2022年04月04日

電子書籍からユーコン川へ 人間の幸せや冒険とはなんだろうと


野田さんの電子書籍を買った。
「ユーコン川を筏で下る」というタイトルで紙の本と比べても圧倒的に読みやすく
目が疲れず、アンダーラインも引けるし読みたいところからいつでも続けられるし
端末だって風呂場で読める防水仕様(Kindle Oasis)だ。

Kindle Oasisはシリーズ中もっとも高価だが、Kindle Voyageと比べても優位は明らか。
高価といってもスマートフォンの中級機種より安いぐらい。従来のKindleや廉価版と比べると情報量が多いのに読みやすい(文字の精緻さや快適な使用感など)。なにせ充電は月に1回か2回で済む小電力仕様だし、炎天下での可読性の良さは液晶とは比べられない。おすすめは8GB、Wi-Fi、広告なしの仕様のモデル。これが年に数回価格が下がる。ぼくが購入したときで22933円だった。


地元新聞のエッセイで女性のエッセイストが紙の本は線が引けて読み手の痕跡が感じられて良いが電子書籍は?という趣旨であった。この方は電子書籍がスマートフォンやタブレットで文字を読むのと勘違いされているのだろう。実際に可読性は紙にも優る読みやすさ、裏返せば目の疲れにくさ(大半の状況ではバックライトも不要でブルーライトも皆無)も紙より上回る。アンダーラインは自在に引けるし消すこともできるしアンダーラインの箇所だけを拾い読みする出力もできる。

そして数百冊かそれ以上の書籍が1つの端末に入る。登録端末はひとりで複数設定できるのでパソコンの広い画面でも見える(テキスト中心の書籍はKindle端末で、図鑑などはPCでという使い方もできる)。

Kindleでは自分の書いた文章も電子書籍形式に変換して読める。非売品であるけれど。
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Kindle Oasisのカバーはこの機種がいい。機能的で質感も高い。Kindle Oasisはひっくり返すと持ち手が左右に入れ替えられる。これで手が疲れない。上の写真では左手で持つように左に送りボタンとグリップがあるけれどこれを天地ひっくり返せば文字もひっくり返って右手で持つことができる。


「ユーコン川を筏で下る」の冒頭からはカラー写真が続く。これはKindleでも見えるがPCで見るのが良い。文章はKindleの圧勝である。夜寝る際にふとんに潜り込んで片手をわずかに布団から出して小さな灯りで読むのが日課(その際に歌詞のない音楽も小音量でかけている。本を読むのに飽きたら今度は灯りを消して音楽のみを聴きながら眠りに就く。文字に書くとなかなかだが、実際は本を読み出して寝るまでに10分ぐらいのことが多い。音楽は子守唄である。


野田さんはカヌーではなく筏で下ってみたかったそう。そこで試作を行い、材木をかすがいで止めて合板を渡した1人乗り(+犬2匹)の重量80kgの小型筏が最善とわかった。その筏でユーコン川を下るのだが、筏の上で焚き火や食材を炙ることもできて酒を飲みながらイスに座って広い川と正対しながら下るというのだ。ただし漕ぐときは後ろ向きとなる。

若い頃、ユーコンでカヌーの一人旅をしていると、川岸の小屋から自分に向けて銃を放たれたことがあった。こっちへ来てくれ、と岸辺の男が叫ぶので言ってみると、酒とコーヒーをごちそうしたかった、気付いてもらえそうにないので発砲した、済まないというものだった。

ぼくは限られた情報量と野田さんのウイットからこの場面を読み解く。実際に弾丸は自分に飛んできたのだが、それは撃つ意志がないととっさに判断したのではないか。名手であればしくじらない距離だったかもしれないし、続いて何発も撃ったのではないとしたら、呼んでいるのではないかと判断できたのだろう。銃を放った男の声の調子や態度からも命をねらったものではないと感じられるものがあったのではないか。

カヌーの旅人を打つ動機として金銭目当てではないし、狙撃しても流されていくカヌーをどのように止めるのか。人の痕跡がなく原野、それもクロクマやグリズリーのテリトリーで殺人狂が暮らしているとも思えない。仮に相手が射撃の名手であれば下手に逃げても無意味だろう。だから殺人目的に銃を撃つことはないとの結論に至ったのではないか。ぼくの想像に過ぎないのだけれど。

そんなことを考えながら75歳の野田知佑として筏で下る心境は如何に興味をそそられたので電子書籍を買ってみたのだ。

若者が冒険しなくなった、といわれる。こじんまりとして保守的で…。音楽までもそんな感じ。DTM、DAWの孤独な制作作業からつくられる音楽からは粗野な感じは消失している。その代わりコード進行やら音階の動きが器楽的というかアクロバティック。自分は歌えても他人は歌えそうにない感じがする。Lemonなんてそうだよね。

とはいえ、ボカロなどで表現される音楽を否定してはいない。「はやぶさ」〜はじめてのおつかい〜と題してミクに歌わせた作品は、カプセルを地球に届ける使命をいくたの困難のなかで奇跡的に果たし、最後は反転して(司令部がはやぶさに地球を見せたといわれている)地球を見ながら大気圏で燃え尽きたはやぶさ初号機の感動的な物語を歌で綴ったもの。そこにあるのはボーカロイドの無機質な歌と演奏から波紋を拡げる無限の慈愛のような音の波。かえってボカロだから伝わる表現があることを知った。


