邪馬台国がどこにあったかは種々の仮説があるので、その優劣やどの説を採るかについては深掘りしない。邪馬台国研究はここ数週間の「にわか好奇心」であることをお断りしながらも、この問題を考えるうえでの態度(考え方)は明確にしたい。
その1 文献は正しいと思って読む前提として、邪馬台国ではなく、邪馬壹国とする。
文献を読む際に、自説に合わなければ、誤解があった、勘違いだろうなどと解釈せず、ただ記述を受け止める。
魏志倭人伝は公文書であり、当時の晋が置かれていた状況から、国内で対峙するうえで外交は重要機密に属する内容と考える。ゆえに能吏が任されて作成する以上、誤りは許されず、可能な限り正確を期して書かれていると解釈。古事記、日本書紀も同様である。ただしそれを見せる側の意図(ナラティブ)には留意する。
その2 科学的論理的な多様な視点で捉える 多様な視点とは多様な角度からの検証である。当時の気象、天文学、測量技術、交通手段、まつりごと、風俗、地理、地勢学、遺伝子情報からの人の流れの分析、地名、神社名、祭神に至るまで。そして、時間軸を前後に多く取ること(旧石器時代まで遡って考える)。地政学的には日本だけでなく東アジアから中東あたりまでの動きに至る考察が必要。
その3 提唱する人の態度物理的時間的な制約、経済的な理由などの制約があるため、現場や一次情報にあたるわけにはいかず、特定の説を提唱する人の主張を精査するのが早道となる。鵜呑みにせず咀嚼していくと主張の問題点に気付く。それに悪意があるか過失かなど、程度の問題はあるので完全無欠の解釈は求めないのは当然。
その4 自分なりの史観と前提を持つ邪馬壹国がどこにあったかについては重要ではないという考え方を前提とする。神代(神話)の神は実在の人物であると考える。少なくとも神武天皇以降は実在と見なさないと歴史を綴ることができない。
・日本列島は少なくとも4万年前ぐらいまでにはホモ・サピエンスが到達している。
・アジアの古人研究の第一人者であり、身体を張って台湾から与那国島へ太古の船を建造して渡ろうとした海部陽介博士のお話を実際に伺っており、アジアには多様な人類(ホモ属)が存在していたことが前提。
・新石器時代の住民を中心に、南方北方からの流入が加わって縄文時代と縄文人に移行している。
・縄文時代は世界的に見て希有の時代で狩猟採集を定住しながら(管理しながら)行なったSDGsの先取り。この恵まれた環境は日本列島のみに見られた生態系の多様性が背景になっている。争いを避けて共存するという縄文人の資質の高さも特筆されるべき。外からの流入を受け容れて同化させる(外部の良いところは受け容れる)など人も自然も、恵みと災いを区別することなく受け容れた「多様性の受容」が縄文文化の根底にあり(平井吉信説?)、それが弥生文化への円滑な流れにつながっていると考える。
・人種としての縄文人も弥生人も存在しない(一様ではないという意味)。弥生時代は、縄文人と渡来人が混血して形成されたという単純な話ではない。いったん外へ出て戻る場合もあるし、渡来人といっても、アルタイ方面、オホーツク海沿岸、沿海州、中国東北部、朝鮮半島、長江流域、中国南部、スンダランド(東南アジア)、チベット、中東などさまざま。日本人の遺伝子のハプログループが多様なのはそのため。
・日本で最初のまとまった勢力であるヤマト王権には渡来人の関わりが大きい。淡路島や剣山のユダヤの遺構やアーク伝説なども実在した可能性が高い。ただし別の渡来人や縄文由来の人たちも関わるかたちでヤマト王権は成立していると考えるのが統治の原則。ゆえに特定の民族や部族のみが政権の始祖というわけではない。
・魏志倭人伝の邪馬壹国の記述からは、女王の死後、倭国大乱となったとあるが、神武天皇以後の数世代が該当する。ここで統合のために祭祀を司る女性を立てたのが魏志倭人伝の卑弥呼(おそらく倭名は異なる)。
・古事記は、邪馬壹国の誕生物語ではなく、ヤマト王権が誕生して政権の基盤を確立するまでの史実をナラティブで語っていると解釈。その際に寓意(神話から象徴的に示唆する)を読み取る必要がある。(例/サメと結婚して子どもが生まれるはずはないので、サメとは海洋民族を象徴するなど)。
・現存する神社(延喜式神名帳に綴られた式内社)と祭神は丹念に由来や移設を追跡する。
・弥生時代から古墳時代にかけては縄文海進が終わった後であっても現在よりも水際が高かった地形で考える。
・縄文時代に西日本を直撃した鬼界カルデラの大噴火の影響を考慮する。また、邪馬壹国の機能の分化や移動について考えられる外部要因(例/南海トラフによる津波など)も要素として意識する。
長くなったけれど、現時点で(おそらく変わらない結論として)、魏志倭人伝に書かれた邪馬壹国は阿波にあったと考えている。以下に根拠(状況証拠)。
・魏志倭人伝での邪馬壹国の所在地の記述と矛盾がない。この点では畿内説も九州説も脱落している。
