前々回に投稿した「
中鳥川 春の小川と桜の風景(美馬町)」は護岸工事をしていない。それを見て思いだしたのだ。
スイスでは自然を活かした近自然工法という河川工事技術が開発され、その技術思想を日本に導入されたのが、高知県の福留脩文さん((株)西日本科学技術研究所=当時の代表取締役)であった。
1990年代にスイスの技師、クリスチャン・ゲルディさんが近自然工法という、生態系の保全と治水の両立を図る河川工法を提唱。1970年代後半のヨーロッパで、行き過ぎた河道改修への反省から生態系を主役にする近自然工法が生まれた。その哲学として 「川は自ら形を作る能力を持っている」と考えて、生物工学(植生や木材、石材の活用)を駆使して川の自己修復能力を助けるというもので、コンクリートで固める代わりに、生物が棲める環境を残した治水を行うもの。
それは技術思想(理念)であるとともに、工学的な経験知の蓄積でもあったと思う。福留さんはこの技術を建設省や自治体などに啓発し、近自然工法の考え方を受けて、1990年に建設省は「多自然型川づくり」を河川局長通達として発令するに至った(平成18年には「多自然川づくり」に改称)。
ただし、スイスでは急勾配の川もあるものの、流量の変動が日本ほど極端ではなく、植物が根付くまでの時間的猶予(安定期)が確保しやすい環境があった。建設省の「多自然型川づくり」は、「コンクリート三面張」への批判に対する行政の回答ではあったが、当初は「多自然型」という名称が示すように、コンクリート護岸の表面に石を貼るような「化粧」に近い事例も多く見られた。
20世紀の終わり頃、徳島県庁にも近自然工法を研究している技術者がいて、自費でドイツとスイスに渡航されたと聞いた。その技術者とは、藤枝主市さんである。藤枝さんが県管理河川の宮川内谷川の改修を多自然型で行ったと聞いて、ぼくも現地へ見に行ったことがある。当時の県の労働組合には「県職労エコシステム研究会」というグループがあり、その会員だった藤枝さんから河川工学や河川工法について教えていただいた。
その藤枝さんが本日(2026.4.9)の徳島新聞に東みよし町の町長選に新人として挑戦されるということで記事が掲載されている。吉野川ハイウェイオアシスの横を流れる谷川を黒川原谷川というが、「黒川原谷川で環境を学ぶ会」の代表もされており、数年でゲンジボタルが蘇ったことが新聞記事として掲載されている(2022.7.17徳島新聞記事)。
ぼくの知人で国会議員選、県知事選、市町村長選や県議選などに立候補された人は少なくない。そのなかには選挙に散った方もいれば、いまも活躍されている人もいる。いずれも地盤、看板、カバンを持たないが「なんとかしなければ」の動機からである。そうでなければ政治の世界など誰が好き好んで飛び込むものか!(しかしまだ書けない多くのドラマもある)。
環境保全とは技術のみでなく、そこに住民参画が基本として存在する。藤枝さんが特に大切にされていることではないかと推察する。このブログにも政治に対する投稿は少なくないが、どの政党がよいか、右か左か、保守か革新か、賛成か反対かなどではなく、人々の幸福を願って、どうすればそのような政治が行われるかをいつも考えている。ご了解いただきたい。
ただし、このまま高市首相が居座れば大変なことになる(その理由はこれまでも書いたとおり)。困難なときこそ、与党も野党もなく多くの知見を集めて議論しなければならない。独裁をリーダーシップとは呼ばない。どうかデマやショート動画ではなく自分の感性で判断して! このままだと国民から憲法改正を要求して暴走する首相を辞めさせるしくみをつくらないといけないから。
さらに同じ頃、新潟大学の大熊孝教授とも交流を深めた。大熊先生の言葉で宙で覚えているのは川の定義である。
「川とは、地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である。」
高知県には、野中兼山の残した山田堰があり、物部川まで見に行った。
