2026年03月30日

「さらば涙と言おう」(森田健作さん)がいま語り掛けること


世界を見れば、トランプ、ネタニヤフ、プーチン、習近平、金正日といった独裁者が我が物顔で社会を混乱と分断に陥れている。中国、ロシア、北朝鮮では厳しい締め付けでデモは起きないが、アメリカ全土では反トランプの人々が声を上げている。これらの指導者の系列に加わった(といっても過言ではないだろう)高市首相についても(なぜか報道されないが)退陣を求める声がデモとなって首都圏でうねりとなりつつある。自由と平和とはほど遠い、同調圧力、性差別の容認(女性天皇、選択的夫婦別姓は認めない)、金権政治や統一教会への崇拝、議論を否定するかのような独善的な国会運営、トランプへの迎合など、かつてこれほど堕落した首相があったとは思えない。

以前の投稿にも書いたが、日本のアキレス腱である、ホルムズ海峡の封鎖と、もうひとつのアキレス腱である南シナ海の海上封鎖(中国)のうち、前者は実現してしまった。

高市政権と中国政府との関係悪化は過去最悪で、観光客もレアアースもそして南方からの食糧や原料も、南シナ海を経由する海上輸送ということにほかならない。中国大使館で起こったあるまじき犯罪についても日本政府の対策は施されているとは思えない。このまま対中関係が悪化すると悪夢となる(トランプには犬のようにすり寄っていくのに)。

誰に迎合する、誰に媚びる、誰に屈するなどという話ではなく、イデオロギーの話でもない。独裁に突っ走る国々のようにはならないで、まっとうな理念を持って、誰に対しても筋を通すことが、国際社会で日本の信頼と存在感を上げることであり、ひいては日本円の価値や国民生活に反映されることになるはずである。日本の持つ潜在的な可能性(豊かな精神性)は、世界のなかでも屈指のものだと確信しているが、高市政権が台無しにしている(豊かで力強い日本とか、挑戦する未来とは真逆の行動だろう)。

21世紀を振り返れば、東日本震災(2011年)当時の管直人首相は自ら福島原発上空を飛んで指示を出した。未曾有の事態に腹をくくったからだろう(危機管理上の問題を指摘する声もあるだろうが、あの局面を判断し意思決定するにはあれが必要だったとぼくは思う)。あの頃の円相場は1ドル80円ぐらいで、いまの資産価値(国富)の倍はあった(円が安くなることは世界に対して国や国民の資産が減少することを意味する)。物価は安く、マクドナルドのハンバーガーが100円を切っていたし、ガソリン代も1リットル100円に近かった。高速道路は1000円でどこまでも行けた。消費税は、2014年に5%→8%、2019年に8%→10%と税率改定がなされた。ぼくは無党派の人間で民主党支持者ではないが、震災が起こったことを除けば、いまよりはるかに暮らしやすい社会だった(「悪夢の民主党政権」というレッテルを貼る人がいたが、いまと比べてどちらが豊かな社会だったか? たった15年前のことですよ)。

近年では、石破首相が21世紀の自民党政権では出色だった。さまざまな声に耳を傾け、誠実に実行していたが、自民党内の金権議員の圧力に屈してしまった。石破政権は野党ではなく自民党内の魑魅魍魎にやられてしまった感がある。世論を味方に、自民党を割るぐらいの腹をくくってほしかったのだが、第二次政権の機会があれば、今度は胆力で押し通してほしい。

政治の話をしているが、ほんとうに言いたいのは、本質を見ようとする国民の意思(洞察)と他者の心の痛みに思いを馳せながら幸福を願う心。その理念と魂を一人ひとりが持たなければ、第二第三のポピュリズムの化け物が選ばれてしまうから。

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さて、音楽の話題へ戻そう。1970年代は青春ドラマがまっさかりだった時代の、主題歌が「さらば涙と言おう」(森田健作さんの歌、阿久悠さん作詞、鈴木邦彦さん作曲・編曲)。ドラマそのものはエンターテインメントそのもので特に深いものはないけれど、「吉川君」や「丹下竜子」はよかったな。でもやっぱりこの主題歌あってのもの。

何がいいかって?
まず、調性(キー/D)がいい。ニ長調は前進する意思を感じる。わかりやすいコード進行の随所にセブンスが使われて次の解決の安堵感や高揚感につながっている。

歌い方がいい。森田さんは、歌い出しの「さよならは誰に言う、さよならは悲しみに」で、リズム隊よりも早く駈けだしている(次のフレーズからはテンポを掴んで以後は合っている)。作り手たちは歌の勇み足に気づいているはずだが、それでも修正をしなかったのは、完璧なリズムよりも衝動や熱量が音楽を動かす瞬間を大切にしたかったのだろう。忙しい関係者の合間を縫っての一発録りだったのかもしれない(楽曲を聴ける人は自分の耳で確かめてほしい)。この楽曲のテーマは青春の焦燥やまっすぐなまなざしだから、これでいいのだ。

アレンジがいい。ぼくは楽器のプロではないので間違っているかもしれないが、ハーモニカの前奏が甘酸っぱい青春の余韻を乗せて、ドラムスやベースのリズム隊のほか、華麗なブラスセクションを配置しながら、間奏や歌の合いの手に、スチールギター(ペダル・スチールギターか?)、哀愁をそそるハーモニカが効果的に使われている。しかも、「さみしさも 悲しさも 幾たびか出会うだろう」の部分などでは、ブラスセクションが沈黙して、ストリングスのオブリガートと淡々と刻むリズム隊に森田さんの声がぽつんと浮かび上がる(内省的な歌詞の内容を活かす)。断片的に合いの手を入れるスチールギターも独白のようだ。力強いブラス(人前で見せる笑顔)と、切ないハーモニカやスチールギター(自分を見つめる心)の対比が感情を描きわける。終結に向けては金管部隊も合流して、みんなで行こうぜの力感を打ち出す。リズム隊は、前奏や間奏は気持ち早め、歌のパートはやや落としているように聞こえる。デジタルにはない人の手の温もりや揺らぎが心地よいのかもしれない(AIにはこの投稿のようなでこぼこの文章は書けないのと同じ)。

調性(D)、歌手、作詞作曲編曲、演奏者が一体となった奇跡の楽曲ではないか。たとえ試合に負けても、恋に破れても、その過程で流した涙を「さらば」と肯定し、明日への糧にする。この過程の美学が、競争社会に身を投じ始めた当時の日本人にとって、癒やしであり、エネルギー源だったのではないか。

でも、70年代のまっすぐさ、青臭さを笑えるのか笑えないのか。むしろ、予定調和のナラティブに組み込まれ、集団の空気を読むことを強いられる現代において、たったひとりでも立ち向かう勇気や情熱を感じることができるかどうか。

今、この楽曲が問いかけるのは、集団の力で駆け上がる高揚感はなくなった時代に、別の意味で集団が悪い方向へと無邪気に無意識に、ゆでガエルのごとく進もうとしているときに、それに迎合したり流されたりせず、自分の道を行くという孤独な決意への鼓舞なのかもしれないと思う。

posted by 平井 吉信 at 23:42| Comment(0) | 音楽
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