ここは、那賀川下流の岩脇地区。
集落の南には、県下最大の河川、那賀川が流れる。
那賀川を上流から俯瞰すると、
国のダム計画を止めた木頭村がある。
一日の降雨量1,317mmを記録したのもその辺り。
剣山の南麓の木沢村を流れる最大の支流、坂州木頭川と合流し、
ダムのある上那賀町、相生町を東流し、
鷲敷町の鷲敷ライン(鷲敷町での急流渓谷)を経て、
阿南市と接しつつ、
羽ノ浦町、那賀川町を経て海へ辿り着く。
下流にアゴヒゲアザラシ(なかちゃん)が出現したことで話題になった。
子どもの頃、那賀川へ鮎釣りに出かけた。
釣り方は、ウキを付けて毛針を流すトバシか、
錘と返しのない針を付けて上流から下流の川底を引っかけるコロガシ。
赤松川ではドブ釣りをしたこともある。
(毛針を付けて淵を上下させる初期の釣り)。
下流といえども那賀川の水は澄み、
川に行くとスイカの匂いがした。
ぼくの川の原体験は那賀川だった。
ここに母親の実家があった。
古いアルバムには、
嫁ぐ前の娘(母のこと)とその父が那賀川に佇み、
娘が日傘を差して
父(おじいのこと)が鮎釣りをしている写真がある。
おじいの昔話によれば、
那賀川を「大川」と呼び、
裏にある小川を「浦川」と呼ぶ。
浦川では、鮎はもちろん、
地元でキギン(ギギ)が取れたという。
(キギンはナマズに似たおいしい淡水魚)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%82%AE
ところが、話の舞台となった浦川は地図に載っていない。
もし埋め立てられたとしても
河跡は地図上の地形から辿ることができるのだが、
痕跡は見つからない。
やはり現在の北岸用水が浦川の末裔ではないかと推察。
北岸用水は、羽ノ浦町古毛地区にある北岸堰から取水して
南岸用水と合わせて約4千ヘクタールを潤すもので
全国「疎水百選」(那賀川用水)に選ばれている。
http://www.weblio.jp/content/%E9%82%A3%E8%B3%80%E5%B7%9D%E7%94%A8%E6%B0%B4
さらに、浦川から離れて小川があったと聞いた。
流れが早く深い浦川とは違って
(母の弟は北岸用水=浦川で流されて九死に一生を得たという)、
その小川は川幅はそれほど広くなかったという。
今回は、「その小川」を探す物語。
少し長いですが、お付き合いください。
生き証人であるおじいはすでに天寿を全うして他界しており、
その娘の記憶も薄れている。
それでも少しずつたぐり寄せていく。
「その川は浦川から数十メートル離れた北にある」
(地図上からはその地形もしくは河跡はうかがえない)
「川沿いに桑の木が見事な花を咲かせていた」
(川がコンクリートで固められたのでいまもあるかどうかわからない)
「下流へ行くと北へ向けて曲がるところで川幅が拡がって大きな川になる」
その地形が唯一該当するのは2箇所。
こちらは北岸用水。
(Googleマップで、33.942657,134.621399)
こちらは北岸用水の分派で、
もしかしたらこの分派して北へ向かう流れのことではないかと。
(同 33.944303,134.611741)
果たしてそんな川があったのか?
また、浦川と北岸用水の関係はどうか?
とにかく現地を歩いてみることにした。
また、必要があれば地元の民家を訪ねてみようと考えた。
この地区は、新しい橋がかかり、
高規格道路が集落を通っていく。
そのため、新築の家と更地になった土地が散見される。
数年のうちに風景が変わってしまうだろう。
北岸用水が分派して北へ流れる地点に辿り着いた。
子どもの頃にはたくさん咲いていたツユクサが点在している。
これもあまり見かけなくなった。



