2026年05月06日

平等寺からクスの大木が並ぶ轟神社へ(阿南市新野町)このまちなみはどのようにつくられたか?


徳島新聞に轟神社の紹介記事が掲載された。以前からまちなかにありながら森に囲まれた神社の外観が遠目に見えて気になっていた。けれど、まちなかの生活道を分け入っていくのが億劫で(おそらくクルマを停める場所もないだろうと考えて)行くことがなかった。

四国霊場札所の平等寺に参拝して、そこから徒歩で桑野川沿いに上っていく。すると、阿波銀行の看板が見えてくる。銀行の支店はそれなりのまちの中心地(経済活動の中核)に置かれるものである。このまちなみがどのようにつくられたのかをブラタモリ風に考察しながら、神社の風土を見ていく。

新野町
明治22年(1889)の町村制施行により、豊田村・荒田野村・廿枝村および下福井村の一部をもって新野村が発足。大正4年(1915)には新野村が町制を施行して新野町となり、昭和30年(1955)に橘町・福井村・椿町と合併して橘町に統合されたのちの昭和33年(1958)に阿南市が誕生し、現在の阿南市新野町となった(ウィキペディアより)。

平等寺(四国八十八箇所第22番札所)
平等寺は徳島県阿南市新野町にある高野山真言宗の寺院で、山号を白水山、院号を医王院と号し、本尊は薬師如来。四国八十八箇所第22番札所であり、阿南室戸歴史文化道にも指定されている。寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れ、さらに薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いたとされる。その水で身を清め百日間の修行をし、薬師如来尊像を彫って御本尊とした(ウィキペディアより)。

轟神社
轟神社は814年(弘仁元年)に大和国の龍田神社の分霊を勧請して創建したと伝わる。祭神は龍田風神と呼ばれ、農家や航海業者の信仰が厚い神とのこと。境内には樹齢700余年といわれる大樟が群生し、徳島県の天然記念物にも指定されている。大クスの根元に白蛇2匹が棲み、時にふれ轟明神の使者として境内に現れ、これを見た者には幸福が訪れるという伝説がある。

桑野川を挟んで、仏教(平等寺)と神道(轟神社)が対峙するように配置されるまちの構造がある。轟神社は地区の産土神で、寺と神社を結ぶ動線が、地域のコミュニティ形成の核となっているようだ。

この地区を歩いて不思議に思ったことがある。商店街でも住宅街でもなく、企業や商店が点在する落ち着いたまちなみがどのように形成されたのかということ。それはおそらく、明治期から昭和期にかけて隆盛を極めた「タケノコ缶詰産業」の歴史にある。新野地区は、県内のタケノコ缶詰の発祥の地といってもよいと思う。

新野町民史によると、新野での缶詰製造は明治時代後半(1906年頃)から始まったとされる。もともと農村の副業として始まったため、住宅地や農地のなかに出荷組合や個人経営の工場が点在するかたちであった。1927年(昭和2年)には産業組合直属の工場が創設され、ミカン缶詰などの多角化も進んだ。

中世以来、遍路道が通る宿場として人と物資が集まる構造が定着し、もしかしたら桑野川の水運も活用されたのかもしれない。平等寺が存在することで、遍路宿・門前商業・善根宿を呼び込む経済基盤ができた。現代も遍路客が新野町を通過するルートは変わっておらず、地元の商店・宿・食堂の需要を下支えしているといえるのかもしれない。

そして、地場産業の資金需要に応えるため、1900年代前半から金融機関が拠点を構え、現在も阿波銀行新野支店、徳島大正銀行新野町出張所(ATM)、新野郵便局が維持されている点は、新野が周辺の村々を束ねる経済の拠点であった歴史によるものだろう。さらには新野小学校、新野東小学校、新野中学校、阿南光高等学校 新野キャンパス(旧・新野高校)がある。

新野高校といえば甲子園。1992年の第64回選抜高等学校野球大会では、初戦の横浜高校に7対3の逆転勝ち(6回までノーヒットで敗色濃厚だったと記憶)。1996年の第78回夏の甲子園では、日大山形に2-0で勝利し、2回戦では明徳義塾(高知)に4-3で競り勝つ(3回戦では松山商に敗れたが四国勢で潰し合うというくじ運の悪さ)など、「ミラクル新野」「タケノコ打線」などと呼ばれた。竹は成長著しいときは1日に1メートルぐらい伸びるといわれるが、打線の勢いを表したものだろう。

企業では、製造量日本一の栗甘露煮などをつくる食品工場のメグミフーズ(株)が轟神社の近傍にある。タケノコの水煮では、(有)北村食品や西地食品(有)など。西地食品さんは自家栽培の良質の香酸柑橘果汁があって、ぼくもときどきユコウ果汁を購入している。サツマイモなど菓子材料の一次加工や給食デザートで知られる浅井缶詰(株)は冷凍ゼリーの自社ブランド「とくれんプデナー」が関西方面の子どもたちに親しまれている。菌床シイタケのほだ木や椎茸を生産する新野木材(株)(「あらたの」ではなく「しんのもくざい」と読む)、食品以外では打ち上げ花火製造の(有)岸火工品製造所、土木建設や施工の分野では、森崎建設(株)、(有)司工業、(有)青江建設、阿水工業(株)などがある。

さて、今回は初訪問の轟神社を見よう。境内にそびえる樹齢約750年以上のクスノキ群は、鎌倉時代にこの地の有力者(近藤氏)が苗を寄進したことに始まると伝えられる。この神木を町民が総出で崇めてきた歴史があり、信仰が町づくりの時間軸の中心に据えられている。
ご祭神は「龍田風神」であり、農業や航海業者の信仰が厚い神。風を司る神を祀ることは、気候に左右される農業を営む在所の人々にとって大切なことだったに違いない。

桑野川を遡っていく。前投稿で掲載した写真の再掲(長生町を流れる桑野川)。この日は強風で、カメラを構える視野を静止できないありさまだった
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新野町の下流、山口町にある新井堰。桑野川をゴムチューブで膨らませて水位を調節する
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新野町にある堰。堰体が水流の一部をいなす構造で、ゴムチューブ製のように見える
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平等寺に参拝
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轟神社に到着すると風が止んだ。龍田風神という風の神を祀るだけあって御利益なのか
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大クスの根本に龍田風神からの使者として、タツナミソウが遣わされた? 強風に揺れる風情を眺める
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オオクスは10本ある。視線を下に向ければ太い根。仰ぎ見れば空を覆う枝葉
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神社の由来やクスノキの説明
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数多くの植物が着床している
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神社をあとにする
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新野の町並みは、クスノキを育んできた長い時間と信仰の上に、タケノコという山の幸を加工・流通させる産業が上書きされてできた。落ち着いた雰囲気の中に企業や商店、民宿などが点在するまちなみは、信仰によって守られた静謐な空間と、経済活動の営みが、桑野川沿いで均衡を保っている。


posted by 平井 吉信 at 17:24| Comment(0) | 山、川、海、山野草
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