2020年05月18日

生き方は変わっていく コロナのお陰という考え方


連休中に田井ノ浜へ行こうとしたら車を停める場所にロープが張ってあった。
県が管理する高丸山では駐車場が封鎖されていたという。
登山口周辺には車を停められる場所はないので
登山者の車は林道の路肩に停めざるを得ず、
作業用の大型車の往来が激しいなかで危なかったそうだ。

これらの場所は各自が感染症対策を行う限り封鎖する必要はない場所である。
このブログでは新型コロナウイルス感染症について対策を書いてきたが
やるべきことができていない反面、
やらなくてもいいことをやるなどちぐはぐが目立つ。

布マスクはすでに方々に出回り、家庭でも自作されている。
いまさら国が466億円をかけて配布しても意味がない。
不織布のマスクも普通に手頃な価格で近所のスーパーで並んでいたが、
商品を見たところ性能表示がないものであった。
(投げ売りの中国製マスクは買ってはいけない。性能表示とその証拠が提示されているもののみを購入すべき。6月になればマスクの価格はコロナ禍以前に戻るだろう。良質のPFE、BFE99%以上で1枚20円程度。それでも1回で使い捨てずに洗って使いたい)

不織布のマスクは洗って無害化すれば何度でも使えることがわかっている。
だからわが家では前年に備蓄のマスクだけで1年は乗り切れる(真夏でも公共交通を利用する場合や密集した場所に行くときはマスクをしているのでコロナ禍でなくても普段から備蓄をしている)。
また、ウイルスの侵入を阻止する効果に乏しい布マスクでも
不織布を1枚挟むだけで性能が向上することも知られている。
だから布マスクは不織布などをはさんで固定する機能(ポケット)があることが条件となる。

入手が相変わらず困難なアルコールは消毒機能を次亜塩素酸水と併用する(混ぜるという意味ではない)ことで節約できる。
壁面や床面などの広い面積には薬剤散布よりもケルヒャーなどの蒸気クリーナーのほうが適している。
電気と水だけなので機械の購入代金のみで維持費はかからない。
使い分けをすることで中国で死者が出る前に購入したアルコールが未だに使い切らずに残っている。

感染症はCOVID-19だけでない。
新型鳥インフルエンザ(特にH5N1型などの強毒型)が遺伝子の変異でヒトへの感染力を高めたら
その脅威はCOVID-19の比ではない。
だから衛生管理の徹底はコロナ対策ではなく一生の「習慣」とすべきこと。

適切な感染対策と感染の怖れが少ない状況で自己管理を適切に行えば
COVID-19を過度に怖れる必要はない。
逆に何の根拠もなく対策を行わないのは
自分も他人も巻き込む自殺他殺行為に等しい。
うちの近所では居酒屋が再開したが、
窓のない店内で至近距離で歓談することは危険が大きい。
愉しい時間を過ごしてわが家に帰宅することがどのような意味を持つのか考えるべき。

コロナ禍での自助努力として、
食糧を自分で生産、確保(もしくは地区で)する能力や取り組みが必要となった。
社会で多様な役割を細分化したが、
このことでウイルスによって容易に移動や接触を止められたら社会活動が止まってしまう。

できうる範囲(個人、共同体、国として)での自給自足的な考え方が必要となっている。
米や小麦粉が店頭から消えるのはその象徴的なできごと。
コロナ禍でインターネット販売が伸びると考える人もいるだろうが、
流通網だけあっても意味がないのだ。

このことを突き詰めれば国のあり方も人の生き方も変わっていく。
社会のなかで高度に分業化された役割を仕事と認識するのではなく
自分が生きていくのに必要な役割はすべて仕事と理解する。
老若男女を問わず家事、炊事、料理、洗濯、
家財道具の保全、修理、食糧の生産ができたほうがいい。
そうすれば家事が特定の家族の負担にならず、
家事は楽しくなっていく。
(ぼくがコロナ禍で喜んだこととしたらスミレを見に行けたことと、食事の準備が心置きなくできたこと)

東京一極集中を是正しようと叫ばなくてもそうなっていく。
このことは良いことだ。
徳島では県内で感染した人はいないとされているが、
徳島の潜在的な良さを物語っている。
それは中心市街地と呼べる街区がないこともあるが
良質の川に育まれた山のミネラルが県土に行き渡り(藍染めの藍作はその象徴)、
山の幸、川の幸、海の幸が手に入ること。
(このブログの開設当時=約20年前から指摘していたこと)

県の観光政策や経済政策はそのことを明確に意識して打ち出すべきだし、
「VS東京」というコピーや「県外人の来訪を監視している」というメッセージは引っ込めるべきだろう。
徳島の良さを認めようとしないのは徳島県人そのもの。
もし打ち出すとしたら「敵は徳島(地元)にあり」。
逆に徳島の良さを見出せた人が移住なり暫定居住なりしているのが実態だから。

コロナ禍では政府の初動期の対応に確たる方針がなかった。
国ばかりが情けないのではない。
義務を果たそうとしない人々もいる。
無知、無理解、無神経、無行動の四無の人も少なくない。
(スーパーで買い物をして家に戻る際には人も商品も無害化処理が必要だがどれだけの人がそれを実行しているだろうか)。

コロナ禍は大きな代償だけれど、この国が生まれ変われるとしたら意義はある。
(コロナ禍転じて福と成す)
それをやっていくことが一人ひとりの役割、
というか生きがいにしたい2020年である。
posted by 平井 吉信 at 22:54| Comment(0) | 生きる
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