2015年12月30日

ベートーヴェン第九交響曲の世界へようこそ 2015年が暮れていく


佐渡裕の第九演奏会から三日目。
いまだに第九の放射するエネルギーのなかにいる感じ。
第九のCDを聴いてみたいというリクエストが寄せられているので
まとめてお答えすることでご容赦を。


10代後半から20代にかけての10年はベートーヴェンの研究に没頭した。
文献としては、セイヤーの畢生の大作「ベートーヴェンの生涯」(上・下。音楽之友社刊)。
これは、ベートーヴェンの残した客観的な資料を集めて考証した伝記で
基準となるもの。

耳が聞こえなくなって、苦渋の顔を浮かべて、ハイリゲンシュタットの森で…という
あの既成概念を洗い出すためにも信頼できる資料が必要であった。
セイヤーの伝記はベートーヴェン研究の基準となるもの。
当時のぼくは生きるか死ぬかという生活であったが
いまこれを読まなければならない、との決意で
ベートーヴェンが生まれてからこの世を去るまで
当時のヨーロッパの社会生活を交えながら脚色を避けて正確な考証に徹している。
上下刊で1,200頁を越える大作を2か月かけて読んだ。
(どんなに苦しいときでも自己投資の時間と費用は惜しまないで生きることを学んだ)

主要な作品は総譜を求めて実際の演奏と照らし合わすとともに
自分ならこうする、との思いで総譜に書き込んでいった。

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真実と思ったことがある。
それは、作品と同じ魂の高さでなければその真価はわからないということ。
自分を磨き上げることでベートーヴェンの音楽をたぐり寄せるしかない。
さまざまなことに研鑽を重ねた若い日々だった。
(そのお陰でいまがあるのだけれど、いまだって当時と変わることなく挑んでいる)

今回は第九の話なので
そんなぼくが心を揺さぶられた演奏(レコード・CD)について記したい。

宇宙には芸術を生み出す混沌としたエネルギーが充ちているけれど
それを美というかたちにするためには女神のささやきが必要である。
ただし、女神は自ら作品を創造できないので
自らの魂をこれはという芸術家に降ろしていく。

その魂が降りた作曲家がベートーヴェン。
没後188年が経過してなお、
その音楽が洋の東西を越えて人々を感動させるのだから。

その作曲を演奏するのが指揮者とオーケストラ。
作曲者と同じ高さまで登り詰めないと人々を感動させる演奏はできない。
作曲者が乗り移って鬼気迫る音楽を紡いだのがフルトヴェングラー。

夢見るような少年期の表情、
痛切なまでの憧れを大人になっても持ち続けたのではないかと思える。
もちろん、そのような男を女性は放っておかないし
彼自身も恋多き男だったかもしれない。
彼が活躍した晩年は戦中から戦後にかけて。
19世紀のロマンティシズムがまだ社会の各所に息づいていた時代に
夢見る大人が夢中で演奏したベートーヴェン。
雄弁でありながらどこか寂しげで、
高くそびえ立つアルプスの高峰のように豊かでもあり、
人恋しくうたう切なさと雄弁なフォルテ、
潮が満ちて引くような生理的な呼吸が
ベートーヴェンそのもののように崇高で無邪気で律儀でもあり、
雷に打たれたような、身震いして宇宙と共鳴するような凄みでもあり。

CDは1951年のライブ録音、バイロイト祝祭管弦楽団を指揮したもの(通称バイロイトの第九)
復刻処理でみずみずしく滴りおちるような再生音になった。
音が悪い、録音が古いかどうかは耳で判断して欲しい。
ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱つき》[バイロイトの第9/第2世代復刻]


ぼく自身は第九のレコード、CDをたくさん持っているが、
それらをすべて解説していたら日が暮れてしまう。

おもしろいものを3枚ぐらい拾ってみよう。

ひとつは、バーンスタインが、ベルリンの壁崩壊のときに演奏したライブ。
これも歴史の証人のような場面でバーンスタインのみならず
ただならぬ雰囲気のなか、演奏が行われている。
(1989年12月25日、東ベルリンにてライヴ録音)

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」

もともと熱を持った指揮者が燃え尽きるような演奏。
なお、第4楽章では、Freude(歓喜)をFreiheit(自由)に変更して歌っている。


音楽を伝統の枠のなかで純粋に響かせても第九は美しい。
そのような演奏もいくつか。
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」

