2012年09月28日

YouTubeで思い出す70年代、そして21世紀の「いろどり」へ


かつて(1970年代近辺)の歌が聞きたくなったらYouTubeを見る。
ヒットした曲も、あまりヒットしなかった曲も
インターネット上に映像(音楽)がある。

「あった」。
思わず、声を挙げてしまうこともある。
例えば、スマートフォンがなくても少しも困らないが、
YouTubeがなくなったら人生の楽しみが消える感覚。

そこには、フォーク・ロック、GS、ポップス、
人気テレビ番組の主題歌や劇中歌など、
見たいものがほとんど揃う。
歌は無言のうちに多くを語り掛ける。
一つ一つの曲を聴いていると気付かないが
連続して聴くと
感じられることがある。
(YouTubeには同じアーティスト若しくはカテゴリーが並んでいることが多い)

それは、哀しみをうたっても詩人の嘆きであり(=詩情)、
明日は別の気分が新しい風とともに訪れるだろうとでも言いたげに。
歌は確実に時代を刻む。
憂鬱は知的なポーズだったのかもしれない。

歌とともに当時の人々の日常を映し出した映像があった。
ローカル線の車内では座席の上に正坐している中年女性がいて、
少し離れた場所で子どもが吊り輪にぶら下がって遊んでいる。
休日は家族のお出かけでどこも押し合いへし合い。
帰りのクルマは疲れた家族が不機嫌に。
小学校でプールに入る前に準備体操を行うとき、
一人の教師が途方もない人数を引率している。
子どもは気もそぞろで、準備体操はまちまち。

望むと望まないにかかわらず、
大勢の集団が生まれると競争を意識する。
でも、まわりをみると、
自分と同じように悩んだり笑ったりする人がいる。
ああ、どこも同じなんだという安心感、
社会への帰属意識が連帯感のように編み込まれている。

でも、この時代、
みんなが同じ方向を目指しているように見えて、
管理されないすき間があって、
それが心地よさでもあった。

そのような社会の喧噪や混乱のなかに
未来への希望が横溢していた。
それは、子どもがたくさんいた(=発展の原動力)からかもしれない。

いまはどうだろう。
今世紀初頭から人口は減少をはじめ、
少子・高齢化が加速をする。
縮小する国内市場は縮小する市場、経済活動を意味する。
モノ余りはその象徴である。
もし、手に入りにくいモノがあるとしても、
それは限定的にモノを流すマーケティングの意図か、
メーカーの財務流動性を重視する在庫政策か、
はたまたインターネットの特性か
(滅多に売れないマニアックなニーズをくまなく照らすロングテール化により、マニアックな商品がマスコミや口コミで瞬く間に売り切れる)。

かつてより自由の範囲が拡大しているにも関わらず、
未来の選択肢が限られている。
何をやってもいいのに、やれることは限られている。
かつての「すき間」は勢いのある流れがもたらす、
ちょっとした淀みのようなものであったが、
それは可能性の孵卵器でもあった。

いまの「すき間」は人の心のすき間(=虚無感)であり、
人々は漠とした寂しさを感じているようにも見える。
物質的なゆとりは増えたが、
競争心は消えつつあり、閉塞感が漂う。

このような時代に
事業仕訳のような「効率」の視点で判断する考え方が機能するとは思えない。
制度(しくみ)の是非を問うよりも、
それを運用、実行する担い手の意識(熱意、創意工夫)が
はるかに重要と感じる。

新しい政治の動きへの渇望は、
閉塞感を打破して欲しいからであろうが、
しくみ(既得権)そのものが弊害になってしまった
現状打開への期待感があるのだろう。
しかし、思いつきを羅列しただけの提案は混乱を招くだけである。

使命感を軸に、直感で見出した方向性に、
論理の組み立てと検証を行うプロセスが不可欠である。
 
映画「人生いろどり」が盛況である。
モデルは、上勝町の「いろどり」というコミュニティビジネスであるが、
成功の原動力を人間の動機面から図式化してみた。

理念から行動へ.gif

まず、底辺にあるのは、横石知二さんの使命感。
大寒波で壊滅的な被害を受けて
心の灯火を自ら消そうとしていた人たちにやるせなさを感じ、
なんとかしなければという強い思いが原点にある。

ゆえに、ある日見た光景
(すし店で、つまものの葉っぱを愛おしそうに見る女性客の姿)
に感性がひらめいた。

この状態は大脳生理学的に説明できる。
「どうすれば良いか」を来る日も来る日も
寝る間を惜しんで考えに考え抜く。
脳は極限まで追い詰められ、
うわごとのような日々が続いたに違いない
(それは壮絶な脳体験かもしれない)。

けれど、この過程を経ることが、
次の飛躍(発想)につながる。
あるとき突然、脳の神経細胞(ミューロン)が
これまでと異なる化学反応を起こす。
頭が割れるような、脳に亀裂が生じるような
(光があふれるようなダイナミックな瞬間ではないだろうか)。
それは異常な快感をもたらす。
このことは経験した人でないと分からない。

感性とは、理念や使命感があってこそ沸き起こる。
形式的なブレーンストーミングで
理屈を組み立てた机上のアイデアには使命感がない。
「思いが花を咲かせた」脳は、
次々とアイデアとそれを実現するための行動を生み出す。

もちろん、コトは簡単に進まない。
自分の考えに賛同してもらうまでには
賛同しない人に態度を変えてもらわなければならない。
「自分の考え方とは違うけれど、あんたを信じる」と。
それで反対者がようやく中立におさまる。
ここまでに途方もないエネルギーが必要となる。

それをやってのけたのが横石さんである。
その横石さんを動かしたのは使命感(理念)以外の何物でもないだろう。

思いに裏打ちされたアイデアと実行があれば、
手段(戦略)は無数にある。
ところが、世の多くの人は、
この手段だけを知りたがる。
「いろどり」では国内外から視察が絶えないが、
ノウハウは惜しみなく出している。
けれど、いまだに上勝町をおびやかす産地はどこにも現れていない。
このことがすべてを語っている。

ビジネスもそうだ。
儲かる商売、売れるチラシやインターネットの方法はありますか?と聞かれる。
それはある。
あるにはあるが一夜漬けの魔法に過ぎず、
誰にでも何度でも通用する普遍性はない。
手法(=他人の成功体験の抜け殻)をなぞる前に、
思いや洞察力がなければ。
そして、それを地道に継続して実行できるかどうか。

「いろどり」は、時代にヒント(光)を投げかけている。


 
 
 


タグ:音楽
posted by 平井 吉信 at 01:02| Comment(0) | 生きる
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