2017年12月31日

2018年のベートーヴェン


晦日にフルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団の第九を聴いた。
新しい年の日付を越えてラトル/ウィーンフィルの第九を聴いた。

年末に第九でも聴くか…ではなく
ベートーヴェンは生きるか死ぬかの間で出会った音楽であり
生涯をかけて接していくと心に決めた。

モーツァルトは天才だけれど
それはロココの時代をまとった絵画。
ベートーヴェンは古典音楽だけれど、いまの時代に生きている。

ベートーヴェンと向き合うことは
作曲者の魂の高さに登り詰めること。
作曲技法や楽曲を分析しても
それ以上に共感の深さを持って楽曲に同化しようとしなければ
音楽は魂に響かない。

20代の頃、
もっともベートーヴェンを理解しているひとりと思っていた。
(いまでも思い上がりとは思っていない)
良い演奏とそうでない演奏は峻別できた。
そして自分も創造したいと思った。

古典のソナタ形式はかたちの秩序を求めている。
その制約が創造を育む。
創作意欲をかき立てられるのは制約があるから、ともいえる。

ベートーヴェンは形式を尊重しつつも
必要なときには飛び越えた。
さらなる真実のためには破ってはならない法則はない。
ゆえに歌手は歌いにくい、オーケストラは弾きにくい、
管弦の響きは鳴りにくい、作曲の職人とはいえない。
ベートーヴェンの作曲はアマチュアのようである。

なぜ、第1楽章は壮絶な稲妻であって痛切な憧れを秘めているのか?
なぜ、第2楽章は踊りの祭典であって天を仰ぐのか?
なぜ、第3楽章は人間が天上世界を追体験することができたのか?
なぜ、第4楽章はこの音楽に初めて接する人を揺さぶるのか?

楽曲はたったいま生まれた。
再創造の現場に居合わせた。
魂の高みを見ようとする人間に新たな地平線を見せてくれる。

ぼくは知っている。
それは射手座の彼方から届いた銀河の光芒が放つ強力な磁場のよう。
(共感と同じ魂の高さで白い光を見る。例え幻想であっても)

その気持ちをこの地域に、この国に、この星に振り向ける。
それしかできない、それでいい。

2018年 年賀状に代えて
posted by 平井 吉信 at 23:58| Comment(0) | 生きる

年越しのどん兵衛


別に新聞の全紙広告を見たからと行って
どん兵衛鴨だしを買いに走ったわけではない。
たまたま家にあったから。
DSFT6820-1.jpg

動画のCMはうまいよね。
http://www.donbei.jp/cm/
(えっ、吉岡里帆が可愛いって。そんなことはわかっていますから)

ここにあるのは、どん兵衛をどんな場面で食べて欲しいかということ。
一人の切ない感情をツボを押しながらも包み込み、
(社会の底流を流れる感情をうまく捉えているね)
季節のイベント(非日常)を滑り込ませて
クリスマスだから…、正月だから…いいかと。

日常のひとこまを幸福の場面として見せて
そこに感情移入できるキャラクターを配している。
旬のタレントということもあるけれど
そばにいて欲しいふしぎなVR彼女=どんぎつね(キャラ)=どん兵衛の化身のイメージで
自分で気付いていない「あったらいいな」を掘り起こしている。
(ヴァーチャルではないリアルなぬくもりの象徴としてのどん兵衛)
場面(感情)からものへの転換の方程式に乗せられて
買いに行く人いるだろうね。
ものが売れていくってこういうことだよね、いまは。
(このCMなら騙されててもいい=買いに行ってもいいと思える)

大塚のボンカレーも同じ手法だけど。
https://www.youtube.com/watch?v=qTQCM0OFvO0
(マスメディア広告がソーシャルの感情を取り入れたという震災後のマーケティングの共通項かも)

ぼくは餅を入れて食べた。
DSFT7064-1.jpg

鴨だしの甘みとネギの香ばしさを噛みしめつつ、
まぶたが湯気で曇り、身体はぬくもった。
DSFT7067-1.jpg
(あっ、いまどん兵衛を買いに行こうと車のカギを持った人、いませんか?)
タグ:そば
posted by 平井 吉信 at 23:53| Comment(0) | 食事 食材 食品 おいしさ

