2025年04月11日

台湾と大陸の間で発見された19万年前以降の人骨 デニソワ人と判明


2024年2月に海部陽介博士が来徳されたとき、文化の森で講演会が開催されたことは以前にも書いた。その会場で質問すべく手を上げようとしていたら、前の質問者が原理主義的なつまらない質問を延々と繰り返し、時間切れとなって順番が回ってこなかった。そのとき、ぼくが尋ねたかったのは「台湾と大陸の間の澎湖水道で発見された「アジア第4の原人」について、現時点で追跡調査はなされているか? 差し障りのない範囲でお話を」という趣旨を描いていた。

→ 短波受信の代わりにインターネットで聴く海外の日本語放送 まずは台湾からはじめてみては?

そして2025年4月10日付のアメリカの科学雑誌『サイエンス』発表で明らかとなったのは、澎湖水道の原人は「デニソワ人」であった。台湾は、ホモ・サピエンスが太平洋の島嶼部へ進出する拠点となったことが知られているが、デニソワ人も台湾にたどり着いていた。

→ −台湾最古の人類化石はデニソワ人男性の下顎骨だった−(東京大学)

→ A male Denisovan mandible from Pleistocene Taiwan(サイエンスに投稿された元記事)

おそらく海部博士は、骨を見て直感で何かを感じられたはずだが、遺伝子解析の結果が出るまでは口にはされないかもしれないと思っていた。メラネシア人にデニソワ人の遺伝子の痕跡が多いということは、東南アジアで交雑したと考えるのが自然だが、その方面ではネアンデルタール人はもちろんデニソワ人も見つかっていなかった。

それにしても人類進化は不思議だと当の海部さんも思われたに違いない。当初の「第4の原人」と名付けたのは屈強な下顎から判断されたのだろう。人類は進化の過程で調理技術の進歩で強い咀嚼が必要なくなって顎が華奢になっていくからで、原人と名付けたのはアジアのホモ・エレクトゥス(北京原人、ジャワ原人)に近い存在と見ていたのかもしれない。ネアンデルタール人と共通の祖先から分かれて数万年前まで地上に存在した人類ということになれば、骨格の屈強化は先祖帰りともいえる。

インドネシアのフローレス島では、外部からの流入が途絶された環境で、この島の生物は限られた食物で生きていくため大型種は小型化して適応し、小型種は天敵がいなくなることで大型化していく島嶼化が起こっている。百万年ほど前になんらかの方法フローレス島にたどり着いたジャワ原人(ホモ・エレクトゥス)が30万年ぐらいの間に身長1メートル少々の小人(ホモ・フローレシエンシス)に進化したのも驚き。人類揺籃の地はアフリカであっても、アジアは人類進化の実験場のような場所だった。

台湾と大陸との間が陸続きになっていた(寒冷期)のなら、澎湖諸島(台湾)にいたデニソワ人が日本列島に渡ってきた可能性もあるのではと考えたりもする。デニソワ人は、ネアンデルタール人と混血の証拠が発見されているし、ホモ・サピエンス(現代人)にも遺伝子が見られることから祖先とも混血していた。なかでもアボリジニやメラネシアの人たちにデニソワ人の遺伝子が多いとされる。デニソワ人とネアンデルタール人の交雑、デニソワ人とホモ・サピエンスの交雑からさらに地域的に多様化していったデニソワ人亜種の可能性もある。

今回の台湾の澎湖人がデニソワ人と確定したことは南デニソワ人仮説を持ち出す必要がなくなったということかもしれない。その反面、デニソワ人の振れ幅によっては南デニソワ人仮説は依然として検討を続けるべきかもしれない。アジアのホモ属の進化から目が離せない。

中国の南部の海岸もしくは台湾から舟でこぎ出すと、黒潮が行く手を阻んで沖縄/八重山にたどり着くのは容易ではないことがわかっている(自然の状態では海流任せでは漂着しがたい)。それゆえ手こぎの舟で黒潮を横断する必要があったが、海部陽介博士の試みはそれが可能なことを実証した。

デニソワ人には、まだ学名「ホモ・○○」が決まっていないが、ホモ・サピエンスやネアンデルタール人と交雑していたことから、近い関係であることは間違いない(交雑して子孫が続いていくから遺伝子に情報が残っている)。

異なる人類種でさえ、調和することができたというのに、自分たちの国が損した得した、国境がどうだ、同盟がどうしたなどと流血を繰り広げる21世紀のホモ・サピエンスは、終焉に向けての序曲を奏で始めたのではないか。今日の地球に、同胞(ネアンデルタール人、デニソワ人)がいないことを寂しく思うのである。

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2025年03月24日

短波受信の代わりにインターネットで聴く海外の日本語放送 まずは台湾からはじめてみては?


前回からの続き)
ラジオで短波を受信するのは少々骨が折れるかもしれない。なにより放送時間に待機することが難しい人もいる。そこでラジオの話題を離れるけれど、短波をインターネットの聞き逃し放送で聴くことを提案。まずは、台湾から。

台湾国際放送(中央廣播電臺・臺灣之音、RTI:Radio Taiwan International)
公式Webサイト:https://www.rti.org.tw/
同日本語版:https://jp.rti.org.tw/(おすすめ)
日本語YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UCB_Xmr2myDxnphL8-dtn-SA

BCLブームの頃の台湾国際放送は「自由中国の声」と名乗っていた。台湾は世界有数の親日国家であり、日本で災害等があると政府と国民から多額の支援が寄せられることでも知られる。かつて中華民国の近代化の一助を担った日本であるが、台湾、日本とも相互に魅せられてリピーターとなる観光客も多い。

