2018年12月23日

ねず天を食べたことがありますか? 


この国のために尽くして来られた方のきょうは誕生日。
心から尊敬の念を禁じ得ない。
ご公務を離れても末永くお元気であられるようお祈りしたい。

さて、クリスマス特集として少々おもしろい話を。

みなさんは、ねず天を食べたことがありますか?
手を挙げてください。
あまり手が挙がりませんね。
そもそも見たことがない?
では、ねず天の説明から。

ねず天とは、ねずみの天ぷらのこと。
それを大層好物とする向きがあるらしい。
それも「好き」というのを飛び越えて
生命の危険を冒しても万難を排しても食べたくなるという。

炭焼き小屋で泊まりの山師が夜の静寂でねずみの天ぷらを揚げていると
在所の女房や山仕事の男に化けた狐や狸が買いに来るそうな。
それはおそらく木の葉のお金であろう。
(山師は彼らの足元を見て)
そこで法外な値段を付けて一喝する。
「なんじゃ、こんなものが通用するか。本物を持ってこい!」
いったんは彼らも引き下がるのだが、
食べたくて仕方がないので
空が白み始めてもあきらめることなく何度も通ってくる。
そのうち里へ下りていってどういう手段か
貨幣を入手して買いに来るそうな。
(なかには葉っぱも混じっているが本物もあるのだとか)
狸狐はねずみの天ぷらに目がないことに目を付けて
ねずみの天ぷらで大儲けした木こりの話である。
(ただし夜通し通ってくる尻尾のある人間と応対していると気力体力とも相当消耗するそうな)

その話を聞きつけて実際に実験した方々がいた。
ときは昭和、山本素石さんとその師匠で
場所は和歌山県日高川上流の小森谷。

谷の奥へと詰めて野営地を定めると
アマゴを釣って人間用にてんぷらとし
鍋も油も捨てるつもりで自宅で捕まえて持参したねずみを揚げ始めた。
ふっくらと揚がると
近くの石の上に並べて何かが現れるのを待った。
少しずつ夜が更けていく。
二人は眠らないよう化かされないよう
互いに大きな声を出し合っていたが…。
そして意外な結末が訪れる。
続きはこちらで。

アニメ化もされているようだ。
ねずてん https://www.shiga-web.or.jp/eins/nezuten/index.html

この本は1970年〜80年代に書かれたエッセイを集めたものだが
舞台は昭和初期から戦後と推定される。
山本素石は、ツチノコでも有名になった人でエッセイにはおもしろい話が散りばめられている。

京都の鴨川上流の志明院という寺では
かつて司馬遼太郎が新聞記者時代に宿泊して遭遇した怪奇現象が知られている。
(1961年「旅」10月号の「雲ヶ畑という妖怪部落」に書かれている)
著者の素石もご住職と懇意にしていて数回寺に泊めてもらって
まったく同様の現象に遭遇したという。
さらに昭和26年には寺の近くでの恐怖体験を記している。
それは清滝川でアマゴ釣りをして薬師峠を経て雲ヶ畑へ降りて一夜の宿を求めようと
薬師峠から近い志明院をめざす途中でのできごと。
奥の院の行場のあたりで恐怖体験を味わったと書いてある。
(どんな恐怖体験かは読んでのお楽しみ)
そのとき遭遇したのは年を経た白狐ではないかと素石は思ったという。

司馬遼太郎は後年の住職からの手紙で
戦後になって寺に電気が引かれてからは怪奇現象は起こらなくなったと記されていたという。
魑魅魍魎は文明には勝てなかったということか
→ 2016年に山と渓谷社から復刻されたもの

山本素石のエッセイにはツチノコのこと、夜這いのこと、
おおらかな昭和の風習とその灯火が残る田舎が臨場感を持って書かれている。
(一度読み出すと止まらない河童海老煎のようだ)。
それでも高度経済成長に呑み込まれていく様子が描かれている。


このブログにも書いているように
ぼくも親父も狸に化かされたことがある。
http://soratoumi2.sblo.jp/tag/%92K
また、子どもの頃には近所に狸が守り神となって
商店街の路地裏でひっそりと祀る人がいたことを覚えている。
(柳町のあたりで「日吉大明神」と名乗っていた。線香の立ちこめる格子戸の向こうに向かって賽銭を投げ込んだことを思い出した)

金長だって、大和屋の守り神として祀られる存在であった。
小松島と徳島にまたがる勝浦川の河原では狸合戦が起こったこと。
金長と阿波狸合戦を顕彰してつくられた金長神社の移転をめぐって
行政も苦慮していることなど
とかく徳島は狸の話題がある。
DSCF7871-1.jpg
(たぬき公園に鎮座する日本一のたぬき)

たぬき公園に犬はいないが猫は多い。
チンチラと雑種の兄弟ではないかな。
DSCF7862-1.jpg
(こんなのがねずみを取ってきたら、ねずてんにしてみたらどうですか?)

平成最後の年となったが
山間部で自閉症や発達障害とみなされている実態のいくつかは
狸憑きや狐憑きがあるのではないか。
(部屋の窓に新聞紙を貼ったり夜中に用を足すために山をうろつくなど)
魑魅魍魎は風前の灯火ながら平成の次の御代も生き残っているのではないか。

それでは、魑魅魍魎はどのように顕在化するのか?
それには人の意識の変性、あるいは潜在意識に誰かが(もしくは自らの暗示で)
働き変える作用があるのではと思っている。
かつて賑わった山奥の集落も人が去り廃村となっていく過程で
妖怪変化とも共存していた人間が去り
人々の意識のなかから存在が薄れていくと
彼らも神通力を発揮できなくなったのではないか。
高度なあやかしを駆使する志明院の白狐の正体は狸狐ではなく
かつて修行した修験者の霊魂のなせる技ではないかと考えている。
(襖をガタガタさせるなどは魂に感化された狸や狐のいたずらもあるだろうが)

つまり共存とか共生ということは
潜在意識の奥底で相互につながりがあったから
一度何らかのきっかけでスイッチが入ると
幻覚、憑依、怪奇現象、超自然現象などが起こるのではないか。

平成が終わろうとするいま、
激動の時代を自ら範を示して生きてこられた天皇陛下への尊敬の念とともに
変わりゆく社会から隔てて並行に存在するものたちの名残が
なつかしい幻影のように浮かんでいるように思えてならない。





タグ:妖怪 金長
posted by 平井 吉信 at 21:59| Comment(0) | 山、川、海、山野草
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