年の瀬の香川県小旅行その3 神社のエンターテインメント博物館 冠纓神社


こんな神社があるのは知らなかった。
場所は高松空港から北へ少し行ったところ。
冠纓神社(かんえいじんじゃ)という。
DSCF1252-1.jpg

DSCF1201-1.jpg

DSCF1204-1.jpg

DSFT6979-1.jpg

仏生山から国道193号を帰路に足を少し空港へ伸ばしたところ。
雨雲に覆われて午後も遅い時間、
そして雨脚は強まってきた。
神社に参拝者は誰もいない。
ただ元日の準備をされている方がてきぱきと作業をされている。
DSCF1207-1.jpg

DSFT6976-1.jpg

DSCF1219-1.jpg

予備知識なくやってきたが
なかへ入ってみるとさまざまな仕掛けがあった。
安倍晴明ゆかりの神社とある。
DSFT7008-1.jpg

DSCF1222-1.jpg

DSFT7014-1.jpg

DSFT7011.jpg

DSCF1235-1.jpg

DSCF1237-1.jpg

DSFT6972-1.jpg

各地の神社にある仕掛けを参考に
境内を一大エンターテインメントに演出した感じがいい。
こんなおおらかさって神様も実は歓んでいるのでは?
DSFT7006-1.jpg

DSFT7021-1.jpg

DSCF1233-1.jpg

DSFT6984-1.jpg

何がおもしろかって?
それは行ってからのお楽しみ。
写真だけを見て想像力を膨らませてみて。
(説明しないことで行ったときの楽しみが増えるでしょ。カップルはぜひどうぞ)
DSFT6987-1.jpg

DSFT6996.jpg

ここは神社を体験しつつお金を落とせるエンターテインメント神社。
それぞれの工夫がすばらしい。
(商業主義というより来る人を愉しませたいという意図を感じる)

いったん神社の外へ出るが、
同じ山域に地球新生神宮とある。
DSCF1241-1.jpg

DSFT7028-1.jpg

こちらは森のなかに石を積みあげた古神道の場のような感じ。
DSCF1242-1.jpg

DSCF1246-1.jpg

DSFT7030-1.jpg

空間に降りている端正な気を感じるというか
空間の配置が良くおだやかな心地がする。
DSFT7035-1.jpg

DSCF1251.jpg
まったく異なる世界観を一箇所で二度味わえる。

帰りがけ、冠纓神社を覗き込んでみると
あたりが暗くなってますまず門の灯りは強まっている。
誰もいない神社のふしぎな時間を見つけた。
DSFT7039-1.jpg

DSFT7045-1.jpg

雨が降る大晦日の夕方というのも良かったのではないか。
まだまだ知らない四国がある。

タグ:香川
posted by 平井 吉信 at 22:33| Comment(0) | 山、川、海、山野草

年の瀬の香川県小旅行その2 仏生山法然寺


お腹をここまで膨らませることは年に数回だったので
食後に法然寺の境内を散策することにした。
ここは高松藩松平家の菩提寺。

曇りがちな天気は途中から霧雨が空気を湿らすように落ちてきた。
恵みの雨だが、すべての人が自宅で年を越せるわけではない。
この雨は心に染みる。

仏生山法然寺は、高松藩松平家の菩提寺であるばかりか
多くの檀家の先祖代々を弔う寺となっている。

門をくぐると灯籠の列、右手に五重塔、
その奥には寺の背後にある仏生山へと上がる階段がある。
DSCF1149-1.jpg

五重塔や門の仏像に目を留めながら歩を進める。
DSFT6833.jpg

DSFT6835.jpg

文殊楼の梵天、帝釈天
DSFT6857.jpg

DSFT6860.jpg

振り返ると池に目が行き、さらのその奥の山へと導かれる。
左右非対称でありながら整然としたたたずまい。
DSFT6868-1.jpg

苔むした階段はところどころ崩れぎみなので気を付けて
DSFT6924.jpg

DSFT6874-1.jpg

扉の向こうが松平家の墓所となっている。
DSFT6883.jpg

DSFT6903.jpg

やがて別の池が見えてきて行き止まりとなるので引き返す。
DSCF1181.jpg

DSFT6916.jpg

下りきると無縁仏を集めた墓所がある
DSCF1186.jpg

DSFT6926.jpg

今度は右手の本堂をめざす
DSFT6942-1.jpg

DSFT6939-1.jpg

DSFT6949-1.jpg

歩いていると少し身体が軽くなった。
相変わらず小雨が降っている。
DSFT6932-1.jpg


追記

近くにある仏生山温泉は高松市内から琴電を使えば手軽。
琴電社員が出演する例のポスターはご覧になりましたか?
仏生山は高松市民の近場のリゾートだった。
タグ:香川
posted by 平井 吉信 at 21:07| Comment(0) | 山、川、海、山野草