RTIでは、さまざまな番組が放送後、数年を経過しても聴くことができる。
観光目的なら、中野理恵さんが担当する「GO GO TAIWAN」。
https://jp.rti.org.tw/radio/programMessagePlayer/programId/380/id/70010

台湾の音楽が聴ける「ミュージック・ステーション」
https://jp.rti.org.tw/radio/programView/id/364

一足先に桜の見頃を迎えた台湾の花見の様子(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=HJQZb1-Hlh8

短波放送:毎日20時〜21時(日本時間)、9740kHz 
番組表 https://jp.rti.org.tw/index/content/id/15


ところで、数年前に台湾の少数民族アミ族の女性がコロナ下で日本のアーティストと協働でアルバムを発売したことを本ブログに書いた。
→ 台湾から日本へ〜春の目覚めを待つあなたの果たせなかった夢〜

アジアの人類進化の歴史では、台湾と大陸との間の澎湖水道で発見された約20年前の原人(北京原人やジャワ原人とは異なる)と考えられる人骨についての考察が待たれる。新石器時代の台湾は、沖縄や日本はもとより太平洋やポリネシアにまでホモ・サピエンスが進出する拠点となったことが知られている。人類進化学者でアジアの古人骨の権威とされる海部陽介博士からは、台湾から与那国島へ手こぎの舟を当時の道具で手作りして黒潮を横切る航海術の実践についてお話された。ぼくが邪馬壹国について考察するとき、新石器時代の日本への流入から考える。そうしないと「渡来人」の定義を見誤り、日ユ同祖論のような流れになってしまう。
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また、台湾の先住民をはじめ現在の台湾に居住する人々の多様性について、徳島県出身の鳥居龍蔵博士の調査の足跡とともに、鳥居龍蔵博士が見たパイワン族の儀式などについて人類学者の野林篤志博士から説明をいただいた。
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(「鳥居龍蔵調査資料と台湾世界」、2024年2月25日 文化の森イベントホール)

その1年前(2023年3月)に開催された「鳥居龍蔵と台湾」の講演録は公開されている
https://torii-museum.bunmori.tokushima.jp/taiwan/taiwan_sympo_2022.pdf


台湾はいまもっとも訪れてみたい地域のひとつ。迷走するマイナカードを見るにつけ、オードリーさん(※)ならどうしただろうなどと、政治や行政についてはいまの日本がもっともお手本とすべき。
※唐鳳(オードリー・タン)デジタル発展部長…コロナ下でマスクの在庫を把握するしくみを短時間で実用化して2020年当初のマスク不足の状況を乗り切った手腕が印象的

短波ラジオは聴けなくてもインターネットで現地の情報が聴ける。ラジオ台湾のアプリもあるというから挑戦してみては? もちろん短波ラジオがある人は電波でどうぞ!

タグ:ラジオ 台湾 BCL
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2025年03月23日

ラジオ100年 ぼくの場合はBCLから始まった


ラジオでは六角精児さんとNHKの高山アナウンサーがBCLについて夢中に喋っているではないか。お二方とも海外放送をラジオで受信してベリカードを集めていたという。それが実に楽しそうで、ああ、それもあったね、そうだったよな、で話が尽きない。そのうちリスナーから、専門的すぎて何の話かわからん、一般人にわかる話をしてくれと投稿が来た。まあ、そんなつまらんことおっしゃらずに。

小さなラジオに届いたのは、地球を半周回ってきた電波。耳慣れない言語や異国の音楽が聞こえてくるその不思議さ。 電波は途切れ途切れになったり、震えるように強弱を付けたり、雑音にかき消されそうになったり、いつの間にか周波数がずれていったり、強い放送局の電波にかき消されそうになったりと聞き続けるのは大変。それなのに夢中になって聴いていた、胸が震えた。

ぼくには憧れのラジオがあった。それはナショナルのクーガ115という白いラジオ。口径16cmのスピーカーを備えて音質も良かったが、デザインの美しさは日本の歴代のラジオでこれ以上のものを知らない。パナソニックから再発売の企画は考えられないかな。テクニクスは再開したのだからパナソニックのラジオもやってみたらきっと売れるよ。デザインが同じならポリバリコンでなくDSP方式でもいい。開発費(金型)がかかるならクラウドファンディングでも。AM放送の停波が2028年と3年後で短波放送にも力を入れる国は少なくなったという逆風はあるけれど、そうじゃない。ラジオを操作して放送局を探して聴きたいのだ。

AM停波後はFMのみとなるが、電波の届く範囲が限られるFM放送では、徳島県内で受信できている毎日放送や朝日放送は受信できなくなる(ラジオの性能と場所によっては受信可能)。インターネットやラジオアプリで聞き逃し配信で国内外の放送が聴けるとあってはラジオの存在意義が薄れつつある。

そうはいっても、ラジオの良さは作業(運転)しながら聴けることにある。また、出演者にとっては、ライトやマイクがずらりと並び、スタッフが控えるテレビ出演とは違って、小さな部屋で少人数の出演形態は普段着のままで話がしやすいという。テレビと違ってラジオの番組では話し手の本音が現れやすい。ラジオ(音声)とは紙媒体やインターネットにはない優れたメディアである。


子どもの頃の話を少し。学校の帰りに近所の電気屋の店頭でため息を漏らしながら白のクーガを眺めるのが日課だった(ことは想像に難くないよね)。そしてついにラジオを買ってくれるという親父の言葉を信じて待っていた。 ところが、親父が買ってきたのはパナソニックではなく、ビクターだった。

