福井県、富山県などは県民幸福度の高い県ではなかったかな。持ち家率が高い、自殺率が低い、地元にとどまる比率が高いなどの傾向があるのではないかと。
県都の富山市を訪れてわかったのはどこにでもある地方都市ながら住みやすそうな土地と思った。公共交通網の充実があるし、繁華街の総曲輪地区を歩くと、都会の雰囲気はまとっていないが賑わいは保っているという感じ。黒部立山連峰から流れ出す急峻な川が富山湾に注ぐ。その川が拓いた富山平野には散居村という独特の集落を形成している。
富山市中心部から高山本線で南へ半時間遡ると越中八尾駅に着く。さらに徒歩で井田川を渡って丘を登るとそこがおわら風の盆の舞台となるまちなみ。この小さなまちに20万人が訪れるという。観客と踊り手の一体感は郡上踊りと同様に濃密である。
おわら風の盆は、丘の上の細長いまちにおわらを見ようと大勢の人が集まってくる。夜遅くまで行われるが、まちに宿は少なく(祭りの期間中に一見さんが泊まれるとは思えない)観光客は終電で宿のある富山市へと帰っていく。
ここから地元の祭りが始まる。時刻は夜半を過ぎて喧噪は消えている。編み笠も脱いで自分のための、まちのための踊りが繰り広げられるまち流しの時間帯。一度でいいから見てみたい。
風の盆は日本舞踊の要素を採り入れながら風土(そこにいる人々の心の動き)を所作にしている。蛍狩り、蛍を指さす(川の魚を指さす)、蚕が糸をふく(養蚕)、蛍の乱舞(立山をはるか望む)などの所作が組み込まれた四季踊り、そして鏡町で始まったとされる男女が踊る艶っぽい踊り。
優美な所作、ところどころでとまる動き、そこへ移行する動きの緩急のなかに、青さ(幼さ)と成熟(艶)が移ろいつつ明滅するように時間が息づく。そして地方(じかた)が奏する三味線と胡弓を飄々と歌い手が流し囃子手が合いの手を入れる。
おわらはまちごとに年長者から受けつがれていくなかで、まちへの帰属意識や愛着を高めていく。踊り手は未婚者で25歳には次の世代へ受け渡すという不文律がある。最後の年の踊り手には万感の想いが胸に迫るという。しかしそんなおわらも少子化という時代の波に揉まれている。
おわらは他の祭りとまったく違う。胡弓の響き、しなやかで優美な所作、そして二百十日(台風)の風を鎮め豊作を祈る。そんな地元の風土を踊りと音楽の絵巻にした芸術性。それを世界でもまれな丘の上の隔絶したまちなみで行われる。
祭りに優劣など無粋だけれど、もっとも見たい祭り、しかしコロナ下での来場制限も相まって、見たいけれども現地へ行けない祭り。思いが募る。
まもなく令和五年、風の盆が始まる。
丘の西を流れる井田川、橋を渡って坂道へとりつく



坂は広い道細い路地が縦横に入り組みつつ、町並みへと誘う




丘の上に石畳のまちなみがある。諏訪町。風の盆には11のまちが参加するという



追記
踊り手とそこにいる人との距離がないことが旅人の心に残るのではないかと。
郡上踊りもそうだが、予習せずやってきた旅行者がまちのあちこちで自然発生的に行われる数々の郡上踊りに参加していく。踊りのパターンも「かわさき」「春駒」「やっちく」「まつさか」などいくつかあって、何度かやっていると「あっ、これはさっきやった春駒だ」と身体が動き出す。電光掲示板やアナウンスも観客席もない。観客と踊り手の境界がなくなって見知らぬ人同士が意識して同じ動きに合わせようとすることで心が通い合う場面となる。
ここ数年の阿波踊りは政争の具となっているという人がいる。真偽はわからないが、2023年は踊る機会が与えられなかった有名連があった。そこで徳島城公園など有料演舞場以外の場所で踊ったところ、多くの人が自然発生的に集まって老いも若きも上手も下手も関係なく踊る場となった。そのことが連の踊り手に深い感銘を与えたという。高額な席を設けて商業主義をひた走る反面、リスクは委託した民間組織に背負わせるが、踊りの中止は市が決定するといういびつな構図も気になる。
ここで政治や行政を語っても仕方ないが、4県都(高松、松山、高知、徳島)の行政組織(どの市ともまちづくり等で仕事をしている)で、どのまちが活気がないかは明らかだろう。県内でどこの市が迷走しているかという問いにも同じ答えを書く人が少なくないだろう。
採算が条件であれば、一部のプレミアム席だけでなく有料桟敷席の料金をさらに高く設定するのが得策である。そうすると、ますますショー化が進み、ビールを飲んでつまみを食べている観客のそばを真剣勝負の踊り子が100点満点をめざしてフォーメーションなどの画一化組織化された団体演技を行う構図に収斂していく。でもそこに踊り子も観客も人生が浮かび上がることなく、それぞれの個性や感情も見えない。
かつて、駅前のちょっとした空間で神山町の地域連の桜花連が踊っているのを見た。地元の踊り手が演舞場での出番の合間でめいめいが踊っていたのだろう。決して同じ動きをする必要などなく、一人ひとりが感じたままに身体を動かせばそれで十分。踊りを見ていて心が軽くなった。アスリートのパフォーマンスを見せつけられても迫力は感じても心は動かないのだが、地域の人たちの気持ちをつないで愉しんでいる様子は心に残った。踊りとは人生そのもの、魂の祝福と思っている。
いまの阿波踊りを見たら、多田小餘綾さん、瀬戸内寂聴さん、名手四宮生重郎さんなどはどう思うだろう。一度すべてを分解して、政治や争い、主義主張は持ち込まず、観客と踊り手の境界もなくして(ただし踊る場所は設定する)、自然発生的にまちを流す実験を1日ぐらいはやってみてもよいのではないか。
祖霊を慰める盆踊りが源流にあり、踊りという祭りを通じて人々が交流をあたため、生きている感謝や魂の歓びを踊る。そんな阿波踊りが見たい気がする。
さらに追記
1人20万円の例の有料席は建築基準法違反での設置との報道があった。アトキンソンの影響か観光に拝金主義がはびこっている。
【生きるの最新記事】
- 100円少々で買える庶民の楽しみ そこに..
- 参議院補選 高知のことはわからないから投..
- 昼の憩いの時間です 川を見ながら弁当でも..
- そのポストは、崖の上にあるが、妖怪ポスト..
- 入道雲遙か さよなら夏の日
- 台風とともにコロナにご警戒ください
- 家事はマルチタスクのWindows とき..
- 街が壊れ社会が壊れ 現在から未来が消える..
- 令和5年沖縄全戦没者追悼式
- つまらない社会(全体)を見たくないから部..
- 吠えたい夜
- ルンルンは「花の子ルンルン」から ゆめと..
- 新年だから愉しい話題を サモア島の歌を知..
- 地元のゆこうとレモン 山間部で起きている..
- 毒を吐くことで徳を積めないけれど
- 台風情報チェックリスト(再掲)
- 祖霊供養と人混み回避、読書と歴史を直視す..
- そんなことではなく
- 選挙に行こう 行く前に少し考えよう
- 梅酒と梅干しの季節