2025年09月10日

民主主義の終わりに


人が行動するときは、「何のため?」などない無目的な行動がいいと何度も書いている。目的は一見やっていることを正当化する疑似手段にもなりかねないという警鐘である。もし、とある政治家に信念があって、それのみに照らされて行動できていたら…と思っているのは本人だけではなだろう。

裏金議員は公認しない、選挙区に立つなら刺客を立てる(これは小泉元首相が先鞭を付けた)。もしくは議員辞職を勧告する。あれやこれやと注文を付けられて理想の政治ができないのなら、開き直りが必要であった。

成果に挙げている対米関税交渉も一方的に不利な条件を呑まされただけで、これを成果とはとても呼べない(自動車メーカーなどは真に怒っているのではないか。場合によっては国交を断絶しても交渉する気概が必要だった)。物価の上昇はやまず、可処分所得が減少し続けて、ついには主食の米が買えずに備蓄米に群がる人たちを知っている。生まれ育った家庭で将来の夢や立ち位置が決まってしまう親ガチャ、教育の機会不均等、未来に希望が持てないので子育てなどやらないほうがまし、という感覚にはうなづくばかり。ヘイト的な差別はやまないばかりか、さらにひどくなり、優越感を持つ人と劣等感を持つ人に二極化して対立する構図が際立ってくる。国民が政治をあきらめるとますます加速するので、洞察力を磨きつつ政治参加を放棄してはならない。

いまの日本に与党も野党もないだろう。自民党支持者でも今回は見切りをつけられた人が多いと思うが、だからといって任せる野党はあるだろうか? 
以前からの持論だが、政党は解体して政治家個人がそれぞれの信条によってのみ政治を行なう。カネのかからない選挙や広報として、議員データベースを国の予算でつくり、それが情報発信の手段とする。政策ごとに賛否とその理由が簡潔に記載され、国民(閲覧者)が必要に応じて並べ替えや比較、さらには自分の重み付けで政治家を点数化できるようにする。これは政策活動費や政治資金パーティがそもそも不要となるしくみで、紐がつかない政治が実現する。ただ紐付いているのは国民の評価(良識)のみ。

政治活動もオンラインでの議会参加や政治活動が可能となるため、費用はかからず、そのため子育て中の女性やサラリーマン、体調不良を抱えた人、まちのパン屋、中山間地で田畑を守る百姓(この言葉を敬意を込めて選んでいる)も政治家になれる(ただしITがすべてという生活者の実感のない政治グループとは距離を置きたい)。

政治家の劣化、国民の民主主義への真の理解と熱意の低下は、日本に限らず独裁者を生み出し、それが世界を貧しく厳しく潤いのないものとしている。まるで戦前のようだ。自民党の総裁選に立候補しようとする政治家も戦争に向かって長いものに巻かれていく(後世からみれば)無能な政治家のように見える。

しかし、すべての人にとって、誰もが賛成できる国の運営方針がある。それは国民一人ひとりの幸福の実現が政治や行政の目的であるということ。それは一筋の流れが集まって大河となるように社会を変えていくはず。それに沿って政治を行なう議員個人を見極めることで国民も政治に間接的に参加できる。

民主主義の実験は終わり、社会が後戻りできない持続的な独裁主義と対立を煽る扇動家の牛耳る時代になったと認めることはできる。ぼくは抗うけど。
posted by 平井 吉信 at 22:47| Comment(0) | 生きる
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