア政府の蛮行はウクライナにとって過酷な試練だけれど、この惨事(失敗)から世界が学べることは大きい、学ばなければ。そしてこのことがきっかけとなって、自由で思いやりがあり多様性を尊重する社会をつくろうとする人々が世界に広がることを願っている。
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(写真は勝浦町横瀬立川のひまわり畑で撮影したものをイメージ化。ウクライナ国旗の青と空の色はCMYKで合わせている。でもこのひまわり畑はいまは存在しない)
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 23:32| Comment(0) | 生きる

2022年03月05日

シナリオとなるか


この記事を書いたのは5日前。公開するかどうか迷っていた。
自分なりに出口を見据えて各国がどう行動すれば良いかを考えて書いたもの。

やってはいけないことをやっているのはロシアだけれど、物事は一方向からのみで考えるとうまくいかないと思う。一方を持ち上げて一方を落とす。挙げ句の果てにロシアに由来するものはすべて白眼視していく。在日ロシア人への誹謗中傷など最低の行為だろう。街頭でプーチンを避難するヒロイックなデモ行進をいくら行ってもそれで何も解決しない(ただ世論の高まりを当事者に届けることは無意味ではない。この記事を書いたときはまだ原発攻撃などは起こっていなかった。ウクライナ軍の善戦を讃える論調ばかりの頃)

ぼくは考えた。バイデン政権にはこの問題を解決する力はなく、もちろん当地へ出兵するなど有り得ないしアメリカがどう動いても問題をこじらせる方向でしかない。一方で中国が仲介を行う可能性をつくるのもその後の力学を考えると避けたいこと(中国は五輪期間中のうえ世界覇権を目論むのでこの問題では慎重に行動するとも考える)。何のための戦争なのか疑問に思っているのは、ウクライナ、ロシア双方の国民だろう。これ以上は1人でも犠牲を出さないため出口戦略を構築して停戦を具体化させるプロセスに一日も早く取りかかりたい。

まずは当事国のウクライナがNATOに加盟しないことを前提に停戦合意に入る。ロシアも侵攻の大義名分がなくなったのでウクライナ全土から軍を引き上げる。さらには東部地域の国家承認も取り消す。クリミア半島についてもウクライナに返還するが、ウクライナは不凍港として黒海に面した港をロシアの物流拠点としての使用を認める。もちろん各国はロシアへの経済制裁を停止して侵攻前の状態に戻す。日本もサハリンやシベリアの共同開発を従来どおり進めていく。このことで世界経済の不安定要因(各国のインフレなど)を軽減させる。

以上のようなシナリオでは両国は納得できないことだろうか。両国の国民の安全と利益を第一に、そして両国の国益を損ねることなく、そして指導者の面子をつぶすことなく、さらには世界全体にも良い影響が波及していくことではないだろうか。

ウクライナの人々が求めているのはNATO加盟の是非というよりも、どこからも侵略の怖れのない平和な独立国家でありたいということ。西側諸国がウクライナに侵攻するシナリオはほぼない。あるとすればロシアだが、ウクライナが緩衝地帯としてNATOの盾になる限り、ウクライナへの容認できない軍事行動は不要となる。ウクライナはどちらにも与しない立場を大いに活用して経済的にはどちらとも密接に結びつき、人や物資が豊かに行き交う交易地域として位置づけることで平和と繁栄を手に入れることは困難だろうか?

影が薄かった国連だが、戦争の当事者である両国とも痛手を負ったことで国連主導で侵攻の代償(賠償金など)の調停を行う。もちろん世界各国(官民問わず)もウクライナの復興支援を行う。また、常任理事国を増やすとともに、一定の手続きで一定期間罷免できる条項も調えておくべきとも考える。

外交や軍事、国際法、国連の役割、世界情勢などにうとい素人の考えでどこかに誤りや錯誤があると思うけれど、何が人々(当事者も世界も)の幸福につながるかを原点に書いてみた。

タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 18:38| Comment(0) | 生きる

2022年03月04日

ロシアがウクライナの原発を攻撃!?


ロシアがウクライナのザポロジエ原発を攻撃しているという情報がもたらされた。チェルノブイリの10倍の規模でヨーロッパ最大という。

CNBCの動画「Ukraine nuclear plant under Russian attack」では火器が訓練施設に向けて飛び交う様子が報じられている。
https://www.youtube.com/watch?v=5P6eidg59ek

被害を受けた施設と反応炉は離れているとして、通常ならこの程度の流れ弾が反応炉に当たっても影響はないだろう。偏西風の影響を考えるとロシア本土も重大な影響を被るためあくまで脅しの意味だろう。

しかし現場では何が起こるかわからない。ロシア兵としてもこの任務はやりたくないはず。異様な心理状況に置かれた現場では何が起こるかわからない。攻撃目標を誤って設定したり、上官の指示の聞き取りミスや狂気にかられての戦闘もあり得る。

管理棟や近傍で電源の集中制御を行っているとすれば、電源盤が機能不全に陥って電源喪失ともなればどうなるか?(これが起きたのが福島第一原発であって津波はその事象のきっかけに過ぎない)

ウクライナはソ連崩壊後に非核三原則をうたって国内に核弾頭はないとされる。チェルノブイリを経験して原子力はもうたくさんという国民感情もあっただろう。

どさくさに紛れての核武装の発言は容認できない。日本にとっても非核三原則は基本原則として日本政府が依って立つ理念であることを確認しておきたい。

ロシアを止めるのはアメリカでもEUでも中国でもない。ロシア内部からの動きが必要だ。
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 14:24| Comment(0) | 生きる

2022年02月26日

ウクライナの大統領の声を聴こう


毎日新聞の記事で知った。
「ロシア軍のウクライナに対する攻撃が続く中、全面侵攻開始直前の24日未明にウクライナのゼレンスキー大統領がSNS「テレグラム」の公式チャンネルへ投稿した1本の動画がインターネット上などで注目されている。」


その動画はYouTubeで見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=p-zilnPtZ2M&t=51s

Zelenskiy大統領のTwitter
https://twitter.com/ZelenskyyUa

ゼレンスキー大統領の言葉に耳を傾けてみませんか?
ロシア国民に向けてのロシア語だが英語の字幕が付いている。
この動画は一国の大統領としての国民を守る誠意と決断があふれている。
例え言語はわからなくても言葉の抑揚に、表情に。

EUの会合にWeb会議で参加したゼレンスキー大統領の5分の演説についてワシントンポスト紙からの記事を以下に引用。

Volodymyr Zelensky dialed into the meeting via teleconference with a bracing appeal that left some of the world-weary politicians with watery eyes. In just five minutes, Zelensky − speaking from the battlefields of Kyiv − pleaded with European leaders for an honest assessment of his country’s ambition to join the EU and for genuine help in its fight with the Russian invaders. Food, ammunition, fuel, sanctions − Ukraine needed its European neighbors to step up with all of it.

“It was extremely, extremely emotional,” said a European official briefed on the call. “He was essentially saying: ‘Look, we are here dying for European ideals.”

Before disconnecting the video call, Zelensky told the gathering matter-of-factly that it might be the last time they saw him alive, according to a senior E.U. official who was present.

Just that quickly, the Ukrainian president’s personal appeal overwhelmed European leaders’ resistance to imposing measures that could drive the Russian economy into a state of near collapse. The result has been a rapid-fire series of developments boosting Ukraine’s long shot fight to hold off the Russian military and shattering long standing limits on European assertiveness in national security affairs.

(引用元@washingtonpost.com:https://www.washingtonpost.com/business/2022/02/27/russia-ukraine-sanctions-swift-central-bank/?pwapi_token=eyJ0eXAiOiJKV1QiLCJhbGciOiJIUzI1NiJ9.eyJzdWJpZCI6IjE1MzMxODIiLCJyZWFzb24iOiJnaWZ0IiwibmJmIjoxNjQ2MDAwMTg2LCJpc3MiOiJzdWJzY3JpcHRpb25zIiwiZXhwIjoxNjQ3MjA5Nzg2LCJpYXQiOjE2NDYwMDAxODYsImp0aSI6ImY3OWIxZDg5LTRkYmEtNGVkZC04ZjdjLTEwNmRjMmViYmEzNyIsInVybCI6Imh0dHBzOi8vd3d3Lndhc2hpbmd0b25wb3N0LmNvbS9idXNpbmVzcy8yMDIyLzAyLzI3L3J1c3NpYS11a3JhaW5lLXNhbmN0aW9ucy1zd2lmdC1jZW50cmFsLWJhbmsvIn0.yorP4Gz6NAn1hoiIDIdqJqjUahz6nW8qRCI8eCyTeaM

為政者は心から語り掛けることで世界情勢も動いていく。
ウクライナの人々はもちろん、独裁者に翻弄されて闘いたくないロシアの兵士も経済政策にあえぐロシアの人々も救いたい。

海を隔てた隣国では、ウクライナ侵攻を台湾支配のロールモデルと見ているかもしれないが、それとて自国の核配備をうたう誤ったメッセージにすり替えてはならない。
狂気の独裁者を止められるのは良識あるその国の民。
Stand With Ukraine!