→ 物部いざなぎ流 神々に寄り添う村
http://soratoumi2.sblo.jp/article/62203171.html徳島県には、日本一の規模を誇る水害防備林がある。池田町から岩津まで全長50km、面積270ヘクタールにも及ぶ。この竹林についてはこちらに書いてある。
→ 吉野川中流〜日本最大の竹林
https://soratoumi.com/river/tikurin.htmなお、不思議なご縁であるが、上記の記事に掲載している地形の俯瞰図を描画する「カシミール3D」(パソコン用ソフトウェア)を開発された方が、後に徳島県南部に移住されて、いまも交流していただいている。
1996年8月開催の水郷水都全国会議・徳島大会の事務局として関わった際、多くの有識者や著名人らと意見交換を行う機会に恵まれた(この大会には、河川技術者のみならず、さまざまな分野で一流の方々に集まっていただいた)。当時の徳島新聞は数ページを割いての特集記事が組まれたほどであったが、記者の方々はざっくばらんに出入りしており、ときにキャンプに行くこともあった。
スイスの技術をそのまま導入できなかった最大の理由は、勾配が急で、梅雨や台風時の「ピーク流量」が凄まじい日本の河川の特性にあった。スイスで成功した杭と粗朶(そだ)による護岸は、日本の洪水では一瞬で流出してしまう。福留脩文さんは、クリスチャン・ゲルディさんから学んだ技術思想を、伝統工法の枠組みで日本的に再解釈したもの。河床が動く日本の河川において、「壊れないが、硬すぎない」柔構造を作るかがカギとなった。
近自然工法が日本に受け入れられた土壌には、明治以前の伝統工法との親和性があった。武田信玄の「聖牛(せいぎゅう)」や、石を籠に詰めた「蛇籠(じゃかご)」などは、水のエネルギーを完全に遮断するのではなく、透過させたり減勢させたりする思想に基づいている。また、近自然工法が提唱する、生物の隠れ家としての石積みは、日本の伝統的な「牛枠」や「出し」が作り出す水制の機能と類似のものであった。近代土木が力(コンクリートの質量)でねじ伏せる思想だったのに対し、近自然工法と日本の伝統工法はともに、流体としての水の性質を利用する方向性は一致していた。
1990年代から現在に至るまでの日本の河川工学の変遷は、まさに「コンクリートによる封じ込め」から「自然との共生」への転換と言える。スイスの近自然工法や、日本の多自然型川づくりは、単なる施工技術の移転ではなく、日本の風土や伝統工法との衝突・融合を経て、現在の「流域治水」へと結実していった。
そこでは、環境か安全かといった二択ではなく、住民参画も川づくりの要素となったことや、あふれることを前提に、ハードのみならずソフトを用いたしなやかな治水思想が採り入れられていった。ただし「再自然化」に至っては未だ道なかばの感がある。これについては住民意識が影響しているのだろう。いまだに、草が生えたような手抜き工事(のように見える)施工よりも、コンクリートぴかぴかの豪華な設備でないと許してくれない向きもあるのだろう。現在の国民の多くが高市政権を支持していることからも民主主義の道はまだまだ遠いことがうかがえる(しかし諦めないこと!)。川は行政が管理する排水路ではなく、地域住民が愛着を持つ公共空間なのだ。
この歴史的変遷で、大きな役割を果たしたのが第十堰をめぐる住民の取り組みだ。日本一の暴れ川(基本高水が日本一)にあって、吉野川の下流に江戸時代中期から三百年近いときを経て現存する第十堰。最大の特徴である斜めに置かれた構造は、流体力学的・土木的合理性に叶うものとなっている。川を横断する直線的な堰ではなく、斜めに長く配置することで「越流長(水が乗り越える幅)」を稼いでいる。これにより同じ流量でも越流深(堰を越える高さ)が抑えられ、構造物にかかる水圧と、堰を越えた後のエネルギーを最小化している。増水時、水は堰に対して直角に流れようとする性質があるが、斜めの堰はその流れを微妙に誘導し、一箇所にエネルギーが集中するのを防ぐ。これが、日本一の暴れ川に300年耐え抜いた「しなやかさ」の一部である。日本一の暴れ川でこの第十堰が存在している事実は重い。日本の治水史、河川工学において究極の教科書ともいえ、第十堰は300年近く前に、日本の温帯湿潤気候の風土との対話の中で導き出された成っていく構造のひとつである。
