音楽っていいなと思う瞬間は、人生に数回ではなく、頻繁に訪れる。噛みしめるという感じ。それもじわじわと沁みてきて、さらに花がひらいていくような心の動き。頭のなかで彼女の声と楽曲が鳴る。だから現実(再生音)と脳内(記憶=聴きたいという思い)を一致させるのだ。
それは、秋の吟遊詩人(とぼくは呼んでいる)、作詞作曲で歌う藤本恭子さんのアルバムを手に取る時間が増えてきた。ぼくが音楽を聴く深夜では気温が下がり始めている。髪を扇風機で乾かしながら環境照明で手元を照らしてCDをマランツ(SACD 30n)のトレイに置く。
ストリングスが足下から立ちこめてきて、ピアノと絡みあい、そこへしずしずと声が波紋を拡げていく。恭子さんが同じフレーズを異なる歌詞で繰り返しながら高みに昇っていくと転調して「もう一杯だけローズティください」と綴る。ストリングスもピアノも声を引き立てる脇役でありながら、音楽の佇まいを決定づける。毎回同じ体験をしているのに、また感動している(ローズティーをもう一杯)。音楽ってこうだったよね、という感慨とともに、あてどもなく時間を遡る。
音楽を短調と長調に分けるとしたら、長調が好き。短調には調性に支配されてたどり着く不自然な音符が気になるから。長調ではそれがひらいていく。だから音楽の基本は長調と思っている。だけど、恭子さんの短調は作為性がない。この人のあるがままの姿が短調を自然に響かせているのだと思う。ギターのアルペジオもいい(冬の詩)。
もしかしたら短調と長調が交錯してどちらの調性なのかわからないというのが自然体の短調かもしれない。心弾むときと沈むときの二面性を水面に映したような楽曲「うれしい時も かなしい時も」は、D♭Major/B♭minorが明滅する。でも3曲目で何かがひらいていく感じがする。
その次の楽曲「春」は、明らかに場面が変わる。初春の兆しを秘めたこの楽曲もDmajor/Bminorがおだやかな光のなかで明滅するようだ。1枚のアルバムとして連続する時間(心)の流れを感じる。繊細でおだやかな女性なのだろうと作者を思う。
次の楽曲「透明な夢」では、北欧の春の到来を思わせる張り詰めた透明感のたゆたい。清少納言の詩に、グリーグが作曲したかのようだ。
日本語をとても大切にしている。日本語の語感とそれを歌ううたいまわしも。前の楽曲に続いて「せせらぎ」もモノトーンのなかに無限の階調が折りたたまれているかのよう。
マイナーな曲調であっても、その次の「フリュギアの丘」は編曲ともあいまって少しだけ古代オリエンタルの世界観。久保田早紀がうたっても似合いそうだ。
一転して口笛が導く弾むような前奏の「美術館行きのバスに乗って」は全編どこをとっても長調の糸で紡がれている。なんだかスキップした少女が誇らしげに風を切って髪が揺れている風情。このアルバムでもっとも好きという人も少なくないだろう。オアシスのような位置づけで、このタイプの楽曲がもう1曲あってもよいかもしれない。恭子さんの歌い方もスタッカートで軽やかに弾む。
叙情的なピアノの前奏を聞くと長調の楽曲かと思うが(香る花)、実は短調(Dminor)に彩られているというように、左右、白黒、上下のような区別を付けない楽曲の揺らめきが魅力といえる。
最後は地球の黎明に気づいた夜明けの決心とでも形容したい楽曲「私の中の小宇宙」で締めくくられる。アルバム全曲を通して世界観が統一され、質の高い楽曲とそれを活かす編曲、そしてていねいに歌を載せていくので、全編を通して音楽にひたひたと浸ってしまう。「しあわせの彩色」を深く愛する人はきっと少なくないと思う。売れる売れないなど音楽の価値にとって意味がないことを改めて意識する。
手元にあるのはファーストアルバム「しあわせの彩色」とセカンドアルバム「時の岸辺」の2枚。このうち「しあわせの彩色」は気に入って新品を追加購入して未開封で取って置いたもの。ぼくが持っているCDでは間違って重複したものを除いて、時間を置いて2枚手に入れたのはこのアルバムだけである。その封印を20年ぶりに解いた2025年9月。CDは1992年の発売で、最初の版はおそらく初出盤、2枚目はまだカタログに残っていた2005年頃に通常価格で入手したもの。