Zelenskiy大統領の声が掲載された公式Instagram
https://www.instagram.com/zelenskiy_official/channel/?hl=en




posted by 平井 吉信 at 15:39| Comment(0) | 生きる

2022年02月02日

2022年2月2日 いつのまにか24


次にこれだけ2が並ぶのは2222年2月2日で、もしかしたらぼくは生きていないかもしれない。
本日24歳の誕生日を迎えたのはぼくではなく、ぼくが始めた事業。
つまり創業24年目。

2022年2月2日 → 24年ということなるが、数学に強い人なら数式の変形ができる。
(2222-200)年2月2日 → (22+2)年
これをさらに変形すると
(2222-222+22)年2月2日 → (22+2)年

創業前にも得がたい経験があるがそれはまだ先に記すとして
創業2年目で書いた報告書が国会国立図書館に蔵書されるようになり
さまざまな役割や課題をいただきながらなんとか今日まで来ている。

それに対してお世話になった方々に何ができたかを自問自答すると
できていない。ほんとうにそうだ。謙遜ではなくそう思う。

しかし完全でないヒト同士が支え合うから良いとも言えるので
「ありがとうございます」。

すべての方々の顔は思い出せないけれど、静かな乾杯を。
(竹鶴25年はないので17年で)
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追記
来春の連続テレビ小説が牧野富太郎を描くと発表があった。
このブログでもよく採り上げているので「佐川町」「牧野富太郎」のタグからどうぞ。


posted by 平井 吉信 at 22:58| Comment(0) | 生きる

2021年12月31日

神棚と仏壇を浄める(大晦日)


神棚にご利益を願ったりはしない。
ただ八百万の神々に感謝を申し上げるだけ。

仏壇にも願い事はしない。ただ先祖や故人となった親族の安らかならんことを祈るだけ。
その過程で祝詞を奏上し、読経する。
きょうは日頃疎遠となっている神々や祖霊の寄である神棚と仏壇を清掃する。

まずは神棚から。
この神棚は三社で屋久杉でつくられている。
眺めているだけで落ち着くオブジェと言える。
茅葺一社も捨てがたいが
中央に天照大御神、右に産土神、左に信仰している神を祀るので三社でいい。
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扉を開けて御札を格納する。
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階段は金で装飾されている。
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屋根の素材感
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清掃が終わったところ
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続いて仏壇。
まずは位牌を別に於いて上から固く絞った水拭きで拭いていく。
表面はポリエステル塗装なので水拭きはなんともない。

仏壇には黒檀と紫檀が主力でうちは紫檀を選んだ。
材質はパーロッサという南洋材。
それが前方を覆うように加工されている(前練りという)。
さらに高級になれば二方練り、三方練り、四方練りと進む。
それだけ稀少材の比重が増すので重量も重くなる。
すべて稀少材のパーロッサということはありえない。
重いし加工もしずらい。もしあるとしても目の玉が飛び出るような価格になってしまう。
おそらくは堅いけれども経年変化に弱くなってしまうかもしれない。
そこで心材に貼り付ける工法(練るという)を採用する。

前練りより落とすと、木の皮を貼った杢貼り、さらに落とすとプリント(印刷)となる。
前練り以上の仏壇の一大産地は徳島。静岡は廉価品と棲み分けている。
近年では唐木を使わない家具調が増えている。
祈りの対象はかたちにとらわれなくていいわけだ。

選ぶ際は清掃がしやすくものにした。この部分に華麗な彫刻を施したものは清掃が面倒になる
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宮殿(くうでん)の部分。彫刻が施されているのが一般的
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欄干はダボで取り外しができるのが高級品。廉価なものは接着してある。
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昔の人は仏壇の隠し扉に預金通帳などをしまっていた。
泥棒も仏壇は開けないというわけだ。
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香炉の部分がもっとも高貴な場所でここに信仰している仏像を置く。
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真言宗なら大日如来を置くことが多い。印を結んだ結跏趺坐ですぐにわかる。
観音菩薩の立像などを置く場合もある。
うちは掛け軸(十三仏)で代用している。
左は不動明王、右は弘法大師。
その不道明王の前に吊ってあるのは浅草の浅草寺で求めた観音様の掛け軸。
(読経するときに観音経も唱えるので)

コロナ下でつつがなく2021年が終わる。
良いことばかりではないが悪いことばかりでもない。
生きていれば生きている。それでいい。
posted by 平井 吉信 at 22:47| Comment(0) | 生きる

2021年12月30日

土の匂いのする道を樫の広場まで歩く子ども 


ぼくが生まれた家の横は土の道で
線路の枕木を立てて囲いとした畑があった。

畑ではトマトやなすびを植えていたが
背の高いヒマワリやタチアオイもあった。
ホウセンカは実が弾けるのがおもしろい。

土の道をしばらく行けば木登りをしたくなる大きな樫があり
その根元に小さな祠(神社)があった。
その神社の前の広場で野球や鬼ごっこ、缶蹴り、温泉、ろくむしなどをした。
野球はゴムボールでするのだが小学生であってもカーブ、ドロップ、シュート、スライダー、フォーク、ナックルのような球を投げていた。
(どの遊びも年長、年少を混ぜているが、年少者には特別ルールがある)
土で団子をつくって掌で擦って虹色の光沢が出ると「金」が出た、などと騒いだ。
いまではこの広場はなくなって、代わりに巨大なたぬきが鎮座している。
駅も線路もなくなってしまった。

線路沿いにも小径があってそこの桜並木は毛虫が多く、アブラゼミやシマヘビもいた。
虫取りで草むらに入るとヤブ蚊に刺されてかゆいことかゆいこと。
ぼりぼり掻いて血が出ればヨモギの葉を揉んで付けた。
イタドリは至るところに生えていておやつ代わりに食べることがあった。
それをおいしいとは思わなかったが、サルビアの蜜は甘かった。

広場を過ぎると駅があった。
駅前は舗装していなくて
そこから四方八方へ道が伸びていた。
(市街地のすべての道がここに集まる放射状の頂点にあった)

夏になれば京阪神からの海水浴客で賑わった横須松原。
帰りは螢の光に見送られながら竹ちくわを買って帰るのだろう。
ぼくは遠浅の海で泳いだあとの海の家での飴湯が思い出に残っている。

駅は始発駅で、そこから長い編成の列車が出発した。
車両基地であったので列車の往来が多く踏切は人力で上げ下げしていた。
バスに乗れば運転手とは別に車掌がいて切符を切ってくれた。

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 ☆、。 ・*'★ .。 ・':....*.:'☆        .。・:'*・':'・★

年末でガスコンロや浴室の清掃、菩提寺へのお礼や近所の和菓子店へお願いしていた餅を取りに行ったり、清掃の途中でワイングラスを落として割ってしまい、急きょ買いに行ったりと一日かけてさまざまな家の用事をしていた(近所のCANDOで買ったがこれが100円?という品質感だった)。

夕食のあと、Amazonプライムで前日見た小津安二郎監督、原節子の「東京物語」に続いて、
きょうは「麦秋」を見た。

冒頭で北鎌倉の駅と背後の山、落ち着いた風情の民家が映し出された。さらに生け垣の土の小径を歩く場面で釘付けとなった。
(鎌倉は首都圏に住む人にとって、まちと自然が融合した憧れの土地と聞いている。鎌倉に住んでいる知人が数人いるが、趣味が良いだけでなく自分の役割を果たしつつ凛と背筋を伸ばして生きている人たち)。

この映画の撮影は昭和20年代だそうだが、すでに北鎌倉駅には電車が走っている。
ちょっと驚いた。東京(丸の内界隈)までは2時間ぐらいかかったのだろうか。
(もしや徳島県外の人がこの記事を読まれていたら、いまも徳島県には電車が走っていない。走っているのは「汽車」といったら驚かれるだろうか。その代わり、線路も道路も走れる列車兼バスは走っているよ。これもほんとうだけど)

小津安二郎の映画はおだやかに時間が過ぎていく。
ぼくは映画はほとんど見ないので映画はわからない。
でも画面を見ていると写真の引き算だなと気付いた。
構図は木村伊兵衛のような美学を感じるし
見せ方が「見せる」という意識(植田正治の砂丘の人物写真のような)を感じる。

スタジオジブリのとなりのトトロは名作だと思うが、
メイが迷子になる事件だけはないほうがいいと思っていた。
麦秋では事件は起こらず日常が淡々と流れていくが、
根っこが固定されて葉がそよぐような演技と演出が続いていく。
ある意味ではソナタ形式のなかで演奏家がカンタービレするような。
嫌な感じはしない。