小さな小川だが、河畔林がある。
もしかしてこの川が「もう一つの川」かもしれない。


いずれにしても、カギとなるのは「北岸用水」。
その成り立ちが謎を解くヒントになるのではないか。
ここでしばらく北岸用水に立ち返ってみよう。
那賀川という暴れ川は、豊富な水量を持つ半面、
全国有数の多雨地帯を流れるだけに
ひとたび洪水となれば手が付けられない。
江戸時代の阿波藩では、吉野川下流域の沖積平野を藍作、
那賀川下流域のデルタを稲作を中心とする治水方針を定めて
治水に尽力したらしい。
人と川の関係は濃厚であるとともに、
ときに運命を左右するできごともある。
叔父(母の兄)は大水の那賀川で
アユ漁に出かけて帰らぬ人となった。
川が好きで川のために一生を捧げた姫野雅義さんは
大好きな鮎釣りの最中にいのちを落とした。
阿南市内に住んでいた義弟の父も
釣りに出かけて三途の川を渡ってしまった。
父は人生を終える間際に、
もう一度鮎釣りがしたかったと言った。
人は川から離れて生きていけない。
ぼくも川から離れては生きていけない。
川について、
新潟大学の大熊孝先生が定義した言葉が好きだ。
このなかにすべての要素が含まれている。
「川とは、地球における水循環と物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
海や川で水死する人が後を絶たない。
現場を見に行くと、なぜこんな場所で?と首をかしげる。
(いのちを落とすような状況とは思われない)
子どもの頃からもう少し海や川と付き合っていたなら
(そして正しい知識を持った親が身を持って接し方を教えていたなら)
事故に遭わなかっただろう。
遊泳禁止の立て札を見る度、
原発もそうだが、現実から目を反らして
かえって危険に陥っている社会が透ける。
現場を見ていつもそう思う。
北岸用水は分派しながら那賀川北岸、
小松島の一部に至るまでの広範囲な地域を潤している。

分流する際は、
水位、水量がそれぞれの土地の利害の対立となる。
右岸と左岸、上流と下流…。
いったい誰がどのような調整を行うのか。
どんな取り決めがあるのか。
沖積平野が多い日本では、
治水とともに利水が欠かせない。
先の大熊先生の言葉はそのことを指摘している。
利水については下関大学の坂本先生とともに
吉野川を観察した際に記録した文章がある。
「モタセと中技術」
先人は石ころひとつで分水を巧に行ってきた。
また、あえて壊れる構造とすることで、
矛盾する要素をうまく解決してきた。
日本の文化の良さが治水、利水に凝縮されている。
ところが、現在の河川工学は古に学ばず、
川を人間が意のままに管理することを前提としている。
国家財政のひっ迫、人口減少等を見据えて、
先人の思想、知恵をいまの技術方針として位置づける必要がある。
有史以前の那賀川は、
羽ノ浦の山麓と阿南市大野地区の山麓の広範な地域を
流れやすきを求めて自由に蛇行していたはず。
それでは人間の暮らしが困るので
水が流れても差し支えない場所を人間が決めた。
それが土手(堤防)である。
川は堤防で締め切られた空間を流れるが、
堤防の内側(集落側)には流れない。
土手を決壊させる洪水もときにはあるだろうが。
かつて流れたことのある河跡が池や湿地、
小川となることもあっただろう。
ドンガン淵は明らかにその地形である。
(33.941215,134.606134)
洪水との歴史は史跡や祭りなどに面影を留める。
子どもの頃、この地区では、
毎年8月16日には「水神さん」の祭りがあり、
夜店とともに花火が上がるのを土手から眺めていた。
水神さんが祭られているところは
取水堰(取水口)があったと伝えられる。
地形を見ると、なるほどとうなづける。
(33.941749,134.61906)
これを見ると、北岸用水も先人が掘削した用水や
旧河跡をつなげたり拡幅したりしながら
ところどころに設けられた水門で
いまも水利を調整している。
ここで、北岸用水が分派する地点にある農家の庭先で
脱穀作業をしているおじいさんに話を伺うことにした。
すると、以下のことが判明した。
・浦川とは北岸用水の古毛の取水口からこの辺りまでの呼び名である。
・この農家の上手で分流して北へ向かう流れのひとつがかつての浦川である。
・北へ向かう浦川と並行する2つの流れのうち、北側を「シンユウ」、南側を「ハリユウ」という。
・南へ向かう主流(北岸用水)は新たに掘削したもの。

