2020年05月16日

三原山噴火にみる危機管理


1986年の伊豆大島の三原山で起こったこと、地元の対応

伊豆大島を未曾有の大噴火が襲ったのは1986年11月のこと。
その6日前の11月15日に噴火した三原山を見ようと
伊豆大島には観光客が押し寄せていた。
大島町も観光客を噴火口に近づける方策を検討している最中であった。

三原山の噴火口に異変が起こったのは21日の16時15分のこと(後に五百年ぶりの大噴火と判明)。
伊豆大島では昭和32年にも噴火があったが、避難指示が遅れて1人の犠牲者を出した。
このときの反省を糧に大島町ではただちに対策本部を設置、助役の秋田壽氏が陣頭指揮を執ることとなった。

襲いかかる噴石と溶岩に役場では前例のない対応が求められた。
マニュアルがあったとしても例外的な事案には役に立たない。非常時に会議を開いても問題は解決できない。
リーダーシップを持って、いま取り組むべき課題に集中することである(場当たりの対策を乱発しない。そのために答を見つけるより問を設定すること)。

伊豆大島をJAL定期便の上空から俯瞰したもの。左上の元町港から右下の波浮港。そして三原山噴火口との位置関係がわかる。
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未曾有の災害には役場だけでできることには限界がある。
秋田助役は迅速に住民に避難を指示。そのため夜の移動となった。
電灯が必要だが、発電所でもトラブルが起こり電力の供給が不安定になっていた。夜中の避難で電気が消えれば島民はパニックに陥る。安定した電力を供給するためには職員は施設に残らなければならなかった。東京電力の3人の職員は島に残って電力を供給し続けた。

大島では成人した男性はすべて消防団に入ることになっている。
そのため、どこの家にどんな年寄りが残っているかもわかっている。避難を渋る年寄りやうろたえる高齢者もいただろうが、集落や地域では消防団という共助が機能したことが大きい。

三原山の大規模な噴火に対し島にはどこにも安全な場所がないことから町では全島民の避難を決断。
元町港から40隻の船で住民を次々に運ぶ計画であったが、なんと元町をめがけて火砕流が迫ってきた。
そこで急きょ南の波浮港への移送を行うこととなった。
波浮港までは14kmの道のりがある。
道中で被災する怖れがあったが、地元のバス会社の運転手は誰もひるまなかった。
こうして海沿いの崖っぷちの道路を決死の輸送が行われた。

三原山の台地から元町へと溶岩が流れ落ちた
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ところが輸送先の波浮港の周辺の海で異変が見つかった。熱せられた水が膨張的に爆発する水蒸気爆発の予兆である。
もともと波浮港は大昔のカルデラ(噴火口)である。
携帯電話などはない時代、島のバスには無線もなかった。
バスは続々と波浮港へ向かっていた。
溶岩流に飲み込まれるか、水蒸気爆発に巻き込まれるか。
どこにも行き場がなく万策が尽きた、と助役は天を仰いだ。

ところが元町へ向かっていた溶岩流の速度が落ちてきた、との連絡が届いた。
到達時間から夜明けまでに船を出せば島民を避難できると助役は決断。
波浮港に集めた住民を再び元町港へ呼び戻した。
島民全員を元町港へと運び終えた38台のバスの運転手には達成感が刻まれた。
最後のひとりを乗せた船が岸壁を離れるのを助役は港で見送った。

三原山噴火口は静かにたたずむ
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このときのプロジェクトXの動画がある。
「全島一万人 史上最大の脱出作戦〜三原山噴火・13時間のドラマ〜」

行政、消防、船舶、路線バス、電力…。明確なミッションが誰の心にも共有されていた。
「ひとりの島民も犠牲を出さない」

そして、それぞれの行動指針はひとつ。
「自分がやらなきゃ誰がやる」

国の危機管理も機能

1980年代は戦後日本が復興してプラザ合意はその象徴的な出来事であった。
円は80円まで上がり、陽が沈まない国の経済はとどまるところを知らなかった。
日本は我が世の春を謳歌していた。
戦後の焼け野原から脱却して花開いた絶頂期でバブルに転落する直前、
日本全体がその傲りのなかにあった。

ただし80年代は悪いことばかりではなかった。
音楽産業ではアーティストがやりたいことがやれた時代でもあったし、人々が自信に満ちて生きていた。
公害や東京集中の弊害もあったが経済活動の循環が隈なく行き渡り、1億総中流ともいわれた。
格差が少ないことであらゆる人にチャンスがあり、やりたいと思えたことができた時代でもあった。
バブルには負の側面もあれば時代の高揚感(本質を見れば転落の予兆を秘めていた)もあった。
ぼくはバブルの頃も浮かれなかったが、いまも変わらない。コロナ禍でも変わらない。

