2018年12月31日

ベートーヴェンとサザンの年越し

第九を聴いていた。
前日はサイモンラトルとウィーンフィルで、
大晦日はフルトヴェングラーとバイロイトで。
もうコメントを残すこともないけれど
心臓から送り出す血が勢いよく流れて体温が2度上昇する感じ。

18世紀から19世紀にかけて生きている彼が
20世紀から21世紀も生きている。
それも習い事やアカデミックの対象として
多くの人の人生の設計に影響を与えつつ生計を支えている。
ベートーヴェンの経済効果は史上最大ではないか。

それとともに一人ひとりの胸にひっそりと
しかし堂々と生きている。

続けてミサソレムニスを。
ベートーヴェンのなかでも難解な楽曲。

晩年(後期)の楽曲が続いたので壮年期(中期)の作品を。
チェロソナタ3番をロストロポーヴィチとリヒテルで。
第九とはまた違う颯爽とした前身を楽曲の随所に盛りこんで
これまた胸が大きくなっていく。

最後はヴァイオリン協奏曲。
コパチンスカヤの新しい演奏もいいけれど
シェリングとシュミット=イッセルシュテット・ウィーンで。
ウィーンフィルが適度の厚みと端正な品位で鳴っている。
それでも弦や木管の花が咲いている(活かしている)。
シェリングの音色は楽器の美感と美しさに溺れすぎない品格が
もっとも高い次元で両立しているように感じる。
フルトヴェングラーもそうだが、この時代の人の芸格は(洋の東西、分野を問わず)高い。
テクニックだけならいまの時代が上回るだろうがなぜだろう。
そこにAIとは異なる合理性ではない人の本質が見える気がする。
(AIに駆逐される業種であっても十把一絡げにそうとは限らないということ)

久しぶりにピアノソナタ「月光」を聴いた。
楽曲のすみずみまでなじみがある曲であっても
初めて聴いたときのような心のうずきを感じた。
いつまでも月光のたおやかな海を孤独の調べが漂うように
いつもでも続いて欲しいと。

ベートーヴェンは後期、中期、初期の作風が違っていても
やはりベートーヴェンでしか描けない(人間ベートーヴェン)。
年末の第九を聴くのではなく
ベートーヴェンの第九を聴いている。


ところでサザン(オールスターズ)。
紆余曲折はあっただろうがデビューして長い年月が過ぎてなお第一線にある。
さまざまな楽曲にあるバランス感覚がいい。
日本語は不明瞭であってもそれがやわらかさを醸し出し
社会へのメッセージを込めていてもそれが尖りすぎないようエンターテインメントで包み、
卑猥なフレーズも観客がさらりと流せる。
悪意のある(そしてそのことに気付かない)政治家たちの無神経な発言と違って
桑田さんのはデリカシーを持って大胆に押し出すけど
そこに邪気はまるで感じられない。
なによりメンバーが長い間、サザンオールスターズというひとつのプロジェクトを
ときに休みつつ追いかけていることがすばらしい。
アウトドアのモンベルも設立当初の仲良し仲間はいまも会社の重役としてつながっている。
時間を積み重ねていける人たちは心に邪念がないから。

サザンのアルバムではNude Manをよく聴いていた。
そして2000年以降の音も好きだ。
たった2枚だけというなら次の2枚を。




これいいよね。
https://www.youtube.com/watch?v=6s2zEdWpdoU
砂糖の入ったサイダーを飲まなくなって久しい。
炭酸水ならたくさん飲んでいる。
でも、たまに飲むといいなと思う。
年配者にはなつかしさを
若者には新しさを
世代を超えて訴求する価値をサザンで魅せる。

2018年年末にオンキヨーのデジタルアンプから
ビクターのアナログアンプに戻してから
原音再生志向というより音楽を艶やかに奏でてくれる。
生きていれば良いこともそうでないこともある。
けれど、音楽で時間の流れを振り返るとき
時代が一瞬とまるけれど
そこから先にさらに駈けていくのだ。
よいお年を。
posted by 平井 吉信 at 23:57| Comment(0) | 山、川、海、山野草
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: