2024年12月28日

倍賞千恵子 叙情歌全集 日本語の美しさを凜と


前奏が始まる。歌が出てくるのを待つ。前奏からある程度、歌の(歌い方の)入り方は見当が付く、と思っていたら不意を突かれる。岩の割れ目から懇々と湧き出す石清水のように空気を震わせる。人の声がまわりの空気を共鳴させて空間が鳴っていき、空気に同化していく。言葉にすればそんな感じが倍賞千恵子さんのこの全集。

フォークや昭和歌謡の名曲、唱歌、童謡、西洋の古典歌曲から派生して日本語の歌詞が付けられた有名な楽曲、世界各地の民謡に起源して日本の伝統曲のようになった曲などテーマごとの6枚組全102曲の全集。

倍賞千恵子 抒情歌全集

歌の表現は楽曲によって変えているが、小細工はしない。ヴィヴラートは強くかけず、オペラ唱法とも違う。背筋を伸ばして崩すことなく、なよなよする表現は皆無だが、やさしさが底流を流れる。それでいて、気持ちが入った箇所では気持ち早めに入ったり、部分的に小節や伸ばす音で震わせる表現はある。特に高音で伸ばす音から下降する際にスラー気味(ずり下げ)に顕れる。

しかし音楽に浸れる、安心して身を任せられる。凜としてふくよか。金縛りに遭う瞬間がどの楽曲にもある。油断していると「違う世界に持って行かれる」感じ。2分や3分の短い楽曲でも。

第1集から「夏の思い出」。リバーブがやや深めだけれど、声帯の特定の帯域で共振するような音域と歌い方があり、尾瀬の沼にはまってしまう。それでもこの曲とともに尾瀬に行きたい。
「あざみの歌」「四季の歌」「雪の降る町を」(ブルース調の編曲が惜しいが)では、短調を憂愁にしない凜とした意志がある。「雪の降る町を」であの転調の瞬間に木漏れ日が射す。ああカタルシス。それなのに最後の審判のように終わらせるのも深い。これだけ豊かな表情があるのに楽曲が壊れておらず、この音楽の深淵が見える。オリジナルの「神田川」は男性がうたう女唄だが、女性の視点からの語り掛け、独白の世界観。ああ、「さくらさん」と腑に落ちた。

第2集では、倍賞さんならではの楽曲が続いた後、「岬めぐり」。失恋の男唄の歌い方ではないのに元の楽曲のすばらしさを再確認する。「星に祈る」の軽やかな歌い方は誰が歌っているかわかる人は少ないだろう。高音で絶叫せずディミニュエンドするニュアンスは自在。でも第2集は短調の曲が多いこともあって再生する頻度は少なめ。

それに対して第3集は叙情歌集の白眉というべき唱歌。全集のなかでこの第3集をもっとも聴くという人は少なくないだろう。「からたちの花」「砂山」「この道」 このように歌ってほしい(歌ってくれるだろう)の心のシナリオに沿って流れる。「浜辺の歌」では声帯と楽曲の区別が付かない一体感で魂を揺さぶられるが、原曲がつくられた時代の矜持さえ感じられる(大正時代の湘南の海岸がモデルとされるが、海がまだ人工的な海浜となる前の日本中どこにでもあった外洋に面した砂浜を思い描くことができる。原曲は変イ長調でテノールの音域であるため、これだと女声では高すぎるので倍賞さんやトワ・エ・モワの白鳥英美子さんもヘ長調へと下げている)。編曲も声を活かす簡素さで佳い。期待した「ゴンドラの唄」は青春の青さや高揚感をうたってほしかった。

すべての楽曲で最高かといえばそうではない(誰が歌ってもそれはない)。第4集の「赤とんぼ」(ぼくは唱歌のなかでこの曲に深い思い入れがあるので)は(倍賞さんの歌い方というよりは)編曲が楽観的で、なんだか寅さんのよう。姐やへの思慕とそれゆえの哀感、過ぎ去ったときへの寂寥となつかしさの入り交じる想いを湛えて時空の彼方に昇華させる、涙を湛えてほほえむあのモーツァルトの長調の楽曲のようにうたってほしい。「叱られて」は寂しさのなかのこみ上げてくる肉親の愛情を湛える。第4集はだめだよ、涙腺ゆるませ集。
でもストリングスの伴奏よりはピアノかギターだったらと思える場面は多い。裸の声が聴きたいときに、オケがムード歌謡調に誘導してしまうから。

庭の千種と銘打たれた第5集は自在に羽ばたいている。オリジナル歌手の存在がないことでのびのびと肩の力を抜いている、だからどんどん景色がひらけていく。もう誰がうたっても追いつけない感じ。

第6集の昭和歌謡もいい。「湖畔の宿」、当時を知らないけれど、淡々と運ぶ歌で情景が浮かぶ。「新妻に捧げる歌」には一抹の不安を打ち消す希望や未来の光が宿っている。ふと思ったけれど、加山雄三さんの楽曲を倍賞さんがうたうのはありかもと。歌詞カードは1頁に1楽曲が掲載されていてとても見やすい。

コロナやインフルエンザが流行している昨今、冬休みをじっくりと音楽に向き合ってみたい人にお薦め。昭和は遠くなりにけり、などとおっしゃらずに、若き倍賞さんの声に浸ってみては?
倍賞千恵子 抒情歌全集

蛇足

日本語が話せる人が少なくなっていくような気がする。少し遠回りするけれど書いておくね。
東京(とうきょう)をその文字どおりに発音はしない(でしょ)。近い音で表せば「と−きょー」。外国人には東京と発音するのは難しいようで、「と・きおぅ」と聞こえることが多い。大阪も「お・さか」。

ぼくがこれに気付いたのは20代前半に「四国カナダ協会」の例会に参加していた頃。日本人もカナダ人も気軽な軽食とビールを肴に会話は英語で行なう活動。地元のスーパーを「キ・ヨウエイ」とカナダ人のクララさんが発音していた。KYがKIOとなるのねと気付いた。

ところが21世紀になって日本人の日本語がおかしいと感じることが多くなった。NHKの連ドラの主題歌でAKB48がうたう「365日の紙飛行機」で、「…今日という一日が…」の「が」でひっかかった。これは日本人が発音する「が」ではないよ。このブログにも書いた記憶があるが、どうして関係者が気付いて伝えないのかと強く思った。楽曲は悪くないのだが、あの「が」が聞こえてくると朝のひとときが憂鬱な時間となってしまった。「ga」の「g」の成分が強すぎて言葉が歪んでいる。この楽曲の世界観はおだやかなもの。そうでなくてもこの文脈では「g」はかすかに入って後の母音が強勢となるように大多数の人は無意識に発音しているはず。日本語は母音のふくよかな響きが美しさの根源だから。倍賞千恵子さんのこの全集はそのような違和感はどこを探してもなく、日本語でうたわれた歌の美しさを堪能できる。宝物だね。
タグ:童謡・唱歌
posted by 平井 吉信 at 22:16| Comment(0) | 音楽
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。