(物語解説編)
鳴門秘帖(吉川英治)、阿波狸列伝(三田華子)といった名作は、剣山に幽閉される味方を救出する物語を含む。それは日常からの隔絶を表す。
剣山の西斜面には祖谷(いや)地方がある。東祖谷には日本の秘境を求めて海外から人々が多く来訪するようになった。東祖谷の知名度を世界的に広めたのはこの地に住んで発信を数十年続けているアレックス・カーさんの功績が大きい。
祖谷は平家の落人伝説でも知られ、秘境中の秘境であった。そこにかずら橋を架けて敵が襲来すると橋を落とす(退路を断つ)。その入口に当たる吉野川の渓谷、大歩危小歩危も東アジアからの観光客で賑わっている。大歩危小歩危と祖谷は同じ観光エリアでありながら客層が異なる。
剣山にはアーク伝説、ソロモンの秘宝が埋蔵されているなどの伝説があり、生涯をかけて研究している人もいるようだ。つるぎ町貞光から剣山をめざすとき、どうしてあんな場所に家があるのかと不思議に思う高い場所、尾根に近いところに民家が点在する。その急傾斜地での農業が世界農業遺産にも登録されている。昭和の時代には、大蛇を見たという人々が探検隊を結成してテレビに放映されたこともあった。ぼくも富士が池からの往路で2メートルを優に超える蛇を見て驚いたことがある。立派な蛇だが、大蛇とまではいかないかも。
剣山には山伏の修験の場、行場がある。険しい岩の割れ目や洞穴をくぐり抜けるもので、キレンゲショウマを見に行くときに少し寄り道すれば近寄ることはできる。
剣山の山頂付近はなだらかな山容で大人数が休憩できることでは有数の山だろう。ご来光を見るにはうってつけである。
剣山は、南斜面には那賀川最大の支流の坂州木頭川の上流部である槍戸川、北斜面は吉野川支流の穴吹川、西斜面は同じく吉野川支流の祖谷川の源流にあたる。穴吹川は四国一の清流として知られているが、人家のほとんどないエリアを多くの雨を集水するのだから清浄なのは当たり前。しかし昭和51年には剣山の北東斜面が崩落して穴吹川上流の深い渓谷を埋めてしまった。今日でもなだらかな源流部のままである。
剣山はリフトを使えば、天候が安定していれば容易に登山が可能である。しかし、富士山に次ぐ標高の高い測候所が設置されたことがあり、昭和40年3月16日には測候所職員が雪崩で殉職された。この測候所を建てたのは地元の北岡組。車道がないので索道を用いた人海戦術で生コンを運ぶなど苦難の建設であったという。
これまでもこのブログでは剣山の魅力をお伝えしているが、八月は「天涯の花」キレンゲショウマのほか、源流の谷、巨木の森、明るい稜線から見える亜高山帯の針葉樹林などを採り上げる。
(登山編)
リフトを使わない場合は剣神社から登り始める。県外から来てひとつでも多くの山座をめざす人はリフトは選択肢(巨木の森を見ることはできないが)。ただし、駆け足のピークハントでは剣山に限らず山の良さはわからないと思う。
劔神社の階段から登り始める
歩き始めてすぐに魅力的な森の風景が続く
やがてリフトの終着点、西島駅に着く。ここからは、右手(西)へは次郎笈へのトラバース、その次の右手が大剱神社経由の剣山山頂、稜線をたどるのが直登コース(途中で行場・一ノ森への分岐あり)へと分岐する。
道ばたの植物を見ていく。もっとも多いのはタカネオトギリという黄色い花
カニコウモリの群落を抜ける
シコクフウロも多く見かける。思いがけずコケティッシュな花弁が笹の間から見え隠れする。シコクフウロがあるから夏の剣山は愉悦感という人も
石灰岩地に生えるヒメフウロ。日本では剣山のほか、自生地はそう多くない
シシウド
よく似ているが、剣山固有種のツルギハナウド
不動の岩屋も行場のひとつ。この辺りは穴吹川の源流筋(源頭近く)
見上げた空はさらに高く
キレンゲショウマの自生地は穴吹川源流域。霧が出ると深山幽谷に黄色の花弁が頭を垂れて群生する。キレンゲショウマが宮尾登美子「天涯の花」の印象(月光の花は凛として気高い)に近いのは穴吹川源流をたどる上の道。
谷筋に咲くギンバイソウ。キレンゲショウマと自生地、花の時期が近いのでともに見られる
下を向いて咲くので、花弁の裏を花を見てしまう。覗き込むと万華鏡のよう
花畑に溶け込んだキレンゲショウマの群生は「月光の花」を宴に変える
数年前まで一方通行であったキレンゲショウマの谷が双方向になっている。花を撮影しながら相互にすれ違うことになるが、良い撮影場所が限られているだけに渋滞の原因となる。登山者は自主的に反時計回りを徹底するというのも方策(従来の一方通行)。一ノ森方面へ行く人も上の道からキレンゲショウマを見て東進するので問題はなく、山頂をめざす人は再び刀掛けの松まで戻るのでこれまた一方通行は支障がない。
