そうだ、外へ出よう―。
年度末で仕事が溜まっているが、仕事部屋ではかえってはかどらない。
そこで弁当を持って
那賀川の土手のうららかな陽を浴びて仕事をしてみようと思い立った。

三寒四温の間でやや寒く感じる今日だけれど、川面のきらめきはやさしい。
けれど少しずつ光を増しているよう。
ThinkPadを取り出してさっそく仕事はじめ。
春の気配にそぞろになるかと思えば、
はかどる、はかどる。
(インターネットもつながらないのでいい。ぼくはスマーティフォンを持っていないけれど、持っていれば、ちょっと見てみようとしてどれだけ人生の時間を損しているかを実感できる)
微妙な問題を扱う報告書もあったが、たちまち片付いたではないか。
それならすぐ近くにある取星寺のある妙見山(みょうけんさん)を訪ねてみよう。
(ウィキペディアには「しゅしょうじ」と出ているが、在所の人は「すいしょうじ」と呼んでいる)
妙見山は子どもの頃、遊山箱に卵焼きや寒天を詰めて花見に行った場所。
その頃の思いでを少し繙いてみる。
このところ晴れたり曇ったりで天気が安定しない。三寒四温である。けれども、少しずつ暖かくなっている。
ここは那賀川下流ののどかな集落である。土手に近い田んぼでふたりの兄妹がれんげ草を摘んでいる。あぜみちには、たんぽぽ、オオイヌノフグリ、ぺんぺん草が咲いていた。
春の野草にはそれぞれあそび方がある。だれでも知っているように、ぺんぺん草は実を引っぱって回すとジャラジャラ音がする。
れんげ畑でふたり遊んでいると、いつのまにか招き猫みたいな白い猫が寄ってきた。妹は両手をせいいっぱい前に差し出して、「おいでおいで」をしながらよたよたついていくけれど、猫の方はまるで相手にしない。というより、されるままにじっとしている。
裏の妙見山を振り返ると、黒くすすけた木の家が見えた。母屋に続く垣根の坂道をかけのぼる。家の裏には那賀川の水を引いた深い用水があり、その流れは強い。お兄ちゃんはこわごわのぞきこむけれど、妹はゴーという音が聞こえると逃げていってしまう。
笑うことと楽しいことの間に少しの距離もなく、無邪気な仕草をするたびに、ふたりの兄妹は大きくなっていく。疑うことを知らず、好奇心にあふれて問いかけるまなざしがひたむきであればあるほど、日一日と賢くなっていっただろうこの兄妹に会えたらどんなにかうれしいことだろう。
私は過去に戻ってレンズを向ける。するとレンズに気づいた子供は、きょとんと顔を上げる。
「なんだろう」
口元をきりっと結んでふしぎそうな瞳は微動だにしない。
妙見山へ遊山に行くのもこの頃だ。男の子の絵がたどたどしく描かれた空色の重箱がお兄ちゃんのお気に入り。三段重ねの重箱に寒天やたまご焼きを詰めて持っていく。昼間登った時、お兄ちゃんは那賀川の水面がきらきら反射するのを食い入るように見ていた。
夜になって、頂上付近に桃色のぼんぼりが明滅するのが里から見えた。お兄ちゃんは勇気をもってひとりで登ってみた。手拍子のカチッとした響きが山中にこだまし、そこへ唄の節とも思われないような不気味な合唱がけだるそうに聞こえてきた。こわかった。あれは鬼の宴会だと思った。声のする方をみないように、いちもくさんに里へと駆け降りた。
田に水が入った五月。おたまじゃくしに似た変な生き物が、せわしく足を動かして泥の上をすべるように泳いでいる。カブトエビである。
桜並木はせみの宝庫。せみ捕りには金網の虫籠をさげていくのだが、親戚の兄ちゃんは、おじいに作ってもらった竹細工の虫籠を持っていてうらやましかった。桜並木にいるのは、アブラゼミかニイニイゼミで、裏のくぬぎ林には、はねの透明なツクツクボウシやヒグラシがいる。こっちの方が高級感がある。
緑と赤が虹色に光る玉虫は捕まえたことがなかった。捕った、という子がいると見せてもらいに行った。
オニヤンマはさすがに大きかった。あの黄色と黒の縞がブンブン音を立ててこちらに飛んでくると、かみつかれそうな気がした。
そこへいくと、ギンヤンマの優美さは比類がない。陽光を透かしてみる葉裏のような胴体がひるがえっては、水辺をスイスイスーイスイと翔ぶ。ほんの少しラムネ色したはねを小刻みに動かし、とめてはまた動かす。トンボはちょうちょみたいにはねをしょっちゅう動かさないのである。
サルビアの花の蜜は甘いな。ホオズキの袋のなかには何が入っているのかな。サルビアやほうせんかの袋は子どもにいたずらされる。でもそのことによって、種を広い範囲にばらまいている。
夏の昼下がり。そろそろ来るかな──。
「チリンチリン、チリンチリン。う〜まいキャンデー」
(あっ来た来た、自転車に乗ったアイスキャンデー売りのおじさん。ハッカにしようかニッキにしようか)
それは美味というよりも、にごりのない水彩絵の具を思わせる素朴な風味だった。一度食べると、もういいやと思ったりするけれど、あの鈴の音を聞くと、また欲しくなる。
人の住んでいない納屋の二階には瓶や壺を並べてある。畳を敷いてあるところが昼寝の特等席。時折、土手の中段をカブやオート三輪が、トトトトッと通りすぎる以外はせみの声しか聞こえない。
稲穂はたなびく順番を待っている。
(風そっと吹いてみろよ)
稲穂が熟れて、草いきれからわらの香ばしい匂いに変わったとしても、あぜみちの平凡な事件にすぎない。
(「空と海」から)
この文章を読むとき、
ジョージ・ウィンストンの「Winter Into Spring」が心に降りてくる。
彼ぐらい自然界の現象を旋律に昇華できる人はいない。
春を待ちわびる心象風景が音の一瞬のきらめきが音符となって湧き出す。
描かれた音の風景は日本の春の余韻を紡いでやまない。
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妙見山は地元の人の手で花が植えられ公園として整備されるようになった。

