研究すればするほど徳島人の身びいきではなく邪馬壹国阿波説が濃厚になっていく。阿波説を研究されている方に情報提供をしておきたい。
上勝町に市宇(地元ではいっちゅう)という集落がある。高丸山に近いほうから、八重地、市宇、樫原、野尻と尾根の集落が並ぶ。勝浦川支流の旭川沿いを走る県道沿いに集落は少なく、ほとんどは尾根に人々が住んでいる。尾根が移動の近道であったことによる。車道から集落へは上がれば集落が点在するという四国の山上集落の構図はここでも見られる。
市宇集落で農家民宿を営む方から2000年頃に聞いたことだが、尾根に近い平坦な場所があって、地元ではその場所を「テンノーハン」と呼んでいるそう。どんな字を当てるのか、なぜ、そうなのかをお尋ねしたが、昔からそう呼んでいるので由来はわからないとのこと。
市宇地区では、野良仕事でハミ(マムシ)に遭わないおまじないがあるという。
「我行く先に鹿の子まだらの虫おらばタマモノヒメに言付けやせぬ アビラウンケンソワカ(3回)」
「虫」という字は毒蛇のマムシをかたどった象形文字で、本来はヘビのこと。道中でハミ(マムシ)がいるようならタマモノヒメに言いつけるという口上だろう。アビラウンケンソワカは、真言密教の十三仏の中心をなす大日如来の真言(サンスクリット語)を引用してそれを3度繰り返している。この言い伝えがいつからあるかは定かではないが、真言密教を伝えた空海以後のことだろう。
蛇足ながら都道府県別では真言宗の割合がもっとも高いのは空海の生誕地香川県(確か浄土真宗西であった記憶がある)でなく、徳島県である。一番札所(霊山寺)も徳島県鳴門市にある。それにしても、どこか古語ゆかしい響きと真言を織り交ぜたこの言葉を誰が伝えたか?
それはもしかして空海本人ではないだろうか。平安時代では、阿波国風土記をはじめ、ヤマト王権初期の時代の文献や口伝が多く残っていたと考える。嵯峨天皇とも近しい関係にあったとされる空海はそれを知る機会があったことだろう。
尾根沿いの集落の意義について、実感しやすい数字を掲載すると、例えば、県西部の美馬市の三木家と上勝町の八重地集落の直線距離はわずか16kmであるが、車で移動すると最短ルートで72km、Googleマップ推薦ルートで88km、なるべく広い道(県道16号、国道55号、国道192号など)を採用すると100kmを超える。徒歩では、八重地→ 高丸山→ 雲早山→ 砥石権現→ 穴吹川の川井集落まで尾根伝いに歩いて下り、その後穴吹川伝いに三木家へと到達可能である。
民俗学的に意味があると思われる言い伝えなのでここに記しておく。教えていただいた方も80代後半であるので貴重な箴言が失われる前に、もう一度お話を伺いたいとも考えている。
→ 聞き取りの音声データtamamonohime.wav
ここからは、邪馬壹国阿波説にはおなじみの内容なので、上記とつながるかどうかを考察いただけるのではと。勝浦町沼江地区に、生夷(いくい)神社という延喜式神名帳に記載された由緒ある神社(式内社)がある。ご祭神は事代主である。事代主は恵比須・夷・蛭子・蝦夷(いわゆる、えべっさん)と同じと考えられている。
なお、美馬市つるぎ町半田には「天皇」という地名がある(国土地理院地図にも記載)。吉野川を挟んだ近傍には、全国で唯一国生みの女神、イザナミを祀る伊射奈美神社やこれまた阿波にしかない倭大國魂神社がある。阿波説では美馬地区と崇神天皇との関係性が説明されていたと思う。126代の歴代天皇で「神」と諡が付けられたのは初代神武天皇と第10代崇神天皇のみ。神武天皇が平定した倭(ヤマト)がその後乱れた(魏志倭人伝には女王卑弥呼の死後、倭国大乱が起こったが、13歳の女王を立てて内乱が収まったとある→ 復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定)。第2代天皇から第9代天皇までの記載がないのはこの時期に当たる(国を平定するために多くの犠牲が払われたのだろう。天皇自身も闘いで命を落とされたこともあったのではないか。それゆえ歴史には記載されないと考えるのが自然。ぼくは初代以降は実在の天皇と考える)。ちなみに、神武天皇も崇神天皇も御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)といわれる所以は、ヤマト王権国家の基盤を拓いた(創業者の神武天皇)、調えた(第二創業者の崇神天皇)と解釈できる。崇神天皇の日本書紀名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)で「みま」の文字がここに現われる。
