松田聖子のアルバムで頂点をなす2枚は夏を題材にした松本隆の叙情詩。そしてそれにいのちを吹き込んだのは彼女の歌。
絶頂期で過密スケジュールだったという。ユートピアを録音したのは深夜の東京のスタジオだったらしい。アルバム中の名曲「マイアミ午前5時」「セイシェルの夕陽」では疲労困憊の彼女が残したテイクに抜け感がないとプロデューサーが指摘。
ところがアルバムに残されているのは、行ったことのないフロリダやインド洋の真珠を目の当たりにしているような錯覚。詩、曲、編曲、声が一体となって楽曲の世界観を高く高く描いている。よく聴いてみてよ。これだけのバックで、煽るように刻まれるリズムにせかされることなく、むしろ彼女に合わせてバックが声の細胞のように溶け込む錯覚を覚える。突き抜けた何かがないとこの2曲は歌えない。だから誰がカバーしてもしっくり来ない。抜け感は松田聖子の証しのようなもの。
パイナップルとユートピアはどちらが最高か。ひとりでコメントを考えて対話のように心のディベートを行ったものだ。アルバム全体のコンセプト性、楽曲の粒ぞろい、かけがえのない夏のひとこまを描いた点でパイナップルは最高だ。それも紋切り型のリゾートソングではなく、そこに血の通った等身大の誰かが感じられる。陰影に富む生活感を併せ持っているのは松本隆と来生たかお、原田真二などの作家陣、そしてなにより楽曲を夏空に掲げたのは大村雅朗の編曲である。シズル感あふれるP・R・E・S・E・N・Tの出だし。若さがはじけてとまらない。一転してひまわりの丘ではスタッカート風のリズムが午後の昼下がりに夏の丘を下っていくよう。個人的には季節が違う赤いスイトピーの代わりに、マドラスチェックの恋人が入っていたらと思うけれど。
一方でユートピアの抜けきった楽曲群(マイアミ午前5時、セイシェルの夕陽」、シングル曲の質の高さ(天国のキッス、秘密の花園)はパイナップル(渚のバルコニー、赤いスイートピー)を上回る。結局順番を付けなくていいかということになる。
CDを買おうとする人に老婆心ながらご助言を。もしあなたの音楽を聴く装置がヘッドフォンオーディオやらデスクトップオーディオなら、Blu-spec CD2の仕様で良いと思う。一般的にこれがもっとも新しいマスタリングで盤の仕様も良いとされている。
しかしあなたが耳が良くて、決して高価でなくても良質のオーディオ装置で聴かれるのなら、CD選書のシリーズをおすすめする。CD選書とはCBSソニーの邦楽の廉価版シリーズ(本でいうなら文庫本)の名称。
ぼくの手持ちのアナログ盤に近いのは実は(巷では音が悪いと喧伝される)CD選書と思う。これに比べると最新盤(Blu-spec CD2)は低域に厚みがあり、声がなめらかで、細部の音が聴き取りやすくなっているけれど、音楽を聴いていて愉しくない。何か蓋が被さったような(天井が低くなったような)圧迫感を覚える。好きか嫌いかで片づけられるけれど、良いか悪いかでいうと判断は難しい。
ユートピアのアナログ(マスターサウンド仕様の初出盤)を聴くと、ややハイが上がった高い鮮度感や伸びやかさが印象的だが、その印象に近いのはむしろ選書のほうである。
ただしCD選書は保存性の良くない薄手のケースにペラペラの同封ジャケット、さらには録音レベルが低い(同じボリューム位置ではBlu-spec CD2が音量が圧倒的に大きい)。それゆえ、ファンからもCD選書は買うなとの声が多いのは頷ける。
ところがぼくの卓上オーディオ(タイムドメインライトのチューンアップ版)で聴いても、クリプトンKX-1をオンキヨーで鳴らす良質のオーディオ装置で聴いてもCD選書が良いと思うのである。
Blu-spec CD2で聴くとレガートとスタッカートがわかりにくい。パイナップルもユートピアも糸を引くように声が伸びているのはCD選書で、声は艶っぽく濡れたように透明で伸びやかである。潮が引いていくようなパイナップルの最後の曲も余韻を残す。伸びていく、沈んでいく、糸を引いていくなどの表情が感じられる。いわばアタック感は犠牲にしても音楽の抑揚を忠実に再現しようとしている。彼女の天才的な歌唱はこれでないと耳に届かないのではないか。
思うにこれはBlu-spec CD2が録音レベルが高い(高すぎる)ので、ピアニシモに埋もれそうな部分は明確に浮かび上がるが、すべてがメゾフォルテのような楽曲の抑揚は平坦である。これは音楽のとても大切なところで、彼女がそのとき自身の直感に従って魂を吹き込んだ歌が平板な表情になっている。実にもったいない。
ユートピアの名曲中の名曲「セイシェルの夕陽」では潮騒を従えてトランペットが鳴り、聖子の声が入る直前の音場空間の高さ。それは雲間からの零れ日が光の柱が見える感じ。CD選書盤では感じられるそそり立つ空間の立体、声の神々しさがBlu-spec CD2盤では失われている。
ただしBlu-spec CD2は原理的に優れた製造方式なので、音源のリマスタリングを行ってピークがピークとなるよう音圧を下げて販売して欲しい。
パイナップルもユートピアももともとが優れた録音であることに加えて、その時代の名作家、名プレーヤーが真剣勝負でつくりあげた音楽空間、そしてそこに自在に舞う歌姫の記録が刻まれた永遠の名盤である。

現在のBlu-spec CD2がながら族が愉しむ際に、迫力めいた音をねらったものは理解できるけれど、例えば、ステレオサウンド社から限定で発売されたSACDではほんとうの音楽の良さが伝わってくる(方式もさることながらマスタリングが良識を持って行われている。ぼくも1枚だけ持っている。SACDの再生装置は持っていないがハイブリッドとしてCD層も刻まれているためマスタリングの良さが十分に伝わってくる。再プレスしてもらえないかな)。
CD選書は録音レベルがやや低めでプレス技術も当時の仕様なので最高の音とはいえないにしても、Blu-spec CD2での音圧を上げたマスタリングよりは本質に迫っている。マニアックな話題だけど、わかる人にはわかってもらえると思う。
CD選書は千円少々で買える。間違わないようリンクを以下に。
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