2024年11月30日

北岸用水と岩脇地区 コスモスに導かれてそば畑まで(阿南市羽ノ浦町) 


羽ノ浦町はかつて那賀郡であったが、2006年に阿南市と合併し、阿南市羽ノ浦町となった。羽ノ浦町は那賀川下流左岸(北岸)に位置する。那賀川河口部からは10km弱遡ったところである。

那賀川は徳島県内に限定すればもっとも長い川である(吉野川は高知県側に流程の1/3ぐらいがある)。日本有数の多雨地帯である木頭地区、剣山山系南斜面の木沢村に源を発し、中流域はカヌーに適した急流を形成する(鷲敷ライン)。ここにナカガワノギクを産する。

そして阿南市上大野町/羽ノ浦町古毛のあたりで那賀川はくるりと東に向きを変えて紀伊水道を目指す。その屈曲点に固定堰があって、そこから那賀川下流の平野部に引水するため北岸用水が作られた。その流路は那賀川町、さらには小松島市立江地区、坂野地区にも達する。

北岸用水はもともとの那賀川の支川(もしくは那賀川三角州)の流路を利用しているはずである。そう思っていると、国交書のWebサイトに百年以上前の流路が記されていた。
https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0802_nakagawa/0802_nakagawa_01.html

「那賀川北岸用水の歴史を考える」と題した文献に、那賀川の北岸用水の歴史が掲載されている
https://www.tokushima-pe.jp/wp-content/uploads/7d243c39113215ffb901579ad3c18923.pdf

「羽ノ浦町の用水と水神信仰」によると、那賀川下流域の水神さんは23体あるという。このことから洪水と日照りに悩まされきた歴史と人々の願いがうかがえる。文献には、用水を切り拓いてきた佐藤家(佐藤良左衛門=同名の祖父と孫)の記載がある。佐藤家の娘が自ら望んで人柱になろうとしたところ、お城下からの使いで、娘の代わりに仏像を埋めよともたらされたという。そこに水神が祀られている。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/31/3116.html

水神さんがあるところは分水(分派川)であった。南岸と北岸、上流と下流の農民の利害の対立があったことから分水は人々の利害が直接的に絡む問題であった。水神さんでは8月16日に祭りが開かれる。堤防の上にずらりと夜店が立ち並び、身動きできないほどの人出があり、花火が上がる。

北岸用水をたどったことをこのブログにも記している。

今回は、前回訪れていない岩脇地区から古庄地区にかけてを水路とまちなみをたどりながら歩こうというもの。羽ノ浦町はコスモスによる地域づくりを行っているので、散策のゴールは国道55号線を横切ったところにあるコスモス畑とした。

なお、地元では岩脇(いわわき)を「いわき」と発音する。また、取星寺(しゅしょうじ→ すいしょうじ)と聞こえる。これらは地名の発音時に起こりえる現象と捉えている。隣の立江(たつえ)地区は「たっつぇ」。上勝町市宇地区は「いっちゅう」なども同様である。

今回は訪れていないが、羽ノ浦町古庄地区には国道55号線から東に広い道路があって駅前のような構えである。かつてはこの場所に古庄駅が牟岐線の駅としてあったらしい。その駅は牟岐線が那賀川町方面に延伸されたことで廃駅となったが、富岡方面への乗り換え(バス)などで賑わったという。その名残の駅前らしい雰囲気はいまも感じられる。当時にしては道幅が広い(広いというか広場のようである)。こちらもいずれ調べてみたい。

岩脇地区は、那賀川の上流域(丹生谷)から運ばれた木材の集散地であったため製材所が多い。地区の北には妙見山(みょうけんさん)があり、花見で賑わう。さらに東の山麓にはあすみが丘という住宅地が展開された。山を越えて宮倉地区には大規模な住宅団地が展開する。羽ノ浦町は風光明媚な田園地帯でありながら徳島県南部でもっとも人口が増えている地域である。

本日の出発点は、農協の施設があるところから。ここにはコスモス畑が広がっている。近隣には県内で屈指のフランス料理を提供する佐竹博規シェフによるレストラン「Loup(ルゥ)」がある。1年半先まで予約が取れないともされるが、それだけの価値がある県内では3本の指に入るレストランである。田園風景と一体となったガストロノミーの世界観を醸し出している

