2022年04月01日

川ガキだった これからも川ガキ 野田知佑さん ありがとう


川ガキとは川で遊ぶ子どものこと。瀬を流されたり淵を潜ったり、エビを捕ったりヤスで魚を付いたり。気が向いたらふらりとやってきて年がら年中川に出没する。河童やニホンカワウソとともにこの国の絶滅危惧種である。

ぼくの川の原体験は那賀川と勝浦川の下流。まずは那賀川から。

●那賀川の思い出
どんがん淵や馬場の桜並木、妙見山を含む里山がぼくを育んでくれた。春は一面のれんげ畑のなかで妹と遊ぶ。当時の写真はモノクロだ(親父が写真を趣味にしていたので6×6のネオパンSSか)。
春は妙見山に遊山箱を持って花見に出かける。遊山箱とはピクニックに出かける際の弁当箱で3段になっていて前に上へ押し上げる扉がある。兄妹がそれぞれ自分の分を持っている。ぼくのは空色に男の子の絵が淡い水彩で描かれたデザイン。これに卵焼きやら巻きずし、寒天などを詰めて出かける。

5月の田に北岸用水の水が入るとおたまじゃくしに見まちがうカブトエビが泳ぐ。ミズカマキリやゲンゴロウ、タイコウチもいた。

初夏は那賀川でトバシ(毛針を付けてウキで流すと小鮎がかかる)。川には匂いがある。海苔が乾くときのような香りを感じる季節。さらに盛夏、親戚のじいさんが竹ひごで作ってくれた虫籠にカブトムシやらクワガタやらセミを入れる。

柿の実を見ながら庭の池でたたずむ秋、そして冬、やがて春…。季節はめぐってまたひとつ大きくなっていく。(これだけで小説が書けそうだ)

●勝浦川の想い出
小学校の頃、殿川内の本流と旭川が合流する付近で尺近いアメゴを釣ったことがある。当時は勝浦町坂本のバイパスはなく旧道をたどるので父の車で1.5時間はかかった。

横瀬立川は勝浦川中流から上流へ差し掛かる地名で勝浦川の屈曲点から上流である。正木ダムができる前は5分と浸かっておられない冷たい水であったが、目を開けると対岸まで見える極限の透明度を誇っていた。正木ダムができてはや数十年、いまの横瀬立川はぼくの目には死んだ流れに見える。蛇の多いあぜ道を川辺へ下りて足を浸したあのひんやりとした感触を忘れない。

中学校では毎日勝浦川の江田の潜水橋に通った(なにせ学校へ行く途中に渡る橋だから。潜水橋とは雨が降れば水没する欄干のない橋のこと)。堰があってその堰を流れていくのがおもしろい。水深は2〜3メートルでストッパー(縦の巻き波)が発生していてストッパーに掴まると息をこらえて底まで行って底を蹴って流れから抜け出して浮上する。要するに危険な川遊びである。案の定、女性警察官に補導されてしまった(後にも先にもこれだけ)。堰から下流には4つの巨大なコンクリートが沈められていてその周辺の深みもおもしろかった。

●海部川の想い出
国道193号がまだ舗装していなかった頃から海部川へ通った。クルマの免許を取ると仲間と連れだってキャンプに出かけた。焚き火をしながら夜も川に入ってテナガエビやらモクズガニを取り、酒で語り合う。カジカが鳴いて流れ星が流れて焚き火の炎を見ながら得も言われぬ幸福感を覚えた。しかし海部川もその後の道路拡幅で竹林に遮られたオアシスのようなこの場所は消えた。水は相変わらず美しい。

●四万十川の想い出
徳島から10時間の道のりを苦にせず独身の男女が数台の車で遠征に出かけた。特に広瀬のキャンプ場が定番。対岸の岩場まで泳いで渡る。近くには温泉もあって熱々の湯で夏場はつらかった。江川崎からもよく下った。眠い目をこすりながら帰路に就いたもの。あの頃ともに出かけていた友人知人の消息もわからなくなった。

●吉野川の想い出
イベントをよくやった。カヌーイベント、音楽会、自然観察会、講演会を兼ねたキャンプ。文字に書き尽くせない思い出が詰まっている。よく来ていただいたのが野田知佑さん。モンベルの辰野社長や夢枕獏さん、リンさんをはじめあやしい探検隊の方々、漫画家で「川歌」の作者、青柳裕介さんもいたっけ。抱きしめたくなる数々の場面が走馬灯のように駈けていく。

これはおそらく野田知佑さんをお招きして初の野外イベントの企画。上が破れているけどそのときのポスターが見つかった。1994年ではないかな。垢抜けないデザインの手作り感あるもの。以後は一流のグラフィックデザイナーの方々のサポートもいただいたが、これはこれでとても良い。吉野川中流域の貞光町でのカヌーイベントで10km程度下ってここの河原でキャンプを行い、夜は焚き火を囲んで野田さんのお話を聞くというもの。当時好きだった女の子もこのイベントのスタッフとして参加していた。野田さんとは恒例のようにイベントを行い、野田さんのハーモニカを聞きながら一晩中語り明かすこともあった。
DSCF7817-1.jpg

姫野雅義さんが海部川に逝き(このときの喪失感は言葉に尽くせない=2010年10月)、お別れの会で答辞を述べた野田知佑さんも逝った(2022年3月)。川を自分の身体の一部のように呼吸し川のために生きていた二人だった。

