2026年03月07日

勝浦町坂本地区の集落 その落ち着いたたたずまいの理由


かつて上勝町へは坂本地区の旧道を通らなければならなかった。それは集落を縫う道で、勝浦川の支流、坂本川に沿って遡っていく。途中でホタルの名所、与川内の沼谷川と合流し、山裾を抜けて標高を上げながら、坂本集落の真ん中を横切り、坂本峠の坂本隧道を抜けて上勝町福川地区で勝浦川に再び出遭う難所であった。

この道は上勝町から小松島市、徳島市方面へ抜ける唯一の道でもあるので(大川原高原へ抜ける道もあるのだが)、狭い道をカブやら軽トラックやらが往来していた時代があった。それが坂本バイパスが開通したのが1990年12月。2.2kmのこの道は坂本川の右岸をあっという間に走り抜ける。

ところで勝浦川の唯一のダム、正木ダムは上勝町にある。坂本地区からはすぐの場所であるが、このダムができたのが1977年のこと。ダム完成後から勝浦川の水量は減り、夏場の水温は上昇し、透明度が落ちた。洪水が少なくなったことで横瀬の河原には草が繁茂しており、川底を一掃する大水が少なくなった証し。苔の状況が悪くなったことで勝浦川下流のアユ釣りは終わったように思う。坂本バイパスができる前は坂本地区の旧道を建設車両が通っていったことになる。想像力を働かせると往来が大変だったのではないかと推察。

下流から坂本峠越えは難所であったと見えて、峠の手前には坂本八幡神社を過ぎて峠の手前には商店街のような店が並んだ。集落の中心にあったのは坂本小学校、坂本郵便局、坂本八幡神社と、標高にして170〜180メートルぐらいの場所が地区の中心である。

坂本地区は、阿波の豪族が祈願所を置いたほど重んじられた山間の要地であり、その歴史の積み重ねが落ち着いた佇まいと、格調ある民家の景観に反映されている。坂本八幡神社はまさにその歴史を今に伝える集落の精神的な核心ともいえる。

坂本小学校は1990年に休校となり、その後、坂本グリーンツーリズム運営委員会が2002年3月にグリーンツーリズムの拠点「ふれあいの里さかもと」として運営を開始。以後23年の歩みを経て2026年9月に閉館したのは前々投稿のとおり。

2007年9月30日には、水俣市役場OBで「地元学」を実践している吉本哲朗さんをお招きして、ふれあいの里さかもとで勉強会が開催されたことがある。そのときのメモを見返しているが、吉本さんはこんなことをおっしゃっていた。
・「グリーンツーリズム」は使うな。ヨーロッパからの輸入された横文字は使わない。向こうは3週間の休みがある。日本で同じ概念でやっても、やっている人たちが苦労しているだけ。根っこがないところからは育たない。日本の伝統に接ぎ木する。根本にあるのは生活。生活を楽しむ旅と言い換える。
・伝統とはなにか。それは、同じことをしないこと。それがエネルギーを生む。つくることを伝統にしたら力が出る。(よさこい祭りなど)。古いものに創意工夫して変えていくこと。老舗のお菓子も同じ。
吉本さんは、「もやい直し」の合言葉とともに坂本に何かを残した。
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坂本といえば、県職員で那賀町副町長も務めた新居正志さんからも情報のご提供をいただいた。この界隈には起業している若い人が多い印象がある。何か挑戦する若者を応援する風土があるのではないか。そういえば、田舎トライアルハウス坂本家というお試し移住のしくみもある。興味ある人は調べてみて。

坂本地区は八幡神社だけでなく、集落を歩くことをおすすめする。1時間程度で回れるのではと思う。坂本八幡神社のひなまつりの帰りに坂本集落の坂本川沿いを歩いてみた。

早春のタチツボスミレを見てうれしくなる。花弁の色彩は淡く気品がある
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坂本川沿いに集落が展開する。
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坂本地区は、田園風景のなかに武家集落の雰囲気を感じる。その由来と歴史的背景を考察する。

勝浦郡は、勝浦町と上勝町の2つの町で構成されているが、かつては上勝町全域が「坂本村」に属していた。享保元年(1716年)の記録にも「勝浦山坂本村」として一括されており、坂本は文字どおりこの谷奥一帯を代表する中心地だったという。

明治初年の「旧高旧領取調帳」には、全域が阿波徳島藩領として「坂本村」の名が記載されており 近世を通じて一貫した行政単位であった。

武家の気配が漂う由来を探ってみると、坂本八幡神社の由緒と深く結びついていることがわかった。阿波国の豪族・麻植遠江守が平間の地(現在の権現山)に八幡宮を勧請し、祈願所としたことがこの地域の歴史の始まりと伝えられている。

麻植氏は阿波国内で活躍した武家勢力で、麻植遠江守は1500年代前半に活躍した人物と伝えられており、創建から500年以上の歴史がある。このような有力武家の祈願所を中心とした集落構造が、坂本川沿いに悠然とした構えの民家が立ち並ぶ景観として現在まで受け継がれていると考えられる。地形的に山間の奥まった地であることが、戦国期の武家が拠点を置くにふさわしい防衛性の高い地であったことも関係している。

次に坂本八幡神社の由来を探る。坂本八幡神社は、全国的にも多い誉田別命(八幡神)を御祭神とする八幡神社で、本殿に加えて摂社・末社を祀る。かつて豪族・麻植氏の祈願所であったが、1598年(慶長3年)に松尾・黄檗の両村氏が現在地に移し、村民共同の神社にしたと推測される。明治5年に村社となった。

現在の本殿は安政五年(1858年)の建立。麻植遠江守が始めた正月弓初め式は一旦中断したが、承応二年(1653年)頃より境内馬場で的矢神事として再興され、新春恒例神事として賑わった。現在の神社に馬の銅像があるのはその由来である。

享保元年の記録に坂本村が「勝浦山坂本村」となっていて、坂本村以奥の現在の上勝町区域の村名はすべて勝浦山坂本村に一括されていたことから、坂本八幡神社は「勝浦山総鎮守」として親しまれてきた。

この神社には、全国的にも珍しい「七社七鳥居参り」の言い伝えがある。古くから春秋社日(春分・秋分の日に最も近い戊の日)に、川を渡らずに7つの石の鳥居をくぐり、7つの御社(三島社・蛭子社・八坂社・八幡社・若宮社・地神社・秋葉社)を参拝すると、中風にならないという言い伝えがあり、この条件を満たすことのできる稀な神社となっている。
※大きな神社で川を渡らずに鳥居を7つくぐって7つのお宮にお参りするのは簡単そうに思えるが、「石の鳥居」が意外となく、全国でも数少ない神社となっている。七鳥居に沿って約300段の石段があり、石段の脇には5対の狛犬が置かれている。

さらに、八社の御社、八対の狛犬、八基の鳥居と、「八」の数に統一されており、末広がりの「七転八起」の運を開く大願成就のご利益があるとして広く信仰されている。

主な年中行事は、初詣、戎祭、祈念祭(としごいのまつり)、鎮火祭、夏祭、例祭(秋祭)、新嘗祭、七五三詣と、年間を通じた祭事が執り行われている。夏祭(7月)と例祭(10月)には花火・だんじり・みこし・餅まきなどが行われ、地域の賑わいの場となっている。

→ 坂本八幡神社についてはタグから
posted by 平井 吉信 at 21:50| Comment(0) | 山、川、海、山野草
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