まずはコスモス畑から
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コスモス畑の横に見えているのは 北岸用水からの分派。農閑期なので水はほとんど流れていない
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趣のある農家のたたずまい
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これも北岸用水の分派。小さな用水が立体で交差する
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南へ向かって、しばらく行くと昔日の土佐街道、阿千田越道と書かれた木の標識がある。そこに地蔵尊が祀られている
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四つ角をさらに南へ進む。ここで北岸用水の最も大きな流れを横切る。今は農閑期であるため水はない。しかし水路を見てわかるように、深さは子どもの背より深く、しかも滝のように流れが早い。おとなでも落ちたら助からないのではと思える
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岩脇小学校が見えてきた。地区の文化を育んだ伝統校
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さらに土手に向かって南下(坂を上がって)すると岩脇の渡し場跡の標識。やがて堤防上の道に出る
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那賀川に出て左には那賀川橋(通称 古庄の橋)
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川を眺めたら再び岩脇小学校に向かって降りていく。この辺りから古い街道筋のような道が始まる
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趣のある住宅街。おそらくかつて商店も多く並んでいたに違いない
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幾度も北岸用水を横切る。
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田んぼの真ん中にポストと祠があり地蔵尊と不動明王が祀られている
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国道を横切る手間にも水門があって下流へ向けては分派する。水門は高さを個別自在に設定することで流量を調整する。水をめぐる争いを避けるため、分水の決め事は厳格に行なわれたはずである
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水門の直上流側は川幅が広くなっている。分派のために 流路が広がるのは理解できるが、それだけではないのではと地図を見ると、水神さん(かつて取水口があった場所/若鮎公園と名付けられている)がこのすぐ上流にあると気付いた
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旧河道を国土交通省のハザードマップから拾うことができる。十文字が水神さんがある場所で、かつてここに分水堰があって用水を取水していたことがわかる。また、古毛の堰からの北岸用水もやはり旧河道を利用していることがわかる。また、古毛からの北岸用水と、水神さんからの分水路をつなぐ区間は旧河道ではなく人工(掘削)したことがうかがえる。現在では親水公園となっているドンガン淵も旧河道である
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下流は大きく2つに分かれている
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川底がV字型のコンクリートの床固めとなっている
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国道が見えてきた。橋を通過する時には気づかないが、この橋はアーチ式でかつては石積みだったのかもしれない。この橋を明治橋という
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明治橋を横切って国道を対岸は岩脇地区ではない。ここにも水門があってさらに 分派されている。このように北岸用水は随所で水量を調節しながら分水されている
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やがてコスモス畑に出る。その一角でそばが植えられている赤い花をつけている。畑の一角には、そばで「平和」と象られた場所がある。世界の平穏を願って地元の方が育てられたと聞く
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出発点の岩脇地区へと戻っていく途中で小さな神社が随所にある
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ここも 北岸用水から分配された小川のようである
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やがて元のコスモス畑へ戻ってきて岩脇地区探索を終える。
羽ノ浦町岩脇地区は、那賀川に面して取星寺や妙見山を背後に持つ那賀川下流域の古くからひらけた集落であったこと、木材の集散地が近隣にあったことで製材が盛んに行なわれたこと、旧河道を利用しながら延伸する北岸用水の軌跡が刻まれた地区として、(田舎にありがちな排他性を感じない)明るくのびやかな農村文化が栄えた場所でもあったのだろう。


posted by 平井 吉信 at 23:12| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2024年11月25日

夏が好きなひまわりと、秋が出番のコスモスが


初夏から晩夏にかけて咲くひまわりと初秋から晩秋に咲くコスモスが同時に咲く。それは品種が違うのか、時期を外れた咲き方(狂い咲き)なのかはわからない。

けれども人間はそれを愉しんでいる。場所は、早生の温州みかんを求めて来場者が多かった道の駅ひなの里かつうら。とはいえ、この光景に気付く人は少ない。気付いてもスマートフォンでは思ったとおりの写真は撮れない。いや、人間が思ったとおりに撮らないからこそ(iPhoneならAIに任せる)きれいに撮れる。それはそれでよいことですが、つまらない。

まあ、自分の生きている時間で、自分がやりたいことをやっているときぐらいは、自分の意志で行動したい。絞りやシャッター速度や構図や合焦点や被写界深度を調整して(例えうまく撮れていなかったとしても)目の前の光景を自分の感性で撮りたい、と思って手動でも動かせるカメラを持っている。高揚感を味わえるし失敗する自由も愉しいから。その点、フジのカメラはソニーやキヤノンほど親切(お節介)ではなく、思ったとおりに動かないじゃじゃ馬(欠点だらけ)だけど、乗りこなせたら官能的な画が撮れる。褒めてないよ、けなしている。でも、好きで使っている。
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この風景が見たい人は、11月末までにどうぞ。できれば晴れた日で。


(フジX-T5+XF16-50mmF2.8-4.8 R LM WR、XF60mmF2.4 R Macro)
posted by 平井 吉信 at 00:16| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2024年11月23日

真夜中に波紋を拡げるように。オフコース「We are」

オフコースの「We Are」は1980年代の日本のポップスの金字塔であり、音質も最上級であると思う(例のドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」と同等の)。録音は日本だったが、トラックダウンを西海岸でやったのではなかったか?針を落とせば(アナログも当時買ったので)、小田さん、鈴木さん、松尾さんがそれぞれ異なる個性のリードヴォーカルを取りながら、冷たい感性のキレと感情の温もりが同居する楽曲がブレンドし、極上のコーラスワークと楽器が空間に躍動する。

オフコースの初期(デュオ時代)はフォークロックの湿り気を帯びている。けれど情感が伝わってくるのも事実。5人組バンドとなってからは洗練された音志向となった。転機はThree and Twoからだけど、それがWe areで跳躍した感じで、洗練と感傷が同居している。ただし小田さんの声には自己陶酔的な少年ぽさと同居する冷徹さが聴き手を突き放す印象もあって、ぼくはすべてを受け容れられない。抽象的な歌詞に西海岸風の伴奏を付けて雰囲気に酔うところがあるが、その一小節に聴き手は自分の体験に照らして同化させ、楽曲のなかに入り込む。そんな印象のアルバムである。

それでもこのアルバムにはぼくの想いが深沈と封印されている。それが楽曲の世界観を合致していたし、その音楽を再現しているような場面でこの音楽を聴いていた時間があるから。