その一方で、平和な時代特有の誰も責任を取らない組織対応の弊害、免罪符の会議や形式主義、前例のないことをやらない態度、本質を見て未来に投資しない企業や投資家が跋扈。
そんな風土が(いまも続く)失われた30年につながった。当時では資産価値の大きな企業として世界の10位のなかで日本企業が6つ、7つ入っていたように記憶しているが、いまはAmazonの提供するAWSを活用して新たな価値提案を行う多国籍IT企業が跳躍する傍ら、安くて高品質を求めて海外へ移転した日本企業はいまでは見る影もない。

さて、もう一度三原山噴火に話を戻す。
災害対応の所管は国土庁、内閣では発足したばかりの内政審議室の担当と決め、両者の間で併走する協定があったとされる。
刻々と溶岩流が港に迫る頃、国土庁では会議が開かれていた。
しかしその議題は、対策本部の名称をどうするか?
西暦と元号をどちらを使うか(昭和天皇の容態が芳しくなかった)、
臨時閣議を招集するか、持ち回り閣議を召集するか、だったらしい。

災害に遭遇して生命の危機に陥る島民をよそにこれではどうしようもない。
ときの政権は中曽根首相、後藤田官房長官。
その特命を受けて内閣官房に新設された内閣安全保障室長を任された佐々室長らが災害対策を差配。
佐々淳行(さっさあつゆき)氏はあさま山荘事件などで陣頭指揮を執った危機管理のプロである。

小田原評定をやっていた国土庁の会議が終わる頃、官邸主導の救出作戦はすでに開始されていた。
海上自衛隊、海上保安庁、民間の客船など四十隻がたった3時間で大島に集結。夜通しかけて大島の住民1万人を東京都へ運んだ。大噴火からたった半日の奇跡の行動である。

このことを可能とするためにどのような法解釈や調整が行われたかは門外漢でわからない。
権限を越された国土庁など他省庁は猛然と抗議、国会では公明党から糾弾を受けた。
首相の特命と官房長官の調整権の行使を受けてということになるのだろう。
官僚組織が機能したわけではないのだ。だが官邸の独断を誰が責めるだろうか?
(憲法、法令、指揮系統、規程はそもそも何のためにあるのかと問い直さざるにはいられない)

憲法改正、非常事態法による私権の制限の是非を問うよりも前に
するべきことがあるのではないか。
いかなる憲法、法律もそれを運用する姿勢、理念、志が重要である。
安倍内閣の下ではいかなる法令も意のままに解釈し改変を行おうとしている。
後の時代は正しい審判を下すだろうが、
悪事を重ねて逮捕を避けるために都合の良い人事を通す法案を画策する内閣に
コロナ禍の対応などできるはずがない。

三原島噴火の避難行動と比べれば、コロナ禍の感染を防ぐ対策はできうる。
感染症対策とともに経済と暮らしを維持する対策を行うのだが、
初動期に徹底した対策を十分に取ること、
その裏付け(補償)を行うこと。小出しに行わないこと(経済合理性)。

仕事で面談をしていて感じるのは
補助金は余裕のある事業者が申請すると採択されやすい。
いうまでもなく経営資源に余裕があるからである。
(経営資源…ヒト、モノ、カネ、ノウハウ+時間、ネットワーク)

その反面、切羽詰まった事業所では申請が採択されたとしても
緻密な事務処理に基づく適切な完了報告までたどり着けない。
また、ほんとうに誰かの支えを必要としている人は
かえってこれらの手続きを取らない。

もちろん情報収集や申請書の書き方など自助努力は必要である。
熟読すればほとんどは埋めることができるし、窓口では修正の助言ももらえる。
ただし、控えめな人、謙虚な人、誰かの補助を受けることに遠慮する人は申請しないのだ。
(そういう人を身近にたくさん見てきた)

あえていえば、めざとい事業者は補助金をものにする(もらえるものはもらっておく)。
必要な人に行き渡らずうまく立ち回る人が手にする傾向がある。
自己申告はダメなのだ。

だから複雑なしくみ(給付や申請に係る要件)は不要だ。
まずは全国民に生きていくための生活費を十分に配って
剰余の給付分は確定申告時に返還(課税)すればいい。
いわばコロナ禍対応型ベーシックインカム、
さらに生活費のサポートや消費を落ち込ませないために消費税を停止する。

ぼくは考える。
中曽根〜後藤田ラインのような責任を取る政治家がいたなら、
このコロナ禍の初動対応を間違えなかったのではないかと。

コロナ禍が突きつけているのは、国家のあり方であり社会のあり方。
憲法や法令だけで拾えないことがたくさんある。
つまりは自助、共助、公助が有機的に連携する国のかたちが必要ということ。
未来を始めるには遅いかもしれない。
でも、いま始めなくてどうする。

posted by 平井 吉信 at 13:08| Comment(0) | 新型コロナウイルス対策
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