麦秋では線路と生け垣の小径が出てくる。
線路沿いの土の道はぼくが幼い頃、遊んだ場所。
路上では金だらいに水をはって小さな子どもが水浴びしていた。
(道路は車が通れる車幅はないので人と自転車しか通らない)
子どもばかりではなく、日傘をさして着物を着た女性も通っていた。
家へ帰ると真っ先に足を洗うように言われたことを思い出した。
そこからさまざまな植物に接した原体験がいまも続いているような気がする。

映画館は歩いて数分のところに2軒、八百屋は5〜6軒、
洋食堂、うどん店、駄菓子店、市場、電気店、酒屋、米屋、すし屋、ラーメン店、餃子店、喫茶店、お好み焼き店は徒歩1分以内にあり、出前はいつでも頼めた。ラーメンは白い豚骨系、餃子は生姜や香辛料の聞いたピリ辛系、駄菓子店ではラムネや黒棒をよく買った。喫茶店はほうれんそうが添えられたうどんがおいしい。金長まんじゅうのハレルヤの本店もあった。学校からの帰りはナショナルの電気店の店頭でクーガ115を眺めるのが日課。歴代の日本のラジオのなかで貴公子のように美しい。

ハレルヤ本店の斜め前にあった洋食堂は
祖父が接待で使うことがあったが、たまに家族で出かけることがあった。
ぼくはカレーライスを注文するのだが、卵とグリーンピースが入っていた記憶がある。
(豪華だろう)
このカレーの風味を再現したくて料理をするようになった。
そのうちおもしろくなって、
小学高高学年になる頃には餃子や炒飯、焼きリンゴやドーナツ、ホットケーキ、みそ汁などは日常的につくっていた。

だからいまもつくるのが好きなのだ。
2台のガスコンロ、用途別に分けている4本の包丁、数台の炊飯器、トースター、電子レンジ、電気湯沸かし器、マルチグリル、スロークッカー、スチームコンベクション、3台のタイマー、2台の精米機、温度計を駆使してつくる(同時並行のマルチタスクで走り回りながら調理を行う。ただし電気調理器具は契約電力の関係か同時に3台は使えない)。主力はリバーライト製26センチの鉄のフライパン。小さい頃から使い慣れているので火加減を自在に調整できるし手入れも洗ってガスで乾かして油を塗っておくだけのお手軽。晦日のきょうは包丁をすべて研ぎ、数の子を漬け込み、鰹節を削り出しておいた。

いつのまにか昭和から平成、令和へと時代が変わっていく。



posted by 平井 吉信 at 23:47| Comment(0) | 生きる

2021年12月11日

車内のポンタがしょげている


布製のティシューケースで車内でいつもいる。
いつからかここに棲み着いてどれだけの年月が経ったか覚えていない。
暑い炎天下も寒い路上でも助手席裏で吊されてがんばっている。
人間の鼻がむずむずすると、気を聞かせて「はい」とお腹から取り出すのだ。
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そのポンタがしょげているように見えた。
持ち主が車を手放すことを知ってしまったから。
愛着のある車内を離れるのがつらいのだろう。
(ポンタは新しい車に引っ越すことになるのだが)

ものにはなにか目に見えない気配(精神というか魂というか)が宿るような気がする。
ぼくは物持ちが良くて小学校の頃から使っている道具なども未だにある。
(ときめかないものは捨てる、という教祖さまもいるけど、それって?)
そのせいか故障やトラブルはほとんどない。

たまに見るテレビはソニーのプロフィールという15インチのトリニトロン型ブラウン管。
(予備に19インチもある。VHSデッキも当時の高級品が完動状態)
ブラウン管は応答速度が速く経年変化はあっても液晶にはないおだやかな画質が特徴だ。

ペンタックスSPF(スクリューマウントなのに開放測光だよ)、ライツミノルタCL(ライツとミノルタの提携)、ミノルタX-700(篠山紀信や三好和義も使っていたミノルタ最後のマニュアル機)といった往年のフィルム用のカメラはいまも健在で博物館で飾られてもおかしくないほどメカも外観も程度は良い(最初の2台は親父のお下がり。いずれも売る気はないけれど)。

大切にするとは隔離して保管するのではなく、自然体で使いながらも感謝の気持ちで接していくことと思っている。すると、ものはヒトに応えてくれるような気がする。

車もそうだ。最初に乗ったワーゲンゴルフも床に穴が空くまで使っていた(日本の湿気に合わなかったのだろう)。

それからだいたい10年20万km以上でやむなく乗り換えてきた(遠出や出張が多いので出先でのトラブルを避ける意味もある)。今回は11年1か月で21.4万kmである。

ポンタも淋しいが、乗り手も淋しい。
引き渡しの日が近づくと降りるのが名残惜しく
しばし車の後ろにたたずんでエンブレムに手を当ててみる。

色も気に入っていた。ほとんど街では見かけない自然色(セージグリーンメタリック)。
(ぼくは白黒銀赤の車には乗らない)
どこに行っても迷うことなく見つけられるのは乗っている人がいないから。
(ここ数年は地球色や自然色の車がやや増えたように思う)。

ガソリン車(レギュラー仕様)で4AT、AWDと聞くと燃費は良くなさそうに見えるが
郊外で19km/リットルを走ったこともある。
まあ、遠出をすると16km/リットルは堅い。
ディーラーが信用してくれないのでExcelでの記録を見せたことがある。

エコ運転のコツは遅く走らないこと、飛ばさないこと、ただし先を読むこと、(無意識に)微妙なアクセルコントロールをすること、それだけ。
真冬の短距離の街乗りでも10km/リットルを切ることはない。
4速ATは長年の枯れた(安定した)技術で構造も簡単、乗り味も自然で長期間乗るのは悪くないと思っている。
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運転席に座ると4隅が見渡せて車幅も掴みやすい。ウインドーの傾斜は立っていて圧迫感がない。アイサイトがなくても安全運転に貢献する見切りの良さや走る曲がる止まるの基本性能の高さがあった。運転席から見えるボンネットからは地球の張り詰めた大気や静かな海洋を思わせる落ち着いた色彩が目に飛び込んで来て心を落ち着けてくれた。
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車内も毎日清掃していたので新車のようだ
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車を降りるとき、車のエンブレムに手を当てて一日の働きをねぎらう。
(失敗しないという天才女性外科医が手術の終わりに患者の肩に手を当てるあの人気のテレビドラマも似たようなことをやっているけど、ドラマよりずっと以前からこちらはやっている)。

別れの朝、家人も次々とやってきて車に触れている。
年老いた母も酒をかけてねぎらった。
この11年も無事故非接触(金免許を永年続けている)だった。

半導体不足でSUVも足りないのか、この状況で買い取りたい中古車業者が何社もあった。
査定と買い取りが決まった後、
ぼくは引き取られる前日にフロントのヘッドランプ(HID)をそっと新調したのでライトはまばゆいばかりの輝きを取り戻した。
エンジンオイルも交換したばかり、タイヤも1年を経過していない。
新たな所有者に可愛がられて第二の途を乗り手ともども無事で過ごせるよう。

動いている自分の車の後ろ姿を初めて見送った。
(感謝の気持ちがあふれて心の中で手を振る)。
おだやかな運転はおだやかな人生につながり幸福の扉を開ける。
そう思って生きている。
posted by 平井 吉信 at 13:12| Comment(0) | 生きる

2021年11月30日

ゆでガエル このままでは日本はなくなる なぜ円安? なぜ食糧自給しない?


絶望的な日々である。高齢の農家は次々とこの世を去るか耕作ができなくなってしまう。
山間部はもちろんだが、都市近郊ですら耕作放棄地(もしくはその予備軍)がじわりと広がる。
若手が運営する農業法人に耕作依頼が殺到するが、彼らとて度重なる設備投資のため金融債務(返済と金利負担)にあえいでいる。

先日も農業関係の第三セクターの社長と突っ込んだ話をしていて
農業の規模拡大をめざす施策は行き詰まりとなっていることを痛感している、で一致。
環境保全型農業など多様な視点で小規模生産者の支援(所得補償)が不可欠だ。
これは商工サービス業にも言える。
そのうちまちなかからも自転車がパンクして修理する店がなくなる(もうないかもしれない)、錆びた包丁を研いでくれる包丁店もなくなる、壊れたミシンを修理してくれる店もなくなる。

小規模零細事業者を大切にしていくべきなのにインボイス制度の導入などありえない愚策。
(何度も言っているけれど長らく続いた自公政権がこの国を沈没させようとしているが、その影で潤う政商たちや利権の恩恵に被る定番企業たちが暗躍している)。

低金利政策を続けているのに生活関連商品の物価が上がっている。
可処分所得は減少している。生産性は上がらない。
円は安いが輸出は伸びず貿易収支は改善せず、国内の物価を押し上げているだけ。
原油高が追い打ちをかける。だから100円ショップの製品はほとんど日本製。

世界のあちこちでまっとうでないクーデターが起こっているが
もっと穏当にもっと強く声を上げて行動しなければ未来はやって来ない。
日本でもクーデターが起こっても不思議ではないが、
政治への参加(投票)はその機会だから棄権せずに!