「雪が降っているね」
「… 」

ままごとをした幼なじみが、校区が変わって会えなくなって、少女からおとなへとの飛躍を知らないまま、見知らぬ女性となって目の前にいる。それもまわりの空気を涼やかに響かせるような、しっとりとしたあでやかさを全身に秘めていながら、あくまで清楚にたたずまう。

その年は南国徳島でもまれに見る大雪が降った。暖かい室内で彼女は目を落とす。ぼくは窓の外を見て何も言えない。感受性の豊かな女性だから気付いている。そこに流れてきた音楽―「逢うたびきみは素敵になって、その度ぼくは取り残されて♪」。― 内面の美しさがそのまま完璧な女性の容姿をまとっていたから。

生涯に1人か2人出会う最良の女性だったのかもしれない、と思わずにはいられない。感情が泉のように湧いてくるいまは2024年秋。夜のしじまに音楽が空気に溶け込むように心に波紋を拡げていく。あのときと同じように、ぼくは受けとめるしかない。このアルバムは疑いようもなくオフコースの絶頂期の記録。

We are…のあとに省略されている言葉、言葉にならない言葉が表現されている。次作の「Over」とあわせると、We are overと深読みする人もいる。最高のときを迎えて(それゆえにあとは下るしかない、もしくは終わりがはじまった、解散に向けての過程のごとく)すれ違いの風が吹いていると解釈する人もいる。

ぼくはWe areのあとに省略されている言葉は、We are(what we are)ではないかと思っている。「私たちは…(私たちがあるがままの)」。―わかりますか?問いかけのようで答えにもなっている禅の公案のようなもの。あるがまますべてを受け容れていく諦念にも似た壮絶な美学が火花を散らしそう。緊迫感のなかで閉じ込められようとしている宇宙空間に咲く花とでも。

→ オフコース-We are追記ステレオサウンドから、オフコースの音源がSACDで販売されていて、2024年11月時点で特価(4,950円→ 2,970円)となっていることに気付いた。ステレオサウンドのSACDはていねいなつくりで定評がある。https://www.stereosound-store.jp/c/music/artist_kana/kana_o/off-course/4571177053183(これはハイブリッドSA-CDなので、通常のCDプレーヤーで再生できる)

Webコンテンツの解説を読むと、ぼくがこのアルバムが、ドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」で感じた音の処理との同質性の理由として、同じエンジニアが手がけたとある。やはりそうか。(解説文)
■SACD/CDハイブリッド盤の製作についてアナログレコードに続いて発売されるSACD/CDハイブリッド盤の製作では、アナログレコード制作で使用したカッティング・マスターテープを元に、SACD層には、ハーフインチのマスターテープが持ち合わせる重厚なサウンドの質感を最大限に活かしつつ、dCS社のA/DコンバーターdCS905 ADCによってDSD2.8MHzへとダイレクトにA/D変換し、タスカムDA-3000にマスター音源を収録しました。

一方のCD層では、同じくハーフインチのマスターテープの音声信号をdCS905 ADCでPCM96kHz/24bitにA/D変換し、アビッド・テクノロジー社のPro Toolsハードディスクへ収録した上でCDフォーマットのDDPファイルを制作しました。SACD層とCD層それぞれの器に合わせ、松下エンジニアが丹精込めたマスタリングを施し仕上げています。
悪いはずがないじゃない、と注文。

そしていよいよ到着。手持ちのCDと聴き比べ。意外にもCDの音質が抜け感で優る。高域の繊細な感じなどCDの心地よさに軍配を上げる人は多いに違いない。それに比べてSACDは聖母マリアの微笑みとでも形容したい、究極のおだやかさ。波ひとつない静かな湖面に音符が波紋を拡げていく。

絵に例えると、2.8MHzの精細な点描画(SACD)か、44.1KHzで荒削りな筆運びながら雰囲気を伝えるCDの違い。そしてどちらもよいと思えるところ。アナログレコード(LP盤)には、カートリッジが拾う信号のクロストークやアームの共振、RIAAカーブ特性を利用したカートリッジの周波数特性設計の相乗作用がある。これらの音楽に影響を与える要素をうまく相乗効果として活用したり相殺したりする現場の技術(ノウハウ)があったはず。

針の接触は無限小の1点ではなく縦に伸びていることから時間軸の重なりとなって、それがエコー感や逆相成分による音場をつくる。また、左右のクロストークは左右成分が交わることで生まれる疑似的な中央の定位感につながったのではないか。アナログの緻密さに追いついたSACDはアナログレコードさえ到達できなかったセパレーション、時間軸の歪みのなさ、絶対的なまでの低域の安定感や高域の可聴帯域外までの特性を従えて、歪みレス、クロストークレス、微少音からのダイナミックレンジで究極のなめらかさを備えたのだろう。

ただし、点描画がいつもいつも荒いタッチの絵に優るとは限らない。つるつるの麺(SACD)よりも適度にざらざらした麺(CD)が歯ごたえがあっておいしいと感じることがあるように。ソニー/フィリップスがコンパクトディスクの規格(収録時間、標本化など)を決める際に、ベートーヴェンの第九が1枚に入るために74分と設定した。そこから、44.1KHzの標本化周波数の決定や可聴帯域をわずかに越える高域限界などが設定されたCDというメディアが、偶然か必然かは別にして奇跡的に音楽のきめ細かさと迫力の両面をもたらす合理性を持つ規格になった。それゆえ40年続くメディアになったのだと。