さらに、堰は魚類の遡上を阻む壁になるが、第十堰はそうはなっていないことを観察している。第十堰は完全に水を遮断する壁ではなく、潮の満ち引きや流量の変化に応じて、水が隙間をくぐり抜けてしみ出す。この多孔質的な性格が、シラスウナギやアユといった多様な生物の移動を可能にしている(実際に第十堰左岸の直下流の水は劇的に澄んでいる)。石組みを中心とした伝統工法は上堰に残されている。その表面の凹凸や石の隙間が、小さな生き物たちの足場や隠れ家となり、多様な生態系をもたらしている。
→ 第十の堰物語
https://soratoumi.com/river/daiju.htm第十堰を巡っては、可動堰化計画をめぐる論争があった。そこでの議論は、「古いか新しいか」でもなければ、「環境か安全か」でもなく、「持続可能かどうか」(安全と環境を両立させながら将来的に管理していく)にあったと思う。その意味では治水と文化の分水嶺でもあったのだ。
コンクリート構造物は百年もたない。第十堰は部分的に補修されているとはいえ、三百年近い時間が経過している。壊れたら自分たちの手で(そこらにある建設重機と地元の材料で)修復が可能である。人口減少、国家財政の危機のなかで、高度経済成長期に整備された、橋、道路、ダムなどが老朽化して決壊のおそれが出てきたとき、予算がないから何もできない、のは大きなリスクである。第十堰にはそのような心配が少ない。
近代土木(コンクリート治水)が普及する過程で、川は管理される対象となり、一般市民の手から離れていった。しかし、近自然工法や伝統工法が持つ「等身大」という性質は、技術を再び人々の手に取り戻す力を持っている。下関大学の坂本絋二先生からは、ヒトと川の相互作用についてのご示唆をいただいて「成っていくしくみ」を紹介した。
→ 「モタセと中技術」
https://soratoumi.com/river/motase.htmこれは、「維持管理しながら使い続ける」「洪水をしなやかに受け止めながら命を守る」という日本古来の川との付き合い方が、「いつかは破綻する」「安全に見えてその実、被災したときの途方もないリスクに直面する」思想よりも、強靭(レジリエント)であることを証明している。
近代土木は「絶対に壊れない」ことを目指すが、東日本大震災のように自然はそれをいつかは凌駕する。一方、等身大の技術は、壊れることを前提に、すぐに直せる設計。住民や地元の技術者が自ら石を積むことで、「この川はどこが危ないか」「どう流れるか」という身体知、経験知が地域に蓄積され、いざという時の避難行動や減災意識にも直結する。かつての日本には「水番(みずばん)」や「土手見」といった役割があり、住民が日常的に川の状態を観察していた。第十堰の周辺の古老からも似たような話を聞いている。
川を専門家(土木技術者)だけに任せず、自分たちが関わりながら、等身大の技術で修復したり、そこで遊ぶなどして関係性を築いてきた歴史は文化的な遺産としての価値もあるが、第十堰が今も生きた「資産」として機能しているのは、それが致命的に壊れなかったからだけではなく、「人と川の関わり、成っていく構造体」として機能し続けてきたから。「等身大の技術」とは、人間が川の動態を自分ごと(地域の事象)として引き受けられるサイズの技術のことをいう。
「災いがあるからこそ、敬い、慈しむ」。この日本古来の自然観(大熊先生の川の定義)にもあるように、吉野川を通じて「しなやかな関係性」を次世代へ引き継ぐために、便利なインフラの享受者から、川の守り手、川づくりの担い手として関わっていくことが求められている(姫野雅義さんや関わった多くの人たちに想いを寄せながら)。