2021年05月17日

港屋カップ麺 家仕様


前回の投稿参照)
コンビニへ立ち寄ったらまだ在庫があったのでひとつだけ買ってみた。
(うちではこれを喜んで食べそうな人間がいないので)
家人たちは麻棘的な辛さに慣れていないということ。

先日野外で食べたとき水が飲みたかったけどあいにく熱い茶しかなくて困った。
そこで週末の外出しない雨の昼に食べることにした。

丼椀に入れてみると思いのほか量が多く、実はカップ麺は量目が多かったと気付いた。
本家は肉そばだったと思うが、あいにく手元になかったので
卵の黄身、納豆(北海道産)、刻み海苔(吉野川産)を落としてみた。
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すると辛さがうまく中和されて満足感が出てきた。
けれど不思議にカップに入れて具材を入れずに食べるほうが良かったかもしれないと思った。
DSCF6539.jpg

味の足し算がうまく行かなかったのか、麺そのものの風味が遠のいてしまったのか。
いずれにしても満足したので(2回食べて)港屋のカップ麺は食べ納めということで。

追記
デザートにと思ってコンビニの店頭で見つけたものがこれ。
「香川県産女峰使用いちごもこ」
DSCF6345.jpg

コンビニの菓子は決して水準が低くないことは知っているけれど
これはダメ。
DSCF6350.jpg

一口食べて、ああ、と来るわかりやすさ。
良く言えば「愛想が良い甘さ」、
でも素材系の菓子の良さを知っている人にとっては冗長で心に響かない。
一見あっさりしているように見えて、つきまとうくどさ。
淡い色を重ねてぼやけてしまった輪郭とでもいうか。
DSCF6355.jpg

味わいたい菓子は目を閉じてしまうけれど
これにはそれはなかった。紅茶で流し込んだ感じ。
ある意味ではこれを良いと感じなかったことにほっとしたけどね。
食べる幸せを感じさせようとすればするほど遠ざかる。
無造作にかじったパンやビスコッティがじんわり来た、というあの感覚とは正反対。

これだったら昔ながらのバタークリームの狸のケーキがいいな。
(ハレルヤに売っていたよな。うちの近所にハレルヤ本店があったから。あの頃のアップルパイをぜひ復刻して欲しい)
飾らないぶっきらぼうの潔さって魂に入ってくるよね。
だいたい地域のソウルフードっていわれるものはほかの地域のヒトが食べておいしいものはない。それでいいから。

コンビニでめくじら立てる必要ななんだけど、
いまの時代の危うさに通じるものを感じてしまったので…。
いまの政権もその前の政権もやっていることはおかしい、と感じて言えること。
一見善意の物語の姿を借りてコントロールする意志がいまの社会にはある。
このスイーツには罪はないけど
良いことへの同調圧力も含め象徴的に感じてしまった。


posted by 平井 吉信 at 23:06| Comment(0) | 食事 食材 食品 おいしさ
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