SACDはほんとうに木綿のような有機的な肌触りで浸れるがCDの抜け感の良さは同等の魅力を持っている。We areのSACDとCDの聞き比べはそんなことに思いを馳せてしまう。(マニアックな話題ですみません)

追記
深夜の音楽は心に沁みる。この言葉だけで十分だ。いま聴いている装置を撮影してみよう。
音の出口はクリプトンKX-1。ビクターのSXシリーズの設計者によるもの。ドイツのクルトミュラーコーンに、ソフトドームツイーターを組み合わせたのがビクターオリジナルだが、21世紀では最新のリングドームツイーターを組み合わせたもの。箱は密閉なので低域の位相が乱れず音の濁りがない。それゆえ中域高域も明瞭なスピーカー。DSCF3983-1.jpg

ドイツの針葉樹の森から生まれた伝統のコーンはいまどき珍しい紙の素材。ウーファー素材の主流は、ポリプロピレン、カーボン系、ハイブリッド系に加えて金属素材なども見かけるようになった反面、紙はほとんど見かけなくなった。でも密閉型には紙のウーファーの素材の自然な響きが落ち着く。バビロンの時代からヒトが生理的に受け付けてきた木材や紙の醸し出す適度に豊潤で軽く抜けてくるところが生理的な心地よさにつながっている。DSCF3993-1.jpg

それを受けるリングダイヤフラムは高域の限界を伸ばすというよりは、可聴帯域内の輪郭をつくりつつ、密閉のウーファと中域を円滑につなげて声や弦を自然に再生させるねらいがあると思う。DSCF3989-1.jpg

プリメインは四半世紀使っているオンキヨーのD級アンプ。DSCF3986-1.jpgアンプはもはやアナログの時代ではないと実感したアンプ。いまでもAB級(アナログ)アンプは販売されているが、音楽の実在感でAB級(アナログ)はD級に及ばない。まして限られた費用のなかで性能を追い求めるとデジタルになる。セレクターと音量以外につまみがない簡素なデザイン。筐体の内部も信号の流れが良く、発熱が極小のため経年変化がまったく感じられない。ボリュームのガリも皆無。このことから電子回路の熱は、素子や回路の経年変化を早めてしまうのではないか。ぼくがアンプのA級増幅(常にバイアス電流を流すため発熱が大きい)を避けるのは、エアコンがないため夏季を中心に1年のうち1/3が音楽を聴けなくなるという理由もあるが、スイッチング歪みだけが音楽再生に影響を及ぼすすべてではないとも思うから。プレーヤーはヤマハGT-2000。SACD/CDプレーヤーはマランツSACD 30nという組み合わせ。DSCF3959-1.jpg

この装置はどんな音がしますか?と尋ねられたら、「何時間でも浸れる音ですよ、でも細部を聞きに行けばいくらでも細かいところが見えてくる。森の奥の中に分け入ると、小さな 草や苔が見えてくるみたいに」。「それでいて音楽はよく弾んで有機的です。幸福感のある音ですよ」。
posted by 平井 吉信 at 21:59| Comment(0) | 音楽

2024年11月16日

A LONG VACATION 20th盤―30th盤―SACD盤を聴き比べる 


A LONG VACATIONは1981年3月に発売された大滝詠一のベストセラーアルバム。ぼくは初出(初回プレス)のアナログレコードを持っている。その後、CDの版違いが出る度に買いそろえて、40thは限定VOX(アナログやカセット、番外編とグッズを詰めた限定箱)で持っている。

今回は、20th、30th、SACDで聴き比べを行うこととした。SACD盤が発売されているのは知っていたが再生装置がなかった。このSACDはシングルレイヤー(SACD単独層)のみで、SACD再生機能がない通常のCDプレーヤーでは再生できない。ところが2024年にマランツのSACD再生ができる機種(SACD 30n)を購入してからは、毎日の深夜の音楽鑑賞(0時を超えてからの極小音量での再生)が日課となっている(ときどきはニッカのウイスキーも手元に置いておく)。

再生装置は、プリメインアンプがオンキヨーA-1VL、スピーカーがクリプトンKX-1で小音量再生、かつ省エネ再生に向いた構成。スピーカーと背面は1メートル以上空けていて音場が後方にも展開する(配線や端子の清掃などにも利点あり。それゆえオーディオ装置周辺にはホコリはない状態)。この装置では頭の位置が数センチ動くだけで音場と音像が変化する。
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頭の位置の固定は簡単だ。ヘリノックスのチェアワンという抜群に座り心地がよく、座ったときの耳の位置がツイーターのやや下で絶妙の高さになる。スピーカーにとってこのイスはソファのような吸音(阻害)要因にはならない。しかも座ると自ずと姿勢は固定される。アウトドア用のこのイスが生活空間でこそ快適なのはそこにある。身体を預けると軽量コンパクトな柔構造がしっとりと受け止める(うちにはソファがない、というか置かないようにしている。ソファは場所を取って清掃に手間がかかるうえに身体を保持する機能がない。ソファってヒトの活動性、創造性や動きの機能性を殺してしまうような気がする)。チェアワンには、柔軟性を保持しつつ束縛感のない安定感がある。お尻の位置はいつも同じで頭の位置もほとんど動かない。スピーカーとの距離は0.8メートル程度。このイスがなければ深夜の音楽再生は機能していない。純正オプションのゴムの球を脚に被せることでさらに安定感が増している。

