春の桜は生きる糧となっているけれど
秋の紅葉は、しみ入るものがある。
子どもの頃、唱歌の「紅葉」が好きで
秋が来ると近所の山中を駆け巡っては口ずさんでいた。
そこには山から下りてくる小さな沢があって
色づいた落ち葉を集めていたのだ。
この曲の歌詞は日本語を磨いて言の葉の玉が透きとおるようだ。
このような端正で耽美な世界が唱歌にはときどきある。
「紅葉」を感じたくて山へ出かけることにした。
秋の山の天候は安定している。
昼過ぎに家を出て高丸山へと向かった。
勝浦川最大の支流、旭川は光が差し込めて水が踊る

駐車場は満杯だが、ほとんどがまもなく降りてくるだろう。
その人達をやり過ごしたら
秋の残照を浴びてブナの森の静かな逍遥が待っている。
それこそ秋に浸ることができる。

高丸山は、千年の森として県が保全と活用を図ろうと
指定管理制度によって
地元の有志や団体でつくる組織がその役割を受託している。
高丸山はその中腹にある神社周辺のブナ林が白眉。
けれど、増えすぎた鹿のため
ブナの森のススタケが消えようとしている。
そこで、この団体が柵で囲って保全活動を数年前から始めた。
(県からの要請ではなく自主的に行っている)
また、枯れ枝が宙にぶら下がっている箇所の下を立ち入り禁止にしたり
迷いやすい東側の尾根ではロープを張って踏み跡をはずさないように配慮している。
駐車場から下には植樹を行い、幼木とはいえ森の様相が感じられるようになった。
とはいえ、南限に近いブナの森であるため
今後の温暖化の進展でブナが生きていけない環境に変わるかもしれない。
鹿が増えすぎた最大の要因も温暖化で冬を越しやすくなったからだろう。
生態系をめぐる危機的な状況を理解し
森を守る思いを感じつつ散策するのも良いかと。
登山道が沢から離れるところで尾根を登るのと
神社のあるブナの森へと分岐がある。
その平坦な森で植生の回復を図ろうとしている。

曇りがこの日の基調。ときどき薄日が射すと登山道に秋のぬくもりが宿る

秋は単調な色彩に無限の階調を見せる

樹木のトンネルの光の明暗を新鮮に感じる

山頂へ着いて遅い昼を食べる。
手作りのそば米雑炊、おにぎり、柿とともに煮込んだ根菜がおかず。そして、バナナ。
(こんなところで味の濃いコンビニ弁当は食べたくない)。
行動食にはチョコレートも。

雲早山が左端に見えるが、やがて雲に隠れた。
難路といわれた高丸山からの縦走路もだいぶ踏まれるようになったが
高低差が大きく距離が長い。しかしそこを一日で往復する強者もいる。

食事のあと尾根を東へ下っていく。
登りとは異なって低木の自然林のゆるやかな尾根が横たわる。

スズタケかクマザサかはわからないけれど、存在に安堵する。
山の表土を守ってくれるはずだから。

背の低い天然林を降りていくと人工林の森に出て
西へと向きを変えて戻っていく。
人工林は沢を渡ったところで天然林に変わる。
神社のある一体が高丸山のブナ林である。
しばらくは森のオブジェを探しに森を歩く。




いよいよ核心に入って頃、
霧が立ちこめるようになった。
もはや高丸山の山域に誰もいない。
物音ひとつしない、風の音すらしない、葉ずれの音も聞こえない。
無音の森が一日の終わりを迎えようとしている。
いい、こんな時間がたまらなくいい。

曇りのやわらかい光が全体にまわることで紅葉は鮮やかさとともに
幽玄の照り返しを見せる




霧が出てくると森は深沈と沈み、湿度が音のない世界をさらに包み込む




相方がフジフイルムの小型のデジカメ(X20)で写したもの。
いつのまにか無意識にレンズの目を持つようになったよう。

上勝町の中心部まで戻ってきたら夜の闇に包まれた。
秋なのに桜が咲いていたので写真を撮ろうとしたが、
夜の帳に花びらは溶暗し
月ヶ谷温泉は湯屋の光をまとって川向こうで瞬く。
posted by 平井 吉信 at 21:59|
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山、川、海、山野草