2018年05月27日

憲法を考える


ダム建設で意見が平行線をたどるとき
「人のいのちか、鳥のいのちか?」のスローガンが掲げられることがあった。
人命を守るための施設をつくろうとしているのに
自然保護団体が反対している。それは反社会的な行為だとでもいわんばかり。

長い間、地域で息づいてきた風土や人間の関係性に着目すると
人のいのちも鳥のいのちも守る方策があって
持続的な未来への道筋を確保することができる。
だから、先の議論は論点ずらしに過ぎない。

ダムが破壊するのは生態系だけでなく地域共同体そのものであるから、
人が生きていく拠り所を失ってしまう。
すると地域は崩壊するしかない。
(補償金で家を建ててもそこには幼なじみはいない。むしろ都市に出て行くきっかけとなるだけ)
ダムができてかえって危険になったと川を知る那賀川流域の古老は語る。
(ダムの上流側は土砂の堆積による河床の上昇による洪水の怖れ、下流は多目的ダムの運用から起こりがちな流量操作が引き起こす人為的な洪水)
それも定量的なデータという根拠を添えて。
地域社会、生態系のみならず
費用対効果と維持管理費用の経済合理性からも
ダム建設は分が悪い。

徳島には良い見本がある。というか生きた文化資産だ。
吉野川の第十堰はそのときどきに人が関わりながら
3百年近くに渡って存在した石積みの堰で
分水の役割を果たしつつ生態系に溶け込んでいる。

洪水を防ぐ効果があると訴求しても
広告の宣伝効果と同じで因果関係の説明が難しい。
その効果を発現させる他の方法、すなわち代替案の検討が行われるが、
環境影響評価や影響緩和策を含めて評価してもダム建設はあり得ない。
人口減少時代に社会インフラの維持管理が大きな問題となるし、
ダムの寿命が来たときにどうするかに答えが見出せない。

(ダムの問題ではないが、徳島では天神丸など剣山系の名峰に大規模な風力発電が企画されているという。これに対し知事は是としない知見。再生可能エネルギーとて大規模集約で行う限り費用対効果や経済合理性、買電に係る国民費用負担の増大などの問題がある。視点を変えて分散型、すなわち各家庭など電気を使うところで発電、蓄電して賄うのが理に叶っているように思われる。知事の判断は慧眼である)

何を解決したいのか、
そのための最適解は何かを説明できなければ論点ではないのだ。


政権はときにメディアを恫喝し
都合の悪い人物に圧力をかけて沈黙させ左遷させ見せしめて
政権に都合の良いように動けといわんばかり。
忖度させる状況を作り出せば為政者は楽だ。
関係者の会社が次々と国の仕事を受託したり補助金を受けたり
その一方で戦略のない思いつきのような法律を次々と成立させてきた。
(恥ずべき為政の先には国民大多数の弱体化でしかない)
そのような独善的な政権が存続しているのは
国民の無関心(無理解)も一因だけれど
政権の暴走を止める手段(憲法や法律)が機能していないからではないか。

近隣諸国をみれば日本の潜在的危機は高まっている。
専守防衛の国に向けて(上空を通過とはいえ)ミサイルを飛ばされる。
これでは先制攻撃を仕掛けられても防ぐ手立てはない。
(迎撃ミサイルで打ち落とせるなどと防衛省も本気で考えていないだろう)
何らかの異常を察知した段階で
行動の選択肢が可能でなければこの国は護れない。

日本国憲法は9条があるために
周辺国との摩擦を軽減しつつ
戦後の経済発展に注力することができた。
その功績は大きい。
戦争をしないというのは崇高な理念であり
受け継ぐべき目には見えない大切な資産である。
しかし現憲法はほころびが目立つようになっている。
例えば、生態系の保全について。

その問題を考える前に、無関係に見える人類の進化を辿ってみる。
とにかくホモ・サピエンス(現生人類)は特異な存在である。
赤道から両極の近くまで、島嶼から数千メートルの高地まで分布して
人口は70億人を越えている。
生態系を人為的に変えたり対応できる唯一の存在。
意図するかどうかにかかわらず、ホモ・サピエンスがいるところ、
他の生物が劣勢に立たされ、絶滅してしまう。

日本でここ数十年を振り返ってもニホンカワウソやトキがそうであった。
一度絶滅した種は二度と現れることはない。
植物や菌とて同じ。熱帯雨林の破壊でどれだけ貴重な遺伝子資源を失ったか。
(それらは難病の治療薬の原料となった可能性があるのだ)

生態系の破壊が他の生物のみならず
人類自身の生存を脅かす事態となっている。
急激に人口を増加させ、進化の道筋を乗り越える適応能力を持った人類は
地球の生態系の門番とならなければならない。
(すべての権利の最上概念が生態系の保全ではないかとさえ思うのだ)

ところが現憲法では、生態系の保全はまったくうたわれていない。
未来に承継すべき遺伝子資源という概念もない。
だから生態系の位置づけを憲法で明確にうたう必要がある。


改憲論者のなかには現状が憲法と合わないから
現状に合わせて憲法を改正するという考えもある。
しかしそれは違うだろう。
めざす国の方向性がまずあるべきで
そこから憲法改正の議論が始まるのではないか。
(何度も言うが、憲法改正ありき、反対ありきではなく、イデオロギーや政党を離れて中立に議論をする必要がある)

では、めざすべき方向とは?
ぼくは、アジアのスイスとなるべきだと思う。
独自の文化を持ち、歴史と文化を大切にし
洗練された国民とその風土に憧れる国々は少なくない。
内需を満たしつつ、何か特別な思いや世界観が伝わって
ブランディングにつながる。
そのことが生産性の高い国家の経済ではないだろうか。
賃金を上げる企業に補助金を打つやり方ではなく
賃金が上がるメカニズムを考えて国が誘導していくのが政策だろう。
(瞬間風速で達成するKPIを訴求しても自立的持続的なメカニズムは根付かない)

外交によってEU、中東、アフリカ、オセアニア、東アジアとも
等距離外交、いわゆる中立国としてやっていければいい。
とりわけ中国との関係性の構築にはそれが前提となるような気がある。
近隣諸国とは文化や経済で域内の一体感を醸成することで
平和を担保し海外展開を有利に進めていくことができる。

自衛隊の担うさまざまな機能のなかで、
災害対応は大きな役割となると思われる。
しかしそれでも防衛のための軍隊は必要ではないか。
害を及ぼす国へは先制攻撃も可能とする軍隊の存在が抑止力ともなり得る。
(ここ数ヶ月の近隣諸国の動きを見ていると危機感を持って生きていかなければと思える)

その場合は第9条の改正や追記などではなく(整合性が破たんするだろう)
理想国家へと向かう道筋を照らしてくれる新憲法が必要である
(現憲法をリセットして無から描く必要があるのではないか)。

中立国として必要最小限の軍備を明記するからには
政権や軍部の暴走を食い止める記述が不可欠。
(近隣諸国との関係改善のためにも)
すなわち、国家とはいったい誰のために存在するのか。
言い換えれば、国民の幸福とは何か。
国民の幸福に資する理念を深く掘り下げていく。
その一点からのみ憲法を考えることができれば
意義のある成果にたどり着けるのではないか。

posted by 平井 吉信 at 23:15| Comment(0) | 生きる
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