2021年08月07日

言葉とは文字の並べ方だけではありません


長崎と広島のあの日は絶対に忘れない。
国民を巻き込んで暴走した政権の醜さ、滑稽さ。
戦争に使ってはいけないものを使ってしまった人類の重大な過ち。

生存している被爆者の代表や各国の代表が列席するなかで
もっとも大切な部分を知ってか知らずか読み飛ばした。
「我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国」であって「核兵器のない世界の実現に向けた努力を着実に積み重ねていく」などの文言が抜け落ちた。
意味のない棒読み人間、そうでなければ、悪意があっての読み飛ばし。
そこに付いている冠が内閣総理大臣。

政権中枢部から絶えず流れている軽はずみな言葉、
政治家として住民への愛がまるで感じられない政治家たちの行動、
その前の政権もいまの政権もその座に値しない。
自民、公明、立民、国民、維新…国民に愛がないという点ですべて同じ。
政党はすべて解体して志ある政治家による治世に変えていきたい。
(政治家の数をもっと増やそう、そして政治家の報酬をなくそう)

不正な受給を企てる輩や思いやりのない行動で感染症を拡大する人たちもいて
コロナ禍はヒトのみにくい本性をあぶり出している。


76年前のあの日、温暖化が進行していない当時は真夏でもいまほど気温は高くなかったはずだが、
降り注いだ熱線は有機物無機物を問わず焼いた。

ぼくは自宅と仕事場の両方でエアコンを使わなくなって(設置していたのを取り外した)10年ぐらいになる。温暖化防止への貢献というよりは暑い夏を忘れないようにしたい、との思いから。
(もちろん今年もエアコンは使っていない。ないのだから使いようがない。室温32度でも快適に過ごしている。扇風機すら使っていないし水もあまり飲まないようにしている。10年以上かけて身体を順応させたので決して我慢しているわけではない。暑い夏の心地よさすら感じている)

唯一の被爆国だからこその発信があるはず。
それは義務でありいまの時代に生きる良心の発露だろう。

さて、東京五輪の開会宣言の一幕。
天皇陛下は原文と対照してJOCの誤訳にお気づきになって
さりげなく訂正したうえで宣言されたという。
https://dot.asahi.com/dot/2021080600079.html?page=1

上記の記事で「五輪憲章の『誤訳』の件で誰かが傷ついたり、責任を問われることのないように、というのが陛下の一番の願いであったと思います。そうしたなかでも正しい日本語として宣言できるよう、人目につかないように、ひっそりと訂正なさったのだと思います」と識者の意見を紹介している。

言葉の重みは思いやりの深さに比例するとしたら、
品格と思いの深さを備えたあの方は
折に触れて言葉にできない伝言を発していらっしゃるようだ。
posted by 平井 吉信 at 22:49| Comment(0) | 生きる
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