キレンゲショウマは下の道が個体数が多い。
大きなもみじの葉がキレンゲショウマの葉
キレンゲショウマに混じって、舟を吊った黄色い花の意だろう、キツリフネ
同じく黄色のミゾホウズキ
森に抱かれて群生する
剣山の花畑はいまではシカの食害を避けたネット内のみだが、ソバナ、シコクフウロ、ナンゴククガイソウ、ツルギハナウド、オタカラコウ、ギンバイソウ、ホソバシュロソウ、タカネオトギリ、レイジンソウ、トゲアザミなどが群生する。なかでもソバナのかれんさは心に残る
ソバナの白花。どんな色でも楚々としている
ナンゴククガイソウ
花弁に群がる虫
西島から直登コースにある刀掛けの松へ戻ってくる。山頂へは直登と大剱神社経由がある
シコクシラベなどの針葉樹が白骨林となっている
剣山山頂直下にある剣山ヒュッテ、剣山本宮
山頂付近のなだらかなミヤマクマザサの上の木道を歩く
深い森を横たえた剣山も山頂付近はどこがそうなのかわからないほどなだらかで広い。一度に数百人がご来光を眺められるかも
剣山から一ノ森の南斜面、さらに南の槍戸山の北西斜面にある針葉樹の森は笹原に浮かぶオアシスのよう。針葉樹とは、シコクシラベ、ヒメコマツ、コメツガ、ウラジロモミなど。シコクシラベという名前を聞いて、どんな木なんだろうと思っていた。これらの林は白骨林も散見されるように更新が早いという
→ シコクシラベについて、四国森林管理局―鎗戸シコクシラベ林木遺伝資源保存林
剣山から次郎笈への尾根道は1本の線がうねるように続いていく心弾む景観。下りはじめると、誰もが記念写真を撮る場所。見知らぬ人に撮影をお願いして会話が弾んだり…。思い思いに愉しめればいいね
剣山を西へ次郎笈との鞍部(ジロウギュウ峠)に降りて次郎笈に登り返すと、三嶺までの縦走路の開始である。
今回は、剣山北斜面を西島方面へ戻ることにする。この地区は石灰岩地帯となって巨岩が連続する。ただし大木は見当たらない。石灰岩地帯ゆえに名水が大剱神社周辺に湧き出す。
石灰岩地帯の象徴の大きな岩
登山道も白く植生も異なる。この多様性が剣山ならでは
西島まで戻ってくるとリフトの人はここで登山(下山)は終了となる。リフトを使わなければ見ノ越駐車場までは下りで40分ほどかかる。下りのルートも2つある。行きと別にルートを通ってみたい人は、祖谷川源流コースがある。
祖谷川源流域、秘境祖谷の狭いV字渓谷を開いた祖谷川のその源流は剣山の北西斜面、源頭はおそらく大剱神社あたりにある。そこから谷を下っていくと、巨樹の森が現れる。祖谷川も穴吹川も森の川なのである。
祖谷川源流域、穴吹川源流域こそは、鳴門秘帖や阿波狸列伝の物語に描写される、物語の鍵となる人たちが幽閉された場所、深山幽谷がたどり着いた岩窟の原形ではないか。剣山に来た証しとして、この2つの源流域は見ないで帰れないのではないか。そんなことを考えたこともないのに、毎回2つの源流域は見ようとしている自分に気付いた。その変わり、山頂は行かないこともある。ただし稜線観望なら四国の針葉樹林と笹原が混じるしなやかにうねる稜線を見飽きることはないと思う。それはそうと、宮尾登美子さんはキレンゲショウマの現地を訪れることなく文章にしているという。切り立ち込める源流の谷筋にひっそりと咲くその姿こそ、「…月光の花は凜として…」の描写になるのだろう。
祖谷川源流の谷。麓からここに至るまでがどれほどの道程であったか。こんなところに幽閉されると絶望してしまうのではないか。自動車道路がない時代、森はいまよりずっと深かった(遠かった)。里の人がお山に登るのは木地師などを除いてほとんどなかったのでは。まして沢筋を間違えずに来るのは困難であったはず。
日照りが続いて沢は伏流している。祖谷川源流域は森を下っていく渓相で日が当たらず水は冷たいはず
逃げないシカ。鳥獣害の象徴
広葉樹の森から針葉樹の森までの遷移と多様性こそがこの山の宝物。リフトで山頂へ上がって戻るだけではわからない剣山の奥深さがある
いつも剣山を想うとき、文字が心の片隅からあふれてはみ出してしまう。俗化が進んだ山域のように見えて実は見る人の深みに応じてその深さを垣間見ることができる山岳。
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