・古事記の国生みは渡来人の上陸と統治の順番を表す。オノコロジマ(沼島と比定)の次は淡路島(阿波路=あわへ向かうの意)。台湾から与那国島をめざした海部陽介博士によれば、黒潮の流れは新石器時代の当時も現在とそう変わらないとのこと。台湾南部から船を出せば黒潮に乗って日本列島に運ばれ、紀伊水道へ入れば和歌山寄りを主流して淡路島で反時計回りの反転流が蒲生田岬(四国の東端の岬)の間で生じる。淡路島南部の上陸は地理的にあり得る状況。
・その次にイヨノフタナジマ(四国)であることに留意。ただし到着してすぐに国がつくれるはずもなく、そこには同化と支持者を増やす年月が必要。神武以前の神はそのような時代を象徴しているのではないか。
・その際には、朝鮮半島経由で長江流域、中国東北部、沿海州あたりの渡来人もそれぞれの技術を持って渡ってきている。先住の倭人(縄文系だがそればかりでもない渡来系も)とも協力しあって一大勢力を作り上げていったのではないか(特定の渡来人だけで政権を固めたとは思えない。国譲りなど象徴的な場面があるので。渡来人のなかにも縄文人と共通の始祖を共有する部族がいたはず)。
・淡路島のユダヤの遺跡の痕跡、徳島の白人神社の由来やその近隣の磐境神明神社がユダヤの遺跡(駐日イスラエル大使の判断)であったことなどからユダヤが倭王朝の成立に関わっている。剣山の例祭の神輿やそれが行なわれる日などユダヤの痕跡はあまりに多い。
・魏志倭人伝の邪馬壹国はヤマト王権のすべての機能を有しているとは限らない。徳島平野は浅い海のなかにあった時代、女王が祭祀を行なった場所は、剣山から神山町あたりの山中にあったと考える。当時の四国は尾根沿いにみちが走り集落は尾根にあった。天石門別八倉比売神社神社や上一宮大粟神社はそれらの場所に近いところではないか。大乱が起こったのは中国地方と考えると、統治には陸続きの畿内のほうがやりやすい。のちに行政機能のみならずすべての機能を畿内へ動かしたのではないか。
・邪馬壹国が阿波にあったとしても、阿波が日本国の始まりでも日本の歴史の特筆すべきできごとでもなく、時系列で見ればその時代にそのような機能があったということ。
・天皇が即位する際に行なう大嘗祭は最重要の儀式であり、そこに阿波忌部氏(もしくは天太玉命)の直系である三木家が麁服(あらたえ)を調進することの意味は大きい。この特別な儀式は天皇陛下ひとりが部屋に籠もって行なわれる秘儀であるが、そこに麁服を持ち込むために入室するのは三木家。麁服は天皇陛下が召されるのではなく、神を降ろすよりしろとして使われる。このような重要な祭事を司る家系が剣山の近隣で、ユダヤの遺構(磐境神明神社)から10km少々の距離に住まわれている。
・多くの人が指摘するとおり、式内社で重要な神社が阿波にしかない、もしくは阿波から移設されて各地にあるという記述が多い。
・魏志倭人伝では、邪馬壹国周辺の山々で水銀が採れたとある(「其山有丹」=その山には丹(辰砂=水銀)がある)。水銀は古代の宗教儀式や埋葬に使用されており、邪馬壹国の特産物として水銀が重要であったことを示す。弥生時代から古墳時代にかけて水銀が採れた国内の場所としては阿南市の若杉山遺跡がある。水銀朱の生産が行われていたこと、採掘に日本で初めて火が使われた痕跡がある(2025年1月)ことが確認されている。日巫女(祭祀)を語るうえで、水銀が採れない場所は邪馬壹国から除外できる。個人的にはこの項目がもっとも重要と考えている(数字などと違って定性情報として間違えようがないから)。
・1991年に皇太子徳仁親王さまが阿南市の八桙神社に行啓された。この年は立太子の礼を行なわれて皇太子に即位された年で2年後に雅子さまとご成婚されることとなる。八桙神社は大国主命を祭神とする神社で(縁結びとしても知られる出雲大社ではなく)、なぜこの神社に行啓されたのか。皇室では、三種の神器や儀式の意味や由来について口伝での秘匿すべき情報があるのではないか。
邪馬壹国が阿波にあったというのは子どもの頃から多くの人から提唱されているが、徳島人のぼくもこれは眉唾ではないかと思っていた。だからぼく自身も考察するに当たって客観的に見ているつもり。邪馬壹国が阿波にあったといって喜ぶのでも自慢するのでもなく、ただ事実を知りたいと思っただけ。歴史の中で見ると、ヤマト王朝成立には多くの要素が関わっており、祭祀の役割を担う機能としての邪馬壹国(どこにあったかを含めて)はそれほど重要ではないように思える。魏志倭人伝や古事記を多面的に考察していくと、邪馬壹国の比定だけでなく必然として見えてくるヤマト王権の黎明から今日に至るまでの一筋の流れがある。
追記
邪馬台国の多くの研究者が気付いていないことをひとつだけ。
川の氾濫が八岐大蛇の寓話で象徴されるとしたら、日本でもっとも基本高水のピーク流量が大きい川が吉野川(毎秒24000トン)で、次点が利根川の毎秒22,000トン。西日本の多雨地域、それも西日本で1番目と2番目の石鎚山系と剣山山系からの水を集めるので洪水が頻発した。それを制したのが竹林(水害防備林)。池田から岩津までの全長50km、270ヘクタールは全国最大となっている。