2016年03月06日

原田一美さんの児童文学「博士になった丁稚どん」「青い目の人形」と原田家の蜂須賀桜


幼い頃、父にドブ釣りに連れていってもらった。
ドブ釣りとは、アユの解禁後初期に淵で毛針を上下に動かす釣りである。
天候、太陽の位置、水の透明度、川底の珪藻などによって毛針を選ぶ。
当時小学生のぼくも毛針の固有名詞を覚えている。
(岡林1号、青ライオン、八つ橋など)。

毛針は近くで眺めるとなかなか美しい工芸品のようでもある。
ドブ釣りは錘を付けるので、ときたま底にかけてしまう。
鉛は惜しくないが、毛針は惜しいので
鉛が仕掛けからはずれやすくなっていたと記憶している。

谷崎鱗海さんという釣り名人がいた。
どこでその名前を知ったかというと
父が口癖のように「鮎釣りを谷崎名人におそわった」「谷崎鱗海さんが…」。
谷崎名人の自称弟子ということなのだろうが、真偽はわからない。

鱗海さんの本名は義男という。
那賀川中流の相生の生まれで
子どもの頃から那賀川の主といわれる鮎釣りの名人であった。
しかし勉強もせず、親に隠れて釣りばかりしていたので
とうとう勘当され、12歳で徳島市佐古の美馬商店で丁稚奉公を始めた。

熱心な勤務態度が主人に認められて、
(こっそりと勉強していた)勉学を認められて
丁稚をしながら学校に通わせてもらえることになった。
ひとりになって勉強ができるありがたさが身にしみたのだろう。
17歳で店の最年少の番頭となり、その後ご恩を返したあと、故郷で油屋を開業。
誠実な商売で事業を発展させた。

若い頃、肋膜炎にかかった奥様を至れり尽くせりの手当を行って数年で回復させた。
商売で貯えたお金をすべて吐き出してしまった谷崎さんであったが、
ご恩のある美馬商店がのれん分けとして徳島市南部の二軒屋に店をもたしてくれた。
小学校の恩師樫原先生、それに命を救った奥さんの後押しで勉強を再開、
次々と合格を果たしていく。
ついに、小学校中退でありながら高等文官(いまでいう国家公務員のキャリア)の試験に合格
(当時は2万人に1にといわれた)。

しかし…谷崎さんは、商売を続けることにした。
野に咲いてこそと、徳島で商売を続けながら生きていくことにした。
(感動的なくだりなので原書でどうぞ)

昭和11年のある日、谷崎さんは吉野川の河口に釣りにやってきた。
そこで自らの人生を振り返って感慨にふけっていたかもしれない。
その足元に一生を終えて身を横たえたアユの姿が…。
短い一生だったけれど、アユの鱗に刻まれたいのちの証し。
鱗海の誕生する瞬間である(これもぜひ原書で)。

順調な商いを番頭と丁稚に任せて、自身は鱗海と称して
一生をアユの研究に捧げることとしたのだった。
やがて14年をかけて吉野川に棲む魚種を39種類と結論。
同様に那賀川では41種類と特定。
これは川という生態系を知る土台となった。
鱗海さんは自由な研究の真実の愉しさに気付いてしまった。
アユの生態調査は30年にも及ぶ。
(まるでアユを隣の人を観察するかのように、血の通った生き物の生態を解き明かしていく)

アユは夜も遡上するという説に対し、
夜の川に入って何時間もじっとしながら
闇に目を慣らしてアユの寝顔を観察すると
昼間のどう猛な顔つきと違うことに気付いた。

県内のどの川のアユがおいしいかを釣り人に尋ねたところ
鮎喰川という答えが圧倒的に多かった。
その理由は、良質の苔を産すること、
その原因は、伏流水と山から入る沢の影響で水温が低く保たれることにあった。

谷崎さんの研究はダムができる前の時期であった。
吉野川、那賀川、勝浦川は昭和40年代にダムが整備され、
その後は下流に土砂が供給されなくなる問題や
川底の藻が泥をかぶる状況などの弊害が問題となるが
これはそれ以前のこと。

ひとつは川の大きさも関係しているのではと思う。
大きな川の魚は、水流の多さから(=水圧の大きさ)から
骨が太くなる傾向にあるのではないか。

四万十川本流よりもおそらくは黒尊川、
吉野川よりも穴吹川や鮎喰川など
支流が優位になる可能性はある。

流域の山々の微量ミネラルも影響しているように思う。
(ミネラルは骨の形成に影響があるだろう。骨そのものがミネラルの貯蔵庫なのだから)
これらの要素も鮎喰川に有利に働いたのではないかと考えるのだ。
そういえば、きき鮎で上位に選ばれる川、
例えば安田川などもそうだが
必ずしも水質(同じ地域の野根川は日本有数の水質だろう)で最上級とは言えないのに
鮎の風味は佳い。


ここで谷崎さんの話題に戻そう。
終戦を迎えるとGHQの民主化改革により
74人の店員を雇用した谷崎さんの財産は没収された。
さらに奥様が難病にかかり、それまでに貯えた富を吐き出してしまった。

最後は小さな釣り道具屋を経営しながら、
一家がささやかな暮らしをしながら
店を息子に譲り、自身は釣りの知識を活かして指導や講演を行うようになっていた。
京都大学の研究者に声をかけられたことがきっかけとなり
47,234文字の論文「海水温、淡水温によるアユの生態、習性について」が認められて
博士号を取得する。

理学博士の学位は、その不屈の意志と、限りない努力に咲いた花でした。
徳島の海と、川と、魚たちが、鱗海さんに捧げた賛歌でした。


(「博士になった丁稚どん」。この著書が絶版でもはや入手できないのは徳島県にとって文化の喪失ではないだろうか。また、谷崎鱗海さんの名前もWeb上ですらなかなか見つけられないのが残念)

しかし、この実話を著作にまとめられた原田一美さん、
書籍に編集された(株)教育出版センターの乾孝さんに心から感謝したい。
(郷土図書にかける乾社長の強い思いを存じ上げている)

原田一美さんは、冨田小学校の元校長で徳島の児童文学作家。
つい先日の2016年3月1日に89歳で亡くなられたとのこと。
ご冥福をお祈りいたします。

原田先生は、美郷でのホタルや神山町の神領小学校のアリス人形についても取材され
それぞれ「ホタルの歌」「青い目の人形―海を渡った親善人形と戦争の物語」にまとめられた。
 → ホタルの歌 (動物の記録 1)

 → 青い目の人形―海を渡った親善人形と戦争の物語

昭和2年に国際親善を担った人形のたどった過酷な運命とそれに抗い守ろうとした人たちの物語、
(阿部ミツエ先生もすでにこの世にいないけれど…)
http://e-school.e-tokushima.or.jp/kamiyama/es/jinryou/html/htdocs/?page_id=24
それから大南さんらのご活躍でアリスは里がえりも果たすことになった。
(アリスとともにあった人々がいまの時代を見たらなんと言うだろうか…)
http://www.in-kamiyama.jp/diary/8533/

美郷や神山が注目を集めているが、
その背景には自然や文化を大切にしてきた人たちの伝統があることを忘れてはならない。


写真は3月6日、一般公開された徳島市の原田家の蜂須賀桜。
曇り空に晴れやかな桜が別れの春をうたっている。
(重文の原田家と原田一美さんの関係は不明)

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タグ:昭和 神山 美郷
posted by 平井 吉信 at 23:02| Comment(0) | 徳島
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