コロナは引き金を引いただけ。構造的な問題を改善しないことがコロナ下をコロナ禍に変えてしまった(何度も書いているがコロナについては科学的な根拠に基づく的確な対策が費用をかけずにできる。コロナはいまの時代の本質的な問題ではないのだ)。

とにかく内需を増やすこと。そのためにできることはたくさんある。消費税の撤廃や格差を縮小させる税制改革(インボイスは逆行だ)。法人税は上げても企業はつぶれないし名だたる経営者はむしろ歓迎する(それこそ企業の社会貢献、社会的使命だろう)。

金利を上げるのも選択肢。金利上昇と円高と内需拡大のための施策(補助金ではない)と弱者を救済する簡単かつ公正な施策(ばらまきではない。軽減税率やクーポンは誰のため?)。

国内でつくっていないことがサプライチェーンの途絶で身に染みて体感できたはず。
半導体や電池だけじゃなくて今度は食糧、食品。
日本を屈服させるのに核弾頭は不要。食糧止めればいいだけ、と思われているだろう。
農家を支援しなければ明日は口に入るものがなくなるかもしれないのに。

コロナで仕事がなく溢れた人たちを食糧の自給率向上のための仕事に就いていただく施策もあり得る。やってはいけないことをやり、やらなくてはならないことに知らんぷり。
(れいわ新選組は危機感を背負って自らを犠牲にしてもなんとかしたいと使命感を持って立ち向かっているように見える)

経済政策は? 少子高齢化対策は? 教育問題は?
十人十色の意見があるだろう。
でも個別の政策は何が正しいかを議論するのではなく、
国民の幸福とはなにか? そのために何を行うべきかを組みたてていけば採るべき政策は自ずと収斂されていくはず。

いまはその力学がまったく働かない。政治に無関心な人が増えれば増えるほど我が身に降りかかってくるがそのことすら気付かない。
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楽観的現実的に考える人間でも日本という国が地図から消える日も遠くないように思えてしまう。
タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 23:01| Comment(0) | 生きる

2021年11月20日

地域課題の解決必要か?


たまたまラジオを点けたら立憲民主党代表選挙の立候補者の演説を移動中に聴いた。
前回に立憲民主党は「冷たい正義」などと書いたが、
どの候補者も自公と比べたら身近に感じる。

4人のなかでは逢坂氏が良いと思った。
若手2人の男性は野心はあっても調整能力の不足や見落としがあるように感じられる。
女性候補者はいいと思う。ただし辻元清美氏が落選したのは党にとっても、日本の政治にとっても痛恨の極みだろう。多様性(及びその尊重)こそ政治の活性化の原動力だから。

先般亡くなられた瀬戸内寂聴さんが辻本さんを自身の寺にかくまって守ろうとされたという。
秘書給与詐欺容疑など紆余曲折を経て政界に返り咲いた経緯は寂聴さんの人生とも重なるものがある。大阪では維新の勢力が強いが、不順な動機や矛盾で綴られた政策の化けの皮は容易に剥がれないのだろう。
(元大阪府職員で今回の選挙で国会議員になられた大石あきこさんのブログTwitterでかの政党の実態が伺える。リンク先を見てみて。政治の話題なのにおもしろいよ)
まっすぐな志ではれいわ。いのちをかけて闘っている。その姿勢も政策も共感できる。

寂聴さんがお亡くなりになられた11月19日、
その日は寂聴さんが弟子と公言されている小林陽子さんと仕事で面談していた。
小林さんから高知県在住者で話を聴いて欲しいご夫婦がいる、とのお電話をいただいて
先方様の都合が付く日とぼくが小林さんの地元へ出張する日が同じだったため面会が実現した。
(文字で書くと何でもないようだが、確率的には1/60×1/16ぐらいで1/1000ぐらいの偶然だ)
寂聴さんはその日にお亡くなりになっておられたのだ。

ご逝去が判明して地元徳島新聞では11月12日に瀬戸内寂聴追悼の大特集を組んで
そのなかで「弟子」の小林陽子さんのコメントも掲載されている。
(ぼくもそれまでに小林さんから寂聴さんにまつわる私的なお話を聴かせていただいていた)

2つ道があれば危険は道を選ぶ―。
岡本太郎の言葉でぼくも好きな言葉。
不完全ながらも実践し続けてレールの上を歩まず今日まで来ている。
寂聴さんも小林陽子さんもそれを実践された方々だ。

何度も書いているようにぼくは特定の政治勢力との関係は持っていないし持つつもりもない。
政党政治ではなく優れた人材が組織の長となる台湾方式を理想としている。
もし感染症の専門家でマネジメント能力の高い人材がいれば、
その人に厚労大臣を任せればいい。
そうしなければ政治と科学的知見は合致しない。そこには与党も野党もない(いくつかの政党の横暴は目に余る)。

立憲民主党は先の選挙の反省に立って党を運営していかねばならない。
(政治に距離を置いているのに党派を問わず知事、市町村長、国会、県議会、市町村議会の議員から携帯にお電話をいただくことがある。お尋ねいただいたことへは誠実に回答している)
その腹づもりでラジオからの演説を聴いてみると逢坂氏がいいと思った。

実務を知っている人がていねいに行政機構と議会の歪んだ関係性を是正することが
どんな政策を行うかより大切と思う。その能力がおありになるのが逢坂氏のように思えたのだ。
ただし話のなかで納得できない箇所がひとつある(それも重要なところで)。

それは地域の課題を解決していく、と強調されていたところだ。
地域の課題を解決する、という視点からは
自公がやっている地方創生と同じ轍を踏むことになりかねない。

補助金の使途として例示された内容に沿って各自治体が金太郎飴のような政策を乱発するだけ。
例えば、過疎の解決に移住者のための住居を整備する、特産品の開発を行うなど。
それぞれが悪いものではないが、「地域の課題を解決するには」のテーマから入ると処方箋が限られる。というか、その枠組みの外が見えてこない。

確かに移住者を増やすには住宅問題はボトルネックかもしれないが
それがあるからといって住んでみたいとは思わないだろう。
魅力をつくる、強みを伸ばす視点が不可欠だが、課題解決の視点からは出てこない。

役場や学校などの職員が上を見ることなく力を発揮できるしくみを調えられれば
政治家の思いつきの発想よりずっと地域に密着した地に足の着いた行動が見えてくるような気がする。
ただし自治体職員も発想は狭い範囲にとどまる可能性がある。
財政からの評価(今頃は来期の通常予算編成に向けて財政部署と概算要求の協議を行っている最中だろう)や
首長の実績づくりへの貢献や議会への説明という視点が求められるためKPI重視に偏重しがち。
さらに中長期的な立ち位置で継続的に政策を推し進めるのを阻むのが職員の異動。

異動は職員のキャリア形成や癒着を防ぐ意義はあるのだが、担当者が変わると沈滞することの繰り返しで民間も嫌気が指す場面もなくはない。審議会などに諮問するのではなく、審議会そのものに実行力を持たせる(予算と組織を付ける)のも一案だろう。

あれこれと思うことはあるが、立憲民主党がよくならなければ与党にとっても野党勢力にとっても良くない。その意味で注目している。



タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 12:23| Comment(0) | 生きる

2021年11月18日

反芻<<<ネコ>>>現実


思うことはたくさんある。
佳きこともそうでないことも反芻してみるけれど
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いまやるべきことはなんだろうと我に返る
視線を落として考える
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晩秋の陽は釣瓶落とし
ときの積み重ねが日となり月となり年となって
かつて聴いていた音楽はしばしときを巻き戻すけれど
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どこまでも果てを知らない空の谷間にこだまする…

落日のテーマ/五輪真弓


posted by 平井 吉信 at 22:43| Comment(0) | 生きる

2021年11月14日

Googleの人知れず進化に驚く

こないだまでPHSを使っていました(2021年1月停波)。
「なに、ピッチじゃん」なんて言われると
「ピーエイチエス、もしくはパーソナルハンディフォンシステム」と呼んでください、とただしていた。
(スマホという言い方も好きでなくスマートフォンと呼んでいる)

なぜ、変えなかったのかというと、変える必要がないことは変えないようにしているから。
(人生の限られた時間を生きるとはそういうことでしょ)
音声(通話)重視だから音声品質が劣って通話がしにくいスマートフォンに変更するのは愚策。

