2017年08月05日

夏の太陽が往時の記憶を溶かしていく 横須松原の半世紀


暑中お見舞い申し上げます。
これぐらいの気温になると
身体がほぐれて軽くなる感じ。
暑い夏も悪くない。エアコンをはずしてからは楽しみになった感じ。

盆が近いのでよってね市に買い物に出かけた帰り、
小松島の横須松原に寄ってみた。
もうどのぐらいになるだろう。
ここに来なくなってから。

それは少し遠い昔。
海女さんを除いて
女性が水着になって肌を露出することが少なかった時代。
四国の東玄関と呼ばれた小松島港から目と鼻の先にある横須海岸には
関西方面から海水浴に訪れるモダンガールたちで賑わったとか。
大阪からは当時の船でも3〜4時間かかったと思われ、
海水浴とはいえ、日帰りではなく宿泊して帰ったのかもしれない。

小松島港に汽船が着くと
人や車が蜘蛛の子を散らすように船から出てきて
竹輪売りのおばちゃんの竹付の竹輪と別れの紙テープは飛ぶように売れていた。

港には小松島港駅があり、
踏切ひとつ隔てて小松島駅(地元では本駅と呼んでいた)があった。
日本で一番近い駅のプラットフォーム。
港駅は航路の乗客用、本駅は市民の乗降用といった位置づけ。
距離は近くても保線区があって道路が迂回していたので
両駅を歩くと10分ぐらいかかるのだ。

駅には徳島を経由して高知へ向かう準急阿佐が乗客を乗せて
いつ果てるともなく連なる編成で踏切を横切る様は
後にテレビで見た哲朗とメーテルが乗るあの列車のような感じであった。
小松島と松山を結ぶ準急いしづちもあった。
(小松島は四国の四県都と直通で結ばれていた。四国の東玄関だったから)
しかも列車が来る度、遮断機は手動で国鉄職員が上げ下げするのだ。
路線バスに乗れば、運転手と車掌がいた時代。
高度経済成長は多くの人出を必要とし、
農業でも町工場でも商店街でも余裕を持って仕事をしていた。
特に商店街などは経営は妻に任せて
店主らは役員会と称して昼間から飲んでいた時代。
営業は早々とノルマを達成するので
経理の邪魔にならないよう喫茶店で時間をつぶす。

小松島線のことは以下に詳しい
http://niki.main.jp/komaline/index.html

横須の松原の話へ戻す。
ぼくが子どもの頃も遠浅の砂浜で
どこまで行っても膝までの水深であった。
浜には海の家があり、唇が紫色になると
飴湯であたたまった。
ところがしばらくして遠浅の浜が急深になっていた。
この辺りから海水浴客が減り始めたのではないか。

その後、藻が海底に繁るようになり
足が絡んで危険ということや水質の悪化で海水浴場ではなくなった。
昭和の終わり頃ではないだろうか。


いまから十数年前、
小松島高校の教頭をされていた泉先生がうちを訪ねてこられ、
松食い虫にやられて枯死した横須の松原を再生したいとご相談に見えられた。
(前にも書いたが泉先生はいまも民間の地元広報紙に良いエッセイを書かれている。郷土図書としておまとめになられるといいなと思っている)

その頃、ぼくは勝浦川の下流の住民として上流に植樹を行うなど
気仙沼の畠山重篤さんをお招きする勉強会を皮切りに
流域の上下流の交流を通じた環境保全の活動を行っていた。

名前を出さない黒子の活動であったが、活動内容をブログで発信していたこともあって
このようにご訪問を受けたり電話をいただくことがときどきあった。
この交流のなかから
後に志を果たすべく政治家として活躍された方も少なくない。
そのうち2人は県知事になられ、数人は国会議員に当選された。
議員秘書、やがてジャーナリストとして活躍されている方もいる。
(国会議員から直接連絡をいただくことも珍しくなかった。質問主意書の原案を書いたこともある(「右質問する」などと独特の文体の縦書きである)。PHSを使い続けているのは番号を変えてはいけないと思っているから)
地方議会議員に至っては枚挙に暇がない。
(無党派だが協力できるときは協力している。政治には関わらないけれど)


また、それている。
ときは流れて2017年、
横須松原を訪ねてみた。
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真夏というのに訪れる人もなく
打ち寄せる波と蝉しぐれしか聞こえない。
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砂浜の状態は悪くない。
もしかして泳げるかと思う人もいるけれど
数日前に発表された水質データではB類型だったと思う。