アンプもCDプレーヤーも一晩通電している。再生前に部屋の清掃を行う。清掃後には音質が変わる(オカルトではないよ。やってみたらわかる)。CDは、再生前に静電気除去処理を行う。

比較する音源は1曲目の「君は天然色」。本番前の音合わせの間合いと合図があって始まる。これが空間の響きや静寂性の判断に使えるから。20th盤はバランスの取れた粒立ちの良い音、30th盤は声を中心に温もりのある音、SACD盤は浸れる音。20th盤は万能でヘッドフォンで再生するにも心地よさがあると思う。30th盤は声の厚みがあり、かつてのオーディオ装置でゆったり聴くのに適している。例えていうなら、20th盤はガラスの器で水が快活に揺れてきらめく音、30th盤は素焼きの陶器でやや粘りを持った水が躍動する音、SACD盤は器がなく水の塊が空間に躍動し水滴が飛散する感じ。

ところでこの楽曲についても感じたことを記しておきたい。「君は天然色」を初めて耳にしたときから、初めてでないような気がした。大滝さんのことだから、元曲(→The Pixies Three - cold cold winter)があるのだけれど、初めてに思えないのはそのせいというよりは、覚えやすいから。名曲だよね。でも、覚えやすいということは飽きやすさにもつながる要素がある。それがなぜなのか、自分でもわからなかったけど、数年前に腑に落ちたことがある。

それはサビの部分(想い出はモノクローム♪)が冒頭と同じ和声であること。サビの部分は「進んでほしい」と期待する聴き手の無意識な心理があるはず。ところがここで冒頭のコードに戻るので、なじみやすいけれど、どこか冒険をしないというか、安全運転に徹しているというか。

ところが、数年前に入手した30th盤に収録されていた「君は天然色」のオリジナルトラックを耳にして、あっと気付いた。大滝さんもサビで音を上げている(D→Eへの全音上げ)。これだとイントロ(E)と合うし、サビの独立感、浮遊感も出てくる。ではなぜDに下げたのか。高すぎて声に余裕がなかったと述懐されていたと思う。

すでにオリジナルトラックの録音は完了している。この楽曲にはピアノ数台をはじめ、多くの楽器が使われているので再録となるとメンバーを集めなければならないが、それは費用面でも日程面でも困難だったのだろう。大滝さんはハーモナイザーというピッチコントロールで、サビの部分を全音下げた(E→D)とのこと。

そこで導入とサビが同じ和音(Dのトニック)になった。この話はこれで終わらない。最後のコーラスのサビ前で、ハーモナイザーを早めに下げてしまった。「いまも忘れない♪」でA7からDに受け渡してそのままサビのはずが、「空を染めてくれ♪」でA7からCへと全音落として受け渡してしまった。ぼくの耳にはこれによって、大団円の終結感が出たことで、再度繰り返す最後のサビ(D)浮かび上がる効果となっていると思う。「君は天然色」だけをとっても奧が深いのだ。

再生音の話題に戻す。A LONG VACATIONのCDとSACDでは比べられない差がある、というのが結論。SACD(DSD1bit/2.8MHz)は声がピンポイントで定位する安定感と、効果音や伴奏の広がり(高さ、広さ、奥行きとも広く、眼前がぱあっとひらける)。アナログの広がり(音場感)とデジタルの音像感を合わせ持つので、デジタル信号でありながらCD(リニアPCM16bit/44.1KHz)とは似て非なる、しかもアナログではなしえない安定感は特に声(恋するカレン)の再生で感じた。チェアワンに座ると空間がヘッドフォンになった感じ。

ぼくは普段からBGMをかけない(特に仕事では)。講演やセミナー、重要なプレゼンテーションの前など集中したいときには音楽ではないせせらぎや野鳥の声、雨の音などの自然音を聴きながら呼吸を深く吐いて集中する。いつもいつも音楽が鳴っている状態は集中できないばかりか気が休まらない。それゆえ、音楽を聴くときは向かい合いたい。オーディオマニアとの違いがあるとしたら、ぼくは音楽のなかに溶け込んでいく感じ。音楽のほうも、この聴き手は何を聴いていると飛び込んでくる。するとだんだん音楽との同期が深まる(エヴァ的な)。それが音楽を聴く愉しみというか体験ではないかと思う。

SACD盤のA LONG VACATIONは、声はなめらか、楽器は艶やかで途中から比較試聴していることを忘れてしまった。大きく異なるのは声と伴奏の分離感、立体感。器の限界がなくなって音楽がのびのびと鳴っている。この音楽に哀しい思い出などないのに胸が熱くなる。亡き人、良き時間などが記憶の奥底で一瞬燦めくが、それが何かを確かめられず量子のように消えていく。CD初出時にこのフォーマットがあったら…と思わずにはいられない。

2024年夏には「EACH TIME」もSACDがリリースされたらしい。こちらはA LONG VACATIONよりもセブンスコードをより多用しているように思われ、DSD方式での音の広がり感がさらに効果的に響くのではないかと予想している。

A LONG VACATIONはいつまでもと結びたいが、かたちあるものはいつかは。それゆえなつかしく、愛おしく、切なく。
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→ A LONG VACATION 20th Anniversary Edition
→ A LONG VACATION 30th Anniversary Edition
→ A LONG VACATION 40th Anniversary Edition (SACDシングルレイヤー)