ビクターを音がいいとからこれにしろというのが親父の意見。でも聴きたいのは海外放送なので、それに対応した受信機能がある機種が欲しい。いや、極論をいえば、音が鳴っていなくても眺めるだけでも美しい、欲しいと思っていた。だから手に入らなかったクーガ115への憧れはいまもある。

そうはいっても買ってもらったビクターのラジオ、型番はF-240という。受信周波数は、FMが 76〜90MHz、中波が525khzから1605khz、短波は3.9MHz〜12MHzの合計3バンド。短波受信もできるが短波も聴けますよというおまけのような感じ。

具体的には、短波帯を選局しやすくするバンドスプレッドはなし、120メーターのトロピカルバンドや25メーターバンドから上の主に高緯度地域の放送も受信できない、微妙なダイアル操作ができるファインチューニング機構もなし、イメージの除去と選択度を高めるためのデュアルコンバージョン(ダブルスーパーヘテロダイン)もなければ外部アンテナ端子もなし。素子でいうと、1IC+ 1FET+13TR(当時は受信報告としてラジオの型番と使用素子を書くことが求められていた)で海外放送を聞きこむのに向いているとはいえない装備だった。

だったらラジオを使いこなして受信能力を高めていくしかない。このビクター、今のラジオからは想像できないことであるが、12cmの中低域ユニットー+5センチツイーター(拡声ホーン付)を備え、モノーラルであっても音はすこぶる良かった。さらに、高域低域の音質調整にジョイスティックのように可変する独特の機構やFMトランシーバー機能とマイクミキシング機能もあった。中波用のバーアンテナも18センチと長いため、中波の受信性能は悪くなかった。黒が多いラジオにあって、ウォームシルバーの外観と黒地に緑色の巻き取りフィルムによる周波数表示と凝ったつくり。当時の価格で17,900円なので、いまこれと同じ物ができたら5万円は下らないと思われる。

売れないとの理由でこのようなラジオをつくらなくなった日本の家電メーカーが凋落していったのはご承知のとおり。事業ポートフォリオ戦略などに惑わされて長期的な視点が欠落していたのだろう。

徳島市内には秋葉原のように無線の材料を置いている 店があって(ミヤコ電気だったか)、そこでビニールで被覆された銅線を買ってきて、屋上に張り巡らせて室内に引き込む外部アンテナをつくった。受信できる短波帯(3.9MHz〜12MHz)のうち、放送局の多い31メーターバンドに合せて、アンテナ長をその1/4波長で設置する。ビニール線はその直角方向の前後に利得があるので、遠距離をねらってヨーロッパとオセアニア方面へ向けた。こうしておくと、ラジオオーストラリアや韓国など南北方向も多少の利得があると考えた。ビクターには外部アンテナ端子がないので、ロッドアンテナに巻きつける簡易な方式である。インピータンスのマッチングなどは取れていないので利得は上がるが、同時に混信も増えるがやむを得ない。

そうは言っても、外部アンテナの威力は抜群であった。海外の放送局と言っても捉えやすい放送局からなかなか捕まらない放送局がある。しかも終日番組を放送しているのではない。例えば、日本時間の20時〜20時30分といった具合。その場合は20時ちょうどに放送が始まっても冒頭を聞き逃すので、放送が始まる数分前からインターバルシグナルと呼ばれる音声を流す。

ラジオオーストラリアでは、ワルチングマチルダのオルゴールでの旋律が流れた後、ワライカワセミの声が入り、英語のアナウンスが流れて日本語放送の開始を告げる。地球の裏側、エクアドルのキトから放送される「アンデスの声」HCJBでは「さくらさくら」がマリンバに乗って流れてくる。ドイチェヴェレでは、ベートベンの序曲フィデリアだったかな。これらは、フェージングという電波が揺れる現象を伴いながら、放送開始を待つ受信者の夢をかき立てた。

当時中学生だったぼくは、日本語放送だけでは飽きたらず英語の放送を聞くことに挑戦していた。 中学生と言っても地方に住む帰国子女でもない(中学に入って初めてアルファベットに接した)人間にはハードルが高いように思われるだろうが、幸いなことに入学した私立中学にはLL教室があり、一人ひとりが自分の机でヘッドフォンをして毎日ネイティブの会話をテープで繰り返し聴く授業があった。そのため、英語放送がおぼろげながら理解できた(日本人の先生がカタカナ英語で話している授業だけなら英語放送を聞くことは無理だっただろうと思われる)。番組の内容を聞き取ってその感想を英文で書いて受信報告を添えて現地の放送局に郵送する(宛先は放送のなかで確認する)。最初に送ったのはRADIO NEDERLANDで、いまもQSLカードが手元にある(11.745MHZ、GMT14時〜15時)。

受信報告書が添えられた手紙が放送局に届くと、書かれている内容を確認して、受信を証明するカード(ベリカード)が放送局から送られてくる。それを集める趣味をBCLと呼んだ。いま考えると、これは自国に対する良い印象を残す外交や観光戦略の一貫でもあったと思う。

受信報告の返信は放送局によって同梱物が異なっていた。ベリカードのほかに絵葉書やペナント、観光案内なども含まれていた。航空便で封書が届くと開封がわくわくしたのを覚えている。相手の放送局の負担軽減のため、IRC=国際返信切手券を同封するのがマナーである。

「アンデスの声」のベリカードやペナントも手元にある。近隣の強い電波の放送局といえば、北京放送とモスクワ放送。また、国内の中波の放送局も受信していた。中波短波とも昼間は遠方は聞こえず夜が中心となる。