そうはいってもキャリアの停波でパーソナルハンディフォンシステムの後継として
やむなく導入したのは4G対応の携帯電話。
販売店に行ったとき「ガラケイ」ですか?といわれて、
「違います。従来型携帯電話です」と言い換えたのが数ヶ月前のこと。
助かったのは電話番号が変わらなかったこと。
メールアドレスと電話番号は一生変えるつもりはない。連絡がつかなくなる人が1人でも出て欲しくないから(助からなかったのは1000人を越える登録電話番号)。

固定電話なみのPHSの音の良さからすると
従来型携帯電話では音声は悪化すると思っていたらそうでもなかった。
しかしこれにも長い話がある。

当初は有線接続のイヤフォンマイクで電話を行っていた。
PHSと比べればやはり音声は悪くしかも電話機が誤作動する。
例えば操作しないのに勝手に画面が変わっていく。リモートで乗っ取られているような感じだが、Webの閲覧はなくメールの受信は自分以外にないので感染ではない。購入後1年未満であったので販売店に相談して修理(基板交換)を行ってもらった。しかしそれでも症状は治まらない。本体OSの更新でも変化なし。

ところが思い切ってBluetooth接続の中国製(2200円、ステレオヘッドセット)に変えてみると不安定な挙動は皆無となった。
おそらくは給電と信号入出力を兼ねるUSB Type-C端子へマイクから微弱な電流のフィードバックでAndroidの挙動が不安定になっていたのだろう。Bluetoothも安定してヘッドセットの電源を入れるとただちに接続する。音質はPHSの有線接続よりクリアで雑音皆無、CDを聴いているようだ。有線接続ではぐるぐる束ねてポケットに入れるため断線が多く買い換えが頻繁であったがそのトラブルもなくなった。首にかけてマグネットでくっつけておく。電話がかかると片耳もしくは両耳に入れて着信ボタンを押すだけ。12時間の連続通話が可能である。音声はCDなみ。電話をかけた相手方が音の聞こえが良くなったと口々に言ってくれる。不見転で買ったがこれは良い製品だった。


PHSの対応エリアは都市周辺に限られていたため、山間部にも行くことが多いため電話がかかってきそうな人にはこれから圏外へ入るので明朝まで入感しません、と予め電話をかけていたが、エリアも山間部に広がり便利になった。

従電には電話番号を便りにSMSを送ってこられるが、こちらは返信できないので電話を掛ける。
するとメールで構わないと言われるが、入力ができないのでと答える。
(おはよう、と打つのに1分はかからないが、30秒はかかるので嫌になる。自分で靴の紐が結べない、ネクタイが結べないという不器用人間ゆえに、Bluetooth接続の小型キーボードが必要となりそう。買わないけど。音声入力は悪くないが固有名詞はお手上げだ)

従電の導入とともにスマートフォンも導入したが、これはWebの閲覧のため(レスポンシブル)。
相変わらず使いこなせていない。
SIMフリー(SMS対応)で通話機能は付いていないが電話番号は割り振られている。本人確認等のSMSを受信する際に受信できない。これは未だに解決していないのでSMS(受信のみ)は従電の番号に設定している。

次に困ったのはQRコードの読み取り機能が付属していないこと。
(機種名はGalaxy A20という機種。隅から隅まで探したがQRコードリーダーの機能は見つからなかった)
近年はURLの表示の代わりにQRコードを読み取る場面があるけれど、関連語句から類推して探していた。Galaxy A20はレンズを内蔵しているのでハードウェアとしては対応できているのでソフトウェアの問題と気付いた。

そこで検索してAndroidで動くアプリケーションを探して慎重に導入したところ、QRコードが読めるようになった(メーカーは最初から導入しておいてくれたらと思うが、解決まで1年以上を要した)。

驚愕の場面はここから始まる。ぼくは音楽を聴いていた。
ふと検索したいことを思い浮かんだので(フリップ入力ができないので)音声入力を立ち上げたら「曲を検索」という押しボタンがあることに気付いた。さすがに小さな音量で音楽を聴いているのでわからないだろうとボタンを押してみた。

すると2〜3秒後、表示された文字を見て驚いた。
ベートーヴェンの田園と出た。第2楽章のピアニシモのわずか数小節である。
さらにこれはドッキリカメラではないかと思えるできごとが起こった。
演奏者がオトマール・スイトナー指揮のシュターツカペレ・ドレスデンとある。
当たっている、当たっている、当たっている、当たっている、当たっている…。

こんなことがあり得るのか。
田園の音源など数百種類はある。その数小節を聴いて指揮者とオーケストラを充てられる評論家は皆無だろう。

第3楽章でも試みたら、今度は指揮者がバレンボイムと出た。さらに試みたらカラヤンになった。
第3楽章は差異が出にくいのかもしれない。スイトナーの田園のスケルツォはバレンボイムやカラヤンと似ているのかもしれない。

ピーター・バラカンの「ウィークエンドサンシャイン」はよく聴いているが、良いなと思った楽曲をGoogle先生に分析させると100発100中で曲名、収録アルバム名まで表示する。バラカンさんはライブ音源などもかけるが、先生は間違うことなくライブのアルバム名まで表示する(スタジオ録音の音源と異なるのをわかっている)。

Gmailを使っている人は個人情報(個人の趣味嗜好などを分析して)をもとに広告を表示しているというが、個人情報がどこまで分析されてDB化されてAIの機械学習でパターン認識から個人(音源)が同定されるかわからない。Google先生に支配される未来に一抹の不安を覚えた。機械学習のアルゴリズムやGoogleの各種のしくみの活用、データ連携のためpython言語でも勉強してAPIのしくみができるようにしておくか。



posted by 平井 吉信 at 11:53| Comment(0) | 生きる

2021年10月27日

長い話だが聞いて欲しい

ヒマラヤの登山隊で死亡事故に至る割合が高かったのは、ワンマン的なリーダーがいた場合であるという研究結果が広く知られている。独善的だったので判断を誤ったという問題ではない。集団はツアーガイドや登山隊の隊長のような権威に従う傾向があるということ(下位の人はリーダーにものが言えない)。

イギリスだったか車輪が出たかどうかわからず確認するために旋回していた航空機が燃料が尽きて墜落する事故が起こった。同乗していた技術者は燃料が切れようとしていることを人命が危機にさらされようとも機長に言えなかったという。このことは人は組織のヒエラルキーを重視するということを意味する。ヒトには自ずと(ヒトに限らず霊長類はすべてそう)階層という力学に従うDNAがある。

ここ十年あまりの自公政権では、にらみをきかせるお山の大将に逆らえず、事実を曲げさせられて自殺したり、虚偽の答弁をしたり、物言うキャスターが降板させたりたりと組織論ではやってはいけないことばかり。

会議が無意味といわれるようになったのは、組織の上の者が発言すると、雰囲気が決まってしまって別の結論が出ないと言うことがあるから。別の研究では創意工夫や新たな提案を出す人材は昇進できないというのもある。

火事場であれば、誰かが指揮して混乱を避けながら一糸乱れぬ火消しができればそれが良い結果につながることもあるのでどんな場面でもワンマンボスを否定しているのではない。ところが今日の世界のようにVUCAの時代(変わりやすく、不確実性が高く、しかも複雑で曖昧)にはこれでは正解にたどり着けなくなる。

そこでヒエラルキーに関係なく多様性のある意見を集めてみると大きな利点がある。
それはボスの一存や凝り固まった価値観の集団が気付かない問題(盲点)に気付くということ。
そこから新たな取り組みが始まることもあれば解決のための着眼点が得られることもある。

過去の投稿でダンゴムシ首相という架空のキャラクターを想定して、日本を良くするための処方箋を書いてみた。http://soratoumi2.sblo.jp/article/188791744.html

21世紀になって日本の政治は、1人のボス(首相)が思いつきで方針を決めていた。例えば、数百億円をかけて布マスクをばらまいたが感染防止効果がないので使う人はいない。要求を呑まないという理由でわずかばかりの科学技術予算はとことん削る。科学的根拠のない政策を連発するから科学は不要なのだろう。

1990年頃を振り返ってみると、企業の経済活動では時価総額で世界のベスト100企業の1/3は日本企業であり、ベスト10にも7社程度入っていた。それがいまではベスト100に入るのは1社のみ。それも30位前後。人々の所得はこの30年間で減少して中間層がなくなったことで百貨店の売り上げが減少した。