注)A LONG VACATIONのSACD盤は、シングルレイヤーなのでSACD再生対応の装置がないと再生できない。ハイブリッドSACDなら、CD層とSACD層のマルチ層になっていてCDプレーヤーでは前者の信号を読みとり、SACDプレーヤーでは後者の信号を自動判別して読み込むのですべての再生装置でかかるが、本製品はそうでないのでご注意を。
タグ:大滝詠一
posted by 平井 吉信 at 12:00| Comment(0) | 音楽

2024年11月13日

園瀬川支流の音羽川源流域の森を歩く(佐那河内村)


園瀬川は徳島市南部を流れる川で、マルナカ新浜店の裏の川、文化の森の前を流れる川といえば、県内の人にはほとんど通じるはず。

とはいえ、水都徳島市の象徴ともいえる複雑な三角州(徳島市は新町川や園瀬川を含む吉野川三角州と大松川を含む勝浦川三角州の氾濫原)に位置するので川の流路全体、関係性を頭に描ける人は多くない。

子どもの頃から川少年だったぼくは、地図を見て自転車で行けるところの川は地図を片手に地図と実景がどのように合致するかを見るために徳島県東部の川に足を運んでいた。こづかいで少しずつ買い集めた国土地理院の5万分の1、2.5万分の1地形図を見て愉しむ、いまでいう川オタク&地図おたく。そのぼくでも明確に覚えているかどうかあやふやなほと、園瀬川の流路はわかりにくい。

この川には海に注ぐ河口がない。海の少し手前で新町川へと合流する。従って新町川の支流という表現もできるが、徳島市民でも新町川と園瀬川の合流点を見たことがある人は少ないだろう。その合流点は新町川の南岸で、対岸(北岸)は沖洲川が合流するという十文字となっている。

園瀬川には、徳島市南部から2つの河川が合流する。冷田川はどちらかといえば排水河川だが、大松川が南から合流する。大松川には多々羅川が合流するが、多々羅川と併走する無名河川(方上町を流れるので方上川と仮称しておく)は園瀬川に直接合流するが、多々羅川はいったん大松川へ合流して園瀬川へと合流する。多々羅川は小さな川で「春の小川」よりは大きいが、のどかな里山の川でぼくは好きな川のひとつ。寂聴さんの小説にも「多々羅川」という作品がある。
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歴史的には大松川は勝浦川の分派川である。勝浦川を堤防で締め切り、そこに南部中学校が建てられている(大地震の際には液状化にご注意。敷地は矢板で止水していると思うけど)。大松川の支流であった多々羅川の一部が大松川になり、多々羅川は大松川と分かれて流れて方上川(仮称)と併走するも大松川に合流する。離婚したカップルが再婚して再度離婚したり再々婚したりするように混線している。大きな括りでいえば、多々羅川、大松川は、勝浦川三角州の一帯と見なせる。園瀬川の下流は勝浦川デルタの毛細血管でつながっているようなもの。水の都徳島は川がつながりあっているので交通体系に影響を及ぼし、勝浦川三角州は慢性渋滞となっている。

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文化の森の前を牧歌的に流れる園瀬川をたどっていくと、南しらさぎ台の丘陵の南を洗い、山間部に突入すると、ほどなく佐那河内村に至る。この区間の園瀬川は水質がいくらか改善される。
下流の津田橋(旧国道に架かる橋)ではBODが2mg/リットル台で清浄とはいえないが、園瀬橋(文化の森の上流の橋)ではBODが1mg/リットル台となる。見た目には泳げそうだが、実際は流量が少ないため、田畑や水田からの栄養塩や農薬の負荷が大きいと考えるのでお勧めできない。

なお、園瀬川は意外にも植生は豊かで絶滅危惧種も多く含まれる。驚いたのは都市河川でありながら河原にユキワリイチゲ(県内では1000メートル以上の山域で散在する)が平地で見られる
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佐那河内村に入った園瀬川は、最大の支流、嵯峨川と合流する。嵯峨川は風情のある川で桜の季節にはとりわけ趣がある。上流の渓谷の散策も夏には涼しげ
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次に大きな支流の音羽川は、佐那河内いきものふれあいの里 ネイチャーセンター付近に源を発しており、同センター付近の散策で源流域を歩くことができる。今回はそこを紹介する。

ネイチャーセンター付近の森の散策は愉しい。森の様子、木々や山野草を見て歩く。このあたりは音羽川の源頭部にあたる。みずみずしくも湿度の高い森
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林床にはキノコ類が豊富
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テイショウソウの立派な個体
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花の少ない時季だから拡大すると虫が集まっているのがわかる
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園瀬川上流部にある支流の音羽川の源流域は平坦な渓相
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川の源流には思いを馳せるのは子どもの頃から。見慣れたあの川もこんなところから始まったのかと感慨深い。
かつて勝浦川の源流域を探すために、県内の棚田研究の第一人者で、ウォーキング協会の全国副会長やユースホステルの啓発活動を行われていた米田潤二さんのご支援も得て、源流の同定を行ったことがある(GPSアプリのない時代に現地で本流を識別して沢を同定するのは至難の業)。

園瀬川の源流域は旭ヶ丸/大川原高原にあり、比較的接近しやすい。神々しいと思ったのは吉野川源流。あれは源流を見慣れた人間でも心から感嘆した場面だった。確か、村上春樹氏の小説でも吉野川源流域が桃源郷のように描かれたものがなかったっけ? 源流探しほど愉しいものはない。あなたも源流は好きでしょ?