個別の番組では印象に残っているのはラジオ韓国の「玄界灘に立つ虹」というリスナーのお便りでつくる番組である。当時の東アジアは、北京放送などもそうであるが、友好関係が濃厚に聞き取れる内容であったと思う。今の中国からは想像できないが、当時は日中の国交が回復して間もない頃だったので、そういう歓迎ムードが短波放送にも現れていた。

その反面、緊張状態が続いていた朝鮮半島では、ラジオ韓国KBSは北朝鮮を北韓と呼び、北朝鮮は、韓国を南朝鮮と呼んで双方がニュースの取り上げ方で非難するといった調子。いまもそれほど変わらないのがつらいところ。

宿題や勉強を済まして、夜のゴールデンタイムにラジオの前に座って指先を少しずつ動かして、目当ての放送局を探していく。そして、放送の内容にも親しんだことが今考えると楽しかったな。短波放送はどの国も縮小傾向にあり、ラジオで遠方の放送局を聞く楽しみがなくなっている。ラジオオーストラリアやBBCの日本語放送もかなり以前に日本語放送を終えている。

そもそもインターネットで海外情勢が動画、静止画、文章でわかるのに、 わざわざラジオの前で待ち受けて電波を解読することは、フィルムカメラで写真を撮るとか、レコードプレーヤーにレコードを載せて楽しむのにも似ている。

AM放送は2028年を目処に停波してFMワイドに移行するといわれている。さらに追い打ちをかけるように、世界を席巻した日本の家電メーカー(SONYのスカイセンサー、ナショナルのクーガなど)からBCLラジオは発売されていないのだ(トランジスタラジオの実用化で世界をリードしたあのソニーでさえも)。当時は、ほとんどの家電メーカー(東芝、サンヨー、日立、三菱、ビクターなど)でBCLラジオを作っていた。

現在入手できるBCLラジオは、ほとんどが中国製か台湾性で、高機能であるが、信頼性は高くない。かつての日本製BCLラジオは今もオークションで高値で取引されているが、クーガ115とかスカイセンサー5800といったラジオは今見ても美しい。

クーガでは118という黒に青い文字のフィルムダイヤルのラジオも好きだった。BCL界隈では値段が高い割には機能がBCL向きでないということで人気はなかったが、このラジオは真に贅沢な作りになっていた。後に機能を付加した改良型が出たが、先代の方が内部の作りは贅沢になっているはず。改良のなかにはコストダウンも含まれるから。

松下お得意のジャイロアンテナを装備して中波を聞く時に本体を回す必要はなく、当時の松下のBCLラジオのデザインは秀逸であった。ソニーもスカイセンサーのクリスタルマーカーを内蔵、さらには周波数直読も備えた。クーガも2200でほぼ完成系のラジオを出してきた。ともに周波数直読方式であるが、皮肉なことに今日の中国の中国製のBCLラジオも数千円でその機能がある。また、内部もPLLシンセサイザー、いまでは信号をデジタル処理するDSP方式といった受信方式を採用している。

ただし、通常のFM放送やAM放送を聞く際に、70年代、80年代のラジオと今の2025年のラジオどちらが優れているかについては、一概に言えないのではないか? むしろ当時のラジオの方が良質の部品を使い、操作系(例えばチューニングダイヤルにフライホイールを採用する、バックラッシュを抑えるなど)もはるかに優れていた。FMのフロンドエンドがコンポのFMチューナーのような構成の機種もあった。そして良い材質のスピーカーで聴けるので豊かさと明瞭度、聞きやすさはいまのラジオの比ではなかった。

夕食が終わって、31メーターバンドにダイヤルを上下させる。ワライカワセミやビッグベンが聞こえてくる。食後のひととき、自分の部屋で雑音の向こうに海外を感じる。あの頃に戻って、またラジオを操作しながら海外の放送局を聞いてみたいなと思いつつも、なかなかそんな時間が取れない。

手元にあるBCLラジオは、ソニーのBCLラジオの完成系とも言える ICF-2001Dである。BCL全盛期を過ぎてから買ったもので大切に使っている。ACアダプターが断線しているが、どなたかお持ちでないだろうか?(型番AC-D3M)
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ICF-2001Dは、1985年に発売されたSONYの短波ラジオの金字塔というべき商品。デュアルコンバージョン+PLLシンセサイザーによる安定かつ正確な選局に加えて混変調に強い同期検波回路を備え、周波数直読で数値入力とアナログダイヤルによる選局が可能だった。エアバンドも受信可能で2025年の現在でもこれを越えるBCLラジオは見当たらないといわれるほどの完成形。おそらく各国の大使館などでも情報収集に使われていたのではないか。BCL全盛期に海外放送に強いラジオが買えなかったぼくが社会人になって入手したもの。当時から高価(69800円)なラジオだった。

(つづく)
タグ:ラジオ BCL
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2022年10月05日

ネアンデルタール人から見た21世紀 ペーボ博士の受賞は我が身のようにうれしかった


ネアンデルタール人とクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が交雑していた証しとして、現代人に一定のネアンデルタール人由来の遺伝子があるとの見解が世に出されてまだそれほど年月が経っていない(2010年)。

絶滅したネアンデルタール人が今日の人類にまで痕跡(影響)を残している、ということがあって喜んだ。なんといってもネアンデルタールマニア、ネアンデルタール人ファンなのだ。それどころか、いまも生き続けてホモ・サピエンスと共存できていたらなと思っている。

ネアンデルタール人の遺伝子の解析からは、白い肌、青い目、ブロンドの髪といった特徴が抽出されるそうだ(アフリカ人にはこの遺伝子はごく少ない)。つまりこれらの特徴は白人の外観に通じる。程度の差こそあれ、今日の人類はネアンデルタール人のDNAを受けついでいる。