コロナ流行の前に東南アジアからの観光客が増加したのは日本に憧れてではなく、背伸びをせずに行ける手頃な金額の旅行先だから。いまや日本はアジアの中流国なのだ。

物価は上昇している。ティッシュはこの2年で2倍近くに値上がり。さまざまな原材料も高騰している。あげくの果てに新車を注文すれば5年待ちという事態で5年前に購入した車が買ったときより高く売れることもあるという。所得は下がる、物価は上がる、欲しいものは手に入らない、将来は不安、未来に希望が持てない。誰がこんな社会にした!? 失われた30年の舵取りをしていた政党はどこか? 多様性のある視点に気付かず、特定の利害関係者のみが甘い汁を吸う構造はなぜ変えられないのか? 科学技術に無関心で教育に力を入れない政権。日本の強みはどうやってつくるの? 政治に無関心でいれば関心のある人のみが潤う社会の構図から抜け出せない。

株価は3万円近いが、アジアの中流国となった日本の経済の実態を反映しておらず、低金利で行く先のない資金がつくりだした余剰資金バブルに過ぎない。実態がない株価はそう遠くない将来に弾けて1万円を切るかもしれない。株価が高いことが悪いのではないが、株価のみが上がる政策が間違っている。経済活動の実態を映し出す株式市場に戻すことが正しい経済政策とも言える。低金利政策の弊害が経済活動を歪めている。

いまやるべきことは内需を刺激して国内で消費を活発にすることに尽きる。この果実は企業の規模を問わず等しく誰もが享受できることになる。その第一歩が消費税の減税(撤廃)だ。これによって実質的に可処分所得が増えた分が消費に回っていく。それが賃金の上昇を導く。財政健全論の反論もあろうが、消費税を上げるたびに税収が減収している実態を見れば、消費税撤廃が財政悪化につながるとは思えない。

中間所得層が消滅したことが経済の実態を弱らせているうえ、生活苦の世帯が増加している。将来への不安を払拭するためには課税体系の見直しも不可欠だ。所得税だけでなくさまざまな名目で徴収されている金額と所得を比べる必要がある。その負担率は中間所得層、低所得層で高くなっているはずでこれを是正しなければならない。ベーシックインカムも真剣に導入を議論すべきとき。財源は税体系の見直しだ。格差を縮小させることから経済成長が生まれるというのが今日の経済学の共通認識だから。

ぼくは政治の色は持っていないし支持する政党もない。だから政党は解体すべきと言い続けている。VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代に政党政治やワンマンリーダーの意思決定は弊害しか生まない。そうはいっても政党をただちに解体することは現実的でないので、自民党も民主党系も共産党もれいわも含めて連立を組んで多様な問題に多様な視点で問題意識を持てる態勢をつくって欲しいのだ。

そのためにいまやるべき行動は与党に投票しないこと。どこが第一党となっても大きな連立を組むこと。この危機に与党も野党もないではないか。戦前に政党がひとつに合体して戦争にまっしぐらに突き進んだが、あれとはまったく異なる動機で多様性のある着眼点を持つことがねらいなのだ。

それでは決まることも決まらないのではって? 果たしてそうだろうか? 意思決定の技術論なら方策はある。いまは独裁政治の盲点が痛点となって国民生活を貶めていることが問題だ。まずは投票に行こう。いまの社会とそれをつくりだした構造をよく見て投票しよう。

タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 22:58| Comment(0) | 生きる

2021年10月01日

ワクチン接種での雑感と政治で日本を変えるシンプルな政策


ワクチン接種の2回目を終えたが、1回目と同様に何もない。痛みもなければ腕が上がらないこともなし。発熱はもちろん倦怠感もなし(個人差が大きいのだろう。もしかしたらそれまでに緩やかに抗体をつくっていたのかもしれない。コロナ下でもリアルでもしくはハイブリッドでコロナ下での感染対策と経営のあり方について四国各地でセミナーを開催してきたので)。

ここでワクチン接種をめぐる誤解や思惑を整理してみた。

ワクチンの完成度は十分ではない
→より効果的で安全性の高いワクチンが開発される可能性はあるが、それを待つために現段階で打たないのは賢明とは言えない。mRNA型とはそういうもの。待つ間に感染するリスクが高いのは明らか。潜在的にリスクのない人はいま打つべし。

ワクチンは体質を変える
→変えない。そんな魔法があるなら誰もが接種する。原理原則から起こりえない。

ワクチン接種前後に大量の水分(電解質溶液)を摂る
→ これは善意のデマ、もしくは血栓防止から想像されたものだろう。ところが身近なところで実行している人が多いのには驚いた。電解質を大量に摂りすぎても生命に別状はないので支障はない。ぼくはデマと実証するために意識して水分を摂らなかったが2回とも何事もなかった(個人差があるので誰でもそうとは限らないが)。

腕が痛くて上がらなくなる
→ これも個人差がある。当日も接種したことを忘れて風呂でごしごし擦ってしまった。

ワクチン接種後、外食/飲みに行く
→ 接種済みの人から食事/飲み会に誘われてもすべてお断りしている。ブレイクスルー感染が起こらないわけではなく家庭にコロナ菌を持ちこまないため。かつて週に数回は外食を行っていたけれど、2020年春以降に外食を行ったのは3回だけ(手製の弁当持参に切り替えた)。飲食店の方には申し訳ない話だけれど、現実にコロナ対応のステッカーを貼っていてもCO2センサーで計測してみれば換気(空気感染対策)ができていない店が少なくない。ガスなどの熱源を使うのでもともと室内の濃度は高めに出る傾向があるが、それでも700ppmは下回っていないとマスクを取る行為は避けたい(それも短時間でかつ会話なしは当然。客としても感染対策で店に協力すべき)。さまざまな店舗で計測すると一方向だけ開けてもまったく換気はできていないことを数字でお示ししている。しかし外に面した二方向を開けるのは困難な場合が多かろう。そんなときには全熱交換器を必要な台数導入すると良い。高価な空気清浄機より廉価で設置費用も大した金額にはならないので今後も営業を続けるのなら空調専門御者に相談してCO2濃度700ppm未満を達成できる換気能力を備えておくとコロナ以外の感染症対策にもなるばかりか省エネルギーのまま換気ができるので匂いや不快感が大幅に減少するという店内環境の向上も獲得。
とにかくまじめに対策を行っている飲食店に時短も酒の提供自粛は必要はない。定員を入れた状態でCO2濃度がいくらあるかが唯一の基準としても良いのではないか。少なくとも接触感染(手指消毒)、飛沫感染(食事以外はマスク、席ごとに遮蔽板で十分)は目に見えて判断できる。空気だけは判断できないしデルタ株の感染の本丸はそこにあると思うから。
→ CO2センサーの導入による換気の「見える化」、換気の留意点、機種の選択について

自民党の総裁が変わった。政治がはがゆいのは日本を良くする処方箋は明らかなのに、なぜそれをやらないのかということ。だから政党はすべて解散してもっと政治家を増やして専門的なスキルや背景を持った人たちの意見が採り入れられるべきだ。たったひとりの独裁者(あえていう)の思いつきで揺さぶられた十年だった。

経済大国としての日本はバブルまで。それから世帯の可処分所得は下がり続けているが、その間に外国は上がってアジアでも日本は上位でなくなっている(現実を直視せよ)。アジアからの観光客に日本への旅行は安くて手頃と言われるまでになってしまった。

アメリカでは世帯年収1千万円は貧困の入口にいるが、日本では平均で500万円を下回っている。それなのに耐久消費財や土地などはアメリカが安いので暮らし向きは大きな差が付いている。日本でも東京では世帯年数1,000万円では裕福な暮らしはできないが、それでもそこに達していない世帯が少なくないだろう。この日本をつくったのは21世紀の自公連立政権だ。政治の色は持っていない人間として客観的に見れば、「悪夢の民主党政権」ではなく格差と貧困をつくりだして経済を疲弊させた「取り返しのつかない失態の自公連立政権」と言いたい。株高円安の方向性が間違っているのだ。低金利政策が時代遅れなのだ。一度金利を上げてみたら良い、消費税を撤廃してみたらいい。この実験には誰も反対しないだろう。とにかくやってみることだ。その他の政党を見てもぱっとしない。維新は弱者切り捨ての冷たい政治でこれまた時代遅れで論外だろう。立民も国民も政策は期待できず政権の選択肢にはなり得ない。かつて民主党に所属した優れた人材がどんどん離れてしまった。その責任は重大である。

こうなったのは政治家が悪いが、無知無関心で知ろうとしない有権者にも責任がある。政治に無関心だっためこの10年で自分の身の回りの生活がどうなったか見つめるべきだ。

いまやるべきことは何か? それは内需拡大に直結する政策だろう。手間や費用をかけず、条件を満たせば申請などの不公平感もなく、すべての人が豊かになれる方法を着実に実行していけば良い。可処分所得が増えれば消費も拡大し、企業や商店も潤い、給与(人件費)も上がっていく。アベノミクスで明らかなように企業に内部留保が蓄積されても給与は上がらないのだ。上から順にこぼすのではなく、下から底上げしていくことが最高の経済政策となる。