ところで冒険をしなくなったのはなぜだろう。それを冒険とは言えないけれど、日本が経済大国と呼ばれた頃は海外旅行は日常茶飯事だった。国内旅行より割安というのも動機だった(円高でもあり経済力が国民の所得も世界的に押し上げていた)。ツアーだけでなく地球の歩き方などを見てバックパッカーとなる人も多かった。友人の石井君はインドに半年の放浪の旅に出て故郷に戻ったその日に自宅に帰る前にうちに寄ったのだけれどインドの香りというか異臭がした。家で愛犬が本人とわからずに吠えたというのも頷ける。河原君は大学を出て定職に就かず日本の山を歩きネパールのトレッキングに出かけるなどした。ぼくも南太平洋に行ったり東北や信州やら屋久島やらに気が向いたら出かけていた。70年代は反戦(ぼくの年代ではないけれど)、80年代は放浪が格好よく一種のインテリの装いのようでもあった。それでやっていけたし、そんな若い頃を過ごしていまも不自由なく暮らしている。

ところがバブルの崩壊前からおかしくなった。土地神話が崩壊したからだけではないと思っている。80年代は100万円を10年郵便局に預けたら倍近くになったし、1年で7%の利回りのある安全な金融商品もあった(100万円預けたら1年後に7万円増える。ただし20%の源泉課税があるので5万円)。経済だけでなく未来は愉しいもの、豊かなものという空気が横溢していた。

しかしそれは日本人も国も傲りにむしばまれていた兆候。人だけでなく企業も冒険しないで運営(5Sやらサービス残業やらシックスシグマやらカイゼンやらジャストインタイムやら。それらは道具であって目的ではない)を磨くだけになってしまった(それらが従業員の疲弊やら冗長性のなさからサプライチェーンの途絶を招いている)。安くて良いものをつくる、売るという競争に陥り、労働力の安い外国に工場をつくり、給与は上がらなくなった。それはレッドオーシャンにまみれ、世界標準からもはずれたローカルルールに浸るだけで、ゲームチェンジャーされる人になってしまった。以前の100円店はメイド・イン・チャイナが多かったが、いまではほとんどがメイド・イン・ジャパン。この現実を直視せよ。

気が付くとアメリカでラーメンを食べると2千円という事実に驚き、アメリカで年収1千万円は貧困層という現実を信じられないようになった、コロナ前に東南アジアからの旅行者が日本に増えたのは「リーズナブル」だからである(バブル期に卒業旅行と称して海外へ行っていた若者たちのように)。

科学技術すらつまらなくなった。実用性やら費用対効果を大学にまで求めて基礎研究やら長い視点での持続的な研究ができなくなっている。学問に合理性など要るか? 夢や志のない研究など何になる?

若者も冒険をしなくなった。若いということは気力体力がみなぎっていて、バックパックを担いでどこにでも行くようなことは若さの特権のようなもの。人が一生を終えるときに後悔することがあるとしたら、「もっと冒険がしたかった」というものが多いと聴いたことがある。やらなかった後悔とやって失敗したけれども経験を積めた充実感とどちらを選びますか?と言われたらどうですか?

幸せな人生って、自分が我慢することなくやりたいことをやって(やり尽くして)例え失敗してもやってよかったと思えること。なお、やりたいことをやってそれが誰かに支持され誰かの幸せに貢献しながら自分も思い通りに生きる人生ならどんなにいいだろう。誰にもそんな人生を送る権利がある。

冒険とは、人類未到の高峰をめざしたり危険な試みをすることだけではなく、日常の暮らしで挑戦し続けること。一過性の冒険など色あせる。そんなことよりも直線的な生き方から脱却することのほうが冒険と思える。直線的な生き方とは、学校を出て就職して結婚して家庭を持って子どもが巣立って夫婦だけになって余生を過ごしやがて一人になって死んでいくというもの。ある意味では後戻りできない生き方。

そうではなく、例えば10年1クールぐらいでテーマを決めてそのときほんとうにやりたいことに取り組んでみる。うまくいけばそれで良し、うまく行かなくてもそのとき(その年齢で)挑むことができたらそれはそれで幸せなのではないかと。レールの上を行かないある意味では危険な生き方を敢えて選んで生きてみるというのは一生をかけた冒険といえるかも。リニア(後戻りできない)ではなく、やりたいことをやりながらもうまくいかなかったとしてもやり直すという循環する生き方ね。

あまりに伝えたいことが多すぎて下手な文章でもこうやって綴っている。ブログだけでも文字数を数えたらここまでに綴った文字数は120万を超えている。でもまだ足りない気がするのでこれからもブログを書き連ねていきたい。

野田さんの話題に戻るけど、本に書かれているようなハレの場面ばかりではなく、人間関係に悩んだり病気や世俗のごたごたで悩むことなども当然あったはず。でもやりたいことをやってきた。その足跡が人々を勇気づける。それらも含めて野田さんは幸せな人生だったのではないかと。

タグ:野田知佑
posted by 平井 吉信 at 20:48| Comment(0) | 生きる
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