フランスのブルニケル洞窟でネアンデルタール人の住居跡が発見されたが、この場所は入口から350メートルも奧につくられている。火を使っていた痕跡はもちろんある。そうでないと暗闇のなかでたどり着けない。年代測定では17万年以上前である。

ネアンデルタール人は、死者を埋葬するときに花を手向けたとされる。高齢者や障害者が長生きしたこともわかっている。ワシの羽根や爪、貝殻の装飾品も見つかっている。言語能力もホモ・サピエンスと遜色ないことがわかっている。

一方で体格は現代人よりも大きく筋肉質、脳の容量はやや大きい(ネアンデルタール人が現在生存していれば大相撲の横綱はモンゴル人ではなくネアンデルタール人だろう)という彼らが約3万年ほど前に絶滅したのはなぜか?

参考までにチューリヒ大学が復元したネアンデルタール人の少女の顔。21世紀のまちを歩いていても違和感がない。かつてイメージされたネアンデルタール人とのあまりの違いに驚く人もいるだろう。ぼくはホモ・サピエンスよりネアンデルタール人が本能的に生きていたのではないかと想像している。
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%92%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AB%E5%8F%A4%E9%AA%A8%E3%81%AE%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%82%E3%82%8A/5904308

COVID-19が流行の2020年、スバンテ・ペーボ教授はコロナで重症化するDNAはネアンデルタール人がもたらしたとしている。これは余談だけれど、交雑によって獲得する免疫もあれば、病気で不利に働く遺伝もあるだろう。コロナの影響が民族で異なるとすれば、それは遺伝子の相違が関わっている。

近年になって人類の多様性が少しずつわかってきた。学生の頃習った教科書にはネアンデルタール人は旧人とされていたし、デニソワ人(学名が付いていない)やホモ・フローレシエンシス(ホモ・エレクトス・エレクトス=ジャワ原人との関連性が濃厚か?)はいなかった。台湾海峡から出現した澎湖人はアジア第四の原人(ジャワ原人、北京原人、フローレス原人)とされるし、ルソン島で発見された謎の人類ホモ・ルゾネンシスは新種の可能性が高い。アジアは人種の堝だったのだ。

デニソワ人は、ネアンデルタール人と近い位置づけにあり、実際にネアンデルタール人とデニソワ人の混血の子どもが発見されている。大きな流れでいえば、ホモ・エレクトスから分岐した現生人類に至る流れ(ホモ・アンテセッサー、ホモ・ハイデルベルゲンシスなど)からデニソワ人・ネアンデルタール人の祖先とホモ・サピエンスの祖先へと分化。しかもデニソワ人、ネアンデルタール人、ホモ・サピエンスは同時代に存在しただけでなく交雑(セックス)しており、デニソワ人の遺伝子はメラネシアやアボリジニなどに多く残存する。インドネシアは人類遺伝子の多様性の堝である可能性もある。日本人には、デニソワ人由来、ネアンデルタール人由来の遺伝子の両方があるとされる。

いずれにしてもホモ属ではホモ・サピエンス以外の種は絶滅しており、ホモ属を未来へつないでいく現生人類の責任は重いという実感が湧いてくる(それなのに、つまらないことに明け暮れているよな)。
→ 人類史マップ サピエンス誕生・危機・拡散の全記録

2013年に南アフリカで発見された脳の小さな人類、ホモ・ナレディは上半身は古い世代の人類のようで下半身は現代人のようと形容された。化石の年代について約30年前との測定との発表がある。このことはホモ・サピエンスやホモ・ネアンデルターレンシスがいた時代と同じである。人類の起源、文化、交雑、進化の興味は尽きない。
(ところでぼくのATOKは「ホモ」と入力すると、ホモ族がすべて候補として表示されるようになっているので入力は楽である)。

ぼくはペーボ博士が好きである。この方がいなければぼくの好きなネアンデルタール人の真実が世に明らかとならなかったかもしれないから。ノーベル生理学・医学賞受賞、おめでとうございます。

夢中になって読んだ本


買って良かった本
全ページがカラー。全ページに大型の写真、図版、イラスト、復元図で散りばめられていて食後に眺めるひとときは欠かせない。ナショナル ジオグラフィックの好著(もちろん日本語版である)

タグ:台湾 人類
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2017年10月22日

特急うずしお N2000・2000系から新型2600系へ   


平成29年12月2日から高徳線のうずしおで一部投入される
新型車両2600系の試運転に遭遇。
JR四国の特急気動車で新型車両が導入されるのは
約30年ぶりとのこと。
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それまでの主力、N2000系と比べて最高速度はやや抑えたが
カーブの走行時の制御に空気バネを採用しているのが特徴。
空気容量と距離から高徳線のみで運用される予定。

高徳線は気動車区間で電化はされていない。
現行のN2000は速度が上がるとディーゼルエンジンの騒音が大きすぎて
デッキでの携帯電話の使用はほとんど聞き取れない。
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そのためマナー違反ではあっても車内で電話を取る乗客は少なくない。
(ぼくは通話はあきらめて下車してからかけ直している)

高徳線では、吉野川の鉄橋での揺れがひどいが、
(それなのに速度はぐんぐん上げるので恐怖感を感じることがある)
佐古近辺の高架区間と牟岐線の文化の森周辺は乗り心地が良い。
線路の規格(公差)か設置精度が違うのではないか。
もしくはコンクリート枕木の効果か?