環境省の水質基準と各地の測定値
https://www.env.go.jp/water/suiyoku_cho/result_h26-1.pdf

海水浴ではAAは当然で(AAであっても泳ぎたいと思えない場所もある)
徳島の感覚では泳ぎたいとは思わないが
(よく泳いだのは当時真水なら飲める水質といわれた海南町の大砂海岸など)
湘南あたりだと人が群がるだろう。
でも誰もいない。徳島だから。

防潮堤を歩いているとサボテンが咲いていた。
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X-T2=フジの第3世代の画像処理は第2世代と比べて色の深みと忠実度が違っている。X-E3の発売も予定されているとか。風景も人もX-T2XF35mmF1.4 だけで撮ることが多い。絵の静かな深みを感じるから)

海沿いの道を歩いていると
潮風を好むのかアゲハを見かけた
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打ち寄せる波―。
「海はひろいな大きいな…」
「松原遠く消ゆるところ…」
「生まれて潮に湯浴みして…」
海のうたが好きで口ずさんでいた。
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(祇園祭りの夜、舞台を見ようとゴザに腰を下ろすと同級生の女の子。ぼくは持っていた縦笛で海の曲を聴かせるともなく吹いたことを思い出した。つい数日前に出くわしたときにはそのことを思い出さなかったのだけれど)

往時を思い出すと次々と紐づいた記憶をたどってしまう。
永遠の夏は刻まれたまま、ときの波間を漂うけれど
夏の日射しがあぶり出す。
いつかはその記憶も手放すときが来るとしても
子どもの頃に使っていた貯金箱が偶然見つかって
孔の空いていない五円玉が出てきたような夏の午後。
(コインは発行年度によって希少性が違う。昭和32年は10円玉だったかな?)

追記
往時の小松島港、小松島駅、横須松原を飯原一夫さんが版画に仕上げている。
http://wwwt.bunri-u.ac.jp/human/museum/museum/museum/komatsushima/komatsushima.html

追記2
小松島駅(本駅)はもともと港があった場所(旧港)と連絡する駅。
飯原先生の版画では「小松島港」(ここでは旧港を指す)。
ここから一条通、二条通、三条通、四条通りなどが放射状に広がっている。
「小松島港前広場」という版画がそうで、駅は小松島駅(本駅)。
小松島港駅は、昭和に入って新たにできた港で新港と呼ばれていた。
小松島駅 → 旧港の乗り場。ここから小松島市の市街地が広がっていく。
小松島港駅 → 昭和に掘削された新港の乗降駅。小松島線の終点である。
小松島線は、小松島港駅、小松島駅、その次の中田で牟岐線と接続して
徳島方面、もしくは阿南・牟岐方面をめざす。

追記3
京阪神と四国を結ぶ航路があった小松島のまちは
最盛期には映画館が2軒、2階建て(小山助学館)と4階建て(大沢書房)があった。
近所には歩いて3分程度の距離に八百屋が6〜7軒あったから
スーパーができる前は歩いて数歩の小さな店が台所を賄っていたことになる。
近所の電気店に置かれたナショナルのクーガ115を眺めて学校へ行くのが日課。
このラジオは、16センチ口径のスピーカーと松下お得意のジャイロアンテナを揃えた
精悍で美しいデザインのBCLラジオ。
シングルスーパーで通信性能はスカイセンサーに負けていたかもしれないが、
工業デザインとしての美しさは子ども心を深く打った。

追記4
お節介ですが、どうしてもビールが飲みたい人、
しかし急な外出があるかもしれない人、
家計費を抑えたい人、
料理に合わせられるビールがあります。
市販されているビールでもっとも好きな銘柄。
普段ビールは飲まないしこの世になくても生けていけるけれど
アルコール分なしでありながら本格派。価格も安いといいことづくめ。
飲んだあとの身体の負担の少なさで選びましたが、
この風味がわかる人は舌が肥えている人です。
(脂っぽい皮膚の人、濃くてわかりやすい味がいい人には向きません)
http://amzn.to/2hwmryJ

(フジX-T2XF35mmF1.4 R、フジX-E2+XF18-55mmF2.8-4 R LM OIS)
タグ:小松島
posted by 平井 吉信 at 15:30| Comment(0) | 山、川、海、山野草
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