2015年02月11日

いつもいつも見つからなくても言葉は社会から預けられた道具 


生まれて一度も使ったことがない言葉はたくさんある。
知らないから使えない、ということはあるとしても、
意識して使わない、使えない言葉がある。

そのひとつが「マジ」。
(伏せ字にしたいぐらいなのだが、それではわからなくなるので)
中学の同級生がよく使っていたけれど、
最初に聴いたときに意味がわからなかった。
前後の文脈から察すと「まじめ」「真剣に」という意味ではなさそう。
そのときのわからなかった経験が心に残骸となって
この言葉は使わない言葉となった。

この類はほかにもある。
「ハンパナイ」というのもそう。
中途半端ではない、を短くしたのかと思ったけれど
意味が少し違うような気がする。
ひねらずに「優れている」のひとことで足りる。

「正直、もうダメだと思いました」のように使う
「ショウジキ」も使いたくない。
「正直に言って」を略しているように見えるけれど
「率直に言って」に近いように感じられる。

言葉って無頓着に使いがちだけれど
人を傷つけたり誤解されたりすることは避けたい。
どこかの国で演説を行った誰かの言葉が「誤解されて」
(相手方からみれば、「誤解をしたふりをして」)
口実を与えたかもしれない。

スポーツのインタビューで
「ぼくの(私の)プレーで被災地の人たちに夢や希望を与えられたらと…」
のコメントを耳にすることがある。

えっ!?
言っている人には悪意はないと思う。
でも、これを聴いている人はどう思う?

夢や希望って、さあ、どうぞと与えられるもの?
誰かの言動がきっかけとなることはあっても
自分で掴みとり感じるものではないだろうか。
世界平和のためには?の問いに
「家に帰って家族を愛してあげてください」と答え、
人々に無償の愛を伝えたマザーテレサならどう言うだろうか?

もっともスポーツ選手(典型的な体育会系の人)の場合、
あまり深く考えずに話している人が少なくない。
「きょうはね、まっすぐがね、いいコースにね、ちょうどきたんでね、バットを思い切り振りました。チームに貢献できて最高っす! これからも応援ヨロシク!」

国語を磨いて生きている人たちではないことはわかるけれど
スポーツだって洞察力や直感力、感性が必要では?って思う。

その点、イチローのインタビューは機知に富んでいて楽しい。
記者の思惑をはぐらかしつつ
スポーツ選手の既成概念を覆すやりとりのなかに
彼のプレーにつながる要素が垣間見えるのだ。

大リーグで長きにわたって一流選手であり続けられるのは
PDCAサイクルを意識して回しているから。
彼のなかでは毎日の決まり決まった日課や所作があって
その結果、何がどのように変化したかを観察して修正している。
結果に一喜一憂することなく、
納得できるプロセスを積みあげることを大切にしているように見える。
そのことがかえって結果につながっているのだ。

すぐれた動体視力、強肩、俊足という3つの強みを活かした
プレー様式をつくりあげている。
ドラッカーなら、強みを活かして特化できた選手と評するだろう。

だから、部分的な筋トレなどではなく
骨格の動きを中心に、
神経作用の伝達や筋肉の動きを磨き続けているのだろうと思う。
しなやかで、したたかな野球への向き合い方が
言葉ににじみ出ていると思うのだ。

言葉を使ううえで暗黙のルールがあるとしたら
その言葉が誰もが認識する意味(語義)で使うことだろう。
(辞書を引けばわかるということ)

単語を組み合わせて感情を解き放つのが文章であり言葉であるはず。
ルールというよりは言葉を使う「前提」と捉えたい。

いい楽曲だなと思って聴いていると
歌詞がひっかかることが少なくない。
(もったいない)
歌詞は論文ではないし国語の問題集でもない。
(学術論文でも無意味な二重否定の多用、〜と言えなくもないであろう、あざやかに記録を残す選択肢を考える余地がなかったというべき〜など持って回った「学者表現」が鼻につく。論文こそ、気取りを捨てて簡潔に伝えるべき)

歌詞は聴き手が自在に自分のイメージをふくらませ
自分の体験や思いを重ねて捉えられたらそれでいい。
だからこそ、語義をいじる使い方は避けた方がいい。

クールジャパンの本質のひとつにアニメの表現がある。
そこで、90年代のある人気アニメを分析しているところ。
世界各国で放映されたもので
もう20年になるというのに根強い人気がある。

作品の転機となる場面で挿入される歌の一節にこんなフレーズがある。
「夜のまほうの 封印はなって」

自分をかばって倒れた恋人を抱きかかえて
主人公が涙を流す。
すると、幻の銀水晶が引き寄せられるように出現する。
放心状態でたちすくむ主人公。
そして、仲間に見守られながら
探し求めていた月のプリンセスが現れる。
純白の衣装を身にまとい、
重い運命を背負う永遠の哀しみと諦念さえ浮かべた主人公がうつむきがちに、
そして顔を上げてかすかに微笑む。

花びらがはらはらと舞い降りてくるような
晴れやかで朗らかでおだやかな慈しみ。
この作品の白眉の場面と思う。

ただ、「封印を放つ」とはどんな意味?
見えざる力が働いてて封印が解けていく。
この「封印が解かれる」状態を「封印を放つ」と言い換えられる?

とはいえ、全200話のなかでも
作品の世界観が凝縮されたこの数分。
「そっと耳をすまして 甘やかな吐息…」の作詞の感性。
寄り添う楽曲とコーラス、心の変化を暗示するコード進行。
初めて大切な人に触れたときのときめきと切なさを思い出して
胸が熱くなる人もいるだろう。
(美少女戦士セーラームーン 第34話「光輝く銀水晶! 月のプリンセス登場」)

もしプッチーニがこの場面を見たのなら
感動してオペラをつくったことだろう。
彼の「蝶々夫人」第一幕で、
蝶々夫人が日傘をさし友だちを従えて
背後にきらきらと光る海を愛でつつ
弾む息をこらえつつ歓びを隠そうともせず
しずしずと登ってくるあの場面の音楽のように。
(蝶々夫人の第1幕はぼくの宝物)

余談だが、各国の言語でアニメ化されているのを見ると
やはり日本のアニメはオリジナルのまま、字幕で見た方がいいと思われた。
声優の細やかな表現、間合いの取り方、息づかい、
それに音楽との一体感が作品に生命を吹き込んでいる。
海外での吹き替え版はまるで大味で
翻訳した台詞をそれらしく当てはめているだけのように聞こえる。

正しい言葉を使うことが目的ではなく、あくまでも言葉は道具。
言葉が感情を伝えるとは限らないし
感情を的確に伝えられる言葉が
いつもいつも見つかるとは限らない。
それでも、生身の人間だから、
一つひとつの言葉を品定めしつつ
社会から授けられた道具を大切に使っていきたい。

DSC_9970m.jpg

2015年4月6日(月)18時30分からNHK BSプレムアムで再放送とのこと
http://www.nhk.or.jp/anime-blog/0010/207768.html


posted by 平井 吉信 at 11:51| Comment(0) | 生きる
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