2013年11月10日

時を計ると書いて時計 けれど「時」を創造したのは誰? 「時」を刻むのはいつ?

高校の時に読んだ相対性理論は
いまでも脳裏に焼き付いている。
一般相対性理論では、
光速度一定の事実から時間と空間を結びつけたが、
時間は、誰にも等しいものではないという。

時間と空間の関係、重力と空間の密にして不思議な関係。
人は等しく「時」を与えられているように見えて
実はそうではない。
一方、量子力学では、位置と運動量を同時に決められない。
人生においては、
ヒトによって時間の密度が違う。

時間の経過の満足度/経過時間 = 生きがい
ということになるのだろう。

しかし、ここでの時間は「誰」にとっての時間なのか、
満足度の主体は「誰」の「どんな基準」なのかによって
数値は変わる。
生きがいすらも相対的なもの。

「時」は時間という量で表示する。
そのために使っているのが時計。
身に付けるのが腕時計。
針の動きは、生きがい方程式の連続する計測点を意味する。
そのことを感じつつ、腕時計を見ている。


高校の頃に買った白いシチズンの時計。
そして、社会人になって同じシチズンのチタンの時計を買った。
とても軽くて着けているのを忘れるほどで
アテッサの金のロゴデザインがチタンの地金の色に
絶妙に映えてこの腕時計はお気に入りだった。
バンドも文字盤もすべてチタンの同系色。

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長年使っているが、いまだに不備はない。
困ることがあるとすれば、
時刻合わせがしづらいこと。
日付が必要な機会が多いので
(しかもきょうは何日かいちいち覚えていないので)
人に聞いたりケータイのカレンダーを開いたりして確かめる。
電池交換もなかなか煩わしい。

そこで、シチズンの電波時計かつ電池交換の不要なソーラーで
日付を合わせる必要がない腕時計を探していた。
もちろん、そんな時計はたくさんある。
カタログも取り寄せた。販売店の店頭でたくさん眺めた。
でも…ピンと来ない。
(こんなときは無理して買う必要がないのだ)

そして数週間が経過したある日、
仕事の帰りに、近くの時計店に立ち寄ってみた。
ウィンドーを眺めていると、目に止まった時計がある。
シチズンのソーラー電波時計だが、見たことがない機種である。
(腕時計は実用と考えているのでブランドモノの装飾性の高い時計やクロノグラフには興味がない。逆説的に言えば、腕時計はその人の世界観を投影する)

手にとって眺めてみると、時計から夢や愉しさが感じられた。
腕に付けているだけで幸福感が沸き上がってくるような。

この時計に出会うまでは、黒の文字盤を探していた。
黒の文字盤に銀(白)の針はコントラストが高く見やすい。
視認性が高いということは、さまざまな場面で有利である。
ちらりと見て正確な時刻がわかると、日常では利用価値が高い。

だが、黒の文字盤の時計はなんだかしっくり来ない。
視認性が高い、という理由で選ぼうとしたけれど、
(ここから先は個人的な見解で間違っているかもしれないので話半分に)
黒の文字盤は、実は視認性が高くないのではと感じた。

日中の明るいときは瞳孔が開いているので、
黒い文字盤は洞穴のなかを覗き込むような感覚で
瞳孔を調整する時間を必要とする。
従って黒の文字盤は見やすいとはいえない。

日没や夜間のわずかな光量の際は、
文字盤が光を吸収するので
これまた黒の文字盤は決して見やすいとは言えない。

つまり腕時計の視認性は、黒と白のコントラストの高いものが
必ずしも見やすいとは限らないということに気付いた。

さらに、文字盤と針のコントラストが高くても
文字盤が見えないと時間はわからない。
結局、腕時計の文字盤は
日中、夜間を問わず白が見やすいと結論した。

あとは、文字盤と針の関係性だけに注目すれば良い。
文字にすれば理屈っぽいが、感覚である。
寝ても覚めてもあの時計が脳裏から離れなくなった。

店頭で見たその時計は
メーカーのWebカタログからも消えている。
2010年6月の発売ながら
生産中止となっていて店頭在庫のみという。
しかし価格は安くできるとも。

2010年製といえばまだ新しい。
キャリバーもシチズンの上級機種で使われている定評のあるもの。
10気圧防水やチタンの軽量化、一定時間発光する針もいい。

モノが精神に与える幸福感はあると思う。
仏教ではそれを執着心と戒めるのだろうが、
その考え自体が執着しているようにも見える。
(とらわれてはいけないという心がすでにとらわれている)
感じたまま、良いモノは良いのだ。
楽しいことは楽しいのだ、と思う。

その時計はシチズンのEBG74-5091という機種。
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針が尖りすぎていないのがいい。
シチズンの他の機種は針が長く尖っているが、
そのことで時間に追われている(刻まれている)錯覚を受ける。
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軽いのは当然だが、見る人がみればわかるきらめきは
この時計の外面的な装飾から来るものではなく
日本的な研ぎ澄まされた和の配色と
簡素ながら内に力を秘めた造型から来るのだろう。

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虹色に光るのは、白蝶貝に縦に彫りを入れているから。
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温もりのある光の下では、温もりを反射する。
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暗闇では貯えた光をぽっと浮かび上がらせる。
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以前に使っていたアテッサはチタン色(あめ色)。
この時計のセンスの良さはその後、どこからもお目にかかれない。
経年変化でリューズを引きにくくなっていることから
事実上、日付と時刻合わせはほとんど行わない。
それでも、日差数十秒に収まるので実用上問題はない。
この2つの時計を併用していく。

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5分に1度文字盤を眺める。
蛍光灯、白熱灯、太陽の光で微妙なきらめきを見せるけれど
それはその光を観ようとする人のみに見えるもの。
この時計は白蝶貝の虹の反射光を除けば「純白」である。
ときは誰にでも平等に与えられているように見えて
実はそうでないことに気付いていたので。

時間を計る道具は、世界(時間)が限られていると伝える。
だから、すばらしい可能性があることも教えてくれる。
そのひと刻みが一瞬にして通り過ぎる一期一会なのだから。



アマゾンではまだ手に入るようだ。
最後の1本となっているようだが…。

posted by 平井 吉信 at 01:53| Comment(0) | くらしとともにあるモノ
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