次世代を期待されながらつなぎの役割かもしれない2600だが、
愛着を感じている。
いつか2600に乗ってみたいものだ。
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高徳線のうずしおでは以下が予定されている。
(すべてのうずしおが2600になるわけではない)
http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/2017%2009%2025%2001.pdf


タグ:JR四国
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2017年06月25日

ほのぼのと明日香村(回想) 初夏になれば吉野の葛餅 


中学の頃に訪れて以降、明日香への思いはずっと続いている。
天武持統陵、高松塚、キトラ、牽牛子塚―。
古墳の文献を読んでは思いをめぐらす。
考古学や文化人類学は大好きだから。

春の石舞台古墳辺りに明日香川沿いを散策。
夏のせみしぐれに甘樫丘(あまかしのおか)から大和三山を眺めた。
秋は明日香川上流を逍遥しながら万葉集をひもとく。
明日よりは 二上山を 弟背と吾が見む―
平城京ナンバーワンの皇子の運命は暗転する。
(大津皇子は誰が見てもプリンスでしょう)
弟を想う恋慕にも似た姉(大伯皇女)の気持ちが滲みてくる。
https://ameblo.jp/naranouchi/entry-11821258347.html
明日香はふるさとのように心に住み着いた。

駅に貼られていた観光ポスター。誘われて明日香へ行ってみた
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こんな表情の石がなぜここにある? 明日香は木訥な語り掛けのオブジェばかりで好き。
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衝撃の壁画が見つかってからどれだけ時間が経っただろう。
高松塚やキトラの壁画は人類の英知をかけて復元保全する義務がある。
大君が葬られた頃を追想しながら歩く明日香路。
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飛ぶ鳥の飛鳥、明日香村。
いにしえ人の思いに触れることは身体中の細胞が共鳴する温もりを感じるはず。
いまの私たちに箴言をもたらしてくれるだろう。
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天河神社は浅見光彦シリーズでも有名になったが
芸能の神様はここにおわす感じがする。
さらに足を伸ばして室生寺や伊賀上野なども。

近所のスーパーで催事販売として売られていた吉野の葛餅。
(がんばれキョーエイすきとくは買って応援している!)
東からの太陽は簾をすり抜けて
ちゃぶ台の葛餅にこぼれた。
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かつて明日香村、吉野を訪れて天川まで足を伸ばした際に
陀羅尼助丸とともに求めたことがある。
みやげもの用と地元でその場で食べるものは違うから
やはり吉野に足を運びたい。
そんなことを思い出して、また明日香へ行きたくなった。
明日香の話はまた今度。
(語り出すと20万文字はしゃべってしまうけど誰も付き合ってくれないでしょ)


タグ:神社仏閣
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2016年11月06日

四国と関東の空から俯瞰する西日本


Googleアースがあるじゃないかといわれるけど
飛行機に乗るときは窓際を予約して
飽きることなく外を眺めている。

徳島空港を離陸してまもなく日高川と田辺市
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紀伊半島の山間部を蛇行する川を見ていて飽きることがない
熊野川と熊野本宮大社が見える
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うろこ雲を見ていて飽きることがない
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今度は往路
横浜市南部の臨海部。礒子区の上空から中心部みなとみらいを臨む
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江ノ島
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(江ノ電の車窓のYouTubeではこの映像が美しい。乗ってみたい)
https://www.youtube.com/watch?v=FoA9M8Wobfg

相模川がつくりだす広大な平野。中流の相模原市全域が見えている。
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酒匂川河口
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この日の富士山は全容が見通せた。
飛行機の高度は約6,700メートル(機長説明)
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富士山西側の山麓。新東明高速が富士川を横切る。
その右の河川は、沼川の支流潤井川で田子の浦へ注ぐ。
潤井川右岸には富士フイルムの富士宮工場、
さらにかすんでいる辺りは白糸の滝付近。
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4つの水系が見えている。
右から、富士川と甲府盆地、
その隣が興津川、
画面左寄りが安倍川のわらびの温泉周辺、
左端が大井川の井川ダムではないだろうか。
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矢作川下流を雲が渡っていく
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松坂市の沿岸部へ流れ込む櫛田川河口の澪筋が印象的
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そろそろ徳島空港へ着陸の準備。

(フジX20)

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2015年12月20日

品川のニコンミュージアムと富士


浜松町界隈で会議を終えたあと、
懇親会に参加して翌朝帰ることになった。
そのまま空港へ行くつもりだったけど、
わずかな時間を見つけて
品川駅から10月に開設されたばかりのニコンミュージアムへ。
京急で羽田空港へ行けることがわかったから。

ニコンといえば、ニコンF。
これに標準レンズNIKKOR50oF2を付けて
星夜写真を撮影していた人がいた。

知人の新聞記者がF3をいつも持っていた。
ジウジアーロが手がけたデザインで
精悍でかっこよく、
このカメラでバリ島を写して
土門拳賞を取った人の写真集なども求めたことがあった。
(「バリ超夢幻界」)

川が好きな友人の写真家はF4を使っていた。

かくもニコンに憧れながら
ニコンの一眼レフは一度も使ったことがなかった。
ミノルタのX700の自由な風が気に入っていたから。
明るく高倍率のファインダーで光と影を見ていたから。
このカメラで縄文を求めて青森へ、
民話を求めて岩手へ、
もののけの屋久島の森へ、
西表のマングローブに、
地球の裏側の広い海を求めて南太平洋へと旅に出た。

そんなこんなでAF時代にはカメラを買うことはなく
ミノルタで約20年通していた(いまも極上の現役)。

ようやくニコンを買えたのは
デジカメ時代になってから(D50)。
600万画素のバランスの取れた機種で
いまでも姪が使っている。

次に購入したのがD7000。
次々と新型機が出て
D7000のようなAPS-C・16メガ機は見えなくなった。

このところ、ニコンは元気がない。
買いたいと思える機種が見当たらない。
用途によるが、画像処理エンジンの世代も加味すると
D810、D750、D7200の三択ではないだろうか。