タグ:園瀬川
posted by 平井 吉信 at 23:33| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2024年11月09日

秋晴れの神山森林公園 南国の蝶が舞い 芝生に憩う人々(神山町)


徳島市近辺に住む人にとって、月見ヶ丘海浜公園、あすたむらんど、神山森林公園、文化の森、大神子公園、とくしま植物園は身近に愉しむことができる場所。午前中に出かけて弁当を食べるもよし、午後の遅い時間や夕方に出かけるのもあり。秋晴れの半日、久しぶりの神山森林公園ではどんな風景が待っているだろう。

クルマを置いてすぐに見つけたのはイシガケチョウ。南方系の蝶だが、県内でもときどき見かける。最初に北川村「モネの庭」マルモッタンで見かけて驚いたことがあった。こんな蝶がいるのかと
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地形図からは西龍王山(495メートル)の西域の丘陵地を整備したように読み取れる
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子どももすなる迷路というものをおとなもしてみんとてするなり
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多層生地のパンのような雲が食欲の秋を連想させる
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カップルで草野球。これはいい。昔付き合っていた女の子とキャッチボールをしたことを思い出した(その女性はソフトボールをやっていた)
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芝生広場は飼い慣らされた自然だけど、人が憩うにはよし。でもマダニもいるので化繊系の露出しない白っぽい色の服がダニが付着しても見やすい+ディート系の虫除けスプレーでの忌避は必須(野生の鹿が入り込んでいるように見えるため)
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県庁(徳島市中心市街地)から22kmの距離でありながら、この広々とした風景に人は少ない。家族連れだけでなく、男性1人、女性1人も散見される。イスを持参したりシートを敷いたりして日陰で本を読みながらまどろんで半日を過ごしている。こんなときはKindleを持ってきたらいいよ。数百冊でも入れておけるし、Kindleは電子インクなので液晶と違って目が疲れない(ブルーライト皆無)。炎天下でも視認性が高いので野外にはもってこい(むしろ炎天下のほうが見やすいぐらい)
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公園を北へ上がっていくと眺望が開けて鮎喰川方面が見える
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見えているのは鮎喰川の屈曲点の水衝部。ここには淵がある。右横の敷地は徳島刑務所と高台。左はゴルフ場、真ん中下の橋は神山町と山の向こうの石井町を最短ルートで結ぶ出発点
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落ち葉も意味があってそこにあるように見える
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ノコンギクの園芸種のよう。キク科の同定はぼくの知識では手も足も出ない
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ここは思い出して来てみたくなる場所。丘から尾根伝いに西龍王山をめざすもよし、東龍王山(408メートル)まで足を伸ばすもよし。のんびりしたいときはKindle Oasisを持ってこよう。


posted by 平井 吉信 at 22:57| Comment(0) | 山、川、海、山野草

秋のやわらかな日射しに咲き始めたナカガワノギク(那賀町)


地上でこの地域にしか自生しないキク科のナカガワノギクが那賀川の岩場で咲き始めた。増水すれば水に浸かる可能性がある場所(渓流帯)で、ナガバシャジンや春のケイリュウタチツボスミレなどと同様の環境を好む植物。自生している環境を説明しつつ、植物としての姿の美しさも伝える意図で撮影している。

河畔のイチョウの紅葉はいまが盛り
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那賀川は増水して濁り。はて、いつ大雨が降ったのだろう?
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岩場が自生地
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生育の良い個体もそうでない個体もある。それぞれが思いのままに太陽に向かって咲く世界であってこそ
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草丈は高くないが、花弁が大きい。開ききって大輪の花火のごとく
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ナカガワノギクは日照を好む種のようだ。岩陰で他の植物と競り合って茎を長く伸ばす
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水面を背後に上から撮影すると背景紙を置いたスタジオ撮影のよう
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岩場は水が少なく風が当たり、増水すれば水没する過酷な状況だが、草丈が揃っているのはそれぞれが応分の栄養を分かち合っているからではとの仮説
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端正かつ端麗なたたずまい
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川沿いの崖から川面に突き出して
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咲き始めに赤みを帯びる個体が多い
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空に向かって咲けとばかりに。この地上のあるべき姿をナカガワノギクに教えられた気がする
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レンズについての追記

フジのミラーレスを使っている。半年前に加わったレンズは、XF16-50mmF2.8-4.8 R LM WR。今回もこれ1本だけ。このレンズがあれば日本の里山や海山川、植物のクローズアップ、商品などのブツ撮り、カフェなどの料理撮影、軽量コンパクトであることから、背景を写しこむポートレートやスナップまでこなせる万能レンズ。フジにはかつてXF18-55/F2.8-4という似たようなレンズがあったがそれとは似て非なる素性の良さ。

マニアックな世界で、かつ推論を含む考察なのでここから先は話半分程度に。フジフイルムはズームレンズの経験が少ないのかうまくない印象があった。傑作キットレンズといわれた(ぼくはそう思わない)初期のフジのレンズの典型ともいうべきレンズが18-55o/F2.8-4。レンズ構成は複雑で、手ぶれ補正ユニットがあるうえ、富士フイルムの体質でもあるのか部門の採算至上主義を感じる。そのせいかどうかわからないが、レンズ製造部門などは社内では日の当たらない部署なのではないか。生産現場の士気が低いのか組み立て精度が低く、またレンズ設計(機構設計)も生産現場には負荷がかかる机上の設計で、さらにソフトウェア(電子制御)の制御も高品質とは言えなかったのではないかと推論。製品を洞察して感じることを記したまでで間違っているかもしれない。しかし、18-55は解像度が出にくく、片ぼけの原因となる偏心が起こりやすく経年変化が顕著なレンズであることは確か。描写も雰囲気に乏しい乾いた感性性能だった。ゆえに中古の同レンズには手を出してはいけない、仮にアタリのレンズであっても経年変化で劣化しやすかったと考える。