ベートーヴェン:交響曲第9番<合唱>

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」


しかし、「伝統」というのは良くも悪くも権威、常識と結びついて
革新的な伊吹で熱を帯びることはない。
第九も作曲当時からの垢が付いてきた。
それらをそぎ落として新たないのちを吹き込んだのがノリントン。

考えてみれば、ベートーヴェンの作品のコピー、
すなわち楽譜(写譜)は劣悪な環境でなされている。
悪筆の作曲家のペンの跡をなぞるのは他人である。
音楽のことがわからないと、基本的な写譜ミスをしてしまうかもしれない。
逆に音楽のことが分かりすぎると、
ベートーヴェンが従来の常識を越えて飛翔している
場違いな音符を排除してしまうかもしれない。
いや、作曲家自身も耳が聞こえないうえ、
オーケストレイションが上手な人ではない。
校正を重ね、熱にうなされるようにペンを走らせていただろうから
手元には何種類もの原版があったに違いない。

このような状況で原典をたどる作業すら容易ではない。
しかしベートーヴェンの真筆がわからない以上、
受けつがれた伝統を信じて音化していく人もいれば
時代考証を可能な限り行い、
垢をそぎ落としながら最後は芸術家(創造するという意味)の判断を行う人もいる。

ノリントンは後者の人である。
演奏は聴いたことがない新鮮さ、
次々と現れる耳慣れない表現に釘付けになる。
身体が動き出す。まるでロックのよう(ベートーヴェンの音楽がそうなのだ)。
それでいて、ベートーヴェンの音楽は壊れていない。
奇をてらうことを目的ではなく
作品に魂を吹き込むために演奏していることが伝わってくる。
ノリントンはベートーヴェンの本質を捉えていると直感でわかった。

だから、ノリントンの第九は欠かせない。
ノリントンには新旧2種類のベートーヴェン交響曲全集がある。
オーケストラの良い新盤(シュトゥットガルト放送交響楽団)と
旧録音(ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ)を区別しよう。
第九は幸いにも単体で発売されている。
ベートーヴェン: 交響曲第9番「合唱」 (Ludwig Van Beethoven : Symphony No.9 D minor op.125 / Roger Norrington, Radio-Sinfonieorchester Stuttgart, Gachinger Kantorei Stuttgart) [輸入盤]


しかし、9つの交響曲を全集として聴いてみると
さらに愉しいひとときが待っている。
ところが、シュトゥットガルト放送交響楽団(新盤)の全集は廃版になっている。
気がつくと新品も中古もプレミアム価格となっている。
 → ベートーヴェン:交響曲全集(視聴はここでしかできない。英雄や第5などもとても良い演奏と気付く。ただしこのWebページでプレミアム価格で新品や中古を買ってしまわないように。ぼくが見たときには5万円の値付けも)

ある中古盤を購入しようとすると
「盤質は良いがカビあり」とある。
現物を見ないと何とも言えないが、カビが表層を食い込んでいたらお手上げである。

そこで、新品(輸入盤)を購入しようと
アマゾンUK、アマゾンUSAを探してみた。
すると、USAに1セットあった。
日本へ持ちこんで1万円弱である。
購入しようとして、再度検索してみたら
日本のアマゾンで輸入盤としての扱いを発見した。
これではオーケストラの名称で検索しても出ない。
高価な中古を購入している人のためにURLを下記に。
新盤のベートーヴェン全集が新品で買える。
(なくなればいつ再発売されるかはわからない)
Norrington Conducts Beethoven Complete Symphonies


今朝、未明は
ラトル/ウィーンフィルを聴いていた。
現代の指揮者がウィーンフィルを率いて
新しい解釈と往年の表現を織り交ぜたような愉しい演奏。
ベートーヴェン:交響曲第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)


もうあとわずかで2015年が暮れていく。
ベートーヴェンの第九とともに過ごす時間もあとわずか。
みなさまのご多幸をお祈りいたします。

平井 吉信

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この指揮棒で何代目だろう。振り続けていると、いつのまにか折れてしまう。
posted by 平井 吉信 at 14:23| Comment(0) | 音楽
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