朝ドラはほとんど見ないのに、らんまんだけは別格だ。第1週の子役の凜とした演技が忘れられず、第2週の第二子役に引き継がれて仁淀川へと誘われた。いまは高知で政治結社の仲間に連れられてジョン万次郎に引き合わされる。

輝かしくも波乱に満ちた青年時代から激動の時代を駆け抜けて老後を見つめるジョン・マンは自らに言い聞かせるようにこういう。
「人の一生は短い。後悔はせんように」
(捕鯨の仲間たちともう一度大海原へ出たいということだろう)

万太郎には学問の歓びがあふれている。未知のこと、知りたいこと、森羅万象の原理原則を見極めたいとの思いがあふれる。そうですよ、学問ぐらい愉しいものはない、とぼくも思っている。いまもそう。

牧野富太郎は小学校中退でありながら博士号を持つに至ったが、本人はそんなことにおそらく頓着しない。だから70代後半に至るまで東大ではあるが、安月給の講師のままであった。東大への誇りがあったわけでもないだろう。この感覚は理解できる。

ぼくは高校を卒業しているけれど、卒業時の成績は400人中380番(まだ下に20人はいるではないか)。
学歴など頓着しないので学歴詐称などとんでもない。その代わり大学のえらい順がわからない(偏差値の高い順番というのが正しいか)。日本大学と東京大学では日本大学が格が上と随分長いこと信じていたぐらいだったから。早稲田の卒業です、といわれても、それが徳島大学と比べてどちらがどうなのかいまでもまったくわからない。

それでも中学時代に数学なら微分積分まで、英検は2年のときに準一級を取っていた。学校には個人個人にLL教室(リスニング)を備えていたし、地学の学習には20センチ屈折赤道儀を持つ天文台を使えたので。いま思うと学習環境はとても大切だな。

らんまんでは、商人でありながら藩校で学んでいた牧野少年が尋常小学校へと時代が変わって、いろはから学習させられたとき、授業を放棄してしまった。問い詰める教師に、英語で「授業が退屈だ、どうすればいいですか?」と質問して教師がたじたじの場面があった。

ぼくも退屈な授業では専門書を読んでいた。古典であれば万葉集を、地学であれば天体物理学の初歩的な本を、といった具合。ほんとうに勉強が大好きだったのだけれど、教科書の学習やら受験勉強やらとなると、やる気が起こらない。良い大学に入って、良い企業に入って、人並みに良い人生を送る動機がなかった。むしろ大学へ行けば学問の墓場になるような気がした。ほんとうに好きな学問を思う存分に勉強しようと思ったら、大学はむしろ退屈で苦痛な場になると見切った。そりゃ、380番では行ける大学もないよ、といわれそうだが、いくつかの教科では全校で1位を取ったこともあるのだけれど…。

ただ勉強が好きなのだ。だから高校を卒業してからはありとあらゆる学問を独学で勉強した。合格率3%の国家資格に高卒で受験機関に行かず独学ストレートで合格したのも日本でぼくだけだろう(その年の四国の合格者は3人でそのなかの一人だった)。それで起業していまもそれで飯を食っている。ときどきは旅をしたり好きなことの合間に仕事をしている感覚。いや、仕事そのものが愉しいのだけれど。

そんなぼくだから、牧野少年が学問にぴたりと寄り添って好きなことをやりたいだけ究めようとする姿勢に共感する。ほんとうにそうだよ、勉強って究極の愉しみだから。

幸福感を生きる糧とするならサラリーマンでは実現できないだろうと思う。起業したい人がいたら、県内の方であれば相談に乗るのでご遠慮なくどうぞ。
らんまんは視聴率を意識したあざといつくりにはなっていない。人の心の機微をていねいに描いている。物語を知るために早送りをすることなく、地道に積み上げていって、ここぞというときに、劇中の人物の決め言葉が入る。若手俳優ものびのびと演技しているし、中堅の存在感、ベテランの風格と演技者も申し分ない。扱っているのは植物分類学を究めようとする牧野富太郎をモデルにした万太郎の物語だが、いまの時代だからこそのメッセージを作り手が投げかけているのを受け止めている。だから葛藤があったとしてもそれが浄化される場面があって高揚感とともに物語を追体験している感じ。良い脚本だね。

これに比べると、過去の人気ドラマ(あまちゃんなど)はストーリー展開で飽きさせないよう(チャンネルを変えさせないよう)ドタバタやコミカル要素を仕込むか、少し前のちむどんどんのように落ち着きのない展開で視聴者が離れるようなこともない。

自由がないがしろにされ、無能な政府の無策にあきれ、国家に従属させられようとしているいまの政治にあって、自分の進むべき道を迷うことなく進んでいく主人公(その周辺の人たちも)に思いを重ねているのだろう。

このところ首相襲撃事件が相次いで起こっている。そのことはいかなる理由をもってしても正当化されるものではない。
しかし、やるべきことをやらず、やってはいけないことをやる与党、虚偽を列べて煙に巻いて開き直る劇場型の空虚な野党もあれば、理念を忘れて与党の格好の引き立て役を演じる無能な野党もある(この政党も発足時は代表が宇宙人、イラ菅などと呼ばれようとも理想と理念があった)。どのような抵抗もいまの政治の暴力の前には無力感を思い知らされる人々の潜在意識が顕在化した現象に思える。

人々の幸福とはなにか? 幸せになれる社会とはどのようなもので、それをどのように実現するかを一人ひとりが自分の人生を通じて考え抜けと言っているようだ。