余談だが、イザナギ・イザナミの国生神よりさらに古い神を祀るという徳島市の宅宮神社(えのみやじんじゃ)にいまも伝わる神踊り(県無形文化財)の踊り歌に、「伊豆毛の国の伯母御の宗女 御年十三ならせます こくちは壱字とおたしなむ」とある。これは卑弥呼亡き後、卑弥呼の血縁者で13歳で祭祀を行なう女王となった壹与(いよ)と読めるし、イヅモが阿波にあった証しのひとつだろう。誰もが知っている出雲大社は由緒ある神社だが、明治4年に改称される以前は「杵築大社」(きづきたいしゃ)であった。
剣山へ向かう貞光ルートの入口には美馬があり、穴吹ルートには、御殿人の三木家、磐境神明神社や白人神社があり、神山ルートでは粟国(阿波)の別称となっている大宜都比売を祀る上一宮大粟神社、その下流には(阿波説では卑弥呼の墓があると考える)天石門別八倉比売神社、佐那河内ルートには、天岩戸に比定する立岩神社(神山町)、さらに関連する天岩戸神社(佐那河内村)、さらに天岩戸と対をなす立岩神社(徳島市)がある。
三木家が麁服を調進して執り行われる践祚大嘗祭は、皇室で最重要な儀式のひとつで天皇即位時に新天皇がひとりで行なう。その部屋に入室できるのが三木家ご当主。皇祖神の御霊を降ろすお役目を担われているのではないかと推察する。祖霊を降ろすのは土地の祭祀者の役割としたら、高天原が阿波の山岳地帯にあったことになる。さらに当時の海岸線を伝って勝占神社(徳島市)、遡れば生夷神社(勝浦町)と事代主系の神社、さらに今上天皇が皇太子時代に行啓された八桙神社(大国主を祭神とする)とイヅモの世界が展開され、古事記の物語が等身大に展開される。
生夷神社はえべっさんの生れた地という意味で、周辺にはいまも勝浦町生比奈という地名がある。これは旧生夷村から由来すると思われる。さらに勝浦川の源流域には旧八重地村がある。事代主は八重事代主とも呼ばれることから、勝浦川中上流域域は事代主に縁のある地区とされる。このことからもイヅモは島根ではなく阿波にあったと考える。
古事記(近年に編者の太安万侶が実在したことが発掘で明らかになった)の国譲りの記述で、大国主に国を譲るよう迫る天孫からの使者に、大国主は釣りに出かけている息子の事代主に聴いてくれと告げる。使者が事代主に会いに行くと、事代主は国譲りを承諾する。争いを避けて国の統一の一助となった事代主の決断は尊い。これにより天照大御神からの天津神と、大国主や事代主などの国津神の血統が統合されて、初代天皇の神武天皇につながっていく。ただしぼくは両血統はもともとの祖先を一にするのではと考えている。
上勝町旭地区の稜線伝いの道が事代主ゆかりの「テンノーハン」(かつて貴人が通っていった尾根のルート)なのか。タマモノヒメが事代主の配偶者である玉櫛媛(たまくしひめ)を指すのかなど、ぼくの手には負えない。
生夷神社はそれほどの由緒ある神社でありながら、どこの田舎にもある神社とみかけは変わらない。むしろ豪勢な社殿をもたないのに長い年月地元の人々が祀り上げてきた身の丈のたたずまいに何かを感じることができる。
生夷神社からそう遠くない山麓に、山と同化したような蛭子神社がある
そのそばには、素戔嗚尊を祭神とする大将軍神社がある
勝浦川をさらに下って徳島市に入ると、勝占神社がある。この神社も事代主ファミリーに縁の深い神社のようである。当時はそのあたりが海岸線であっただろう。勝浦郡から阿南市にかけては阿波と古事記(イヅモ)の関連はつながっていく。