2024年04月23日

平安から平成まで 金磯弁財天(聖地)をめぐる人々の営み


金磯弁財天は、横須海岸の東端にある丘で周辺には小島があり、風光明媚な場所である。かつての観光地も海水浴場の閉鎖後は小松島市の場末にあって来訪者で賑わう場所ではなさそうだが、果たしてどうなっているのか?

まずは歴史をたどってみる。平安時代や鎌倉時代には、遠浅の海に浮かぶいくつかの小島であった金磯弁財天周辺は、勝浦川の三角州もしくは勝浦川の流路が運ぶ土砂が堆積する湾内の地形で、そこに隆起した島(金磯弁財天がある丘)と周囲の小島から独特の景観をなす。

この場所は以下の記述のように空海にゆかりがある。

平安時代前期の延暦年間(782年 - 806年)に恩山寺で修行を行っていた空海(弘法大師)が東の方の島に龍燈を見つけた。そこで船を借り、その島に上陸した。すると芳しい梅の香りと共に、美しい音楽が流れ、迦陵頻伽が飛び交っていた。そこに美しい姿をした女神が座っていた。空海は女神と一晩、法話を交わした。夜が明け始める頃、女神は「私はこの海上を守護する弁財天である。」と言った。そして夜が明けると共に白龍となって海中に帰って行った。その後、空海はこの丘に弁財天を祀った。

(出典:ウィキペディア(金磯弁財天)
 
迦陵頻伽(かりょうびんが)とは、極楽浄土に存在し鳥の羽が生えた女人のようで妙なる声を持つとされる。迦陵頻伽を描く画家の空想の賜というか想像力(創造力)で魅惑的に描かれている。
(金磯弁財天は、空海ファンの聖地である)

さらに時代が下って鎌倉時代の手前で平家一門を追って源義経が上陸した地点とされた。
(金磯弁財天は、義経ファンの聖地である)

江戸末期には黒船来航に備えて地元の有力農家の多田家が海を見下ろす丘の上に鉋台を築いて徳島藩に寄贈した由来がある。多田家は、浅い海だった遠浅の海を干拓して農地に変えて今日の陸地となっている(一部は南海地震で海に沈んだとされる)。

大正から昭和にかけては、汽船に乗って横須松原に海水浴や避暑にやってきた京阪神のモボ・モガ(モダンボーイ、モダンガール)たちが訪れるリゾートであった。金磯弁財天は、横須松原の景観に趣を添えていたことだろう(湘南でいう江ノ島のような存在か)。
(金磯弁財天は、昭和モダンの聖地である)

さらに、大阪府堺市と小松島横須海岸を結ぶ民間初の定期航路があったという情報がある。
この情報にはついては、小松島市在住の澤内健司さんが情報を収集、発信しておられるので以下のWebサイトを参照ください。
https://imagineclub20151215.jimdofree.com/

航路を開いたのは金磯町出身(当時は勝浦郡新田村)の幾原知重さんで、上記Webサイトではその活躍を顕彰し後世に伝えようとされている。Webコンテンツの写真を見ると、確かに横須海岸のようで、機体は水陸両用機である。
(金磯弁財天は、飛行機マニアの聖地である)

しかし1974年には横須海水浴場は閉鎖された。その理由として、高度経済成長に伴う水質悪化、正木ダム完成後の勝浦川から土砂の供給の減少、さらに昭和40年代のコンクリート需要を賄うため海砂の採取が行われて遠浅でなくなったこと、海藻が繁茂したことなど複合的な要因ではないかと考える。
(ぼくが子どもの頃はまだ遠浅でどこまでも沖へ行ける気がしたし、海の家で飴湯を飲むなど海水浴は愉しみであった)

平成になって、横須松原の松の枯死が目立つようになり、その復元に取り組んでいるのが小松島高校で、当時の泉正夫先生が意見交換のため、うちにお見えになられたことがあった(ぼくはその頃、勝浦川上流で植林イベントや里山の啓発「棚田の学校」などを手がける民間組織の事務局長をしていた。泉先生による地域の歴史についての郷土書が出たら購入したい)。

https://komatsushima-hs.tokushima-ec.ed.jp/a885641639793588279fe4afd15bdb56/f497ec3aa53735b57ff227ba034c8879