これらの情報から想像を交えて整理を行うと、
・分派流のうち、下流の畭(はり)地区へ流れているゆえに「畭ユウ」ではないか。
・水の流れが変わって水が来なくなった地区に新たに水利を提供するのが「新ユウ」ではないか。
・「ユウ」とはなんだろう? どんな漢字だろう。「ゆる」の意味ではないか? そこから変化したものではないかと。
ご老人にお尋ねしたが、わからなかった。
北岸用水は昭和30年頃に築造された
古毛地区の「北岸堰」から取水された流れであるが、
途中までは浦川=北岸用水であり、
最初に分派する地点から
北へ向かう流れのひとつが浦川ではないのだろうか。
一方で分派から南流する北岸用水の本流は
掘削した人工の流れであるが、
水神さんのある地点でかつて引き入れた流れ(古庄用水)と合流する。
いずれにしても名前を変えながら
過去に拓いた先人たちの用水を拡幅したり、
旧河跡などをつなげたり拡げたりして
コンクリートで固めたものが北岸用水ではないか。
現場の探索、地勢の検討、現地でのお話などから
浦川の北にあった小川は
「シンユウ」である可能性が高まった。
結局、この川が探していた小川(シンユウ)と同定

かつて、砂底で川岸に草木があった小川はたくさんの生き物を育んだ。
小エビ、シジミ、ヤゴ、タニシ、ゲンゴロウ、ミズスマシ、
コイ、フナ、タナゴ、
アユ、ハエ(オイカワ)、イダ(ウグイ)、カワムツ、
ウナギ、ナマズ、ギギ、
そしてそれらを食べるサギやコウノトリなど。
これらは田んぼの延長線であり、
田と田をつなぐ生物の回廊であり、
子どもの遊び場だった。
幼い頃、遊んだ小川を人は忘れてしまうけど、
鮭が生まれた川に戻るように
住んだ場所のなつかしい川を
いつか思い出すときが来る。
ところが、
小鮒釣りしかの川の姿はもう見つけることはできない。
心で生き続ける風景と
現実の光景が夏の陽射しで溶け合うとき
ふるさとの小川は脳裏に蘇り、
子どもに還る。
人口は減少し、土地は余るようになる。
かつての小川を、地域の人々の手で再創造すること。
その流れが田畑だけでなく
人々の心を潤せるのではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
那賀川下流の写真集
春の那賀川 古毛の北岸堰が背後に見える。

北岸堰より上流にある十八女の堰
流れに垂直な部分で水位を確保しつつ
後半は大きく湾曲して水流と並行になる。
写真からは、この右岸が水衝部(水が当たる)なので
堤防の洗掘を防ぐために、右岸側を湾曲させて
左岸へ向かう流れとした。
今度は左岸が掘れるので
垂直に設置した左岸側の堰の越流とぶつけて
影響を緩和した―。
河川工学からはそう読み取れないこともないのだが、
専門家のご指摘を仰ぎたい。
いずにれしても、
吉野川の第十堰とともに土木資産としても見逃せない。
穴吹川にも湾曲斜め堰がある。

鮎釣りの頃の北岸堰


幼い頃、遊んだ那賀川の河原。春はツクシを取った。

菜の花に彩られた堤外の散策路。橋ができてこの風景は見られない。

下流といえども流れは早い。
かんどり船もこんなところで錨を入れては
船は泊まらない。

北岸用水の夏場の水量は多い。この流れは大人とて抗えない。

迷い込んだアゴヒゲアザラシは「なかちゃん」として親しまれた。

ドンガン淵は現在は公園として整備されている。

春のドンガン淵には桜を求めて人々が集まる。

ドンガン淵から本流へ流れ落ちる川。
この舟だまりから、叔父は船を出そうとしていたのではないか。

国道55号線を越えてさらに東へと北岸用水は続く。

追記
川の呼び名は地元の抑揚に従ったほうが良いのではないか。
那賀川は、なかがわを平坦に、最後の「わ」を上げ気味に発音する。
ところが、共通語のように
「か」にアクセントを置いて後半は下げる。
これでは「那珂川」(関東)になってしまう。
地元の人にこのアクセントで質問すると、
「ナカガワ」(?)と一瞬思考が止まり
前後の文脈から
「ああ、那賀川のことか」となるだろうから。
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