鹿児島の錦江湾沿いに住んでいた野田さんが四国への移住を考えているとの噂が伝わった。候補地は四万十川と徳島県南部。四万十川は確か野村のおんちゃんがいた口屋内の集落ではなかったか。どういうわけか野田さんを徳島県南部の川へ案内することとなった。移住のためである。そこで日和佐川と海部川を見ていただいた。最後に決め手になったのは空港までのアクセスの良さだったかもしれない。ともかく野田さんは日和佐町へ移住された(移住コーディネータの小林陽子さんが尽力された)。

それから川の学校、別名川ガキ養成講座と題して子どもを親から話して川で好きなことをやらせる。たかだか数日キャンプに参加するなかで見知らぬ子どもと友だちになりながらたくましくなって親元へ帰っていった。ぼくは川の学校はスタッフとして関わっていないが、その卒業生がいまや大人になって、ひょんなことから出会うことも度々だった。

野田さんはアラスカをカヌーで下ったり歯に衣着せぬ発言でアウトローのイメージがあるかもしれないが、その実は繊細で感受性豊かなインテリである。文学や音楽に造詣が深く、自身もハーモニカを情感を込めてしかし芯のある音色を荒野に響かせていた。

1997年11月、この日はイベントではなく仕事である。山と渓谷社の月刊「アウトドア」のロケハンで藤田編集長と事前に協議を行い吉野川本川ではなく穴吹川で撮影することとなり、プロカメラマンの渡辺正和さんらを穴吹川に案内した。この日の穴吹川は確かに美しかった。9月の大型台風が茶色の苔を洗い流してしまったからか、深い淵でも水底に手が届くような気がした。

撮影後、渡辺さんの大切な一枚を見せていただいた。それは、野田さんたちと奄美大島を訪れたときのこと。早朝誰もいない渚をガクとふたりで散歩する野田さんが砂浜に残した足跡の写真である。画面からえも言われぬ魂の遊びが伝わってきた。素顔の野田さんがちらりと見えたような気がした。と同時にその瞬間に心を預けることができた渡辺さんの幸福感がうらやましかった。渡辺さんは二日後に東京で個展「シュプール」を開かれる。スキーは渡辺さんの生涯をかけたテーマである。ほどなく同名の写真集が発売されたが、長野オリンピックの公式写真班にも選ばれた渡辺さんであった。

そのときぼくも個人的に撮影して額に入れていたお気に入りの野田さんの写真(1997.11.19)。色あせながらも仕事場にある。
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ロケの帰りに長時間の運転をしている野田さんの助手をおもんぱかって近所でジェラートの店へ案内した。「こんなうまいのは始めてだよ」と、野田さんの一言。ぼくが拙く編集した「川と日本」にしても、良い本だと言っていただいてうれしかった。エッセイや講演の野田さんはまた別のイメージがあるが、素顔の野田知佑は、繊細な感性、さり気ない気配り、そして鷹揚に構えたゆとりが接する者に安心感を与える。それでいて自らの存在にこだわらないことが、人と比べることでしか自分を位置づけられない人から見れば、ある種の絶対感を持った存在に見える。

広辞苑によれば、常識とは「普通、一般人が持っているべき標準知力」とある。それに対して良識とは「社会人としての健全な判断力」とある。良識を持った普通の人が英雄になってしまうこの国はおかしい。野田さんは当然至極に感じたことを直截に言っているだけだ。川は誰のものなんだ。自分たちのことは自分たちで決めよう…。野田さんの心の中にある熱い思い。その炎は一人ひとりの胸にあるはず。

体調は決して万全ではないはずだが、吉野川へは何かあっても駆けつけてくださる。無頓着な輩や権力に対しては厳しいが、そうでない人には限りない優しさで接してきた。でも語らない。ただ黙って川にいるだけで周囲を感化できた人。

日本の若者は冒険をしなくなった。大人になっても親と仲良く暮らす人が増えてきた。けれどそれでよいのかどうか。いまのまま生きていくことに疑問を感じたぼくも片道切符で南太平洋へ旅だった。国内外の行く先々で誰かと出会う。屋久島では淀河小屋から縦走してきた野田さんの甥っ子と高塚小屋を出たところで再開した。日本は狭い。

川のことを語っているが最後は民主主義に行きつく(いまのロシアや日本政府、徳島市はどうだ?と一人ひとりの意識と自立に呼びかけている)

野田さんがハーモニカを河原で吹くのはかつての日本の川を心で回想している。
それが巨大な開発であれ、地元の小さな改変であれ、良い川の良い場所が数年で失われていくのを見てきた。ときに公共事業に抗う市民の側に立ち、川を愛する子どもを育てる地道な取り組みを続け、それでも何一つ変わっていないのではないかとの無力感もあったのではないか(野田さんに限らず何かを成し遂げた人は共通の思いだろう)。

一人がなし得ることはどんなに小さくても多くの人々の心に残した光は大きい。
これからも川で遊ぶ、ずっと遊ぶ。野田さん、ありがとう。

(参考情報)
川ガキを養成する川の学校について
http://www.kawanogakko.jp/index.html

川の学校の報告書が送料とも1,000円で頒布中
http://www.kawanogakko.jp/hanbai.html

川ガキをライフワークにされている村山嘉昭さん
http://kawagaki.net/home.html

川ガキの定義
http://kawagaki.net/prologue.html

川ガキの写真集はAmazonでも入手できる。


四国の川について知りたい人はこのコンテンツで(川と生きるってひとつの生き方というか深い哲学だよ)。「四国の川と生きる」https://www.soratoumi.com/river/


川ガキが生きている、川と人が暮らしているのは南四国だよ。徳島の人は何もないっていうけど、これだけ豊かなものがあるよ。


posted by 平井 吉信 at 15:04| Comment(0) | 山、川、海、山野草
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