その意味では消費税撤廃(減税といわず撤廃ならプログラムの書き換えは最小限で済むだろう)がもっとも効果的。速効性があり不公平感がなく誰にもで恩恵が行き渡る。そのうえでこれまた不公平感のないベーシックインカムを給付する。これが経済政策の2つの処方箋。

教育や基礎研究に資金を投下して人材を支えることも不可欠。半導体が不足して新車を予約しても5年待ち?と耳を疑うのがいまの日本の産業。1.2億人も人がいるのに首相の思いつきで振り回された安倍管政権であったが、知恵のある人材の叡智を結集して政策は行われるべき。かつての自民党政治でいえば小渕首相のようなやりかたが求められる。20世紀の自民党政治には政治家の覚悟と哲学があったのだが。

消費税撤廃+ベーシックインカムは与野党を問わず一致できる政策と思われるので政党や党利党略ではなくいまやるべきことを政治家たちは実行してほしい。そしてもっと官僚を使うべき。もっと官僚の自発的な提案を受け容れて実行させるべき。

小さな事業所や個人商店の人は自公政権に投票してはダメ。導入予定のインボイス制度でただでさえ少ない収益(所得)が最後の最後までむしり取られる。事務処理の手間も膨大だ。青色申告すらできていない事業所がインボイスに対応するなどできるはずがない。大手との取引の道を閉ざすなどこの政策はあまりにも無意味で劣悪な政策。創業や起業者も減少するだろう。中間所得層もしくはそこに達していない人々を苦しめるインボイス制度について理解したうえでもっと声を挙げるべき。そうすれば岸田総裁(首相候補者)は制度の導入を再考するかもしれない。

接種のため本日の午後は仕事を入れなかったが拍子抜けしてしまった。その代わり言いたいことを書いた雑文で。

人間界のゴタゴタを直視しつつ、近所の山(日峰山頂)で夕暮れを眺めれば地球の黎明のような時間が流れて浄化される気がするのだ。
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追記
遅い昼食を摂りながらラジオを点けると国会中継を行っていた。10/13の国会で立民の森裕子議員の質問は的確だった。これに対し岸田首相の答弁は自身が党内で置かれている実情を反映した操り人形のようだった。
ぼくは自分なりにこの国をどのようにしていくかの目標を持ち、処方箋を描いている。ブランド志向は持たないのでどこの政党でも構わない。理想に近い政策を掲げて実現しようとする政治勢力を応援したい。インボイスについて岸田首相の答弁は見直さないとのことである。自分の生活が苦しいと思う人は自公政権へ投票してはいけない。格差是正と内需拡大を行う意志がないので経済政策に期待できない。中小企業など企業経営者にとっても自公政権は選択外である。選挙は諦めない。無関心でいないこと、次善の策という考え方で投票を行うこと。そのことで政治を変えていくことが必要ではないだろうか。


タグ:政治経済
posted by 平井 吉信 at 17:53| Comment(0) | 生きる

2021年08月16日

コロナの時代の盂蘭盆会 沈黙の時間に声を響かせる


いつもなら菩提寺もしくは菩提寺から派遣された別の寺のご住職に回向していただけるのだが、前年度からはそれもなくなった。菩提寺の営みも大変だろうと推察。

デルタ株(SARS-CoV-2 Delta variant)の出現は別の位相に入ったと感じる。
これまでは副反応でワクチン接種を避けていた人たちが次々と向かうと予想される。
ワクチン接種後も感染は止まらないというのは各国で起きていることだし
専門家も誰一人マスクを取って出歩いても構わないとは言わない。
むしろワクチン接種の有無を問わず従来以上に感染対策を強化すべきとのこと。

ワクチン接種を行わないという人は身の回りに少なくないのだが
根拠のない情報に惑わされていたり、外界と接触を断つほどの覚悟はない人たちには接種を行うことを強く奨めている。ぼくももちろん接種は行う。
副反応のリスクはあっても義務化しないとならない段階に入ったと感じる。

何度もその根拠を書いているように根源の原因がなくなることはないので
COVID-19は終息しないと考えている。
いやCOVID-19は数十年で終息するかもしれないが
別の感染症が入れ替わり立ち替わり跋扈する。
そして温暖化によって劇的な気象が頻発するようになった。
そのことがさらに感染症の引き金を引くという悪循環に陥る。
マスクとアルコールは財布やケータイ電話以上に不可欠の携行品となっている現実を直視しようとせず
マスクをはずして生活する人や温暖化は存在しないと主張する勢力がある限り、どうすることもできない。


デルタ株が出現したということは飲食店が経営を続けるのが困難な段階に入ったことを意味する。
かつて飲食店へ行くのはハレの日の喜ばしい家族のできごとであったが
いまでは感染を覚悟に(感染後の行動も想定に入れて)入店する―それぐらいのリスクを感じるほどになっている。

もちろん対策はあるし(別のブログに書いている)
その費用も現実的な金額に収まるのだが
ぼくが考える感染対策を実際に実行に移されている店舗は少ない。
やらなくても良い対策(イオンの発生装置やらコーティングやら)を実行されているのに
やらなければならない肝心要の対策(空気感染)が行われていないことが多い。
(接触感染やら飛沫感染はマスクとアルコールを携帯していれば自分で防げるのだ)

仮に感染対策ができていたとしても
大半の店ができていない現状では来店客は見分けが付かないのでやはり足が向かない。
その意味で自店のみ対策ができていてもどうしようもない。

盂蘭盆会を迎えて手を合わせているのは祖父や祖母、さらに遡った祖霊のため、もっとも近いところでは父のため。
さらに大好きだった川で水難事故で亡くなった叔父や親しい人。
日航機の墜落事故に遭遇した同級生。
今年に入ってからコロナで亡くなった親しい知人も含めている。
究極的には過去から現在までの生きとし生けるものすべてに。

それなのに、好きな食べ物をつくったり買いに行っては食べ物を食べ、
家族や親族に情報を提供したり暮らしの支援を行ったり
部屋の掃除を行いクルマやカメラやらパソコンを調整しつつ(このブログもそうだが)、
仕事も遊びも愉しみながら生きている。

けれどそれは紙一重。
生きていることと死んでいることが隣り合わせの日常を観じている。

いつものように読経を行う。
開経偈から般若心経、観音経(普門品第二十五偈)、十三仏真言、光明真言、南無大師遍照金剛と続いて各霊菩提、先祖代々を回向する。
自らの声が遠く響いて自分の声を別の自分が聴いている感覚を覚える。
般若心経のいくつかの単語が無限に繰り返すような。無限界 無意識界…
(でも般若心経は釈迦の教えとは違う)
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朝の静けさを打ち破るりんの音と空気を打ち振るわす声が盂蘭盆会の時間を満たしていく。
この時代を受け容れて生きていく。
タグ:盂蘭盆会
posted by 平井 吉信 at 00:20| Comment(0) | 生きる

2021年08月07日

言葉とは文字の並べ方だけではありません


長崎と広島のあの日は絶対に忘れない。
国民を巻き込んで暴走した政権の醜さ、滑稽さ。
戦争に使ってはいけないものを使ってしまった人類の重大な過ち。

生存している被爆者の代表や各国の代表が列席するなかで
もっとも大切な部分を知ってか知らずか読み飛ばした。
「我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国」であって「核兵器のない世界の実現に向けた努力を着実に積み重ねていく」などの文言が抜け落ちた。
意味のない棒読み人間、そうでなければ、悪意があっての読み飛ばし。
そこに付いている冠が内閣総理大臣。

政権中枢部から絶えず流れている軽はずみな言葉、
政治家として住民への愛がまるで感じられない政治家たちの行動、
その前の政権もいまの政権もその座に値しない。
自民、公明、立民、国民、維新…国民に愛がないという点ですべて同じ。
政党はすべて解体して志ある政治家による治世に変えていきたい。
(政治家の数をもっと増やそう、そして政治家の報酬をなくそう)

不正な受給を企てる輩や思いやりのない行動で感染症を拡大する人たちもいて
コロナ禍はヒトのみにくい本性をあぶり出している。


76年前のあの日、温暖化が進行していない当時は真夏でもいまほど気温は高くなかったはずだが、
降り注いだ熱線は有機物無機物を問わず焼いた。

ぼくは自宅と仕事場の両方でエアコンを使わなくなって(設置していたのを取り外した)10年ぐらいになる。温暖化防止への貢献というよりは暑い夏を忘れないようにしたい、との思いから。
(もちろん今年もエアコンは使っていない。ないのだから使いようがない。室温32度でも快適に過ごしている。扇風機すら使っていないし水もあまり飲まないようにしている。10年以上かけて身体を順応させたので決して我慢しているわけではない。暑い夏の心地よさすら感じている)