望遠鏡が据え付けられている。
家に戻って気付いたが、土手を歩く若い男女が米粒のように写っていた。

自動車道が那賀川に橋を渡して立江をめざして伸びてくる。
母の生家は黒い焼き杉に覆われた家で
坂を駆け足で上がっていったことを覚えている。
しかしその家はもうない。
薄日が射す午後の遅い時間に満開のスイセンが空間を黄色に

桜のつぼみもふくらんで―もうすぐ卒業。
まだまだ場違いな感じも否めないが、待ちきれずに開花したのだろう。

小さな花だけど、見ようとしなければ見えない花だけれど。
まだ春が来ない人たちのために―。

この一輪に引き込まれる。
誰も気付こうとしないし
目立つこともないのに、こんなにも存在感を放っている。


春の七草 ホトケノザ
近寄ってみると、イチゴをほおばる幼子のように可憐。

視点を低くするほど見えてくること、
視座を高く持たなければ見えてこないこと。
両方あるよね。
小さな花たちを見て、
もう家へ帰ろう。
そう思って歩き出すと、八十八箇所があるではないか。
実際に四国巡礼をしなくても
88箇所の寺の功徳を集めたものが各地にある。
ここにもあることは知らなかった。
行ってみよう。

標高百メートルもない里山の尾根筋に点在する88箇所を模した仏像。
そして岩と照葉樹が織りなす低山とは思えないたたずまい。
声を出しながら先へ先へと歩みを進める。











日没が近いのと夕食があるので途中で切り上げた。
ふと幼い頃の再生装置に灯が灯る。
壮年でありながら那賀川で命を落とした叔父を中心に親族が集まっていたあの頃。
そのとき、椿は幽玄の森にぽっと艶を投げかける。

変わりゆく故郷の風景に
変わらぬ春を見つけられた安堵を胸に
春の夕暮れを駆け抜けた。
(生ききっているから振り返らないよ)
(フジX-E2+XF18-55mmF2.8-4)
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