2021年12月30日

土の匂いのする道を樫の広場まで歩く子ども 


ぼくが生まれた家の横は土の道で
線路の枕木を立てて囲いとした畑があった。

畑ではトマトやなすびを植えていたが
背の高いヒマワリやタチアオイもあった。
ホウセンカは実が弾けるのがおもしろい。

土の道をしばらく行けば木登りをしたくなる大きな樫があり
その根元に小さな祠(神社)があった。
その神社の前の広場で野球や鬼ごっこ、缶蹴り、温泉、ろくむしなどをした。
野球はゴムボールでするのだが小学生であってもカーブ、ドロップ、シュート、スライダー、フォーク、ナックルのような球を投げていた。
(どの遊びも年長、年少を混ぜているが、年少者には特別ルールがある)
土で団子をつくって掌で擦って虹色の光沢が出ると「金」が出た、などと騒いだ。
いまではこの広場はなくなって、代わりに巨大なたぬきが鎮座している。
駅も線路もなくなってしまった。

線路沿いにも小径があってそこの桜並木は毛虫が多く、アブラゼミやシマヘビもいた。
虫取りで草むらに入るとヤブ蚊に刺されてかゆいことかゆいこと。
ぼりぼり掻いて血が出ればヨモギの葉を揉んで付けた。
イタドリは至るところに生えていておやつ代わりに食べることがあった。
それをおいしいとは思わなかったが、サルビアの蜜は甘かった。

広場を過ぎると駅があった。
駅前は舗装していなくて
そこから四方八方へ道が伸びていた。
(市街地のすべての道がここに集まる放射状の頂点にあった)

夏になれば京阪神からの海水浴客で賑わった横須松原。
帰りは螢の光に見送られながら竹ちくわを買って帰るのだろう。
ぼくは遠浅の海で泳いだあとの海の家での飴湯が思い出に残っている。

駅は始発駅で、そこから長い編成の列車が出発した。
車両基地であったので列車の往来が多く踏切は人力で上げ下げしていた。
バスに乗れば運転手とは別に車掌がいて切符を切ってくれた。

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年末でガスコンロや浴室の清掃、菩提寺へのお礼や近所の和菓子店へお願いしていた餅を取りに行ったり、清掃の途中でワイングラスを落として割ってしまい、急きょ買いに行ったりと一日かけてさまざまな家の用事をしていた(近所のCANDOで買ったがこれが100円?という品質感だった)。

夕食のあと、Amazonプライムで前日見た小津安二郎監督、原節子の「東京物語」に続いて、
きょうは「麦秋」を見た。

冒頭で北鎌倉の駅と背後の山、落ち着いた風情の民家が映し出された。さらに生け垣の土の小径を歩く場面で釘付けとなった。
(鎌倉は首都圏に住む人にとって、まちと自然が融合した憧れの土地と聞いている。鎌倉に住んでいる知人が数人いるが、趣味が良いだけでなく自分の役割を果たしつつ凛と背筋を伸ばして生きている人たち)。

この映画の撮影は昭和20年代だそうだが、すでに北鎌倉駅には電車が走っている。
ちょっと驚いた。東京(丸の内界隈)までは2時間ぐらいかかったのだろうか。
(もしや徳島県外の人がこの記事を読まれていたら、いまも徳島県には電車が走っていない。走っているのは「汽車」といったら驚かれるだろうか。その代わり、線路も道路も走れる列車兼バスは走っているよ。これもほんとうだけど)

小津安二郎の映画はおだやかに時間が過ぎていく。
ぼくは映画はほとんど見ないので映画はわからない。
でも画面を見ていると写真の引き算だなと気付いた。
構図は木村伊兵衛のような美学を感じるし
見せ方が「見せる」という意識(植田正治の砂丘の人物写真のような)を感じる。

スタジオジブリのとなりのトトロは名作だと思うが、
メイが迷子になる事件だけはないほうがいいと思っていた。
麦秋では事件は起こらず日常が淡々と流れていくが、
根っこが固定されて葉がそよぐような演技と演出が続いていく。
ある意味ではソナタ形式のなかで演奏家がカンタービレするような。
嫌な感じはしない。

麦秋では線路と生け垣の小径が出てくる。
線路沿いの土の道はぼくが幼い頃、遊んだ場所。
路上では金だらいに水をはって小さな子どもが水浴びしていた。
(道路は車が通れる車幅はないので人と自転車しか通らない)
子どもばかりではなく、日傘をさして着物を着た女性も通っていた。
家へ帰ると真っ先に足を洗うように言われたことを思い出した。
そこからさまざまな植物に接した原体験がいまも続いているような気がする。

映画館は歩いて数分のところに2軒、八百屋は5〜6軒、
洋食堂、うどん店、駄菓子店、市場、電気店、酒屋、米屋、すし屋、ラーメン店、餃子店、喫茶店、お好み焼き店は徒歩1分以内にあり、出前はいつでも頼めた。ラーメンは白い豚骨系、餃子は生姜や香辛料の聞いたピリ辛系、駄菓子店ではラムネや黒棒をよく買った。喫茶店はほうれんそうが添えられたうどんがおいしい。金長まんじゅうのハレルヤの本店もあった。学校からの帰りはナショナルの電気店の店頭でクーガ115を眺めるのが日課。歴代の日本のラジオのなかで貴公子のように美しい。

ハレルヤ本店の斜め前にあった洋食堂は
祖父が接待で使うことがあったが、たまに家族で出かけることがあった。
ぼくはカレーライスを注文するのだが、卵とグリーンピースが入っていた記憶がある。
(豪華だろう)
このカレーの風味を再現したくて料理をするようになった。
そのうちおもしろくなって、
小学高高学年になる頃には餃子や炒飯、焼きリンゴやドーナツ、ホットケーキ、みそ汁などは日常的につくっていた。

だからいまもつくるのが好きなのだ。
2台のガスコンロ、用途別に分けている4本の包丁、数台の炊飯器、トースター、電子レンジ、電気湯沸かし器、マルチグリル、スロークッカー、スチームコンベクション、3台のタイマー、2台の精米機、温度計を駆使してつくる(同時並行のマルチタスクで走り回りながら調理を行う。ただし電気調理器具は契約電力の関係か同時に3台は使えない)。主力はリバーライト製26センチの鉄のフライパン。小さい頃から使い慣れているので火加減を自在に調整できるし手入れも洗ってガスで乾かして油を塗っておくだけのお手軽。晦日のきょうは包丁をすべて研ぎ、数の子を漬け込み、鰹節を削り出しておいた。

いつのまにか昭和から平成、令和へと時代が変わっていく。



posted by 平井 吉信 at 23:47| Comment(0) | 生きる
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