2015年05月23日

ブログからつながること 教育からつむぐこと


SNSはやっていないけど、
Web上に名前や顔写真、電話番号まで載せていると
良いこともある。

自分の世界観を打ち出していくと
そこに共感する人たちと最短距離で出会える。
すでに相手はこちらの思いがわかっているので
いきなり本題に入れる。
そこには、SNSのわずらわしさ、
お義理の「いいな」、からみ、炎上とは無縁。
ケータイ電話に「はじめまして」の着信をいただくこともある。
(そのためにWeb上に番号を公開している)
ラインのような内輪の閉じた空間ではなく
あくまで共感を求めて外へ開いていくもの。
それが匿名でないWebやブログの良さかも。


このブログがきっかけとなって
中学生の頃の同級生の女の子と電子空間で再開することができた。
当時の彼女のイメージは、足が早く運動神経が良くて
素朴で飾らないけれど笑顔がまぶしい小麦色の女の子。
(彼女の笑顔は好きだった)
感じたことを天然色で表現できる
連続テレビ小説のヒロインのようだった。

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話が弾んだのは中学の恩師について。
M先生は、当時齢七十を超えていた数学の教師。
春夏秋冬よれよれの灰色のコートを着て
手には黒板を指さす棒を持って
初登場のとき、机をぴしりと叩いて授業を始めたときは
教室が静まりかえった記憶がある。

がっしりとした骨格に引き締まった筋肉質の身体、
張りのある声はいまの30代〜40代には求めえない骨太さ。
風貌だけでも威厳に満ちていたが、
権威は一切まとっていない。
(学校や文部省の方針、出世にも頓着しない)
(教師というよりは数学者、哲学者というべき)
3年間の授業では、にこりともしたことがない。
誰にも媚びず、生徒を怖がらせる存在であった。

ときに声を荒げてて
「おせ(阿波弁でおとなの意)にならんとわからん」
などと苛立つこともあるけれど、
わかるように教える、わかるまで教えるという信念と
やさしさの照れ隠しのような感情を含んでいたと。
(中三の1学期には微分積分にまで進んでいた)。
「畏敬」とはこんなときに抱く感情。
そのとき教えてもらった生徒はみんな感じていた。
ぶっきらぼうな言い方ではあっても
生徒への愛が根底にあることを。


設立されたばかりの私立中学の第1期生だったので
後に学園の理事長となる方ともキャッチボールをした記憶がある。
歴史がないことで、学園が上から下まで等距離にあった。
先生と教科書以外の関連内容で質問したり討論することも少なくなかった。
屋上には後藤光学製の20センチアクロマート屈折赤道儀を備えた天文台があり、
当時は周囲が暗かったこともあって
肉眼の900倍の光を集める口径20センチ50倍の視野に
まぶしいばかりのオリオン星雲M42を捉えた夜には
♪ オリオン舞い立ちすばるはさざめく♪と
片道30分の真っ暗な土手沿いの道を
「冬の星座」を歌いつつ自転車を漕いで帰った。

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当時の学園は、徳島市内でありながら荒野に埋もれるような場所で
麦畑のような葦原(秘密基地をつくっていた)の道を駅に歩いていくと
M先生の自宅があった。
(スタジオジブリの素材になりそうな光景)
一度、数人で尋ねたことがあるが
自分に厳しく律する哲学者のような暮らしに感銘を受けた。

国語のF先生はやはり70歳を越えていたが
対照的に好々爺で、孫に接するように語りかける。
それでいて、背筋を伸ばし「稟」とした存在。
(やわらかな楷書、しっかりとした草書というか)

ときどきは教科書から離れて
時事問題や文学を語られるのだけれど
(特に瀬戸内文学など)
経験を積み円熟したものの見方を
わかりやすく展開していただいた。

その後、名門の公立高校に進むぼくであったが、
受験勉強は一切しなかった(これまでの人生でも一度も受験勉強をしていない)。
学校ではすでに高校の教科に進んでいたし、
受験勉強とはいえ、いまさら中学の教科書を繙くのも気が向かない。
さらに、学校には受験生がいないので合否のデータがなかった。

進学校とはいえ公立の高校に入った途端、
あまりの教師の水準、志の低さに愕然とした。
彼らは生徒が理解しようとしまいと時間通りに進めるだけ。
授業に創意工夫が見られないのだ。
この経験は、後に人前で話をするようになるぼくの反面教師となった。
高校の授業はおもしろくないので
授業中は天文学や天体物理学などの本を読みあさっていた。
教科書もわくわくするおもしろさがなかったし。

その後、レールの上を歩かず自分で人生を切りひらいていくと決めた。
大学では求めるものがないと判断して
(実際にそうだろう。狭い範囲であっても専門性、実用性はないし、広く俯瞰する汎用性、応用力も得られないだろう)
独学でさまざまな学問を勉強と実践をいまも続けている。
それは中学時代に得たものが大きかった。


再び、中学に戻ろう。
とある夏のこと。
F先生は、受け持ちの生徒全員(といっても7人しかいないので事実上の英才教育)を
明日香村に連れていってもらったことがあった。

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このときの甘酸っぱいできごとは胸のポケットにしまうとして
その後、たびたび訪れる明日香、ひいては考古学、民俗学に引かれるきっかけとなった。
(三内丸山遺跡への承継、遠野物語への探求、先月も石見銀山と妻木晩田遺跡へ)

日本は教育にもっとも力を入れよう。
それも既存の領域の予算を増額するのではなく
押しつけの道徳を施すなどではなく、
これまでの教育のしくみをゼロベースで見直すべき。
志を持つ地域の人たちやプレーヤーを活用しつつ
閉ざされた学校から地域に開かれ、地域とともに地域の役に立つ
人生の多世代がクロスする場でありたい。
授業は覚えることから、
「考える」こと、議論と合意形成を身に付けることへ。
(そうしないと実際に行動できないだろう)
突出した個性ある人材を生み出せるよう。
そして教育費は限りなく低廉に。
(だって人材は国、地域、企業の資産だろう。教育機会の差がその後数世代にわたって影響しているように見えるから)

一機の原発の災いが引き起こした途方もない損失や
オスプレイの購入費を見るたび
お金(というか力を入れるべきところ)の使い途を間違えていると思う。
何度も言っているが、政治家と政党はすべて廃止しよう。
志と知見を持つ人たちによる費用弁償に置き換えるべき。
場合によってはプロジェクトごとの任期付の雇用や特命もあり得る。
住民を巻き込んでコミュニティとして行動していくためには、
コンサルタントに依頼してはいけない。
中央集権は弊害のみ。
移民をもっと受け容れよう。


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あんなことがあった、こんなこと覚えている?
そうだったね。

人は、思い出を食べて生きていけるけれど
人生は短いようで長いから、
もっと輝く未来が待っているに違いない。

posted by 平井 吉信 at 19:10| Comment(0) | 生きる
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