年の瀬の香川県小旅行その1 仏生山のうどん店(龍雲)


例年なら除夜の鐘を聞きながら仕事をしているのだけれど
昨日で仕事を納めた。
墓参りの後、神棚と仏壇と荒神棚の清掃も終わった。
(このブログでご存知のように元日は祝詞と読経から始める)

年賀状は書かない(書けない)。
時間的にもそうだけれど
多くの方々と顔を合わす関係で
誰に出す、出さないの区別が不可能になっている。
正月だけ思い出したように年賀状を交わすのは
形式なぞればすべて良しという人間関係の免罪符のようにも見えてしまう。
(お出ししている人を批判しているのではない。人間関係が不器用なのだ)

そこで、それらの人々も含めて
すべての人々、生命(生態系)にとって良きことを
祈るように新年を迎えるようにしている。
(年賀状というかたちはなくても、伝わらなくてもそれでいいと思っている)

大晦日になって外出することにしたのは
数年前からお世話になっている国の機関に属する親しい人が
仏生山の寺のうどんを食べて感想を聞かせて欲しいと言われていたから。
(単に仕事関係を越えて心が通うものを感じるので)

そこで鳴門経由で長尾街道から仏生山へ入り、空港方面へと抜ける。
塩江温泉を通って穴吹から戻るという道筋。
昼近くになって出かけた。

東讃に入って、マルタツの極上のかけうどんを思い浮かべたが
大晦日は休み。
国道11号から長尾街道へと入り、
迷路のような細い路をたどって仏生山公園の対岸にある法然寺へと着いた。

寺の駐車場へ導かれると敷地内にうどん店(龍雲)がある。
13時半をまわっていたが、のれんがかかっていた。
ありがたいと思う。
ここは法然寺ゆかりの社会福祉法人が運営されているようだ。
DSCF1101.jpg

外で順番を待つために名前を書く。
テントのまわりにはストーブが用意されている。
(こういうところから違うのだ)
すぐに名前を呼ばれて店内へと入った。
DSCF1105.jpg

知人もすすめていた坦坦つけうどんを注文。
大を注文してみると量の多さに驚き。
エビの天ぷらも注文したので
食べきるためにひたすら口に運ぶ(満腹中枢が動き出すまえに)。
DSCF1128-1.jpg

最初はそのままつけて食べて
途中から温泉卵を割り入れ
最後はご飯を入れて雑炊ふうに。
DSCF1126-1.jpg

DSCF1142-1.jpg

風味はごまだれの甘辛。
甘さを抑えてもいいかなと思うが、
それよりも感心したのは、お店のスタッフの対応。
靴を揃える、席を回って声をかけるなど
40の客席に気を配っておられた。

お客様は決して神様ではなくあくまで店と客は対等。
むしろ立場の違いを超えて
互いに思いやりを持って接することが大切。
(いただく側と提供する側の共通点は感謝を送りあえること)
客は、店に迷惑な行為は慎むのが自然だし
店は客に価値観を押しつけない。
(店の志と同じ水準の客層が集まる傾向がある)

ここは社会福祉法人が運営されている。
四国では、高知市の土佐茶カフェと双璧。
身障者のスタッフが働いている、という色眼鏡は必要ない。
提供品質そのものがすばらしい。
(世界観を押しつけるマニアックなさぬきうどん店に興味がないので)

お店の繁盛をお祈りします。
タグ:香川
posted by 平井 吉信 at 20:01| Comment(0) | 食事 食材 食品 おいしさ

2017年12月28日

紙ふうせん「冬が来る前に〜なつかしい未来〜」の世界観に心がこだまする


この冬に出会った心にしみ入る音楽(CD)をご紹介。
紙ふうせんは1977年の「冬が来る前に」のヒットで知られる。
このアルバムは2014年発売のもの。
新曲も2曲入っている。

紙ふうせんは伝承歌と呼ばれる各地で歌い継がれる口伝のうたを採取して
それを音楽に昇華させている。

このアルバムでも「大江の子守唄」「紙すき唄」と続く一連の楽曲がそう。
日々の暮らしの素朴な感情をうたにするしかなかった人たちの
魂を音楽に乗せて、さらにそこに紙ふうせんのふたりが魂を入れる。