唯一の被爆国だからこその発信があるはず。
それは義務でありいまの時代に生きる良心の発露だろう。

さて、東京五輪の開会宣言の一幕。
天皇陛下は原文と対照してJOCの誤訳にお気づきになって
さりげなく訂正したうえで宣言されたという。
https://dot.asahi.com/dot/2021080600079.html?page=1

上記の記事で「五輪憲章の『誤訳』の件で誰かが傷ついたり、責任を問われることのないように、というのが陛下の一番の願いであったと思います。そうしたなかでも正しい日本語として宣言できるよう、人目につかないように、ひっそりと訂正なさったのだと思います」と識者の意見を紹介している。

言葉の重みは思いやりの深さに比例するとしたら、
品格と思いの深さを備えたあの方は
折に触れて言葉にできない伝言を発していらっしゃるようだ。
posted by 平井 吉信 at 22:49| Comment(0) | 生きる

2021年04月06日

コロナ下であろうとなかろうとそこにいる限りそれがしあわせ


幸福とは何か、どんな状態かについては誰もがほぼ同じ答を持っていると思う。
人は誰も幸福になりたいと願う。それは自然な欲求である。

ところがその幸福をめざそうとすると、幸福は得られないことを古今東西を問わず賢人たちは語る。
釈迦をはじめ道元に至るまでの仏教の伝道師たち、西洋ではメーテルリンクやサンテクジュペリも物語を借りてメッセージを発している。
それどころか光速度が一定であることから導かれる因果律をはじめとする種々の現象を投影させた物理学、
観測者効果という言葉の響きが神秘的な量子力学、古代のインド哲学など。
幸福は人生の究極の目的でありながら、それを得ようとすればするりとすり抜ける。ここに幸福の本質があるようだ。
幸福とは人間の内なる世界にあるー。その世界観が投影されているようだ。

コロナ禍は見えにくくなっていた幸福を手に取るように見せてくれている、ということもできる。
この状況はいつか収束する。
数年で収まるかといわれるとそれは違うというのが内外の専門文献を1年間読み続けた感想。
でもマスクを付ける生活は十年程度で収まるだろうと楽観的に考えている(百年は続かないだろう)。

ただしSARS-CoV-2は変異を続ける(それこそがウイルスの本質)。
さらに別のコロナウイルス、例えば2026年型コロナウイルス(SARS-CoV-3が引き起こすCOVID-26)のようなものがそのうち出現して2019年型に取って代わるようなことが起こるかもしれない。コロナウィルスでは2002年のSARS、2012年のMERS、そして2019年のSARS-CoV-2(日本では新型と呼んでいる)と間隔が短くなっていることにご留意。その原因もわかっている。わかっていながら対策を取らないのが人類だ。

原因とは、人類が熱帯雨林など未開の地に踏みこんで(=破壊・開発行為)未知のウイルスと接触して世界各地に散らばるから。
その結果、○○年型ウイルスは出現し続ける。
それに輪を掛けているのが社会活動が引き起こす温暖化による気温上昇。
つまり感染症を呼び寄せているのは人類の存在そのものである以上、
この状態で生きていくことを受け容れていくしかない。
ぼくが20年をかけてエアコンを使わないようにしたのは
温暖化が不可避と悟り、起こりうることをすべてを受け容れる覚悟で生きていこうと思ったから。
コロナ下では生きているだけで幸福なのではないかとおぼろげながらに感じている。

花が咲く、桜が咲く、すみれが咲く、川は流れる、そして人は生きている。
それだけで幸福なのではないかと。
2021年の春を拾ってみた。春の野山を逍遥する気分になっていただくため文字は省いた。
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(以上、神山町にて)

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(とくしま植物園にて)

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(以上、勝浦町にて)

仕事の合間の束の間の逍遥であっても
花見が終わったあとの静かな桜並木を歩いてみても
夕方近くになってふらりと出かけた散策であっても
やはりそこに風は吹いている、水は流れている、花は咲いている。
幸せになる必要はない。生きることが幸せなのだから。


posted by 平井 吉信 at 23:49| Comment(0) | 生きる

2021年03月24日

深夜に届けられたライムライト


親父はハイカラ好きだった。
若い頃、東京へ出てハワイアンのバンドを組んでいたこともある、といっていたが
どこまで真実かわからない。
しかし徳島に戻ってきてハワイアンを弾いていたのは事実。

若い頃、アメリカの喜劇が好きだった。
特にボブ・ホープの「腰抜け二挺拳銃」、ダニー・ケイの「虹を掴む男」を見てみろと口癖のように言っていた(未だに見ていない)。

けれど長寿とは言えない年齢でこの世を去った。
野辺の送りの前に「珊瑚礁の彼方」を流した。
のどかな旋律に満たされて白い顔がおだやかに見えた。
もう少し長生きしたかっただろう。
もうこの音楽を聴くこともないのだ。

.。'.*.'☆、。・*:'★    .。.・'☆、。・*:'★
  .。'*・☆、。・*:'★     .。・*:'☆
 ☆、。 ・*'★ .。 ・':....*.:'☆        .。・:'*・':'・★

ときは2021年3月、
週末返上で連日2時、3時までの仕事が続いている。
コロナ下でするべきこと、果たすべきことが山のようにあり
それらは生きる人間の務めと思って日々を過ごしている。

寝ながらパトリック・ガロワのCDを聴いていた。
フルートとオーケストラによるムード音楽のような内容だが
クラシックにありがちな強弱を排して演奏されるこのCDは深夜のオアシスのよう。

パトリック・ガロワ/ベスト・オブ・ベスト フルート名曲集
(耳当たりの良い誰でも知っている70の楽曲と極上の録音。4枚組のCDが2千円未満)

夜の静寂で心を揺さぶられたのは
チャップリンが製作・監督・脚本・作曲・主演まで担当したという「ライムライト」から「テリーのテーマ」。

人生を肯定するあの主題が万感の想いを込めて提示され
木管がこだまのように振り返る。
ピアノに受け渡された主題は独白となって
フルートがオブリガートで伴奏。
再びの全奏で包み込まれる。
モノローグは低弦の上でヴァイオリンが見送るように。
(深夜に降ってきたミューズの落とし子のような音楽。ここでの印象はフランク・チャックスフィールド・オーケストラによるもの)

映画を見たくなった。
時代も言葉も違えば地理的な距離も遠いけれど
チャップリンと世阿弥が遭っていたら
「花を咲かせる」ことで話が弾んだことだろう。
老いることの怖さ、老いに向かう勇気、
そして泰然と迎える最後。
そのおだやかな瞬間の満ち足りた光は人生の走馬灯を動かす力。
心がうつむいている人のために、ライムライト。
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“Yes, life can be wonderful, if you're not afraid of it. All it needs is courage,imagination, … And a little dough”

posted by 平井 吉信 at 20:55| Comment(0) | 生きる

2021年01月09日

室温6度


仕事場にはエアコンがないので仕方がない。
毛布にくるまってキーボードを打っている。
ときどき手を温める。

着ている服は3枚(下着も入れて)だが
風のない室内では抱える空気層からしてそれ以上に着ても意味がないような気がする。
頭が冴えているが、思ったことをかたちにするのに指先がもつれがち。
でも寒さにここ数日で寒さに順応したようで慣れてしまった。

温帯モンスーンでの厳冬も温暖化がもたらしたこと。
熱帯雨林などへのとどまることを知らない浸食(破壊)と資源の搾取、
つまるところ生態系の破壊と未知のウイルスとの接触の増大、
そして人々の移動。

温暖化とグローバル化が異常気象による災害多発と感染症の蔓延をもたらしている。
さらに輪を掛けたのが21世紀になって自民党政権による所得格差の拡大政策である。
比較的安全に過ごせる人たちは所得が高い人々である。
このことは所得によるリスクが異なることを意味しているし
所得による人類の分断を促進しているともいえるし、
残るべき人々を所得で選別しているともいえる。
株価は実態を反映せずバブル状態だが、例え3万円を超えても庶民の暮らしに変化はない。
ここでも格差が広がっていく。
けれどCOVID-19は序章に過ぎない。
生きていくのに必要な情報の見極め、的確な行動の絞り込みと実行ができるか。

コロナを契機に国による統制が強まる傾向が出ている。
諸外国では全体主義的な傾向が目立ってきたし日本も前政権から顕著になっている。
このまま真善美を封印して権力になびく忖度や
「自粛」という言葉に想起される同調、同質を強いる社会へ向かうか
既存の社会とは異なる価値を実現できるかの岐路に立っている。

生き方のヒントは縄文時代の日本にあるように思う。
この続きはそのうちに。



posted by 平井 吉信 at 13:25| Comment(0) | 生きる