さて、現在はどうかということで、金磯弁財天を訪れてみた。薄曇りの週末であったが、思いのほか来訪者が多く、それも家族連れや友だちと来る地元の子どもが多い印象。そして神社に参拝する人がちらほらと。

横須海岸の東端にある岩と樹木が茂る丘の上(国土地理院に表記はないが、弁天山と通称されているようである)には展望台と社がある。
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振り返って横須海岸全体を見渡す。かつてモボ・モガが遊んだ砂浜も痩せている。かつては水際がもっと遠かったはず。海岸沿いの遊歩道は散策には好適。
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砂浜には海浜性の植物、コウボウムギが自生する
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ふもとには、広い境内とアコウの大木、その奧に寺社がある。神社なのか寺なのかはぼくにはわからないが、ご祭神は弁財天で、四国巡礼第18番札所の恩山寺で納経を行っているとのことである。境内には、阿波狸合戦の当事者である金長の影に隠れて目立たないが、祐七というタヌキが祀られている。

路傍のイモカタバミは曇り空の午後の光に咲いている
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弁天山の入口には海へ向かう小径をたどると、岩をくぐり抜けて海辺へ出られる
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岩をくぐる手前でタンポポの巨大な株
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境内はよく手入れされている
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境内の東にあるアコウの巨木(天然記念物)
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金磯弁財天の由来を記した碑文
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兵隊の石像。兵隊地蔵と呼ばれるものなら戦没者を悼んで戦時中もしくは戦後に置かれたもののはずだが、設置の由来はわからない
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弁天山と海辺に向かう小径。少年の日の遊び場のような雰囲気を醸し出して心が弾む
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境内を出たところで弁天山の反対側にある渚へ抜けるトンネル(洞窟)がある、金網が張られて通行禁止となっている

お堂の周辺には桜が植えられているほか、四季折々に樹木の花が雰囲気を添える。サツキがツヅジかはおしべば見えないのでわからない
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年期の入った石の灯籠
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小さな祠には温州ミカンが備えられている。みかんには顔のペイント
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子どもたちとすれ違い、あいさつをもらったのでお返し。駆け抜けていく途中でひとりの男の子が振り返る。映画のような場面
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砲台跡の説明
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弁天山の沖合にある小島。特に左側が変わったかたちをしている。義経が上陸のために集結したのはこの小島群だったとされる
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小島を見るための休憩所があり、この日も数人が休んでいた。ここから弁天山の山頂へ上がる散策路の草むらに色鮮やかなタチツボスミレを見かけた
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橋を渡るのは観光地だった頃の演出かどうかわからないが、趣がある
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坂の途中で海と小島が見える。水深は浅いがチヌが釣れそう
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由来の確認できない石像が数多くある。民間信仰のようだ
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山頂にも石の鳥居がある。文字は読めない
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これも民間信仰では
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この石像も戦争の哀悼のための兵隊地蔵なのか? それとも弁財天に由来する海洋信仰、例えば海の安全を祈願するなどの願いが込められているのか?
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岡本太郎が見たら「なんだ、これは」と喜びそうだ。縄文土器の造形にも似ているような
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「みかんに顔があってもいいじゃないか」。21世紀の太陽の塔じゃないか
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山頂から尾根伝いに行く小径があり、海辺に下りられるようだ(通行止めの洞穴の出口があるあたりか?)
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急な石段を慎重に下りていくと、境内を出たところの小径に戻る
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金磯弁財天のお堂の彫刻を見る
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小松島市には、小神子と大神子の間に横たわる越ヶ浜、小松島港を出たところに「通り魔」と呼ばれる海崖、そして金磯弁財天と不思議な場所があるものだ。駐車場は現地にそれらしき空き地があって全体で7〜8台は停められるかもしれない(といっても満車になることはないだろうけど)。
タグ:神社仏閣
posted by 平井 吉信 at 00:37| Comment(0) | 山、川、海、山野草
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