それが2024年に発売されたこのレンズ(XF16-50mmF2.8-4.8 R LM WR)では、より少ない構成でズーム域も広角側に拡げて、近接撮影性能もハーフマクロ並に高く、望遠はわずかに狭めて口径比も暗くなったが、ズーム域を問わず中心から隅々まで風景を実用的な絞りで均質に撮影するのにうってつけ。唯一向かないのは星夜撮影と思われるが、それでも単焦点の16o、23o、35oあたりよりコマ収差は少ないかもしれないので、16o〜18oで使うなら星夜(星景)撮影もあり得るかもしれない。

レンズ設計の妙からか少ないレンズ枚数で性能を達成しており、手ぶれ補正ユニットも省略したことから組み立て精度が出しやすそうで経年変化も少ない構造になっている。さらに、二線ぼけや崩れた像が刻まれるような18-55oで顕著だったぼけ味も改善されている。

フジもAPS-Cのミラーレスに参入して10年以上が経過したが、転機となったのは2021年発売のXF70-300o/F4-5.6ではないかと思っている(コロナ下で生産管理に手を入れたのではないか)。現時点でのフジのレンズはかつていわれたアタリハズレの大きな(品質管理がずさんな)レンズではなくなっているように思う。生産国と品質は関係ないようだ。

解像感カリカリのレンズ(画像を見ていて疲れる)ではないが、かといってXF35mmF1.4 Rのような雰囲気感があるが描写が甘いレンズでもなく、見たものがありのままに写る感があるレンズ。この自然な描写が日本の里山や風土を写すのにうってつけではないかと思える。X-T5にこのレンズを付けておけば何にでも対応できる感じ。

posted by 平井 吉信 at 22:13| Comment(0) | 山、川、海、山野草

湖畔の秋 ここはドイツの森の湖畔(のような場所) 


北欧の海辺をめぐりつつスカンジナビアからコペンハーゲンに渡り、黒い森を抜けてドイツへ入ってきました。古城をいくつか見てレンタカーで小さな村を通りがかりました。湖畔にワーゲンを停めてしばらく歩きました。18世紀から変わらぬ風景がそこにありました。
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ウソをつかないように。日本の山野草たちが私たちは日本人(草)です、と目で作者に訴えています。ツリガネニンジンさん、ノコンギクさんをはじめ、秋の七草のハギさんまで映像に映ってしまっては出所がばれました。

以上、初秋の海陽町からお伝えしました(同じネタで2つひっぱたけど3つめはないな)。
日本の秋はまっことえいぜよ(まだ前前前投稿を引きずっている)
posted by 平井 吉信 at 11:54| Comment(0) | 山、川、海、山野草

湖畔の秋 ここは信州(のような場所)


特急しなのに乗って、信州を旅してきました。
駅舎の雰囲気に誘われて途中下車した高原の駅から少し歩いて小さな湖にたどり着きました。その湖畔を散策しているとき、風立ちぬ秋ですから、ポッキーを食べたくなりましたと、風のインクでしたためて、高原の駅のポストから手紙を投函しました。私は心の旅人です。
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などとと言いながら自宅から40分ぐらいの場所にある池を散策した徳島の秋でした。
(元ネタがわかる人、80erですね)
posted by 平井 吉信 at 11:37| Comment(0) | 山、川、海、山野草

曇りの日や夕方近くは植物の陰影が濃く感じられる(とくしま植物園)


このブログのもっとも熱心な読者は投稿している本人かもしれない。夜寝る前に過去投稿をランダムに見て引き込まれることがある。そのとき見たこと、聴いたこと、感じたこと、行動したことが本人の記録を通じて本人が追体験している。

やりたいことが多いので特にすることがない一日、という過ごし方はないのだけれど、それでも外へ出歩くのが気乗りしないときに行くのがとくしま植物園。この日も用事やら仕事やらで一日が終わりそうになるのを夕方近くに出かけた

この時刻には太陽による明暗が付かず、全体に光が回っている。その光も植物に当たっても強い反射がない分、本来の色が表面に現れているとでもいった感覚

まずは花壇の花から。普通のデジタルカメラに普通のレンズを付けても、やわらかい光線下なら誰が撮影してもこんな絵が撮れる
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中津峰方面には山頂より下に層雲(きり雲)がかかる
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そんな夕暮れにも生き物の営みがある。蝶の目はレンズを見ている。距離は近いけれど逃げない
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秋に結実したもの
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常緑の緑にも無限の階調があるけれど
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やはり秋のオータムグリーンだなと思うのはこんな場面。濃くて明るい新緑とは違う深い色合い。侘び寂びの気配が漂う
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植栽でない植物にも目を向けている。ここは丘陵地だから
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最後に公園の花を見て帰ろう
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今夜は冷え込むそう。あたたかくして良い夢を―。

※レンズは1本だけ。フジX-T5+XF60mmF2.4 R Macro
posted by 平井 吉信 at 00:14| Comment(0) | 山、川、海、山野草