マニアックな話題なので興味ない人はこの段落を飛ばしていただくとして、この2枚のCDの再生音に差があったのか? 1枚の再生回数は多く、4桁は行かないけれど3桁は越えていると思う。それだけレーザー光に照射されていることになる。CDは、暗く良好な環境で保存している。1枚目は初出盤なので33年が経過していることになるが、未開封だった2枚目と比べて音質の差は確かにある。でもそれは劣化というよりは進んだエージングの差といったニュアンス。音がこなれてきめ細かいのが1枚目、音の鮮度がやや高いのが2枚目だが、これはニュアンスの差。CDメディアは劣化するといわれているが、それは再生回数や年数ではなく保存によるのではないか。少なくとも33年選手の1枚目からこなれた音質は感じるけれど劣化は感じない。
セカンドアルバム「時の岸辺」は2025年の9月にやってきた。新品での入手は無理だろうと程度の良い中古をずっと探していた。おそらくこのアーティストを聴く人はCDをていねいに保管する人だろう。そう思ってヤフーオークションを見たら、未開封品が出品されていた。すぐに最低価格で札を入れたが、そのまま時間が経過して落札となった。送料を入れても新品の1/3程度だった。
1枚目の「しあわせの彩色」は、90年代の日本のポップスでは出色の品質ではないのだろうか。全10曲は藤本恭子さん作詞作曲、編曲は、大島ミチルさん、吉川忠英さんなど。楽器は、ピアノ、ストリングス、ギター、ヴァイオリンの生楽器の生演奏、ドラムスは隠し味といった程度。ここでは声が主役。お姫様を引き立てる脇役たちといった趣きだが、脇役も名手たちがずらり。この録音は手間と費用がかかっているはず。
先頃入手した2枚目「時の岸辺」も1枚目の延長線上にある。作詞作曲はすべて本人で、編曲は大島ミチルさんを中心に数人で担当。「しあわせの彩色」をつくった恭子さんの声はさらに伸びやかで抑制的というよりは開放的だが、節度はきいている。例えるなら、1枚目は録音に厳かに向かい合う、2枚目は録音を愉しむ。ていねいな音づくりには変わりなく、リズムを際立たせないよう音の出だしを弱めにして膨らませる歌い方は共通。数百回は聴いている「しあわせの彩色」ほどはまだ身近に感じられていないけれど、「時の岸辺」も好きになりそう。藤本恭子の共通の世界観の上に陽差しの温もりと吹っ切れた大胆さが加わった感じ。これからワインを熟成させるように聴きこんでいくつもり。
1990年代はバブル崩壊後であっても日本に勢いがあった。日常に遭遇する一人ひとりの憧れや悲しみ、詠嘆の思いを普遍化した音楽がつくられていた。藤本恭子(現 山田恭子)さんもそのおひとりで(いまはどうされているのだろう)、日本語の自然な文章を、ていねいにブレスして、楚々と歌うという音楽アルバムがいくつかあった。矢野顕子さん、大貫妙子さんなどのように作曲技法でとんがってもいないが、シンガーソングライターの典型的な私小説にもなりすぎず、等身大のおだやかな音楽といえばよいだろうか。
いまの時代のように歌詞を詰め込んで転調や移調の作曲技法や跳躍する音程に、ファルセット、早口でラップのようなスピード感を織り交ぜた忙しげな「タイパ」音楽でもない。退屈と紙一重の音楽のようで、語り掛ける音楽だが語りすぎず、弦楽器やピアノなどのアコースティックな伴奏も入れながら、全体としては寡黙だけれど、伝えたい思いがあふれる。このアルバムのように、声が主役だけど、前奏も間奏にも人の心が奏でる「音楽」があった。21世紀は四半世紀が過ぎたけれど、生の楽器と人の声とその合間の余韻に浸る秋の時間がなつかしくも切ない。
藤本恭子ーしあわせの彩色
藤本恭子―時の岸辺
タグ:藤本恭子
【音楽の最新記事】
- 「さらば涙と言おう」(森田健作さん)がい..
- 竹内まりや「LOVE SONGS」。80..
- 夏雲が…それぞれの象牙海岸―四国東南部の..
- FM FESTIVAL 2025 桑田佳..
- いつまでも「太陽・神様・少年」。そして「..
- 80年代の風はまだ熱かった kona w..
- 屋久島の自然音で 集中の前のひとときに ..
- 5月になると思い浮かぶ楽曲 なつかしく何..
- 天性のギタリスト 朴葵姫さん、ヴィラ=ロ..
- SACDで聴くEACH TIME(大瀧詠..
- 小暮はな「ホタルの庭で」 しずしずと、..
- 昼も夜もPolaroid Loveres..
- サッちゃんとシャボン玉
- 倍賞千恵子 叙情歌全集 日本語の美しさを..
- アリスの音楽を素材を活かして(SACDハ..
- 真夜中に波紋を拡げるように。オフコース「..
- A LONG VACATION 20th..
- 80年代とAOR いつの時代でもそれを必..
- 18世紀の芸術家は21世紀に自由な精神を..
- フランスの高原の素朴な歌曲集 オーヴェル..