好きなのは、「大江の子守唄」。
この抱きしめたくなる、なつかしい世界観。
夜更けに聴いていると、あたたかい感情がこみ上げてきて、
生きていることがもっと好きになる。
DSFT6229-1.jpg

「紙すき唄」では紙すきの家に生まれた娘が
「昼は暇ない 夜おいでよ」と謡う。
テレビもインターネットもなく働くだけの日々。
過酷な労働でただひとつの慰みであり楽しみが男女の営み。
千年前の万葉の東歌の時代から変わっていない。
しもやけの指先と冷え切った身体をあたためてくれる。
そこにあるのは「行為」だけ。
つかみどころのない幸福がぽっと灯をともす。

音楽としてあくまで美しい。
でも、そこに漂う情感の深さは稲妻に打たれた感じさえする。
このアルバムではライブ音源の「竹田の子守唄」が収録されている。
二人の生活感のある声が心を震わして身体に微振動が走る。
(誰かを好きになるあの切なさにも似ている)

それはCDを再生し終わったあとでも
それから数時間経っても身体の中を木霊しているかのよう。

人それぞれ感動する対象や感性は違うけれど
紙ふうせんがこのアルバムで提示する世界は深いよね。
(↓視聴可能)
冬が来る前に〜なつかしい未来〜

それに…夫婦としてこんな生き方は理想でしょう。
(ライブでの竹田の子守唄の息の合わせ方は男女がひとつに溶け合っている奇跡のような瞬間)
YouTubeで若い頃の音源を見ると、
夫が妻に熱愛光線を発しているようにも見える(時分の花)。

DSXE7023-1.jpg

「冬が来る前に」(当時)
https://www.youtube.com/watch?v=jWEPaCjbZG4
https://www.youtube.com/watch?v=UgmccGdoi8A

そして二人ともそんな光線を発して70歳を迎えたように思える。
「翼をください」
https://www.youtube.com/watch?v=Ay1PBV4IHaA
(こんなのを見せられると、もっとやることがあるねと勇気づけられるでしょ)

「竹田の子守唄」
https://www.youtube.com/watch?v=Ha1wvQYgkmc
栄光の残骸のような歌手が多いなかで
いまだから歌える「真実の花」(風姿花伝の言葉)が咲いている。

最後に2曲の新曲で締めくくられる。
白い花たちは 親から貰った命
♪ピンクの花たちは 支えてくれた人
一人だけでは 咲かせられない
人生の花束♪


DSCF0447-1.jpg
人生の花束は、紙ふうせんのお二人からの伝言。
一人だけでは咲かせられない人生の花束…。
押し寄せてはリフレインする。

posted by 平井 吉信 at 23:18| Comment(0) | 音楽

2017年12月17日

太陽に向かい合う 太陽を背に浮かび上がる 入野松原


週末の仕事を終えて翌朝、車は中村を抜けて大方へと国道56号線を帰路に就いていた。
地元の方からこのブログを見てご感想をいただいたのが先週のこと。
四国でも有数のコンセプトの道の駅と感想を綴ったところ
ご覧になられた関係者の方からのお便りだった。

その方の仕事をしているところへ
偶然仕事として趣くことになった。
お約束はしていないが、不意に行って驚かせようと(^^)
体面できることをひそかに愉しみにしていたけれど
逆に、会議の時間とぶつかったそうで、同僚の方に名刺を託された。
(同じ事をお考えだったようで)

でも、ほんとうは初対面ではなく、数年前に名刺交換をしていたことが判明。
(四国は大きいようで小さい。10代から四国はひとつと思って行動している。「四国太平洋共和国」という名称でエコツーリズムや体験型観光を非営利で行っていたのが二十代)。

朝、入野松原を通りかかると
波間に人が浮かんでいる。
太陽に向かい合い、雲間からこぼれる光が細長い線で照らす海面。
影絵となって波を待つ彼らを
さらにその背後から太陽とともに見ている。
DSFT6711-1.jpg

DSFT6734-1.jpg
場面は異なれど
おそらく太古から変わらない光をぼくは観ている。

DSFT6750-2.jpg

DSFT6761-1.jpg

DSFT6705-1.jpg

何が良くて冷たい水に浸っているのか?
この幸福感は彼らしかわからない。
地球の営みに同化しているのだから。
DSFT6703-1.jpg

この風景に調性をつけるとしたら変ホ長調(E♭)。
みなさんもそう思うでしょう。
(この風景はそれ以外思いつかないのでは?)

タグ:入野松原
posted by 平井 吉信 at 16:12| Comment(0) | 山、川、海、山野草