羽ノ浦町はかつて那賀郡であったが、2006年に阿南市と合併し、阿南市羽ノ浦町となった。羽ノ浦町は那賀川下流左岸(北岸)に位置する。那賀川河口部からは10km弱遡ったところである。
那賀川は徳島県内に限定すればもっとも長い川である(吉野川は高知県側に流程の1/3ぐらいがある)。日本有数の多雨地帯である木頭地区、剣山山系南斜面の木沢村に源を発し、中流域はカヌーに適した急流を形成する(鷲敷ライン)。ここにナカガワノギクを産する。
そして阿南市上大野町/羽ノ浦町古毛のあたりで那賀川はくるりと東に向きを変えて紀伊水道を目指す。その屈曲点に固定堰があって、そこから那賀川下流の平野部に引水するため北岸用水が作られた。その流路は那賀川町、さらには小松島市立江地区、坂野地区にも達する。
北岸用水はもともとの那賀川の支川(もしくは那賀川三角州)の流路を利用しているはずである。そう思っていると、国交書のWebサイトに百年以上前の流路が記されていた。
https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0802_nakagawa/0802_nakagawa_01.html
「那賀川北岸用水の歴史を考える」と題した文献に、那賀川の北岸用水の歴史が掲載されている
https://www.tokushima-pe.jp/wp-content/uploads/7d243c39113215ffb901579ad3c18923.pdf
「羽ノ浦町の用水と水神信仰」によると、那賀川下流域の水神さんは23体あるという。このことから洪水と日照りに悩まされきた歴史と人々の願いがうかがえる。文献には、用水を切り拓いてきた佐藤家(佐藤良左衛門=同名の祖父と孫)の記載がある。佐藤家の娘が自ら望んで人柱になろうとしたところ、お城下からの使いで、娘の代わりに仏像を埋めよともたらされたという。そこに水神が祀られている。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/31/3116.html
水神さんがあるところは分水(分派川)であった。南岸と北岸、上流と下流の農民の利害の対立があったことから分水は人々の利害が直接的に絡む問題であった。水神さんでは8月16日に祭りが開かれる。堤防の上にずらりと夜店が立ち並び、身動きできないほどの人出があり、花火が上がる。
北岸用水をたどったことをこのブログにも記している。
今回は、前回訪れていない岩脇地区から古庄地区にかけてを水路とまちなみをたどりながら歩こうというもの。羽ノ浦町はコスモスによる地域づくりを行っているので、散策のゴールは国道55号線を横切ったところにあるコスモス畑とした。
なお、地元では岩脇(いわわき)を「いわき」と発音する。また、取星寺(しゅしょうじ→ すいしょうじ)と聞こえる。これらは地名の発音時に起こりえる現象と捉えている。隣の立江(たつえ)地区は「たっつぇ」。上勝町市宇地区は「いっちゅう」なども同様である。
今回は訪れていないが、羽ノ浦町古庄地区には国道55号線から東に広い道路があって駅前のような構えである。かつてはこの場所に古庄駅が牟岐線の駅としてあったらしい。その駅は牟岐線が那賀川町方面に延伸されたことで廃駅となったが、富岡方面への乗り換え(バス)などで賑わったという。その名残の駅前らしい雰囲気はいまも感じられる。当時にしては道幅が広い(広いというか広場のようである)。こちらもいずれ調べてみたい。
岩脇地区は、那賀川の上流域(丹生谷)から運ばれた木材の集散地であったため製材所が多い。地区の北には妙見山(みょうけんさん)があり、花見で賑わう。さらに東の山麓にはあすみが丘という住宅地が展開された。山を越えて宮倉地区には大規模な住宅団地が展開する。羽ノ浦町は風光明媚な田園地帯でありながら徳島県南部でもっとも人口が増えている地域である。
本日の出発点は、農協の施設があるところから。ここにはコスモス畑が広がっている。近隣には県内で屈指のフランス料理を提供する佐竹博規シェフによるレストラン「Loup(ルゥ)」がある。1年半先まで予約が取れないともされるが、それだけの価値がある県内では3本の指に入るレストランである。田園風景と一体となったガストロノミーの世界観を醸し出している
まずはコスモス畑から





コスモス畑の横に見えているのは 北岸用水からの分派。農閑期なので水はほとんど流れていない


趣のある農家のたたずまい

これも北岸用水の分派。小さな用水が立体で交差する

南へ向かって、しばらく行くと昔日の土佐街道、阿千田越道と書かれた木の標識がある。そこに地蔵尊が祀られている

四つ角をさらに南へ進む。ここで北岸用水の最も大きな流れを横切る。今は農閑期であるため水はない。しかし水路を見てわかるように、深さは子どもの背より深く、しかも滝のように流れが早い。おとなでも落ちたら助からないのではと思える

岩脇小学校が見えてきた。地区の文化を育んだ伝統校

さらに土手に向かって南下(坂を上がって)すると岩脇の渡し場跡の標識。やがて堤防上の道に出る


那賀川に出て左には那賀川橋(通称 古庄の橋)

川を眺めたら再び岩脇小学校に向かって降りていく。この辺りから古い街道筋のような道が始まる

趣のある住宅街。おそらくかつて商店も多く並んでいたに違いない

幾度も北岸用水を横切る。

田んぼの真ん中にポストと祠があり地蔵尊と不動明王が祀られている

国道を横切る手間にも水門があって下流へ向けては分派する。水門は高さを個別自在に設定することで流量を調整する。水をめぐる争いを避けるため、分水の決め事は厳格に行なわれたはずである

水門の直上流側は川幅が広くなっている。分派のために 流路が広がるのは理解できるが、それだけではないのではと地図を見ると、水神さん(かつて取水口があった場所/若鮎公園と名付けられている)がこのすぐ上流にあると気付いた

旧河道を国土交通省のハザードマップから拾うことができる。十文字が水神さんがある場所で、かつてここに分水堰があって用水を取水していたことがわかる。また、古毛の堰からの北岸用水もやはり旧河道を利用していることがわかる。また、古毛からの北岸用水と、水神さんからの分水路をつなぐ区間は旧河道ではなく人工(掘削)したことがうかがえる。現在では親水公園となっているドンガン淵も旧河道である

下流は大きく2つに分かれている

川底がV字型のコンクリートの床固めとなっている

国道が見えてきた。橋を通過する時には気づかないが、この橋はアーチ式でかつては石積みだったのかもしれない。この橋を明治橋という

明治橋を横切って国道を対岸は岩脇地区ではない。ここにも水門があってさらに 分派されている。このように北岸用水は随所で水量を調節しながら分水されている


やがてコスモス畑に出る。その一角でそばが植えられている赤い花をつけている。畑の一角には、そばで「平和」と象られた場所がある。世界の平穏を願って地元の方が育てられたと聞く



出発点の岩脇地区へと戻っていく途中で小さな神社が随所にある

ここも 北岸用水から分配された小川のようである

やがて元のコスモス畑へ戻ってきて岩脇地区探索を終える。
羽ノ浦町岩脇地区は、那賀川に面して取星寺や妙見山を背後に持つ那賀川下流域の古くからひらけた集落であったこと、木材の集散地が近隣にあったことで製材が盛んに行なわれたこと、旧河道を利用しながら延伸する北岸用水の軌跡が刻まれた地区として、(田舎にありがちな排他性を感じない)明るくのびやかな農村文化が栄えた場所でもあったのだろう。