このなかでD750はもっともバランスが取れた買い得機のように見えて
実はシャッターショック(ミラーショック)が大きいという致命的な欠点がある。
実物に触れたときに、三脚とミラーアップ前提のカメラと判断した。
D810には不満がないが、
データ容量が大きい、カメラも重いなど、山野を駆け巡るには不向き。
となると、消去法でDXフォーマットのD7200となるが、
高画素機を使いたくないこと、ローアングルへの対応、肩液晶の表示の少なさがネックとなっている。

ニコンは、解像度を上げるためには高画素化よりも
シャッターメカニズムの洗練を行っていくことが先決。
そして質実剛健ななかに、使用感というか官能的な感触を向上させて欲しい。
DXフォーマットの広角レンズの充実も望みたい(例えば、DX16oF2など)。

そんなことを思いつつ、ミュージアムを訪れた。
品川駅からの回廊は朝の光に包まれている。
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ニコンミュージアムは品川駅からすぐのところにあった。
著作権の関係で動画は撮影不可だが、展示物の写真は構わない。
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真っ先に行ったのは銀塩時代の一眼レフ。
なかでもFE2はとても実用的で良いと思ってX700と最後まで迷った。
でも、ミノルタの醸し出す自由で南洋的なテイストが優ったのだ。
(これには地元出身の「楽園」写真家の幻影もある)
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ニコンF
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ニコンF3
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ニコンFE2
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黒く落ちた館内で立体感を演出する光に浸る。
そろそろ京急に乗らなければと後にした。

日本の写真機をあたためつつ
羽田空港から南ウイングで徳島に向かう飛行機の機内から
大地に鎮座する富士がまぶしく見えた。
(富士フイルム X20にて)
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三原山と噴火口
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雲を見ていると飽きない
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高い空から地上を見ていると
日本や地球が恋しくなった。
そこで地図帳を買った。
国の名称は変わったけれど
気象や産業なども見ることができる。
買って良かった。

新詳高等地図 (Teikoku’s Atlas)





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2014年06月25日

宝くじが当たりそうで困る場所


その昔、空から寛永通宝が降臨した土地がある。
ありがたい。
善男善女がおしかける名所となった。
なんでも金運に恵まれるらしい。

ぼくは宝くじを買ったことがない。
買えば当たりそうだから。
(思い切って100円分買ってみようかな)
だって、この風景を見てしまったから。

ここは四国のとある場所。
さて、どこでしょう?

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実は一億円当たってしまって(内緒だけど)
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♩ ♩ 〜 〜 〜

駅のなまえはさまざま。
豊かな感性でつけられた駅もある。

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☆ ☆  ★  ☆ ☆ ☆  ★  ☆

ある夜、目撃したことをぼくは誰にも話していない。
徳島県東部のまちの某市役所が
深夜に出現したイカ大王星人に侵略されていたことを。

なかの職員が
そっくり地球人に擬態した宇宙人に置き換わったことを
誰も知らない。

でも、その恰好がちょんまげなのには驚いた。
きっと参照した
地球人擬態マニュアルのバージョンが古かったのだろう。

住民票を発行する振りをして
連れ去るべきかどうか画策しているかもしれない。

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彼らがやって来た日のことを覚えている。
火星が大接近した2003年だったのだ。
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彼らが生まれたのはM78星雲
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彼らの乗り物は孫悟空がかつて乗っていた
きんと雲なのだ。
おとといも飛んでいるところを見てしまった。
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月には兎がいないことを知ってしまった
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○ ◎ △  ■ ◆

子どもがこんなところでおしっこをしている。
誰か注意をしなきゃ。
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・・・・・・・・・・・・・・
サスペンスの撮影に欠かせないのは崖。
なら、ここはどう?

崖がありすぎてどこから飛び降りるか迷うって?
(確か浅見光彦のシリーズでも使われてような記憶が)
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・・・・・・・・・・・・・・・・
世界のどこかで愛を叫ぶのなら
こんな場所もある。
欄干がなく水面まで近い一本の橋で
いまにも落ちそうな女性を
助ける男性があなただとしたら?
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これは沈下橋だけど
別の場所では潜水橋と呼ぶ。
この場所はクルマもほとんど通らないから
昼寝している青年がいた。
橋の上で寝られる場所ってそんなにないでしょ。
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誰だ?
水のない山の尾根に船を建造してしまったのは?
その名も射手座造船所?
(確かにぼくは射手座だけど)

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そこからさほど遠くないところから
こんな風景が見られる。
景色も美しいが、横顔の女性も美しい。
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なんでこんなに高床式なの?
ネズミが多い地区なのか?
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¥・・・・・・・・・・・・・・・・

海まであとわずかという川なのにこの水質の良さ。
パラソルの大人が交替で子どもの水遊びを見守る。
忘れられた四国の一角の誰にも言いたくないこの場所で
夏を避ける。
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千と千尋の神隠しのあの湯屋はあるのです、たぶん。
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まだまだ続く、四国クイズ(いつのまにクイズに?)
有名なこの方、そして砂浜。
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太平洋に負けないぐらいまぶしい。
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・・・・・・・・・・・・・・・
四国一の清流のほとりで
野点をたしなむ蝉時雨の夏。
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これらは四国のどこかの光景。
全問正解の人はいないと思うけど
(いたら四国マニア)
きょうはこの辺で。
続きは気が向いたら、ね。




タグ:潜水橋
posted by 平井 吉信 at 23:27| Comment(0) | 趣味

2013年12月06日

速報 博報堂の雑誌「広告」(2014年冬号)に写真が掲載


今回は、お知らせです。
博報堂から発刊されている雑誌「広告2014年冬号
(2013年12月3日発刊)に
平井吉信/空と海の写真が見開きで2カット採用。

「広告」は1948年に創刊された博報堂の魂のような雑誌です。
現在では、市耒健太郎編集長の下、
「恋する芸術と科学」をテーマに季刊されています。
「理性と感性の融合」は平井吉信の実践でもあります。



タグ:空と海
posted by 平井 吉信 at 00:07| Comment(0) | 趣味

2013年11月24日

サクラソウ(園芸種)あでやか!

