2015年08月11日

終戦の詔(平成27年8月)と長崎平和宣言(2015年)


「日本のいちばん長い日」(半藤一利)を読むと、
軍部の思惑に引っ張られて
ポツダム宣言受諾をめぐるやりとりが一向に進まないのがじれったい。
降伏を迫られてなお出口のない議論を行う。
当事者はそれぞれが正しいと信じた根拠や信念に則って
命がけの主張を行っているのだろうが、
読み進めるのが嫌になる。

しかし置かれていた状況は厳しい。
戦争を続けるも地獄、止めるも修羅場。
いずれの決定も国の内乱の怖れや
敗戦へつけ込む外国の思惑を見据えれば
英断ですっぱり決着をつけることは困難であったことも確か。

超法規的な「聖断」によって決着を図るという鈴木首相。
昭和天皇の存在がなければ議論が延々と続き、
原爆が次々と落とされ、ソ連が本州に上陸して国土は分割されていたかもしれない。
終戦の詔書に作成は、反乱を懸念しつつ時間との闘いのなかで
クーデターを企てる不穏な空気もあったが、
玉音放送へとつなげることができた。
(いまの内閣にこれだけのことがなしえるとは到底思えない)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
(中略)
耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
(「大東亜戦争終結ノ詔書」)
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf

平成27年8月1日、宮内庁から
「戦後70年の節目に当たり、
70年振りに玉音放送用の録音原盤の再生を試みたところ、
直接、昭和天皇のお声の再生に成功、録音することができました」
ということで、原盤からの音声が公開されている。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/index.html

命をかけて戦争を終わらせるという昭和天皇の強い意思、
国民への思いが感じられる。
歴史の経緯を知ったうえではさらに感慨深いものがある。

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現代の長崎へ戻ろう。
一瞬の閃光がもたらした廃墟と
現在の緑の大浦天主堂の対比から
過ぎ去った70年に思いをはせる。
戦争の記憶が薄れれているという実感。

原爆は戦争終結に役立ち有意義であったという他国の世論に対し、
淡々と事実を伝えていかなければならない。
市長は、以下のくだりで
被害者、加害者を越えて向き合うべきとのメッセージを込めた。

「単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。」

そして、2015年のヒロシマ、ナガサキで
いまも被爆者が苦しんでいる現実。
そんな戦争の反省から日本国憲法が生まれたと綴る。

田上市長はさらに個々の相手に呼びかける。
日本政府への呼びかけで、
集団的自衛権への言及を取り上げるマスコミは少なくなかった。
(またもや部分的な引用に意味づけして対立を煽る)。

個々の問題への「はい」、「いいえ」、「どちらともいえない」を尋ねる電話での世論調査。
何度かかかってきたが、一度も答えたことはない。
本質の問いに気付かなければ(設定ができなければ)
見せかけの問いに答えたところで意味がない。

集団的自益権、安保関連法案の是非を問うのなら
それ以前に本質の問いがある。
平和とは何か? それは必要なものか?
平和は誰に何をどのようにもたらすのか?
平和の本質は何か?
それを獲得し維持するために
どのような行動が必要か?を考えるべきだろう。

ときの政権は本質をずらして強引に導こうとしている。
生命や安全までもが「記号」に置き換えられてしまう。
集団的自衛権や安保法案も道具でしかない。
(「戦争法案」のレッテル貼りも同じ穴のムジナ)
行動のもととなる理念、精神、運用の方針など
「どのように」使いこなすかが大切。

アジアを中心とする時代情勢を分析したうえで
なお採択に突っ走ることが問題である。
多くの人々は法案の中味よりもその行動が問題と感じている。
都合の良い解釈で盲目的に突き進んだあのときのように。
日本の歴史でこれほどの痛みと汚点はない。
その責任は子孫である私たちも負わなければならない。
それは、過去に学び、未来を拓くことだ。

政治に無関心なのは「丸投げ」を容認すること。
本来、人の生死は究極的には
その人の「判断」に帰属するもの。
政府に命を預けますか?
何でも政府に求めますか?
自分のことはまず自分で考え行動すべきでは?
どんな国(地域)にしたいのかも含めて。

○○が必要、○○があればだいじょうぶ、ではなく、
「どのように」の視点が欠けているのがいまの日本。
機能不全の政治と行政が補助金をばらまく。
日本の津々浦々で行われている地方創成の実態。
事業の例示や紐を付けたりすることなく
地域に任せたらいい。

残念ながら現在の市町村や県に自治の能力はないだろう。
(行政は全知全能になる必要はなく、民を活かす施策を考えて実行すれば良いのだが)
住民もサービスを当然のごとく受けるとして
義務を果たすことなくお客になってしまっている。

自分たちで生きていくことに目覚めること。
行政機構は、地域が自分で決められる小さな地域国家のような単位が必要だろう。
沖縄の問題は日本全体の問題であり、
我がこととして考えるべきだが、
決めるのは沖縄・宮古・八重山の人たちでありたい。
国は平和外交と民の活動が活発になる規制緩和や制度づくりで
民の活動を支えればいい。

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再度、長崎平和宣言に戻る。
国籍を問わずこの世を去らざるを得なかった人たち、
その傷を背負ってなお生きていく人々の気持ちを
平和宣言は背負っている。
過去に学び、振り返ってはいまに活かし、
未来につなげていくべきもの。
時代の空気を反映させることは自然なこと。

淡々と綴られる田上市長の宣言には
市民の思いを背負う責任、覚悟とそれゆえの客観性が感じられる。
それを踏まえたうえで、
長崎の市長だから言えること、言わなければならないことがある。
(それを政治色とレッテルを貼る御用マスコミの論調も常套手段)。

自分が考え判断すること。
田上市長の長崎平和宣言をご覧になってどうお感じになりますか?

長崎平和宣言(長崎市)
http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html

宣言の動画
https://www.youtube.com/watch?v=FtmIK5BgyyE
posted by 平井 吉信 at 23:09| Comment(0) | 生きる
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