ぼくがこの種類の花が好きなことは
このブログをご覧になる方ならご承知のこと。

モモイロイワバソウ(仮称)を見つけに大川原高原に出かけ、
シコクカッコソウを求めて県西部の山を彷徨い、
岳人の森ではクリンソウに出会った。

可憐さと華やかさのふたつを備えた
日本の心、とでも言いたいサクラソウの仲間は
江戸時代から趣味の人たちによって育てられてきたという。

このところ、果実酒やマーマレード、シロップなどを
仕事の合間につくっている。
(朝から朝の3時まで仕事をしている人間なのに)

地元のレモンを分けていただいた人があって、
好物の蜂蜜づけにしておこうとしたら、
容器がすべて出払っている。

そこで、近所の量販店に見に行ったら
良いモノがあった。
岩城ハウスウェアの耐熱ガラス容器密閉パックという商品で
処分価格で売られていた。
おいしさを閉じ込めたい、匂いを逃がしたくない、
電子レンジにかけて調理もできるし、そのまま保存もできる。
こんな良いモノなのに、小松島の人は買わないの?
(あとで見たら、アマゾンより3割安い、もちろん全国最安値)

これにレモンの蜂蜜づけと、
ゆず、ゆこうのマーマレード(シロップ)をつくりおきしておいて
紅茶に入れて飲もうというもの。
(パンに付けるより香りが高い)
低速回転の電動絞り器は持っていて、
カレーなどの下ごしらえや、
りんご&にんじんの絞りたてジュースなどに活用しているのだけれど、
香酸柑橘(ゆず、ゆこう)には力が強すぎる。
手の力を加減して絞ることで
香酸柑橘のえぐみは出ずに、香りとまろやかさが活きる。
そのために手絞り器をインターネットで探してきて発注したところ。
だから、ゆず、ゆこうは数日後になるのだけれど。




話が長くなったけど、
容器を買って園芸売場を抜けようとしたら
目に飛び込んできた。
見るともなく山野草を見る訓練が付いているので
周辺視界にちらりと入ったら反応してしまう。
(サクラソウだ!)

価格は書きたくない(198円だなんて)。
自宅で大きな鉢に植え換えて
日当たりの良い玄関に置いてみた。

そして、ニコンの出番。
この色の出方は、
フジフィルム(X-Trans CMOSセンサー)じゃない?
といわれそうだが、
ニコンD7000にニッコール純正(60/2.8と70-200/4)。

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かわいいな、かわいいな、と思いながら何時間も眺めている。
晩秋の残照に照らされて
とろけるような淡い色彩に浮き立つ桃色のアルペジオ。
ペンをとめて見とれてもいいでしょうか?

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カメラプロファイルは、スタンダードかニュートラル(決してヴィヴィッドや風景ではない)
(↑ やわらかい階調にたゆたう色の遷移、それでいて立体感のある色彩ではないかと)
posted by 平井 吉信 at 19:35| Comment(0) | 趣味

2013年05月11日

体幹を意識して歩き、五感にスイッチを入れる。わかりやすい山野草はこの図鑑で

見ればみるほど見慣れない。
新種か?とわくわくした。

続きはこちらで。


posted by 平井 吉信 at 22:07| Comment(0) | 趣味

2011年04月21日

美郷の高開の石積み 天空の城


美郷(みさと)という地名はそれだけで得をしている。
美郷といえば、ホタルで有名だが、ぼくにとっては梅の里である。

近年は、自作の梅酒を浸けることが恒例となっている。
材料は、美郷の小梅(1kg)、カナダ産の蜂蜜(600グラム、後で適宜追加する)、
熊本の米焼酎(35度、一升弱)。

3月もすれば、新酒の果実の風味あふれる梅酒ができあがる。
市販品でこれほど無垢で滋味に富んだ梅酒には出会っていない。

美郷には、農家民宿がある。
地元産の野菜をたっぷり使ったランチを予約していただくこともできる。

きょうは高開地区へ。
高開(たかがい)地区には、高開の石積みがある。
代々、地元の高開さんが守ってきたもので、
生活空間を地元のご好意で見せていただいている。
見頃を迎えている芝桜をめざして登る。

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天空の城の花畑のよう。

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2006年11月12日

影絵となった波乗り。光を浴びるアシカ


1997年と98年にはプロサーフィン世界選手権大会が
海部郡と接する高知県東洋町の生見海岸で開かれ、
国内外から多数の参加者と観客がこの地域を訪れた。

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世界的な波とも評される海部ポイントや生見海岸では、
一年を通して波と戯れるサーファーの姿が絶えることはない。

晩秋の一日、室戸岬をめざす途中で足を止めた生見海岸。
蟻のような影絵が波に躍動していた。

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岬に向かって国道55号線を南下する。
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さらに数時間後、高知県野市動物園。
スポットライトを浴びるアシカを見た。

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